吾妻鏡入門・・解説参考文一覧(五十音順)よみ原文説明。掲載場所

進行状況:12巻建久3年(1192)6月末日まで整理済

あ行 か行 さ行 た行 な行 は行 ま行 や行 ら行 わ行

太は、太郎で古沢能成で息子は大友宗麟の先祖となる大友能成。二巻養和2年5月25日

たいかん對捍は、對捍は、本来は反対するだったが、年貢の納付に反対して滞納となる。寿永2年5月29日。逆らい拒むこと。敵対すること。特に、中世において、国司や荘園領主の課役・年貢徴収に対し、地頭や名主などが反抗して従わないこと。六巻文治2年11月8日七巻文治3年(1187)4月29日たいかん對捍は、年貢を怠って納めていない。サボリ。10巻文治6年(1190)6月29日

だいかんじん大勸進は、勧進が仏教で寺の修理や創建に寄付金を集めて歩く人で、大勧進はその長官。四巻元暦2年(1185)3月7日

だいぐうじ大宮司は、阿蘇大宮司。二巻養和元年2月29日

たいくつ退屈は、退いて屈するから退却。四巻元暦2年(1185)1月12日

たいけん帶劍を勅授さるは、太刀を佩いたまま大内裏へ入れる。一巻序文

たいこう退紅は、紅花で染めた薄い紅色。洗い染。薄い紅色の布狩衣(ぬのかりぎぬ)の短いもの。仕丁が着用した。10巻文治6年(1190)12月1日

だいこう大工(だいこう)はダイクの棟梁を指してその他のダイクは小工(しょうく)と云う。二巻養和元年7月3日だいこう大工は、今で言う大工さんではなく、番匠の棟梁。今で言う下働きの大工さんは小工。八巻文治4年(1188)7月11日

だいごうぞくかいたいせつこういう大物の豪族を廃して、その郎党等を御家人に取り立てるのを故安田元久氏は「大豪族抑圧策」と云い、奥富孝之氏は「御家人平均化説」と唱えている。塾長は「大豪族解体説」と名づけたい。三巻元暦元年(1184)7月25日

たいさんふくんさい泰山府君祭は、安倍晴明が創始した祭事で月ごと季節ごとに行う定期のものと、命に関わる出産、病気の安癒を願う臨時のものがあるという。「泰山府君」とは、中国の名山である五岳のひとつ東嶽泰山から名前をとった道教の神である。陰陽道では、冥府の神、人間の生死を司る神として崇拝されていた。延命長寿や消災、死んだ人間を生き帰らすこともできたという。十九巻承元4年(1210)6月大27日

だいし大師は、太政大臣。四巻元暦2年(1185)6月21日

だいしごしゅいん大師御手印も、現存する。三巻元暦元年(1184)7月2日

たいじねんちう大治年中は、1126-1131で崇徳天皇の時代だが、実権は大治4年(1129)まで白河上皇が、その後は鳥羽上皇が握っている。六巻文治2年(1186)6月15日

だいしゅ大衆とは、一山全体の僧を指し、教理に基づく集団化であり、全ての人間の衆議一決は、理念的に破る事が出来ない。但し、一箇所でも敗れれば、それは徒党の集団として破る事が出来る。との単語は元々複数の者の同意化を示す。三衣一鉢を帯び、国の玄蕃寮から許可を受けて官僧となる。六巻文治2年(1186)10月10日

だいじょうえ大嘗會は、天皇の即位後最初の新嘗祭(しんじょうさい)。一代一度の祭事。京都朝廷で行われ在京の源九郎義經が出席している。三巻元暦元年(1184)11月26日

だいしょくかん大織冠は、藤原鎌足。談山神社は鎌倉時代に成立した寺伝によると、藤原氏の祖である藤原鎌足の死後の天武天皇7年(678年)、長男で僧の定恵が唐からの帰国後に、父の墓を摂津安威の地(参照:阿武山古墳)から大和のこの地に移し、十三重塔を造立したのが発祥である。天武天皇9年(680年)に講堂(現 神廟拝所)が創建され、妙楽寺と称した(後に、談山護国寺妙楽寺と称する)。大宝元年(701年)、妙楽寺の境内に鎌足の神像を安置する神殿が建立された。談山の名の由来は、藤原鎌足と中大兄皇子が、大化元年(645年)5月に大化の改新の談合をこの多武峰にて行い、後に「談い山(かたらいやま)」「談所ヶ森」と呼んだことによるとされる。ウィキペディアから五巻文治元年(1185)11月22日

だいじんぐうじょうとう太神宮上棟は、伊勢神宮の二十年に一度の立替。式年遷宮。九巻文治5年(1189)6月24日

だいじんぐうやくぶくまいりょう太神宮役夫工料米は、伊勢神宮の式年遷宮の大工などの人足に食べさせる米としての税金。10巻文治6年(1190)6月6日

だいすうのたんい大数の単位、一・十・百・千・万・億・兆・京・垓・秭・穣・溝・澗・正・載・極・恒河沙・阿僧祇・那由他・不可思議・無量大数(21単位)

だいだい大内は、大内裏のこと。九巻文治5年(1189)閏4月1日

たいとうではなくたてわき帶刀は、帯剣で昇殿できる護衛兵。三巻壽永3年(1184)1月20日

たいはくせい太白星は、金星。第二十六巻貞應2年(1223)9月2日

だいばんどころ臺盤所は、台盤を置いておく所。宮中では、清涼殿内の一室で、女房(女官)の詰め所。10巻文治6年(1190)11月23日

だいはんにゃきょう大般若経は、病や悪魔、邪気祓いにききめがある。七巻文治3年(1187)4月2日大般若経は、経の効果は悪鬼退散、飢饉疫病天変地異を鎮める。八巻文治4年(1188)3月6日

だいはんにゃきょうのてんどく@大般若經の轉讀は、災いの転換を祈る。10巻文治6年(1190)3月1日

たいふ大夫は、五位の通称。一巻治承4年6月27日

だいぶつじ大佛寺は、東大寺大仏殿造営。又は重源上人が三重県伊賀市富永1238に立てた大仏寺は、元仁2年(1225)とあるので、ここでは東大寺で良いと思う。九巻文治5年(1189)6月24日

