吾妻鏡入門・・解説参考文一覧(五十音順) よみ原文説明。掲載場所

進行状況:12巻建久3年(1192)6月末日まで整理済

あ行 か行 さ行 た行 な行 は行 ま行 や行 ら行 わ行

ばいぜん陪膳は、お給仕。2巻寿永1年(1182)8月18日

はいでん拝殿は、八幡宮の神殿の作りは権現造りといって、神様の座する本殿と手前に人が座して拝む拝殿とが別棟に建てられ、その間に一間を儲け双方へ石段が上っている。一説に実朝はここで討たれたとも言われる。二巻壽永元年(1182)12月7日

ばくか幕下は、大将の略。大将は陣中で幔幕を張り巡らした中にいることから。ちなみに幔幕は、映画などでは格好がつかないので、四方をきちんと結わえピンと張っているが、実際は矢が突き通らないようにだらりと垂らしておかなければ意味が無い。10巻文治6年(1190)12月10日

ばくかのほかにんずるひとなし幕下之外任ずる人無しは、頼朝だけのための任命式だった。武力へのお手盛り人事。10巻文治6年(1190)11月24日

はくじょう白状は、事情を申す。白は申すの意。状は、状態の意。六巻文治2年(1186)9月29日

はくちょう白張は、糊(のり)をこわくつけた白布の狩衣(かりぎぬ)。官人の奴僕などが着た。10巻文治6年(1190)12月1日

はくろく博陸は、関白の唐名から大臣を指す。三巻壽永3年(1184)2月11日博陸之重臣を配流すは、松殿基房を備前に流罪にした。三巻元暦元年(1184)11月23日

はこねといず 箱根と伊豆山の兩権現は、この時代は、その威光は信ずるものが多かった。箱根権現は、今の元箱根の芦ノ湖の湖畔にある箱根神社で、万巻上人が道場を開いたと云われ、その木像が安置されていますが、関東で一番古い木像と云われます。一巻治承4年8月19日

はじとみぐるま半蔀車は、屋形の横にある物見窓(ものみまど)が、引き戸ではなく、上に押し上げる半蔀戸になっていることによる名称。10巻文治6年(1190)12月9日

はしのま階間は、「はしのま」で階隠しの間(はがくしのま)とも謂われ、階段を上った上段、簀子に面する庇の間。階隠しは、社殿や寝殿造りの殿舎で、正面の階段上に、柱を2本立てて突出させた庇。社殿では向拝(こうはい)ともいう。31巻嘉禎3年(1237)8月大15日

はじめてこのぎにおよぶ始めて此の儀に及ぶは、今頃になってやっと。四巻元暦2年(1185)5月7日

はじめてこれをはいりょうすめて之を拝領すは、領地を貰ったので御家人身分に昇格した。それまでは朝夕恪勤(ちょうせきのかくごん)で、領地のない人が大倉御所に住み着いて奉公し、一日玄米五合を支給される。12巻建久3年(1192)6月3日

はじめてぶっしんをおく始めて佛神を置くは、今までは菅原道真一人を祀っていた。六巻文治2年(1186)6月15日

はせうま馳驛は、飛脚。三巻元暦元年(1184)5月15日

はちがつようか8月8日平家追討軍出発は、治承4年(1180)7月大5日に八ずくしの話をしており、八幡宮の例もあり八にこだわっている。三巻元暦元年(1184)8月8日

はちぎゃく八虐は、律に定められた、きわめて重い八種の罪。謀反(むへん)・謀大逆(ぼうたいぎやく)・謀叛(むほん)・悪逆・不道・大不敬・不孝・不義をいう。八虐罪。9巻文治5年(1189)9月6日

はちこう八講は、法華八講の略で、法華經八巻を八座に分け、朝夕一座ずつ4日間で講ずる法会。六巻文治2年(1186)6月15日

はちじょう八杖は、八つえで、京都では木偏をつけないが関東ではつける。弓道場はこの話から的までの距離を24mにしている。二巻壽永元年(1182)6月7日

はちじょういん八条院(本所)は、鳥羽天皇の娘で名はワ子→人名事典

はちまん八幡は、宇佐八幡宮。一巻治承4年8月18日

はちまんぐう八幡宮には頼朝専用の座席が決まっていたようだ。二巻壽永元年(1182)12月7日

はちまんだいぼさつ八幡大菩薩は、八幡神は、元々が豊前宇佐地方の氏神だったらしいが、大和朝廷が外敵守護神とし、奈良時代には祭神を応神天皇として宇佐八幡宮にした。平安時代には京都の石清水に勧請して岩清水八幡宮とした。神仏混交時代には本地垂迹説で八幡神は菩薩の変わり身であるとされ、八幡大菩薩と呼ばれた。頼信が石清水八幡宮に願文を捧げて以来、源氏の氏神と仰いだ。一巻治承4年7月5日

はちまんたろう八幡太郎は、源頼義の長男→人名事典

はちよう八葉は、牛車。屋形に八葉の紋のある網代 (あじろ) 車。紋の大小により大八葉・小八葉と呼ぶ。Goo電子辞書から10巻文治6年(1190)11月9日

はちようのくるま八葉車は、九曜星と同じ形で真ん中に丸星と周りに八つの丸星が取り囲む。真ん中の丸が大きいのは大八と云って三位以上が乗れる。源九郎義經は小八車だがそれでも公卿の乗るものなので、侍は乗らないはず。でも、後に頼朝も乗る。三巻元暦元年(1184)10月24日、一つの円を中心に周囲に八つの円を配した文様のついた牛車で、五位以上が乗れることが出来る。三位以上は後ろのすだれいっぱいの大きい模様なので大八葉と云う。四巻元暦2年(1185)4月26日

ばっか幕下は、近衛大将または将軍の唐名で、ここでは〔頼朝〕。11巻建久2年(1191)3月3日

はっけ波氣は、地名カ?盛岡西の盛岡市中太田に八卦の地名有り。地理的に厨川の柵阿部館町の西南にあたるが2kmも離れている。9巻文治5年(1189)9月12日

はっすんよ八寸余は、体高四尺八寸の頼朝がお気に入りの馬の大きさ。10巻文治6年(1190)10月3日

はっちょう八挺は、宇宙をさす。三巻元暦元年(1184)11月23日

はとは、源氏の白鳩(八幡宮の門の額の八の字は鳩になっている)。九巻文治5年(1189)7月8日

はとうをしのぎ波涛を凌ぎは、波の間を潜り抜けて。三巻元暦元年(1184)12月7日

はとのお鳩塢は、鞘のしつらえを鳩の模様の蒔絵で飾る。(源氏の白鳩かも)五巻文治元年(1185)10月19日

はとりのしょう(するが)服織庄〔駿河〕は、駿河安部郡服織の建穂寺を探すと、静岡県静岡市葵区羽鳥に服織小学校・服織中学校あり。隣の建穂に服織幼稚園もあり。三巻壽永3年(1184)4月6日

