吾妻鏡の時代つまり鎌倉時代の事で疑問質問受け付けます。

なお、質問に対し「これは知ってるぞっ!」と云う方は管理人に遠慮なく、掲示板の返信蘭にご記入ください。出典を書き添えていただけるとベターかと存じます。平成十五年八月十六日更新

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目次

  1. 吾妻鏡って
  2. なぜ鎌倉
  3. 鎌倉になにか.
  4. 頼朝のこども
  5. 源氏嫡流って
  6. 流星雨.
  7. いざ鎌倉
  8. 佐野の馬戸塚の坂で二度転び
  9. 公家と公卿
  10. 大仏をおさらぎ
  11. 馬の平均時速は
  12. 御家人の屋敷
  13. 海野幸氏について
  14. 兜松ってなんでしょう
  15. 板額御前の初恋は
  16. 「武衛御使い」とは何ですか
  17. 海野幸氏って・・・
  18. 兼平と言う人物について
  19. 数字の十個や十手の発音について
  20. ふみっていうのは今の手紙?
  21. 律令制の四等官の制度表
  22. 律令制における位について
  23. 干支(えと)について
  24. 六斉について
  25. 税制の統一化について

1、吾妻鏡って.*吾妻鏡は何時ごろできたんですか。(塾生A)

答え*日記形式にはなっていますが、文永の役の前頃に書かれたのではないかと思われます。同じ鶴ヶ岡の名称を「鶴岡」「鶴丘」「鶴岳」と三種類の言葉で書かれていますので、複数人が考えられます。(塾長)

答え*その中には金沢北条氏の貞顕あたりが絡んでると思います。(塾生C)

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2、なぜ鎌倉鎌倉時代初心者ですので、基本的な事が解っていませんが、質問します。頼朝が鎌倉を選んだ理由はなんですか。(塾生31番夢子)

答え*吾妻鏡では、頼朝が石橋合戰の後上総に居る時に藤九郎盛長が参加を呼びかけに行った時、千葉介常胤が「今のおられる所は、たいした守りやすい土地(要害の地)でもなし、ましてや先祖の謂れも無い。速やかに相模の鎌倉へ行かれるが良い。」と進言しております。(塾長)

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3、鎌倉に何か鎌倉に何か先祖の謂れがあるのでしょうか。(夢子)

答え*長元元年(1028年)の平忠常の乱の時に、先に追討を任命された平直方が鎌倉に本拠を置いて、千葉県の忠常と戦いました。しかし、ゲリラ戦になってしまい、思うように追討できず、朝廷から解任されてしまいます。次に甲斐守だった源頼信が任命されると、平忠常にとって頼信は元主人筋だったらしく素直に捕らえられてしまいます。この戦の際に平直方は、源頼信の息子「源頼良」の武勇に惚れ込み娘聟にします。当時は娘聟にするということは、家督を譲ることになります。そこで、直方の鎌倉館(今の寿福寺の谷)は源氏の物になったのです。(塾長)

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4、頼朝のこども頼朝と政子の二人の間に頼家と実朝は知っていますが、子供は二人だけだったのですか。(少女D)

答え*HPの頼朝の娘達にも書いていますが、頼家の上に大姫が、実朝の上に乙姫があり、計4人の子供が居ました。しかし、4人の子は全て政子より早く死んでしまいます。(塾長)

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5.源氏嫡流って満仲の長子頼光を祖とする摂津源氏のはずなんですが、何故に三男頼信の河内源氏が嫡流と見なされるようになったのですかね?(土々斎)

答え*酒天童子退治で有名な頼光が嫡流だったんですが、平家物語の剣の巻では、多田満仲が二つの剣(罪人の首を試し切りしたら髭も切れたので髭切、膝まで一緒に切り落としたので膝丸)をつくり、それを頼光に相伝したが、頼光の子頼基の時、前九年の役に出かける頼義に宣旨によって渡された。とあります。(塾長)

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6、流星雨鎌倉時代の流星雨ってしし座流星郡ですか?(okayamate)

答え*はっきりしたことは解りませんが、しし座流星群は平成8年にきた天文家二人の名前のついた彗星が零していった塵が太陽系の小惑星化しています。地球がその場所を通るときに地球の引力にひきつけられて大気圏に突入したときに空気との摩擦熱で燃え上がるもので、方角がたまたま獅子座方向に見えるので獅子座流星群と名付けられていますので、多分違うと思います。(塾長)

答え*訂正します。私はヘール・ポップ彗星と勘違いしていました。獅子座流星群はテンペル・タットル彗星が33年周期で公転していますので、33年毎に見えるそうですので、可能性が有りました。深くお詫びし訂正します。(塾長)