だいぶっしせいちょう大佛師成朝は、奈良炎上後、大仏復興の選定に負けた。四巻元暦2年(1185)5月21日

たいふのじょう大夫尉は、五位の檢非違使。11巻建久2年(1191)5月12日

たいふほうがん大夫判官は、五位の検非違使。寿永2年(1183)2月10日

たいぼんさんかじょう守護の権限は、大犯三か条と云い、一、大番催促。二、謀反取締り。三、殺害犯取締り。これが後に鎌倉末期には守護被官制に変わっていく。十二巻建久3年6月20日

たいまのとうたけにん大麻藤太家人は、香川県善通寺市大麻神社で金毘羅山の隣。三巻元暦元年(1184)9月19日

だいみょう大名は、自分達で開発したり、買い求めたりして自分のものにした田を自分の名で呼ぶので、名田(みょうでん)と云い、所有者を名主(みょうしゅ)と呼ぶ。その範囲が小さいのを小名(しょうみょう)、大きいのを大名と云う。四巻元暦2年(1185)3月29日

だいゆう大輔は、律令制で、八省の次官の上位。九巻文治5年(1189)4月22日

たいよう對揚は、釣り合う事。八巻文治4年(1188)3月15日

だいり大理は、検非違使別当の唐名。六巻文治2年(1186)9月15日ここでは一条能保。八巻文治4年(1188)5月17日11巻建久2年(1191)3月23日

たいりゃくこうめんいあずかり大畧厚免に預りは、殆どの人が許された。10巻文治6年(1190)8月16日

だいりょう大領は、郡司の頭。九巻文治5年(1189)7月10日

たいれい台嶺は、天台宗の山、すなはち比叡山。六巻文治2年(1186)閏7月26日8月3日

たうえ田植えをしながら山の神が田の神となって降りてくるのを祝うのが、田楽舞である。八巻文治4年(1188)6月1日

たえたるをつぎ絶えたるを繼ぎ廢れたるを興すの語は、演説的に良く使われる文句。かつての栄光に戻すのが最良とされる。徳政も一種の元に戻す事で、土地は本来開拓者が本主として、土地神と開拓契約をしたので、田主とも云い、本主に権利を戻す事が理にかなっているとする政治。神領興行令。9巻文治5年(1189)9月23日

たかおじ高雄寺は、京都府京都市右京区梅ケ畑高尾町5の神護寺六巻文治2年(1186)8月26日

たかはし高橋は大宅性。一巻治承4年10月19日

たかはし高橋は、侍大将。二巻養和元年3月10日

たきぐち滝口は京都御所の北側に鑓水の引込用に滝を作っていた場所のそばに御所警護の詰所(北面)があり、そこに勤務していたので名誉な肩書きとして滝口と使う。一巻治承4年7月10日、8月23日

たけだ武田は、駿河國の守護になっている。二巻養和元年3月7日

たけだとう武田党が甲州より発向したことを、甲斐国史では頼朝を助けに出たとあるが、武田は五男の信光が兄たちの失脚のおかげで武田の党首となるが、後に北條の被官化して、伊豆の北條四郎時政主が建てた願成就院の隣に己の名の信光寺を建立している。一巻治承4年8月25日

たけだとうこの時点では、未だ武田党は頼朝の指揮下に入っていないので後に作られた話ではないか。反映説。一巻治承4年10月21日

たごちょう 田五町は、約50石採れる。二巻養和2年4月20日

だざいごんのそち太宰權師 は、吉田經房。9巻文治5年(1189)11月3日

だしゅう駄餉は、弁当六巻文治2年(1186)9月7日

だしゅうをさたする駄餉を沙汰するは、酒匂宿で弁当を用意していた。四巻元暦2年(1185)5月17日

ただしじょうがいにおよばず但不及城外は、京から出さない。九巻文治5年(1189)5月17日

たっこくのいわや田谷窟は、現在は達谷窟と書き、毛越寺から西南西の厳美渓へでる途中にある。9巻文治5年(1189)9月28日

だっし脱屣は、靴を脱ぐ、退位、譲位。一巻序文

たてえぼし立烏帽子は、右図。

たてぶみ立文は、まっすぐな紙に書いて竹の先にはさんで出す手紙で捧げ文とも云う。反対語は捻り文で、小さく折りたたんだ手紙。四巻元暦2年(1185)4月21日

たてわき帯刀は、東宮(皇太子)の警備兵で太刀を付けたまま御殿に入れる。一度その職につくとそれを名誉の呼び名として使う。一巻治承4年9月7日

たてわき帶刀は、帯剣で昇殿できる護衛兵。三巻壽永3年(1184)1月20日

たてわきせんじょう帶刀先生は、東宮警備兵の隊長。一巻治承4年9月7日

たてわきのかみ帶刀長は、帯剣で昇殿できる護衛兵の隊長で先生せんじょうとも云う。三巻壽永3年(1184)1月20日

たどころしき田所職は、国司の庁に属し、田畑のことを取り扱った役所なので、國衙の役人で大豪族。二巻養和元年4月30日

たなごころをさすがごとし掌を指すが如しは、思い通りにやってきた。三巻壽永3年(1184)3月28日

たばさみ手挾は、騎射の一種で方四寸の板をうすくへぎ、的とする。阿部猛著「鎌倉武士の世界」から。10巻建久1年(1190)8月16

たぶみ田文は、国衙が作成して保管している土地台帳。大田文とも云う。9巻文治5年(1189)9月14日

たまわるところのおんくだしぶみ給る所の御下文は、宛がい状。四巻元暦2年(1185)4月13日

たゆう大夫は、五位の通称。一巻治承4年6月27日

たろうじろう太郎、次郎、三郎などの呼び名は、鎌倉時代はそれぞれ生まれた順に呼ばれる輩行(はいこう)と呼ばれる仮の名である。一巻治承4年8月28日

だんごう談合は、相談をする。五巻文治元年(1185)10月3日

たんごのつぼね丹後局の墓というのが、神奈川県横浜市戸塚区上矢部の上矢部バス停から西南へ入った左に丹後山明神社があり、頼朝の妾の墓との伝説がある。二巻養和2年3月9日