はとりやま羽取山は、三重県鈴鹿市郡山町南方の丘陵服部山。三巻元暦元年(1184)5月15日

はなぞのじょう花園城は、茨城県北茨城市華川町花園に花園神社あり、旧常陸多賀郡花園村。一巻治承4年11月6日・二巻壽永元年(1182)6月5日

はなねじり鼻捻は、馬を制御するための道具。45センチメートルほどの棒の先に紐(ひも)を輪にしてつけ、馬の鼻に掛けて棒をねじり制する。武器や捕り物用具としても用いた。はなねじり。10巻文治6年(1190)12月1日

ばば馬塲は、流鏑馬馬場の出発点で、八幡宮国宝館脇の武道館辺りと思われる。但し発掘調査の結果後年八幡宮境は東に広がったようだ。 八巻文治4年(1188)10月20日

はばかりは、義弟の義經の死穢によると思われる。9巻文治5年(1189)12月18日

はばき脛巾は、脛(すね)に巻き付けてひもで結び、脚を保護して歩行時の動作をしやすくするために用いたもの。後世の脚絆(きやはん)、ゲートルに当たる。10巻文治6年(1190)12月1日

ばばもと馬塲本は、流鏑馬馬場の出発点で、八幡宮国宝館脇の武道館辺りと思われる。但し発掘調査の結果後年八幡宮境は東に広がったようだ。六巻文治2年(1186)11月12日

はふり祝は、日本史用語辞典によると、神に仕える職。神主や禰宜の下位に位置した。とある。一巻治承4年9月10日六巻文治2年(1186)11月8日

はままつのしょうはしもと濱松庄橋本は、浜名湖の海とつながる場所の橋の西側で橋の本から名の由来。現静岡県浜名郡新居町浜名に橋本バス停あり。寿永2年(1183)2月17日

はやかわがっせん早河合戰は、石橋山合戦。二巻養和元年一月6日早河合戰は、初戦の石橋山合戦。五巻文治元年(1185)10月29日

はやかわのしょう早河庄は、湯河原町真鶴町辺り。早川荘は、本所は頼朝・領家は箱根権現・総地頭は土肥次郎實平・小地頭のひとりが麻々局(頼朝の乳母)。一巻治承4年10月16日

はやばやは、一文字ながら二文字分と読み「早々と」(はやばやと)と読む。他にも「尚」を「なおなお」、「直」を「じきじきに」「又」を「またまた」「弥」を「いやいや」と読む。三巻壽永3年(1184)3月1日、公立大学は「早く」と読み、私立大学は「早々(はやばや)と」と読む。四巻元暦2年(1185)4月26日

はら原は、武蔵國原郷で現川崎市幸区原町。一巻治承4年8月23日

はらだ原田は、原田大宰少貳種直。四巻元暦2年(1185)5月9日

腹巻について平成19年1月20日近藤好和さんの話を聴講し、新しい事実がわかったので訂正します。

はらまき腹巻は、鎧の一種。右脇で合わせ草摺が八間(枚)で、大鎧に比べ、前立ても札板剥き出しで、その他は省略されている。大鎧は右脇で合わせ草ずりが前後左右の四間(枚)で前立てには模様の描かれた弦走革が貼られ、栴檀板や鳩尾板、袖、脇楯などが付属し騎馬武者用に造られており豪華である。胴丸は、室町時代半ばに腹巻以上になお簡略されたもので、合わせ目が後ろにあり、その分草摺が一枚少なく7枚。その合わせ目の隙間を庇う為その後ろからもう一枚重ねるが、これを「臆病板」と称し、余り着けなくなってゆく。なお、腹巻と胴丸は江戸時代になると呼称が逆転してしまい、近藤好和さんの著書以外の本や博物館は、江戸時代の呼称で分けられているので反対だと思ってください。第一巻治承4年8月17日

はりのちりほんどうごく梁の塵殆んど動く可しは、新古今和歌集の書き出しに優れた歌は天井の塵も動かすとある。六巻文治2年(1186)4月8日

はりまのくに播磨國は、梶原平三景時が守護地頭をしている。六巻文治2年(1186)6月9日

はりまのくにしゅごにん播磨國守護人は、この時点では梶原平三景時。六巻文治2年(1186)3月24日

はるた春田は、富士宮市原田。一巻治承4年10月14日

はるちかごりょう春近御領は、春近と云う仮の名で開発した鎌倉幕府領。恐らく本所は院で、領家が頼朝であろう。地頭は誰か分からない。八巻文治4年(1188)6月14日

はれにぞくす霽に属すは、前日から晴の場合はリを使い、このは雨の後の晴を表すらしい。3巻元暦1年(1184)10月6日

はんは、花押。この時代は殆どハンコウは使わない。六巻文治2年(1186)10月1日

はんかい樊會は、劉邦の幼馴染。肉屋から漢の勇将となる。ウィキペディアより三巻壽永3年(1184)2月7日

はんがやつ榛谷は、地名辞典

ばんざい萬歳は、「万才までも長生きするように」から何時までも安泰であるように。六巻文治2年(1186)4月8日

ばんしょう番匠は、大工さん。四巻元暦2年(1185)3月18日

ばんじょう万乘は、安徳天皇。三巻壽永3年(1184)2月20日

はんそう半更は、真夜中。二巻養和元年1月1日、夜更け。五巻文治元年(1185)10月24日

ばんちょう番長は、朝廷から派遣された護衛隊の隊長。番は班を組むこと。四百人の部下を統率するとある。10巻文治6年(1190)11月26日

はんまん斑幔は、まだらまくとも読み、紅白や黒白や五色等の幔幕。六巻文治2年(1186)1月21日

はんむすんいんをうしなわずのゆえ繁務寸陰を失は不之故は、忙しくてもちゃんと時を惜しんで仕事をする。10巻文治6年(1190)10月5日

はんめん半面とは、半分顔を背けうつむくの意味で吾妻鏡の造語。三巻壽永3年(1184)3月13日はんめん半面は、吾妻鏡独特の言葉で、半分よそを見ている。そっぽを向いているの意味。四巻元暦2年(1185)8月4日

ばんやく番役は、京都大番役で清盛が関東武士を靡かせる為に決めた制度で、手弁当で3年間京都の警護に当たる制度。3年とは承久の乱の際の政子の演説で分かる。これを頼朝は半年にし、時頼は三ヶ月にした。)一巻治承4年6月27日

ひい非違は、検非違使の略。八巻文治4年(1188)5月17日

ひおどしのよろい火威の甲は、緋威の鎧で、緋色の緒を通すからきている。寿永2年(1183)2月23日

ひがごと僻事は、いけない事。六巻文治2年(1186)6月21日

ひがしじょうのしょうないかりたごう信濃國東條庄内狩田郷は、長野県長野市松代町東条かもしれない。長野市浅川には東条も西条もある。東筑摩郡筑北村にも東条と西条がある。信州の市町村の変遷によると埴科郡(はにしなぐん)東条村(ひがしじょうむら)は1955/4/1に松代町に合併し、1966/10/16に長野市へ合併しているので、松代の方らしい。三巻壽永3年(1184)2月30日

