吾妻鏡入門人名事典名字の部  

あいうえお かきくけこ さしすせそ たちつてと なにぬねの はひふへほ まみむめも やゆよわりるれろわん

さいいんじかん齋院次官は、中原親能。4巻元暦二年(1185)二月十六日

さいぎょう(西行)老僧一人鳥居邊に徘徊すとあるが、この日が放生会であることを知っており、頼朝に会うために計画的行動である。頼朝との面会の意図は、東大寺勧進物の安全な輸送を取り付けるためだと思われる。6巻文治二年(1186)八月十五日

 (西行)景季を以てと云ってるのは、梶原平三景時共々徳大寺の被官をやっていた。西行も同じなので、知り合いらしい。6巻文治二年(1186)八月十五日

 (西行)歌道については、西行の母が源頼経の女である。源頼経は、歌と蹴鞠の名人なので、母方から芸術面の血をついだ。6巻文治二年(1186)八月十五日

 (西行)弓馬は、父方から血を受けた。6巻文治二年(1186)八月十五日

 (西行)遁世之時は、出家をして通俗の世界を捨てた。出家の理由として「西行物語」では、厭世感とし、「源平盛衰記」では失恋とし、「沙石集」では、和歌のためとしている。6巻文治二年(1186)八月十五日

 (西行)嫡家相承の兵法は、代々伝わっていた兵法書、秀郷流武芸故実が伝わっていたようだ。6巻文治二年(1186)八月十五日

(西行)具に以て之を申すは、実は皆頭に入っていた。6巻文治二年(1186)八月十五日

 (西行)嬰兒に与うは、西行の遁世感(無欲)を伝えるための逸話かも知れない。ちなみに同一ではないかもしれないが文治五年(1189)八月廿二日奥州征伐で平泉の倉庫の中に他の財宝とともに「銀造の猫」が出てくる。6巻文治二年(1186)八月十六日

さいしょうちゅうじょうやすみち宰相中將泰通は、白河。4巻元暦二年(1185)四月24日

さいとうのべっとうさねもり齋藤別當實盛は、以前廷尉爲義の郎等だが、義朝よりも義賢に従っていた。頼朝の兄の悪源太義平が秩父の義賢を襲ったときにその子木曾冠者義仲を助けた。この後平家に従い、倶利伽羅峠での討ち死にシーンを平家物語巻七の實盛最後で熱く語っている。長井齊藤別當實盛は、埼玉県妻沼町。9巻文治五年(1189)八月九日

さかいのへいじつねひで境平次常秀は、常胤の長男胤正の次男で千葉県山武郡芝山町境。3巻元暦元年(1184)八月八

さがに寒河尼は、小山政光の後妻で政光の死後は小山荘を伊勢神宮へ切り替え寒河御厨とする。1巻治承四年十月二日

さがみのかみ相摸守は、大内惟義。9巻文治五年(1189)五月十九日

さがらさぶろう相良三郎は、旧遠江国榛原郡相良町。静岡県牧之原市相良に相良庁舎あり。2巻養和元年三月十三日

さきのおおくらきょう前大藏卿は、大藏卿高階泰經。6巻文治二年(1186)三月29日

さきのこうづけのすけのりのぶ前上野介範信は、熱田大宮司藤原秀範の子。頼朝の母の兄弟、すなわち叔父に当たる。5巻文治元年(1185)十月大24日

さきのさいいん前齋院は、礼子内親王。6巻文治二年(1186)三月十二日

さきのじぶのきょう前治部卿は、藤原光隆。6巻文治二年(1186)三月十二日

さきのしょうしょうときいえ:前少將時家は、「平家にあらずんば」時忠の先妻の子で後妻に嫌われ上総へ流罪になっていたのが、上総權介廣常の推挙で右筆になっている。2巻養和二年五月十六日・3巻元暦元年(1184)六月一

さきのせっしょうどの前攝政殿は、近衛基通(1160-1223)。6巻文治二年(1186)四月廿日

さきのちゅうじょうときざね前中將時實は、平時忠(平家にあらずんばの人)の長男。後に鎌倉幕府に仕える。6巻文治二年(1186)二月七日

さきのつしまのかみちかみつ前對馬守親光は、宗親光(そうちかみつ)。惟宗(これむね)から宗。6巻文治二年(1186)二月二日。宗一族は親光の三代前から明治維新まで対馬(下国)の国司をした。6巻文治二年(1186)五月二日

