吾妻鏡入門・・解説参考文一覧(五十音順) よみ原文説明。掲載場所

進行状況:9巻文治5年(1189)9月末日まで整理済み

あ行 か行 さ行 た行 な行 は行 ま行 や行 ら行 わ行

あいおんし合御使は、遣唐使以来幕末まで必ず正副両使を任命した。七巻文治3年(1187)8月30日

あいかまえ相搆へは、悪巧みをしている。五巻文治元年(1185)10月6日

あいひろのばば相廣之馬塲は、縦横同じ広さの馬場。二巻壽永元年(1182)6月7日

あいもよおし相催は、軍勢催促。一巻治承4年8月24日

あおは、裏のある狩衣。9巻文治5年6月6日

あおぐろは、全身真っ黒の最も黒い毛色。季節により毛先が褐色を帯び青鹿毛に近くなることがある。二巻養和2年1月28日

あおぢにしき地錦は、青を基調としたグラデーションの織物。赤地錦は將軍しか着れない。八巻文治4年(1188)7月10日

あおめとは、本来女性は結婚すると眉を剃ってしまうが、眉が青い(剃っていない)ので若い未婚の女性を指す。(但しここでは篤光の妻と云ってるので正妻ではないのかも知れない。一巻治承4年9月10日あおめは、青二才と同じ未だ若い女。眉を剃っていない女=正式に妻になっていない。

あおめをまねく女を招くは、と云いながら妻を提供するのは、当時偉い人の宿泊には夜伽をする女性を差し出すのが礼儀だったのかもしれない。とすれば妻を偽って出すのは貴種への憧れと、関東では女性が不足していたことも考えられる。一巻治承4年11月10日

あかぎ赤木は、トウダイグサ科の常緑高木。沖縄・台湾・東南アジア・オーストラリアなどに分布。高さ20メートルに達する。樹皮は赤褐色。葉は三小葉からなる複葉。花は小さく黄緑色。材は赤褐色を帯び、装飾材・家具材とする。カタン。Goo電子辞書から 又は皮をむいてある木〔立派な」の意。これに対し黒木は皮をむいていない木で〔粗末な」の意。9巻文治5年(1189)9月17日

あかぢにしき赤地錦は、赤糸を貴重として金襴で模様を織り込んだ生地。五巻文治元年(1185)11月3日

あかはしこの5月15日に、鶴ヶ丘八幡宮寺社務式次第には、石造の赤橋をかけたとあります。二巻養和2年5月12日

あからさまに白地には、突然に。六巻文治2年(1186)3月2日

あきらかにめいさつをたれる明かに冥察を垂れるは、はっきりとした判決を下す。六巻文治2年(1186)6月15日

あくおおい幄覆は、儀式の天幕を包むように張った幔幕。当時「幄舎(あくしゃ)」と呼ばれ、禁中や公家の行事をはじめ、社寺の祭礼・法会の際の臨時の建物として使われていた。「有職故実大辞典」では、「柱を立て、棟を設け、布帛を張り巡らして、屋根から周囲全体を覆い包んで“あげばり”といい、その布帛を“幄覆(あくおおい)”という」とある。七巻文治3年(1187)8月28日

あげうま馬長(あげうま)は、馬飾りを着け着飾った者が乗る。(馬上とも書く)八巻文治4年2月28日。九巻文治5年(1189)4月3日祭礼草子に馬上役と出てくる。「めのおさ」八巻文治4年(1188)2月28日 九巻文治5年(1189)4月3日九巻文治5年(1189)6月20日

あげもうさるる擧げ申被るは、頼朝が推薦した。三巻元暦元年(1184)8月17日

あげもうす擧げ申すは、推挙する。二巻壽永元年(1182)10月17日

あざな熊谷次郎平直實の、熊谷は名字の地。次郎はあざな。平は姓。直實が実名で直は通字。二巻壽永元年(1182)6月5日

あしげ葦毛は、体の一部や全体に白い毛が混生し、年齢とともにしだいに白くなる。はじめは栗毛や鹿毛にみえることが多い。原毛色の残り方から赤芦毛・連銭芦毛など種々ある。二巻養和2年1月28日三巻元暦元年(1184)12月2日、六巻文治2年(1186)10月3日九巻文治5年(1189)6月9日

あしょう亞相は、大納言で丞相に次ぐの意味。と同時に相でないの意味もある。三巻壽永3年(1184)2月11日

あずかりしゅごす預り守護すは、預かり囚人(あずかりめしうど)。二巻養和元年2月18日

あずかりたまい預り給ひは、預所職として現地徴税役。荘園の重層的支配でその順は、後白河法皇ー蓮華王院ー出雲社ー預所ー名主ー作人ー小作人ー在家とあり、実際に耕作しているのは在家。この朝廷から派遣された預所と武家である地頭とが年中徴税権利を争っている。三巻元暦元年(1184)9月20日

あずかる 預かるとは預かり召囚(めしうど)。一巻治承4年11月20日

あぜち按察使は、奈良時代に置かれた官職で、国司など地方行政官を監督・視察する役だが、平安時代になると名義だけになってきた。壽永3年(1184)1月10日

あそう亞相は、亜は次(つぐ)の意味で、相は丞相(しょうじょう)=大臣の意味。で大臣の次になるので大納言。これが転化して大臣でないの意味にも使う。三巻壽永3年(1184)4月6日亞相は、大納言の唐名。九巻文治5年(1189)閏4月1日