ひがしたいふとにしたいふ大夫と西大夫は、後に戦国時代に双方で争い、西方が勝って東方は滅んだ。西方は現在でも続いている四巻元暦2年(1185)4月20日

ひかるる曳被るは、地面にくいを打って縄張りをすること。二巻養和元年5月24日

ひき比企は、埼玉県比企郡。一巻治承4年8月9日

ひきうま引馬は、替え馬のこと。四巻元暦2年(1185)5月17日

ひきがやつどの比企谷殿は、比企一族の屋敷で現在の妙本寺の地。二巻壽永元年(1182)7月12日

ひきつのる引募るは、自分のほうへ引いて募るで、応募する。六巻文治2年(1186)6月11日

ひきのあまがいえ比企尼が家は、鎌倉市大町一丁目15の妙本寺の地とされる。但し、北鎌倉の瓜ケ谷だと「鎌倉攬勝考」にあるが、間違いであろう。六巻文治2年(1186)6月16日

ひきふ引夫は、切り出した材木を川まで引き出す労働者。柱材は太さ1.6m、長さ30m程を枝を払い、紐穴を開け、轆轤で引っ張り出す。七巻文治3年(1187)4月23日

ひきめ引目は、矢の蟇目で鏑が付いているので枕元で鳴らして魔払いをする。二巻壽永元年(1182)8月12日鏑矢の一種で鏃をはずしてある。前から見ると風笛の穴が蟇蛙の目に似ている。四巻元暦2年(1185)5月17日

ひきょ非據は、間違い。この場合は安徳天皇を失い、三種に神器を取り戻せなかったこと。犯罪。四巻元暦2年(1185)4月21日

ひごろしきりに日來頻りに之を愁ひ申すは、侘びの手紙を沢山出していたのか。三巻壽永3年(1184)3月6日

ひごろちょうせきにしこうし日來朝夕に祗候しは、朝夕祗候人と云い、石高がなく、1日玄米五合を与えられる。二巻養和2年3月5日

ひごろのけいせいをあらためず日來の形勢を不改は、普段どうりのやり方を変えずに=いつもどおり。三巻元暦元年(1184)4月21日

ひさつね典膳大夫久經は、典膳大夫中原久經。元暦2年2月5日典膳大夫中原久經近藤七國平は、頼朝の命で使節として京都へきている。四巻元暦2年(1185)3月4日

びぜんのくに備前國は、土肥次郎實平が守護地頭をしている。六巻文治2年(1186)6月9日

びぜんのくにこじま備前國兒嶋は、玉野市小島・倉敷市藤戸町新倉敷に藤戸寺ありそばの橋に佐々木三郎盛綱の像がある。三巻元暦元年(1184)12月7日

ひそかに密かにとは朝廷の許可を得ないで、と云う意味だと思います。一巻治承4年10月12日

ひそかにここで云う潜には、朝廷の許可を得ず、身勝手に等の意味があります。一巻治承4年10月21日

ひたけなわ日闌は、日が上ったら。三巻元暦元年(1184)4月21日

ひたたれ直垂は、素袍に同じ。元は貴人の夜の具なりしが、後、公武並びに諸人の常服となる。但しこの時点で頼朝は本当に配るだけの資産を持っていたか?一巻治承4年10月18日、上着、袴とも同じ裂地で作ってある衣装。http://www.heian-soen.jp/taiken/shozokutaiken/itm/hitatare.html三巻元暦元年(1184)8月8日ひたたれ直垂は、直垂は庶民の着る物で鎧の下に着ていた。それが袖が大きくなって正装になった。八巻文治4年(1188)7月10日ひたたれ直垂は、垂領(たりくび)・闕腋(けつてき)・広袖で、組紐(くみひも)の胸紐・菊綴(きくとじ)があり、袖の下端に露(つゆ)がついている上衣と、袴と一具となった衣服。古くは切り袴、のちには長袴を用いた。元来は庶民の労働着で、身幅・袖幅の狭い、布製の上衣であった。彼らが武士として活動するようになって、端袖(はたそで)を加え、共布の袴を着けるなど形を整えた。鎌倉時代には幕府出仕の公服となり、江戸時代には三位以上の武家の礼服となった。Goo電子辞書から九巻文治5年(1189)8月22日

ひたちのおんもくだい常陸御目代は、国司藤原俊盛の代官。三巻元暦元年(1184)4月23日

ひつじさるは、南西の方向。9巻文治5年(1189)9月12日

ひっぷ疋夫は、人夫の馬並に差別されている民。四巻元暦2年(1185)5月17日

ひっぷ疋夫は、農民。九巻文治5年(1189)7月19日

ひとえにごじょせいをもって云々偏に御助成を以て宿願を果すは、高階栄子六月に比叡山で法事を行うと聞いたので、523日条で砂金や反物を送った10巻文治6年(1190)6月22日

ひとのうれいなくんば人の愁ひ無くん者旁神妙は、庶民の嘆きをなくせば、それは神妙な行為だ。六巻文治2年(1186)3月2日

ひとのおもうところは人之思う所は、他人にどう思われるかを考えると。四巻元暦2年(1185)3月9日

ひとのきふとごうし人之寄附と号しは、誰かに貰ったと云って。六巻文治2年(1186)6月21日

ひとのものをうばいとる人の物を奪ひ取るは、現在で云う他人のものを盗ると似ているが、当時は「神の物」「仏の物」「人の物」と云う様に分ける考え方なので、一度神様に捧げたものをお下がりして食べるなどの習慣はなかった。三巻壽永3年(1184)3月9日

ひとをこゆる人を越ゆるは、ぬきんでている。寿永2年(1183)2月25日

ひなみ日次は、その日の吉凶。日柄。一巻治承4年(1180)10月11日

ひば疲馬は、意味が良く解りませんが、あえて云うなら疲れているを「老馬」又は「やせ馬」と考えるべきか?一巻治承4年8月17日

ひはだいろ桧皮色は、当初は檜の樹皮で染めた染色の色だったともいわれているが、一般には檜の樹皮のような黒ずんだ赤茶色のことをいう。襲の色目にも檜皮という色目があり、表が黒ずんだ蘇枋、裏は縹色となっていて、若者はこれを用いず、中年以降の人が着用することになっていたそうだ。10巻文治6年(1190)12月2日

ひめぎみのおんかた姫公御方は、大姫。三巻元暦元年(1184)4月21日

ひゃくおう百王は、天皇家。一巻治承4年4月27日

びょうえいをあおぐ廟榮を仰ぐは、天皇に頼んだ。六巻文治2年(1186)6月15日

ひょうえのじょうよしつね兵衛尉義經は、山本義経。二巻養和元年2月12日

ひょうぐをゆるさず兵具を聽不は、侍身分を剥奪され帰農したのだろうか?9巻文治5年(1189)9月13日

ひょうごみけのしょう(せっつ)兵庫三ケ庄〔攝津〕は、大阪府大東市三箇。三巻壽永3年(1184)4月6日

ひょうじ兵士(ひょうじ)は、荘園資料に年貢護送用隊で出るらしい。相田二郎著「関所の研究」。10巻文治6年(1190)9月21日

ひょうろうのこと兵粮の事は、源平合戦に合戦用兵糧米として、後白河法皇から貰った兵糧料所からの兵糧米の徴収を合戦が終わったのに止めていない。六巻文治2年(1186)4月13日

