吾妻鏡入門・・解説参考文一覧(五十音順)よみ原文説明。掲載場所 

進行状況:9巻文治5年(1189)9月末日まで整理済み

あ行 か行 さ行 た行 な行 は行 ま行 や行 ら行 わ行

らいでん礼殿は、伊豆山末社。一巻治承4年8月18日

らきん 蘿衿は、粗末な服装。二巻養和2年5月25日

らくしょく落餝は、飾りを落とす、髪を落とす、出家する。四巻元暦2年(1185)5月1日

らくよう洛陽は京都を指す。三巻壽永3年(1184)2月18日

らくようふだらくじ洛陽補陀洛寺は、京都洛北静原の通称小町寺9巻文治5年(1189)9月17日

らっし臈次は、順序。次第。出家後の年数を指すので。八巻文治4年(1188)12月18日

らちは、垣根。囲い、仕切り。特に馬場の周囲の柵を指す。九巻文治5年(1189)6月9日

らんぎょう濫行は、略奪暴行。四巻元暦2年(1185)4月26日

らんせのこころざしをさしはさむ濫世の志を插むは、謀反の気配がある。実際に武田は頼朝討伐の宣旨を受けたらしい。三巻元暦元年(1184)6月16日

らんぼう濫望は、身分をわきまえず濫りに望む。六巻文治2年(1186)6月15日

りきしゃ力者は、輿を担ぐ人。輿丁。六巻文治2年(1186)9月25日

りっしちゅうかい律師忠快は、小河律師忠快、平教盛の子、丹波小河庄(現、京都府亀岡市千代川町小川)。後に鎌倉へ連れてこられて八幡宮寺の供僧となる。四巻元暦2年(1185)4月11日

りっちゅう立柱は、この時代御家人の屋敷は礎石建築が一般化し始めている。立柱の歴史は、始め掘立柱で約二十年で根元が腐り倒れるので立て替えるのが、伊勢神宮の式年遷宮である。次の礎石建築では奈良の法隆寺がすでにそうであった。そして礎石を柱の太さに合わせ研磨したのが路盤建築であり、鎌倉では建長寺が最初。二巻養和元年5月28日

りっちゅうじょうと立柱上棟は、今でも、建て前祝いをする。二巻養和元年5月28日

りつりょうせいど律令制度で徴収される租は3%。庸は、1年に10日間都で働かせる。雑徭は国衙で30日間働く。二巻養和元年一月21日

りびょう痢病は、疫痢と云う説がある。二巻養和元年2月18日

りむ釐務は、国司の仕事を指すが、内容は年貢の徴収なので、この場合は兵糧米を徴収した。になる。三巻壽永3年(1184)3月25日

りゃくしゅ掠取は、横取りをする。四巻元暦2年(1185)4月26日掠取しは、掠め取る(かすめとる)。四巻元暦2年(1185)5月19日

りゅうがん立願は、願(がん)を立てる。願掛けをする。六巻文治2年(1186)6月14日

りゅうげごえ竜華越は、大原から延暦寺北側片田町竜華へ出る。琵琶湖の浮身堂の側に義隆の墓がある。一巻治承4年9月17日

りゅうてい龍蹄は立派な馬の事で、背高が四尺以下を駒と云い、四尺以上を龍蹄といい、四尺を越えた分の寸を○騎と云う。特に頼朝は四尺八寸のが好きなので、八騎(やき)と云い、これ以上大きい馬を「八騎に余る」と云って頼朝は嫌います。 一巻治承4年12月16日・二巻壽永元年(1182)8月13日三巻元暦元年(1184)8月8日九巻文治5年(1189)6月18日9巻文治5年(1189)9月13日

りゅうもんのしょう(おうみ)龍門庄〔近江〕は、滋賀県大津市大石龍門。三巻壽永3年(1184)4月6日

りゅうもんのまき大和國宇多郡龍門牧は、旧奈良県吉野郡吉野町龍門だが、現在の吉野町佐々羅に竜門幼稚園と竜門郵便局があるあたりらしい。興福寺領。四巻元暦2年(1185)5月24日