あそうじょうがいのひ亞相城外之日は、京都から出てくる日。三巻元暦元年(1184)6月1日

あだちぎぬ安達絹は、福島県安達郡川俣町の特産品9巻文治5年(1189)9月17日

あつふさのしりがい厚總の鞦は、のれんのようにひらひらしたしりがい。42巻建長4年(1252)4月大14日厚総とも書く。

あてかす宛て課すは、新たに徴収するのではなく、納める年貢米の内から差し引いた。公卿たちの取り分からピンはねした。五巻文治元年(1185)11月28日

あない案内は、案内すると精通しているの二種類に使い分ける。二巻養和元年6月19日

あにのくびをあいぐす参考兄之首を相具すは、平家物語では窓のない牛車に乗せられ、後ろ手に結わかれ兄の首を膝に乗せて描かれている。二巻養和元年2月9日

あめによってえんいんす雨に依て延引すは、船に屋根が無いので雨水が溜まり沈んでしまうから。四巻元暦2年(1185)3月21日

あらためらるる改め被るは、当時の哲学思想で、名実相応思想。摂関家の人と同音名は変えられてしまう。六巻文治2年(1186)閏7月10日

あわせておんし合せて御使は、合御使と云い、遣唐使以来幕末まで必ず正副両使を任命した。七巻文治3年(1187)8月30日

あわれみ哀みは、慈しむ。四巻元暦2年(1185)4月28日

あわれみたてまつる憐み奉るは、大切にする・尊重する。四巻元暦2年(1185)5月3日

あわれみたまう愍み給ふは、可愛がる。四巻元暦2年(1185)5月1日

あんど安堵は、元々「堵の内に安んじる」ことから領地を持つこと。或いは領地を保障する。9巻文治5年(1189)9月13日

あんぶん案文は、写し。三巻元暦元年(1184)7月2日

あんらくじ安楽寺は、大宰府天満宮の菅原道真廟所。六巻文治2年(1186)6月15日

いえのにょうぼう家の女房は、九条家に仕える女官。一巻序文

いかん衣冠は、宮中勤務者が束帯は窮屈な爲、宿直用に下着類を省き、面倒な裾も止め袴をゆったりした指貫に変えた「宿直装束」。二巻養和2年2月8日→右の絵

いくさは秋の収穫が終ってからでないと兵糧が足りないので、夏場はしない。一巻治承4年12月11日

いくさめつけ土肥次郎實平・梶原平三景時は、戰目付け。三巻元暦元年(1184)4月29日

いくせんまんをしらず幾千万をしらずは、当時の日本の人口が1200万を越えていないと思われる。一巻治承4年10月6日

いくせんまんをしらず幾千万を不知とあるが、当時は日本全国で一千万人くらいしかいなかった。三巻壽永3年(1184)2月20日

いざはのみやにらんにゅう伊雜宮に乱入したのは、治承5年2月26日。二巻養和2年2月8日

いしいすすむせつ石井進氏説の御家人の屋敷地三点セット@幕府へ出仕する際に正式の服装に着替える為の「着替所」(鎌倉中心部)A鎌倉での寝泊りや普段の暮らしの為の生活屋敷「生活所」B鎌倉での生活の為の食糧生産地「供給所」とが与えられている。比企四郎能員は有名な妙本寺の比企谷がAなので、東御門は@「着替所」とすいそくされるが、場所が特定できない。五巻文治元年(1185)9月1日

いしつぼ石壷は、内庭で三面、又は四面を建物で囲まれた庭を壷又は坪庭という。石の壷は、おそらく庭石が配してあるのかもしれない。壽永3年(1184)1月27日

いしばしかっせん石橋合戰は、現在は石橋山合戦と言ってるが、当時は山をつけていない。四巻元暦2年(1185)5月9日

いしばしやま石橋山は、小田原市石橋。一巻治承4年8月23日

いしゆみ石弓について、投石器との説も有るが、1999平成12年6月22日新聞の記事に下記の通りなので、東北地方では未だに保有していたのかもしれない。九巻文治5年(1189)8月8日

実用品の「弩」出土 宮城・築館 青銅製の引き金部分 中国から伝わり、古代日本で弓に似た武器として使われた「弩」の青銅製の部品が、宮城県築館町の伊治城址にある奈良時代から平安時代初頭にかけての住居跡から出土したと、宮城県教委が21日発表した。国内では、島根県内の弥生時代の遺跡から先月、出土した木製の弩に次ぐ出土だが、坪井清足・大阪府文化財調査センター理事長によると、「実際に使われたものとしては、今回が初めてだ」という。 弩は洋弓に似た武器で、弓のついた本体の台に屋を装てんし、引き金を引いて発射する。出土したのは「機」という引き金の部分で、大きさは、縦六a、横三・五a、高さ二a。ほとんどが青銅製で、一部に鉄が使われている。同県教委は「中国で出土した弩と同じ構造」とみている。坪井理事長は「当時は青銅が貴重品で、律令政府が回収、リサイクルしていたため、これまでに弩は出土しなかったのだろう。出土地点は兵舎だったと考えられる」と話している。

いしょう衣装について、@束帯・正式には文官束帯。冠をかぶり、大口袴・襪(しとうず)又は肌小袖を身に着け、上に単(ひとえ)を身に着け表袴(うえのはかま)で纏めた。その上に衵(あこめ)、下襲(したがさね)、半臂(はんび)を重ね着る。その上に縫腋袍(ほうえきほう)を着て石帯で纏める。太刀を下げる際には平緒と呼ばれる帯で吊るす。A武官束帯・冠が束帯と違う。纓(えい)が束帯は後ろへ垂らし、武官はくるりと巻いている。それに緌(おいかけ)と呼ばれる馬の毛で作った半円形の飾りが顔の横についている。着る物は束帯に同じだが、縫腋袍(ほうえきほう)のかわりに、闕腋袍(けつてきほう)を着て石帯で纏める。B衣冠・束帯の表袴と大口袴を指貫に変え、半臂(はんび)下襲(したがさね)石帯を除いた。C直衣・

