吾妻鏡入門人名事典名字の部  

あいうえお かきくけこ さしすせそ たちつてと なにぬねの はひふへほ まみむめも やゆよわりるれろわん

まかべのろくろう眞壁六郎は、長幹。9巻文治五年(1189)八月十二日

まきむねちか牧三郎宗親は、駿河大岡牧・駿東郡大岡村。2巻壽永元年(1182)十月十

まごこたろうたねまさ孫子小太郎胤政は、間違いで胤正は子の千葉太郎胤正。孫は千葉小太郎成胤。2巻養和二年三月九

またのかげひさ俣野五郎景久は、戸塚区東俣野&藤沢市西俣野。1巻治承四年八月23日

まちのやすもち町野康持は、三善康信―町野康俊―康持36巻寛元3年(1245)8月15日

まつどの松殿は、藤原基房(1145-1231)。6巻文治二年(1186)四月廿日

ままのつぼね摩々局は、閏二月七日に逢いに来ている。2巻養和元年十一廿

まるのぶとし丸五郎信俊は、千葉県丸山町。1巻治承四年九月十一日

みうらいえむら三浦家村は、義村家村36巻寛元3年(1245)8月15日

みうらうじむら三浦又太郎左衛門尉は、氏村。泰村兄朝村の子。義村―泰村―朝―氏村。32巻嘉禎4年2月17日

みうらかげむら三浦景村は、義村―泰村―景村36巻寛元3年(1245)8月15日

みうらかずむら三浦員村は、朝村の三男。義明義澄義村―朝村―員村。38巻宝治元年(1247)6月14日

みうらのじゅうろう三浦十郎は、佐原義連で大介の子。9巻文治5年12月1日

みうらのすけ三浦介は、義澄。信濃守は、小笠原。9巻文治五年(1189)五月十九日

みうらのすけむら三浦資村は、義村―資村36巻寛元3年(1245)8月15日

みうらへいろく三浦平六は、三浦義村。9巻文治五年(1189)六月三日

みうらみつむら三浦光村は、義明―義澄―義村―光村36巻寛元3年(1245)8月15日

みうらよしあき三浦介義明のこの言葉は、あらゆる歴史書の鎌倉時代の本に必ず乗る当時の關東武士の説明に使われる。1巻治承四年八月26日よしあき三浦介義明の討ち取られたと伝説される場所が大矢部5丁目18の腹切松公園という。大介は老馬でここまで落ちて来た処、ここで馬が動かなくなったので、先祖の墓のある円通寺の見えるここを死場所と悟り切腹して果てた。馬は一声いななき、北側の崖の上まで駆け上がり、そこで自ら舌を噛み切って自害したと云う。1巻治承四年八月27日

みうらよしつら三浦十郎義連は、三浦一族。三浦介義明の九男。後に佐原をもらい、佐原氏を名乗るが本家が北条氏に敗滅すると三浦介を受け、戦国初期の導寸まで続く。2巻養和元年四月七日

みおやじうろうひろのり水尾谷十郎は、水尾谷十郎廣徳で、埼玉県比企郡川島町76廣徳寺が館跡と云われ、水堀や空堀が現存。5巻文治元年(1185)十月十七日

みかみいえすえ三上弥六家季は、栃木県芳賀郡市貝町見上。5巻文治元年(1185)十月九日

みかわのかみ參河守は、源参河守範頼。3巻元暦元年(1184)八月六

みけあつたね美氣三郎敦種は、三池で福岡県大牟田市大字三池。4巻元暦二年(1185)二月一日

みけおおくらたいふ美氣大藏大夫は、美氣三郎敦種。三池で福岡県大牟田市大字三池。4巻元暦二年(1185)五月八日

みけさぶろうあつたね→みけあつたね

みずしろろくじ水代六次は、栃木県下都賀郡大平町西水代で六郎の次郎。寿永二年(1183)二月廿三日

みだいどころ御臺所は、北条政子。2巻永元年(1182)七月十二日・2巻壽永元年(1182)十月十七

みなとがわかげずみ湊河庄司太郎景澄は、那珂湊市。寿永二年(1183)二月廿三日

みなもとかねつな検非違使の兼綱は、源兼綱。頼政の弟の子(甥)で頼政の養子になっているので、頼政が以仁王の謀反に加担していることを実は兼綱は知っている。しかし、この時点で平家は知らない。1巻治承四年五月十日

みなもとかねよし兼能は村上源氏雅兼の孫で通能の子。5巻文治元年(1185)十月27日

みなもとくになり源邦業は、醍醐源氏盛邦の男。この後四年後の建久元年十一月七日の入洛に下総守邦業で出演する6巻文治二年(1186)二月二日

みなもとくらんどたいふ源藏人大夫は、大内頼兼。遠江守は、安田義定。9巻文治五年(1189)五月十九日

みなもとしげより宮内大輔重頼は、頼光系清和源氏。5巻文治元年(1185)十月24日

みなもとのりきよ美濃前司は、源則Cで頼光系。4巻元暦二年(1185)四月26日

みなもとまれよし土佐冠者希義は、頼朝の同母弟。その墓所は、高知市介良乙に源希義神社とその近くに西養寺跡(廃寺)がある。なお、同地点を記憶して、グーの地図の検索で1km以下の地図だと神社名が出ている。2巻寿永元年九月25日

