吾妻鏡入門・・解説参考文一覧(五十音順) よみ原文説明。掲載場所

進行状況:9巻文治5年(1189)9月末日まで整理済み

あ行 か行 さ行 た行 な行 は行 ま行 や行 ら行 わ行

ないがいそうおう内外相應は、内典と下典。内典はお経。外典はそれ以外を指す。内法・外法とも言う。ちなみに下法仏は天狗の事。六巻文治2年(1186)3月26日

ないきょ内擧は、頼朝の推薦。四巻元暦2年(1185)4月15日

ないしょうふ内相府は、内大臣。四巻元暦2年(1185)6月21日

ないだいじん内大臣は、徳大寺実定。六巻文治2年(1186)6月17日

ないとうろく内藤六は、盛家で藤性足利氏。四巻元暦2年(1185)1月6日

ないない内々は、密書で調略をしている。三巻壽永3年(1184)2月21日

ないふ内府は、内大臣で徳大寺実貞。五巻文治元年(1185)11月10日

ないらん内覧は、摂政になっていないので、天皇へ出す手紙を先に読む人と言う新職を作った。内覧は、天皇に奏上する前に内見する。一巻序文。内覧は、議奏で決めた事を天皇に見せる前に目を通す人、当然握りつぶしも書き直しの命令もできる。五巻文治元年(1185)12月6日

なか中は、中原。一巻治承4年8月20日

なががたな長刀は、薙刀に似ているが、江戸時代の薙刀は刃渡りが一尺から二尺程度で柄が六尺近いのに比べ、鎌倉時代のは刃渡りが二尺以上の通常の刀と同様で、柄もせいざい三尺程度の柄の長い刀といった処。なお、似たものに室町時代以降流行した長巻があります。一巻治承4年8月17日

なかもち中持は、現在の長持。六巻文治2年(1186)5月10日

ながもちはいそうす永用(城)敗走すと書いて、木曾冠者義仲の勝利とは書いていないのが不思議。二巻壽永元年(1182)10月9日

なかやまどう中山堂は、頼政の持仏堂で黒谷光明寺の北門外、今の真如堂の辺りらしい。一巻治承4年5月24日

なずむは、進まない六巻文治2年(1186)3月10日

ななかこくぶん七ケ國分は、北條時政に与えられた。以前に宗盛に畿内(山城・摂津・和泉・河内・大和)五カ国と丹波・近江が与えられ、四国(讃岐・伊予・阿波・土佐)は行家に、九州(筑前・筑後・肥前・肥後・豊前・豊後・日向・大隈・薩摩)は義經に与えられ、頼朝には東海道・東山道なので、北陸(越前・若狭・加賀・能登・越中・越後・佐渡)かもしれない。六巻文治2年(1186)3月1日

なにようたるべき何樣爲可きは、どうしようか。三巻元暦元年(1184)5月3日

なまじいに憖には、しなくても良いことをわざわざ。この場合は必要以上に知っているので。四巻元暦2年(1185)4月21日、憖には、否が応でも。しなくても良いのに。どうにも仕方なく。六巻文治2年(1186)8月15日。例、ナマジ止めるな夜の雨。10巻文治6年(1190)1月4日

なんけんのながれ南縣之流は、中国河南省南陽郡酈(り)県に甘谷というところがあり、その谷の水は甘美である。それは山上に菊が群生しているため、水が菊の滋液を含んでいるからである。その水を日常的に飲用している周辺の人々はみな長寿になるという。http://www1.odn.ne.jp/kushida/hk_kwb-j/hk_0803j.html六巻文治2年(1186)9月9日