いじょうゆいしょあり已上由緒有りは、事情がある、問題がある。(何か不都合があるらしい)三巻壽永3年(1184)4月6日

いしん異心は、謀反の心。四巻元暦2年(1185)5月7日

いずいっしょ伊豆一所は、後に馬宮荘を、現在の函南町間宮。一巻治承4年8月19日

いずこくふ伊豆國府は、三島。10巻文治6年(1190)1月19日

いずのごうけつ伊豆の豪傑とは、北条家の分家で小さな土豪に過ぎないので豪族と書けずに苦心惨憺の上で豪傑と書いた。一巻治承4年4月27日

いずのこくふ伊豆の國府は、三島神社近くの駐車場が跡地と言われる。三巻壽永3年(1184)3月27日

いず、はこね、みしましゃ伊豆、筥根、三嶋社は、二所詣でといって箱根權現と伊豆山權現の二箇所に詣でる。必ず三島神社にも詣でる。皆、頼朝の平家討伐の祈願した神社。

いずものくにつづきたいしゃ出雲國杵築大社は、現出雲大社。九巻文治5年(1189)6月15日

いせいをふるうのあまり威勢を振う之餘りは、富士川の合戰は当時京都には武田と平家の合戰として知られ、一の谷合戰でも西側からの攻撃が際立ったと知られている。三巻元暦元年(1184)6月16日

いせだいじんぐう伊勢太神宮に寄せ奉り給ふは、御厨をたてるとも云い、庄園を伊勢神宮に寄進することで、この時点で御厨と云う。一巻治承4年9月11日

いせのくに伊勢國は、元々伊勢平氏と言われ平氏の本拠だった。三巻壽永3年(1184)3月22日

いそん異損は、不作。六巻文治2年(1186)3月10日

いちがらん一伽藍は、伊豆の国市韮山町の願成就院。9巻文治5年(1189)11月24日

いちじょうかわさきかんのんどう一條河崎觀音堂は、京都堀川一条にあったとされる感応寺。京都市上京区梶井町。貞観年間(859から877)に一演法師が建立と伝える一条河崎観音寺とも。一条京極東に鴨川右岸を河崎と言う。河崎はかつて法成寺をはじめとする寺院や邸宅への鴨川からの取水口と推定。明月記に「今月御幸川崎泉」とある。泉は取水口の風景では。義経の母と妹が頼朝の配下に捕らえられたのはこの付近。一演法師がここで仏の感応があって築いたので、感応寺と一演はもと奈良の薬師寺の僧、貞観6年に藤原良房の病をなおして権僧正に。明月記によれば、嘉禄2年(1226)には出雲路の僧が管理をしていた。養和元年(1181)に感応寺に参詣する記事がみられ、人々の信仰を集めていた。後に清和院に合併されたといわれる。中世は京都の北東の入り口で戦略上の拠点ともなり。太平記には「西山北山賀茂北野革堂河崎清水六角堂の門の下、鐘楼の中までも軍勢の宿らぬ所はなかりけり」。応仁の乱にも「五辻火、延焼鹿苑院塔相国寺河崎観音堂」。「細川方には一条より北は出雲路東は河崎と領す」とある。享禄4年(1531)焼失上京歴史情報エクスプローラーから六巻文治2年(1186)6月13日

いちぞく一族と言う場合は、血縁関係者を指し、総領が指揮権を持つことになる。しかし、党という時は、血縁にこだわらず同盟関係を結んで平等に共和的同盟者を指す。一巻治承4年10月13日

いちぞくらにどうどうすべしのむねをぞんぜず一族等于同道可し之旨を不存は、一族皆がそろって出かけるのを待っていては自分の領地が気がかりで戦がおろそかになるのを心配している。或いは、自分の領地を気にさせ、一族からの独立心をあおる頼朝得意の大豪族解体が奥にあるかもしれない。10巻文治6年(1190)1月8日

いちにん一人(いちにん)は、普通摂関家を指すが誰も切られていない。一巻治承4年4月27日

いちりゅうのよしみ一流之好は、同じ俵藤太藤原秀郷流である。寿永2年(1183)2月23日

いちろう一臈は、六位の蔵人。三巻元暦元年(1184)4月20日六巻文治2年(1186)4月8日

いっきせず不一揆は、団結をしない。四巻元暦2年(1185)1月6日

いっこうにかんぬしがかんりょうせしむ一向に神主が管僚令むは、鎌倉からは地頭を置かないか、又は神社側が置く。三巻元暦元年(1184)12月25日

いっこんぞめ一斤染は、紅花一斤で絹一匹を染めた布。やや淡い紅色。11巻建久2年(1191)12月大24日

いっさいきょう一切経は、釈迦の説教とかかわる、経・律・論の三蔵その他注釈書を含む経典の総称。6巻文治2年(1186)2月3日

いっしんのうったえにあらず参考一身之訴へに非は、私だけに限らず皆そうだ。四巻元暦2年(1185)4月28日

いっそんおんこころざしあるのかんざいこくす一村有御志間在國は、一村を頼朝が与えておいたので、その村に住んでいた。遠山庄(現岐阜県瑞浪市。但し、荘園全体の総地頭は加藤次景廉なので、彼女は一村の小地頭。四巻元暦2年(1185)3月3日

