吾妻鏡入門人名事典名前の部  

進行状況:10巻文治6年(1190)8月末日まで整理済み

あかえ赤兄は、壬申の乱。四巻元暦二年(1185)六月二十一日

あきいえ大中臣秋家は、六月に暗殺した一條次郎忠頼の家来で舞の名人、6月18日条で許している。三巻元暦元年(1184)十月六公文所所司。四巻元暦二年(1185)四月十三日、大中臣氏。京から甲斐に下っていたので、幕府の京下りの官人となる。

あつたね美氣三郎敦種は、三池で福岡県大牟田市大字三池。四巻元暦二年(1185)二月一日

あつもり大夫敦盛は、C盛の弟經盛の末子。熊谷次郎直實に弱冠十六歳で討たれ、無常を感じた直実は出家した。幸若や謡曲「敦盛」で有名。三巻壽永三年(1184)二月七

ありしげ有重は、小山田別当で小山田三郎重成の父。四巻元暦二年(1185)七月

ありすえ糟谷藤太有季は、神奈川県伊勢原市上粕屋、下糟屋。同所の高部屋神社は有季が社殿を造営と伝える。又館跡とも謂われる。堀田璋左右先生は、下糟屋西北方の八幡神社が殿ノ窪と云う館跡と書かれているのは、高森一丁目の八幡神社かもしれない。ありすえ糟谷藤太有季は、父は糟屋庄司盛季で相模糟屋荘(伊勢原市上粕屋)。10巻文治6年(1190)8月3日

ありたか小山太郎有高は、小山田太郎有高。小山田庄、町田市。五巻文治元年(1185)九月五日

ありつな足利七郎有綱は、忠綱の一族。寿永二年(1183)二月廿三日

ありつな伊豆右衛門尉有綱は、伊豆守源仲綱の子で、源三位頼政の孫。二巻壽永元年(1182)十月廿、源三位入道頼政の孫(仲綱の子)。五巻文治元年(1185)十一月三

ありつね有經は、波多野有經。次の出演は文治四年(1188)四月三日流鏑馬に故波多野右馬允義經嫡男有經で弓の名人として出てくる。四巻元暦二年(1185)四月十五日

ありつね紀伊權守有經は、豊島有經。六巻文治二年(1186)三月二十六日

ありなお勅使河原三郎有直は、武蔵七党の丹党。埼玉県児玉郡上里町勅使河原。

ありなが有長は、平子氏で三浦党。十三巻建久四年五月二十八日曾我兄弟のあだ討ちの際に怪我をしている平子野平右馬允。(しかし野は小野で平は平氏?)四巻元暦二年(1185)四月十五日

いえうじ足利家氏は、義兼―義氏―泰氏―家氏

いえかげ左近將監家景は、伊沢家景で、後に留守家景と名乗り、東北の大代名になる留守氏の祖。10巻文治6年(1190)3月15日

いえざね左衛門權佐家實は、日野。10巻文治6年(1190)8月9日

いえつな家綱は、蓮池權守家綱。二巻壽永元年(1182)十月廿、土佐国蓮池郷で、現在の土佐市蓮池。二巻壽永元年(1182)九月廿五

いえなが中條藤次家長は、埼玉県熊谷市上中条。三巻元暦元年(1184)八月八

いえひで大見家秀は遠江国大見、浜松市大見。一巻治承四年八月二十日

いえみち別当家通は、重通男(実は藤原忠基二男)。母源師頼女(実母重通家女房藤原有広女)。1166(永万2)年6月6日任参議。正二位・権中納言。六巻文治二年(1186)正月七日

いえみつ家光は、伊藤四郎家光か塩屋太郎家光のいずれからしいが分からない。11巻建久2年(1191)11月22日

いえむら三浦家村は、義明義澄義村―家村

いくとも生倫は、伊勢神宮の神主度会(わたらい)氏で、会賀四郎太夫と号す。兄は相賀二郎光倫。五巻文治元年(1185)十一月廿四

いるか入鹿は、蘇我入鹿で生年不詳 - 皇極天皇4年6月12日(ユリウス暦645年7月10日)いわゆる大化の改新。四巻元暦二年(1185)六月二十一日

うおな魚名は、藤原魚名。782年6月に氷上川継の乱に連座、左大臣罷免。四巻元暦二年(1185)六月二十一日

うじつな加地七郎氏綱は、佐々木盛綱信実の子孫であろう。

うじむら三浦又太郎左衛門尉氏村。泰村兄朝村の子。義村―泰村―朝村―氏村。32巻嘉禎4年2月17日

えいこ仙洞女房三位局は、高階栄子。10巻文治6年(1190)5月23

えみし蝦夷は、蘇我蝦夷。用明天皇元年(586年)? - 大化元年6月13日(645年7月11日)四巻元暦二年(1185)六月二十一日

えんえやまの宮は、比叡山の円恵法親王。四巻元暦二年(1185)正月六日

えんぎょう圓曉は、系図で追うと、後三条ー輔仁ー行恵ー円暁と確かに輔仁の孫であるが、八幡太郎側から追うと孫にあたるのは行恵なので曾孫になる。二巻壽永元年(1182)九月廿

えんちん智證は、智証大師円珍で、天台座主に就任、天台密教を完成し、三井寺園城寺を復興して寺門派の祖となる。10巻文治6年(1190)3月20日

えんりょう法印円良は、幹部僧侶で座主候補。八巻文治四年(1188)八月十七日

かくえん文陽房覺淵は、加藤次景廉の兄。一巻治承四年七月五日

かげうじ梶原景氏は、景時景茂景俊景氏

けげうじ肥後景氏は狩野為佐の子カ?

かげかず加藤五景員出家は病気などの一時的出家ではなく、世俗と断絶して侍身分ではなくなる出家と思われ、敵対関係も消滅する。一巻治承四年八月二十七日加藤五景員入道は、治承四年(1180)八月小廿七日石橋山合戰で敗北し逃げる途中で出家して伊豆山走湯權現へ逃げ込んでいる。三巻元暦元年(1184)七月十八日四巻元暦二年(1185)二月二十九日、加藤太光員・加藤次景廉の父

かげかど景廉は、加藤次景廉を見舞うふりをして、小中太光家に預けているめかけの亀の前に会いに行っている。二巻壽永元年(1182)六月八日

かげきよ景Cは、謡で有名な「悪七兵衛景C」。四巻元暦二年(1185)三月二日

かげくに景國は、長門江太景国。六巻文治二年(1186)八月五日

かげさだ景貞は、梶原景定で朝景の子。文治二年(1186)十月廿四日甘縄神明の修理に梶原刑部烝朝景と共に同兵衛尉景定と書いて出てくる。四巻元暦二年(1185)四月十五日

かげすえ梶原源太景季は、鎌倉党。梶原景時の総領だが、なぜか源太なのか分からない。二巻養和元年四月七日景季は、梶原源太景季。これまでは梶原源太景季だったのが、次の文治元年(1185)九月小二日では、梶原源太左衛門尉景季で出演する。さすがの頼朝も宇治川の合戦に愛馬「磨墨(するすみ)」をくれてやるほど、可愛がっている景季なので、悪口を言ってない。四巻元暦二年(1185)四月十五日

かげずみ湊河庄司太郎景澄は、那珂湊市。寿永二年(1183)二月廿三日

かげたか景高は、梶原景高で景時次男。文治五年(1189)四月十八日兄の梶原源太左衛門尉景季と同平次兵衛尉景高で出演。正治二年81200)正月小廿日駿河國C見關にて被討。四巻元暦二年(1185)四月十五日

かげたか景高は、治承五年(1181)閏二月大十日条に、前右大將宗盛卿家人大夫判官景高と出てくる平家家人。六巻文治二年(1186)七月二十七日

かげちか大庭景親は、鎌倉権五郎景政(大庭御厨を開く)の正嫡の子孫。当時は源氏の見方をした三浦氏(大介)が落目で、景親は平家の知盛に仕え相模の代表的地位を持っていたようである。一巻治承四年八月二日

かげとお長門江七景遠は、十二巻建久三年四月十一日条に鎮守府将軍利仁の四世加藤景通の子で大学頭大江通国の猶子となり、藤性を大江に改めたとある。六巻文治二年(1186)二月二十六日

かげとき梶原景時は、鎌倉党(桓武平氏系図参照)で鎌倉市梶原に墓と言われる五輪塔群が深沢小学校校庭内にあり。一巻治承四年八月二十四日。景時は梶原平三景時で義経軍の軍監。實平は土肥次郎實平で平家討伐範頼軍の軍監。三巻壽永三年(1184)二月十八

かげとし豊田五郎景俊は平塚市豊田で大庭の一族。一巻治承四年八月二十日

かげとし梶原景俊は、景時景茂景俊

かげとも遠山景朝は、加藤次景廉―景朝

かげひさ俣野五郎景久は、戸塚区東俣野&藤沢市西俣野。一巻治承四年八月二十三日

かげひら中村太郎景平は、神奈川県足柄上郡中井町(中井は中村と井口村が合併)一巻治承四年八月二十日

かげふさ原宗三郎景房は、武蔵國原郷で現川崎市幸区原町。一巻治承四年八月二十三日

かげます安西三郎景益は、安房の西で三浦爲継の子から始まり、千葉県安房郡鋸南町保田。三巻元暦元年(1184)八月八

かげみつ工藤景光は、工藤庄司と号す。父は景澄。一巻治承四年八月二十五日、工藤庄司景光。四巻元暦二年(1185)五月十五

かげむら三浦景村は、義村―泰村―景村

かげゆき毛利太郎景行は、相模国毛利庄で現厚木市毛利台。一巻治承四年八月二十三日

かげよし大庭景義は、相模国大庭御厨(鎌倉権五郎景政が開発領主)、藤沢市大庭で、保元の乱の時膝を為朝に射られて身障者になっている。一巻治承四年十月九日・大庭の御厨を拓いた鎌倉權五郎の子孫だが、弟の大庭三郎景親が総領を継ぎ、彼は懐島(茅ヶ崎市柳島)に領地を持っていた。しかし、弟が頼朝に敵対したので滅ぼされ、彼が総領になった。二巻養和元年四月一日・「よし」が「義」の字から「能」の字に替わっているが、吾妻鏡は「おん」が同じなら余りこだわらないようである。「よし」の字だけに「どちらでもよし」。二巻養和元年五月十五日

かずむら三浦員村は、朝村の三男。義明義澄義村―朝村―員村。38巻宝治元年(1247)6月14日

かねうじ足利兼氏は、義兼義氏泰氏兼氏

かねざね兼實は、九条家。一巻序文かねざね下官七年十一月廿五日關白を停めるは、建久の政変で土御門(源)通親に政界を追われる。一巻序文

かねたか山木兼隆は、平信兼の子で静岡県伊豆の国市韮山山木。一巻治承四年八月四日

かねただ權右中弁兼忠は、壬生。四巻元暦二年(1185)四月二十四日

かねつな検非違使の源兼綱は、頼政の弟の子で頼政の養子になっているので、この時点では以仁王の謀反に頼政が加担していることを平家は知らない。一巻治承四年五月十日

かねのぶ板垣三郎兼信は、甲斐武田党。武田太郎信義の三男。三巻壽永三年(1184)三月十七日

かねのむらじ金連は、壬申の乱。四巻元暦二年(1185)六月二十一日

かねひで岩國二郎兼秀は、山口県岩国市岩国と思われる。日本三大奇矯の錦帯橋がある。七巻文治三年(1187)三月十日

かねひら今井四郎兼平は、木曽の武士で父は義仲を預かり育てた中原兼遠。兄弟に樋口兼光、巴御前がいる。義仲四天王の一人。ウィキペディアより。三巻壽永三年(1184)正月廿六日

かねまさ兼雅公、右大將の辞状を上被るは、頼朝が右大将に任命されると知って、遠慮して席を空けるために辞表を出した。10巻文治6年(1190)11月24日

かねみつ樋口次郎兼光は、中原兼遠の次男。今井兼平・巴御前の兄。木曽義仲の乳母子にして股肱の臣。義仲四天王の一人である。ウィキペディアより三巻壽永三年(1184)正月廿一日・壽永三年(1184)正月廿六日

かねよし兼能は村上源氏雅兼の孫で通能の子。従五位下の右兵衛佐。五巻文治元年(1185)十月二十七兼能は、筑後介兼能で、村上源氏。従五位下の右兵衛佐。頼朝は文治元年(1185)十月大廿七日に使者として上洛させたが後白河に嫌われ役に立たないので、文治二年(1186)二月廿八日条で使わないと申し出ている。六巻文治二年(1186)四月五日

かまたり大織冠は、藤原鎌足。談山神社は鎌倉時代に成立した寺伝によると、藤原氏の祖である藤原鎌足の死後の天武天皇7年(678年)、長男で僧の定恵が唐からの帰国後に、父の墓を摂津安威の地(参照:阿武山古墳)から大和のこの地に移し、十三重塔を造立したのが発祥である。天武天皇9年(680年)に講堂(現 神廟拝所)が創建され、妙楽寺と称した(後に、談山護国寺妙楽寺と称する)。大宝元年(701年)、妙楽寺の境内に鎌足の神像を安置する神殿が建立された。談山の名の由来は、藤原鎌足と中大兄皇子が、大化元年(645年)5月に大化の改新の談合をこの多武峰にて行い、後に「談い山(かたらいやま)」「談所ヶ森」と呼んだことによるとされる。ウィキペディアから五巻文治元年(1185)十一月廿二日

かめ龜前は、先月の「うはなり打ち」から幾らも経っていないのに、懲りずに御寵愛日を追って興盛なので、少しでも近くにと鐙摺(逗子市と葉山町の境)の大多和五郎義久の宅から小坪(鎌倉市から逗子市へ入ったすぐの地)へ引越しさせています。二巻壽永元年(1182)十月十