なんざん南山は、高野山金剛峰寺。六巻文治2年(1186)8月26日

なんてい南廷は、銀塊で、レンガの半分の厚さの板状の物と、巴の形をしたものと二種類ある。五巻文治元年(1185)10月20日

なんと南都は、奈良仏教を指す。例。南都北嶺=奈良と比叡山。僧兵の本拠。六巻文治2年(1186)2月18日

なんめん南面は、大倉幕府の中央で東西に塀をしつらえ、南北に分け、北を私邸、南を公邸としていたようだ。その南面の公邸。八巻文治4年(1188)1月6日南面は、鎌倉御所(大倉)の中に南北に分ける塀があり、真ん中に門があった。北側を私邸とし、南を公邸としていた。頼朝は殆ど南へ出っ張り、頼家は北に閉じ篭り、実朝は行ったり来たりしている。九巻文治5年(1189)5月19日

にいどの二位殿は、平相國禪閤〔C盛〕の妻平徳子。四巻元暦2年(1185)1月6日

におうきょう仁王経、最勝王経は、承久の乱の項には、鎌倉では仁王経、最勝王経を承久の乱のときに初めて詠んだと書かれている。一巻治承4年10月16日

にきひがん二季彼岸は、春分と秋分のお彼岸。三巻元暦元年(1184)12月16日

にしみかど西御門は、大倉御所の西側の門。吾妻では初見。門の前に堀の西御門川が、現在の鎌倉市西御門一丁目内を暗渠で南下し、4番地と5番地の間から国大付属小学校の地下を通り、校門から筋替橋、開花亭の脇を流れ滑川へ注いでいる。なお、暗渠にしてまで学校にしたのは、明治時代に始めて陸軍が洋式演習の用地を得るために西御門大路を東へ付け替えてしまった。六巻文治2年(1186)1月5日

にじゅうごり二十五里を現在の一里4kmで換算すると100kmにもなってしまう。律令制では、五尺を一歩とし、三百歩で一里(454.5m)とした。だとすると454.5m×25里は、11.36kmなので、盛岡(青山駅)と紫波(古館駅)の間17km、直線で16km位なのでよしとしよう。9巻文治5年(1189)9月11日

にしょ二所は、二所詣でといって箱根權現と伊豆山權現の二箇所に詣でる。必ず三島神社にも詣でる。皆、頼朝が平家討伐を祈願した神社。七巻文治3年12月27日

にしょだいじんぐう二所大神宮は、内宮と外宮。三巻元暦元年(1184)5月3日

にすんぎんのしょうかんのん二寸銀の正觀音像は、後に奥州征伐の際、幕府後山に祀らせて、後の頼朝法華堂になる。また、後に鉄觀音を作り新清水寺に祀るが火事に会い、後に鉄井戸から出てきた。これを首だけ明治2年に江戸の商人が買い取り、水天宮の側に小さな大觀音寺に祀り、首だけがある。木曜日だけ開帳している。一巻治承4年8月24日

にちいん日胤は、千葉介常胤の息子と云ってるので、千葉六郎大夫胤頼の弟と思われる。二巻養和元年5月8日

にっかしょはん日下署判は、日付の下に名前を書き、へりくだっている時に使う。三巻壽永3年(1184)1月小17日

にっこうさん日光山は、二荒山神社で国衙が信仰していた。六巻文治2年(1186)9月30日

にほん二品は、頼朝。四巻元暦2年(1185)5月16日

にほんのぜんに二品禪尼は、平C盛の妻時子。四巻元暦2年(1185)3月24日

にり二離は、出離と入離。又自離と他離。=橘家の権威。六巻文治2年(1186)6月15日

にわとりは、鹿島神社のお使い。参考に春日神社は鹿。出雲大社は兎。弥彦神社も兎。稲荷神社は狐。三巻壽永3年(1184)1月23日

にんちゅう任中は、後白河尾張守の目代として現地に赴任した。六巻文治2年(1186)閏7月22日

ぬかのべ糠部は、青森県の浅虫温泉とか。9巻文治5年(1189)9月17日

ぬしと付けるのは、清和源氏だからであろう。巻壽永元年(1182)7月14日

ぬひ奴婢は、女性の奴隷と男性の奴隷。日本の場合は、欧米の奴隷制度と違い奴隷同士所帯を持つ等かなり自由な面もあったらしいので奴隷的下部とした。33巻延応1年4月14日