いっちょうべつ一町別は、109mごとに。9巻文治5年(1189)9月17日

いでしつき出月は、これより佐竹の家紋は扇に月となった。九巻文治5年(1189)7月26日

いなばのかみ因播守は、大江広元。四巻元暦2年(1185)4月11日。大江広元で公文所別当。四巻元暦2年(1185)4月13日

いなばのぜんじ因幡前司は、大江広元。四巻元暦2年(1185)3月6日

いにまかせ意に任せは、身勝手に。四巻元暦2年(1185)5月4日

いぬおうもの犬追物は、犬を円形の柵の中に放ち、それを柵の外から馬上弓で矢じりの無い匹目矢で当てる。26巻貞応3年(1224)2月11日

いぬのこく戌尅は、19時から21時。二巻養和元年6月25日

いのちをすつべき命を弃つ可き一段也は、命を捨てればそれで十分だ。三巻壽永3年(1184)3月17日

いまだしゅつじんのいぜん未出陣之以前と、書いてあるが平家物語では、行家軍が夜討ちをかけようと河を渡ったところで待ち伏せにあったとあり、濡れて月夜に鎧が光るのが源氏方なので、平家からは敵の判別が容易かったとある。二巻養和元年3月10日

いまよう今樣は、流行歌。後白河が梁塵秘抄を作っている。三巻元暦元年(1184)4月20日、後白河法皇が大好き。三巻元暦元年(1184)11月6日

いみなは、実名(名には霊が存在する)。一巻序文

いれい違例は、普段の例と違うことから、病気。五巻文治元年(1185)10月6日例に違うで、普段ではない。つまり病気。六巻文治2年(1186)6月14日

いろい綺(いろい)は、口出し、争い、口論。六巻文治2年(1186)11月24日

いわやどう窟堂は、神奈川県鎌倉市雪ノ下二丁目2−1岩窟不動尊。但し崖崩れ工事のため現在は洞窟から出ている。八巻文治4年(1188)1月1日

いんは、後白河法皇。三巻元暦元年(1184)9月9日九巻文治5年(1189)6月6日

いんきょ隠居は、文字の通りで隠れ居る。三巻元暦元年(1184)5月1日

いんぎんのおんしょ慇懃の御書は、丁寧なお言葉を与えた。いわゆる感状。四巻元暦2年(1185)3月11日

いんしゅう因州は、大江因幡守廣元朝臣。四巻元暦2年(1185)5月16日

いんぜんかぎりあるによって院宣限り有るに依ては、院宣の範囲内で、つまり院宣を守っているので。院宣に限りがあるのではなく、院宣の中身に受令者の行動を限られる。三巻壽永3年(1184)2月20日

いんぜんをたいすとしょいし院宣を帶すと稱しは、命令だといって。三巻壽永3年(1184)2月20日

いんぜんをもうしさげ院宣を申し下げは、院宣を強引に出させ。四巻元暦2年(1185)5月19日

いんそう院奏は、後白河法皇へ申す。四巻元暦2年(1185)7月15日

いんとうつねよし印東次郎常義は、上総權介廣常の弟。印東は印旛沼の東。一巻治承4年10月20日

いんないしょうでん院内昇殿は、後白河院のいる仙洞と後鳥羽天皇のいる大内裏の両方への昇殿が許された。三巻元暦元年(1184)10月24日

いんのちょうのくだしぶみ院廳の御下文は、頼朝追討の宣旨。寿永2年(1183)2月15日

いんのみけしき院の御氣色は、院のご意向だが、天皇の御気色が天気である。三巻元暦元年(1184)9月20日

いんのみんまやのべっとう院御厩の別當は、後白河法王への取次ぎをするので、影の実力者となる。五巻文治元年(1185)12月6日

いんよう隱容は、隠している。九巻文治5年(1189)6月24日

ういざん初參は、当時家来になりたい人は、名簿奉呈(みょうぶほうてい)と云って、関東では実名の一字を書いて提出する。是に対し安堵状を返す。本領安堵され主従関係が成立する。見参式(げざんしき)と云う。(京都の公家は2字で二字書き出しという。)一巻治承4年7月23日

うきんご右金吾は、右衛門尉の唐名。金吾は衛門府の唐名。有綱は源三位頼政の孫で、頼朝の命で四国へ行っていたが、義経と仲良くなってしまったようだ。六巻文治2年(1186)6月28日

うけしょ請所は、年貢を徴収して一定量を決めて収める役を請け負う。他に「検見取り」毎年収穫を検査するので変動相場制とがある。二巻壽永元年(1182)10月17日請所は、過去3年間の平均作高で納付額を定額に決めた荘園。逆は検見(ケミ)と云って、毎年出来高を検査し、納付額を決める。この場合立棹と云う四角い枠である場所を決め、刈り取って出来高を決める。日向とか日陰とかどこを検査するかは前夜の接待の出来による。六巻文治2年(1186)7月28日、8月5日

うけぶみ請文は、依頼に対する返事。三巻元暦元年(1184)12月20日

うげんのしょとう有限所當は、前もって量を決められた年貢。三巻元暦元年(1184)4月23日

うごうのむれ烏合之群とは、烏合の衆と平家方を馬鹿にしている。四巻元暦2年(1185)3月29日

うじ熊谷次郎平直實の、熊谷は名字の地。次郎はあざな。平は姓、氏。直實が実名で直は通字。二巻壽永元年(1182)6月5日

うしおうもの牛追物は、柵の中に牛を放し、それを蟇目で射る。二巻養和2年4月5日

うしおうもの牛追物は、柱を円形に何本か立てて、莚で囲みそこへ牛を放ち、外から蟇目で討つ。二巻壽永元年(1182)6月7日

うじそう氏僧は、橘一族内の僧侶。六巻文治2年(1186)6月15日

うしち烏瑟は、烏瑟膩沙(うしちにしや)で仏の三十二相の一。仏・菩薩の頂上に骨肉が隆起してもとどりのような形に見えるもの。肉髻(につけい)。烏瑟之影に來るは、三井寺に逃げ込んできた。三巻元暦元年(1184)11月23日