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7、いざ鎌倉昔教科書に載っていた「いざ鎌倉」のお話・・・貧乏な武士が旅人を泊めて、貧乏だけどいざという時の為に武具や馬の用意は怠らないとか言って、実は旅人は鎌倉幕府の偉い人で・・・って話は一体誰と誰の話だったんですか?本当にあった話?(okayamate)

答え*謡曲「鉢の木」の逸話があります。北條時頼が病の際に出家し、青砥藤綱等と計って死んだ事にします。そして、二階堂某と二人で諸国視察の旅に出るのです。上州佐野庄で雪の降る夜に落ちぶれた御家人の佐野源左衛門常世の家に泊めてもらうのですが、暖房ようの焚き付けが足らず、大事にしている梅松桜の鉢の木を焚いて接待します。話の中で落ちぶれてはいても武具と馬は大事にして「いざ鎌倉」の時は駆けつける。と言うのに、一晩のお礼にと時頼が「鎌倉へ駆けつける時は、これを持っていけば良い事があるでしょう。」と書付を置いていきます。後日、鎌倉へ戻った時頼が召集を懸けた時に書付を持って来た佐野に、その心栄えを褒めて所領を復活させ、それに梅松桜の文字のつく荘園梅田、桜井、松井田を追加して与えます。(塾長)

答え*これを時頼の廻国伝説と云いまして、北條九代記では大坂で泊めて貰った尼に同様に所領安堵をしています。(塾長)

答え*しかし、私の先生に言わせると、時頼は一週間と鎌倉を空けていないので、時頼ではなく、時頼が派遣した廻国使を結びつけて伝説が出来たのだろう。といっておられます。なお、芭蕉で有名な秋田県象潟の蟹満寺には時頼お手植えのつつじがあります。東北古仏紀行2頁参照(塾長)

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8、佐野の馬戸塚の坂で二度転び佐野の馬が転んだ戸塚は、東海道線戸塚駅あたりを意味しているのでしょうか。それとも鎌倉市内に戸塚という地名があるのでしょうか。それと、鎌倉幕府と戸塚になにか関係がありますか。このあたりの細かいことを知らないので、よろしかったらご教示ください。  (朝川 渉)

答え*佐野源左衛門常世が戸塚で二度こけたと謂われる場所ですが、まず戸塚を鎌倉古道「中の道」が通っていますし、途中の二俣川で畠山重忠が討ち死にしております。義貞は「上の道」を通った伝説がありますが、それだと戸塚は通りませんので、多分佐野は「中の道」を通ったことに設定しているのでしょう。なお、この名は歴史的文書には一切出てこないので、学者は架空の人物だとしています。この「中の道」は別名奥州街道とも呼ばれ後三年の役の八幡太郎義家も奥州合戰の頼朝も通ったと謂われます。又、戸塚は鎌倉郡に入りますし、北鎌倉から大船戸塚、瀬谷までが相模の国で一番大きい山内庄になります。そのほか港南区の上・下永谷、藤沢市の大鋸、なども含まれます。地頭は元は和田義盛ですが和田の乱で北條義時が取り上げ、その後は得宗領になってます。

さて、この知識を背景に考えますと、こけた坂を下りとするとまず現在の旭区大池から戸塚区名瀬を通り秋葉へ下る坂、そして永谷へ昇り、日限地蔵、野村本郷台と来て、小菅ヶ谷へ下る坂が考えられます。上り坂では秋葉から永谷への上り坂が考えられます。全て想像ばかりですが、鉢の木を読んでいないのですいません。なお、古道の頁をご参照ください。

但し川柳の出来たのは江戸時代なので、その時代の江ノ島鎌倉詣では、江戸期の東海道の保土ヶ谷から弘明寺・上大岡・富岡で梅林を見て金沢から朝比奈切通しを通って鎌倉へ入る道。又は、戸塚の宿から上倉田・下倉田・豊田・飯島を通って小菅ヶ谷で中の道と合流する道。戸塚から田谷の洞窟へ出て大船観音へ出て北鎌倉へ出る道。又は保土ヶ谷宿から権太坂を越えて戸塚宿へ来て、戸塚宿から大坂を登って尾根をとおり遊行寺坂を下って藤沢宿から江ノ島へ出る道もあります。恐らくこの辺りを江戸時代の人は想定して川柳を歌っている可能性も考えられます。(塾長)

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9、公家と公卿公家と公卿はどうちがうのでしょう?(Q太郎)

答え*国語的な意味は解りませんが、又質問の意味とは違うかも知れませんが、吾妻鏡上では、「公家」は一般的な「くげ」を差すのではなく、「こうけ」的な意味で朝廷を指しています。例は宗盛の朝廷に対する屋島からの愚痴の手紙の中で「公家の懈怠」といったように「朝廷が何もしてくれない。」という感じに使っています。そして、公卿という時は伝奏をした「くげ」の名は、と言う風に個人を指しています。