ひょうろうまい兵粮米は、通常戦争用の軍隊の食料だが、この場合は守護地頭の駐屯軍の食料。五巻文治元年(1185)11月28日段別五升は、一反につき五升で、頼朝の時代には一反で一石程度の収穫だったが、後に金属農具の発展や牛馬の使用、肥料の仕様などで収穫が増えて、一反で二石から四石取れるようになって物価が上がっても、五升はかわらなかったので、御家人は困窮していく。五巻文治元年(1185)11月28日

ひょうろうまいのことちょうじすべし兵粮米の事、停止可しは、地頭撤退。六巻文治2年(1186)2月21日

ひょうろうまいのし兵粮米の使は、兵糧米取立人。六巻文治2年(1186)3月1日

ひょうろうまいをちょうじ兵粮米を停止は、地頭撤退。六巻文治2年(1186)3月2日

ひらくみ平組は、平打ちにした組紐。10巻文治6年(1190)12月1日

ひらやなぐい胡籙は、矢を扇形(放射状)に指し背に負う道具。お雛様の右大臣左大臣の様子。九巻文治5年(1189)1月19日

ひりょう比量は、くらべはかること。比較する事。11巻建久2年(1191)12月15日

ひれ平礼は、平烏帽子。漆を薄く塗ったヘリの無い烏帽子。頂を折ってある。9巻文治5年6月6日ひれ平礼(ひれ又はへいらい)は、平礼烏帽子のことで、雑色(ぞうしき)などの用いる、漆を薄く塗った、縁のない、粗末な烏帽子。頂がひらひらする。10巻文治6年(1190)12月1日

ひろさだのりょうち弘貞の領地を重成が嘘の所領安堵の状を出した事が頼朝の機嫌を損ねた。二巻養和元年4月20日

ひろびさし弘庇(ヒロビサシ)は、玄関がなく広い縁側になっているので、牛車は付ける、輿は乗せる。三巻壽永3年(1184)2月14日ひろびさし廣庇は、寝殿造りで、母屋と庇の外側にある吹き放ちの部分。孫庇に相当する。庇より長押(なげし)一本分だけ床が低くなっている。広縁。広軒。Goo電子辞書から九巻文治5年(1189)6月4日

ひをどしのよろい火威の甲は、緋威の鎧で、緋色の緒を通すからきている。寿永2年(1183)2月23日

ひんぱん蘋蘩は、神に供える。ウキクサとシロヨモギ。一巻治承4年10月12日

びんろうげのくるま檳榔毛の車は、檳榔の葉を細かに裂き、白くさらしたもので車の箱をおおった牛車。上皇・親王・大臣以下、四位以上の公卿・女房・高僧が

ふうじょう封状は、捩り封書で、正式でない結文むすびぶみ。九巻文治5年(1189)8月26日

ぶえい武衛は、兵衛の唐名で、階級の幅が広いここでは頼朝を差す。一巻治承4年4月27日・一巻治承4年5月10日・三巻壽永3年(1184)2月18日三巻元暦元年(1184)8月6日

えいあえておことばをはっせず武衛敢て御詞を發せ被不は、未だ御家人を統制できる状態ではない。二巻養和元年6月19日

ぶえいおんくだしぶみ武衛御下文は、この場合は本領安堵状を与え、御家人と認めた。三巻壽永3年(1184)2月14日

ぶえいとにほん武衛二品、同じ日の文書に頼朝が武衛二品の二つの呼び方で出ている。二品は平家討伐の賞で受けたので「今日因幡國住人」後半の内容は書き足されたものと思われる。三巻壽永3年(1184)3月10日

ぶえいはいりょうせしめ武衛拝領令めは、頼朝の関東御領となった。四巻元暦2年(1185)4月29日

ぶえいをいたてまつる武衛を射奉るは、佐々木五郎義Cを引き連れて大庭三郎景親軍に参加している。四巻元暦2年(1185)5月9日

ぶぎょう奉行は、この場合は兵糧奉行。三巻元暦元年(1184)4月29日

ぶぎょうしきじ奉行職事は、担当司会者。九巻文治5年(1189)5月17日

ふくほん複本は、復職10巻文治6年(1190)10月9日

ぶけどうりをたいする武家道理を帶する事に至りて者は、こちらの方が道理があることは。三巻壽永3年(1184)3月28日

ふし父子は、七人で七夜と縁起の良い七になぞらえている。二巻壽永元年(1182)8月18日

ふじおさか藤尾坂は、吉野山下千本の旅館さこやの露天風呂の脇に古いのと新しいのと石碑が二本立っている。五巻文治元年(1185)11月17日

ふじごりょう冨士御領は、浅間神社神領義時の治領地(地頭)。九巻文治5年(1189)7月5日

ぶししょういんせざるか武士承引不る歟は、云っても聞かなかったのか。三巻壽永3年(1184)2月20日

ふじしんりょう富士神領は、富士浅間社の領地で、長講堂領地なので後白河法皇の分(御領)。本所が後白河法皇、領家が頼朝、地頭が北條時政。八巻文治4年(1188)6月4日

ふじだいぼさつ富士大菩薩は、富士市浅間神社。一巻治承4年8月18日

ふじつに不日には、日をおかずに、直ぐに。三巻元暦元年(1184)7月2日

ふじとのかいろ藤戸の海路は、江戸時代に埋め立てられて、現在ではたんぼになっている。三巻元暦元年(1184)12月7日

ふしのこ父子の子は、加藤太光員と加藤次景廉。三巻元暦元年(1184)7月18日

ぶしのためにさまたげ武士の爲に妨げも・武士の狼藉を停止も、地頭撤退。地頭とは、領家にとっては年貢から兵糧米を横取りする濫吹・狼藉に過ぎないと理解している。六巻文治2年(1186)3月2日

ぶしのやかた武士の館は、本家が二町四方。庶家は、一町四方。一町は六十間(109m)。9巻文治5年(1189)9月3日

ぶしのらんぼうのこと武士の濫妨の事とは、地頭が置かれているので、年貢を横取りされる。六巻文治2年(1186)7月8日

ふじほくろく富士北麓は、愛鷹山の単語がすぐ後に出るので、実際にはここまで来ていない。一巻治承4年8月25日

ふしみかじゃ 伏見冠者は、駿河国伏見郷で、現在の静岡県清水市。二巻養和2年5月12日

ふしみのかじゃひろつな伏見冠者廣綱は、らいとばっちりですね。二巻壽永元年(1182)12月16日

ふしょう府生は、近衛府の検非違使の下役。10巻文治6年(1190)5月29日・10巻文治6年(1190)11月26日ふしょう府生は、六衛府・検非違使の下役。10巻文治6年(1190)12月1日

