吾妻鏡入門・・解説参考文一覧(五十音順) よみ原文説明。掲載場所

進行状況:12巻建久3年(1192)6月末日まで整理済

あ行 か行 さ行 た行 な行 は行 ま行 や行 ら行 わ行

やあわせすでにをはんぬ箭合已訖は、戦始めの儀式が終った。戦が始まった。10巻文治6年(1190)1月18日

やかず箭員は、当った矢の数。二巻養和2年4月5日

やき八木は、八と木を足すと米。(一表は四斗で60kgなので一石は150kg。一万石は1500t。10kg4,000円として60,000,000円)四巻元暦2年(1185)3月7日。米の字を分解している。

やきよ八寸余は、体高四尺八寸の頼朝がお気に入りの馬の大きさ。10巻文治6年(1190)10月3日

やきょく野曲は、郢曲、酒席で歌う雅楽に対する俗曲。11巻建久2年(1191)11月19日

やくしきょう藥師經は、病気平癒のお経なので、大姫の為であろうか?建久2年(1191)1月8日

やくしょく役職について、武者所に○○武者。国衙水軍は舟所。納税は、税所と書いて「さいしょ」と読むので、読みだけ残って「最初」と苗字の地名で書かれる所もある。九巻文治5年(1189)7月19日

やくぶくまい役夫工米は、正式には造神宮役夫工米といい、伊勢神宮の式年遷宮の一国平均役(一国残らず)かけられた。読みは「やくぶたくまい」とも「やくぶたくみまい」とも読んだ。一般には荘園には国司は課税できないが、一国平均役はそれも課税できるので、國衙の役人にとっては、公権力の行使と臨終収入ともなる。室町時代になると段米とか段銭と呼ばれる。八巻文治4年(1188)6月4日やくぶくまい役夫工は、一国平均役といい荘園公領区別なく課税する。八巻文治4年(1188)12月24日九巻文治5年(1189)4月22日

やすなり保業は、頼盛の孫。三巻元暦元年(1184)6月20日

やすのしちろうゆきむね夜須七郎行宗は、夜須郷で現在の高知県香美郡夜須町、行宗の娘が希義の嫁でる。二巻壽永元年(1182)9月25日

やすのぶ康信は、三善康信。母の姉が頼朝の乳母で、流人時代に月に三度京都の情勢を手紙で伝えていた。治承4年(1180)6月小19日条三巻元暦元年(1184)8月24日