だんじょうのちゅう彈正忠季氏は、清原季氏。弾正台の三等官。弾正台は、行政組織を監察する役所。

たんぞうみかたにこうじて湛搆苺に候じては、源氏の味方になっているはずなのに。元々、伊勢は源氏贔屓。熊野本宮は平家贔屓。二巻養和元年3月6日

たんとう丹党は、丹生社を祀る連中で、地域的には秩父、児玉、入間、大里郡に住む、名字は中村、薄、織原、勅使河原、新里、安保、長浜、青木、高麗、加治、中山、白鳥、岩田、野上、井戸等が居る。13巻建久4年2月9日

たんばのくにいちのみやいずもしゃ丹波國一宮出雲社は、出雲社と言う荘園で、京都府亀岡市千歳町千歳出雲神社。三巻元暦元年(1184)9月20日

たんべつごしょう段別五升は、一反につき五升で、頼朝の時代には一反で一石程度の収穫だったが、後に金属農具の発展や牛馬の使用、肥料の仕様などで収穫が増えて、一反で二石から四石取れるようになって物価が上がっても、五升はかわらなかったので、御家人は困窮していく。五巻文治元年(1185)11月28日

たんぼ旦暮は、朝か夕か。三巻元暦元年(1184)4月20日

ちいんたるなり知音たるなりは、知り合いなので。四巻元暦2年(1185)6月5日

ちうしん注進は、註の意味で書いて差し出す。三巻壽永3年(1184)2月14日

ちうもん注文は、注した文で書き出されたの意味。三巻壽永3年(1184)1月27日注文は、文に注すで一枚の紙に書き上げた。三巻壽永3年(1184)4月6日

ちかいえ近藤七親家は、堀田璋左右先生は板西郡に住せりとあるので、徳島県板野郡板野町。四巻元暦2年(1185)2月18日

ちかみつ親光は、宗親光。四巻元暦2年(1185)3月13日

ちかよし中原親能は、大江広元の兄で秦野育ち1178から京都へ行っていた。三巻元暦元年(1184)10月6日

ちくごごんのかみ筑後權守は、筑後權守俊兼。四巻元暦2年(1185)5月8日

ちくしにはさみ竹枝に挾みは、竹の棒の先を少し割り、そこへ挟む事。身分違いの者の穢れが移らないよう遠慮して、建物の上の高貴な人へ地面に控えて差し出すこと。五巻文治元年(1185)11月26日

ちくぜんさぶろう筑前三郎は、惟宗高久。三巻壽永3年(1184)4月3日筑前三郎孝尚。三巻元暦元年(1184)8月28日公文所所司。四巻元暦2年(1185)4月13日

ちくまがわ筑磨河は、千曲川、横田河原の合戦長野市篠ノ井線篠ノ井駅から東南に下車歩いて五分に小さな丘があり神社があり石碑がある。2km東が川中島。二巻壽永元年(1182)10月9日

ちくよう竹葉は、酒。三巻元暦元年(1184)6月5日

ちくようじょうりん竹葉上林は、酒と肴。三巻元暦元年(1184)4月20日

ぢげ地下は、「ぢげ」「したぢ」とも云い、年貢を出す現地管理人を指す。逆に年貢を「上分(じょうぶん)」と云う。六巻文治2年(1186)6月11日

ちけじ知家事は、公文所の役人。別当・令・案主の下の四等官。兼道さんがこの時代の人なら、恐らく知家事職を先祖にもち、家のあった位置から山内家の家来かも知れない。但し、過去の人で家だけが伝承されていたのか分からない。

ちけん地検は、年貢を取るための田畑を書き出した大田文と現地を確認する。9巻文治5年(1189)10月24日

ちしき知識は、知り合い。四巻元暦2年(1185)6月21日

ちしょうだいし智證大師は、円珍で、その孫弟子あたりから解釈の違いで円珍派は分裂し、園城寺となる。三巻元暦元年(1184)11月23日

ちじょうのほど治定之程は、決定するまで。四巻元暦2年(1185)5月4日

ちだのしょう千田庄は、保元の乱(1156)の2年前(1154)に相馬の御厨を千葉介常胤と千田親政が取り合いをしているのを、義朝が取り上げて千葉介常胤に与えているが、平治の乱で源氏が滅びると千田親政が取り返した。この取り返しをやっている。一巻治承4年9月14日

ちちぶいちぞく秩父一族は、統領を川越が継いでるが、実力は江戸で、重忠は一族の期待の星のようである。一巻治承4年10月4日

ちちぶいちぞく秩父一族は8月27日の衣笠合戰で三浦介義明を滅ぼしている。一巻治承4年10月4日

ちっきょ蟄居は、この場合は隠れ住んでいる。寿永2年(1183)2月25日

ちづけ乳付は、乳母になる儀式の一つ。二巻壽永元年(1182)8月12日

ちば千葉は、千葉庄で現在の千葉市に一致する。一巻治承4年9月6日

ぢとう地頭は、原語は、地の頭(ほとり)から出て、現地年貢徴収人をあらわす。平家没官領の場合は、現地下司職の慣習的権限を引き継いでいるので、土地ごとに権利が違っている。これを本捕地頭という。ちなみに承久の乱以後に西国に一律的に設置されたのが新捕地頭。権利は十一町につき一町の免田、反別五升の加徴米がある。九巻文治5年(1189)2月30日

ぢとうしき地頭職を去り進ず可しは、本来土地は全て天皇家のもので、そこへ荘園を許し、取立人としての地頭に居させてあげているのであるから、地頭を立ち退かせて朝廷へ提出しなさいの意味。退出すべしも同様。九巻文治5年(1189)2月30日

ちばのしょう千葉庄は、現在の千葉市とほぼ一致する。一巻治承4年9月13日

ちばのすけ千葉介は、常胤。九巻文治5年(1189)5月19日

ちゃくとうせしめ着到令めは、到着名簿を書かせる。五巻文治元年(1185)10月24日

ちゃくとうをしんず着到を進ずは、軍勢催促に応じて軍人へ赴いた場合は、連れた来た軍勢を紙に書いて(着到状)を提出する。但しこの時代には未だ着到状の語はない。九巻文治5年(1189)7月28日