ぶしら武士等は、この言葉には関東の野蛮な源氏軍への侮蔑の気持ちが入っている。三巻壽永3年(1184)2月20日

ふせきをとどめん 浮跡を留めんは、無住となる。二巻養和2年5月25日

ふせとり布施取は、布施を渡す役だが、この布施を渡すまでが儀式のうち。五巻文治元年(1185)10月3日

ふせん府宣は、大宰府の宣の事。六巻文治2年(1186)2月22日

ぶぜんぜんじ豊前々司光季は、光行の父、その父は季遠で同様に平家に仕えていた。満政流清和源氏。源義家源義忠源忠宗−源季遠−源光季−源光行−源親行 (奥富敬之氏説)ウィキペディアから三巻元暦元年(1184)4月22日

ふそ父祖は義朝、藤原正清は鎌田正清、二人は平治の乱の時、落ち延びる途中で長田庄司忠致に殺された。一巻治承4年8月18日

ふたあい二藍は、染め色の名。紅花で染めた上から重ねて藍で染めた色。青みがかった赤紫。二つ色。ふたい。襲(かさね)の色目の名。表は赤みの紺、裏は縹(はなだ)に糊(のり)を引く。40歳まで着用。10巻文治6年(1190)12月2日

ふたみがうら二見浦は、伊勢市二見町。二巻養和元年一月21日

ふだんのどっきょう不断の読経は、途中でやめないで読経を続けること。四巻元暦2年(1185)7月29日

ふちょう府廳は、国府の庁舎。9巻文治5年(1189)10月1日

ふちをくわう扶持を加ふは、手助けをする。四巻元暦2年(1185)4月28日

ぶつがん仏眼は、五眼の一つで一切を見通す。仏眼仏母。密教で崇められる仏の一尊。真理を見つめる眼を神格化した経典。病気を治すまじない。ナウボウバキャバテイウシュニシャヤオンロロソボロジンバラチシュタロシャニャサラバアラタサダニエイソワカだそうです。

ぶっし仏師系図 康尚─定朝┬覚助┬頼助─康助─康朝┬成朝            五巻文治元年(1185)10月21日
             │  │  奈良仏師  └康慶┬運慶┬湛慶(慶派)
             │  │           ├快慶   (慶派)
             │  └院助─(院派)
             └長勢┬兼慶
                └円勢─(円派)

ぶっしょういげ佛聖以下は、仏聖田と言う佛に捧げた田んぼなど。10巻文治6年(1190)9月17日

ぶっしょうでん佛聖田は、灯明をあげるための代金として年貢を納める田。三巻元暦元年(1184)12月16日

ぶっしょうとうゆでん佛性灯油田は、仏様に捧げる灯明用の油を切らすことの無い様に、その分の年貢を納める田畑を与えること。お経を唱える坊主の食い扶持も含む。9巻文治5年(1189)9月9日

ぶつじをしゅうされる佛事を修被るは、法要をする。六巻文治2年(1186)7月11日

ぶとう舞踏は、初見時に対面に感激し舞を舞うが如く喜びを表現する儀式。座って二度頭を下げ、杓を脇に置いて立ち上がり、体を左右に二度振って、しゃがんで杓を取り、大きく頭を二度下げ、小さく頭を二度下げる。三巻元暦元年(1184)10月24日ぶとう舞踏は、喜んだふりをする儀式。10巻文治6年(1190)12月1日

ふとひがわ大井川は太日川で、渡良瀬川が東京湾へ注いでいた(武藏風土記には利根川の古名とある)。当時利根川と荒川と入間川が合流して隅田川へ注いでいた。一巻治承4年10月2日

ふなどころのごろうまさとし船所五郎正利は、國衙の船所の長官を代々やっているので名字になってきている。四巻元暦2年(1185)3月21日

ふなぶぎょう舟船奉行は、船所の長官なので、船の扱いも自由になっており私物化している。四巻元暦2年(1185)3月21日

ふひと史は、天皇家からの宣旨や指示を書く役六巻文治2年(1186)1月7日

ふびん不便は、不憫。10巻文治6年(1190)3月9日

ふゆ不輸は、荘園が租税の納入を免除されること。Goo電子辞書から八巻文治4年(1188)3月17日

ふゆそ「不輸租」庄薗に於て者、本所に移しとは、荘園は「不輸租」と云い、國衙などの役人に租税を納める必要がない。又、同時にその意味で役人が入ることが出来ない。そこで、犯人を見つけたら本所を通して云って来いの意味で、本所の許可を得てから追捕するので捕まえられない。五巻文治元年(1185)11月10日

ふりゅう風流は、仮想の催し。ある式典などを真似る催し。九巻文治5年(1189)1月19日

ふれい不例は、普段の例にあらずで病気。病気とは病の気が取り付く。11巻建久2年(1191)11月8日

ふわのぎあり不和の義有りは、保元の乱の際に敵方となった義朝の父爲義の殺害を義朝から義通に任され、主人の父や幼い弟達を討たなければならなかった事に無常を感じ、武家奉公を嫌い家令を辞めた。そこで左兵衛藤原正清が代わって家令になった。一巻治承4年10月17日

ぶんは、当時は身分制度が行渡っていたので、人や家格の位や本来の力を現す。分をわきまえると分際。分に限りがあるので分限。分に従って随分。分に合わせて答えると応分。自分に過ぎたものが過分。平安中期からは家格に応じた家職があるとされる。摂関家は本流のみ、院の別当になれるのは摂関家の分家。過分な分不相応な位になると分に人が耐え切れ無くなるので、それを利用して分に相応しくない位を与え死に追いやる「位打ち」と言う一種の呪が存在すると思われていた。典型的な例が実朝の場合である。九巻文治5年(1189)閏4月30日

ふんけい刎刑は、斬首。六巻文治2年(1186)2月1日

ぶんごのかみ豊後守は、毛呂季光で、藤原秀郷流で準門葉(頼朝が食べる米に困った時郎等が米を貸してくれる土豪を尋ねまわった時埼玉県毛呂山町のこの人がくれたので、その意気を買って準門葉)。10巻文治6年(1190)9月29日

ぶんごのくにかっせん豊後國合戰は、2月1日葦屋浦合戦で筑前。現在の福岡県遠賀郡芦屋町。四巻元暦2年(1185)5月5日

ぶんぴつにかかわらず文筆に携ら不と雖も言語は功は、文盲の意味ではなく、表現が上手だったと解釈すべき。二巻養和元年一月11日

ぶんぴつにかかわるもの文筆に携る者は、逆説的に考えると当時は、漢文の公文書が読める人は少なかったと思われる。承久記に藤田某が院宣を読める人として登場している。七巻文治3年(1187)2月28日

ふんぽう芬芳は、よい香り。また、よい香りを発するさま。六巻文治2年(1186)9月9日

ぶんめい分明は、どちらかにはっきりとして。三巻壽永3年(1184)2月20日

へいえん炳焉は、はっきりとしている。六巻文治2年(1186)6月15日

へいかい炳誡は、いましめ。六巻文治2年(1186)9月25日

へいかくあり兵革有りは、軍勢蜂起のこと。二巻養和元年2月29日

へいきんに平均には、全て。二巻養和元年3月7日

へいけ平家は、この時点まで兵糧(秋の収穫の納税がやっときた)と兵力が不足し5月の仕返しを出来なかった。一巻治承4年12月11日

へいけ平家は、伊勢平氏。二巻養和元年一月21日

へいけいちぞく平家一族は、伊勢伊賀志摩を支配していた伊勢平氏で、C盛一族等の現地部隊。この騒動を「3日平氏の乱」という。三巻元暦元年(1184)7月5日

へいけごひゃくよそうをさんてにわけ平家五百余艘を三手に分けは、4月11日条に源氏八百四十余艘、平家五百余艘と書かれている。平家物語では千余艘と三千余艘になっているが、いずれにせよ、平家の船数より源氏の船数の方が多いのは明らか。四巻元暦2年(1185)3月24日