一寸似ていて違う話ですが。公と卿について。私の先生は、頼朝が大好きですが、銅像や観光資料などに頼朝公と書いてあると、公は参議以上で後は大臣なので、頼朝は二位では有るが右大将で大臣も参議もしていないので、公(こう)とはよべず卿(きょう)である。といっております。(塾長)

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10、大仏をおさらぎいつの頃から「大仏」を「おさらぎ」と読むようになったのですか。(止々斎)
答え*全国で大仏という地名は10いくつありますが、「だいぶつ」と呼ばないで「おさらぎ」もしくは「おさなき」と呼ぶのは2つだけで、ひとつはこの相模の大仏でもう一つは「奥羽永慶軍記」という本にある話しで「大仏山」は「ヲサナキヤマ」と訓じるとしています。この「大仏山」は現在の山形県東根(ひがしね)市内にあるのですが、角川の『日本地名大辞典』6(山形)によると、「若木山」(おさなぎやま)=「大仏山」ともしています。この東根市内には若宮八幡宮というお宮があるのです。が、なんとそこは康平年間(1058~1065) に鎌倉鶴岡八幡宮の神人であった三浦下野守平為澄により創建されたと伝えられていて、さらに、若宮八幡宮で催される「太太神楽」もこの三浦氏が鶴岡八幡宮の神楽を伝えたのに始まるといわれています。

この2カ所しか大仏をおさらぎもしくはおさらきと呼びません。だから両地には古くから交流があり、鎌倉に大仏が建立された頃(これも不詳とされていますが‥‥)出羽の地でもそれが話題となり、平地にポツンとある稚木山(をさなきやま)を称して「まるで大仏(だいぶつ)の様だ」と言われるようになり、いつのまにか「大仏山(だいぶつやま)」という愛称が生れました。そのことがこんどは鎌倉へやや訛って「出羽には大仏のような形のオサラギと呼ばれる山があるそうだ」と伝わり、いつしか大仏=オサラギとなった。このおさらきは東国の和語の武人埴輪などの偶像を表す言葉でもあります。おさなぎ神という神様もいらっしゃいます。

大仏「おさらぎ」のもともとの表記は稚木もしは若木ということになるけど、ほんらいは大和言葉なので漢字はありません。だけど太平記なんかに登場する人名の大仏についてはこういうはっきりした理由があるわけではありません。太平記に、北条陸奥守貞直(時房の三子、大仏朝直の裔)を大仏(おさらぎ)殿と云ふは、蓋此に住みたればなり。されば此大仏の所在を本来オサラギとも呼びければ、大仏と書してオサラギと訓めるなりと推考せらる。とありますけどこの推察は間違いでこの大仏村はだいぶつ村です。本来おさらぎ村とよばれていたというのは俗説に過ぎません。甲陽軍鑑にも記載がありますがだいぶつ村としています。そして北条陸奥守貞直はだいぶつ殿であっておさらぎ殿ではなくて確かに同じところに大仏と書いておさらぎと読む人がいるらしいという話しが伝わったこととの混同です。(市杵島姫)

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11、馬の平均時速は馬の平均時速は何キロ位なんでしょうか。1日に移動できる距離は(道の状態によるでしょうが)当時は最大何キロ位でしょうか。エリック湯ヶ島
答え*になるか分かりませんが、吾妻鏡で鎌倉から京都までに使者で早いので、五日かかってます。何かのときだったかに、特別の速さで三日もありました。一般には十日位のゆったりペースのようです。重時が時頼に呼ばれて京都守護から連署になるため鎌倉へ帰ってきたときは十四日かけてノンビリきています。馬の速度といっても色々あり、早馬は各宿に替え馬があり、乗り換え乗り換え行きます。例えば人は時速4KM程度ですから、約15分で1KM、半時約1時間で一里を歩きます。20KMですと五里なので健脚なら五時間ですね。馬ならその半分もあれば十分でしょう。(@塾長)
Q,三浦半島にある和田から、鎌倉の御所までは直線距離で20キロ弱です。馬で日帰り可能な距離なんでしょうか。エリック湯ヶ島
答え*たかが20KM歩いても五時間なので、歩きでの往復はきついかも。でも、自転車でもサイクリング車で早く走れば時速30KM位出ますので、馬なら二時(ふたとき4時間)もあれば往復できるでしょう。(@塾長)

12、御家人の屋敷は*有力御家人は鎌倉にも屋敷を持っていたそうですが、和田氏の屋敷はどの辺に有ったと思われますか?朝比奈切り通し付近でしょうか?(エリック湯ヶ島)