ぎえん義圓は、乙若丸。鎌倉へ来て頼朝と対面してからなのか解らない。二巻養和元年三月十日

ぎょうさい行西は、二階堂行村。25巻承久3年5月23日

ぎょうねん民部大夫入道行然は、二階堂行盛。主計允藤原行政ー信濃前司二階堂行光ー行盛ー行忠ー?−行貞。27巻寛喜2年6月11日

ぎょうめい前法眼行命〔熊野前別當〕は、三井寺から熊野別当になった。九巻文治五年(1189)五月十七日

きよしげ葛西三郎C重は、秩父一族。葛飾の西なので葛西。葛飾区と市川市。二巻養和元年四月七日

きよちか葛西清親は、清重―清親

きよつね安逹新三郎は、足立清恒で雜色の長をしているので名字がある。三巻元暦元年(1184)八月三

きよつねC經朝臣は、平C經。平重盛の三男。笛の名手として名高い。豊前柳浦にて入水自殺した。五巻文治元年(1185)十月二十

きよとき遠江清時は、時房―時直―清時

きよなり和氣C成(医師)脱漏嘉禄3年5月3日

きよもと豊嶋權守C元は、てしまと読み北区豊島7-31-7に清光寺(北区観光→王子豊島エリア→清光寺)あり。一巻治承四年九月三日

きよもり清盛は、自分の意に反する48人の官職を解き、後白河を鳥羽殿に幽閉している。一巻治承四年四月九日A

きんかず橘薩摩余一公員は、橘次公成(業)―公員

きんすけ侍從公佐は、親幕派の持妙院党で頼朝と遠縁に当たる。四巻元暦二年(1185)六月二十五日。公佐は、三条公佐で、北條時政の娘阿波局と頼朝の弟阿野全成との間にできた娘の婿。五巻文治元年(1185)十二月七

参考時政──阿波局┐
         ├─女┐
  
義朝─阿野全成┘  ├阿野実直・・・・・・・阿野康子┐
 
       藤原公佐┘          後醍醐天皇┘

きんとき公時は、滋野井。10巻文治6年(1190)6月10日

きんとも江判官公朝は、大江公朝。五巻文治元年(1185)十月十九おおえきんとも江判官公朝は、検非違使大江公朝で、以前勅旨として義朝のしゃれこうべを持ってきた。その後も何度か勅旨をしている後白河法皇の側近。七巻文治三年(1187)三月十五日九巻文治五年(1189)六月六日

きんなが橘右馬允公長は、元々讃岐の人で平家に仕えていたが、見限って治承四年(1180)十二月小十九日息子二人を連れて頼朝側へきた。三巻元暦元年(1184)六月一

きんなり橘次公業は、元伊予国宇和郡宇和庄で現在の愛媛県宇和島市。三巻元暦元年(1184)九月十九

きんより氏家五郎は、公頼で栃木県さくら市氏家。宇都宮朝綱の子、氏家五郎兵衛尉公頼について、栃木県塩谷町の佐貫石仏から発見された建保五年(1217)銘の銅版曼荼羅には、〔下野国氏家郡讃岐郷〕〔右兵衛尉橘公頼〕と記される。氏家氏の苗字の地は、『和名抄』の芳賀郡氏家郷(旧塩谷郡氏家町氏家)。13巻建久4年8月16日

くにうじ上野三郎国氏は、13年後の47巻正嘉元年(1257)10月1日以降には畠山上野三郎國氏と出るが、室町期の奥州畠山国氏とは別人で、上野前司源性畠山泰国の子であろう。

くにつな邦綱卿は、五条邦綱で清盛の懐刀。兵範記に邦綱卿東山六条末別業とある。10巻文治6年(1190)8月9日

くになり源邦業は、醍醐源氏盛邦の男。この後四年後の建久元年十一月七日の入洛に下総守邦業で出演する六巻文治二年(1186)二月二日

くにのぶ戸崎右馬允國延は、北埼玉郡騎西町戸崎。三巻壽永三年(1184)三月十八日

くにひら宮六{仗國平は、近藤七國平で、由来は近江守藤原。10巻文治6年(1190)1月13日

くにみち藤判官代邦通は、頼朝の祐筆。三巻元暦元年(1184)四月廿大和判官代邦道。四巻元暦二年(1185)四月十一日四巻元暦二年(1185)四月十一日公文所所司。四巻元暦二年(1185)四月十三日

くにもと國基は、頼光系摂津源氏、頼光頼国実国−行実−光行−行頼−国基。能勢国基とは別人らしい。六巻文治二年(1186)八月二十七日

これあき前兵部少輔尹明入道は、安徳天皇の蔵人。九巻文治五年(1189)五月十七日

これたか臼杵二郎惟隆は、臼杵庄で現大分県臼杵庄臼杵市。緒方三郎惟榮の兄。四巻元暦二年(1185)正月十二日

これちか伊周は、藤原道隆の子。叔父道長と政権争い負けて失脚。四巻元暦二年(1185)六月二十一日

これひら中八維平は、由利で秋田県由利郡。二巻養和元年三月六日

これもり惟盛は、父の重盛から軍勢は相続しておらず、軍勢は伊勢に潜伏しているので直属の軍勢は持っていない。一巻治承四年十月廿日。維盛は、重盛の子なので、本来なら嫡男の嫡男であるが、後妻の子である宗盛に嫡流をとられている。この嫡男の嫡男がなまって「チャキチャキ」の江戸っ子の語になる。二巻養和元年十

これやす惟安は、惟泰の文字が正しい。二巻養和元年二月廿九日

これよし緒方三郎惟榮は、豊後国大野郡緒方庄で、現在の大分県豊後大野市緒方町。通称は三郎。諱は惟義とも書かれる。臼杵二郎惟隆の弟。四巻元暦二年(1185)正月十二日

これよし大内冠者惟義は、新羅三郎義光系清和源氏。平賀義信の子。の大内は、元大内裏の警備官をした職を名誉して子孫が名字にしている。なお、大内相模守惟義は伊賀國の守護である。三巻元暦元年(1184)七月五日

さがに寒河尼は、小山政光の後妻で政光の死後は小山荘を伊勢神宮へ切り替え寒河御厨とする。一巻治承四年十月二日

さだかげ長尾新六定景は、横浜市栄区長尾台町JR大船駅北側岡の上。菩提寺は鎌倉市城廻の久成寺。一巻治承四年八月二十三日 二巻養和元年七月五日

さだつな佐々木左衛門尉定綱宇都宮に在りは、宇都宮氏の婿となっている。当時は妻問婚の時代と思われる。一巻治承四年八月十日

さだつね和氣定経脱漏嘉禄1年7月6日

さだとう安倍貞任を征伐は、前九年の役。一巻治承四年十月十二日

さだなが右衛門權佐定長は、勧修寺(カジュウジ)。三巻壽永三年(1184)二月十四

さだなが右大弁宰相は、藤原定長。10巻文治6年(1190)8月9日

さだのり藤原定範は、定員―定範

さだふさ仲行事貞房は、那珂郡で丸亀市に郡家町あり。行事は郡衙の役人。三巻元暦元年(1184)九月十九

さだもと和氣定基(前権侍医定経男)脱漏嘉禄1年7月6日

さだやす定康は、典薬頭定成の子。六巻文治二年(1186)七月八日

さだやす定康は、草野定康。北面の武士。七巻文治三年(1187)二月九日

さだよし 貞能は、平家侍大将廿数人中のナンバーワン。二巻養和二年四月十一さだよし貞能は、平家侍大将廿数人中のナンバーワン。治承四年十二月二日に本三位中將「重衡」の侍大将肥後守貞能として、関東へ向けて出発したが途中から引き返した。又、養和二年四月十一日には九州で兵糧米を集め、菊地九郎隆直を降伏させている。四巻元暦二年(1185)七月さだよしほっし貞能法師は、平貞能で平家家人。六巻文治二年(1186)九月二十五日

さだよし多々良權守貞義は、一回限りの出演でよく分からない人物(横須賀市鴨居四丁目に多々良公園あり)二巻壽永元年(1182)月十二

さねさだ内府は、内大臣で徳大寺実貞。五巻文治元年(1185)十一月

さねたか廣澤三郎は、廣澤三郎實高で上野国広沢御厨。現群馬県桐生市広沢町。四巻文治元年(1185)八月二十四日

さねとき北条実時は、義時―実泰―実時

さねとし平次左衛門尉實俊は、平岡

さねのり實教は、中御門。10巻文治6年(1190)6月10日

さねはる大井兵衛次郎實春は、武蔵国大井庄で東京都品川区大井。参考にしている、堀田璋左右先生の参考注に「大井は紀氏品川の族にして、武蔵国荏原郡に住す。實春は紀兵三實直の次男とす。」とあります。三巻壽永三年(1184)三月廿二日

さねひら實平は、土肥次郎實平で備前を代官として管領していると思われる。三巻元暦元年(1184)十二月十六、神奈川県足柄下郡湯河原町で、中村(足柄上郡中井町)の分家。三巻壽永三年(1184)正月廿八日

さねつね長田兵衛尉實經は、因幡國高庭庄で鳥取市野坂で後廣經と改める。父資經は平治に頼朝を伊豆へ送った。三巻壽永三年(1184)三月十日

さねまさ宇佐美平次實政は、宇佐美は伊豆の宇佐美、工藤と同族。但し、彼は伊東市大見なので大見でも出演する。二巻養和元年四月七日

さねむね實宗は、藤原。10巻文治6年(1190)6月10日

さねもと實基は、元暦二年(1185)二月小十九日条に後藤兵衛尉實基で後藤新兵衛尉基Cの養父。六巻文治二年(1186)七月二十七日

さねもり齋藤別當實盛は、以前廷尉爲義の郎等だが、義朝よりも義賢に従っていた。頼朝の兄の悪源太義平が秩父の義賢を襲ったときにその子木曾冠者義仲を助けた。この後平家に従い、倶利伽羅峠での討ち死にシーンを平家物語巻七の實盛最後で熱く語っている。

さねよし広沢実能は、波多野遠義―広沢実方―実高―実能

しげいえ重家は、高田四郎重家。六巻文治二年(1186)正月廿四日

しげきよ龜井六郎は、亀井重C。四巻元暦二年(1185)五月七日

しげくに澁谷庄司重國は、は、神奈川県大和市福田の小田急江ノ島線「高座渋谷駅」東北(上和田)に城山の小字地名あり。但し、標柱には和田小太郎義盛の城跡と書いてある。町名に和田が残っている。後世に、綾瀬市早川へ移ったので、あちらの早川城址に石碑が残る。四巻元暦二年(1185)三月二日

しげすけ澁谷馬允は、澁谷五郎重助。父は澁谷庄司重國。五月九日条で、平家に付いたり、木曾義仲に付いたり、源義經について自由任官したことを頼朝がもう一度怒っている。四巻元暦二年(1185)四月十五日

しげずみ山田太郎重澄は、満政流清和源氏で息子が山田重忠。二巻養和二年三月五

しげたか佐渡前司重隆は、清和源氏満政流で美濃源氏の頭領、美濃国山田荘(大和村)。後に山田次郎重隆で出演。10巻文治6年(1190)4月4日

しげただ畠山次郎重忠は、埼玉県深谷市畠山の館で生まれ埼玉県比企郡嵐山町菅谷居住(鎌倉古道参照)。一巻治承四年八月二十四日はたけやまのじろう畠山次郎は、畠山次郎重忠で武蔵嵐山の菅谷館。三巻元暦元年(1184)十一月六

しげただ重忠は、山田。10巻文治6年(1190)6月29日

しげつね重經は、師岳(もろおか)重經で神奈川県横浜市港北区師岡町。彼は頼家の誕生に鳴弦の役を大庭景能と多々良貞義と共に出演。後は文治五年の奥州合戰に出演のみ。四巻元暦二年(1185)四月十五日

しげとし縫殿助は、重俊で山内首藤瀧口三郎經俊の子。この単語が出て来るのはこれが最初。次は、建久六年(1195)三月十日頼朝奈良大仏殿供養に出発の名簿に出てくる。四巻元暦二年(1185)四月十五日

しげとも榛谷四郎重朝(はんがや)は、秩父党。小山田有重の子で稲毛重成の弟。榛谷御厨は保土ヶ谷区神戸町から旭区二俣川にかけた大きな荘園だった。榛谷の名はわずかに半谷として旭区さちが丘にバス停名だけが残っている。当時二番目の弓の名人。二巻養和元年四月七日

しげなが江戸重長は、同じく秩父一族で江戸湾の水利権を持ってたようであるが不確か?一巻治承四年八月二十六日

しげなり小栗十郎重成は、小栗御厨で現協和町小栗に館跡あり石碑有り但し照手姫の方で有名。寿永二年(1183)二月廿三日

しげなり小山田三郎重成は、東京都町田市小山田。後に政子の妹を嫁にもらい、その持参金として稲毛荘をもらい、稲毛と名乗る。二巻養和元年四月廿日三巻元暦元年(1184)六月十六

しげひら三位中將重衡卿は、奈良の大仏を焼いた平重衡。三巻壽永三年(1184)三月二日

しげひろ小林次郎重弘は、上野國小林郷で藤岡市小林。四巻元暦二年(1185)正月一日

しげひろ大和守は、大和守山田重弘で尾張源氏。浦野重遠の子。五巻文治元年(1185)十月二十一

しげふさ河越小太郎重房は、埼玉県川越市で父の河越太郎重頼は秩父党の党首で武蔵検校職を持っている。五巻文治元年(1185)十月二十三

しげみつ泉太郎重光は、重満で尾張泉御園、現安城市和泉。荘園の荘を崩すと庄となり、荘園の種類に牧場は牧、畑は御園、津が川淵や湖の淵、浦は海産物を納める、杣は薪など山の恵、保は役所の領地で公領のはずが長官の私領となっている、御厨は伊勢神社の領地。二巻養和元年三月十日

しげみつ結城重光は、朝光―重光

しげむら大隅太郎重村は、三浦義澄大河戸重隆重村、宝治合戦で親子共々に滅びる。

しげもり小松内府は、C盛の長男の平重盛。二巻壽永元年(1182)九月廿五三巻元暦元年(1184)四月廿

しげよし重能は畠山次郎重忠の父、有重は重能の弟で江戸太郎重長と同じ秩父一族。(桓武平氏系図参照) 一巻治承四年九月二十八日

しげよし散位成良は、桜間城主田口成良。養和元年(1181)九月大廿七日に平家の先鋒として伊予へ攻め込み、河野四郎通信と戦い勝利している。四巻元暦二年(1185)二月十八日

