吾妻鏡入門人名事典名字の部  

あいうえお かきくけこ さしすせそ たちつてと なにぬねの はひふへほ まみむめも やゆよわりるれろわん

はがじろうたいふ紀權守。波賀次郎大夫は、八月十日条に宇都宮左衛門尉朝綱の郎従として出演。俣者なので所領に及ばず旗などの名誉の証となったらしい。9巻文治5年(1189)9月20日

はすいけいえつな蓮池權守家綱は、土佐国蓮池郷で、現在の土佐市蓮池。2巻壽永元年(1182)九月廿五

はせべのぶつら長は、長谷部の略で信連は下河邊庄内の長馬(現在の幸手市長間)の領主長馬爲連の息子。1巻治承四年五月十日

はたけやましげただ畠山次郎重忠は、秩父一族で元は武蔵国男衾郡、埼玉県深谷市畠山の館で生まれ埼玉県比企郡嵐山町菅谷居住(鎌倉古道参照)。1巻治承四年八月24日はたけやまのじろう畠山次郎は、畠山次郎重忠で武蔵嵐山の菅谷館。3巻元暦元年(1184)十一月六はたけやましげただ畠山次郎重忠は、普段国許にいるようなので、在国御家人であろう。10巻文治6年(1190)9月16日

はたのありつね有經は、波多野有經。次の出演は文治四年(1188)四月三日流鏑馬に故波多野右馬允義經嫡男有經で弓の名人として出てくる。4巻元暦二年(1185)四月十五日

はたののさぶろう波多野三郎は、波多野三郎盛通。3巻元暦元年(1184)五月十五

はたののしろうつねいえ波多野四郎經家は、神奈川県秦野市。大友とも。4巻元暦二年(1185)四月十四日

はちじょういん参考八条院は、鳥羽天皇の娘で名はワ子(後白河の腹違いの妹)。母は美福門院、保元元年鳥羽上皇の遺領の大部分を伝領し、又母の遺領も伝領し、その所領(荘園)は二百四十箇所に及び、経済的にも政治的にも大きな勢力を有した。以仁王を猶子とし、挙兵を支援した。又下河辺行平は八条院領下河辺庄の庄司なので、八条院が平家追討の中核であったと思われる。1巻治承4年4月9日F
八条院(本所)は、鳥羽天皇の娘で名はワ子(後白河の腹違いの妹)。母は美福門院、保元元年鳥羽上皇の遺領の大部分を伝領し、又母の遺領も伝領し、その所領(荘園)は二百四十箇所に及び、経済的にも政治的にも大きな勢力を有した。以仁王を猶子とし、挙兵を支援した。又下河辺行平は八条院領下河辺庄の庄司なので、八条院が平家追討の中核であったと思われる。八條院が本所で頼盛が領家になると思う。この下に納税徴収者としての預所織や地頭職(庄司、下司)があり、その下に名主・作人・下作人・在家・小作等等と続く。3巻壽永三年(1184)四月六

はちまんたろう八幡太郎は、源頼義の長男で源氏の正嫡として石清水八幡宮で元服したので、八幡太郎と呼ばれた義家のことである。因みに次男は加茂神社で加茂次郎義綱、三男は新羅神社なので新羅三郎義光である。1巻治承四年七月五日

はちまんどの八幡殿は、八幡太郎義家。義家ー義親ー爲義ー義朝ー頼朝10巻文治6年(1190)12月8日

はったのともいえ八田四郎知家は、常陸、茨城県筑西市八田(旧下館市八田)。隣が小栗。3巻元暦元年(1184)六月一寿永二年(1183)二月廿三日

はったともいえ友家が、八田四郎知家。次の文治三年(1187)丁未正月大十二日条に八田右衛門尉知家と出る。この文字ではこの一回限り。4巻元暦二年(1185)四月十五日