みなもとみちちか通親は、土御門通親。後に頼朝の娘の入内を餌に頼朝に近づき、九条兼実を追い落とし、実権を握るが、反幕派の黒幕。4巻元暦二年(1185)六月名字が久我、後に土御門。

みなもとみつすえ豊前々司光季は、光行の父、その父は季遠で同様に平家に仕えていた。満政流清和源氏。源義家源義忠源忠宗−源季遠−源光季−源光行−源親行 (奥富敬之氏説)ウィキペディアから3巻元暦元年(1184)四月廿二

みなもとみつすけ光輔は、河内国司で宇多源氏。10巻文治6年(1190)8月3日

みなもとみつゆき源 光行(1163年-1244年3月27日)は、鎌倉時代初期の政治家・文学者・歌人である。満政流清和源氏。源義家源義忠源忠宗−源季遠−源光季−源光行−源親行 (奥富敬之氏説)ウィキペディアから。やがて京都へ帰り北面になり、承久の乱で敵対する。3巻元暦元年(1184)四月廿二

みなもともろなか師仲卿は、源師仲で平治の乱の首謀者の一人だが、敗色濃くなると三種の神器を持って投降したが、許されず下野国へ配流になった。4巻元暦二年(1185)三月24日

みなもとより源頼―の書き方は、朝の文字は朝廷に通じるので、遠慮をして縦線を引き文字を書かない。1巻治承四年十月十六日

みなもとよりかね頼兼は、入道源三位頼政の子で大内裏警固役をしたので大内と名乗る。

みなもとよりたか源頼隆(生年平治元年 - 不詳)は、平安末期〜鎌倉中期の武将。河内源氏の三代目棟梁八幡太郎義家の七男 陸奥七郎義隆の子。毛利三郎、毛利冠者と称する。信濃国水内郡若槻庄を領してからは若槻を号する。官位は伊豆守従五位下。法名は蓮長(出典、尊卑分脉)子に若槻頼胤、森(若槻)頼定(康元二年(1257)正月大十三日己亥。霽。酉尅、 若槻前伊豆守 從五位下源朝臣頼定卒す〔年七十九〕。)がいる。吾妻鏡には、第1巻治承4年(1180)9月17日。5巻文治1年(1185)9月3日。10巻建久1年(1190)11月7日・11日。15巻建久6年(1195)3月10日の五度だけ。→毛利頼隆

みのたかかね野三郎大夫高包は、三野郡で現在の香川県三豊市三野町。3巻元暦元年(1184)九月十九

みののしゅりょうたろう三野首領太郎は、郡司の息子と思われる。3巻元暦元年(1184)九月十九

みののしゅりょうもりすけ三野首領盛資の首領は、三野郡の郡司。3巻元暦元年(1184)九月十九

みののぜんじ美濃前司は、源則Cで頼光系。4巻元暦二年(1185)四月26日

みぶかねただ權右中弁兼忠は、壬生。4巻元暦二年(1185)四月24日

みむらちかとき三村親時は、加々美遠光―小笠原長清―長経三村長時親時36巻寛元3年(1245)8月15日

みよしぜんしん三善善信は、出家前は三善康信。母の姉が頼朝の乳母で、流人時代に月に三度京都の情勢を手紙で伝えていた。出家して善信で出演。治承四年(1180)六月小十九日条

みよしやすのぶ康信は、三善康信。母の姉が頼朝の乳母で、流人時代に月に三度京都の情勢を手紙で伝えていた。出家して善信で出演。治承四年(1180)六月小十九日条

みんぶしょうゆう民部少輔は、基成で泰衡の母方祖父。9巻文治五年(1189)五月二十二日

むさしのかみどうよしのぶ武藏守同義信は、源義信。3巻元暦元年(1184)六月二十日むさしのかみよしのぶ武藏守義信は、大内。河内源氏で爲義の兄。3巻元暦元年(1184)七月廿日