りょうけ領家は、開発領主から寄進をうけた上級荘園領主。主に中央の有力貴族や有力寺社で、その権威が他からの侵害を防いでくれる。本所>領家>預所=下司VS地頭>名主>作人>小作人>在家と続き、実際の耕作は在家がする。1巻治承4年(1180)9月14日但しこれは一例にすぎず、種々様々な形態が存在したようだ。

りょうごく兩國は、陸奥と出羽。九巻文治5年(1189)8月26日

りょうじ令旨は、皇太子などが出す命令、天皇が出すと宣旨、上皇は院宣。一巻治承4年4月27日

りょうしき両職は、地方行政長官(文官)と治安維持長官(武官)の両職。六巻文治2年(1186)閏7月2日、8月6日

りょうしょしもふさのくに領所下総國は、海上庄(うなかみのしょう)で後の東庄(東庄、現千葉県香取郡東庄町)はここで取り上げられ、千葉氏に与えられ、常胤の六男千葉六郎大夫胤頼が受領し、東氏となる。但し、現在千葉県海上郡海上町が隣り合っている?二巻養和元年3月27日

りょうじをまもり令旨を守りは、以仁王の令旨を持ってるので従属する。以仁王の死を隠しているのか。玉葉に生存の噂があると数回、頼朝の所にいるとか、木曾冠者義仲に聞いてみれば分かるかも知れないなどと書いている。一巻治承4年9月28日

りょうしまじょうりく猟島上陸の時、頼朝は濡れるのが嫌で、漁師に命じて負ぶわれて上陸したそうな、その褒美として「天下を取ったなら、そなたに安房一国を進ぜよう。」と言うと、漁師は「粟一石は裏の畑でも取れるから、それっぱかり貰ってもしょうがないので、名字をくれ。」と言ったので、左右加馬賀介と名づけたそうです。今でもこの辺りには「左右加」や「馬賀」と名乗る子孫がおられるそうな。一巻治承4年8月29日

りょうしん良辰は、良いお日柄。吉日。九巻文治5年(1189)1月3日

りょうそでをぬらす兩衫を濕すは、袖を濡らす。九巻文治5年(1189)6月13日

りょうち陵遲は、盛んであった物事がしだいに衰えてゆくこと。四巻元暦2年(1185)4月15日Goo電子辞書から八巻文治4年(1188)4月12日

りょうど兩度は、二度。10巻文治6年(1190)1月4日

りょてん旅店は、京都から来た人たちの旅先で、実は泊めている御家人の屋敷。五巻文治元年(1185)10月24日

りんじさい臨時祭は、「時に臨んで」で、あらかじめ決まった祭り。四巻元暦2年(1185)4月20日

るすどころ留守所は、現地代官の職。平安中期以降、国司の遥任化によって新たに国衙(こくが)内に生じた機構。有力な在庁官人が、在京の国司にかわって国務を執行する役所をいう。9巻文治5年(1189)10月24日

るにん流人とは云っても、公卿の場合は役職を受けるが役はせず、役分の知行を受ける。武士の場合は、配流先の領地の上がりを生活費に受けるので宿舎は別である。頼朝は蛭ケ小島領を生活費の喝命所としての領地で生活場所ではない。四巻元暦2年(1185)7月26日

れいし礼紙は、書状を出す時、本文を書いた紙に儀礼的に添える白紙。追而書(おつてがき)を記すこともある。点紙。六巻文治2年(1186)4月30日

れいぜい冷泉は、滋賀県近江八幡市千僧供町センゾクチョウ。。二巻養和元年2月12日

れきらん歴覽は、何箇所かを見て回っている。三巻元暦元年(1184)10月15日

れんげおういんごりょう蓮花王院御領は、京都三十三間堂の領地で、事実上後白河法皇の領地。三巻元暦元年(1184)9月20日六巻文治2年(1186)8月26日

れんこうじ 蓮光寺は、東京都多摩市連光寺。氷川神社の所領、地名だけ残る、礎石は残っている。別当は範頼。二巻養和2年4月20日

れんしょうじ 蓮生寺は、連光寺の間違いで多摩市連光寺町。二巻養和2年4月20日

れんせんあしげ連銭葦毛は、後ろ足の太ももに黒い円形の模様が縦横に並ぶ。六巻文治2年(1186)10月3日葦毛参照。

れんそう歛送は、死者を埋め葬ること。八巻文治4年(1188)10月10日

れんちゅうにおいて簾中に於て其の躰を覽るは、御簾越しに様子を見るのは穢れが移らない。公卿が扇子の骨の隙間から覗くのも同じく穢れが移らない。四巻元暦2年(1185)6月7日