やすのむすめ夜須の娘が、伝説では希義の子供を生み、その子孫が戦国時代まで介良に残り、長宗我部氏に滅ぼされる。二巻壽永元年(1182)9月25日

やすみどころ休所は、この場合陣所。9巻文治5年(1189)9月15日

やちせいばい家地成敗は、家の敷地の処分。六巻文治2年(1186)7月27日

やつまと八的は、二町に八つの的を次々に射る騎射。阿部猛著「鎌倉武士の世界」から。10巻建久1年(1190)8月16

やつるぎ八釼は、熱田神宮末社。一巻治承4年8月18日

やひとこし箭一腰は、24本。

やまこの頃「山」と言えば比叡山延暦寺を差し、「寺」とか「門」とか云えば三井寺を指す。「南都」といえば東大寺興福寺を差す。一巻治承4年5月26日

やまがたのすけためつな山方介爲綱は、安芸介で山県郡司。広島県山県郡。三巻元暦元年(1184)10月12日

やまがのへいとうじひでとお山峨兵藤次秀遠は、山鹿で福岡県遠賀郡芦屋町大字山鹿に山鹿小学校あり。四巻元暦2年(1185)3月24日

やまがみごうたつおき上野國山上郷龍奥は、群馬県桐生市新里町山上に山上城趾あり。寿永2年(1183)2月25日

やまがみのたろうたかみつ山上太郎高光は、上野國山上保で、群馬県桐生市新里町山上、旧新里村山上。四巻元暦2年(1185)1月1日

やまきかねたか山木兼隆は、平信兼の子で静岡県伊豆の国市韮山山木。一巻治承4年8月4日

やまぐちさい山口祭は、遷宮の御造営にあたり最初に執り行われる祭儀です。御造営用材を伐採する御杣山(みそまやま)の山口に坐(ま)す神を祭ります。御杣山は時代により変遷がありますが、古例のまま皇大神宮(こうたいじんぐう)は神路山(かみじやま)、豊受大神宮(とようけだいじんぐう)は高倉山(たかくらやま)の山麓で行われます。http://www.sengu.info/gyoji-detail01.html六巻文治2年(1186)6月9日

やまざす山座主は、比叡山座主全玄。六巻文治2年(1186)閏7月26日

やまだうじりょうごう山田宇治兩郷は、伊勢市山田・伊勢市宇治。二巻養和元年3月6日

やまだのたろうしげずみ山田太郎重澄は、満政流清和源氏で息子が山田重忠。二巻養和2年3月5日

やまとのほうがんだいくにみち判官代邦通は、大和判官代邦道。公文所所司。四巻元暦2年(1185)4月13日

やまなよしのり山名伊豆守義範。新田義重の私生児で高崎市山名町。四巻文治元年(1185)8月29日

やまのあないじゃ山の案内者は、山に精通している人。一巻治承4年8月25日

やまのうちたきぐちさぶろう山内瀧口三郎は、山内首藤瀧口三郎經俊。三巻元暦元年(1184)5月15日

やまのみややまの宮は、比叡山の円恵法親王。四巻元暦2年(1185)1月6日

やまぶし山伏は、役小角(役の行者)から始まったとされ、山岳信仰をもっぱらにして、超常的験力を使い病などを治した。髪を蓄え頭巾に柿色の帷子だった。七巻文治3年(1187)2月10日

やまもと山本は、山の本で山の下をあらわす。五巻文治元年(1185)10月24日

やりど遣戸は、引違の戸。他に蔀戸(しとみど)・妻戸は扉。

ゆいしょ由緒は、権利の理由。五巻文治元年(1185)9月5日

ゆいしょなきのこと由緒無き之事は、先祖代々伝えてきたと云う証拠が無い。六巻文治2年(1186)6月21日

ゆいのうら由井浦は、鎌倉市由比ガ浜2丁目3地先の発掘された大鳥居跡の辺りまで浦が入っていたものと思われる。11巻建久2年(1191)1月28日

ゆいのうらかっせん由井浦戦は、小坪合戦と言われる。一巻治承4年8月24日

ゆいまだいえ維摩大會は、維摩経を唱える会だが、南京三会と云い、興福寺で維摩会、大極殿で御斉会、薬師寺で最勝会を行う。維摩会で講師を務めると僧綱の位を貰える。権門勢家出身の若年僧が、権力財力を背景に先輩達を追い抜いて役職に付き、大衆がやっかんで怒り蜂起し、講師の指名を変えさせたりする。但し、この時は実際には実施している。

ゆうきのともみつ結城七郎朝光は、初めて結城で登場、今までは小山だったが、実はこの時点では結城の所領はもらっていない。寿永2年の小山合戰の際に頼朝への勝利進言の褒美にもらう。二巻養和元年4月7日

ゆうし猶子は、「なお子の如し」で相続権のない養子。これが「親の分・子の分と分限をわきまえる」となり、当時の文書には「親分」「子分」と出てくる。四巻元暦2年(1185)3月三日九巻文治5年(1189)5月17日

ゆうし勇士は、法に頼らず武力による独立を出来る人、と云う意味で自惚れる自称もあるが、世間でも畏怖の目でそう称される。細川重男先生の御教示による。11巻建久2年(1191)8月1日