さきのでわのかみのぶかね前出羽守信兼は、山木判官兼隆の父。3巻元暦元年(1184)八月二

さきのないふ前内府は、平宗盛。3巻元暦元年(1184)七月三日

さきのほりかわげんだいなごんけ前堀河源大納言家は、定房。村上源氏で中納言雅兼の男。二年後没。6巻文治二年(1186)三月十二日

さきのりっしちゅうかい前律師忠快は、小河律師忠快、平教盛の子、丹波小河庄(現亀岡市小川)。4巻元暦二年(1185)七月26日

さくらばのすけよしとお櫻庭介良遠は、堀田璋左右先生は盛衰記に桜間と書くので、阿波国名西郡桜間だと書いておられる.4巻元暦二年(1185)二月十八日

さこんしょうげんいえかげ左近將監家景は、伊沢家景で、後に留守家景と名乗り、東北の大代名になる留守氏の祖。10巻文治6年(1190)3月15日

ささきつねたか經高は、佐々木次郎經高。在國御家人。10巻文治6年(1190)6月23日

ささきげんざひでよし佐々木源三秀能は、近江佐々木庄(安土町佐々木)の住人だが、平治の乱で源氏側に付いたので、領地を平家に召し上げられ、親戚の奥州藤原清衡を頼って落ち延びていく途中で、相摸国澁谷庄司重國に武勇を見込まれ引き止められて、子供四人とともに二十年居候をしていた。治承四年(1180)八月九日条。3巻元暦元年(1184)八月二

ささきごろうよしきよ五郎義Cは、その佐々木源三秀義が澁谷庄司重國の娘との間に出来た子。3巻元暦元年(1184)八月二

ささきさだつな宇都宮に在りは、宇都宮氏の婿となっている。当時は妻問婚の時代と思われる。1巻治承四年八月十日佐々木太郎定綱で秀義の子。

ささきさぶろうもりつな佐々木三郎盛綱は、越後守護。9巻文治5年12月23日

ささきしろう佐々木四郎左衛門尉は、高綱。佐々木四郎高綱が周防の国から大仏殿建立の材木の世話をしているので、周防の守護だったことが推定できる。9巻文治五年(1189)六月四日

ささきとしつな佐々木俊綱は、阿部氏本佐々木、三郎成綱の子。3巻壽永三年(1184)二月27日

ささきなりつな佐々木三郎成綱は、阿倍氏の系統で本佐々木と云い安土の佐々貴神社神主。この神主職を平安末期に廷尉爲義の貴下の宇多源氏の佐々木源三秀義に奪はれるが、平家全盛に佐々木源三秀義は解職され、この本佐々木へ戻された。3巻壽永三年(1184)二月27日

ささきのさぶろうもりつな佐々木三郎盛綱は、越後守護。9巻文治5年(1189)12月23日

ささきのぶざね佐々木太郎信實〔年十五〕は、後に越後加治荘(旧新潟県北蒲原郡加治川村・現新発田市上今泉に加治川小学校あり)を相続する。領家は藤原信義。10巻文治6年(1190)7月20日

ささきひでつな佐々木秀綱は、本佐々木成綱の子。阿倍氏の系統で本佐々木と云い安土の佐々貴神社神主。6巻文治二年(1186)六月十七日

ささきひでよし佐々木源三秀能は、近江佐々木庄(安土町佐々木)の住人だが、平治の乱で源氏側に付いたので、領地を平家に召し上げられ、親戚の奥州藤原清衡を頼って落ち延びていく途中で、相摸国澁谷庄司重國に武勇を見込まれ引き止められて、子供四人とともに二十年居候をしていた。治承四年(1180)八月九日条。3巻元暦元年(1184)八月二伊勢平氏との合戦で討死(秀義とも書く)

ささきひろつな山城守従五位下源佐々木広綱は、佐々木左衛門尉定綱の長男で小太郎。嫡子ながら承久の乱で京方に着いたため処刑。

ささきやすつな佐々木泰綱は、定綱―信綱―泰綱36巻寛元3年(1245)8月15日

ささきよしきよ佐々木五郎義Cは、石橋山で敵対したため、暫く出演がないが、後年になって活躍する。1巻治承四年八月26日・佐々木源三秀義が澁谷庄司重國の娘に産ませた五男。1巻治承四年十二月廿六日