答え*御家人の屋敷地について、故石井進先生の意見ですと、有力御家人は三つの屋敷地を与えられたようです。(御家人三点セット)

一、幕府へ出仕する際に正式の着物に着替える着替所(鎌倉中心部)。

二、鎌倉での寝泊りや普段の生活の為の生活屋敷(鎌倉府内)。

三、鎌倉での生活の為の食料を生産し供給する食料生産地(鎌倉の外で西は平塚、北は相模原市、東は川崎市辺りまでだと思われます)。

@塾長は、これを仮に着替所、生活屋敷、食料生産地と名付けています。和田太郎義盛の着替所の地は若宮大路西側北から二件目と想定されています。二番目の生活屋敷の地は分かりません。

推測なのですが、どうもこの生活屋敷地は、屋敷地から本領地へ帰るのには、必ず八幡宮か幕府の前を通るようになっていたみたいで、しかも三本の鎌倉道(上の道、中の道、下の道)のうちある所までは通る道を指定されていたかも知れません。但し、指定地も上総權介廣常は例外だったようで、朝比奈切通しの三郎滝手前を右に入り、左へカーブした左側の空き地が指定されています。(その不遜が死を招いたのかも知れない。)(@塾長)


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13、海野小太郎幸氏について*この人木曾義高について来た=木曾家の家来、と思っていたんですがどうなんでしょう?
義高逃亡扶助みたいなことをしたのは「お話」なのか?史実だとしたらなぜ無事なんだろう?
その後起こったらしい叛乱みたいなの(?)にも参加したふうでもない。吾妻鏡にも結構いつまでもでてくる。
ひょっとして私は人物を混同しているのでしょうか?(Q太郎)
答え*海野小太郎幸氏は、まず諏訪神党の一族です。木曾冠者義仲の嫡子清水冠者義高の共として付いて来ております。
源平盛衰記に詳しいと思いますが、持っていないので。
吾妻では清水の逃亡記事で初出演です。確かに彼は清水を装ってマゲだけを見せて双六をしているふりをしています。
ここで疑問の一つ何故殺されなかったかについて、推定ですが頼朝としては、義仲の滅びた今諏訪神党を味方に付けて置く為と思われます。諏訪神党は諏訪一族の事で弓の名人が多いのです。
諏訪一族は得宗被官になっていきます。ですから一説に北條氏は諏訪神社に帰依し、神社を建てるので、諏訪神社があるところは得宗領であった可能性が高いそうです。海野小太郎幸氏を吾妻鏡で見ると初見は、ご存知の元暦元年(1184)義高脱出の時です。
次の出演は、文治五年(1190)の正月九日の若君(頼家)の弓始めに出てきます。但し頼朝の弓始めは正月三日に終っています。
次は建久四年五月十六日の富士の裾野での鷹狩です。弓名人の矢口餅の食べる儀式に工藤庄司景光、愛甲三郎季隆三、曽我太郎祐信が食べて、梶原左衛門尉景季や工藤左衛門尉祐經と倍膳をしています。後は又調べます。(@塾長)
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14、兜松ってなんでしょう藤沢市村岡東に住んでますが、鎌倉街道上の道のページ面白かったです。
ところで、近所の宮前御霊神社の裏に鎌倉古道の道標があり、
左 兜松 化粧坂、と書いてあるのですが、この先がどう通ってたのでしょうかね?
兜松っていうのもどこにあるのかわかりませんでした。
(ユオリカ)
答え*宮前の御霊神社について調べてみました処。丸井図書出版から出ている清水銀造さん著書の「鎌倉史跡めぐり」の中で神社南の東西の道は、鎌倉から大鋸への古道とされています。そして、神社の裏山に鎌倉権五郎景政が後三年の役での戦勝報告し裏山に兜を埋め、松ノ木を植えた。と説明されてますから、きっとその松を何時の頃か兜松と呼んだと思います。その何代目かの松を案内しているようですので、きっと南の道の角に案内標示として立っていたものが、道路の拡張工事の際に移されたものと推測されます。その山を兜山といい、昔は大きな松があったと伝承されてるそうですが、現在はないそうです。(@塾長)
 
わざわざ調べていただきありがとうございます。兜山、現在はないのですか、残念ですね。道標と書いてしまいましたが、石ではなく白ペンキを塗った板に書いてあるものです。道は北西−南東に通ってるのですが、神社の裏側を道が通るのも怪しいですよね。お手数かけました。(ユオリカ)
 