しげより川越重頼は、埼玉県川越市で、秩父一族の頭領。武蔵国総検校職(軍事召集権)を帯する。後義経の連座で死刑になり、重忠に与えられたようだ。一巻治承四年八月二十六日彼は比企の尼の婿でもあり、この時点では秩父党の頭領として武蔵国総検校職(軍事召集権)を帯する。後義経の連座で死刑になり、重忠に移る。三巻元暦元年(1184)九月十四寛喜三年(1231)四月廿日河越三郎重員が名目上だが返してもらっている。五巻文治元年(1185)十一月十二

しげより宮内大輔重頼は、頼光系清和源氏。五巻文治元年(1185)十月二十四

じょえん舒國は、不明。舒の読みはジョかショかノなので、探したがだめ。大井渡しに来たのは、上総權介廣常一行二万騎なので、そのうちの人かも?四巻元暦二年(1185)四月十五日

しょうかん 昌寛は、一品坊昌寛で、比叡山僧兵の出身で右筆。寺院関係を担当していたが、翌年京都の下級公家がくると外れる。娘が頼家のご落胤を産むが義時に殺され、その恨みか娘は承久の乱で京都方に付く。二巻養和二年五月廿六昌寛は、後に頼家の乳母。三巻元暦元年(1184)八月八

しょうしゅん土左房昌俊は、後に源九郎義經暗殺に京都へ行き、返り討ちに会う。三巻元暦元年(1184)八月八、渋谷金王丸。五巻文治元年(1185)十月九日

じょうじん義勝房成尋横山党八王子。一巻治承四年八月二十日

しんえん別當僧正は、信円で摂関家藤原忠通の息子。九条兼実や慈円と異母兄弟。六巻文治二年(1186)十二月十五日

すえうじ彈正忠季氏は、清原季氏。弾正台の三等官。弾正台は、行政組織を監察する役所。

すえさだ季貞は、源。四巻元暦二年(1185)五月十六

すえしげ平山武者所季重は、武蔵国多摩郡の西党(きさいとう)で、父は眞季。東京都日野市平山。なお八王子市堀之内に平山城址公園があるが本当の城趾ではないようである。三巻壽永三年(1184)二月七日。季重は、平山。文治五年(1189)七月小十九日条奥州合戰に平山左衛門尉季重が出てくる。しかもそれまでは、平山武者所季重と出てる。建久三年(1192)八月九日条には平山右衛門尉季重と出てくる。左右の字は略すとほぼ同じなので平山で良いと思う。吾妻ではそれ以外に季重の名はない。ただ久日が分からない。ただ、季重に源三郎の言葉は一切出てこないので、別人のようでもある。久日の地名もなし。久目なら富山県氷見市久目。久米なら埼玉県所沢市久米。もしかしたら「久日源三郎」が何か悪口や囃子言葉なのかも知れない。四巻元暦二年(1185)四月十五日

すえたか愛甲三郎季隆は、神奈川県厚木市愛甲三巻壽永三年(1184)三月十八日

すえつな季綱は、貴志先生は海老名氏と記すが、海老名氏の系図には見えない。吾妻では他に建久四年(1193)二月十日条に毛呂太郎季綱が昔頼朝に世話した礼に勸賞〈武藏國泉勝田〉を賜る。後正治元年(1199)十月小廿八日諸二郎季綱が出演し、正治二年(1200)二月大廿六日には泉次郎季綱と出るが、これは別人らしい。四巻元暦二年(1185)四月十五日

すえつね彼所の目代は、国府の代官で、紀季經。場所は市川市国府台(こうのだい)。一巻治承四年九月十三日

すえのり季範は、藤原。熱田神宮神官で娘の子なので頼朝とは同母弟。二巻壽永元年(1182)九月廿五

すえひろ季弘朝臣は、阿部で陰陽寮の陰陽頭だが、木曾冠者義仲の占い師をしたので、解任された。三巻元暦元年(1184)九月二十八

すえみつ毛呂冠者季光は、埼玉県入間郡毛呂山町。藤原氏。父は成光。頼朝が伊豆時代に食料が無く、従者があちこち食い物を貰いに歩いたが何処でも断られ、とうとう毛呂まで来て、この季光に貰ったという逸話がある。頼朝は天下を取ってからこの人を大事にした。一巻治承四年(1180)十二月十二日・六巻文治二年(1186)二月大二日

すけきよ伊東九郎は、伊東九郎祐清。吾妻鏡ではここで死んだことになっているが、平家物語では倶利伽羅峠の合戰で死ぬ。二巻養和二年二月十五

すけしげ玉井四郎資重は、埼玉県熊谷市玉井で最寄の駅は湘南新宿ラインの行き先「籠原駅」。小説家の火野葦平(ひの・あしへい)は本名を玉井勝則と云い、この玉井の子孫だと言っている。代表作「花と龍」。保元の乱にも横山党から出陣している。三巻元暦元年(1184)九月二十

すけしげ玉井四郎助重は、愛知県一宮市木曽川町玉ノ井。四巻元暦二年(1185)六月十六日

すけたか肥後守資隆入道は、藤原。10巻文治6年(1190)6月23日

すけちか祐親が頼朝を殺そうとした時とは、頼朝が祐親の娘の八重に子供を生ませた時で平氏全盛時代だった。一巻治承四年十月十九日祐親法師は、頼朝の流人時代に伊東次郎祐親法師が京都大番役で留守の間に娘との間に男の子をもうけたが、帰ってきた伊東次郎祐親法師が平家の聞こえを心配してその子を狩野川へ沈めて殺し、娘を他家へ嫁がせてしまった。又、石橋山の合戰では300騎を率いて頼朝に敵対した。二巻養和二年二月十四
すけちかほっし祐親法師は、伊東次郎祐親法師で伊豆の伊東市。頼朝に敵対し三浦介義澄が娘聟で召し預けられていた。寿永元年二月十四日に頼朝から許されたが武士の面目が立たないと自害した10巻文治6年(1190)9月7日

すけちか藤原資親は、備中の在庁官人。散位。三巻壽永三年(1184)三月廿五日

すけつね工藤一臈祐經は、後に富士の夜襲で曾我兄弟にあだ討ちされる祐經だが、一臈は相摸國衙の武者所の長。三巻元暦元年(1184)六月十六日四巻元暦二年(1185)三月九日

すけつね資經(長田)「高庭介也」は、因幡國高庭庄で鳥取市野坂。国の介で高場郡司でもある。頼朝が伊豆へ配流されるときに、平家をはばかって誰も送ってくれないのに、資經は親族の資家に伊豆まで送らせた。三巻壽永三年(1184)三月十日

すけとも伊東祐朝は、工藤祐経伊東祐時祐朝

すけむら三浦資村は、義明―義澄―義村―資村

すけもと資幹は高場次郎。常陸大掾氏の分家。後の馬場小二郎資幹。平資幹。平二巻養和二年二月二日

すけなが平資永は、越後奥山の荘(今の新潟県北蒲原郡紫雲寺町、中条町、黒川村)領主。二巻養和元年八月十三日

すけのぶ曾我太郎助信は、小田原市上下曽我御殿場線下曽我駅(梅林で有名)。一巻治承四年八月二十三日

すけまさ堀平四郎助政は、伊豆の武士。一巻治承四年八月二十日

すけみつ藤大夫資光は、新居氏で香川県観音寺市大野原町中姫。三巻元暦元年(1184)九月十九

すけもり新三位中將資盛は、本三位中將重衡と二人中将なので本と新に分けて呼ばれている。重盛の次男で、ご落胤を紀州熊の神社に預けてあるので会いに行ってから入水したと平家物語にある。そのご落胤を北條四郎時政が鎌倉へ連れて行き、北条氏に仕えるようになり、その孫が平頼綱でその子孫が長崎円喜である。四巻元暦二年(1185)三月二十四日

すけやす宇佐美祐泰は、祐茂祐政祐泰

すけよし伊東祐能は、工藤祐経伊東祐時安積祐長伊東薩摩祐能

せいちょう大佛師成朝は、奈良炎上後、大仏復興の選定に負けた。四巻元暦二年(1185)五月二十一

せいめい清明は、陰陽師で有名な阿部清明。一巻治承四年十月九日

ぜんじょう醍醐禅師全成は、阿野全成で頼朝の弟。母は常盤御前、今若、音若、牛若三兄弟の今若丸。清盛に醍醐寺へ入れられた。後に政子の妹と結婚し、駿河国阿野荘を貰って阿野全成。一巻治承四年十月一日

ぜんしん大夫属入道は、三善善信。二巻養和元年三月七日三巻元暦元年(1184)八月二十八

ぜんしん前僧都全眞は、比叡山僧都で清盛の猶子。九巻文治五年(1189)五月十七日

たかあきら高明は、源高明、醍醐天皇の十子で臣籍降下。安和の変で失脚。四巻元暦二年(1185)六月二十一日

たかいえ都幡小三郎隆家は、富樫の一族。10巻文治6年(1190)5月12

たかかね野三郎大夫高包は、三野郡で現在の香川県三豊市三野町。三巻元暦元年(1184)九月十九

たかしなやすつね泰經朝臣は、高階泰經。四巻元暦二年(1185)四月十四日

たかずみ高田次郎隆澄は、高田荘で現大分市高田。二巻養和元年二月廿九日

たかつな左衛門尉高綱は、佐々木四兄弟(太郎定綱、次郎經高、三郎盛綱、四郎高綱)の四男。佐々木は在京御家人。九巻文治五年(1189)六月三日

たかなお菊地九郎隆直は、熊本県菊池市。二巻養和元年二月廿九日

たかなり高成は、不明。六巻文治二年(1186)六月十七日

たかはる尾張國住人原大夫高春は、犬山市尾張二宮大縣神社神主で母は上総權介廣常の妹。ちなみに尾張一宮は一宮市真C田神社三巻壽永三年(1184)三月十三日

たかひさ筑前三郎は、惟宗高久。三巻壽永三年(1184)四月三筑前三郎孝尚。三巻元暦元年(1184)八月二十八惟宗孝尚。四巻元暦二年(1185)四月十一日公文所所司。四巻元暦二年(1185)四月十三日

たかみつ山上太郎高光は、上野國山上保で、群馬県桐生市新里町山上、旧新里村山上。四巻元暦二年(1185)正月一日

たかもと隆職は、師經の子で廣房の甥である。頼朝追討の宣旨を書いた。六巻文治二年(1186)二月二十三日

たけしげ渋谷武重は、重国―高重―武重

ただきよ上總介忠Cは、伊藤上總介忠Cで富士川の合戰の侍大将。息子に謡曲景Cの悪七兵衛景C、永福寺造営中に頼朝暗殺がばれて処刑された上総五郎忠光あり。四巻元暦二年(1185)五月日。忠C法師三巻元暦元年(1184)八月二

ただすえ二藤次忠季は、二桃枝。鹿角市八幡平字桃枝平。10巻文治6年(1190)1月7日

ただつな足利又太郎忠綱は、藤性足利氏で下野國足利庄、現足利市。実は裏で頼朝が彼の一族に密書を送り裏切りを示唆しており、結果彼は一族に裏切られる。寿永二年(1183)二月廿三日

ただつな岡部次郎忠綱は、駿河国志太郡。泰綱ー忠綱。寿永二年(1183)二月二十八日

ただつね新田四郎忠常は、伊豆国仁田郷なので、仁田とも書き「にたん」と読み、静岡県田方郡函南町仁田函南小学校そばに墓あり。一巻治承四年八月二十日

ただなお高梨忠直は、木曾義仲軍の郎党で宇治川の先陣争いで攻めてきた佐々木高綱の前に立ち塞がり、槍を交えるが討ち取られる。義仲四天王の一人。ウィキペディアより。三巻壽永三年(1184)正月廿六日

ただのぶこれが義経千本桜なおで有名な継信・忠信兄弟で、兄の継信は屋島の合戦で戦死、弟の忠信がここで死ぬ。

ただのり薩摩守忠度は、岡部六弥太忠澄に討たれた。三巻壽永三年(1184)二月七、高春の娘婿。忠度は、清盛の腹違いの弟と云う事で清盛に呼ばれ京都へ行ったのは平治の乱の10年後。三巻壽永三年(1184)三月十三日

ただのぶ忠信は、平泉から義経に付いて来た佐藤忠信。四巻元暦二年(1185)四月十五日

ただみち忠通六巻文治二年(1186)四月廿日
     ├──┬──┬──┬──┬──┬──┬──┬──┐
    基実 基房 兼実 兼房 信円 慈円 聖子 育子 呈子
     

    基通は基実の子。

ただむね長田入道は、義朝を殺した長田忠致。尾張知多半島長田荘。一巻治承四年十月十三日

ただもり忠盛は、C盛の父で仁平元年(1151年)刑部卿となる。平家物語の昇殿で有名。一巻治承四年(1180)九月十四日ただもり忠盛朝臣は、清盛の父九巻文治五年(1189)八月十八日

ただよし佐竹太郎は、忠義。五巻文治元年(1185)十月二十八

ただより忠頼は、一條次郎忠頼で武田党の有力者。京都から頼朝追討の宣旨を受けたとされ、前月十六日に御所で暗殺されている。三巻元暦元年(1184)七月十日

たねうじ大須賀胤氏は、千葉常胤―大須賀胤信―胤通―胤氏

たねとお種遠は、大分県臼杵市野津町大字垣河内板井。四巻元暦二年(1185)七月十二

たねなお太宰少貳種直は、原田大夫種直で原田庄・現福岡県前原市(マエバルシ)。大宰府副長官(太宰少貮)四巻元暦二年(1185)二月一日二巻養和元年二月廿九日

たねまさ千葉太郎胤正は、常胤の子で総領。二巻養和元年四月七日二巻養和二年三月九

たねます賀摩兵衛尉は、種益で現福岡県嘉麻市。四巻元暦二年(1185)二月一日

たねなお太宰少貳種直は、原田大夫種直で原田庄・現福岡県前原市(マエバルシ)。四巻元暦二年(1185)二月一日

たねより東六郎大夫胤頼は、東庄を貰うのは源平合戦が終わってからなので未だ東ではない。現在の東庄町一巻治承四年九月十三日

ためきよ芦名爲Cは、三浦介義明の弟。葦名氏。芦名氏。横須賀市芦名。芦名には和田太郎義盛発注の運慶像の常楽寺がある。六巻文治二年(1186)六月九日

ためしげ平佐古太郎爲重は横須賀市平作。一巻治承四年八月二十日

ためすけ狩野為佐は、工藤介茂光―狩野行光―為佐(前名を為光)