れんにゃく練若は、阿蘭若とも称し、寺の異称。九巻文治5年(1189)6月6日

れんみん憐愍は、哀れんで。六巻文治2年(1186)9月16日

ろうは、廊下。三巻壽永3年(1184)3月28日

ろうえい朗詠するのは、漢文の歌。三巻元暦元年(1184)4月20日

ろうきょ篭居は、閉じ篭り謹慎蟄居。五巻文治元年(1185)11月26日

ろうぜき狼藉は、この場合合戦。三巻壽永3年(1184)2月20日

ろうぜき狼藉は、年貢を横取りする。三巻元暦元年(1184)4月24日

ろうにん浪人は、地頭、名主以外の実務立場の定住性を持っていなかった農民。室町時代には間人(もうと)と呼ばれる。九巻文治5年(1189)2月30日

ろうろう牢籠すると牢人で領地を失った人。浪人ではない。一巻治承4年12月10日ろうろう牢篭は、年貢を滞納して収入にならない。滞納者を牢人とも云う。四巻元暦2年(1185)5月1日

ろくがつしょう6月は、小の月は29日まで、大の月は30日まで、一年は354日くらいしかないので、数年に一度閏月を設けて調整する。三巻元暦元年(1184)6月1日

ろくさい六齋は、仏語で、特に身を慎み持戒清浄であるべき日と定められた六か日のことで、月の8,14,15,23、29、30日をいうとのこと。二巻寿永元年8月15日。参照:鎌倉質問箱に詳しい。

ろくじかりんほう六字河臨法は、「天台密教の本」によると六字明王を本尊とし、仕上げに川に船を浮かべその中で行法を行う。船は川上を向け浮かべ、岸から川上に向かい人が引っ張っていく。(略)調伏には北へ流れる川、息災は南へ流れる川とある。相模川は南流なので息災の祈祷になる。22巻建保4年閏6月24日と7月29日

ろくじょう六條は、六条大路。四巻元暦2年(1185)4月24日

ろくじょうせっしょう六條攝政は、基実。一巻序文

ろくじょうていいぜんしつ六條廷尉禪室は、廷尉は検非違使の唐名、頼朝の祖父爲義が六条左女牛に住んでる検非違使なので。一巻治承4年8月24日

ろくじょうでん六條殿は、京都府京都市下京区天使突抜四丁目。三巻壽永3年(1184)1月20日

ろくじょうでんへはせさんず六條殿へ馳せ參ずは、逃げていく木曽軍を追い抜いて六条殿へ行った。三巻壽永3年(1184)1月20日

ろくじょうぼうじょう六條坊城は、六条大路と坊城小路の交差点。四巻元暦2年(1185)4月26日

ろくじょうむろまちだい六條室町第は、六条大路北側で堀川通りと室町大路の間に、爲義の屋敷跡。左女牛神社がある。京都市下京区佐女牛井町の堀川通り向かいに石碑有。四巻元暦2年(1185)4月26日

ろくじょうむろまちてい六條室町亭は、左京六条二坊十二町の六条堀川西側。六条左女牛井(さめがい)。四巻元暦2年(1185)7月19日

ろくじょうわかみや六条若宮は、若宮八幡宮で左女牛の地から二度移り、慶長年間に移ったのが現在の東山区五条橋東の若宮八幡宮。七巻文治3年(1187)1月15日ろくじょうわかみや六条若宮は、六条通と堀川通りの交差点の東北側に550m四方であった。(六条堀川若宮八幡宮七巻文治3年(1187)6月18日

ろくす勒すは、書き記す。四巻元暦2年(1185)3月7日

ろくそんおう六孫王は、經基王。六男で天皇の孫。天皇家で生活を面倒見切れないので、性を与えて(賜性)天皇家から追い出す。臣籍降下。五巻文治元年(1185)10月6日