答え*宮前の御霊神社の裏山の道と兜松ですが、現地へ行って来ました。神社の裏山へ登っていき、反対側へ下ると問題の道が有り、案内板が立っていました。道のつくりは確かに鎌倉道らしい雰囲気です。又、明治15年測量地図にもちゃんと描かれています。
 ただ、芳賀先生の本では神社正面の古い榎の所の東西の道は、梶原の御霊神社の前で深沢小学校で寸断された道が、ここを通り、弥勒寺・村岡小学校・遊行寺へと続く道と指定されておられますが、神社北側の道については何も語っていません。
 もしかすると、泉光寺から村岡城址への道が柏尾川の氾濫原を避けて遠回りしていたのかも知れませんが、奥州道は考えられません。
後日、上の道の延長上の府中の大国魂神社の参道に頼義、義家が前九年の役の帰りに戦勝祈願の礼に千本のけやき並木を献上したとありますので、古代には江戸を通らない奥州道があったのかも知れません。
 兜松はこの神社裏古道を東へ向かい新しい分譲地へ出て、そのまま直進して左を注意しながら行くと左の神戸製鋼所の金網の中に「兜松」の説明板があり、奥に高さ3m横9m位の岩があり、岩の上に松ではありませんが木が繁っています。足元には五輪塔が立ってます。その周りに町内会の寄進の黒松が植えられています。ですから、兜松・化粧坂への案内は間違ってはいません。この岩全体がなんとなく兜に似ているので、景政が兜を埋めた伝説が出来たのかも知れません。(@塾長)
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15、板額御前の初恋は私は、山梨で演劇をしているものですが、この度、板額御前が関連しているお芝居をします。
 そこで、一つ質問があるのですが、板額御前が源氏に捕われる前に、想いを寄せていた人はいたのでしょうか?または、想いを寄せるとしたらこんな人だったろうという御考えをお聞かせください。(原和人)

答え*板額御前のことですが、御前の故郷新潟県北蒲原郡中条町の郷土研究会誌「おくやまのしょう」の21号から五冊ほど、ここにも来ていた更紗さんのお計らいで入手できました。この本を読む限りにおいても、板額御前のロマンスの話は伝わって来ません。想像ですが、結局の処敗者の歴史は伝えられないのが一般的なので、無理なようです。ちなみに「板額」の語源は彼女が住んでいたであろう「飯角(いいずみ)」の地名からきており、それを音読みで「はんがく」と伝えた処、吾妻鏡が「板額」と書いてしまったのだろうと推測しておられました。(@塾長)

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16、「武衛御使い」とは何ですか?寿永三年の二月十八日に武衛御使いを京都に発す。という記事がありますが、この「武衛御使い」とは何でしょうか。また、おなじ項に土井実平等が西国に専使を遣わしていることも書かれてありますが、これは朝廷の命令で行ったものと考えてよろしいのでしょうか?(かん)

答え*寿永三年二月十八日ですが、壽永三年は四月十六日に元暦元年と改元されます。

●原文・壽永三年(一一八四)二月大十八日丁丑 武衛被發御使於京都 是洛陽警固以下事所被仰也 又幡磨美作備前備中備後已上五ケ國景時實平等遣專使可令守護之由云々

読み下し・武衛、御使ひ於京都へ發せ被る。是、洛陽の警固以下の事を仰せ被る所也。又、幡磨、美作、備前、備中、備後の已上五ケ國は景時、實平等が專使を遣はし守護令め可し之由と云々

*参考:1、武衛は兵衛の唐名で、ここでは頼朝を指す。2、洛陽は京都を指す。3、景時は梶原平三景時で義経軍の軍監。實平は土肥次郎實平で平家討伐範頼軍の軍監。4、警固も守護も、駐屯軍の事。5、専使は権限を限定された使いのようです。

▲現代語・頼朝は京都へ使いを発しました。これは京都の警護等を言いつける為です。他に五カ国については、梶原景時や土肥實平が使いを出して守護させるようにとの事でした。(これで、五カ国の分担分けは分からないが二人が守護になった事を現しているようである。)(@塾長)

専使のことは朝廷→土肥梶原へのではなく、朝廷から権限を委託された頼朝からの下知ということなのですね。
それに御家人が直接朝廷から命令を受けるわけありませんでした^^;
そんなことしたら頼朝の面子丸つぶれ。全く見当違いな発言をしてしまいました。(かん)