ささきよんきょうだい佐々木四兄弟は、秀能の子。太郎定綱・次郎経高・三郎盛綱・四郎高綱。異母弟が五郎義清。

さたけただよし佐竹太郎は、忠義。5巻文治元年(1185)十月28日

さたけたろう故佐竹太郎は、義政で治承四年(1180)十一月四日条佐竹攻めの際、上総權介廣常に命じてだまし討ちにしている。9巻文治5年11月8日

さたけのくらんど佐竹藏人は、義季で、1巻治承四年十一月五日、七日条で出演以来。佐竹秀義の父隆義の弟。後に建久元年十一月七日式典に供奉など佐竹別当で復活する。7巻文治三年(1187)三月二十一日

さたけのしろう佐汰毛四郎は、佐竹秀義常陸国(茨城県)久慈郡佐竹郷。2巻壽永元年(1182)六月五日

さたけのたろう佐竹太郎は、忠義。5巻文治元年(1185)十月28日

さたけよしすえ佐竹藏人義季は、隆義の弟で五郎。頼朝の門客に列っせられるが、奇怪な行動により文治三年三月二十一日駿河へ配流。1巻治承四年十一月五日

さつまのかみたいらのただのり薩摩守忠度は、岡部六弥太忠澄に討たれた。3巻壽永三年(1184)二月七

さてんきゅう左典厩は、左馬頭(さまのかみ)の唐名、頼朝の父義朝が左馬頭なので「左典厩」と出たら義朝。1巻治承四年十月十七日。1巻治承四年八月24日。2巻養和二年四月廿

さてんきゅうがしつけ左典厩が室家は、一条能保の妻で頼朝の姉。5巻文治元年(1185)十月大24日

さとうただのぶ忠信は、平泉から義経に付いて来た佐藤忠信。4巻元暦二年(1185)四月十五日参考佐藤四郎兵衛尉忠信は、義經が奥州から富士川合戦に駆けつけるときに一緒に来た佐藤継信、忠信兄弟の弟。父は湯の庄司。(飯坂温泉)5巻文治元年(1185)十月大十七日

さとうのしょうじ佐藤庄司は、信夫庄。福島県福島市全域らしい。9巻文治5年(1189)10月2日

さとうのりきよ佐藤兵衛尉憲清(西行)は、義清とも云われる。紀ノ川右岸仲田庄(和歌山県那賀郡打田町)の預所で、領家の悪左府頼長の台記に「そもそも西行はもと兵衛尉義清也。重代の勇士たるをもって、法皇に仕う。俗時より心を仏道に入る。家富み年若くして愁いなきに遂にもって遁世す。人これを嘆美するなり。」とある。かれは、下北面の武者で、兵衛尉に成功(じょうごう)する際、一万匹(二万反)の絹を送ったと謂われる。6巻文治二年(1186)八月十五日

さとうもとはる信夫佐藤庄司は、佐藤元治で飯坂温泉なので湯の庄司とも言われる。奥の細道では芭蕉が遺跡を訪れ「笈(おひ)も太刀(たち)も五月にかざれ紙幟(かみのぼり)」と詠っている。9巻文治五年(1189)八月八日

さとみかじゃよしなり里見冠者義成は、義重ー義兼ー義成 新田の長男だが母の出自が低いため榛名郡里見の開発領主となる。9巻文治五年(1189)六月六日

さとみよしなり里見冠者義成は、群馬県群馬郡榛名町中里見小字堀内、旧碓井郡里見村中里見。1巻治承四年十二月廿二日新田義重の長男の長男だが母の出自が良くないようで分家している。9巻文治五年(1189)六月九日

さなだよしただ佐那田は平塚市真田で岡崎四郎義實の子。余一は与一とも書き十に余る一なので十一男をさす。与太郎とは云わない。1巻治承四年八月23日

さぬきいん讃岐院は、保元の乱で敗れ讃岐へ流され憤死した崇徳上皇。治承寿永の合戦が長引いたのは、崇徳上皇の祟りだと言われた。承久の乱が起きたのも同じ。その後、崇徳上皇と後鳥羽上皇の祟りが合併して南北朝内乱を起こしたと云われていた。5巻文治元年(1185)十二月廿八