へいけじょうがいおもむく平家城外へ赴くは、平家の都落ち。四巻元暦2年(1185)5月9日

へいけのためにどをうしなう平家の爲に度を失うは、平家に追い出されて逃げ退いた。三巻壽永3年(1184)3月25日

へいけはにねんご 平家は2年後京都へ凱旋した時、木曾冠者義仲の京都攻め寸前だった。しかし、連れて戻った軍勢がたった三千の兵なので、戦わずに都落ちをした。二巻養和2年4月11日

へいけもっかんりょう平家没官領は、平家から取り上げた領地。三巻元暦元年(1184)9月9日平家没官領は、元平家一族が領有していた所領を取上げた分。四巻元暦2年(1185)5月8日六巻文治2年(1186)7月7日

へいけをおそはんと平家を襲はんと欲する之處とあるが、結果論で書かれている。玉葉によると行家と義円の間が一里離れていて先陣を争っていると書かれている。二巻養和元年3月10日

へいざ平三は、桓武平氏の三男。平良文の子孫と言う。四巻元暦2年(1185)4月21日

へいさん平産は、安産。二巻壽永元年(1182)8月12日

へいしけにんらきょうとのち参考平氏家人等京都之地は、平家やその一族が使っていた屋敷の地(屋地)。三巻元暦元年(1184)9月9日

へいしちょうおん平氏重恩に報いるは、平家から父重能は武蔵国の指揮権を持つ侍大将になっている。清盛が作った役職で「国大将」、これを源氏になると机催促となる。大庭三郎景親は相模国だけでなく東国全体かも知れない。一巻治承4年8月26日

へいしにくわわりうじがわをわたる平氏に加はり宇治河を渡るは、平家軍として十七歳で宇治川の合戦に参加し、増水で渡れない宇治川を馬筏を組んで渡った話が平家物語第四巻橋合戦にある。寿永2年(1183)2月23日

へいじにことあり平治に事有りは、平治の乱で敗れた義朝が執事の鎌田正Cの舅の長田庄司忠致に風呂場で暗殺された。10巻文治6年(1190)10月25日

へいじにことあるのとき平治有事之刻は、平治の乱で頼朝が捕まったとき。三巻元暦元年(1184)6月1日

へいしもっかんりょう平氏没官領は、平氏が持っていた領地を官が没収した領地。三巻壽永3年(1184)4月6日

べいじゅう陪從は、賀茂・石清水・春日の祭りのときなどに、舞人とともに参向し管弦や歌の演奏を行う地下(じげ)の楽人。四巻元暦2年(1185)7月23日

へいじょう兵仗は、武器を持った警護人をつけてくれる。一巻序文

へいしょくのほど秉燭之程は、明かりを付ける時間、即ち夕暮れ。一巻治承4年10月21日三巻元暦元年(1184)4月20日

へいせんじ平泉寺は、福井県勝山市平泉寺町平泉寺56-63の平泉寺白山神社。10巻文治6年(1190)4月19日

へいだいなごん平大納言信國は、少納言らしい。10巻文治6年(1190)4月19日

へいはく幣帛は、榊(さかき)の枝に掛けて、神前にささげる麻や楮(こうぞ)で織った布。一巻治承4年(1180)8月17日。

へいもつ幣物は、神へ供える物。みてぐら。ぬさ。八巻文治4年(1188)11月1日

へいゆ平愈は、平は普段の通り。愈はいえる、治る。治って普通に戻った。六巻文治2年(1186)6月14日

へいら薛羅は、葛。10巻文治6年(1190)10月25日

へいろくときさだ平六時定は時政の本家で甥(奥富敬之説)時政の弟でずうっと在京していた(野口実説)一巻治承4年8月20日

へきごと僻事は、嘘。関係ない。間違いだ。六巻文治2年(1186)9月25日

べっして別しては、特別に先遣隊として。五巻文治元年(1185)10月24日

べっしてもって別して以ては、特別に用意をして。三巻元暦元年(1184)12月3日

べつじょありて蔑爾有りては、馬鹿にして。六巻文治2年(1186)6月15日

べっとう別當は、Gooの電子辞書には、〔本官をもつ人が他の職務の統轄に当たるときに補任される職名〕
(1)令外の官衙(かんが)(検非違使庁・蔵人所など)の長官。
(2)平安時代以降、院・親王家・摂関家などの政所の長官。また、政所の一部局(文殿・厩司など)の長官もいう。
(3)鎌倉幕府の政所・侍所・公文所などの長官。
(4)東大寺・興福寺・四天王寺などの諸大寺で、三綱の上位にあって寺務を総裁した者。
(5)神宮寺(宇佐・鶴岡・石清水など)で、庶務をつかさどる者。検校に次ぐ。
(6)盲人の官位の一。四階級の第二で、検校の下。
(7)(院の厩の別当から転じて)馬を飼育する人。馬丁。
とありますが、吾妻鏡においては、寺院の場合は、
長官と訳します。
べっとう別當は、國の場合の守(かみ)。は、介(すけ)。案主は、掾(じょう)。知家事は、目(さかん)。11巻建久2年(1191)1月大15日

べつのう別納は、中世、年貢を通常の手続きを経ないで、一定額を直接納付することで、国衙使などの入部を拒否する特権であり、直納は忘れても國衙は文句をいえない。三巻元暦元年(1184)7月16日

べつのうのち別納之地は、直納のことで、中間者を通さず直接本所や領家に納付する。通常荘園には、本所・領家・預所(ない場合もある)・公文・(ここへ後に地頭が入る)・下司・名主・作人・下作人・在家とある。二巻養和元年5月23日

べっぷ別府は、国衙領・荘園内の単独の所領として分化した土地。民部省の符で耕作地を決められた農民が、出作りをした場所を一緒の荘園に入れたいので、太政官から特別の符を出してもらった土地。六巻文治2年(1186)6月25日

べつろくとしょうし別祿と稱しは、おまけとして。9巻文治5年(1189)9月17日

べにした紅下は、ヤシ科の常緑高木である檳榔樹(びんろうじゅ)の果実を煮詰めた煎汁で褐色、黒褐色に布を染める檳榔子黒を行う場合、あらかじめ下染として紅色に染めること。紅の下染の略。紅下黒は、深い味わいが出る。藍下もある。(着物用語辞典HPから抜粋)四巻元暦2年(1185)2月19日

べんえつ抃悦は、手を打って悦ぶこと。非常に喜ぶこと。類似語に抃喜(べんき)。抃舞:手を打って踊り回って喜ぶこと。抃躍(べんやく)。9巻文治5年(1189)11月3日