ためつな山方介爲綱は、安芸介で山県郡司。広島県山県郡。三巻元暦元年(1184)十月十二

ためなが為長は、満快流清和源氏片桐為長。満快は、頼朝の祖満仲の弟。六巻文治二年(1186)四月廿日

ためなり鎌田七郎爲成は、鉾田市鎌田で旧鹿島郡鉾田町鎌田。寿永二年(1183)二月廿三日

ためひさ下総權守爲久は、京都の宅間流の絵描きの家で、兄は京都で本家を継ぎ、弟の爲久は鎌倉へ来て報国寺の谷に住んだので宅間谷(たくまがやつ)と云う。壽永三年(1184)正月廿二日三巻元暦元年(1184)四月十八三巻元暦元年(1184)八月十九

ためひさ石田次郎は、石田爲久。神奈川県厚木市愛甲石田で三浦の一族。三浦介義明の弟芦名為Cの孫。壽永三年(1184)正月廿日

ためやす片切太郎爲安は、満快系の伊那源氏。現長野県上伊那郡中川村片桐。三巻元暦元年(1184)六月二十三日

ためやす芦名爲保は、蘆名為保で為Cの子。系図には為安で出てくる。六巻文治二年(1186)六月九日

ためよし六條廷尉禪室は、廷尉は検非違使の唐名、頼朝の祖父爲義が六条左女牛に住んでる検非違使なので。一巻治承四年八月二十四日

ちかいえ近藤七親家は、堀田璋左右先生は板西郡に住せりとあるので、徳島県板野郡板野町。四巻元暦二年(1185)二月十八日

ちかいえ親家は、加賀守藤原親任の子。内蔵権頭,木工権頭などを歴任。建長4年(1252)6代将軍宗尊親王の鎌倉行きに随行。41巻建長4年4月1日

ちかざね周防前司中原親実。26巻貞応二年1月6日

ちかつね弁親經朝臣は、藤原。10巻文治6年(1190)6月29日

ちかとき三村親時は、加々美遠光―小笠原長清―長経三村長時親時

ちかまさ藏人左衛門權佐親雅は、藤原。四巻元暦二年(1185)四月二十四日

ちかみつ親光は、宗親光。四巻元暦二年(1185)三月十三日。ちかみつ前對馬守親光は、宗親光。宗一族は親光の三代前から明治維新まで対馬(下国)の国司をした。五巻文治元年(1185)十二月廿三六巻文治二年(1186)六月十一日

ちかもと親職は、安陪親職(?-1240)陰陽師。陰陽大允をへて陰陽権助に。十九巻建暦元年(1211)十二月二十八日

ちかよし中原親能は、大江広元の兄で秦野育ち1178から京都へ行っていた。三巻元暦元年(1184)十月六

ちゅうかい律師忠快は、小河律師忠快、台密小川流の祖。平教盛の子、丹波小河庄(現、京都府亀岡市千代川町小川)。後に鎌倉へ連れてこられて八幡宮寺の供僧となる。四巻元暦二年(1185)四月十一日九巻文治五年(1189)五月十七日

ちょうげん重源は、(1121-1206) 鎌倉初期の浄土宗の僧。俊乗房(しゆんじようぼう)・南無阿弥陀仏と号す。密教を学んだのち、法然から浄土教を学び諸国を遊行。三度入宋したといわれる。東大寺再建のための大勧進職に任じられ、天竺様式をとり入れた大仏殿を完成。民衆の教化・救済、また架橋・築池などの土木事業にも尽くした。四巻元暦二年(1185)三月七日

つねいえ大友經家は、神奈川県小田原市東大友・西大友。波多野出身。四巻元暦二年(1185)四月十四日

つねいえ波多野四郎經家は、神奈川県秦野市。大友とも。四巻元暦二年(1185)四月十四日

つねたか經高は、佐々木次郎經高。在國御家人。10巻文治6年(1190)6月23日

つねたね千葉介常胤は、上総權介廣常と同族で介は下総の介を現すと思われる。一巻治承四年九月四日常胤没年記事、元永元年1118年5月24日生。数え年の84歳。第十七巻建仁元年(1201)三月小廿四日

つねつな宇都宮経綱は、頼綱泰綱経綱

つねとし経俊は、同秀郷流。山内庄は神奈川県鎌倉市北鎌倉から横浜市栄区戸塚区泉区瀬谷区一帯と港南区上下永谷、藤沢市大鋸を含む相模の国最大の荘園。この子孫が一豊の妻の山内(土佐藩)である。一巻治承四年七月十日。經俊は、山内首藤瀧口三郎經俊。正治元年(1199)十月小廿八日条に山内刑部烝經俊と出る。四巻元暦二年(1185)四月十五日經俊は先祖が朝廷の主馬首(しゅめのかみ)をしていた藤原氏なので首藤と云う。一巻治承四年七月十日經俊は、山内首藤瀧口三郎經俊で伊勢の守護である。鎌倉の山内に住み山内氏となり、子孫に一豊や酔鯨がいる。三巻元暦元年(1184)七月十八日・山内瀧口三郎經俊は、元相模国山内庄領主、滝口は京都御所の北側に鑓水の取り口が滝になっていたので、そこへ祗候していた北面の武士を滝口という。五巻文治元年(1185)十月二十三

つねとも長狹六郎常伴とは、長寛元年(1163)三浦大介義明の長男杉本太郎義宗が長狭を攻めようと安房白浜で一週間ほど準備しているうちに、情報が漏れて、鴨川へ上陸作戦を展開するが、待ち伏せにあって戦死している。これ程前から三浦の安房進出領土問題で三浦と長狭は対立していた。一巻治承四年九月三日長狹六郎常伴と三浦義澄との合戦の場所を「一戦場」との地名が残り、公園になっている。又、この時、頼朝は鴨川市のある島にかくまってもらったので、以後この島をかくまってくれた人に配領され、人の名を取って二右衛門島と呼ばれるようになり、今でもその子孫の個人の所有となっているという。一巻治承四年九月三日

つねはる相馬九郎常Cは、相馬御厨で茨城県旧北相馬郡で現取手市・守屋市・利根町・常総市、龍ヶ崎市、つくばみらい市の一部と、千葉県旧南相馬郡で我孫子市・柏市の一部(旧富勢村・旧沼南町)。壽永三年(1184)正月十七日

つねはる片岡八郎常春は、旧常陸国新治郡八郷町片岡で現石岡市片岡。五巻文治元年(1185)十月二十八

つねひで境平次常秀は、常胤の長男胤正の次男で千葉県山武郡芝山町境。三巻元暦元年(1184)八月八

つねふさ藤中納言經房は、吉田。四巻元暦二年(1185)四月二十四日、吉田經房で後白河法皇には直接手紙を出せないので、関東申し次を通している。四巻元暦二年(1185)三月四日つねふさきょう經房卿は、吉田經房で関東申し次、彼の日記が「吉記」である。四巻元暦二年(1185)五月十六

つねまさ經正は、C盛の弟經盛の子。二巻養和元年十一廿一

つねむね左府は、左大臣の唐名で藤原經宗。五巻文治元年(1185)十一月五

つねもり經盛卿は、平宰相經盛(C盛弟)で壇ノ浦で入水。六巻文治二年(1186)七月二十七日

つねよし印東次郎常義は、上総權介廣常の弟。印東は印旛沼の東。一巻治承四年十月廿日

ていし九條院は、忠道の幼女で近衛天皇皇后呈子。10巻文治6年(1190)6月23日

どうそん若宮は、後の道尊僧正。一巻治承四年五月十六日

とおかげ天野藤内遠景は、伊豆の武士だが、平家滅亡後初代の鎮西探題にある。三巻元暦元年(1184)六月十六六巻文治二年(1186)六月十七日

とおたか宇佐那木上七遠隆は、山口県柳井市新庄佐保(さを)を宇佐保(うさほ)とし、国衙領を支配していた山口県熊毛郡平生町大字平生町の上七遠隆とする意見もある。四巻元暦二年(1185)正月二十六日

とおひら土肥弥太郎遠平は、実平の子供であるが、父が太郎でその子も太郎の場合に小太郎とか又太郎とか弥太郎と呼ばれるはずなのに、実平は次郎であるのでおかしい。考えられることは実平の兄(太郎)の子である可能性もある。一巻治承四年八月二十八日

とおみつ遠光は、加々美信濃守遠光。信濃へ転任し、小笠原と名乗る。四巻文治元年(1185)八月二十九日

とおもと足立右馬允藤内遠元は、東京都足立区と千葉県埼玉県川口市あたりで、藤内は内舎人(うどねり)だった藤原で、名字になると内藤になる。三巻元暦元年(1184)十月六公文所所司。四巻元暦二年(1185)四月十三日

ときいえ:前少將時家は、「平家にあらずんば」時忠の先妻の子で後妻に嫌われ上総へ流罪になっていたのが、上総權介廣常の推挙で右筆になっている。二巻養和二年五月十六日・三巻元暦元年(1184)六月一

ときいえ伊賀前司小田時家

ときかず越後五郎時員は、時房―時盛―時員

とききよ八嶋冠者時Cは、美濃国八島郷で、大垣市八島町。五巻文治元年(1185)十一月廿

ときこ二品禪尼は、平C盛の妻時子。四巻元暦二年(1185)三月二十四日

ときさだ平六時定北條時政の本家の従兄弟とする説(奥富敬之氏)と時政の弟とする説(野口実氏)がある。一巻治承四年八月二十日、六巻文治二年(1186)九月十三ときさだ時定は、北条平六時定。同じような事件を東大寺領黒田庄でも起こしている。鎌倉遺文133号10巻文治6年(1190)8月3日

ときさだ北条六郎時定は、泰時―時氏―時定

ときさだ相模左近将監時定は、時房―時定

ときざね左中將時實は、平時忠の長男。姉か妹が源九郎義經の妾。四巻元暦二年(1185)四月十一日ときざね前中將時實は、平時忠(平家にあらずんばの人)の長男。後に鎌倉幕府に仕える。六巻文治二年(1186)二月七日平時忠の子供。平時忠は「この一門にあらざるむ人は皆人非人なるべし」と言った人。九巻文治五年(1189)五月十七日

ときたか相模八郎時隆は、時房―時村―時隆

ときただ時忠は、C盛の後妻徳子の兄で「此の一門にあらざらむ者は、皆人非人なるべし。」と云った人。二巻養和二年正月廿三この子孫が能登の時国家である。四巻元暦二年(1185)六月ときただ平大納言〔時忠〕は、彼だけが平家都落ちの際に官職を剥奪されず、朝廷とのパイプ役で残った。四巻元暦二年(1185)四月十一日

ときちか越後時親は、時房―時盛―時親

ときつね時經は、中村時經で武蔵七党の丹党。建久元年(1190)十一月小九日上京した頼朝の仙洞への参内に調度掛として中村右馬允時經で出演。四巻元暦二年(1185)四月十五日

ときなか遠江四郎時仲は、時房―朝直―時仲

ときなが常陸介藤時長は、建久二年正月二十三日条に念西の女(大進局)とあり、大進局は政子の恨みに絶えず京都へ行くよう云われる。時長は名を朝宗と変えた伊佐朝宗で、出家して年西。奥州合戦後、福島県伊達郡を貰い長男を常陸に残し移住し伊達と名乗る。子孫に隻眼の正宗。伊達系図では宗村にあたる。六巻文治二年(1186)二月二十六日

ときなが九郎藤次は、安達藤九郎盛長の次男で大曽根時長。出羽国(現山形県山形市大曽根)。10巻文治6年(1190)1月3日

ときなが丹波時長(針博士)医者の家系で、この頃医者は丹波と和気しかいなかった。16巻建久10年3月12日

ときひで上総時秀は、常胤―胤正―常秀―秀胤―時秀

ときひろ相模式部丞時弘は、時房ー時村ー時広

ときまさ時政は、父が時家。頼朝の縁で本家のように見えるが、実は京都で彼の代官を務めた従兄弟の平六{仗時定の方が本家らしい。一巻治承四年四月廿七日H。一巻治承四年八月二十日

ときより北条時頼は、義時―泰時―時氏―時頼

ときわ常盤は、忠道の養女として九条院(呈子)へ奉公に出る。九巻文治五年(1189)閏四月三十日

とくこ建礼門院は、平C盛の娘徳子で、高倉天皇の中宮となり安徳天皇を生み国母となる。四巻元暦二年(1185)三月二十四日

としかね俊兼は、筑後權守藤原俊兼。三巻元暦元年(1184)十一月二十一四巻元暦二年(1185)四月十一日

としたか俊隆は、村上源氏。六巻文治二年(1186)三月十八日

としつな俊綱は藤原秀郷流の藤性足利氏で足利荘、現足利市。一巻治承四年九月三十日一巻治承四年十月十三日。この当時、上州から下野にかけて新田と小山とこの藤性足利氏が三つ巴で覇権争いをしていた。源性足利氏は未だちっぽけだった。寿永二年(1183)九月七日