さぬきのかみとうのよしやす讃岐守藤能保は、一条能保。3巻元暦元年(1184)六月二十日

さぬきのしろうひろつな佐貫四郎廣綱は、群馬県邑楽郡明和町大佐貫。第2巻養和元年七月二十一日

さのもとつな佐野太郎基綱は、下野佐野荘で現佐野市。寿永二年(1183)二月廿三日8巻文治四年(1188)正月一日

さはらよしつら佐原三浦十郎義連は、神奈川県横須賀市佐原三丁目15番の上。2巻壽永元年(1182)八月十一日

さひょうえのすけのつぼね左兵衛佐局は、崇徳上皇の墓守の尼。4巻元暦二年(1185)五月一日

さひょうえもりひさ左兵衛盛久は、平家滅んだ後、捕虜となり鎌倉へ連れてこられて長谷小路で斬首にされそうになるが、観音様のお陰で助かる。その石碑が長谷1丁目7番2号にあり。2巻養和元年三月十日

さふ左府は、左大臣の唐名で藤原經宗。5巻文治元年(1185)十一月五

さぶろうせんじょうよしひろ三郎先生義廣は、志田三郎先生義廣で義朝の弟で頼朝の叔父に当たる。常陸信太荘で現在の茨城県稲敷郡美浦村大字信太あたり。3巻壽永三年(1184)正月廿日

さぶろうたねもり三郎胤盛も、千葉介常胤の三男で武石氏。9巻文治五年(1189)八月十二日

さめじまむねいえ鮫島四郎宗家は、駿河國鮫島郷、現在の富士市鮫島。1巻治承四年八月二十日・1巻治承四年十月廿日

さわむねいえ澤六郎宗家は伊豆田方郡佐婆郷、現在の三島市大場。1巻治承四年八月二十日

さんしゅう參州は、參河守の略で範頼。蒲神明神社。3巻元暦元年(1184)八月六

さんぽんのつぼね三品局は、高階栄子で木曾義仲に鳥羽殿へ後白河と共に押し込められ、後白河の子を生んでいる。9巻文治五年(1189)六月六日

さんみちうじょうしげひらきょう三位中將重衡卿は、奈良の大仏を焼いた平重衡。3巻壽永三年(1184)三月二日

しげくに澁谷庄司重國は、神奈川県大和市福田の小田急江ノ島線「高座渋谷駅」東北(上和田)に城山の小字地名あり。但し、標柱には和田小太郎義盛の城跡と書いてある。町名に和田が残っている。後世に、綾瀬市早川へ移ったので、あちらの早川城址に石碑が残る。4巻元暦二年(1185)三月二日

しげのいきんとき公時は、滋野井。10巻文治6年(1190)6月10日

しげのいのりよし右少將範能は、滋野井。4巻元暦二年(1185)四月24日

じじゅうきんすけ侍從公佐は、親幕派の持妙院党で頼朝と遠縁に当たる。4巻元暦二年(1185)六月25日

じじゅうのぶきよ侍從信Cは、坊門信C。後に娘が実朝の嫁になる。4巻元暦二年(1185)四月28日

じじゅうよしなり侍從良成は、常盤御前の再婚相手。5巻文治元年(1185)十二月六日

しずかは、静御前。6巻文治二年(1186)三月一日しずかめ靜女は、源九郎義經の妾、静御前。6巻文治二年(1186)三月二十二日

しそくさぶろう子息三郎は宗時。1巻治承四年八月二十日

しだのさぶろうせんじょうよしひろ志田三郎先生義廣は、頼朝の叔父さんで、常陸志田庄、茨城県土浦市。伊勢平氏と共にいる。3巻元暦元年(1184)五月十五

しだよしひろ志太三郎先生義廣と十郎藏人行家は共に義朝の弟で頼朝の叔父に当たる。常陸信太荘で現在の茨城県稲敷郡美浦村大字信太あたり。1巻治承四年十一月七日・寿永二年(1183)二月廿日

しちじょうさいく七條細工は、宗紀太守貞。同年九月25日にも見える。6巻文治二年(1186)二月25日

しちろうともみつ七郎朝光は、小山政光の子で後の結城。2巻永元年(1182)十月十七

しなののかみとおみつ信濃守遠光は、甲斐国巨摩郡加賀美庄(現山梨県南アルプス市加賀美)、平治物語や平家物語にも出演し、寛喜二年(1230)卒88歳。8巻文治四年(1188)七月四日