はったともいえのたく八田右衛門尉宅は、別れ道の南側にあったと思われる。9巻文治五年(1189)六月三日

はったともしげ八田太郎知重は、知家の子で総領。2巻養和元年四月七日

はったむねつな八田宗綱は、常陸国八田荘で、現筑西市八田(旧下館市八田)1巻治承四年十月二日

はむろのみつまさ藤原光雅は、後に義経の爲に「頼朝追討の宣旨」を書いて頼朝に下官させられる。3巻壽永三年(1184)三月九日葉室。

はやとのすけ隼人佐は、三善康C。9巻文治五年(1189)六月九日

はらかげふさ原宗三郎景房は、武蔵國原郷で現川崎市幸区原町。1巻治承四年八月23日

はらだ原田は、原田大宰少貳種直。4巻元暦二年(1185)五月

はらたかはる尾張國住人原大夫高春は、犬山市尾張二宮大縣神社神主で母は上総權介廣常の妹。ちなみに尾張一宮は一宮市真C田神社3巻壽永三年(1184)三月十三日

はらむねふさ:宗三郎宗房は、原郷で神奈川県足柄下郡湯河原町吉原字原。5巻文治元年(1185)十月29日

はらだたねなお原田大夫種直は、大宰府長官で、領地は福岡県前原市。2巻養和元年二月廿九日

はりまのつぼね播磨局は、以仁王の生母。6巻文治二年(1186)三月十二日

はんがやのしげとも榛谷四郎重朝は、秩父党。小山田有重の子で稲毛重成の弟。榛谷御厨は保土ヶ谷区神戸町から旭区二俣川にかけた大きな荘園だった。榛谷の名はわずかに半谷として旭区さちが丘にバス停名だけが残っている。当時二番目の弓の名人。2巻養和元年四月七日

はんざわろくろう榛澤六郎は、成清で埼玉県深谷市榛沢。旧岡部町榛沢。9巻文治五年(1189)七月小十九日

ひきいやしろう比企弥四郎は、時員。8巻文治四年(1188)七月十日

ひきとうじ比企藤次は、比企掃部允遠宗の子。比企は、埼玉県比企郡。6巻文治二年(1186)二月六日

ひきのとうしろう藤四郎は、比企能員。4巻元暦二年(1185)二月十六日

ひきのとうない比企藤内は、比企朝宗。4巻元暦二年(1185)二月十六日

ひぐちかねみつ樋口次郎兼光は、中原兼遠の次男。今井兼平・巴御前の兄。木曽義仲の乳母子にして股肱の臣。義仲四天王の一人である。ウィキペディアより3巻壽永三年(1184)正月廿一日・壽永三年(1184)正月廿六日

ひたちのすけときなが常陸介藤時長は、建久二年正月23日条に念西の女(大進局)とあり、大進局は政子の恨みに絶えず京都へ行くよう云われる。時長は名を朝宗と変えた伊佐朝宗で、出家して年西。奥州合戦後、福島県伊達郡を貰い長男を常陸に残し移住し伊達と名乗る。子孫に隻眼の正宗。伊達系図では宗村にあたる。6巻文治二年(1186)二月26日

ひづめのたろうとしひら樋爪太郎俊衡は、藤原清衡の四男十郎清綱の子。9巻文治5年(1189)9月15日。息子三人と弟五郎秀衡その子と九月十五日に投降している。9巻文治5年(1189)10月19日

びとうとものぶ尾藤太知宣は、俵藤太藤原秀郷の子孫と書いてある。先祖に尾張守藤原。この尾藤の子「景綱」は泰時の家令となり、複数化して執事と云い、北条が分派すると全体をまとめ始めて内管領となる。3巻壽永三年(1184)二月二十一

ひのいえざね左衛門權佐家實は、日野。10巻文治6年(1190)8月9日

ひょうえのじょうよしつね兵衛尉義經は、山本義経を。2巻養和元年二月十二日

ひらいきろく平井紀六は、静岡県高田郡函南町平井。大和朝廷時代の紀氏。2巻養和元年一月六日平井は、静岡田方郡函南町平井。平井氏と関わりがあると思われる平井が後に御家人として出演してくる。今も平井性は小袋谷辺におられる。2巻養和元年四月十九日