ちゃわんぐ茶垸具は、既に一部に薬としてお茶があることに注目したい。五巻文治元年(1185)10月20日

ちゅうかい律師忠快は、小河律師忠快、平教盛の子、丹波小河庄(現、京都府亀岡市千代川町小川)。後に鎌倉へ連れてこられて八幡宮寺の供僧となる。四巻元暦2年(1185)4月11日

ちゅうぐう中宮は、天皇の二号的存在で、この場合は建禮門院である。でも正妻はいないので正妻なしの二号。

ちゅうさせしめ注さ令めは、書き出させる。三巻元暦元年(1184)10月20日

ちゅうしくわえる注し加えるは、書き足す。二巻養和元年4月20日

ちゅうしけんず注し献ずは、文書に書いて提出する。一度は没収して、寄付をした形をとる。9巻文治5年(1189)9月17日

ちゅうしもうす注申は、書いて提出する。9巻文治5年(1189)11月7日

ちゅうじょう中将は、近衛中将。一巻序文

ちゅうじょうのとうじいえなが中條藤次家長は、埼玉県熊谷市上中条。三巻元暦元年(1184)8月8日

ちゅうしん注進は、註の意味で書いて差し出す。三巻壽永3年(1184)2月14日、書き出して。五巻文治元年(1185)10月24日

ちゅうそんじきょうぞうりょう中尊寺経藏領當寺の堺四至〔東は鎰懸。西は山王窟。南は岩井河。北は峯の山堂の馬坂也〕は、一関市厳美町本寺地区(通称骨寺村荘園遺跡)。中尊寺経蔵別当所領。9巻文治5年(1189)9月10日

ちゅうそんじ・もうつじ中尊寺、毛越寺の資料はこの他に無い。9巻文治5年(1189)9月17日

ちゅうたんのしゃ中丹之謝は、心底からの感謝の念。9巻文治5年(1189)12月9日

ちゅうはちこれひら中八維平は、由利で秋田県由利郡。二巻養和元年3月6日

ちゅうぶん中分は、年貢の半分だが、後に下地中分に発展していく。八巻文治4年(1188)3月14日

ちゅうもん注文は、注した文で書き出されたの意味。三巻壽永3年(1184)1月27日

ちゅうもんいいわく注文に曰くは、報告書に書いてある。9巻文治5年(1189)9月17日

ちょう長は、長谷部の略で信連は下河邊庄内の長馬(現在の幸手市長間)の領主長馬爲連の息子。一巻治承4年5月10日

ちょう廳は、院の庁。二巻養和元年3月7日

ちょうは、同格への手紙。参考に上から下へは符、下から上へは解(げ)。三巻元暦元年(1184)11月23日

ちょうかん朝覲は、天皇が太上天皇や皇太后の御所に行幸し、恭敬の礼をつくすこと。年頭に行われる恒例の儀と、践祚・即位・元服の後に行われる臨時の儀とがある。七巻文治3年(1187)10月3日

ちょうけん帖絹は、埼玉県の養蚕の歴史に「室町(南北朝)貞治年間に高麗郡内で帖絹(つむぎ)が広く生産される」とある。これを採用する。六巻文治2年(1186)1月28日

ちょうけん帖絹は、準布準銭ともいい、銭代わりの絹。9巻文治5年(1189)10月25日

ちょうけん長絹糊で張った仕上げの絹布。絹一疋は、幅二尺二寸(約66cm)、長さ五丈一尺(約18m)の絹の反物二反分(一反は幅が半分)。9巻文治5年(1189)10月22日

ちょうさい廳催は、院の庁からの通知。四巻元暦2年(1185)4月26日

ちょうし銚子は、酒を注ぐ道具。急須型の片口(かたくち)と柄杓型の長柄の諸口(もろくち)とがある。右の絵の左側で片手に下げてる急須形のが片口。右側で両手に持つ柄杓型のが長柄の諸口。鎌倉の調子の井はこの諸口に似ているのでその名がある。3巻元暦元年(1184)6月16日

ちょうじつ 長日は、1日中休まずにお経を上げること。二巻養和2年1月8日

ちょうじつほけきょうめんでん長日法華經免田は、毎日朝から晩まで続けて法華經を唱えるために、万雑公事(まんぞうくじ労働等の雑税)を免除されている田。三巻元暦元年(1184)12月16日

ちょうじゃ長者は、遊女の代表者。遊女の組合長。七巻文治3年(1187)2月25日

ちょうじゃおおい長者大炊は、延寿御前で義朝の妾。10巻文治6年(1190)10月29日

ちょうしゅく懲粛は、律令を「律は懲粛を以って宗と為し、令は勧誡を以って本と為す。」から取っているようだ。六巻文治2年(1186)11月8日

ちょうじょうは、同格への手紙。参考に上から下へは符、下から上へは解(げ)。10巻文治6年(1190)4月19日

ちょうしん調進は、新調する。九巻文治5年(1189)6月24日

ちょうせきにしこう朝夕に祗候は、領地のない人が大倉御所に住み着いて1日あたり玄米五升の年俸で勤務する。六巻文治2年(1186)7月18日

ちょうせきのかっきん朝夕恪勤は、領地のない人が大倉御所に住み着いて1日あたり玄米五升の年俸で勤務する。二巻壽永元年(1182)6月5日ちょうせきのかんじ朝夕官仕も、同じ三巻元暦元年(1184)6月4日

ちょうだい帳臺は、寝殿に一段高く台を設けて、帳を張り巡らした座席。三巻元暦元年(1184)4月21日

ちょうてき朝敵は、平将門。九巻文治5年(1189)7月8日

ちょうなん周東周西は、元の千葉県周准郡で「す」の音が残り。伊南伊北は、元夷隅郡で「い」の音が残っている。廳南廳北は、元長柄郡で、「ちょう」の音が残っている。一巻治承4年9月19日