ろくはら六波羅には、平家一族の屋敷が三百軒はあったといわれる一巻治承4年5月16日

ろけんす露顯すは、ばれてしまう。五巻文治元年(1185)10月6日

ろめいをりんかにかくる 露命於林果に懸くるは、木の実で生活している。二巻養和2年5月25日

わいだて脇立は、大鎧は前・左側・後の三方から作られており、右側で結ぶようになっている。しっかりと結ぶ構造上四方を一つには作れない。よって、右側の脇立だけ先に体に付け、その上に三方の大鎧を付けるフリーサイズになっている。高綱はこれを逆に付けたので「逆さだ」と批難されたが、「いざっ」と云う時にはこれを脱いで主人に着せる順にするため反対に付けたと云っている。五巻文治元年(1185)10月24日

わうわくほっしわうわく法師は、わうわくを阿波弁のわやの語源としてわうわく(横着)としている。上方落語メモでも、「わや(駄目・無茶)」の語源として「枉惑わうわく(ごまかしだますこと)」とし、語源由来辞典では、漢語「枉惑わうわく」で腕白わんぱくの語源としている。坊主がつくので、おそらく後白河法皇を指していると思われる。四巻元暦2年(1185)1月6日

わかぎみ若公は、万寿で後の頼家。二巻壽永元年(1182)10月17日

わかひこじ若彦路は、富士山の北側ではなく東側。一巻治承4年10月13日

わかみや若宮は、岩清水八幡宮。一巻治承4年8月18日

わかみや〔きんじょうがあに〕若宮〔今上が兄〕は、今上後鳥羽天皇の兄で守貞親王。後に息子が後堀川天皇となり自分は天皇経験無しで後高倉院となる。四巻元暦2年(1185)3月24日

わざわざ態々は、特別に。六巻文治2年(1186)4月4日

わしのはねひゃくしり鷲羽百尻は、鷲の羽根百羽分で、弓矢の矢羽になるので、馬や反物同様に貨幣の替わりをした。9巻文治5年(1189)9月17日

わだ輪田は、神戸市和田岬町。三巻壽永3年(1184)2月20日

わたくしのかんぱつ私の勘發は、個人的に気に入らない事。四巻元暦2年(1185)5月5日

わたしにふくじのおもいをなす私ニ服仕ノ思を成すは、私的に個人的に使われる。四巻元暦2年(1185)4月29日

わたなべ渡部は、渡辺の津で嵯峨源氏の渡辺綱で有名。現在の大阪府大阪市北区中之島3丁目の渡辺橋両岸付近。四巻元暦2年(1185)2月18日

わだのたろうきょうだい和田太郎兄弟は、和田小太郎義盛(神奈川県三浦市初声町和田)と和田次郎義茂(鎌倉市杉本觀音裏山の杉本城)。四巻元暦2年(1185)3月9日

わだのよしもち和田次郎義茂は、三浦一族。和田義盛の弟で、後に越後国奥山荘(新潟県北蒲原郡)をもらい高井と名乗り、その子孫が紫雲寺町・中条町・黒川村の三家に分家する。二巻養和元年4月7日

わだのよしもり和田小太郎義盛は義明長男杉本太郎義宗の長男で三浦市初声町和田。一巻治承4年8月22日

わだよしもりのむこ和田小太郎義盛之聟大屋中三郎安資は、通婚圏が広かった。三巻壽永3年(1184)4月3日

わへいのことちょうけのしようたり和平の事、朝家の至要爲りは、和睦の意志が有りますの意味。実は、頼朝も後白河へ関東は源氏、関西は平家が治安維持をして、国司の派遣は認めると和睦申し入れをしている。三巻壽永3年(1184)2月20日

わらをもってかそう藁を以て火葬は、玉葉の記事にも出てくるので、当時流行ったようだ。八巻文治4年(1188)10月10日

をこ嗚呼は、ばかなさま・愚かなさま・愚鈍なさま。痴・烏滸・尾籠・愚戯。一説に中国後漢の烏滸の国の人の言葉が分からず、滑稽であったと云う説話から。4巻元暦二年(1185)四月小十五日

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