ひらさこためしげ平佐古太郎爲重は横須賀市平作。1巻治承四年八月二十日

ひらたのたろうとしとお平田太郎俊遠は、平田村で現在の高知県宿毛市平田町。2巻壽永元年(1182)九月廿五

ひらやますえしげ平山武者所季重は、武蔵国多摩郡の西党(きさいとう)で、父は眞季。東京都日野市平山。なお八王子市堀之内に平山城址公園があるが本当の城趾ではないようである。1巻治承四年十一月四日・3巻壽永三年(1184)二月七日。季重は、平山。東京都八王子市堀の内に平山城址公園あり。日野市平山城址公園駅あり。文治五年(1189)七月小十九日条奥州合戰に平山左衛門尉季重が出てくる。しかもそれまでは、平山武者所季重と出てる。建久三年(1192)八月九日条には平山右衛門尉季重と出てくる。左右の字は略すとほぼ同じなので平山で良いと思う。吾妻ではそれ以外に季重の名はない。ただ久日が分からない。ただ、季重に源三郎の言葉は一切出てこないので、別人のようでもある。久日の地名もなし。久目なら富山県氷見市久目。久米なら埼玉県所沢市久米。もしかしたら「久日源三郎」が何か悪口や囃子言葉なのかも知れない。4巻元暦二年(1185)四月十五日

ひろさだのりょうち弘貞の領地を重成が嘘の所領安堵の状を出した事が頼朝の機嫌を損ねた。2巻養和元年四月廿日

ひろさわさねよし広沢実能は、波多野遠義広沢実方―実高―実能36巻寛元3年(1245)8月15日

ひろさわのさぶろう廣澤三郎は、広沢三郎実高で上野国広沢御厨。現群馬県桐生市広沢町。4巻文治元年(1185)八月24日

ぶえい武衛は、兵衛の唐名で頼朝。3巻元暦元年(1184)八月六

ふじさわきよちか藤澤次郎C近は、諏訪一族でC親とも書く。長野県北佐久郡北立科町藤沢。12巻建久3年(1192)1月5日

ふじさわもりかげ藤澤余一盛景は、諏訪神党の一族。6巻文治二年(1186)十一月八日

ふじたともざね友實は、藤田。文治元年(1185)十一月二日に出演の記事に垂髪(子供)の頃に仁和寺宮に使えている。元服して平家に、その後木曾義仲に、義経にと主人を変えている。6巻文治二年(1186)十一月五日

ふじたゆきやす武藏國住人藤田三郎行康は、武蔵藤田庄で本荘市藤田。3巻壽永三年(1184)三月五日

ふじたよしくに子息能國(藤田)は、後に承久の乱で後鳥羽上皇からの手紙を読めたので学者と言われ名字も学者となる。3巻壽永三年(1184)三月五日

ぶしゅう武州は、平賀武藏守朝雅。8巻文治四年(1188)七月十日

ふじわらいえみち別当家通は、重通男(実は藤原忠基二男)。母源師頼女(実母重通家女房藤原有広女)。1166(永万2)年6月6日任参議。正二位・権中納言。6巻文治二年(1186)正月七日

ふじわらかまたり大織冠は、藤原鎌足。談山神社は鎌倉時代に成立した寺伝によると、藤原氏の祖である藤原鎌足の死後の天武天皇7年(678年)、長男で僧の定恵が唐からの帰国後に、父の墓を摂津安威の地(参照:阿武山古墳)から大和のこの地に移し、十三重塔を造立したのが発祥である。天武天皇9年(680年)に講堂(現 神廟拝所)が創建され、妙楽寺と称した(後に、談山護国寺妙楽寺と称する)。大宝元年(701年)、妙楽寺の境内に鎌足の神像を安置する神殿が建立された。談山の名の由来は、藤原鎌足と中大兄皇子が、大化元年(645年)5月に大化の改新の談合をこの多武峰にて行い、後に「談い山(かたらいやま)」「談所ヶ森」と呼んだことによるとされる。ウィキペディアから5巻文治元年(1185)十一月廿二日