ちょうにん重任は、任期4年でもう一度同じ官職に就任すること。めったにできない。六巻文治2年(1186)5月2日

ちょうのおんくだしぶみ廳の御下文は、後白河法皇の院の庁からの命令書。四巻元暦2年(1185)3月29日

ちょうほう重寳は、宝物。六巻文治2年(1186)9月16日

ちょうほく周東周西は、元の千葉県周准郡で「す」の音が残り。伊南伊北は、元夷隅郡で「い」の音が残っている。廳南廳北は、元長柄郡で、「ちょう」の音が残っている。一巻治承4年9月19日

ちょうみ鼎味は、鼎は三で塩辛い・すっぱい・甘いの三色の味。三巻元暦元年(1184)6月5日

ちょうようのせつ重陽節は、重陽の節句で、〔陽数である九が重なることから〕五節句の一。陰暦9月9日に行われる節会(せちえ)。中国から伝わり、平安時代には宮中の年中行事となって観菊の宴が催された。菊の節句。この事から屋島の合戦に遅れて来た梶原景時軍を戦の終えた義経軍が「6日の菖蒲、10日の菊」と遅れて間に合わないの意味でからかった。六巻文治2年(1186)9月9日

ちょうりょう張良は、中国、前漢初期の政治家(?-前168) 。字は子房。韓の人で韓が秦に滅ぼされると、始皇帝暗殺を企図したが失敗。後に黄石公から太公望の兵法書を授けられ、漢の高祖劉邦に天下を取らせるべく補佐役に徹した功臣。漢建国の三傑の一人。ウィキペディアより三巻壽永3年(1184)2月7日

ちょうれつにまじわる朝烈に厠はるは、朝廷の家来として列に連なる。だが、わざと変な漢字を使っているのか?四巻元暦2年(1185)4月15日

ちょくじょう勅定は、朝廷の命令。九巻文治5年(1189)閏4月30日

ちょくとう勅答は、安徳天皇の返事。三巻壽永3年(1184)2月20日

ちょくふうぐら勅封倉は、正倉院のことと思われるが、寺封倉は不明。二巻養和元年一月18日

ちょっかんをこうむるやから勅勘を蒙る輩は、文治元年(一一八五)十一月大廿六日に義經事件で籠居。9巻文治5年(1189)11月3日

ちんじもうし陳じ申しては、弁解をして言うのには。四巻文治元年(1185)8月24日

ちんしゃしたをまき陳謝舌を巻きは、旨く謝りを云えない。二巻壽永元年(1182)11月12日

ちんしゃする陳謝すは、弁解する。四巻元暦2年(1185)5月1日

ちんじゅふせんげ鎭守府宣下は、鎮守府將軍の宣下。鎮守府は古代、蝦夷(えぞ)地経営のために陸奥(むつ)国に置かれた軍政府。はじめ多賀城にあり、のち胆沢(いざわ)城に移った。壽永3年(1184)1月10日

ちんじょう陳状は、訴えられた側が釈明に出す。10巻文治6年(1190)4月19日

ちんせい 鎭星は土星の異称だが?たぶん「土星の色のように」の意味と思われる。二巻養和元年6月25日

ちんぜいきゅうこくのじゅうにん鎭西九國の住人は、九州の未だ御家人になっていない武士や領主。三巻壽永3年(1184)3月1日

ちんりんすべき沈淪可きは、憂き目を見ている。放っておかれた。10巻文治6年(1190)8月16日

ついきゃく追却は、追い出す。四巻元暦2年(1185)6月20日

ついぢ築垣は、築地塀。八巻文治4年(1188)7月11日

ついな都維那(ついな)は、寺院内の事務をつかさどる僧職。上座・寺主とあわせて三綱(さんごう)という。三巻元暦元年(1184)11月23日

ついぶく追福は、菩提を弔う。四巻文治元年(1185)8月30日

ついぶみんいん追捕民烟は、一般庶民の竈の火を消す、一般庶民が生活できないように男手を労働力又は戦力として徴発する。二巻養和元年一月21日

ついぶみんおく追捕民屋は、略奪暴行放火。二巻養和元年一月21日

ついゆ 費ゆは、収奪された。参考 當時之難は、目前の被害。二巻養和2年4月11日

つき槻(つき)は、欅(けやき)の古称。9巻文治5年(1189)9月11日

つきげ 鴾毛は、葦毛でやや赤みをおびたもの。二巻養和2年1月28日四巻元暦2年(1185)2月19日

つきげぶち 鴾毛駮は、鴾毛で体に大きな白斑のあるもの。二巻養和2年1月28日

つぎにおんが次に御駕は、頼朝が乗馬している。の意味で、後ろに弓持ちや旗持ちや鎧を替わりに着けている侍が馬の前を歩いている。九巻文治5年(1189)7月19日

つくい筑井は横須賀市津久井。一巻治承4年8月22日

つくだは、国衙(こくが)領や荘園に設定された領主直営の農地。種子・農具・日当・食料などは領主が負担し、耕作は農民の夫役により行われ、全収穫を領主の得分とした。平安中期以降、農民に請作(うけさく)させる傾向が現れ、平安末期には名田と同質化していった。10巻文治6年(1190)10月5日