むつのかじゃ陸奥冠者は、治承四年(一一八〇)九月十七日千葉介常胤が預かっていた陸奥六郎義隆の子毛利冠者頼隆を紹介している。2巻養和元年六月十九日

むつのよしたか陸奥六郎義隆は、八幡太郎義家の末っ子。1巻治承四年九月十七日

むつのよしもり陸奥十郎義盛は、通称は新宮十郎。熊野神社は本宮が平家方で、新宮が源氏方。1巻治承4年4月9日E

むなかたしょうゆう宗像少輔は、宗像神社関係者。6巻文治二年(1186)三月十二日

むらやまのしちろうよしなお村山七郎義直は、信濃国村山庄で現長野市村山。1巻治承四年九月七日・2巻養和元年五月十六日

もうりかげゆき毛利太郎景行は、相摸國毛利庄で現厚木市毛利台。1巻治承四年八月23日

もうりひろみつ毛利広光は、大江広元―毛利季光―広光36巻寛元3年(1245)8月15日

もうりよりたか 毛利冠者頼隆源頼隆は、平安末期〜鎌倉初期の武将。河内源氏の三代目棟梁八幡太郎義家の七男 陸奥七郎義隆の子。毛利三郎、毛利冠者と称する。信濃国水内郡若槻庄を領してからは若槻を号する。官位は伊豆守従五位下。法名は蓮長(出典、尊卑分脉)子に若槻頼胤、若槻頼定(康元二年(1257)正月大十三日己亥。霽。酉尅、若槻前伊豆守從五位下源朝臣頼定卒す〔年七十九〕。)がいる。吾妻鏡には、第1巻治承4年(1180)9月17日。5巻文治1年(1185)9月3日。10巻建久1年(1190)11月7日・11日。15巻建久6年(1195)3月10日の五度だけ。

もくのかみのりすえ木工頭範季は、藤原。大治5年(1130年)- 元久2年(1205年))は平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての公家。九条兼実の家司。羽林家南家高倉流の祖。後白河法皇の近臣。父は藤原南家の藤原能兼。母は高階為時娘。藤原範兼は兄で養父でもある。妻は平教盛の娘・教子。娘に後鳥羽天皇女院で順徳天皇生母である修明門院重子がいる。ウィキペディアから6巻文治二年(1186)十月十六日

もちひとおう以仁王は、後白河天皇の子でありながら、兄は二条天皇に弟は高倉天皇になったにも関わらず、平家の縁に繋がらなかったので、親王宣下すら受けていない。しかし、平家の横暴に憤り、平家討伐の令旨を発する1巻治承四年四月九日

もちひとおうのわかみや以仁王の若宮は、後の道尊僧正。1巻治承四年五月十六日

もちひとうりょうじ令旨は、実在のものではなく、源平盛衰記からとったものという意見もある。1巻治承四年四月廿七日

もりさだしんのう若宮〔今上が兄〕は、今上後鳥羽天皇の兄で守貞親王。承久の乱後に鎌倉幕府のおかげで子供が後嵯峨天皇になり、天皇無経験で後高倉院になり院政を行う。4巻元暦二年(1185)三月24日、四月十一日

もろおかしげつね重經は、師岳重經で神奈川県横浜市港北区師岡町。彼は頼家の誕生に鳴弦の役を大庭景能と多々良貞義と共に出演。後は文治五年の奥州合戰に出演のみ。4巻元暦二年(1185)四月十五日

もろのかじゃすえみつ毛呂冠者季光は、毛呂太郎藤原季光。埼玉県入間郡毛呂山町。藤原氏。父は成光。又は季師。頼朝が伊豆時代に食料が無く、従者があちこち食い物を貰いに歩いたが何処でも断られ、とうとう毛呂まで来て、この季光に貰ったという逸話がある。頼朝は天下を取ってからこの人を大事にした。1巻治承四年(1180)十二月十二日・6巻文治二年(1186)二月大二日藤原季師の子とされる。埼玉県毛呂山町。源氏以外で一族待遇をされ国司に任命されると準御門葉。毛利季光(大江広元の四男)とは別人9巻文治五年(1189)六月九日

もろなかきょう師仲卿は、源師仲で平治の乱の首謀者の一人だが、敗色濃くなると三種の神器を持って投降したが、許されず下野国へ配流になった。4巻元暦二年(1185)三月24日

もんがくぼう文學房は、門覚で平安時代から鎌倉時代初期にかけての真言宗の僧。弟子には上覚、明恵らがいる。俗名は遠藤盛遠(えんどうもりとお)で、元は摂津国渡辺党の武士であり、鳥羽天皇の皇女統子内親王(上西門院)に仕えていた北面の武士だった。従兄弟で同僚の渡辺渡(わたなべわたる)の妻、袈裟御前に横恋慕し、誤って殺してしまったことから出家したという。荒廃しきっていた神護寺を再興するため後白河天皇に強訴したため、渡辺党の棟梁の摂津源氏の源頼政の知行国であった伊豆国に配流された。そこで同じく配流の身だった源頼朝に平家打倒の挙兵を促す。その後、頼朝や後白河法皇の庇護を受けて各地の寺院を修復したが、頼朝が死去すると後鳥羽上皇に疎まれて佐渡国へ流罪となり客死した。ウィキペディアから。4巻元暦二年(1185)七月十五

もんよぼうかくえん文陽房覺淵は、加藤次景廉の兄。1巻治承四年七月五日

あいうえお かきくけこ さしすせそ たちつてと なにぬねの はひふへほ まみむめも やゆよわりるれろわん

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