ふじわらさだなが右大弁宰相は、藤原定長。10巻文治6年(1190)8月9日

ふじわらさだのり藤原定範は、定員―定範36巻寛元3年(1245)8月15日

ふじわらさねむね實宗は、藤原。10巻文治6年(1190)6月10日

ふじわらすけたか肥後守資隆入道は、藤原。10巻文治6年(1190)6月23日

ふじわらすけちか藤原資親は、備中の在庁官人。散位。3巻壽永三年(1184)三月廿五日

ふじわらただみつ上総五郎兵衛尉は、藤原忠光。治承四年五月二十日左兵衛尉に叙任。平家の都落ちに従ったので平忠光と云う。父は上總介忠C。弟が化粧坂下の景C牢で有名な悪七兵衛景C。12巻建久3年(1192)1月21日

ふじわらためひさ藤原爲久は、宅間爲久とも云い、絵描きの名人で後に報国寺の谷に住んだのであの谷を宅間谷(たくまがやつ)と云う。兄は京都宅間流の絵師を継ぐ。壽永三年(1184)正月廿二日京都の宅間流の絵描き3巻元暦元年(1184)四月十八

ふじわらちかいえ親家は、加賀守藤原親任の子。内蔵権頭,木工権頭などを歴任。建長4年(1252)6代将軍宗尊親王の鎌倉行きに随行。41巻建長4年4月1日

ふじわらちかつね弁親經朝臣は、藤原。10巻文治6年(1190)6月29日

ふじわらちかまさ藏人左衛門權佐親雅は、藤原。4巻元暦二年(1185)四月24日

ふじわらつねむね左府は、左大臣の唐名で藤原經宗。5巻文治元年(1185)十一月五

ふじわらともかた藤原朝方は、1155-1201鳥羽法皇・後白河法皇二代に渡って仕えた。父は藤原北家勧修寺流庶流の藤原朝隆(権中納言)。母は「夜の大納言」と称されて権勢を誇った葉室顕隆(中納言)の娘。三条大納言・堤大納言と称された。文治二年陸奥出羽按察使に任命。文治四年権大納言に昇進。ウィキペディアから9巻文治五年(1189)二月二十二日

ふじわらともつな藤原朝綱は、宇都宮朝綱。栃木県宇都宮の神主職で豪族。

ふじわらのりすえ木工頭範季は、藤原。大治5年(1130年)- 元久2年(1205年))は平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての公家。九条兼実の家司。羽林家南家高倉流の祖。後白河法皇の近臣。父は藤原南家の藤原能兼。母は高階為時娘。藤原範兼は兄で養父でもある。妻は平教盛の娘・教子。娘に後鳥羽天皇女院で順徳天皇生母である修明門院重子がいる。ウィキペディアから6巻文治二年(1186)十月十六日

ふじわらのりのぶ前上野介範信は、熱田大宮司藤原秀範の子。頼朝の母の兄弟、すなわち叔父に当たる。5巻文治元年(1185)十月24日

ふしみひろつな伏見冠者廣綱は、駿河国伏見郷で、現在の静岡県清水市。2巻養和二年五月十二

ふじわらひでひら藤原秀衡は、奥州平泉の藤原氏の三代目。2巻養和元年八月十三日

ふじわらまさなが藤原宰相雅長は、雅教一男。母美作守藤原顕能女。1179(治承3)年1月19日叙従三位。従二位・参議。6巻文治二年(1186)正月七日

ふじわらみつまさ藤原光雅は、後に義経の爲に「頼朝追討の宣旨」を書いて頼朝に下官させられる。3巻壽永三年(1184)三月九日

ふじわらむねなが藤原宗長は、1164-1225藤原頼経の長男。蹴鞠の名手で難波流を起こす。弟の雅経は飛鳥井流。蹴鞠の二大流派。9巻文治五年(1189)二月二十二日