うじでら氏寺は、奈良興福寺。六巻文治2年(1186)4月20日

うじのちょうじゃ氏長者は、藤原鎌足以来の大豪族となった藤原一族の総本家嫡家を表す。天皇家と同じように三種の神器的な物もある。五巻文治元年(1185)12月6日

うじみち宇治路は、当時は小椋池があったのでJR奈良線のように迂回していた。三巻壽永3年(1184)1月20日

うしろがみさまで後鬢サマテは、後ろ髪が禿げていて。四巻元暦2年(1185)4月15日

うぜいのせいへい有勢の精兵は、大豪族の軍隊。四巻元暦2年(1185)1月26日

うちのとねり内舎人は、朝廷内で刀を差したまま警護の出来る人一巻序文

うちやのさたにん内屋の沙汰人は、良く分からないので、身分の低い事務方と解釈した。9巻文治5年(1189)10月5日

うつのみやしゃむしき宇都宮社務職無相違は、本領を安堵した。

うてんきゅう右典厩は、一条能保のことだが、左典厩(唐名で左馬頭)の間違い。三巻元暦元年(1184)5月19日・三巻元暦元年(1184)6月1日

うのこく夘剋は、卯刻で明け六つ。九巻文治5年(1189)8月8日

うのこくとうちゃくす卯剋、到着すは、朝の六時に到着なのは、夏の暑いときは昼は歩かず、夜の涼しいときに歩く。四巻元暦2年(1185)5月17日

うばいてこれをさたす奪ひて之を沙汰すは、勝手に越権行為をしている。四巻元暦2年(1185)5月5日

うはつどころ上所は、宛名。六巻文治2年(1186)4月24日

うふ右府は、右大臣の唐名で九条兼実。五巻文治元年(1185)11月7日

うぶえい右武衛は、右兵衛の唐名で、この場合一条能保の事。九巻文治5年(1189)1月13日

うまあととまとしたとをうたせしめ馬跡と的下与を打た令めは、距離を計らせる。二巻壽永元年(1182)6月7日

うまごんのかみ右馬権頭は、正式な右馬頭に対する臨時のと云う名誉職。五巻文治元年(1185)12月7日

うまのかみ右馬頭は、右馬寮(うまりよう)の長官。従五位上相当。五巻文治元年(1185)12月6日

うまのけなみ

黒(あおぐろ)は、全身真っ黒の最も黒い毛色。季節により毛先が褐色を帯び青鹿毛に近くなることがある。

葦毛(あしげ)は、体の一部や全体に白い毛が混生し、年齢とともにしだいに白くなる。はじめは栗毛や鹿毛にみえることが多い。原毛色の残り方から赤芦毛・連銭芦毛など種々ある。

鹿毛(かげ)は、最も一般的な毛色で、鹿の毛のように茶褐色で、タテガミ・尾・足首に黒い毛が混じる。

河原毛(かわらけ)は、体は淡い黄褐色か亜麻色で四肢の下部と長毛は黒い。

栗毛(くりげ)は、全身が褐色の毛で覆われている。たてがみや尾も同色のものが多いが、白いものは尾花(おばな)栗毛と呼ぶ。

栗毛駮(くりげぶち)は、栗色で体に大きな白斑のあるもの。原色毛によって栗駁毛、鹿駁毛、青駁毛と表記され、白斑が体の多くを占めるとき駁栗毛、駁鹿毛、駁青毛という。

黒瓦毛(くろかわらけ)は、河原毛の黒部分が多いものと思われる。

白栗毛(しろくりげ)は、栗毛の白いものは尾花(おばな)栗毛と呼ぶ。

鴾毛(つきげ)は、葦毛でやや赤みをおびたもの。

鴾毛駮(つきげぶち)は、鴾毛で体に大きな白斑のあるもの。

糟毛(かすげ)は、灰色に少し白い毛が混じっているもの。九巻文治5年5月19日

うまのこくにおよびへいししましにやぶれかたむく午剋に及び、平氏終に敗れ傾くは、昼頃には勝敗が決したようなので、黒板氏の潮流変化説は根拠が無くなる。四巻元暦2年(1185)3月24日

うまのじょう馬允は、京都朝廷の左右馬寮で、御所や諸国の牧場の馬や馬具に関する担当なので、馬にあやかった悪口を言っているようである。四巻元暦2年(1185)4月15日

うまやは、街道に一定の区間ごとに、伝令などの早馬に使う馬を置いておいておく公共機関。七巻文治3年(1187)3月3日

うまる鵜丸は、白河院が手に入れた名剣で、鳥羽院・崇徳院と伝わり、崇徳院から源爲義に下賜されたと保元物語にある。五巻文治元年(1185)10月20日

うまをいころす馬を射殺すのは当時の戦マナーに反する。乗馬者は徒歩を責めては行けない。徒歩は乗馬者を責めても良い。徒歩に乗馬者が攻めれたら逃げるしかない。一巻治承4年8月24日