答え*頼朝の許しを得ずに官職をもらう事を自由任官といって、鎌倉幕府では禁じています。これを犯したのが義経な訳でした、朝廷側は官位を餌に武士同士を戦わせ、その力を削いで自分達に従わせようと策略をするのです。(@塾長)
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17、海野幸氏って・・・海野幸氏の名前って、『幸』なのか、『幸氏』なのか・・どっちですか?ってか読み方も教えてもらえると嬉しいです!どうぞよろしくお願いします
答え*この方は、「海野小太郎幸氏」までが名前で「ゆきうじ」です。なお、小太郎は、当時男の子を上から順に太郎、次郎、三郎と呼び名で呼んでいたようです。太郎の子供の太郎を小太郎、又太郎などと呼びます。そして、ついでですが、11番目を余一と名づけます。十に余るからきていますが、余太郎とは言いません。
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18、兼平と言う人物について知りたいのですが...御願いします。
答え*秦兼平の吾妻出演の一部を見つけました。他にも2回程出演しています。●は原文。▲は読み下し。■は現代語。
●建久元年(1190)五月大廿九日壬午 御隨身左府生秦兼平去比進使者是八條院領紀伊國三上庄者兼平譜代相傳地也而自關東所被定補之地頭豐嶋權守有經於事對捍抑留乃貢早可蒙恩裁之由訴申仍任先例可沙汰濟物之旨給御下文之間彼使者今日歸洛云々
■建久元年(1190)五月大廿九日壬午。 御隨身の左の府生秦兼平は去る比に使者を進めてきた。是、八條院領の紀伊國三上庄者兼平譜代の相傳の地也。而るに關東自り定め補被る所之地頭、豐嶋權守有經は事に於て乃貢を對捍、抑留す。早く恩裁を蒙る可し之由、訴へ申す。仍て先例に任せ、濟物を沙汰可し之旨、御下文を給はる之間、彼の使者、今日歸洛すと云々。

院の護衛兵で近衛府の下役の秦兼平が、先日使いをよこしました。彼は白河法王の娘の八条院が領主をしている紀州の三上庄は先祖代々の領地です。それなのに、関東から任命された地頭の豊島有経は何かと附けて、収めるべき税金を忘れて止めてしまいます。早く頼朝様の裁きをお願いしたいと訴えて来ていました。そこで、以前通りに納税をするように、保証の手紙を戴いたので、その使いが今日、京都へ帰って行きました。

どうも、質問している人物は秦兼平ではなくて、今井兼平の方のようでしたね。追加します。

今井四郎兼平は、木曽の武士で父は義仲を預かり育てた中原兼遠。兄弟に樋口兼光、巴御前がいる。義仲四天王の一人。2007.01.09

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19、数字の十個や十手の発音について

「十」は歴史的仮名遣いでは、「じふ」と書きます。
これに「本」や「個」などの助数詞がつくと、
「ふ」の部分が促音便となり、「じっぽん」「じっこ」
となるわけです。

第二次大戦後、国語審議会の答申を採択して、
昭和21年に内閣告示で、「大体、現代語音にもとづいて、現代語をかなで書きあらわす場合の準則を示したもの」ということで、「十」は「じゅう」と表記されることになりました。
その結果、「う」の部分が促音便化して、「じゅっぽん」や「じゅっこ」が出てくることとあいなったわけです。

私の大学時代の恩師の一人である宮腰賢氏(国語学)によれば、「じゅっぽん」や「じゅっこ」などは、山の手言葉であったとか。つまり、一種の方言ともいえるものです。
ですから、古い言葉で「十」のつくもので「じゅっ」は本来ないはずなのです。
「十干十二支」は「じっかんじゅうにし」、「十返舎一九」は「じっぺんしゃいっく」「十戒」は「じっかい」ですしね。
ちゃんとした辞書なら、そうなっているはずです。

ただ、最近できたような言葉は「じゅっ」となっている可能性あり、です。(越前屋内儀)

似ていて異な話ですが、鎌倉時代の文章で数字の六を表す文字に「陸」と書いて「ろく」と読み「例:北陸道(ほくろくどう)」、で「六」と書いて「りく」と読み「例:六道地蔵(りくどうじぞう)」とあります。
それに、数字の六の変わりに陸と書いてあったりします。(@塾長)

さて、「六」の音が話題になっているので、今少し言葉のお話をいたしましょう。
ご存じのことと思いますが、漢字には、呉音・漢音・唐音・宋音などがあります。(いずれも、日本語として発音する音ですから、中国語と一致するというわけではありません。)
これは、漢字音が我が国に伝わった時代によって、同じ漢字でも音が異なることにより、字音がいくつかあるというものです。
平安時代中期以降、字音の正音は「漢音」ですが、漢音より古く我が国に伝わった字音が「呉音」です。

「六」の呉音は「ろく」、漢音は「りく」です。
「十」の呉音は「じゅう」、漢音は「しゅう」です。
ちなみに「一」の呉音は「いち」、漢音は「いつ」です。

漢字の音読みで現在多いのは漢音なのですが、
おそらく、漢数字の読み方が定着したあとに漢音が入ってきたので、漢数字の単独の読み方は呉音なのではないかと思います。
それに対して熟語は漢音の読みが多いので、「十六」は「しゅうりく」なのでしょう。
漢和辞典を調べると、「六」のつく熟語は半分以上といってもいいくらい、「りく」と読んでいます。(越前屋内儀)