ふじわらやすさだ康貞は、藤原。この時代名字が書いていなけりゃ藤原氏。

ふじわらゆきまさ藤原行政は、後に永福寺がそばに出来て、二階堂と称する。3巻元暦元年(1184)十月六公文所所司。4巻元暦二年(1185)四月十三日

ふじわらよしもりC能盛法師は、藤原氏で預所。本所は院。10巻文治6年(1190)3月9日

ふじわらよりつね藤原頼経は、藤原頼輔の子。従四位下。豊後守(ぶんごのかみ)、刑部卿となる。源義経としたしかったため、源頼朝により文治(ぶんじ)元年(1185)安房(あわ)に、5年伊豆(いず)に配流された。建保(けんぽ)4年12月2日死去。日本人名大辞典から9巻文治五年(1189)二月二十二日

ぶぜんぜんじ豊前々司光季は、光行の父、その父は季遠で同様に平家に仕えていた。満政流清和源氏。源義家源義忠源忠宗−源季遠−源光季−源光行−源親行 (奥富敬之氏説)ウィキペディアから3巻元暦元年(1184)四月廿二

ぶつがんしょうにん佛嚴上人は、慈円の著書「愚管抄」にも登場するので、比叡山延暦寺の坊さん。4巻元暦二年(1185)七月29日

ぶっしけいず 仏師系図 康尚─定朝┬覚助┬頼助─康助─康朝┬成朝
                 │  │  奈良仏師  └康慶┬運慶┬湛慶(慶派)
                 │  │           ├快慶   (慶派)
                 │  └院助─(院派)
                 └長勢┬兼慶
                    └円勢─(円派)

ふなどころのごろうまさとし船所五郎正利は、國衙の船所の長官を代々やっているので名字になってきている。4巻元暦二年(1185)三月二十一日

ふるさわよしなり古沢能成は、古庄近藤太で息子は大友宗麟の先祖となる大友能直。2巻養和二年五月廿五

ふるさわよしなり古沢能成は、古庄近藤太で息子は大友宗麟の先祖となる大友能成。2巻養和二年五月廿五

ふるしょうこんどうた古庄近藤太は、古沢能成で息子は大友宗麟の先祖となる大友能直。2巻養和二年五月廿五

ふるしょうよしなお古庄左近將監能直は、波多野の分家で大友(現小田原市大友)。10巻文治6年(1190)4月9ふるしょうよしなお古庄左近將監能直は、大友能直。神奈川県小田原市上下大友。

へいじつねひで平次常秀も、胤正の次男で境氏。9巻文治五年(1189)八月十二日

へいろくときさだ平六時定は平六時定は北條時政の本家の従兄弟とする説(奥富敬之氏)と時政の弟とする説(野口実氏)がある。1巻治承四年八月二十日治承四年八月二十日石橋山合戦以来の出演。6巻文治二年(1186)三月24日

