吾妻鏡入門人名事典名字の部  

あいうえお かきくけこ さしすせそ たちつてと なにぬねの はひふへほ まみむめも やゆよわりるれろわん

やしまとききよ八嶋冠者時Cは、美濃国八島郷で、大垣市八島町。5巻文治元年(1185)十一月廿

やすゆきむね夜須七郎行宗は、夜湏とも書き、夜須郷で現在の高知県香南市夜須町、行宗の娘が希義の嫁でる。2巻寿永元年九月25日条で出演。7巻文治三年(1187)三月十日

やすだよしさだ安田三郎義定は、甲斐源氏武田党。武田義清の四男なれど兄逸見清光の養子となり甲斐国山梨郡安田を本拠とする。1巻治承四年八月25日2巻養和元年二月廿七日・遠江守護。2巻養和二年五月十六日・2巻養和二年五月十六日・寿永二年(1183)二月27日

やすつねあそん泰經朝臣は、高階。3巻元暦元年(1184)五月二十一3巻元暦元年(1184)十月廿八

やすゆきむね夜須七郎行宗は、夜須郷で現在の高知県香美郡夜須町、行宗の娘が希義の嫁でる。2巻壽永元年(1182)九月廿五

やすのむすめ夜須の娘が、伝説では希義の子供を生み、その子孫が戦国時代まで介良に残り、長宗我部氏に滅ぼされる。2巻壽永元年(1182)九月廿五

やのきつない矢野橘内は、本当は矢作りの名人なので「矢の橘内(内の舎人経験者の橘氏)」だったはずが、子孫が「の」を漢字の「野」にしてしまった。4巻元暦二年(1185)六月

やはぎのじろう矢作二郎は、千葉県千葉市中央区矢作町か?4巻文治元年(1185)八月24日

やまがたのすけためつな山方介爲綱は、安芸介で山県郡司。広島県山県郡。3巻元暦元年(1184)十月十二

やまがひでとお山峨兵藤次秀遠は、山鹿で福岡県遠賀郡芦屋町大字山鹿に山鹿小学校あり。4巻元暦二年(1185)三月24日

やまがみたかみつ山上太郎高光は、上野國山上保で、群馬県桐生市新里町山上、旧新里村山上。4巻元暦二年(1185)正月一日

やまきかねたか山木兼隆は、平信兼の子で静岡県伊豆の国市韮山山木。1巻治承四年八月四日

やまざき六郎山崎は、大分県大分郡湯布院町川南。2巻養和元年二月廿九日

やまだしげずみ山田太郎重澄は、満政流清和源氏で息子が山田重忠。美濃源氏で、旧岐阜県郡上郡山田村→大和町→現在の岐阜県郡上市大和町。2巻養和二年三月五

やまだしげたか佐渡前司重隆は、清和源氏満政流で美濃源氏の頭領、美濃国山田荘(大和村)。後に山田次郎重隆で出演。10巻文治6年(1190)4月4日

やまだしげただ重忠は、山田。10巻文治6年(1190)6月29日

やまだしげひろ大和守は、大和守山田重弘で尾張源氏。浦野重遠の子。5巻文治元年(1185)十月二十一

やまとのかみ・やまだしげひろ大和守は、大和守山田重弘で尾張源氏。浦野重遠の子。5巻文治元年(1185)十月二十一

やまなよしのり山名伊豆守義範。新田義重の私生児で高崎市山名町。4巻文治元年(1185)八月廿九日

やまのうちしげとし縫殿助は、重俊で山内首藤瀧口三郎經俊の子。この単語が出て来るのはこれが最初。次は、建久六年(1195)三月十日頼朝奈良大仏殿供養に出発の名簿に出てくる。4巻元暦二年(1185)四月十五日

やまのうちつねとし山内首藤瀧口三郎經俊は山内庄で、相摸の国最大の庄園で七十一村に及んだ。現在の鎌倉市北鎌倉、藤沢市大鋸、横浜市戸塚区泉区栄区瀬谷区と港南区野永谷を含み、八条院領である。1巻治承四年十月廿三日。經俊は、山内首藤瀧口三郎經俊。正治元年(1199)十月小廿八日条に山内刑部烝經俊と出る。4巻元暦二年(1185)四月十五日・やまのうちつねとし山内瀧口三郎經俊は、元相模国山内庄領主、滝口は京都御所の北側に鑓水の取り口が滝になっていたので、そこへ祗候していた北面の武士を滝口という。5巻文治元年(1185)十月23日

やまのみややまの宮は、比叡山の円恵法親王。4巻元暦二年(1185)正月六日

やまもとよしつね山本義經は、近江国東浅井郡田中村に山本山の古城あり。新羅三郎義光ー義業ー義定ー義經。又、比叡山の下(本)なので山本。1巻治承四年十二月一日

ゆうきしげみつ結城重光は、朝光―重光36巻寛元3年(1245)8月15日

ゆうきともひろ結城朝広は、朝光―朝広36巻寛元3年(1245)8月15日

ゆうきのともみつ結城七郎朝光は、初めて結城で登場、今までは小山だったが、実はこの時点では結城の所領はもらっていない。寿永二年の小山合戰の際に頼朝への勝利進言の褒美にもらう。2巻養和元年四月七日

よいちよしただ余一義忠は名字を佐那田と云い平塚市佐那田に独立。1巻治承四年八月二十日参考余一義忠は、佐那田余一義忠で岡崎義實の嫡男。石橋山の合戦で俣野五郎景久を組み伏せるも、刀が抜けず後ろから長尾新六定景に討たれた。7巻文治三年(1187)十月二日

よごしょうぐん余五将軍は、今昔物語に英雄として出てくる。維茂は貞盛の弟繁盛の子で貞盛の養子になったのが十五番目で、十に余る五なので「余五」。8巻文治四年(1188)九月十四日