つくりをはんぬ造り畢ぬは、御所が三月四日未明の火事で燃えてしまったので、新築していた。11巻建久2年(1191)7月28日

つけおかれるところのごけにんら付け置か被所之御家人等は、頼朝が義經に貸していた御家人だ。四巻元暦2年(1185)5月5日

つちや土屋は平塚市。義清は岡崎四郎義實の息子で土屋の婿養子。一巻治承4年8月20日

つづきたいしゃ杵築大社は、現出雲大社。九巻文治5年(1189)6月15日

つつみもの裹物は、風呂敷で包んだ物。四巻元暦2年(1185)1月1日

つとませしむ勤ま令むは、勤司する。12巻建久3年(1192)6月20日

つねたねはろうすい常胤者衰老は、お年寄りだがの意味で、実に最年長で保元乱も出演している。四巻元暦2年(1185)1月26日

つばきうら椿浦は、徳島県阿南市椿町カ?四巻元暦2年(1185)2月18日

つまど妻戸は扉。他に蔀戸・遣戸。@寝殿造りで、建物の四隅(よすみ)に設けた外側に開く両開きの 板戸。掛け金でとめる仕組みになっている。A一般に両開きの板戸

つらをでいさにたる面於泥沙に垂るは、土下座をする。二巻壽永元年(1182)11月12日

つるがおかのほうにむかい鶴岡の方に向ひは、鶴岡八幡宮に遥拝している。四巻元暦2年(1185)4月11日

つるがおかはちまんぐう鶴岡八幡宮は、今の元八幡。一巻治承4年10月7日

つるがおかばばもと鶴岡馬塲本は、八幡宮西側の今の道路と住宅あたり。11巻建久2年(1191)3月4日

つるがおかわかみや鶴岳若宮は、現在の下宮の位置。鎌倉国宝館倉庫建設の発掘調査で、湯河原の砂利を敷き詰めた遺構が発見されている。二巻養和元年5月13日

つるぶくろ弦袋は、通常6本を鎧の腹帯の右に吊るす。一巻治承4年10月21日

つるぶくろをおく弦袋を置いて行くの意味は、勝手に辞職して行ってしまうけど、武器の一部である弓弦の袋を置いて行く事により、朝廷に対し敵対するつもりの無いことを表明している一巻治承4年10月21日

つるまきだ 弦巻田は、現在の源平池であるが、現在は三分の一しかない。かつては、流鏑馬馬場から南全体が池だった。なお、弦巻田というのは、苗を弦が巻きつくように渦巻きに植えていく神へ捧げる為の米を栽培する斎田のことであろう。私は、飛騨高山の民家園で見た。田植えに仕方は真ん中に棒を立て縄を巻きつけ縄の端に苗を植えていくと自然と渦巻きになる。鎌倉古道の表紙参照。二巻養和2年4月24日

でい出居は、寝殿造りに設けられた居間と来客接待用の部屋とを兼ねたもの。客間。34巻仁治2年(1241)9月13日

ていじょう廷尉は、検非違使で左衛門尉を兼務している者の名で検非違使の官職名は判官。一巻治承4年5月10日廷尉は、検非違使の判官。六巻文治2年(1186)閏7月22日、9月15日

てしま豊嶋は、てしまと読み北区豊島7-31-7に清光寺(北区観光→王子豊島エリア→清光寺)あり。一巻治承4年9月3日

てなが手長は、運び人。34巻仁治2年(1241)11月21日

てらは、三井寺。この時代山といえば比叡山延暦寺、寺といえば三井寺園城寺。10巻文治6年(1190)6月10日

てをたばねて手を束ねては、この時代では単に降参しての意味だが、前九年の役頃は本当に両手を結わえて出頭してきた。一巻治承4年10月18日

てん時刻の點は、2時間を5等分したのが点。寅なら1時〜1:24を一点、1:24〜1:48を二点、1:48〜2:12を三点、2:12〜2:36を四点、2:36〜3:00を五点。

でんか殿下は、摂政でここでは九条兼実を指す10巻文治6年(1190)11月22日

でんかごりょう殿下御領は、藤原家の氏の長者領。近衛基道。殿下渡領を渡さずに済んだので、経済的実力が残ったので、兼実は経済基盤が弱くて後に失脚していく。六巻文治2年(1186)3月12日

てんき天氣は、本来天皇の気持ち。ここでは後白河法皇の気持ち。五巻文治元年(1185)11月15日

てんきゅう典厩は、左馬頭の唐名。三巻壽永3年(1184)4月11日

てんきょう轉經は、お経を轉讀(略して読む=経文をアコーデオンのように左右の手に行ったり来たりさせる。)すること。9巻文治5年(1189)9月16日

てんぎょうさんねん天慶3年は、将門の乱の鎮圧のため。壽永3年(1184)1月10日

てんきをうかがわせしめ天氣を伺は令めは、天皇のご機嫌を伺って頼んだ。9巻文治5年(1189)9月17日

てんけんをこうむる天譴を蒙るは、平家物語では、六巻喘涸声に記事有り。二巻養和元年9月3日

てんさい天裁は、天皇の裁決、すなはち朝廷の判断。六巻文治2年(1186)8月5日

てんじ點じは、指定して。六巻文治2年(1186)3月1日

てんじ典侍は、てんじ。すけ。ないしのすけ。次官。六巻文治2年(1186)5月29日典侍は、上級の女官。11巻建久2年(1191)5月12日

てんじ天治は、天喜の間違い。天喜四年安倍頼時が死ぬが前九年役は終らない。10巻文治6年(1190)9月18日

てんしのみことのりをきかず天子之詔を不聞は、閫外の任(史記)。九巻文治5年(1189)6月30日

てんしょう典章は、規則、きまり。八巻文治4年(1188)8月30日

てんじょう點定は、横領。九巻文治5年(1189)7月10日

てんじる點じるは、場所を指定して取り上げる又は借りることでここでは産所とする。南北朝時代に軍隊が入洛するたびに公家の屋敷を駐屯地として点じる。点定足利直義が禁令を出してる)二巻壽永元年(1182)7月12日てんじる點じるは、指定する。九巻文治5年(1189)6月3日

てんじん天神は、菅原道真で903年2月25日に亡くなっている。六巻文治2年(1186)6月15日

てんぜらるる點ぜ被るは、指定する。12巻建久3年(1192)7月18日

てんぜんだいぶひさつね典膳大夫久經は、典膳大夫中原久經。元暦2年2月5日に典膳大夫中原久經と近藤七國平は、頼朝の命で使節として京都へきている。四巻元暦2年(1185)3月4日