としつな佐々木俊綱は、阿部氏本佐々木、三郎成綱の子。三巻壽永三年(1184)二月二十七

としとお俊遠は、平田太郎俊遠。二巻壽永元年(1182)十月廿、平田村で現在の宿毛市平田町。二巻壽永元年(1182)九月廿五

としなが新藤次俊長は、藤井で鎌田正清の息子。一巻治承四年八月二十日

としひら俊衡は、基衡の子。9巻文治5年(1189)9月4日

ともあき武藏守知章は、知盛の子。弱冠十六歳で討たれた。三巻壽永三年(1184)二月七

ともいえ友家が、八田四郎知家。次の文治三年(1187)丁未正月大十二日条に八田右衛門尉知家と出る。この文字ではこの一回限り。四巻元暦二年(1185)四月十五日、常陸、茨城県筑西市八田(旧下館市八田)。隣が小栗。三巻元暦元年(1184)六月一寿永二年(1183)二月廿三日

ともしげ八田太郎知重は、知家の子で総領。二巻養和元年四月七日

ともかげ友景は、梶原朝景で景時の弟。次は、文治二年(1186)十月廿四日甘縄神明の修理に梶原刑部烝朝景と弟の同兵衛尉景定と書いて出てくる。四巻元暦二年(1185)四月十五日、六巻文治二年(1186)九月十五日

ともかげ石岡三郎友景は、常陸国、茨城県北茨城市中郷町石岡。10巻文治6年(1190)1月18日

ともきよ壹岐朝Cは、葛西清重―朝清

ともざね藤田友實は、文治元年(1185)十一月大二日条で、越前国齋藤一族で、子供の頃は垂髪にして(稚児となり)仁和寺宮に仕えた。元服して平家に仕え、裏切って木曾冠者義仲について、その後義経の家人となってた。文治二年十一月屋敷を時政に取上げられる。六巻文治二年(1186)七月二十七日

ともたね武石朝胤は、千葉常胤武石胤盛胤重朝胤

ともつな朝綱は、宇都宮左衛門尉朝綱。栃木県宇都宮の神主職で豪族。三巻元暦元年(1184)十一月十四

ともなお北条朝直は、時房―朝直

ともなが朝長は、義朝の次男で母は波多野の女。平治の乱に父に随い落ち延びるが、足に矢傷を負い足でまといになるので、青墓で自決、義朝が介錯をしたという。一巻治承四年十月十七日

ともなが伊賀朝長は、朝光朝長

とものぶ尾藤太知宣は、俵藤太藤原秀郷の子孫と書いてある。先祖に尾張守藤原。この尾藤の子「景綱」は泰時の家令となり、複数化して執事と云い、北条が分派すると全体をまとめ始めて内管領となる。三巻壽永三年(1184)二月二十一

とものり菅冠者は、小田切友則。参考:伊那郡大田切郷は、駒ヶ根市赤穂。(但し諏訪から十余里もある)一巻治承四年九月十日

ともひろ結城朝広は、朝光―朝広

ともまさ朝政は、小山四郎朝政。元暦二年(1185)正月大廿六日に未だ任官前なのに間違って小山兵衛尉朝政と書いてる。その後四郎に戻すが、文治元年(1185)十月大廿四日条に小山兵衛尉朝政と出て後は兵衛尉で出演。四巻元暦二年(1185)四月十五日、栃木県小山市で小山政光の嫡子。三巻壽永三年(1184)正月廿八日朝政は、小山四郎朝政。元暦二年(1185)正月大廿六日に未だ任官前なのに間違って小山兵衛尉朝政と書いてる。その後四郎に戻すが、文治元年(1185)十月大廿四日条に小山兵衛尉朝政と出て後は兵衛尉で出演。四巻元暦二年(1185)四月十五日

ともみつ小山朝光は、政光の七男で後に頼朝から結城を貰い、結城七郎朝光となる。一巻治承四年十月二日二巻壽永元年(1182)十月十七寿永二年(1183)二月廿八日結城七郎朝光は、初めて結城で登場、今までは小山だったが、実はこの時点では結城の所領はもらっていない。寿永二年の小山合戰の際に頼朝への勝利進言の褒美にもらう。二巻養和元年四月七日

ともみつ所六郎朝光は、父が蔵人所雑色なので名字を所と名乗っている。後に伊賀守に任じ子供等は「伊賀氏」を名乗る。(細川重男先生教示)9巻文治5年(1189)6月9日

ともむね藤内朝宗は、比企藤内朝宗。内は内舎人経験者で内藤の名字が発生する。三巻元暦元年(1184)七月廿五日六巻文治二年(1186)六月十七日

ともむら上野十郎朝村は、結城朝光朝村

とももり知盛は、清盛の子。一巻治承四年五月二十六日知盛は、熊谷直実や伊勢の波多野氏も家来にしている。一巻治承四年十月十九日

ともやす平知康は、鼓判官とあざなされる。五巻文治元年(1185)十一月

とよなり豊成は、藤原氏南家・智麻呂の子。704(大宝4)〜765(天平神護1)四巻元暦二年(1185)六月二十一日

なおかた平直方は、源氏山の麓の屋敷地現寿福寺を源頼義に譲った人。一巻治承四年四月廿七日G

なおざね熊谷次郎平直實の、埼玉県熊谷市。熊谷は名字の地。次郎はあざな。平は姓。直實が実名で直は通字。熊谷寺が屋敷跡とも。我が子と同じ年の敦盛を討って無情を感じ出家した。二巻壽永元年(1182)六月五日三巻壽永三年(1184)二月七

なおたね天羽庄司直胤は、上総国天羽庄で千葉県富津市相川、富津市数馬に天羽高校あり。壽永三年(1184)正月十七日

なおつね(なおかた)平直方は、源氏山の麓の屋敷地現寿福寺を源頼義に譲った人。一巻治承四年四月廿七日G

なおみつ久下權守直光は、直実の姉の亭主。二巻壽永元年(1182)六月五日

ながきよ加々美次郎長Cは、後に小笠原となり、その子孫は今も続いている。二巻養和元年二月一日かがみながきよ二郎殿は、加々美二郎長Cで。治承四年「庚子」(1180)十月小十九日条で、加々美次郎長Cは「母が病気だ」と云って平家をだまして関東へ来ているが、兄太郎光朝は京都に残った。四巻元暦二年(1185)正月六日

ながしげ横地太郎長重は、静岡県菊川市東横地に横地郵便局・同小学校あり。元小笠郡菊川町東横地。寿永二年(1183)二月十七日

なかすけおう仲資王は、神祇官の神祇伯。神道を司る。詳しくはウイキペディアの白川伯王家(しらかわはくおうけ)参照。万寿二年(1024)に花山天皇の孫である延信王が臣籍に下り、源姓を賜った後、永承元年(1046)に神祇伯に任ぜられた。白川家はこの延信王に端を発していると言われている。神祇伯は神祇官の長であり、最上位の官職であるとともに、奉幣使としても重要な職務である。その神祇伯の重要性と、源氏という最も高貴な血筋、及び顕広王の室で仲資王の母が大中臣氏である上に、顕康王が有力な村上源氏源顕房の養子となっているという、多くの要素により王姓復命が成立したのである。顕広王の子である仲資王(源仲資)が顕広王の後を継いで神祇伯となり、代々白川家は王を名乗る。三巻元暦元年(1184)十月廿七

ながたか上條長高は、宇都宮頼綱―上条時綱―長高

なかつな仲綱は、頼政の嫡子ですが、名馬を持っていて、それを清盛の息子宗盛が欲しがって騒ぐんです。暫くして仕方なく譲ると、それに宗盛が「仲綱」と名付けて呼びすてにしてるんですね。ですから、当然恨みはあると思いますし、平家討伐の意思を固めたと言えなくもないでしょう。一巻治承四年四月九日B

ながつね大曽根長経は、安達盛長大曽根時長―長泰―長経

ながひら草野大夫永平は、筑後国草野庄で御井・御原・山本など三千町歩。現在地名では福岡県久留米市の草野町草野。平安末期の長寛2年(1164)に草野永経(永平の父)が肥前国高木から入国し、吉木の竹井城に居城したと謂われ、平安末期より豪族・草野氏の城下町として栄え永平が勧請した旧草野祗園社で、須佐能袁神社がある。他に松浦郷(肥前国鬼岳城、現在の鏡山)を領し、鏡神社の宮司を兼ねていた。この人の孫の経永が、蒙古襲来の時、敵の船を分捕る大手柄を立てる。六巻文治二年(1186)閏七月二日、八月六日ながひら草野永平は、文治二年閏七月二日条に推挙され、文治二年八月六日条で在国司押領使を任命。同七日条で別な褒美をと云ってるので、その結果らしい。六巻文治二年(1186)十二月十日

ながもち城四郎は、長茂で、越後奥山の庄、現新潟県北蒲原郡紫雲寺町中条町黒川村だが、最近合併し胎内市となった。鳥坂城址あり。二巻養和元年五月十六日城四郎永用は、かつて秋田に東北経営の城を設け、そこの城守を秋田城之介としたが、後に秋田には住まなくなり、官職としてだけ残り越後平氏が継いで、名字が城一族という。二巻壽永元年(1182)九月廿八永用(城)敗走すと書いて、木曾冠者義仲の勝利とは書いていないのが不思議。二巻壽永元年(1182)十月九

ながやす大曽根長経は、安達盛長大曽根時長―長泰

ながよ丹波長世(玄番頭)医家で、和気と丹波が点薬頭で正五位上程度。49巻文応1年11月26日

なりつな佐々木三郎成綱は、阿倍氏の系統で本佐々木と云い安土の佐々貴神社神主。この神主職を平安末期に廷尉爲義の貴下の宇多源氏の佐々木源三秀義に奪はれるが、平家全盛に佐々木源三秀義は解職され、この本佐々木へ戻された。三巻壽永三年(1184)二月二十七

なりつな成綱は、小野の三男で「野三刑部丞成綱」で出演。三巻元暦元年(1184)十一月十四

なりとも生倫は、度会(わたらい)氏で、会賀四郎太夫と号す。兄は相賀二郎光倫。二巻養和二年二月八なりとも生倫は大神宮権祢宜。二巻壽永元年(1182)十月二なりともかんぬし生倫神主は、伊勢神宮の神主で渡会氏の会賀四郎。兄は二郎光倫で相賀と名乗る。後に相賀が雑賀に変わる。二巻養和二年正月廿八なりともかんぬし生倫~主は、養和元年十月二十日に伊勢神宮(大神宮権祢宜)から鎌倉に到着している。寿永元年一月二十八日に鎌倉で伊勢神宮へささげる馬を彼の鎌倉での居所へ届けている。同二月にはその馬の世話をサボった者を頼朝が罰っしようとしたのを神様への奉仕に血はいけないということで止めてる。そして頼朝の伊勢神宮への御願書を預かり伊勢神宮へ出発している。二巻壽永元年(1182)十月一

なりみち成通は、坊門権大納言宗通の四男。六巻文治二年(1186)六月十五日

なりよし散位成良は、桜間城主田口成良。養和元年(1181)九月大廿七日に平家の先鋒として伊予へ攻め込み、河野四郎通信と戦い勝利している。四巻元暦二年(1185)二月十八日

なりなが勝田平三成長は、静岡県牧之原市勝間に勝間田郵便局・同小学校あり。元榛原郡榛原町勝間。寿永二年(1183)二月十七日

なりもり業盛は、C盛の弟教盛の末子で。陸国住人比気四郎・五郎兄弟に、立った十七歳の若さで討たれた。三巻壽永三年(1184)二月七

にちいん日胤は、千葉介常胤の息子と云ってるので、千葉六郎大夫胤頼の弟と思われる。二巻養和元年五月八日

のうえん前法眼能圓は、時忠の父違いの弟。九巻文治五年(1189)五月十七日

のぶかね前出羽守信兼は、山木判官兼隆の父。三巻元暦元年(1184)八月二六巻文治二年(1186)七月二十七日

のぶきよ侍從信Cは、坊門信C。後に娘が実朝の嫁になる。四巻元暦二年(1185)四月二十八日

のぶざね佐々木太郎信實〔年十五〕は、後に越後加治荘(旧新潟県北蒲原郡加治川村・現新発田市上今泉に加治川小学校あり)を相続する。領家は藤原信義。10巻文治6年(1190)7月20日

のぶただ本間信忠は、義忠―忠家―信忠

のぶつな田代冠者信綱は、伊豆出身の御家人。静岡県田方郡函南町田代。四巻元暦二年(1185)四月二十九日

のぶつな木村五郎信綱は、木村保で現都賀町木。寿永二年(1183)二月廿三日

のぶつな田代冠者信綱は、伊豆出身の御家人。静岡県田方郡函南町田代。四巻元暦二年(1185)四月二十九日

のぶつら信連と戦って怪我をしたのは、藤原光長の部下だけである。源兼綱は裏で頼政と繋がっているので本気で長兵衛尉信連と戦っていない。一巻治承四年五月十日D。長は、長谷部の略で信連は下河邊庄内の長馬(現在の幸手市長間)の領主長馬爲連の息子。一巻治承四年五月十日C

のぶとし丸五郎信俊は、千葉県丸山町。一巻治承四年九月十一日

のぶなお勅使河原小三郎宣直は、有直の子。武蔵七党の丹党。埼玉県児玉郡上里町勅使河原。

のぶなが信永は、文章博士菅原在良の子。六巻文治二年(1186)六月十五日

のぶふさ宇都宮所信房は、下野蔵人所に勤めている。寿永二年(1183)二月廿三日

のぶみつ伊澤五郎は、甲斐武田党の伊澤五郎信光。四巻元暦二年(1185)二月十三日信光は武田の五男で石和といい、後に武田の総領となる。一巻治承四年十月十四日

のぶもと前内藏頭信基朝臣は、平氏。九巻文治五年(1189)五月十七日

のぶやす中原信泰は、源九郎義經のスポークスマンで色々と書き残したので、九条兼実の日記「玉葉」や藤原忠親の日記「山槐記」等に彼の名が出てくる。四巻元暦二年(1185)四月十一日。少内記信康は、源九郎義經の祐筆で、この人が色々と義經の手柄を書き残したので、義經伝説が出来たと思われる。木曾冠者義仲には、大夫坊覚明が付いていて書き残した。五巻文治元年(1185)十二月六日