へいろくけんじょうときさだ平六兼仗時定は、名字を北条。6巻文治二年(1186)七月一日

ほういんえんりょう法印円良は、幹部僧侶で座主候補。8巻文治四年(1188)八月十七日

ほうおう法皇は、後白河法皇。4巻元暦二年(1185)四月26日

ほうがんだいくにみち判官代邦通は、大和判官代邦道。公文所所司。4巻元暦二年(1185)四月十三日

ほうじょうきよとき遠江清時は、時房―時直―清時40巻建長2年(1250)3月26日

ほうじょうきんとき尾張次郎公時は、名越流北条時章の子。義時朝時時章公時39巻宝治2年(1248)4月20日

ほうじょうごろうどの北條五郎殿は、時連後の時房。9巻文治5年12月8日

ほうじょうさねとき北条実時は、義時―実泰―実時36巻寛元3年(1245)8月15日

ほうじょうしろう北条四郎は、時政。1巻治承四年八月二十日

ほうじょうすけとき北条資時は、時房の三男。相模三郎。24巻承久元年(1219)七月大十九日初出演。41巻建長三年(1251)五月大五日没53才。

ほうじょうときいえ越後五郎時家は、時房時盛時家(五男)。

ほうじょうときかず北条越後五郎時員は、時房―時盛―時員36巻寛元3年(1245)8月15日

ほうじょうときさだ平六時定は北條時政の本家の従兄弟とする説(奥富敬之氏)と時政の弟とする説(野口実氏)がある。1巻治承四年八月二十日

ほうじょうときさだ北条六郎時定は、泰時―時氏―時定36巻寛元3年(1245)8月15日

ほうじょうときさだ相模時定は、時房―時定36巻寛元3年(1245)8月15日

ほうじょうときたか北条相模八郎時隆は、時房―時村―時隆36巻寛元3年(1245)8月15日

ほうじょうときただ北条時忠は、後の宣時。時房―朝直―時忠(宣時)41巻建長3年1月1日

ほうじょうときちか越後時親は、時房―時盛―時親36巻寛元3年(1245)8月15日

ほうじょうときなか北条遠江(武蔵)四郎時仲は、時房―朝直―時仲36巻寛元3年(1245)8月15日

ほうじょうときな北条時長(名越流)。義時―朝時―時長。32巻嘉禎4年(1238)6月7日初出演。遠江三郎時長主。42巻建長4年(1252)8月26日死亡

ほうじょうときなり北条時成は、時房ー三郎資時ー太郎時成39巻宝治2年(1248)8月大15日

ほうじょうときひろ相摸式部大夫時弘は、時広とも書く。時房ー時村ー時広38巻4月26日

ほうじょうときより北条時頼は、義時―泰時―時氏―時頼36巻寛元3年(1245)8月15日

ほうじょうともなお北条朝直は、時房―朝直36巻寛元3年(1245)8月15日

ほうじょうどの北條殿は、北條時政。6巻文治二年(1186)六月十七日

ほうじょうどのしつけ北條殿室家は、牧の方。11巻建久2年(1191)9月29日

ほうじょうのこしろう北條小四郎は、北條小四郎義時のことだが、ここで一番に出てくるのは怪しく、いかにも北條家の子孫が書き加えたのがバレバレである。3巻元暦元年(1184)八月八

ほうじょうまさむら北条政村は、義時―政村(四男)36巻寛元3年(1245)8月15日

ほうじょうむねとき北條三郎宗時は、時政の子、義時・政子の兄。2巻養和元年一月六日

ほしな保科は、信濃国高井郡保科(穂科)から発祥。http://www2.harimaya.com/sengoku/html/hosina_k.html3巻元暦元年(1184)七月廿五日

ほしやすさぶろう保志泰三郎は、不明。寿永二年(1183)二月廿三日

ほそのひょうえのじょう細野兵衛尉は、十7巻に五回しか出てこない。建仁元年(1201)九月十八日

ほっしょうじどの法性寺殿は、藤原忠通。その長男が近衛基通。二男が松殿。現在、京都市東山区本町にある臨済宗東福寺の傍に法性寺がある。東福寺の地全体を含め屋敷だった。6巻文治二年(1186)二月27日

ほりすけまさ堀平四郎助政は、伊豆の武士。1巻治承四年八月二十日

ほんだじろう本田次郎は、近常で埼玉県深谷市本田。旧川本町本田。9巻文治五年(1189)七月小十九日

ほんまよしただ能忠は、本間右馬允義忠。文治五年(1189)七月小十九日条奥州合戰に本間右馬允義忠と出る。この人かその子孫が北条時房の代官になり佐渡へ行き、その子孫が江戸時代に庄内酒田で商人として成功し、「本間様には及びもせぬがせめてなりたや殿様に」の山形県酒田市二番町12−13の豪商本間家である。神奈川県厚木市上依知下依知出身。4巻元暦二年(1185)四月十五日

あいうえお かきくけこ さしすせそ たちつてと なにぬねの はひふへほ まみむめも やゆよわりるれろわん

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