呉音の「呉」って戦国の呉のことでしょうか? 漢より新しい三国呉じゃないですよね。単に地方名なのかも。 また,どうして呉音というのかご存知でしょうか? 江南地方と弥生時代の日本の交流とか,最近よく話題になっていますが,それとは全然関係ないんでしょうか?(二条)

私も音韻学はあまり詳しくないので、学生時代に学んだことと、手持ちの資料をもとにお答えするしかないので、曖昧な点があるのはお許しいただきたいと思います。

>「じっこ」は発音も「じっこ」だったんでしょうか?
促音を小さく書くという表記の仕方は昔はありませんでしたから、「十個」は「じつこ」と表記され、「ジッコ」と発音されたと思われます。

>音便は発音よりも表記で起こるものなんでしょうか?
音便はある条件の下で発音の便宜から起こるものであって、表記から起こるわけではありません。話す言葉が変化して起こるわけで、それにあわせて表記も変化していくのがふつうです。古文の中にもイ音便・ウ音便・撥音便で書かれているものは数多く見られます。

「じふ」も最初は「ジフ」と発音していたのだろうと言われています。それが「ジュウ」という発音に次第に変わっていったのに、表記はそのままだったということではないでしょうか。

>呉音の「呉」って戦国の呉のことでしょうか?
以下は、大修館の『大漢語林』と『日本語教育事典』をもとにしたものです。
呉とは中国の長江下流地方をさします。呉音とは5〜6世紀の呉の地方の漢字音の系統なのだそうです。朝鮮半島を経由して我が国に伝来した漢字音で、古くは対馬音(つしまごえ)、百済音(くだらごえ)ともいい、平安時代には漢音を正音(しょうおん)と呼ぶのに対して和音(やまとごえ)ともいったそうです。漢音との対立として平安初期に呉音と称し始めたとか。漢音は遣隋使や遣唐使、渡来中国人によって伝えられた長安の音に基づく漢字音で、呉音との抗争がある中で、延暦11年(792年)漢音奨励の勅が出され、正音として正統視されるようになったとのことでした。現在呉音の使われる分野としては、仏教を通じて入った言葉や、古くから日本の言語生活にとけ込んでいる言葉などで、漢籍の読み方には漢音を用いることになっているようです。
これは大黒屋さんがおっしゃっていたことと重なりますよね。

下記のHPに呉音のことがでていると、夫が申しておりましたのでごらんになってみてください。(越前屋内儀)

http://bunkaken.hp.infoseek.co.jp/index.files/arakaruto/goon.html

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20.ふみっていうのは・・・・平安とか鎌倉の時代の人って字の読み書きはだいたい何歳くらいから出来る物なんですか?それと文(ふみ)っていうのは今の手紙みたいに文(ぶん)じゃなくて歌で送る物なんですか??(ユズカ)
答え・ユズカさま、こんにちは。
 塾長のお召しにより参上しました。ユズカさまの疑問を解消するお役にたてばよいのですが。

 むしろユズカさまの「どうしてこのことを知りたいのか」という理由を教えてもらってからの方が、的確にお答えしやすいと思います。
 
 たとえば、これは思いつきですが
「小説で、大姫が義高に文を書くシーンを書きたいのだけれども、大姫くらいの歳でも歌とか書いてもおかしくないだろうか」という疑問があったのだとしたら、
「大姫くらいの身分の人だったらおつきの侍女とかに小さい頃から読み書きを習っているはずだし、歌の詠み方も教わっているだろう。もしかしたら、侍女に気の利いたフレーズとかを教えてもらったりしながら頬を真っ赤にして一所懸命歌をひねり出していたかも」なんてこともいえるのです。

 平安とか鎌倉の時代の人、といっても身分がありますので、農家の人とか猟師さんとかだと、もしかしたら一生読み書きできなかったかもしれません。
 武士や公家、僧侶の間でも「いつからいつまでの間に」できればよい、というはっきりした境界はないはずです。
 上限はおそらく元服を迎える十五歳くらいまで(武家の子だと元服前にお寺で勉強教えてもらったりするから)、下は…おうちそれぞれではないでしょうか? 当人ができるかできないか、は別として、いつから教え始めるか、ということですが。 いくら当時の子供が今よりはるかにしっかりしていたとしても、周囲も一歳の赤ちゃんに読み書きを教えようとは思わないでしょう。