のぶやす信康は、後藤。四巻元暦二年(1185)五月十六

のぶより信頼は、平治の乱の首謀者。一巻治承四年四月廿七日F

のりきよ美濃前司は、源則Cで頼光系。四巻元暦二年(1185)四月二十六日

のりすえ範季は、藤原。大治5年(1130年)- 元久2年(1205年))は平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての公家。九条兼実の家司。羽林家南家高倉流の祖。後白河法皇の近臣。父は藤原南家の藤原能兼。母は高階為時娘。藤原範兼は兄で養父でもある。妻は平教盛の娘・教子。娘に後鳥羽天皇女院で順徳天皇生母である修明門院重子がいる。ウィキペディアから六巻文治二年(1186)九月二十九日、十月十六日、十一月五日、

のりつね能登守教經は、玉葉では偽者の首と云い、平家物語でも壇ノ浦で源九郎義經に八艘跳びをさせたことになっている。三巻壽永三年(1184)二月七

のりのぶ前上野介範信は、熱田大宮司藤原秀範の子。頼朝の母の兄弟、すなわち叔父に当たる。五巻文治元年(1185)十月二十四

のりもり教盛〔門脇と号す〕は、平C盛の弟でC盛の屋敷の門の脇に屋敷を貰ったので門脇と云う。四巻元暦二年(1185)三月二十四日

のりよし右少將範能は、滋野井。四巻元暦二年(1185)四月二十四日

のりより蒲冠者範頼は、蒲御厨で現浜松市蒲に蒲神明神社があり、熱田神宮(熱田大宮司範季)の末社である。冠者範頼は、池田宿遊女の子で初見。寿永二年(1183)二月廿三日のりより範頼は、源參河守範頼で頼朝の弟。三巻元暦元年(1184)八月十七

はちじょういん八条院は、鳥羽天皇の娘で名はワ子(後白河の腹違いの妹)。母は美福門院、保元元年鳥羽上皇の遺領の大部分を伝領し、又母の遺領も伝領し、その所領(荘園)は二百四十箇所に及び、経済的にも政治的にも大きな勢力を有した。以仁王を猶子とし、挙兵を支援した。又下河辺行平は八条院領下河辺庄の庄司なので、八条院が平家追討の中核であったと思われる。一巻治承四年四月九日F

ひさつね典膳大夫久經は、典膳大夫中原久經。元暦二年二月五日に典膳大夫中原久經と近藤七國平は、頼朝の命で使節として京都へきている。四巻元暦二年(1185)三月四日

ひでかげ上総秀景は、常胤―胤正―境上総常秀―上総秀胤―秀景

ひでたね上総権介秀胤は、常胤―胤正―常秀―秀胤

ひでさと曩祖秀郷は、俵藤太藤原秀郷。寿永二年(1183)二月廿三日

ひでとお山峨兵藤次秀遠は、山鹿で福岡県遠賀郡芦屋町大字山鹿に山鹿小学校あり。四巻元暦二年(1185)三月二十四日

ひでひら藤原秀衡は、奥州平泉の藤原氏の三代目。二巻養和元年八月十三日

ひでゆきC久次郎秀行は、久喜市。二巻養和元年二月十八日

ひでよし佐々木源三秀能は、近江佐々木庄(安土町佐々木)の住人だが、平治の乱で源氏側に付いたので、領地を平家に召し上げられ、親戚の奥州藤原清衡を頼って落ち延びていく途中で、相摸国澁谷庄司重國に武勇を見込まれ引き止められて、子供四人とともに二十年居候をしていた。治承四年(1180)八月九日条。三巻元暦元年(1184)八月二

ひでよし佐汰毛四郎は、佐竹秀義常陸国(茨城県)久慈郡佐竹郷。二巻壽永元年(1182)六月五日

ひろつな廣綱は、入道源三位頼政の五男で太田氏。三巻元暦元年(1184)五月二十一

ひろつな淺沼四郎廣繩は、群馬県佐野市浅沼。四巻元暦二年(1185)正月二十六日阿曾沼四郎廣綱は、佐野市浅沼町。寿永二年(1183)二月廿三日

ひろつな佐貫四郎廣綱は、下野。栃木県塩谷郡塩谷町。第二巻養和元年七月二十一日

ひろつな駿河守同廣綱は、源氏。三巻元暦元年(1184)六月二十日。摂津源氏で入道源三位頼政の五男で太田氏。子孫に道灌。三巻元暦元年(1184)七月廿日三巻元暦元年(1184)五月二十一

ひろつな伏見冠者廣綱は、駿河国伏見郷で、現在の静岡県清水市。二巻養和二年五月十二

ひろつね上総權介廣常は、平忠常の直系。上総は親王立国なので權介でも事実上の支配者。一巻治承四年八月二十四日ひろつね故介廣常は、上総權介広常で頼朝に「京都の事なんかほっといて関東は関東で知らん顔してやっていけばいいじゃん。」と云って、平家追討を渋ったので、梶原景時が頼朝の内意を受けて、寿永二年十二月廿二日御所で双六をしながら、一手待つ待たないの喧嘩をしたふりをして暗殺した。勿論明王院脇の梶原屋敷からは戦支度を整えた軍勢が三郎滝裏の廣常屋敷を襲撃した。後でその理由を上総一宮に謀反の願文を付けて鎧を奉納したからだと決め付けたが、壽永三年(1184)正月八日

ひろつね長田兵衛尉廣經は、因幡國高庭庄で鳥取市野坂で後實經から改める。父資經は平治に頼朝を伊豆へ送った。三巻壽永三年(1184)三月十日

ひろなが中禪寺奥次郎弘長は、千葉県茂原市中善寺。

ひろのり水尾谷十郎は、水尾谷十郎廣徳で、埼玉県比企郡川島町76廣徳寺が館跡と云われ、水堀や空堀が現存。五巻文治元年(1185)十月十七日

ひろふさ廣房は、永楽の子で後に算博士と系図にあり。六巻文治二年(1186)二月二十三日

ひろみつ毛利広光は、大江広元―毛利季光―広光

ひろもと安藝介中原廣元は、大江広元。三巻元暦元年(1184)十月六

ぶつがん佛嚴上人は、慈円の著書「愚管抄」にも登場するので、比叡山延暦寺の坊さん。四巻元暦二年(1185)七月二十

べんけい弁慶は、吾妻鏡が書かれた時期には、既に義經記が出来た後なので、引用されている可能性もあるので、吾妻鏡に記述されているからといって史実としての証拠にはならない。五巻文治元年(1185)十一月三

まさかげ天野は伊豆長岡町天野。政景は遠景の孫。一巻治承四年八月二十日・同日

まさつな政綱は、文治五年(1189)二月大廿二日条に出雲目代兵衛尉政綱を源九郎義經と仲良くしたので、現職をはずすよう頼朝が要求しているので、このまま京都に残ったらしい。四巻元暦二年(1185)四月十五日

まさとし船所五郎正利は、國衙の船所の長官を代々やっているので名字になってきている。四巻元暦二年(1185)三月二十一日

まさなが藤原宰相雅長は、雅教一男。母美作守藤原顕能女。1179(治承3)年1月19日叙従三位。従二位・参議。六巻文治二年(1186)正月七日

まさみき政幹は、幹の通字から常陸大掾氏の末裔で、父の吉田成幹が鹿島郡に住し鹿島と名乗る。二巻養和元年三月十二日

まさみつ小山政光は、下野国小山荘で、現栃木県小山市。一巻治承四年十月二日

まさむら北条政村は、義時―政村(四男)

まさもり正盛は、正盛┬忠盛┬清盛┬重盛┬維盛(桓武平氏系図参照)一巻治承四年九月二十二日

まさよし下河邊四郎政義は、下河邊庄司行平の弟。三巻元暦元年(1184)四月廿三

まま(のつぼね)摩々は、早川の摩々局の名で、建久三年(1192)二月五日に92歳で出演するが、左典厩義朝の乳母と云ってる。二巻養和元年閏二月大七日。

まりこ義仲妹公〔字は菊〕は、系図に菊子とあり、「真理子」とふってあるので「鞠子」のことで(鞠の正字は革+菊)革を略している。四巻元暦二年(1185)五月一日

まれよし土佐冠者希義は、頼朝の同母弟。その墓所は、高知市介良乙に源希義神社とその近くに西養寺跡(廃寺)がある。なお、同地点を記憶して、グーの地図の検索で1km以下の地図だと神社名が出ている。二巻寿永元年九月二十五日http://www.asahi-net.or.jp/~rk7j-kndu/bijutu/bi30.html四巻元暦二年(1185)三月二十七日

まんじゅ若公は、万寿で後の頼家。二巻壽永元年(1182)十月十七

みちちか通親は、土御門(源)通親。後に頼朝の娘の入内を餌に頼朝に近づき、九条兼実を追い落とし、実権を握る、反幕派の黒幕。四巻元暦二年(1185)六月みちちか通親卿は、源通親、土御門通親で、この後兼実を追い落とし政権を握り、頼朝は娘の入内を餌に振り回され、頭へ来て京都へ大軍で上る寸前に倒れた。10巻文治6年(1190)11月24日

みちつな小野寺太郎道綱は、栃木県下都賀郡岩船町小野寺堀内に館跡あり。寿永二年(1183)二月廿三日

みちとき小野寺通時は、通綱=秀通―通時

みちもり越前三位通盛は、C盛の弟教盛の子。二巻養和元年十一廿一三巻壽永三年(1184)二月七二巻養和元年十一廿一三巻壽永三年(1184)二月七

みついえ小中太光家は、中原の小太郎。一巻治承四年(1180)六月廿四日

みつお相鹿大夫光生は、常陸国相鹿で現在の日立市相賀町。この人は七巻文治三年正月二十日の二度しか出演がない。二巻養和二年五月廿五

みつかね小諸太郎光兼は、長野県小諸市。四巻元暦二年(1185)五月三日

みつしげ伊賀光重は、朝光―光重

みつすえ豊前々司光季は、光行の父、その父は季遠で同様に平家に仕えていた。満政流清和源氏。源義家源義忠源忠宗−源季遠−源光季−源光行−源親行 (奥富敬之氏説)ウィキペディアから三巻元暦元年(1184)四月廿二

みなもとみつすけ光輔は、河内国司で宇多源氏。10巻文治6年(1190)8月3日

みつたか藤新大夫光高は、大野郷で香川県高松市香川町大野。高松駅と高松空港の真ん中。三巻元暦元年(1184)九月十九

みつつな阿曽沼光綱は、広綱親綱光綱(藤性足利氏)

みつとき土屋光時は、中村宗平土屋宗遠宗光光時

みつともかゝみ太郎殿は、秋山太郎光友。四巻元暦二年(1185)正月六日光朝は、加々美遠光の子。一巻治承四年十月十九日四巻元暦二年(1185)正月六日

みつとも太神宮權祢%x會光倫「号相鹿二郎大夫」は、後に弟が生倫(なりとも)の名で出てくる。度会氏にして会賀四郎太夫とも云う。二巻養和元年十廿

みつなか多田新發滿中は、清和源氏の祖。満仲┴頼信─頼良─義家─義親┬義信(河内源氏)─延朗六巻文治二年(1186)三月二十六日

みつなが逸見冠者光長は、河内源氏の一族。祖新羅三郎義光ー義清ー清光ー光長。兄弟に加賀美遠光・武田信義・安田義定・浅利義成がいる。

みつふさ伊賀光房は、朝光光資光房

みつまさ藤原光雅は、後に義経の爲に「頼朝追討の宣旨」を書いて頼朝に下官させられる。三巻壽永三年(1184)三月九日葉室。

みつまさ伊賀光政は、朝光―光宗―宗義―光政

みつむら三浦光村は、義明―義澄―義村―光村

みつもり井上太郎光盛は、頼季流清和源氏で、信濃国高井郡井上庄発祥の清和源氏井上氏。http://www.harimaya.com/o_kamon1/seisi/11_20/inoue.html三巻元暦元年(1184)七月十日

みつもり光盛は、頼盛の子。三巻元暦元年(1184)六月二十日みつもり光盛は、頼盛の子。五巻文治元年(1185)十月二十四

みつゆき源 光行(1163年-1244年3月27日)は、鎌倉時代初期の政治家・文学者・歌人である。満政流清和源氏説(正木喜三郎氏)と、一方(奥富敬之氏説)では源義家源義忠源忠宗−源季遠−源光季−源光行−源親行としている。ウィキペディアから三巻元暦元年(1184)四月廿二

むねいえ鮫島四郎宗家は、駿河國鮫島郷、現在の富士市鮫島。一巻治承四年八月二十日・一巻治承四年十月廿日

むねいえ澤六郎宗家は伊豆田方郡佐婆郷、現在の三島市大場。一巻治承四年八月二十日

むねきよ弥平左衛門尉宗Cは、平治の乱で義朝とはぐれてしまった頼朝を捕らえたが、池禪尼に命乞いをした。三巻元暦元年(1184)六月一

むねちか牧三郎宗親は、駿河大岡牧・駿東郡大岡村。二巻壽永元年(1182)十月十

むねつな八田宗綱は、常陸国八田荘で、現筑西市八田(旧下館市八田)一巻治承四年十月二日

むねとお土屋三郎宗遠は、中村宗平の子で平塚市土屋。一巻治承四年九月二十日

むねとき北條三郎宗時は、時政の子、義時・政子の兄。二巻養和元年一月六日

むねのり棟範は、平。9巻文治5年(1189)12月26日

むねふさ:宗三郎宗房は、原郷で神奈川県足柄下郡湯河原町吉原字原。五巻文治元年(1185)十月二十九

むねまさ小山五郎宗政は、政光の五男、後に長沼(栃木県芳賀郡二宮町大字長沼)となる。寿永二年(1183)二月廿日小山朝政の弟。三巻元暦元年(1184)八月八

むねもち狩野介は、狩野宗茂で茂光の子。伊豆国の介。静岡県伊豆の国市狩野川あたり。三巻壽永三年(1184)三月廿八日

むねもり平内府は、宗盛。三巻元暦元年(1184)十二月廿五

むねやす淡路宗泰は、小山政光長沼宗政時宗宗泰

もちみつ工藤介茂光は大島へ流された鎮西八郎為朝にさんざん悩ませられる。この介は伊豆の国全体を把握する介で大島などの諸島も含んでいると思われる。一巻治承四年八月二十日

