吾妻鏡入門人名事典名字の部  

あいうえお かきくけこ さしすせそ たちつてと なにぬねの はひふへほ まみむめも やゆよわりるれろわん

ないとうろく内藤六は、盛家で藤性足利氏。4巻元暦二年(1185)正月六日

ながいのさいとうのべっとうさねもり長井齋藤別當實盛は、以前廷尉爲義の郎等だが、義朝よりも義賢に従っていた。頼朝の兄の悪源太義平が秩父の義賢を襲ったときにその子木曾冠者義仲を助けた。この後平家に従い、倶利伽羅峠での討ち死にシーンを平家物語巻七の實盛最後で熱く語っている。長井齊藤別當實盛は、埼玉県妻沼町。9巻文治五年(1189)八月九日

ながいやすひで長井泰秀は、大江広元―長井時広―泰秀36巻寛元3年(1245)8月15日

ながえのたろうよしかげ長江太郎義景は、鎌倉党だが三浦介義明の娘婿として三浦郡葉山町長柄領主。同殿谷に墓有り。2巻養和二年二月八

ながおさだかげ長尾新六定景は、横浜市栄区長尾台町JR大船駅北側岡の上。菩提寺は鎌倉市城廻の久成寺。1巻治承四年八月23日 2巻養和元年七月五日

ながさのろうろうつねとも長狹六郎常伴とは、長寛元年(1163)三浦大介義明の長男杉本太郎義宗が長狭を攻めようと安房白浜で一週間ほど準備しているうちに、情報が漏れて、鴨川へ上陸作戦を展開するが、待ち伏せにあって戦死している。これ程前から三浦の安房進出領土問題で三浦と長狭は対立していた。長狹六郎常伴と三浦義澄との合戦の場所を「一戦場」との地名が残り、公園になっている。又、この時、頼朝は鴨川市のある島にかくまってもらったので、以後この島をかくまってくれた人に配領され、人の名を取って二右衛門島と呼ばれるようになり、今でもその子孫の個人の所有となっているという。1巻治承四年九月三日

なかすけおう仲資王は、神祇官の神祇伯。神道を司る。詳しくはウイキペディアの白川伯王家(しらかわはくおうけ)参照。万寿二年(1024)に花山天皇の孫である延信王が臣籍に下り、源姓を賜った後、永承元年(1046)に神祇伯に任ぜられた。白川家はこの延信王に端を発していると言われている。神祇伯は神祇官の長であり、最上位の官職であるとともに、奉幣使としても重要な職務である。その神祇伯の重要性と、源氏という最も高貴な血筋、及び顕広王の室で仲資王の母が大中臣氏である上に、顕康王が有力な村上源氏源顕房の養子となっているという、多くの要素により王姓復命が成立したのである。顕広王の子である仲資王(源仲資)が顕広王の後を継いで神祇伯となり、代々白川家は王を名乗る。3巻元暦元年(1184)十月廿七

ながとかげとお長門江七景遠は、十2巻建久三年四月十一日条に鎮守府将軍利仁の四世加藤景通の子で大学頭大江通国の猶子となり、藤性を大江に改めたとある。6巻文治二年(1186)二月26日

ながぬまごろうむねまさ長沼五郎宗政は、小山朝政の弟で栃木県芳賀郡二宮町長沼。3巻元暦元年(1184)八月八

なかのぎょうじさだふさ仲行事貞房は、那珂郡で丸亀市に郡家町あり。行事は郡衙の役人。3巻元暦元年(1184)九月十九

なかのごろうよしなり中野五郎能成は、北信濃中野郷で現長野県中野市中野。十6巻正治元年七月二十日

田市に合併。)領主。この時は囚人として梶原景時が預かっている(預囚人あずかりめしうど)。9巻文治五年(1189)七月十九日

ながのさぶろうしげきよ長野三郎重Cは、埼玉県行田市長野。9巻文治五年(1189)七月十九日

なかのせっしょうどの中攝政殿は、藤原基実(1143年-1166)。6巻文治二年(1186)四月廿日

ながのたろう長野太郎は、熊本県阿蘇郡南阿蘇村長野。2巻養和元年二月廿九日

なかはらちかよし中原親能は、大江広元の兄で秦野育ち1178から京都へ行っていた。3巻元暦元年(1184)十月六

なかはらのぶやす中原信泰は、源九郎義經のスポークスマンで色々と書き残したので、九条兼実の日記「玉葉」や藤原忠親の日記「山槐記」等に彼の名が出てくる。4巻元暦二年(1185)四月十一日。少内記信康は、源九郎義經の祐筆で、この人が色々と義經の手柄を書き残したので、義經伝説が出来たと思われる。木曾冠者義仲には、大夫坊覚明が付いていて書き残した。5巻文治元年(1185)十二月六日