べんかん弁官は、律令制において、太政官を構成する機構の一。太政官とその管轄下の諸官司・諸国とを結んでその行政指揮運営の実際をつかさどった。左弁官・右弁官に分かれ、それぞれ大中少の弁(おおともい)があった。おおともいのつかさ。五巻文治元年(1185)12月6日

へんしょう返抄は、受け取り。受領書。6巻文治2年(1186)3月26日

へんぱ偏頗は、考え方や立場などが一方にかたよっていること。不公平なこと。九巻文治5年(1189)4月21日

へんばい反閇は、〔中国の夏の禹王が治水のため天下をまわり足が不自由になったという伝説による〕片足を引きずって歩くこと。また、その人。この故事にならって呪文を唱えつつ千鳥足で歩くこと。(2)貴人が外出するとき、陰陽師が行う邪気を払う呪法。禹歩(うほ)とも云う。十一巻建久2年11月24日

へんぴのしじょ邊鄙士女は、片田舎の女も。三巻元暦元年(1184)4月20日

べんぽ便補は、地頭にとって便宜に税が課されていない。無税。七巻文治3年(1187)4月23日

べんぽのほう便補の保とは、律令制の年貢の単位の家の数「封戸(ふこ)」が、律令制の崩壊と供に土地単位になり「保」や「庄」となった。「保」は国衙が領する国領を指し、「庄」は権力者の個人の領地として国衙の役人が干渉できない「不入(ふにゅう)の権」を持つ。この「封戸」から「庄」への過程で庄園になりかけている土地を云う。便宜補填の地として与えられた土地。六巻文治2年(1186)10月1日

へんやく抃躍は、飛び上がって喜ぶ。9巻文治5年(1189)9月17日

ほい布衣は、布製の狩衣の別称。狩衣は武家社会では、束帯に次ぐ礼装であった。かつて民間で用いられた狩装束が、簡便さと軽快さから公卿に取り入れられ日常着となった。現在は神職の正装である。四巻元暦2年(1185)4月24日

ほうは、束帯や衣冠の上着。中国の唐の時代に胡服と呼ばれた官人の服。盤領(あげくび)で、脇の縫われた縫腋袍(ほうえきほう)、脇の開いた闕腋袍(けってきほう)の2種類がある。官位相当の色で染められたものを位袍(いほう)と呼ぶ。日本の装束から。42巻建長4年(1252)1月8日

ぼうは、坊とも書き、個人の部屋、個人の空間。得度した僧は世俗から離れ自立自治する。寺域から外に構えるのを里房。八巻文治4年(1188)3月2日

ほういをほどこせしめたまう芳意を施こ令め給ふは、宜しく勘弁をしてやって欲しい。三巻元暦元年(1184)4月23日

ほうえんしちねん保延七年は、1141でこの年鳥羽法皇の意により崇徳天皇退位。近衛天皇即位。7月10日永治と改元。六巻文治2年(1186)6月15日

ほうおうのごとざん法皇の御登山は、義仲軍が京都へ攻め入るときに平家は後白河法皇を連れて逃げるつもりだったが、法王はいち早く比叡山へ逃げた。この人は平治の乱でも逃げた。三巻壽永3年(1184)2月20日

ほうおうのみことのり法皇の詔は、法皇からの命令。一巻序文

ほうかぶつ奉加物は、寄付をする物品。四巻元暦2年(1185)3月7日

ほうがん判官は、検非違使の唐名。一巻治承4年8月4日

ほうけんをふんしつす寳劔は紛失すを、愚管抄では武家政権の時代になったので、天皇家では剣がいらなくなったので、無くなったと書いている。四巻元暦2年(1185)4月11日

ほうこ布袴は、布製の括り袴。指貫ともいう。束帯の大口袴の代わりで束帯に次ぐ礼装。31巻嘉禎3年8月16日

ほうこうをぬきんずべし奉公を抽んず可しは、ご恩と奉公。三巻壽永3年(1184)3月13日

ぼうこんのさいらいにもちいる亡魂の再來に用いるは、死んだ弟に会えたようだ。四巻元暦2年(1185)3月27日

ほうさい報賽は、お礼参りのため。四巻元暦2年(1185)5月6日

ほうさんをつくさるる芳讃を盡被るは、喜びの言葉を懸命に伝えた。四巻元暦2年(1185)3月27日

ほうし法師→ほっし

ほうじゅじ法性寺關白は、忠通。一巻序文

ほうじゅじでん法住寺殿は、後白河法皇の御座所。五巻文治元年(1185)10月20日
ほうじゅじでんぞうえい
法住寺殿造営は、後白河が立てこもって、木曾冠者義仲に焼き討ちをされたので、立て直す。11巻建久2年(1191)2月21日

ほうしょ奉書は、文書の最後に氏名の後に「奉ず」と入れる、偉い人から命じられて代筆した文書。五巻文治元年(1185)12月23日ほうしょ奉書は、「奉じて書く」で命を受けて書いた命令書。六巻文治2年(1186)2月9日奉書は、花押が無い。11巻建久2年(1191)1月大15日

ほうじょうえ放生會は、供養のため、捕らえられた生き物を放してやる儀式。Goo電子辞書から。本来は、陰暦8月15日だが、現在では鎌倉八幡宮で神幸祭の名で9月15日の神事に行われる。四巻元暦2年(1185)4月20日。六巻文治2年(1186)2月大2日。5月2日。七巻文治3年6月18日。八巻文治4年(1188)7月17日

ほうじょうおやこ北條親子は、ここで一旦頼朝をあきらめ、甲斐源氏武田党を頼ろうとしたのか?一巻治承4年8月24日

ほうじょうどのにきふし北條殿に寄附しは、頼朝の舅の時政の力を借りるため。11巻建久2年(1191)11月23日

ほうじょうどののおんたてまつりとなし北條殿の御奉と爲し、同じく御書を遣はす。は、時政が土佐と関係がある。何故なら、伊豆山権現の領地が土佐にあり、灯篭の油を船を出して納品させているがこの縁かと思われる。又は、この関係のコネじゃなくて北條水軍を持っていたかも知れない?1170頃に大島の鎮西八郎為朝を討伐の為伊豆水軍が20隻で行っており北条は二隻出しているので水軍を持っていたと思われる。しかもこの時点では頼朝の舅と言う立場で伊豆の代表的存在になっている。三巻壽永3年(1184)3月1日

ほうじょうのこしろう北條小四郎は、北條小四郎義時のことだが、ここで一番に出てくるのは怪しく、いかにも北條家の子孫が書き加えたのがバレバレである。三巻元暦元年(1184)8月8日

ほうじょうのへいろくさえもんのじょう北條平六左衛門尉は、北條時政殿の代官の時定。彼は京都に居るのに、なぜ鎌倉へ?11巻建久2年(1191)11月14日

ほうず奉ずは、お上の命令を承って私が書きました。の意。五巻文治元年(1185)10月18日

ほうそ寳祚は、天皇の位。三巻元暦元年(1184)11月23日ほうそ宝祚は、天子の位。皇位。所謂「諡号(しごう)」か「追号」か「追贈」のことだと思う。五巻文治元年(1185)9月4日