しなののかみとおみつ愛息女信濃守遠光鍾愛息女郎は、文治四年(1188)九月小一日に頼朝から「大貮局」と名付けられ、頼家・実朝の面倒を見る。しかも建保4年(1216)11月23日に、「源氏大弐殿」(げんじだいにどの)が発注者となり、運慶に大威徳明王を作らせたのが平成19年に県立金沢文庫で発表された。8巻文治四年(1188)七月四日

しのぶさとうのしょうじ信夫佐藤庄司は、佐藤元治で飯坂温泉なので湯の庄司とも言われる。奥の細道では芭蕉が遺跡を訪れ「笈(おひ)も太刀(たち)も五月にかざれ紙幟(かみのぼり)」と詠っている。9巻文治五年(1189)八月八日

しぶやしげくに澁谷庄司重國は、神奈川県大和市の小田急江ノ島線「高座渋谷」駅で、桓武平氏秩父の分家。3巻壽永三年(1184)正月廿八日しぶやのしょうじしげくに澁谷庄司重國は、神奈川県大和市福田の小田急江ノ島線「高座渋谷駅」東北(上和田)に城山の小字地名あり。但し、標柱には和田小太郎義盛の城跡と書いてある。町名に和田が残っている。後世に、綾瀬市早川へ移ったので、あちらの早川城址に石碑が残る。4巻元暦二年(1185)三月二日

しぶやしげすけ澁谷五郎重助關東の御擧に不預任官令む事は、元暦二年(1185)四月小十五日に頼朝に自由任官を怒られた一人。澁谷庄司重國の子。4巻元暦二年(1185)五月

しぶやたかしげ澁谷次郎高重は、澁谷庄司重國の次男。3巻壽永三年(1184)二月二

しぶやたけしげ渋谷武重は、重国―高重―武重36巻寛元3年(1245)8月15日

しぶやのうまのじょうしげすけ澁谷馬允は、澁谷五郎重助。父は澁谷庄司重國。五月九日条で、平家に付いたり、木曾義仲に付いたり、源義經について自由任官したことを頼朝がもう一度怒っている。4巻元暦二年(1185)四月十五日

しぶやのごろうしげすけ澁谷五郎重助關東の御擧に不預任官令む事は、元暦二年(1185)四月小十五日に頼朝に自由任官を怒られた一人。澁谷庄司重國の子。4巻元暦二年(1185)五月

しほうでん四方田よもだ

しまづただつな豊後四郎は、島津忠久―忠綱31巻嘉禎3年4月22日

しもこうべまさよし下河邊四郎政義は、下河邊庄司行平の弟。3巻元暦元年(1184)四月廿三

しもこうべゆきひら下河邊庄司行平は、当時一番の弓の名人。茨城県猿島郡五霞町元栗橋に下河邊庄司行平の栗橋城址があると埼玉テレビで云ってる。2巻養和元年四月七日・寿永二年(1183)二月廿三日

しもだひろつな四方田五郎弘綱は、児玉党。7巻文治三年(1187)四月29日

しもふさごんのかみためひさ下総權守爲久は、京都の宅間流の絵描きの家で、兄は京都で本家を継ぎ、弟の爲久は鎌倉へ来て報国寺の谷に住んだので宅間谷(たくまがやつ)と云う。3巻元暦元年(1184)四月十八日、3巻元暦元年(1184)八月十九

しゅどうつねとし首藤瀧口三郎經俊は先祖が朝廷の主馬首(しゅめのかみ)をしていた藤原氏なので首藤と云う。1巻治承四年七月十日

しゅりのたいふけ修理大夫家は、藤原定輔。8巻文治四年(1188)二月二日

じょうぐうたいし上宮太子は、聖徳太子。敏達天皇3年1月1日(574年2月7日) - 推古天皇30年2月22日(622年4月8日)4巻元暦二年(1185)六月二十一日、7巻文治三年(1187)三月十九日

しょうこうとくごう聖弘得業は、後鎌倉へ召還され、文治三年三月八日に頼朝と会い、整然と経緯を語る。頼朝感心して勝長寿院供僧を命じる。6巻文治二年(1186)九月29日