なかはらひさつね典膳大夫久經は、典膳大夫中原久經。元暦二年二月五日に典膳大夫中原久經と近藤七國平は、頼朝の命で使節として京都へきている。4巻元暦二年(1185)三月四日

なかはらひろもと安藝介中原廣元は、大江広元。3巻元暦元年(1184)十月六

なかはらもろかず師員は、中原師員(1185-1251)。1218に助教。中原親能・大江広元の従兄弟。後評定衆となり、大夫外記となり、摂津守明経博士となる。法名は行厳。脱漏元仁二年(1225)二月24日

なかはらもろかず中原師員は、中原親能─師員36巻寛元3年(1245)8月15日、中原師員(1185-1251)。1218に助教。中原親能・大江広元の従兄弟。後評定衆となり、大夫外記となり、摂津守明経博士となる。法名は行厳。

なかみかどさねのり實教は、中御門。10巻文治6年(1190)6月10日

なかみかどだいなごん中御門大納言は、藤原宗家。6巻文治二年(1186)三月十二日

なかむらかげひら中村太郎景平は神奈川県足柄上郡中井町(中井は中村と井口村が合併)。1巻治承四年八月二十日

なかむらじろう中村次郎は、中村庄司宗平の一族か又は、武蔵秩父郡中村から丹党の中村氏かも?6巻文治二年(1186)二月六日

なかむらときつね時經は、中村時經で武蔵七党の丹党。建久元年(1190)十一月小九日上京した頼朝の仙洞への参内に調度掛として中村右馬允時經で出演。4巻元暦二年(1185)四月十五日

なかむらもりひら中村次郎盛平は、中村太郎景平の弟。

ながもちはいそうす永用(城)敗走すと書いて、木曾冠者義仲の勝利とは書いていないのが不思議。2巻永元年(1182)十月九

なごやよりとき那古谷橘次頼時は三島市那古谷で文覚上人が配流された所。1巻治承四年八月二十日

なわまさしげ那波は、岡山県小島湾の那波港で北条水軍の根拠地。は、間違いとの指摘をいただきました。
「上野国(群馬県)那波郡(現在の佐波郡−明治23年に佐波群と合併)の那波です。勿論岡山の相生に那波(なばと読む)湊はありますが、そこの出身者は、赤松系統で「吾妻鏡」に出てくる那波とは違います。現在の伊勢崎市に行くと「那波城址」「那波家」が建てた神社、仏閣が多数残っています。我が家の系図を見ると、将監政茂は、大江広元の三男坊が木曽義仲と共に滅んだ上野国那波家(足利の系統)を頼朝の命で嗣いだとあります。」との事です。間違った解釈をしていてすいませんでした。以上から、大江広元の孫か曾孫にあたるようです。グーグルで調べたところ、群馬県伊勢崎市堀口町に名和小学校・名和郵便局に「おん」が残っているようです。39巻
宝治2年(1248)閏12月小10日

なんばよりつね頼經は、藤原氏難波頼経。頼経の父難波頼輔は本朝における蹴鞠一道の長とも称された蹴鞠の名手であったが、孫の飛鳥井雅経も蹴鞠に秀で、飛鳥井流の祖となった。ウィキペディアから5巻文治元年十一月十日