ねぎ禰宜は、(1)神社に奉職する神職の総称。古くは神主と祝(はふり)の間に位置したが、現在の職制では宮司・権宮司の下に置かれる。(2)伊勢神宮において少宮司の下に置かれている職。ウィキペディアより。三巻壽永3年(1184)1月3日三巻壽永3年(1184)1月23日六巻文治2年(1186)閏7月二十八

ねのこく子尅は、真夜中だが、夜の闇が穢れを隠すとされる。五巻文治元年(1185)9月3日

ねりいろ練色は、薄い黄色を帯びた白色。淡黄色。四巻文治元年(1185)8月30日

ねりぎぬ練絹は、精錬された絹。9巻文治5年(1189)9月17日

ねんぐ(荘園領主の本所まで届けられるのを年貢、本年貢と呼び、中間作取者の分は、得分・地子米・料米などと呼び、他に公事米などもある。八巻文治4年(1188)2月2日

ねんらいまたきこしめすにおよばず年來又、聞こし食すに及不は、数年来ずぅーとそんな話は聞いたことがない。三巻元暦元年(1184)9月20日

のうぐをうちとめ乃貢を打ち止めは、横取りをして。三巻壽永3年(1184)3月9日

のうし直衣は、公家装束の一。烏帽子(えぼし)・直衣・単(ひとえ)・指貫(さしぬき)・下袴・襪(しとうず)・腰帯・浅沓(あさぐつ)・檜扇(ひおうぎ)からなる。五巻文治元年(1185)10月24日のうし直衣は、〔直(ただ)の服の意〕天皇以下、三位以上の貴族の平常の服。束帯の袍(ほう)と同じ形であるが、位による色目・文様の制限がない。通常、烏帽子(えぼし)と指貫(さしぬき)の袴(はかま)を用いる。勅許を得た者は直衣姿で参内することができた。雑袍(ざつぽう)

のうしはじめ直衣始めは、関白・大臣などで直衣装束での参内を許されて、初めて直衣を着用すること。また、その儀式。直衣装束は、公家装束の一。烏帽子(えぼし)・直衣・単(ひとえ)・指貫(さしぬき)・下袴・襪(しとうず)・腰帯・浅沓(あさぐつ)・檜扇(ひおうぎ)からなる。

のうそ緇素は、緇が黒服で坊主、素は白服で俗人を差す。一巻治承4年8月24日

のうそひでさと曩祖秀郷は、俵藤太藤原秀郷。寿永2年(1183)2月23日

のうりょう農料は、種子。9巻文治5年(1189)11月8日

のじ野次は、小野の次男で横山党。三巻元暦元年(1184)8月18日

のせたり載タリは、書かれている。四巻元暦2年(1185)4月21日

のちのしちがつ7月は、閏7月のこと。六巻文治2年(1186)閏7月26日

ののみやがっせん野々宮合戦によって、関東の内で頼朝に服従しないものはいなくなった。寿永2年(1183)2月28日

ののみやへん野宮邊は、野市町上野の野々宮神社との説もある。年越山から800m程度)二巻壽永元年(1182)9月25日

のぶつらと信連と戦って怪我をしたのは、藤原光長の部下だけである。源兼綱は裏で頼政と繋がっているので本気で長兵衛尉信連と戦っていない。一巻治承4年5月10日

のやひとこし野箭一腰は、狩猟用の矢を二十四本。四巻元暦2年(1185)6月5日。野矢は、狩猟用の矢。征矢(そや)より粗略に作られたもの。

のりうち馬に乘り乍ら其の前を打ち通り訖んぬは、乗り打ちと云う。二巻養和元年3月13日

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