よこちたろう横地太郎は、横地太郎長重で静岡県菊川市東横地に横地郵便局・横地小学校あり。元小笠郡菊川町東横地。6巻文治二年(1186)二月六日

よこちながしげ横地太郎長重は、静岡県菊川市東横地に横地郵便局・同小学校あり。元小笠郡菊川町東横地。寿永二年(1183)二月十七日

よこみぞすけしげ横溝五郎資重は、近江国横溝で滋賀県東近江市横溝町。得宗被官。二十5巻承久三年(1221)五月廿二日廿6巻承久四年(1222)正月八日

よこみぞよしゆき横溝六郎義行は、近江国横溝で滋賀県東近江市横溝町。得宗被官。第十5巻建久六年(1195)三月大十日廿6巻承久四年(1222)正月八日

よこやま横山は、横山党で、小野の子孫。9巻文治5年(1189)9月6日

よしだつねふさ藤中納言は、吉田經房で後白河法皇には直接手紙を出せないので、関東申し次を通している。吉記の作者。4巻元暦二年(1185)三月四日

よしなかはさんさい義仲は三歳の嬰兒也は、数え年二歳の間違い。1巻治承四年九月七日

よしのぶ義信は、大内武藏守義信。3巻元暦元年(1184)五月二十一、河内源氏で爲義の兄。3巻元暦元年(1184)八月十七

よしはし 良橋は、詳しくは不明だが、候補として三箇所考えられる。下総に吉橋郷八千代市吉橋。武蔵国芦足なら昭和町。横浜市磯子区杉田に良橋あり。2巻壽永元年(1182)六月一日

よしもとのおとうと義基の弟は生け捕られ三年間京都の獄舎におり、義仲に出される。2巻養和元年二月九日

よしもりほっし能盛法師は、藤原氏で預所。本所は後白河院。8巻文治四年(1188)四月十二日

よしやす能保は、一条能保で頼朝の姉婿。文治元年(1185)十月大廿二日

よしゅう豫州は、義経。9巻文治5年12月23日

よねもち米用は、長野県須坂市米持。2巻養和元年五月十六日

よもだ四方田の読みを当初「しもだ」としておりましたが、「奥州余目記録」の五人一揆結成の条で、「四方田」のよみに「シハウテン」と振り仮名がされている。とのご指摘を戴きましたので、「しほうでん」とします。その後四方田さんから名字は「よもだ」と読むとの事なので「よもだ」に訂正した。201207159巻文治五年(1189)七月十九日

りっしちゅうかい律師忠快は、小河律師忠快、平教盛の子、丹波小河庄(現、京都府亀岡市千代川町小川)。後に鎌倉へ連れてこられて八幡宮寺の供僧となる。4巻元暦二年(1185)四月十一日

りゅうべん隆辨は、藤原隆房(四条隆房・冷泉隆房)の息子。母は葉室光雅の娘。

るすいえかげ左近將監家景は、伊沢家景で、後に留守家景と名乗り、東北の大代名になる留守氏の祖。10巻文治6年(1190)3月15日

ろくじょうせっしょう六條攝政は、基実。1巻序文

ろくじょうていいぜんしつ六條廷尉禪室は、廷尉は検非違使の唐名、頼朝の祖父爲義が六条左女牛に住んでる検非違使なので。1巻治承四年八月24日

ろくだいごぜん惟盛卿の嫡男〔字を六代〕は、政盛─忠盛─C盛─重盛─惟盛─六代御前。平家の嫡流の六代目。5巻文治元年(1185)十二月十七

ろくろうたいふたねより六郎大夫胤頼も、千葉介常胤の六男で東氏。9巻文治五年(1189)八月十二日

わかぎみ若公は、万寿で後の頼家。2巻永元年(1182)十月十七

わかみや〔きんじょうがあに〕若宮〔今上が兄〕は、今上後鳥羽天皇の兄で守貞親王。承久の乱後に鎌倉幕府のおかげで子供が後嵯峨天皇になり、天皇無経験で後高倉院になり院政を行う。4巻元暦二年(1185)三月24日4巻元暦二年(1185)四月十一日

わけきよなり和氣C成(医師)脱漏嘉禄3年5月3日

わけさだつね和氣定経脱漏嘉禄1年7月6日

わけさだもと和氣定基(前権侍医定経男)脱漏嘉禄1年7月6日

わたなべ渡部は、渡辺の津で嵯峨源氏の渡辺綱で有名。現在の大阪府大阪市北区中之島3丁目の渡辺橋両岸付近。4巻元暦二年(1185)二月十八日

わだのさぶろう和田三郎は、宗實で和田太郎義盛の弟。9巻文治5年12月1日

わだのたろうきょうだい和田太郎兄弟は、和田小太郎義盛(神奈川県三浦市初声町和田)と和田次郎義茂(鎌倉市杉本觀音裏山の杉本城)。4巻元暦二年(1185)三月九日

わだのよしもち和田次郎義茂は、三浦一族。和田義盛の弟で、後に越後国奥山荘(新潟県北蒲原郡)をもらい高井と名乗り、その子孫が紫雲寺町・中条町・黒川村の三家に分家する。2巻養和元年四月七日

わだのよしもり和田小太郎義盛は義明長男杉本太郎義宗の長男で三浦市初声町和田。1巻治承四年八月二十二日

わたらいいくとも生倫は、伊勢神宮の神主度会(わたらい)氏で、会賀四郎太夫と号す。兄は相賀二郎光倫。5巻文治元年(1185)十一月廿四

あいうえお かきくけこ さしすせそ たちつてと なにぬねの はひふへほ まみむめも やゆよわりるれろわん

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