ゆうしいちりょう勇士一兩は、勇士を一人か二人。九巻文治5年(1189)8月26日

ゆうじゃくぼう有若亡は、いうじゃくぼう:生きていてもほとんど死人に同じ。六巻文治2年(1186)3月7日

ゆうじょ遊女は、あそびめとも云われ、くぐつ(人形使い)や占いも含め春も売る。七巻文治3年(1187)2月25日

ゆきいえ行家は八条院蔵人になったと言うことは、二百四十箇所に及ぶ八条院領の庄司に寝泊まりが出来、食料の世話にもなれ、場合によっては兵糧も調達できる。一巻治承4年4月9日

ゆきちか鬼窪小四郎行親は、武蔵七党の野与党。埼玉県南埼玉郡白岡町小久喜中村933鬼窪八幡神社。四巻元暦2年(1185)3月14日

ゆきむかいせいすべし行き向ひ征す可しは、実際に伊勢平氏の乱が起きている。三巻壽永3年(1184)3月22日

ゆきまさ行政は、藤原で後の二階堂行政。三巻元暦元年(1184)8月24日、後に永福寺がそばに出来て、二階堂と称する。三巻元暦元年(1184)10月6日

ゆきもり行盛は重盛の弟基盛の子。二巻養和元年11月21日

ゆげのしょう(みまさか)弓削庄〔美作〕は、岡山県久米郡久米南町。「弓削駅」「弓削郵便局」「弓削小学校」あり。三巻壽永3年(1184)4月6日

ゆさかみち湯坂道は、箱根湯本の湯場の駐車場から階段道を昇って湯坂城跡を通り浅間山・鷹ノ巣山を経て芦の湯・精進池・元箱根へと通じる。一巻治承4年8月24日

ゆづる弓弦を鼠の爲に喰切被れても、通常は替えの弓弦を持っているはずである。一巻治承4年8月25日

ゆびをはじく指を彈くは、非難・排斥すること。つまはじき。指弾。四巻元暦2年(1185)6月7日

ゆみくらべ弓比べでは一般に上段に書かれたほうが勝ちです。一巻治承4年12月20日

ゆみのさがるをこゆる弓之下るを越ゆるは、細川重男先生の論を聞いて「とっさに後ろを振り向いた八郎の弓が下がったので馬の尻を越えてる間に的が狂った」と塾長は解釈した。11巻建久2年(1191)8月1日