ほうだのしょう(はりま)這田庄〔播磨〕は、兵庫県三木市別所町東這田。すぐ隣に在田寺あり。(まぎわらわしい)三巻壽永3年(1184)4月6日

ほうでん宝殿は、藤原忠良、殿は摂関家をあらわす。八巻文治4年(1188)2月2日

ほうび褒美に与える馬は、馬の手綱を左右両側に二人がそれぞれ持ち、受賞者に手綱を渡す。馬の弓手側(左側)が上で女手(右側)が下。(馬の手綱は左右が繋がってはいない)二巻養和元年7月20日

ぼうふにゅうどうしょうこくのえんき亡父入道相國之遠忌は、平C盛の三回忌。三巻壽永3年(1184)2月20日

ほうへい奉幣は、神に幣帛(へいはく)をささげること。一巻治承4年(1180)8月17日。

ほうへいおんし奉幣御使は、お参りの代参。九巻文治5年(1189)6月20日

ほうやく芳約は、縁起の良い約束だが、八幡宮寺別当の任命で円曉が初代別当である。二代目はその弟の尊暁、三代目は定暁、四代目が公暁である。ところが、頼朝が伊達朝宗の女に産ませたご落胤は貞暁と曉がつくので五代目にするつもりが合ったのか分からぬが考えさせられる。二巻壽永元年(1182)9月23日

ほえまる吠丸は、鳴丸とも云われる名剣で、身長ニ尺三寸七分。後に秀吉が手に入れる。五巻文治元年(1185)10月19日

ほくと北斗は、妙見信仰で千葉一族が有名。一巻治承4年8月18日

ほくめん北面は、御所の中が南北に分けられ、南側を公邸の場とし、北側を私邸としている。京都御所の北面とは別。壽永3年(1184)1月27日・三巻壽永3年(1184)4月1日

ほくめん北面は、白河法皇が院直属の軍隊として護衛用の武士を雇ったのが始まりで、御所の北側に置いたところから北面の武士と呼ばれる。又、鑓水の取水口があったので滝口ともいわれる。北面には、五位以上の上北面と六位以下の下北面とがあり、兵衛尉クラスは下北面の武者。五巻文治元年12月6日。六巻文治2年(1186)4月1日。2日。六巻文治2年(1186)7月8日。十巻建久元年12月1日。十七巻建仁元年7月6日。十九巻承元2年4月27日。

ほくろく北陸は、北陸道で日本海沿いに敦賀へ出る。五巻文治元年(1185)10月29日

ほけどう法華堂は、二間四方のお堂で墓。四巻元暦2年(1185)4月29日

ほしいままにないそうせしめ恣に内奏令めは、京都朝廷へ勝手に申請して。四巻元暦2年(1185)5月19日

ぼせつ暮雪は、夕暮れの雪だが、風流の一つとされる。(時代考証?)雪は穢れを覆う。闇は穢れを隠す。六巻文治2年(1186)1月2日

ぼだいいんぜんこう菩提院禪閤は、基房。一巻序文

ほっけせんぽう法華懺法は、法華経を読誦して懺悔し、後生善所を願う法要。天台宗の重要な儀式。

ぼつごをとぶらう歿後を訪らうは、死後を弔う。供養をする。六巻文治2年(1186)7月11日

ほっし法師は、大衆とも言われる僧兵。11巻建久2年(1191)4月5日

ほっしょうじどの法性寺殿は、藤原忠通。その長男が近衛基通。二男が松殿。現在、京都市東山区本町にある臨済宗東福寺の傍に法性寺がある。東福寺の地全体を含め屋敷だった。六巻文治2年(1186)2月27日

ぼつねんきじ没年記事は、大物が死んだときに、生まれや父母の名・官職の履歴等を書く。三巻壽永3年(1184)1月20日ぼつねんきじ没年記事。武田太郎信義は頼朝追討の院宣を内緒で与えられ握りつぶそうとしたが、一條次郎忠頼が積極的だった事が頼朝にばれて、忠頼は御所の頼朝の前で暗殺された。六巻文治2年(1186)3月9日

ほとけさき佛崎は、南国市十市の入り江に石碑有り。二巻壽永元年(1182)9月25日

ほのとき哺時は、哺は食べ物を口に含む時。禅宗で座禅を組む時間に、午前中の早晨・午後の哺時・日没の黄昏・深夜の除夜とある。11巻建久2年(1191)9月26日

ほむ保務は、保と云う町の単位の勤め。保奉行人か?四巻元暦2年(1185)6月5日

ほり堀は、伊豆の武士。一巻治承4年8月20日

ほりのとうじちかいえろうじゅう堀藤次親家郎從は、元暦元年(1184)4月26日条に「藤内光澄」と出ている。三巻元暦元年(1184)6月27日

ぼんうをそうそう梵宇を草創は、後の頼朝法華堂。比企。九巻文治5年(1189)7月18日

ほんかいたるべき本懷爲る可きは、本来在るべきなのに。三巻壽永3年(1184)3月17日

ほんがくいん本覺院は、三井寺の本覚院。三井寺は源氏派、延暦寺は平家派。

ほんかんにかんにんす本官に還任すは、元の官職に返り咲かせる。三巻元暦元年(1184)5月21日

ほんぎゃくのやから叛逆之輩は、11月12日に常陸の住人に御家人であることを命令しているので、推測すると常陸大掾氏一族の解体が考えられる。三巻元暦元年(1184)8月13日

ほんざをゆるさる本座を聽さるは、元の職に返り咲いた。9巻文治5年(1189)11月3日

ほんざんみ本三位は、平家に三位が二人いるので本と新。三巻壽永3年(1184)2月14日

ほんざんみちゅうじょう本三位中將は、本三位中將重衡で、壽永3年(1184)3月一の谷合戦で捕らえられ来て狩野介宗茂が預かっている四巻元暦2年

ほんしきにかんぽす本職に還補すは、通常の政務につかせた。三巻壽永3年(1184)3月25日

ほんじょ本所は、最上級荘園領主の事で、順に、本所>領家>預所>公文=庄司=下司→地頭>名主>作人>下作人>在家と続き、実際の耕作は在家がやり、後は全員が中間搾取者。場合によってはそれぞれに代官がついたりする。四巻元暦2年(1185)4月26日A

ほんじょにふし本所に付しは、現地に聞いて。10巻文治6年(1190)4月19日

ほんじょをあんど本所を安堵は、本領安堵。四巻元暦2年(1185)1月6日

ほんたくあんど本宅安堵とは、広常に従属している家人なので、広常事件で一度止められた屋敷とその門田を改めて許された。寿永2年(1183)12月30日

ほんでんにかんごもごきりょ本殿に還御も御倚慮(喪の仮殿)も、両親のどちらかが死んだら喪に服し、穢れを避けるためによそへ行っていたので、宮城へ戻ってきた。12巻建久3年(1192)6月18日

ぼんど犯土は、土を掘る場合、土の神様と契約の儀式をする。現在の地鎮祭にあたる。三巻元暦元年(1184)11月26日

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