もちひとおう以仁王は、後白河天皇の子でありながら、兄は二条天皇に弟は高倉天皇になったにも関わらず、平家の縁に繋がらなかったので、親王宣下すら受けていない。しかし、平家の横暴に憤り、平家討伐の令旨を発する。1巻治承4年4月9日C

もちひろ右馬助以廣は、橘氏。四巻元暦二年(1185)正月一日

もときよ後藤新兵衛尉基Cは、父が前右兵衛佐頼朝の姉を義朝から預かり、面倒を見た。三巻元暦元年(1184)六月一基Cは、後藤基C。次の出演の五月十七日には新兵衛尉で出演。四巻元暦二年(1185)四月十五日次の出演の五月十七日には新兵衛尉で出演。四巻元暦二年(1185)四月十五日

もとざね六條攝政は、基実。一巻序文

もとたか後藤基隆は、基清―基綱―基隆

もとみち基通公は、近衛。一巻序文。このえもとみち近衛基道は、殿下渡領を渡さずに済んだので、経済的実力が残ったので、九条兼実は経済基盤が弱くて後に失脚していく。五巻文治元年(1185)十二月六日

もとつな佐野太郎基綱は、下野佐野荘で現佐野市。寿永二年(1183)二月廿三日

もとなり民部少輔基成は、泰衡の母方の祖父。性はどちらも藤原。九巻文治五年(1189)閏四月三十日

もりいえ内藤六は、盛家で藤性足利氏。四巻元暦二年(1185)正月六日

もりかげ藤澤余一盛景は、諏訪神党の一族。六巻文治二年(1186)十一月八日

もりくににゅうどう盛國入道は、平。四巻元暦二年(1185)五月十六

もりさだ若宮〔今上が兄〕は、今上後鳥羽天皇の兄で守貞親王。承久の乱後に鎌倉幕府のおかげで子供が後嵯峨天皇になり、天皇無経験で後高倉院になり院政を行う。四巻元暦二年(1185)三月二十四日、四月十一日

もりすえ糟屋庄司盛季は糟谷藤太有季の父で相模糟屋荘(伊勢原市上粕屋)。10巻文治6年(1190)8月3日

もりすけ橘大夫盛資は、鵜足郷で現在の香川県綾歌郡綾川町で元の綾上町。三巻元暦元年(1184)九月十九

もりすけ三野首領盛資の首領は、三野郡の郡司。三巻元暦元年(1184)九月十九

もりずみ盛澄は、諏方大夫盛澄。八巻文治四年(1188)二月二十八日

もりつな高橋判官盛綱大宅性。一巻治承四年十月十九日高橋は、侍大将。二巻養和元年三月十日

もりとき盛時は、平重盛の次男の御落胤で、後の霜月騒動の平頼綱の祖先。六巻文治二年(1186)八月五日

もりとき内藤盛時は、盛家―盛時

もりとし越中前司盛俊は、C盛が死んだ家の持ち主側近盛国の子。三巻壽永三年(1184)二月七

もりなが盛長は、藤原山陰の子孫とされ、小野田兼広の子。後に福島県安達郡を領して安達と名乗る。この時、藤九郎盛長夫婦は、比企尼の命により、頼朝の身の回りの世話をしていた。一巻治承四年七月十日

もりとし越中前司盛俊は、C盛が死んだ家の持ち主側近盛国の子。三巻壽永三年(1184)二月七

もりなが盛長は、藤原山陰の子孫とされ、小野田兼広の子。後に福島県安達郡を領して安達と名乗る。この時、藤九郎盛長夫婦は、比企尼の命により、頼朝の身の回りの世話をしていた。入道して蓮西。一巻治承四年(1180)六月廿四日、一巻治承四年七月十日一巻治承四年八月二十日、

もりひさ左兵衛盛久は、平家滅んだ後、捕虜となり鎌倉へ連れてこられて長谷小路で斬首にされそうになるが、観音様のお陰で助かる。その石碑が長谷1丁目7番2号にあり。二巻養和元年三月十日

もりひら中村次郎盛平は、中村太郎景平の弟。

もりや守屋は、物部守屋。生年不詳 - 用明天皇2年(587年)7月)四巻元暦二年(1185)六月二十一日

もろいえ師家公は、松殿。一巻序文

もろかず師員は、中原師員(1185-1251)。1218に助教。中原親能・大江広元の従兄弟。後評定衆となり、大夫外記となり、摂津守明経博士となる。法名は行厳。脱漏元仁二年(1225)二月二十四日

もろなか師仲卿は、源師仲で平治の乱の首謀者の一人だが、敗色濃くなると三種の神器を持って投降したが、許されず下野国へ配流になった。四巻元暦二年(1185)三月二十四日

もろなが師長は、保元の乱の首謀者で流れ矢に当たって死んだ頼長の子。雅楽の名人。近衛基通と対立しC盛に流罪にされた。四巻元暦二年(1185)六月二十一日

もろもり備中守師盛は、十四歳で討ち死に最年少。三巻壽永三年(1184)二月七

やすあり太田康有は、三善康信―太田康連―康有

やすいえ康家は、善と康から三善一族らしいが系図が不明。

やすいえ右少將保家は、母が池中納言頼盛の女、妻は公經の女。10巻文治6年(1190)12月3日

やすうじ足利泰氏は、義兼―義氏―泰氏

やすきよ三善康Cは、隼人助の官職を持っているが位階はない。一巻治承四年六月十九日

やすさだ康貞は、藤原。この時代名字が書いていなけりゃ藤原氏。後には北條氏に表記が変わっていく。10巻文治6年(1190)8月28日

やすしげ河越泰重は、重隆能隆重頼重時泰重

やすすけ大屋中三郎安資は、尾張大宅郷で現在の名古屋市中区古渡町。二巻養和元年三月十九日

やすたね千葉泰胤は、常胤―胤正―成胤―泰胤

やすつな岡邊權守泰綱は、駿河国志太郡。静岡県志太郡岡部町岡部。五巻文治元年(1185)十一月十二

やすつな佐々木泰綱は、定綱―信綱―泰綱

やすつね泰經朝臣は、高階泰經。一番の判官贔屓。頼朝追悼の宣旨を出した人。三巻元暦元年(1184)五月二十一

やすなり保業は、頼盛の孫。三巻元暦元年(1184)六月二十日

やすのぶ康信は、三善康信。母の姉が頼朝の乳母で、流人時代に月に三度京都の情勢を手紙で伝えていた。治承四年(1180)六月小十九日条三巻元暦元年(1184)八月二十四

やすのぶ佐々木泰信は、義清泰清頼清泰信カ?

やすひで長井泰秀は、大江広元―長井時広―泰秀

やすひで千葉泰秀は、常胤―胤正―常秀―秀胤―泰秀

やすみち宰相中將泰通は、白河。四巻元暦二年(1185)四月二十四日

やすみち宰相中將泰通は、白河。四巻元暦二年(1185)四月二十四日

やすむら三浦泰村は、義明―義澄―義村―泰村

やすもち町野康持は、三善康信―町野康俊―康持

やすもり池大納言頼盛同息男は、保盛。三巻元暦元年(1184)五月二十一

やすもり康盛は、伊豆右衛門尉源有綱(頼政孫)の家来で、十一月十四日捕まった。11巻建久2年(1191)12月6日まで整理済

やすよし康義は、善と康から三善一族らしいが系図が不明。

ゆきあき二階堂行章、行政―行村―行―行章

ゆきあり二階堂行有は、行政―行村―行義―行有

ゆきいえ行家は八条院蔵人になったと言うことは、二百四十箇所に及ぶ八条院領の庄司に寝泊まりが出来、食料の世話にもなれ、場合によっては兵糧も調達できる。1巻治承4年4月9日G参考行家は、頼朝の父義朝の弟。爲義の末子。十郎蔵人行家。

ゆきうじ海野は、海野小太郎幸氏。滋野性、幸氏は幸広の子。後に弓道の名手となる。盛衰記に宇野行氏とでるのはこの人と同一人。長野県東御市本海野(とうみしもとうんの)元小県郡東部町本海野。三巻元暦元年(1184)四月廿一

ゆきお常陸行雄は、、行政―行光―行盛―行―行雄

ゆきかた二階堂行方は、行政―行村―行

ゆきただ二階堂行忠は、行政―行光―行盛―行

ゆきちか鬼窪小四郎行親は、武蔵七党の野与党。埼玉県南埼玉郡白岡町小久喜中村933鬼窪八幡神社。四巻元暦二年(1185)三月十四日

ゆきちか根井行親は、平安時代末期の武将。滋野氏の流れを汲む信濃の豪族。木曽義仲の最有力家臣にして、義仲四天王の一人。ウィキペディアより。三巻壽永三年(1184)正月廿六日

ゆきつな多田藏人大夫行綱は、摂津多田源氏で満仲より数えて八代目嫡流。摂津国川辺郡多田(兵庫県川西市多田)で鹿ケ谷事件で裏切って平C盛に告げた人。五巻文治元年(1185)十一月五

ゆきつな二階堂行綱は、行政―行光―行盛―行

ゆきつな上條行綱は、宇都宮四郎行綱で出演31巻12370623ネット系図にはいない

ゆきとも大田小權守行朝は、上野太田荘で現太田市。寿永二年(1183)二月廿三日

ゆきひら下河邊庄司行平は、当時一番の弓の名人。茨城県猿島郡五霞町元栗橋に下河邊庄司行平の栗橋城址があると埼玉テレビで云ってる。1巻治承4年5月10日@.二巻養和元年四月七日・寿永二年(1183)二月廿三日

ゆきひら葛濱四郎行平は、葛浜郷で加須市。二巻養和元年二月十八日

ゆきふみ田河太郎行文は、山形県鶴岡市田川。九巻文治五年(1189)八月七日

ゆきまさ主計允行政は、主計允藤原行政で後に永福寺がそばに出来て、二階堂と称する。公文所所司。四巻元暦二年(1185)四月十三日

ゆきみつ掃部允藤原行光村=二階堂行光。主計允藤原行政の子。14巻建久5年3月9日

ゆきむね夜須七郎行宗は、夜須郷で現在の高知県香美郡夜須町、行宗の娘が希義の嫁でる。二巻壽永元年(1182)九月廿五

ゆきむら山城三郎行村=二階堂行村16巻正治2年9月25日

ゆきもり行盛は重盛の弟基盛の子。二巻養和元年十一廿一

ゆきもり行盛は、二階堂行盛。後出家して行然。24巻承久2年12月4日

ゆきやす武藏國住人藤田三郎行康は、武蔵藤田庄で本荘市藤田。三巻壽永三年(1184)三月五日

ゆきやす二階堂行泰は、行政―行光―行盛―行

ゆきよし二階堂行義は、行政―行村―行義

よしあき故義明舊跡は、横須賀市矢部の衣笠城と二の丸の三浦次郎義澄の屋敷と思われる。二巻養和元年六月十九日。三浦介義明のこの言葉は、あらゆる歴史書の鎌倉時代の本に必ず乗る当時の關東武士の説明に使われる。一巻治承四年八月二十六日。三浦介義明の討ち取られたと伝説される場所が大矢部5丁目18の腹切松公園という。大介は老馬でここまで落ちて来た処、ここで馬が動かなくなったので、先祖の墓のある円通寺の見えるここを死場所と悟り切腹して果てた。馬は一声いななき、北側の崖の上まで駆け上がり、そこで自ら舌を噛み切って自害したと云う。一巻治承四年八月二十七日

よしあき義顯は、義経のことで追捕されるべき罪人が公家と同じ名はけしからんと朝廷が勝手に名を「義行」と変えるが、行だと見つからないので顯にした。九巻文治五年(1189)四月十九日

よしいえ故陸奥守は、陸奥守源朝臣義家(八幡太郎)一巻治承四年九月三十日八幡太郎は、源頼義の長男で源氏の正嫡として石清水八幡宮で元服したので、八幡太郎と呼ばれた義家のことである。因みに次男は加茂神社で加茂次郎義綱、三男は新羅神社なので新羅三郎義光である。一巻治承四年七月五日

よしかげ長江太郎義景は、鎌倉党だが三浦介義明の娘婿として三浦郡葉山町長柄領主。同殿谷に墓有り。二巻養和二年二月八

よしかげ安達義景は、盛長―景盛―義景

よしかず能員は、比企。九巻文治五年(1189)七月十八日

よしかた義賢は、頼朝の父義朝の弟。一巻治承四年九月七日

よしかど義廉は、後にお先にもこの一度しか出番が無いので誰だか分からない。四巻元暦二年(1185)四月十五日

よしかね義兼は、足利義兼10巻文治6年(1190)8月3日

よしきよ佐々木五郎義Cは、石橋山で敵対したため、暫く出演がないが、後年になって活躍する。一巻治承四年八月二十六日・佐々木源三秀義が澁谷庄司重國の娘に産ませた五男。一巻治承四年十二月廿六日

よしきよ土屋次郎義Cは、岡崎四郎義實の実子で土屋へ養子に行ってる。二巻養和元年三月一日

よしくに子息能國(藤田)は、後に承久の乱で後鳥羽上皇からの手紙を読めたので学者と言われ名字も学者となる。三巻壽永三年(1184)三月五日

よしさだ:義定は、安田三郎で遠江守護。二巻養和二年五月十六日。義定は、甲斐源氏武田党。武田義清の四男なれど兄逸見清光の養子となり甲斐国山梨郡安田を本拠とする。一巻治承四年八月二十五日二巻養和元年二月廿七日・遠江守護。二巻養和二年五月十六日・二巻養和二年五月十六日・寿永二年(1183)二月二十七日