ゆみやをふくろすべし弓箭を嚢可しは、弓矢を袋に入れるは、戦をやめる。九巻文治5年(1189)6月8日

ゆらのしょう(あわじ)由良庄〔淡路〕は、兵庫県洲本市由良町由良。三巻壽永3年(1184)4月6日

ゆるし免しは、許可。四巻元暦2年(1185)5月8日

ゆんで弓手は、右手で弓を引いて射るので左手側。反対を馬手(めて)という。寿永2年(1183)2月23日

よいちよしただ余一義忠は名字を佐那田と云い平塚市佐那田に独立。一巻治承4年8月20日

ようがいのち要害の地は、囲壁都市または城壁都市といい、鎌倉・後北條氏の小田原・秀吉の大阪城と京都の御土居が考えられる。一巻治承4年9月9日

ようぎしんみょう容儀~妙は、武士としての面構えが良い。二巻壽永元年(1182)8月18日

ようそう羊僧は、未のように顎鬚が伸びている余り偉く似ない坊主を差すので、自分を遠慮して言ってる。一巻治承4年8月24日

ようやくかんごのかん漸く還御之間は、帰ろうとしていたら。三巻壽永3年(1184)2月20日

よこちながしげ横地太郎長重は、静岡県菊川市東横地に横地郵便局・同小学校あり。元小笠郡菊川町東横地。寿永2年(1183)2月17日

よこやま横山は、滋賀県東近江市横山町。元蒲生郡(がもうぐん)蒲生町(がもうちょう)横山。三巻元暦元年(1184)12月1日

よしさだ:義定は、安田三郎で遠江守護。二巻養和2年5月16日

よしかた義賢は、頼朝の父義朝の弟。一巻治承4年9月7日

よしかたのいせきのこうづけのくに義賢の遺跡の上野國は、多胡荘で現寄居町。一巻治承4年10月13日

よしずみ義澄は、為通ー為継ー義継ー義明ー義澄と続く、義明長男の杉本太郎義宗は母の出自が悪いので分家したようです。一巻治承4年6月27日

よしずみ義澄は大介義明の次男ながら総領で衣笠が本領。一巻治承4年8月22日

よしずみにあずける義澄に預ける旨は、預かり囚人(めしうど)。一巻治承4年10月19日

よしだつねふさ藤中納言は、吉田經房で後白河法皇には直接手紙を出せないので、関東申し次を通している。四巻元暦2年(1185)3月4日

よしだつねふさ師納言之を再三傾け申すは、吉田經房で彼の日記「吉記」には、あっちに追討の宣旨を出したばかりで、こっちにも追討の宣旨と出すなど、ちょこちょこと変える事は良くないことだと書いている。五巻文治元年(1185)11月10日

よしだへん吉田邊は、左京区吉田、京都大学付属病院入口辺り。四巻元暦2年(1185)4月28日

よしちか義親は、義親為義義朝頼朝(清和源氏系図参照)一巻治承4年9月22日

よしちか義親は義家の嫡男で対馬守の時、勝手に九州を平定してしかも、朝廷等への租税を略奪したので、朝廷から追討の宣旨を発出され平正盛に追討された。これにより父の義家も立場が悪くなり源氏の衰退、平家の隆盛が始まった。

よしつね義常は、藤原秀郷流で、義通の子。波多野庄は神奈川県秦野市一帯。一族に河村(山北町)松田(松田町)大友(小田原市)などが出ている。一巻治承4年7月10日

よしつねあそんおんしょをまさとしにあたえ義經朝臣書於正利に与へは、東国武士は頼朝に直接名簿奉呈(みょうぶほうてい)して安堵状を貰うが、関西の武士には、範頼・義經・土肥實平・梶原景時等が代官として仲立ちをした。後に現地の家人は義經を主だと勘違いする。四巻元暦2年(1185)3月21日

よしとお櫻庭介良遠は、堀田璋左右先生は盛衰記に桜間と書くので、阿波国名西郡桜間だと書いておられる.四巻元暦2年(1185)2月18日

よしとみ武藏國多西郡内吉富は、多摩市から日野市らしいが、東京都あきる野市草花に多西郵便局と多西小学校あり。多西郡は多摩の西の意味かもしれない。二巻養和元年4月20日

よしなか義仲は義賢の二男也は、長男の兄は頼政の宇治合戦で死んでいる。一巻治承4年9月7日

よしなかあそんへいけにわぎ義仲朝臣平家に和議を爲す謀反之條は、木曾冠者義仲が関東に攻め入られた時に平家と和議を結んだと玉葉に書かれている。三巻壽永3年(1184)3月1日

よしなかのいもうと義仲の妹は、尊卑文脈に「菊子」とあり、脇に「真理子」とふってあるので、元の字の意味は「鞠子」である。四巻元暦2年(1185)3月三日

よしなかはさんさい義仲は三歳の嬰兒也は、数え年二歳の間違い。一巻治承4年9月7日

よしのぶ義信は、大内武藏守義信。三巻元暦元年(1184)5月21日、河内源氏で爲義の兄。三巻元暦元年(1184)8月17日

よしのやまー「吉野山〜」や「シヅヤシヅ〜」は、藤原業平の伊勢物語からアレンジしている。六巻文治2年(1186)4月8日

よしはし 良橋は、詳しくは不明だが、候補として三箇所考えられる。下総に吉橋郷八千代市吉橋。武蔵国芦足なら昭和町。横浜市磯子区杉田に良橋あり。二巻壽永元年(1182)6月1日

よしみつ義光義業義定義經で曾孫。吾妻の間違いか、それとも数え年的計算か。一巻治承4年12月10日

よしもと義基は、為義の弟の義經の子で河内源氏の祖となる。河南町大毛塚、治承4年11月に清盛に呼ばれ、京都市伏見区鳥羽が原で野宿中に清盛に滅ぼされた。二巻養和元年2月9日