にいどの二位殿は、平相國禪閤〔C盛〕の妻平徳子。4巻元暦二年(1185)正月六日

にかいどう氏行政┬行村┬基行―行氏
        │
山城次郎

        │判官行義―行有
        │  
三郎 次郎

        │  ├行久
■■■■■■■■  │四郎
■■■■■■■
 │  ├行方―行章
        │  │
五郎 次郎
        │
  和泉守
        
│  └惟行
        

        └行光―行盛
┬行泰        
              ├行

              
三郎

              ├行
■■■■■■■■       四郎

にかいどうもとゆき二階堂基行、行政―行村―基行21巻建暦3年4月28日山城判官次郎

にかいどうゆきあき二階堂行章、行政―行村―行―行章36巻寛元3年(1245)8月15日和泉次郎

にかいどうゆきあり二階堂行有は、行政―行村―行義―行有36巻寛元3年(1245)8月15日出羽次郎

にかいどうゆきうじ二階堂行氏は、41巻建長3年(1251)1月20日。弘長元年1261隠岐守。基行の子。

にかいどうゆきかた二階堂行方は、行政―行村―行36巻寛元3年(1245)8月15日壱岐五郎・和泉前司

にかいどうゆきただ二階堂行忠は、行政―行光―行盛―行36巻寛元3年(1245)8月15日信濃四郎

にかいどうゆきつな二階堂行綱は、行政―行光―行盛―行36巻寛元3年(1245)8月15日信濃三郎

にかいどうゆきひさ隠岐四郎左衛門尉は、二階堂行久27巻寛喜2年(1230)12月9日

にかいどうゆきまさ二階堂行政3巻8月24日。行政―行光・行政―行村。

にかいどうゆきみつ掃部允藤原行光=二階堂行光。行政―行光14巻建久5年3月9日

にかいどうゆきむら山城三郎行村 =二階堂行村。行政―行村16巻正治2年9月25日

にかいどうゆきもり行盛は、二階堂行盛。後出家して行然。行政―行光―行盛24巻承久2年12月4日

にかいどうゆきやす二階堂行泰は、行政―行光―行盛―行泰。法名行善36巻寛元3年(1245)8月15日筑前前司

にかいどうゆきよし二階堂行義は、行政―行村―行義27巻寛喜2年(1230)12月9日隠岐三郎左衛門尉

にしきどたろうくにひら西木戸太郎国衡は、錦戸とも書き、藤原秀衡の子。9巻文治五年(1189)八月七日

にしこおりのさぶろう錦織三郎は、不明。5巻文治元年(1185)十月九日

にしこおりよしひろ錦織義廣=檢非違使右衛門權少尉源朝臣義廣は、頼朝からは「はとこ」になる。壽永三年(1184)正月廿日

にたんただつね新田四郎忠常は、伊豆国仁田郷なので、仁田とも書き「にたん」と読み、静岡県田方郡函南町仁田函南小学校そばに墓あり。1巻治承四年八月二十日7巻文治三年(1187)正月十八日

にったくらんどよしかね新田藏人義兼ー義房ー政義ー政氏ー基氏ー朝氏ー義貞と続く。9巻文治五年(1189)六月九日

にったのじょうさい新田大炊助入道上西は、新田大炊助源義重。1巻治承四年十二月廿二日

にったのよししげ新田義重は、石橋山合戦の報告を家来たちは殆ど死に頼朝は何処かへ逃げていると平家に報告している事が山塊記に書き写されている。巻壽永元年(1182)七月十四

にとうじただすえ二藤次忠季は、二桃枝。鹿角市八幡平字桃枝平。10巻文治6年(1190)1月7日

にとうのおんかた二棟御方は、頼経の妾で大宮殿。大納言定能孫、中納言中原親能娘。33巻延応1年8月8日

にほんのぜんに二品禪尼は、平C盛の妻時子。4巻元暦二年(1185)三月24日

にんけんだいとく任憲大徳は、熱田神宮出身で頼朝の母の弟の子供であたる従兄弟。6巻文治二年(1186)七月十八日にんけん任憲の父は、祐範。祐範は頼朝の母の弟なので、任憲は、頼朝の従兄弟に当たる。8巻文治四年(1188)十一月九日

にんなじのみや仁和寺宮は、後白河法皇の子で守覚法親王。6巻文治二年(1186)十一月五日

いのすけやまのうちしげとし縫殿助は、重俊で山内首藤瀧口三郎經俊の子。この単語が出て来るのはこれが最初。次は、建久六年(1195)三月十日頼朝奈良大仏殿供養に出発の名簿に出てくる。4巻元暦二年(1185)四月十五日

ねいゆきちか根井行親は、平安時代末期の武将。滋野氏の流れを汲む信濃の豪族。木曽義仲の最有力家臣にして、義仲四天王の一人。ウィキペディアより。3巻壽永三年(1184)正月廿六日

のういんほうし能因法師は、988年生まれの平安時代の歌人。中古三十六歌仙の一人。旅の歌人と評され、二度の奥州下向を始め、諸国を旅し、多くの歌枕に接した。白河の関では、「都をば霞とともに立ちしかど秋風ぞ吹く白河の関」と詠んでいるので、それにちなんだ。9巻文治五年(1189)七月29日

のうそひでさと曩祖秀郷は、俵藤太藤原秀郷。寿永二年(1183)二月廿三日

のさぶろうだいぶたかかね野三郎大夫高包は、三野郡で現在の香川県三豊市三野町。3巻元暦元年(1184)九月十九

のとのかみたいらののりつね能登守教經は、玉葉では偽者の首と云い、平家物語でも壇ノ浦で源九郎義經に八艘跳びをさせたことになっている。3巻壽永三年(1184)二月七

のなかじろう野中次郎は、大分県中津市。2巻養和元年二月廿九日

あいうえお かきくけこ さしすせそ たちつてと なにぬねの はひふへほ まみむめも やゆよわりるれろわん

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