うらぼん盂蘭盆は、今で云うお盆。もと中国で、餓鬼道に落ちた母を救う手段を仏にたずねた目連(もくれん)が、夏安居(げあんご)の最後の日の7月15日に僧を供養するよう教えられた故事を説いた盂蘭盆経に基づき、苦しんでいる亡者を救うための仏事で7月15日に行われた。日本に伝わって初秋の魂(たま)祭りと習合し、祖先霊を供養する仏事となった。迎え火・送り火をたき、精霊棚(しようりようだな)に食物を供え、僧に棚経(たなぎよう)を読んでもらうなど、地域によって各種の風習がある。江戸時代から旧暦の7月13日から16日までになり、現在地方では月遅れの8月一3日から一5日に行われるが、都会では7月に行う地域も多い。六巻文治2年(1186)7月15日

うらみなすのよし恨爲之由は、残念でならないとの思い。三巻元暦元年(1184)4月20日

うりん羽林は、近衛将校の唐名。一巻治承4年10月20日。二巻養和2年5月16日ここでは重衡のこと。三巻壽永3年(1184)3月27日三巻元暦元年(1184)4月20日

うるうづき閏月は、陰暦では「大の月」が30日、「小の月」が29日でそれぞれ6月だと計三五4日で11日足りないので、季節がずれてくるので3年か4年に一度、適度な時期に閏月を入れる。但し閏月は15日が満月の日になるようにする。二巻治承5年(1181)閏2月4日

うれいもうす愁い申すは、嘆き頼んだ。9巻文治5年(1189)9月17日

うわくくり上括は、指貫(さしぬき)男性用の袴で裾を紐で指し貫き、すぼめて着用したことからこの名がある。紐をひざの下ですぼめる場合は上括り、かかとの上ですぼめる場合は下括りという。三巻元暦元年(1184)6月16日

うわぶせ上臥は、宿直。九巻文治5年(1189)8月9日

うわや上箭は、箙には戦闘用の征矢(そや)を24本と鏑矢(蟇目とも云う)を2本刺しているが、鏑矢は鏑の分矢が長いので上箭と云い、背中の箙を手探りでさがすと最初に鏑矢を掴むことになる。一巻治承4年8月23日うわや上箭は、鏑矢のことで、鏑の分だけ他の矢より長く上に突き出ているのでそう呼ぶ。九巻文治5年(1189)7月25日

うんとう雲藤は、出雲守藤原氏の子孫。三巻元暦元年(1184)7月25日

えいぎのおそれをちらさんため叡疑之恐れを散さん爲は、後白河法皇の怒りをそらすために。四巻元暦2年(1185)3月4日

えいきょく郢曲は、(1)〔中国の春秋時代、楚(そ)の都である郢の人が歌った俗曲の意〕流行歌曲。はやり歌。俗曲。(2)催馬楽(さいばら)・風俗歌(ふぞくうた)・朗詠・今様(いまよう)など、中古・中世の歌謡類の総称。一巻治承4年(1180)8月5日六巻文治2年(1186)5月14日

えいじにあたう嬰兒に与うは、西行の遁世感(無欲)を伝えるための逸話かも知れない。ちなみに同一ではないかもしれないが文治5年(1189)8月22日奥州征伐で平泉の倉庫の中に他の財宝とともに「銀造の猫」が出てくる。六巻文治2年(1186)8月16日

えいそん裔孫は、遠い子孫。末の子孫。八巻文治4年(1188)9月14日

えいたいにはやくちぎょうすべし永代に早く知行可しは、国司を推薦するようにの意。9巻文治5年(1189)12月25日

えいちゅうえき營中穢氣は、幕府の御所内で梶原平三景時が上総広常を殺したので穢れているし、そこに住んでいる頼朝も穢れている。壽永3年(1184)1月1日

えいちゅうにおいてちゅうされるところ營中に於て誅被る所は、御所の中で暗殺を企てる。三巻元暦元年(1184)6月16日

えいもんにたっす叡聞に達すは、後白河法皇の耳に入った。五巻文治元年(1185)11月26日

えきそう役送は、運搬係。5巻文治1年10月24日

えきろのほう驛路之法は、東海道のみで一定ごとに早馬や荷駄用馬を飼い置く。鎌倉京都間の連絡は早くて5日。五巻文治元年(1185)11月29日

えさしぐんとよだやかた江刺郡豐田舘は、江刺市藤里鎌田に東西五十七間南北三十九間を発見。9巻文治5年(1189)9月23日

えちごのくにおがわのしょうあかたに越後國小河庄赤谷は、新発田市赤岩に館跡あり、山をしょっている。後に現在の胎内市中城町鳥坂に移る。二巻壽永元年(1182)9月28日

えちごのくにじうにんじょうのしろうながもち越後國住人城四郎永用は、かつて秋田に東北経営の城を設け、そこの城守を秋田城之介としたが、後に秋田には住まなくなり、官職としてだけ残り越後平氏が継いで、名字が城一族という。二巻壽永元年(1182)9月28日

えちごへいし越後平氏は、城一族の分家。二巻養和元年2月12日

えびすは、関東武士とは種族の違う日本人の意味で、先住民的哀れみが入っており、差別しているわけではない。9巻文治5年(1189)10月24日

えふ衛府は、京都朝廷から付けられた部下としての役人。五巻文治元年(1185)10月24日

えふしょしらのかんをはいにんす衛府所司等の官を拝任すは、頼朝または鎌倉幕府の推薦無しに官職を得ることを自由任官と云って鎌倉御家人三禁止事項のひとつ。他は番役や戦場から抜ける敵前逃亡の自由退出と勝手に出家する自由出家。四巻元暦2年(1185)4月15日