よしもとのおとうと義基の弟は生け捕られ3年間京都の獄舎におり、義仲に出される。二巻養和元年2月9日

よしもり義盛は、和田左衛門尉義盛で侍所別当だから。四巻元暦2年(1185)5月8日

よしもりのぞみもうす義盛望み申すは、源平盛衰記の佐殿漕会三浦の条にもあり。一巻治承4年11月17日

よしもりほっし能盛法師は、北面の武士。三巻元暦元年(1184)9月20日

よしやす能保は、一条能保。頼朝の姉の連れ合いで、関東申し次。馬の目利きでもある。頼朝が死ぬ4年前に突然死に息子も直ぐに死ぬ。三巻壽永3年(1184)4月11日

よしゅう豫州は、ここでは伊与守義仲。四巻元暦2年(1185)5月1日

よしゅう豫州は、伊予守で義経。六巻文治2年(1186)9月15日

よしゅうのくび与州の頚は、義経の首。九巻文治5年(1189)6月7日

よしゅうのえんじゃ豫州(義經)の縁者は、河越太郎重頼の娘を頼朝の命令で京都の源義經に嫁がせたから。五巻文治元年(1185)10月23日

よせたてまつる寄せ奉るは、寄付をする。四巻元暦2年(1185)6月5日

よそうし預送使は、領送使の間違いで、流人を送り届ける役人。10巻文治6年(1190)9月13日

よだ余田は、追加的に荘園領主の土地として認定された土地。検地後に現れる。10巻文治6年(1190)4月19日

よねもち米用は、長野県須坂市米持。二巻養和元年5月16日

よりともがちぎょうはっかこく頼朝が知行八ケ國は、相模、武蔵、伊豆、駿河、上総、下総、越後、信濃これに豊後を加え九カ国ともする。九巻文治5年(1189)3月13日

よりともの情報頼朝は、京都の情報源としてこの他に中原親善を送り込んでいる。一巻治承4年6月19日

よりともの誕生日頼朝は、久安3年(1147)誕生。江戸時代の書物には、4月8日と書かれている。釈迦と一緒にするか?一巻序文

よりとものはは頼朝の母の名を熱田神宮側では「由良」由良の方とか由良姫とか言っている。一巻序文

よりとものめのと乳母は、頼朝の乳母は、他に比企尼、早川の摩阿局、山内の尼などが知られている。一巻治承4年6月19日

よりまさ頼政は、頼朝から父、義朝→為義→義親→義家→頼義→頼信まで、遡って頼信の兄で酒天童子征伐の頼光の子孫です。伊豆守をしていた関係で、頼朝は伊豆へ配流になったのかも知れない。一巻治承4年4月9日

よりまさやしき放火の項、源平盛衰記に詳しい。屋敷に火をつけては、不退転の志を表すものと思われる。一巻治承4年5月大19日

よりもり頼盛は、清盛の腹違いの弟で、母は頼朝の命乞いをした池禅尼。彼は、平家の都落ちの時同道しなかったので、母の恩も有り、頼朝に大事にされた。一巻治承4年5月16日

よりもりしつけ頼盛室家は、鹿ケ谷事件で鬼怪ケ島(現喜界島)へ流された俊寛の娘。三巻壽永3年(1184)4月6日

よりよし頼義ー義家ー義親ー爲義ー義朝ー頼朝。一巻治承4年10月12日

よるふかく夜深くなってお参りするのは、静かなため神のお告げを聞きやすいから。夜の闇は穢れを隠す。二巻壽永元年(1182)12月7日

よろこびをもうす慶を申すは、任官を神様にお礼参りを云う。三巻壽永3年(1184)4月11日

よわいはちじゅん齡八旬は、八十歳になる。四巻元暦2年(1185)4月28日

よんどころなし據所無しは、意味がない。よりどころが無い。どうにもならない。四巻元暦2年(1185)4月21日

inserted by FC2 system