よしざね岡崎四郎義實は、三浦義明の弟で中村次郎盛平の婿となり平塚市岡崎領主。一巻治承四年八月二十日

よししげ新田義重は、石橋山合戦の報告を家来たちは殆ど死に頼朝は何処かへ逃げていると平家に報告している事が山塊記に書き写されている。巻壽永元年(1182)七月十四

よしすえ佐竹藏人義季は、隆義の弟で五郎。頼朝の門客に列っせられるが、奇怪な行動により文治三年三月二十一日駿河へ配流。一巻治承四年十一月五日

よしすけ石河義資は、河内國石川庄、現大阪府南河内郡河南町一須賀に石川小学校あり。八幡太郎義家五男の義時の子。治承五年(一一八一)二月小九日条によると兄と共にC盛に呼ばれ、京都の手前で野宿していた所をC盛の軍隊に襲われ、兄は戦死、弟は捕らえられ、兄の首を膝に乗せて市中引き回しを受け、拘留され、二年後に義仲に救われた。しかし、義仲から關東勢との戦闘に軍勢催促を受けたが従わなかったので義仲軍に攻められ、關東へ逃げてきた。三巻元暦元年(1184)六月四

よしずみ義澄は、為通ー為継ー義継ー義明ー義澄と続く、義明長男の杉本太郎義宗は母の出自が悪いので分家したようです。一巻治承四年六月二十七日義澄は大介義明の次男ながら総領で衣笠が本領。一巻治承四年八月二十二日

よしたか陸奥六郎義隆は、八幡太郎義家の末っ子。一巻治承四年九月十七日

よしただ余一義忠は名字を佐那田と云い平塚市真田に独立。一巻治承四年八月二十日佐那田は平塚市真田で岡崎四郎義實の子。余一は与一とも書き十に余る一なので十一男をさす。与太郎とは云わない。一巻治承四年八月二十三日

よしただ能忠は、本間右馬允義忠。文治五年(1189)七月小十九日条奥州合戰に本間右馬允義忠と出る。この人かその子孫が北条時房の代官になり佐渡へ行き、その子孫が江戸時代に庄内酒田で商人として成功し、「本間様には及びもせぬがせめてなりたや殿様に」の山形県酒田市二番町12−13の豪商本間家である。神奈川県厚木市上依知下依知出身。四巻元暦二年(1185)四月十五日

よしちか義親は、義親為義義朝頼朝(清和源氏系図参照)一巻治承四年九月二十二日

よしちか義親は義家の嫡男で対馬守の時、勝手に九州を平定してしかも、朝廷等への租税を略奪したので、朝廷から追討の宣旨を発出され平正盛に追討された。これにより父の義家も立場が悪くなり源氏の衰退、平家の隆盛が始まった。

よしつね右大將良經は、九条兼実の息子。四巻元暦二年(1185)五月六日

よしつね義常は、藤原秀郷流で、義通の子。波多野庄は神奈川県秦野市一帯。一族に河村(山北町)松田(松田町)大友(小田原市)などが出ている。一巻治承四年七月十日義常の子息は、波多野右馬允義常で大庭平太景義の妹を娶り生まれた子供。後の松田有常。一巻治承四年十一月廿日

よしつね伊賀守義經は、頼朝の祖父爲義の弟で大叔父にあたる。壽永三年(1184)正月廿日

よしつね山本義經は、近江国東浅井郡田中村に山本山の古城あり。新羅三郎義光ー義業ー義定ー義經。又、比叡山の下(本)なので山本。一巻治承四年十二月一日兵衛尉義經は、山本義経を。二巻養和元年二月十二日

よしつら三浦十郎義連は、三浦一族。三浦介義明の九男。後に佐原をもらい、佐原氏を名乗るが本家が北条氏に敗滅すると三浦介を受け、戦国初期の導寸まで続く。二巻養和元年四月七日

よしとお櫻庭介良遠は、堀田璋左右先生は盛衰記に桜間と書くので、阿波国名西郡桜間だと書いておられる.四巻元暦二年(1185)二月十八日

よしとき江間四郎は、北條四郎義時でこの頃は伊豆の江間郷を貰って独立している。但し、彼の武勇伝は何処にも出てこない。また、○○をして感状をもらった人の名簿などに最初に書かれているので、吾妻鏡編纂時に書き加えられた可能性がある。二巻養和元年四月七日、北條小四郎義時のことだが、ここで一番に出てくるのは怪しく、いかにも北條家の子孫が書き加えたのがバレバレである。三巻元暦元年(1184)八月八

よしなお村山七郎義直は、信濃国村山庄で現長野市村山。一巻治承四年九月七日・二巻養和元年五月十六日

よしなお能直は、大友氏で小田原市大友。九巻文治五年(1189)八月九日参考能直は、波多野の分家で大友(現小田原市東西大友)。10巻文治6年(1190)4月9日

よしなか木曾冠者義仲は、この時点では木曾冠者義仲は信州にいるので、東山道で北陸道には出ていない。実は、平家は越前敦賀城を襲っているが三ヶ月かかっても落城させられなかったので、京都へ帰る。内容のまま読むと史実と合わない。二巻壽永元年(1182)九月十五義仲は義賢の二男也は、長男の兄は頼政の宇治合戦で死んでいる。一巻治承四年九月七日

よしなが河内五郎義長は、石河源氏。四巻元暦二年(1185)五月二十三

よしなが富山二郎大夫義良は、宮崎県日向市富高山口らしい。四巻元暦二年(1185)七月二十二

よしなり大多和次郎義成は、三浦介義澄の弟大多和三郎義久の子で、横須賀市太田和。三巻元暦元年(1184)八月八四巻元暦二年(1185)三月九日

よしなり古沢能成は、古庄近藤太で息子は大友宗麟の先祖となる大友能成。二巻養和二年五月廿五

よしなり里見冠者義成は、群馬県群馬郡榛名町中里見小字堀内、旧碓井郡里見村中里見。一巻治承四年十二月廿二日

よしなり良成は、一条良成。五巻文治元年(1185)十一月三日。侍從良成は、常盤御前の再婚相手。五巻文治元年(1185)十二月六日

よしのぶは間違いで、法名なので「ぜんしん」大夫属入道は、三善善信。二巻養和元年三月七日三巻元暦元年(1184)八月二十八

よしのぶ義信は、大内武藏守義信。三巻元暦元年(1184)五月二十一、河内源氏で爲義の兄。三巻元暦元年(1184)八月十七三巻元暦元年(1184)六月二十日三巻元暦元年(1184)七月廿日

よしのり山名伊豆守義範。新田義重の私生児で高崎市山名町。四巻文治元年(1185)八月廿九日

よしひさ太多和三郎義久は、三浦介義明の三男。横須賀市太田和。二巻壽永元年(1182)十月十

よしひら惡源太は、頼朝の兄長男の鎌倉悪源太義平。秩父に婿入りして武蔵から相摸への進出を図っていた叔父で木曾冠者義仲の父の帶刀先生義賢を義平は三浦一族とともに夜襲して殺しているので、叔父殺しの悪の文字が付き源氏の太郎なので源太。二巻壽永元年(1182)七月十四但し、悪の文字は悪いと言う意味ではなく、人のやらないことをする人、慣習を破る人、「すごい人」の意味が強い。侮蔑と羨望とが混ざった眼で見られた。

よしひで河村三郎義秀は、足柄上郡山北町山北駅南側に城跡有り。一巻治承四年八月二十三日

よしひろ志太三郎先生義廣と十郎藏人行家は共に義朝の弟で頼朝の叔父に当たる。常陸信太荘で現在の茨城県稲敷郡美浦村大字信太あたり。一巻治承四年十一月七日・寿永二年(1183)二月廿日

よしひろ錦織義廣=檢非違使右衛門權少尉源朝臣義廣は、頼朝からは「はとこ」になる。壽永三年(1184)正月廿日

よしふさ足利判官代義房は、源性足利氏で矢田流(丹波國矢田庄)父は義清で後に木曽義仲の水軍を率いる一巻治承四年五月二十六日

よしみつ義光義業義定義經で曾孫。吾妻の間違いか、それとも数え年的計算か。一巻治承四年十二月十日

よしもち和田次郎義茂は、三浦一族。和田義盛の弟で、後に越後国奥山荘(新潟県北蒲原郡)をもらい高井と名乗り、その子孫が紫雲寺町・中条町・黒川村の三家に分家する。二巻養和元年四月七日

よしもと義基は、為義の弟の義經の子で河内源氏の祖となる。河南町大毛塚、治承四年十一月に清盛に呼ばれ、京都市伏見区鳥羽が原で野宿中に清盛に滅ぼされた。二巻養和元年二月九日

よしもと豊田は、豊田義幹で常陸・現茨城県常総市豊田(旧結城郡石下町豊田)。文治五年(1189)七月小十九日条奥州合戰に豐田兵衛尉義幹と出る。常陸大掾氏で子孫に芦沢氏。四巻元暦二年(1185)四月十五日

よしもと丹波良基(薬院頭)やくいんのかみ31巻嘉禎2年12月26日

よしもり和田小太郎義盛は、義明長男杉本太郎義宗の長男で三浦氏初声和田。一巻治承四年八月二十二日。侍所別当だから。四巻元暦二年(1185)五月八日

よしもり陸奥十郎義盛は、通称は新宮十郎で行家に改名。熊野神社は本宮が平家方で、新宮が源氏方。一巻治承四年四月九日E

よしもり能盛は、肥後守盛景の子。六巻文治二年(1186)七月八日

よしもりほうし能盛法師は、藤原氏で預所。本所は院。10巻文治6年(1190)3月9日

よしやす讃岐守藤能保は、一条能保。三巻元暦元年(1184)六月二十日。左典厩〔能保〕は、一条能保、頼朝の姉婿。四巻元暦二年(1185)五月十一平家全盛時代に頼朝の姉を嫁にした。馬の名人で目利きでもある。四巻元暦二年(1185)五月十七

よしゆき筑井次郎義行は横須賀市津久井。一巻治承四年八月二十二日

よしもと豊田は、豊田義幹で常陸・現茨城県常総市豊田(旧結城郡石下町豊田)。文治五年(1189)七月小十九日条奥州合戰に豐田兵衛尉義幹と出る。常陸大掾氏で子孫に芦沢氏。四巻元暦二年(1185)四月十五日

よりかね加賀冠者は、頼兼で、大和源氏、荒加賀頼房の末裔で、判官代頼安の男。源平盛衰記には、因幡国住人弥太郎盛兼が宇治合戦の際に頼政と仲綱の首を隠したと書かれている。二巻養和元年十一十一

よりかね頼兼は、入道源三位頼政の子で大内裏警固役をしたので大内と名乗る。四巻元暦二年(1185)五月二十七六巻文治三年三月八日に後白河に丹波の五個荘を取られそうになった。後の建久三年にも大内裏守護で出演。八巻文治四年(1188)六月四日

よりたか陸奥冠者は、治承四年(一一八〇)九月十七日千葉介常胤が預かっていた陸奥六郎義隆の子毛利冠者頼隆を紹介している。二巻養和元年六月十九日毛利冠者頼隆みなもとよりたか源頼隆生年不詳 - 1247年7月8日(宝治元年6月5日))は、平安末期〜鎌倉中期の武将。河内源氏の三代目棟梁八幡太郎義家の七男 陸奥七郎義隆の子。毛利三郎、毛利冠者と称する。信濃国水内郡若槻庄を領してからは若槻を号する。官位は伊豆守従五位下。鎌倉幕府の御家人として、承久の乱における鵜沼の渡の大将を務める。出家後の名乗りは森蔵人入道西阿。二代執権 北条義時にも信頼され、天下の大事に参与した。宝治合戦における北条氏と三浦氏の争いでは、縁戚である三浦方に与し、北条方をして「大剛の者」として恐れられたが武運及ばず子4人とともに自害した。法名は蓮長(出典、尊卑分脉)子に若槻頼胤、森頼定がいる。ウィキペディアより

よりつぐ金田小大夫頼次は、上総国長柄郡金田郷現木更津市金田。後広常が景時に讒死され、蟄居中に病死する。一巻治承四年八月二十四日

よりつね頼經は、藤原氏難波頼経。頼経の父難波頼輔は本朝における蹴鞠一道の長とも称された蹴鞠の名手であったが、孫の飛鳥井雅経も蹴鞠に秀で、飛鳥井流の祖となった。ウィキペディアから五巻文治元年十一月十日

よりつねきょうおやこ頼經卿父子は、藤原頼經と宗長で2月22日条に解雇要求をしている。朝方卿父子も同様。九巻文治五年(1189)四月十九日

よりとき那古谷橘次頼時は三島市那古谷で文覚上人が配流された所。一巻治承四年八月二十日

よりとも頼朝は、久安三年(1147)誕生。江戸時代の書物には、四月八日と書かれている。釈迦と一緒にするか?一巻序文頼朝の母の名を熱田神宮側では「由良」由良の方とか由良姫とか言っている。一巻序文めのと乳母は、頼朝の乳母は、他に比企尼、早川の摩阿局、山内の尼などが知られている。一巻治承四年六月十九日源頼―の書き方は、朝の文字は朝廷に通じるので、遠慮をして縦線を引き文字を書かない。一巻治承四年十月十六日

よりなお小笠原平五頼直は、長野県中野市笠原。一巻治承四年九月七日

よりまさ頼政は、頼朝から父、義朝→為義→義親→義家→頼義→頼信まで、遡って頼信の兄で酒天童子征伐の頼光の子孫です。伊豆守をしていた関係で、頼朝は伊豆へ配流になったのかも知れない。一巻治承四年四月九日@

よりもり頼盛は、清盛の腹違いの弟で、母は頼朝の命乞いをした池禅尼。彼は、この関係からC盛死後は一族から疎まれ、平家の都落ちの時同道しなかったので、母の恩も有り、頼朝に大事にされた。一巻治承四年五月十六日

よりよし頼義ー義家ー義親ー爲義ー義朝ー頼朝。一巻治承四年十月十二日

りゅうべん隆辨は、藤原隆房(四条隆房・冷泉隆房)の息子。母は葉室光雅の娘。

りょうせん專光房は、專光坊良暹で、伊豆山走湯權現に仕える。旗揚げ時には政子を預かったり、鎌倉へ届けたりした。四巻文治元年(1185)八月二十日

ろくだい惟盛卿の嫡男〔字を六代〕は、政盛─忠盛─C盛─重盛─惟盛─六代御前。平家の嫡流の六代目。五巻文治元年(1185)十二月十七

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