えんぎ圓規は、コンパス。自由な角度に開閉できる二本の脚から成る。円を描いたり、線分の長さを移すのに用いる。ぶんまわし。円規。両脚器。羅針盤。方位磁針(ほういじしん)は、磁石の作用を用いて方位を知るための道具である。この場合は、単なる丸い箱のことらしい。四巻元暦2年(1185)3月24日

えんぎじょう縁起状は、寺の成り立ちの伝記。四巻元暦2年(1185)7月15日

えんきんひゃくりょう百兩は、粒上の金約500万円。金の重量単位は、一両は四分で重さ四匁四分は、16.5g。百両は1650g現在の相場では2009.09.09現在1g=3,152円なので9巻文治5年(1189)9月17日

えんねん延年は、延年の舞。寺院芸能の一。平安中期に興り、鎌倉・室町時代に最も栄えた。延暦寺・興福寺などの寺院で、大法会のあとの大衆(だいしゆ)の猿楽や稚児の舞などによる遊宴歌舞の総称。のちに遊僧と呼ばれる専業者が出現し、中国の故事に題材をとる風流(ふりゅう)や連事(れんじ)などは能楽の形式に影響を与えたといわれる。現在も地方の寺院にわずかに残っている。八巻文治4年(1188)10月20日

えんねんにおよぶ延年に及ぶは、延年の舞を踊ることを言うが、この頃は、雑芸で良かったらしい。九巻文治5年(1189)6月5日

えんばい塩梅は、後に塩梅(あんばい)と云って塩加減を云ったが、按配に変わる。三巻元暦元年(1184)6月5日

えんりゅうじ圓隆寺は、毛通寺の金堂。9巻文治5年(1189)9月17日

えんりょ遠慮は、遠くを見通す配慮。10巻文治6年(1190)1月29日

えんりょをめぐらす遠慮を廻らすは、遠く慮る(おもんばかる)で、じっくりと考える。四巻元暦2年(1185)3月14日

おうかのせつ謳歌説は、うわさ。9巻文治5年(1189)12月23日

おうじつきそんのこもんじょ往日弃損の古文書は、無効になった文書。四巻元暦2年(1185)3月3日

おうしゅうこうじん奥州降人は、奥州合戰の捕虜。9巻文治5年(1189)11月3日

おうばん垸飯は部下が将軍様へご馳走を用意することで、1月などは政権立場の高い順に振舞う。これが後に「大盤振る舞い」の語源となる。二巻養和元年6月13日

おうりょうし押領使は、県警本部長兼地方裁判長兼軍隊の方面隊長。辞書では「地方の暴徒の鎮圧、盗賊の逮捕などにあたった。初め、令外(りようげ)の官として国司・郡司・土豪などから臨時に任命したが、天暦(947-957)の頃から常置の官となった。」となっている。本来は地方の暴徒の鎮圧軍を送り届ける役目だったらしい。六巻文治2年(1186)閏7月2日、8月6日

おおくらきょう大蔵卿は、公領の管理者(大蔵大臣)律令制の大蔵省長官。五巻文治元年(1185)12月6日

おおせのことばのき仰せ詞の記は、後白河法皇が命じた内容を書き記したもの。9巻文治5年(1189)11月3日

おおとりい大鳥居は、鎌倉市由比ガ浜2丁目3地先の発掘された大鳥居跡と思われる。又、この辺りまで浦が入っていたものと思われる。

おおとりいないのはいでん大鳥居内の拝殿は、大鳥居は鎌倉市由比ガ浜2丁目3地先の発掘された大鳥居跡と思われ、鳥居の下に拝殿があった事が分かる。又、この辺りまで浦が入っていたものと思われる。

おおばのまうけ大庭庤は、藤沢市稲荷の大庭神社カ?又は鵠沼神明(伊勢神社)二巻壽永元年(1182)8月13日

おおはらえ大秡は、お清め。四巻元暦2年(1185)4月24日

おおばんやく大番役は、京都大番役で清盛が関東武士を靡かせる為に決めた制度で、手弁当で3年間京都の警護に当たる制度。3年とは承久の乱の際の政子の演説で分かる。これを頼朝は半年にし、時頼は三ヶ月にした。

おおまく大幕は、頼朝の宴席の周りに幔幕を張っていたことが想定されます。陣営に幔幕を張るのは矢を防ぐためなので、映画のようにきっちりと張っては意味がない。上だけをつなぎだらりと垂らしておくことにより幕が絡まり矢は突き抜けずに下に落ちる。二巻壽永元年(1182)6月7日

おおやけ大やけは、公で安徳天皇。四巻元暦2年(1185)1月6日

おおよろい腹巻は、鎧の一種。右脇で合わせ草摺が八間(枚)で、大鎧に比べ、前立ても札板剥き出しで、その他は省略されています。大鎧は右脇で合わせ草ずりが前後左右の四間(枚)で前立てには模様の描かれた弦走革が貼られ、栴檀板や鳩尾板、袖、脇楯などが付属し騎馬武者用に造られており豪華である。胴丸は、室町時代半ばになお簡略されたもので、合わせ目が後ろにあり、合わせ目の隙間を庇う為その後ろからもう一枚重ねるが、これを「臆病板」と称し、余り着けなくなってゆきます。なお、腹巻と胴丸は江戸時代になると呼称が逆転してしまい、近藤好和さんの著書以外の本や博物館は、江戸時代の呼称で分けられているので反対だと思ってください。一巻治承4年8月17日平成19年1月20日訂正