じょうさいもんいん上西門院は、後白河法皇の姉。上西門院。6巻文治二年(1186)三月十二日

しょうとくてんのう稱徳天皇(称徳天皇)は、、第48代で孝謙天皇が重祚した天平宝字八年(764)から神護景雲四年(770)らしい。9巻文治5年(1189)9月9日

じょうながもち城四郎永用は、かつて秋田に東北経営の城を設け、そこの城守を秋田城之介としたが、後に秋田には住まなくなり、官職としてだけ残り越後平氏が継いで、名字が城一族という。2巻壽永元年(1182)九月廿八日、じょうのしろう城四郎は、長茂で、越後奥山の庄、現新潟県北蒲原郡紫雲寺町中条町黒川村だが、最近合併し胎内市となった。鳥坂城址あり。2巻養和元年五月十六日じょうのしろうながもち城四郎長茂は、平氏流で奥山荘(新潟県北蒲原郡中条町、黒川村、紫雲寺町。但し中条町と黒川村は合併して胎内市。紫雲寺町は新発田市に合併。)領主。この時は囚人として梶原景時が預かっている(預囚人あずかりめしうど)。9巻文治五年(1189)七月十九日

しょうにたねなお少貳種直は、原田大夫種直で原田庄・現福岡県前原市(マエバルシ)。大宰府副長官(太宰少貮)6巻文治二年(1186)五月二日

しょうないきのぶやす少内記(中原)信康は、源九郎義經の祐筆で、この人が色々と義經の手柄を書き残したので、義經伝説が出来たと思われる。木曾冠者義仲には、大夫坊覚明が付いていて書き残した。5巻文治元年(1185)十二月六日

しらかわどの白河殿領は、C盛の娘盛子が夫・藤原基実の死後、摂関家領の大部分を相続していて、九条兼実は治承三年の盛子の死に「異姓の身で藤原氏の所領を押領したので春日大明神の神罰が下った」(『玉葉』)と日記に記している。盛子の管理していた摂関家領は基通(基実の子)もしくは、盛子が准母となっていた高倉天皇が相続すると思われていたが、後白河法皇は白河殿倉預(くらあずかり)に近臣・藤原兼盛を任じて、事実上その所領の全てを没収してしまった。それでC盛は怒って鳥羽殿へ幽閉した。6巻文治二年(1186)四月廿日

しらかわやすみち宰相中將泰通は、白河。4巻元暦二年(1185)四月24日

しろう四郎は義時。1巻治承四年八月二十日

しろうたねのぶ四郎胤信も、千葉介常胤の四男で大須賀氏。9巻文治五年(1189)八月十二日

じろうもろつね次郎師常は、千葉介常胤の次男で相馬氏。9巻文治五年(1189)八月十二日

じろうわだ次郎和田は、喜連川市和田。寿永二年(1183)二月廿三日

しんきゅうとくごう信救得業は、元は大夫坊覚明で、平家物語では木曾冠者義仲の参謀である10巻文治6年(1190)5月3日

しんざんみちゅうじょうすけもり新三位中將資盛は、本三位中將重衡と二人中将なので本と新に分けて呼ばれている。重盛の次男で、ご落胤を紀州熊の神社に預けてあるので会いに行ってから入水したと平家物語にある。そのご落胤を北條四郎時政が鎌倉へ連れて行き、北条氏に仕えるようになり、その孫が平頼綱でその子孫が長崎円喜である。4巻元暦二年(1185)三月24日

しんちうじょうどの新中将殿は、藤原家房。8巻文治四年(1188)二月二日

しんてい新帝は、後鳥羽。1巻序文

しんとうじとしなが新藤次俊長は、藤井で鎌田正清の息子。1巻治承四年八月二十日

しんとうのちゅうなごんつねふさ新藤中納言〔經房卿〕は、藤原氏で京都の吉田に住んだので吉田經房。吉記の作者。5巻文治元年(1185)九月十八日

すがのかじゃ菅冠者は、小田切友則。1巻治承四年九月十日

すがわらありよし菅原在良は、従四位上・式部大輔・贈従三位(1041年 - 1121年)を祖とする堂上家から唐橋家(からはしけ)は起こる。ウィキペディアから6巻文治二年(1186)六月十五日