てんそう傳奏は、取り次いだ。五巻文治元年(1185)11月26日

てんだいざす天台座主は、延暦寺筆頭。九巻文治5年(1189)6月3日

てんだいさんりゅうげごえ天台山竜華越は、大原から延暦寺北側片田町竜華へ出る。琵琶湖の浮身堂の側に義隆の墓がある。一巻治承4年9月17日

てんとう顛倒は、転倒に同じ。どちらもひっくり返る・逆さまになるから顛倒の文字は荘園を横領された場合もそう表現する。四巻元暦2年(1185)7月19日

てんとう纒頭は、本来は芸能のご祝儀として、物々交換の時代に着ている物を脱いで芸人の肩に掛けてやる。六巻文治2年(1186)4月8日

でんとうだいほっし傳燈大法師は、よく分かりませんが、三井寺のホームページを。三巻元暦元年(1184)11月23日

てんどく転読は、略式の飛ばし読みのお経を上げる事で、お経を左右にアコーデオンのように片手から片手へ移しながらお経を唱える。摺り読みとも云う。反対にちゃんと読むのを「真読」と云う。一巻治承4年7月5日・二巻養和元年8月29日七巻文治3年(1187)4月2日八巻文治4年(1188)9月14日

てんのうじへん天王寺邊は、大阪市天王寺区四天王寺1丁目11番18号四天王寺五巻文治元年(1185)11月6日

でんのさんみちうじょうどの殿の三位中將殿〔良經〕は、殿下(兼実)の息子の三位中将良経。六巻文治2年(1186)閏7月10日

でんのほういん殿法印は、殿下(兼実)の弟で副長官慈円のこと。六巻文治2年(1186)閏7月10日

てんゆ諂諛は、こびへつらうこと。阿諛(あゆ)四巻元暦2年(1185)6月7日

は、遣戸は、蔀戸(しとみど)→妻戸(つまど)→遣戸(やりど)の三種。蔀戸は上下二段に分かれ、上側を上にたくし上げ金具で止め、下側は上に引き抜く。妻戸は扉。遣戸は引違の戸。

とい土肥は、相模國土肥郷、現在の湯河原町、真鶴町。一巻治承4年8月12日とい土肥は神奈川県湯河原町。一巻治承4年8月20日

といごう土肥郷は、神奈川県足柄下郡湯河原町、駅山側の城願寺に土肥次郎實平の墓あり。一巻治承4年8月25日

とうおう湯王は、中国、殷王朝の創始者。成湯ともいう。名臣、伊尹(いいん)らとともに夏の桀王(けつおう)を討って殷王朝を建国したという。二巻養和2年2月8日

どうきょ道虚は、道教からの縁起で六とその倍数の日は出立は良くない。10巻文治6年(1190)11月6日

とうぐう春宮は、皇太子。三巻壽永3年(1184)1月20日

とうくろう藤九郎は安達。一巻治承4年8月20日

とうくろうもりなががいえ藤九郎盛長が家は、甘縄神社南東側一帯と推定される。 長谷1丁目11番あたりの発掘調査で武家屋敷の一部が発見されている。六巻文治2年(1186)1月2日

とうごくいちのみや當國一宮は、神奈川県高座郡寒川町の寒川神社二巻永元年(1182)8月13日

とうごくじゅうにん當國住人は、この国の土着の豪族だが、未だ御家人になっていない武士。三巻元暦元年(1184)10月12日

とうごくのみずうみ當國の湖は、浜中湖。六巻文治2年(1186)4月21日

どうざ動座は、上位の人に敬意を表して、座を離れて礼容を整えること。四巻元暦2年(1185)6月7日

とうさく東作は、春の耕作。「東」は春の意。「春は東作の思ひを忘れ、秋は西収の営みにも及ばず」平家物語巻第十大嘗會沙汰からの引用と思われる。六巻文治2年(1186)6月1日

とうじ当時は、現在を示す。一巻治承4年8月6日・三巻壽永3年(1184)3月1日とうじ當時は、今現在。三巻元暦元年(1184)12月16日

とうじのざいしょによるべからず不可依當時之在所は、今預けられているところに関わらず。9巻文治5年(1189)12月6日

どうし導師は、式典でお経を読む指揮者の坊さん。五巻文治元年(1185)10月3日どうし導師は、この場合儀典長だが、指導僧と訳す。九巻文治5年(1189)6月3日仏道を説き、人々を仏道に導く者。九巻文治5年(1189)6月9日

とうじょう東條は、千葉県鴨川市東町の東条海岸に名が残る。三巻元暦元年(1184)5月3日

とうしょのほうこうにむくはれんため爲被酬當初奉公は、平治の乱の恩返しをするのなら。三巻元暦元年(1184)6月1日

どうしんごうりきし同心合力しは、御家人への道として1、参上して名簿ミョウフ奉呈して安堵状がでると本領安堵となる。2、同心合力して国毎に一枚の紙に書き(一紙差出)代官が(交名注進)提出するの二種類が考えられる。三巻壽永3年(1184)3月1日

とうだいじしゅうぞう東大寺修造は、朝廷も平家も源氏も寄附している、後白河は周防国からの徴税分を修繕費に当てている。四巻元暦2年(1185)3月7日

どうちゅうのしきしがたをかく堂中の色紙形を書くは、堂内に貼る色紙に和歌を書いてもらった。9巻文治5年(1189)9月17日

とうとうみのかみ遠江守は、上国。人口の多い少ないは税高に繫がる。大国・上国・中国・下国の順。10巻文治6年(1190)2月10日

とうのしょう領所下総國は、海上庄(うなかみのしょう)で後の東庄(東庄、現千葉県香取郡東庄町)はここで取り上げられ、千葉氏に与えられ、常胤の六男千葉六郎大夫胤頼が受領し、東氏となる。但し、現在千葉県海上郡海上町が隣り合っている?二巻養和元年3月27日

とうのすけ頭亮は、蔵人頭中宮亮の略。二巻養和元年3月10日

とうば塔婆は、文治五年に建立した三重塔と思われる。この火事で、幕府及び八幡宮は、全焼。御坊は一部が焼失したようである。11巻建久2年(1191)3月4日

どうぼく童僕といっても必ずしも子供ではなく、恐らく職業的身分を表すようです。例えば絵巻では牛車の牛飼いは垂髪で白の水干を着て、子供のような格好をしているものの顔は拭けた大人顔です。一巻治承4年8月17日

とうりょう棟梁は、秩父党の統領。川越太郎重頼は比企尼の娘聟だから頼りに出来る。一巻治承4年9月28日

とおいしとをいしは、遠石庄で徳山市遠石。四巻元暦2年(1185)1月6日

とおたか宇佐那木上七遠隆は、山口県柳井市新庄佐保(さを)を宇佐保(うさほ)とし、国衙領を支配していた山口県熊毛郡平生町大字平生町の上七遠隆とする意見もある。四巻元暦2年(1185)1月26日