おかぐら御神樂は、踊りを踊って神様を喜ばせるもの。四巻文治元年(1185)8月27日

おかぐらあり有御神樂は、政子がスポンサーとして奉納したものと思われる。9巻文治5年(1189)12月18日

おかぐらりょうしょ御神樂料所は、お神楽奉納専用税徴収所。四巻元暦2年(1185)1月22日

おかざきしろうよしざね岡崎四郎義實に賜るとは、生殺与奪の権を与えた事になる。二巻養和元年7月5日

おきのくにへせんぎょ13日隠岐國へ遷御は、隠岐へ流罪になり京都を出発した日。一巻序文

おくがきしょはん前右兵衛佐源朝臣と、年月日の左上に書くのは、身分が高いからで、奥上署判と云う。三巻壽永3年(1184)3月1日

おくじ憶持は、思慮分別。10巻文治6年(1190)1月29日

おくねん憶念は、心の中に堅く重いいだいている事。執念。八巻文治4年(1188)4月25日

おくま御供米(おくま又はくましね)は、お供えの米だが、そのお経を上げるための坊主の食料にもお金の元にもなる。9巻文治5年(1189)10月22日

おこ→をこ

おさだのしょうじ長田庄司は、長田忠致で愛知県知多半島野間内海庄。元来源氏の家人で鎌田正Cの舅でありながら、裏切って義朝と正Cを暗殺した。9巻文治5年(1189)9月7日

おさだのにゅうどうのはかりをもって長田入道の計りを以て富士野に廻りは、頼朝にとって親の敵なので頼朝が勢力を持つことは脅威なので、先手を打って頼朝を倒そうと考えた。一巻治承4年10月13日

おしさまたぐ押し妨ぐは、力に物を言わせて勝手に徴税していくので、正規の徴税者の妨げとなる。四巻元暦2年(1185)3月3日

おして押し而は、無理やり力ずくで。四巻元暦2年(1185)6月20日

おそれおもいたまう恐れ思い給ふは、恐れ多いことだと思う。四巻元暦2年(1185)6月7日

おっかい越階は、階級特進の事で、頼朝は從五位下から、從五位上・正五位下・正五位上・従四位下・従四位上を飛ばして正四位下に六階級特進している。三巻壽永3年(1184)4月10日

おってとこうあるべし追て左右有る可しは、後で処置を出そう。四巻元暦2年(1185)5月24日

つど越度は、落ち度。三巻元暦元年(1184)8月3日

おのおのいんそつ各々引率は、義経に引率して指揮下に入れの意味。三巻壽永3年(1184)3月1日

おのおのさんちょうをへだて各、三町を隔ては、約300mだが、壇ノ浦の一番狭いところで約600m。干珠満珠(東北)と田野浦(西南)の間が約13kmなので双方から近づいてきていることが想像出来る。四巻元暦2年(1185)3月24日

おやまし小山氏は、鎌倉公方に背いたので、小山の一族の地名は残っていないで、梶原とか土肥なども地名が残っている。寿永2年(1183)2月23日

およばずこと不及事は、止むを得ないこと。三巻壽永3年(1184)2月20日

おりがみ俊兼之を讀み申すは、皆の前で読み上げたので折紙だと思われる。折紙は、紙の中段から下を裏へ折り上げて書くので、結果上半分になる正式な文書であり、会議などで読み上げなくてはならない。これが、室町以後の後に証明書の役目を果たすようになり「折紙付き」となる。五巻文治元年(1185)11月15日

おりふしざいきょう折節在京は、京都大番役。一巻治承4年9月28日

おわりのくにじうにんおおやのちうざぶろうやすすけ尾張國住人大屋中三郎安資は、尾張大宅郷で現在の名古屋市中区古渡町。三巻壽永3年(1184)4月3日

おんおおぎ(いでしつき)*御扇〈出月〉は、これより佐竹の家紋は扇に月となった。九巻文治5年(1189)7月26日

おんかん恩喚は、頼朝からのお呼びが合った。後に問注所執事になる。

おんくだしぶみ御下文は、九州の平家没官領の宛行状(あてがいじょう)、源參河守範頼を通しているので九州武士の本領安堵が多かったと思われる。四巻元暦2年(1185)5月12日

おんことあり御事有りは、忌言葉。一巻治承4年5月26日

おんし御使のそれぞれは、その神社地の領主である。二巻壽永元年(1182)8月11日

おんし御使は、正式の使者。三巻壽永3年(1184)2月20日

おんしのたはた恩賜の田畠は、自ら耕していると云う意味。二巻壽永元年(1182)8月5日

おんしょ御書は、ここでは感状。10巻文治6年(1190)1月15日

おんつつしみあり御愼み有りは、弟の義経の死により穢れているので。神殿のそばには寄らない。九巻文治5年(1189)6月9日

おんてい御亭は、頼朝の大倉御所。三巻壽永3年(1184)4月11日

おんははぎごきげつ御母儀御忌月は、平治元年3月死亡となるが、尊卑分脈に頼朝の経歴によると平治元年3月1日に服解(ふくげ)とある。同12月に平治の乱。二巻養和元年3月1日

おんびもくたり御眉目爲は、父左典厩義朝が献上した刀を、後白河法皇が守り刀にしている事が、名誉だといっている。五巻文治元年(1185)10月19日

おんめのと御乳母夫は、夫の字はあってもなくても「めのと」と読む。二巻壽永元年(1182)10月17日

おんむねをくわえるべきか御旨を加へ被る可き歟は、口ぞえをしてほしい。四巻元暦2年(1185)3月9日

おんゆどの御湯殿は、いわゆる入浴ではなく、体を清める、みそぎの意味である。一巻治承4年10月21日

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