すがわらけ菅原家は、源平藤橘の橘一族。6巻文治二年(1186)六月十五日
    ┌是綱─厳実

菅原道真┴在良┬在殷
       ├信永
       ├善弘─在長─
安能(現別当)
       └為恒─
珍全(別当職を望んで安能を追い出そうと画策している)

すがわらこう菅原公は、菅原道真の左遷という名の流罪。4巻元暦二年(1185)六月二十一日

すとくいん崇徳院は、源平合戦が七年にも及んで戦い続けたのは、当時の人は崇徳院の祟りだと信じていた。4巻元暦二年(1185)四月29日。崇徳院は、保元の乱の首謀者で後白河法皇と覇者をめぐって負け讃岐に流され恨みを呑んで死んだ。5巻文治元年(1185)九月四日。さぬきいん讃岐院は、保元の乱で敗れ讃岐へ流され憤死した崇徳上皇。治承寿永の合戦が長引いたのは、崇徳上皇の祟りだと言われた。承久の乱が起きたのも同じ。その後、崇徳上皇と後鳥羽上皇の祟りが合併して南北朝内乱を起こしたと云われていた。5巻文治元年(1185)十二月廿八

すみよしまさやす住吉小大夫昌泰は、1巻治承四年七月23日条の住吉小大夫昌長の縁者であろう。9巻文治五年(1189)二月28日

するがのかみどうひろつな駿河守同廣綱は、源氏。3巻元暦元年(1184)六月二十日。駿河守廣綱は、太田。摂津源氏で入道源三位頼政の末子。子孫に道灌。3巻元暦元年(1184)七月廿日

せいちょう成朝は、頼朝の招きで南都から五月二十一日に鎌倉へ来ている。文治元年(1185)十月大廿一日

参考 仏師系図 康尚─定朝┬覚助┬頼助─康助─康朝┬成朝
             │  │  奈良仏師  └康慶┬運慶┬湛慶(慶派)
             │  │           ├快慶   (慶派)
             │  └院助─(院派)
             └長勢┬兼慶
                └円勢─(円派)

せきののぶかね關出羽守信兼は、鈴鹿の関で、息子が山木判官兼隆。2巻養和元年一月二十一日

せのおかねやす妹尾太郎兼安で、平家物語や平治物語に出演するが吾妻鏡には出演がない。岡山県岡山市妹尾。4巻元暦二年(1185)四月29日

せんこうぼう專光房は、專光坊良暹で、伊豆山走湯權現に仕える。旗揚げ時には政子を預かったり、鎌倉へ届けたりした。4巻文治元年(1185)八月二十日

ぜんじょう全成は、元今若丸で、頼朝から駿河國阿野庄(裾野市)を貰い阿野全成と呼ばれる。1巻治承四年十一月十九日

せんつるまる千鶴丸は、河村氏(神奈川県足柄上郡山北町)。9巻文治五年(1189)八月十二日

そうちかみつ前對馬守親光は、宗親光。宗一族は親光の三代前から明治維新まで対馬(下国)の国司をした。5巻文治元年(1185)十二月廿三

そうまつねはる相馬九郎常Cは、相馬御厨で茨城県旧北相馬郡で現取手市・守屋市・利根町・常総市、龍ヶ崎市、つくばみらい市の一部と、千葉県旧南相馬郡で我孫子市・柏市の一部(旧富勢村・旧沼南町)。壽永三年(1184)正月十七日

そがすけのぶ曾我太郎助信は、小田原市上下曽我御殿場線下曽我駅(梅林で有名)。1巻治承四年八月23日

そちのきょう師卿は、師中納言藤原經房9巻文治5年11月7日

そちのちゅうなごん師中納言は、吉田經房。6巻文治二年(1186)三月一日

そちのつぼね師局〔二品の妹〕は、領子。4巻元暦二年(1185)四月十一日

そちのろくろう師六郎は全くの不明な人で、師は太宰權師(だざいごんのそつ)のはずなのに全く不明なので、新田ほどの娘が訳の解らない人と結婚させるか疑問である。源氏への北條氏の思惑が入っていると思われる。巻壽永元年(1182)七月十四

あいうえお かきくけこ さしすせそ たちつてと なにぬねの はひふへほ まみむめも やゆよわりるれろわん

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