とおとうみのくにかけがわへん 遠江國懸河邊は、静岡県掛川市。二巻養和2年5月12日

とおとうみのくにかまた:遠江國鎌田は、磐田市鎌田。伊勢神宮が本所で左兵衛藤原正清は庄司。二巻養和2年5月16日

とおとうみのくにみやこだのみくりや遠江國都田御厨は、静岡県浜松市都田町。三巻壽永3年(1184)3月14日

とおとうみのくにより遠江國自りは、遠江守護になっている。二巻養和元年2月27日実は寿永2年(1183)2月27日

とおもと足立右馬允藤内遠元は、東京都足立区と千葉県埼玉県川口市あたりで、藤内は内舎人(うどねり)だった藤原で、名字になると内藤になる。三巻元暦元年(1184)10月6日

とおやまのしょう美濃國遠山庄は、岐阜県瑞浪市。四巻元暦2年(1185)5月1日

とおやまのしょうないにいっそん遠山庄内に一村は、総地頭は加藤次景廉で、彼女は一村の小地頭であろう。総地頭と小地頭共に頼朝と直縁となるので上下関係は無く、対等であろう。なお、彼女は加藤次景廉の息子と結婚し娘が出来、加藤は遠山と名乗り、子孫に遠山左衛門尉景元が出る。四巻元暦2年(1185)5月1日

ときのごどっきょう季の御讀經は、四季の読経をいう。六巻文治2年(1186)10月1日

とくごう得業は、ある課程(奈良の三会)を終了した僧の学階。六巻文治2年(1186)2月18日

とくたい得替は、年貢徴収権を変えられ取り上げられた。10巻文治6年(1190)11月6日

とこうなく左右無くは、考え無しに安易に。四巻文治元年(1185)8月24日

ところのしゅう所衆は、蔵人所の下役。ここでは下野國衙の蔵人所(政治をする)。同じ国衙内に軍司警察権は、侍所。田所。納所とある。六巻文治2年(1186)2月29日

とさ当時、頼朝が寄っていた伊豆山権現の領地が土佐にある。伊豆山権現は船を28艘持っていて、それが毎年土佐まで年貢を取り立てにいっているので、連絡があったのかもしれない?二巻壽永元年(1182)9月25日

とさのかじゃふんぼ土左冠者墳墓は、同母弟の希義で壽永元年(1182)9月小25日に平家家人蓮池權守家綱に殺され、高知市介良に源希義神社と西養廃寺跡がある四巻元暦2年(1185)5月2日

としかねほうず俊兼〔奉〕は、俊兼が頼朝の命に従って書きました。実物には頼朝の袖判があるはず。目代あての文ではあるが、目代に渡すのではなく、何かにつけて國衙に対しご威光を突きつけるために下河邊四郎政義が大事に持っている。三巻元暦元年(1184)4月23日

としゅうのごとし堵墻の如しは、垣根のように人が群がっている。

とだい斗代は、中世、田地一反あたりの年貢徴収量。七巻文治3年(1187)4月23日

とちゅうであいあいかっせんを途中で相逢い合戰を遂るは、待ち伏せをしようとしている。一巻治承4年10月13日

とっつけ鳥付は、馬の鞍の後輪(しずのわ)に尻懸(しりがい)を結ぶ鞖(しおで)の部分らしい。九巻文治5年(1189)8月9日

ととく都督は、太宰師又は太宰權師の唐名で、ここでは吉田經房。六巻文治2年(1186)7月18日

とどろきさわじごくだに登々呂木澤・地獄谷は、ともに江戸時代に埋め立てられて平らな田になっている。寿永2年(1183)2月23日

とねり舎人は、轡取りで、生涯元服をせず幼名を名乗る。武士之世界では少年を使い、公家社会では被差別民を使う。二巻養和元年3月10日

とばのしのみや鳥羽の四宮は、後白河の子供の恒恵法親王。四巻元暦2年(1185)1月6日

とばいんへせんぎょ鳥羽院へ遷御は、承久の乱の結果幽閉された。一巻序文

とひ都鄙は、都会も田舎も。二巻養和元年一月21日

とひにじょうげこうのまいど都鄙に上下向之毎度は、鎌倉と京都とを行き来するたびに。10巻文治6年(1190)10月29日

とべ戸部→こぶ

とぼそは、扉の回転軸の軸受け。三巻壽永3年(1184)2月25日

とみだ富田は、三重県四日市市富田(とみだ)。三巻元暦元年(1184)8月2日

どみん土民は、農民。9巻文治5年(1189)10月1日

ともいえのみなみみかどのたく知家の南門前の宅は、筋替橋の西南が政所、西御門川南が北条得宗家、西御門川東が大江広元邸、大江広元邸の東を八田知家邸と推定されている。七巻文治3年(1187)1月12日

ともみつらおんしょうにあずかる朝光等恩賞に預るは、このときの恩賞に朝光は、頼朝から結城をもらい「結城朝光」と名乗っていく。寿永2年(1183)2月28日

とようけだいじんぐう豊受太神宮は、伊勢神宮の外宮。壽永3年(1184)1月3日

とよだやかた江刺郡豐田舘は、江刺市藤里鎌田に東西五十七間南北三十九間を発見。9巻文治5年(1189)9月23日

とらのこく寅剋は、午前四時頃。五巻文治元年(1185)10月24日

とりは、鹿島神社のお使い。参考に春日神社は鹿。出雲大社は兎。弥彦神社も兎。稲荷神社は狐。三巻壽永3年(1184)1月23日

とりおく採置くは、切り倒して置く。倒しておくと腐ってしまう。川へ流して水に漬けて置くと、灰汁抜きが出来て材木が締まる。材木の切り出しは腐り難い冬場に行う。七巻文治3年(1187)4月23日

とんし頓死は、急にあっけなく死ぬこと。急死。五巻文治元年(1185)12月28日。頓滅は同じ意味と思われる。八巻文治4年(1188)10月10日

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