もう一つのご質問の「文」について。
 「文(ふみ)」という言葉を手持ちの古語辞典でひきました。文書も書物も手紙も漢詩も、広くは学問も「文」です。
 ユズカさまの質問の「文」はこのうち「手紙」としての文を指すと思いますが、これもまた内容がいろいろあります。
 神奈川県の金沢文庫というところには中世の手紙が沢山残っています。
 それらの手紙の中身を見ますと
「この前源氏物語を貸してもらったけど〜」とか
「娘に子供が産まれたんだけど、体調が思わしくないから祈祷をやってほしい」とか、実務的なものがほとんど。そしてそれは本当に普通の「文章」です。今でも普通に読めるというか「わかる」文章です。
 その「手紙」の中でも恋文のことになると…難しいところです。
 私の知る限り「文章」でしたためた「恋文」って残っていません。ただ、それは「当時なかった」ことの確実な証拠にはなりません。
 歌をやりとりするのが平安時代の恋愛のお作法で「素敵な歌が詠めるんですよ」というのもセールスポイントですから、切々と「あなたのことを思うと夜も眠れません」なんて「文章」で書かれたら興醒めかなあ、という気もします。 

今日、吾妻鏡の師匠のO富T之先生に伺ってみました。
 文章で書いた恋文というのもあるようです。
 北条義時が比企の姫に惚れ込んでラブレター攻撃をしかけるもうまくゆかず、最終的には頼朝の仲立ちで「絶対離縁しませんから!」という誓紙を差し出して結婚にこぎ着けた、という話がありましたそういえば。
 でもやっぱり文章で延々書くなんて吾妻夷ねもう! なんて私は思ってしまいますが。
 梅の初花に結びつけたり、紙を選んだりするセンスも教養とかの見せ所ですからね。(井上渉子)

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21、律令制の四等官の制度・・・・・漢字は違っていても読みは全て同じ「かみ・すけ・じょう・さかん」。

役所名 太政官 神祇官 弾正台 使 近衛府 兵衛府 衛門府 大宰府
かみ 大臣 大夫 大将
すけ 次官 次官 中将少将
じょう 小納言弁 判官 将監
さかん  史 主典 令史 将曹

22、律令制における位について・・・正は「しょう」と読み、従は「じゅ」と読む。三位は「さんみ」と読む。

殿上人 貴族   正一位  従一位  正二位  従二位  正三位  従三位

通貴 準貴 昇殿 正四位上 正四位下 従四位上 従四位下 正五位上 正五位下 従五位上 従五位下

一般       正六位上 正六位下 従六位上 従六位下 正七位上 正七位下 従七位上 従七位下

         正八位上 正八位下 従八位上 従八位下 大初位上 大初位下 少初位上 少初位下

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23、干支について

十干(じっかん)は、干支(えと)の「え」の方らしく、木火土金水(もっかどこんすい)の五行を輪の形に並べると五角形でそれぞれ次のものに相性(そうしょう)があり、木 熱して火を生じ、火 燃えて土を生じ、土 甘(じゅく)して金を生じ、金 漻(なが)れて水を生じ、水 液(ひた)して木を生じ、と繰り返す。又、一つおきの者とは相克(そうこく)の関係にあり、木は土の養分を取り、土は水の流れを妨げ、水は火を消す。火は金を溶かし、金は木を切るのに使う。これを輪の形において一つ置きに線で結ぶと五芒星になる。この五芒星がリ明神社の紋章である。

そしてそれぞれに「兄のえ」と「弟のと」とがある。

 甲(木兄) 乙(木弟) 丙(火兄) 丁(火弟) 戊(土兄) 己(土弟) 庚(金兄) 辛(金弟) 壬(水兄) 癸(水弟)

 きのえ  きのと  ひのえ  ひのと  つちのえ つちのと かのえ  かのと  みずのえ みずのと

十二支(じゅうにし)は、干支(えと)の「と」の方らしく、十二種類の動物に例えている

     子 丑  寅  卯 辰  巳 午  未   申  酉  戌  亥

     ね うし とら う たつ み うま ひつじ さる とり いぬ い

     鼠 牛  虎  兎 龍  蛇 馬  羊   猿  鶏  犬  猪

この干と支を組み合わせて、甲子、乙丑、丙寅、丁卯、戊辰、己巳、庚午、辛未、壬申、癸酉と順にいくと十二支が戌と亥の二つが余って、十干が、前へ戻って甲戌、乙亥となり 丙子、丁丑となっていく。

よって、十二支の奇数番目は常に「え」であり、偶数番目は「と」になる。そうすると10×12ではなく、5×12なので、60となり、六十年で元の十干十二支(干支)に戻るので還暦(暦が還る)と云う。今年は「丙戌

甲  キノエ  キノト  ヒノエ 丁  ヒノト  ツチノエ  ツチノト  カノエ  カノト 壬  ミズノエ 癸  ミズノト
 ネ  ウシ 寅  トラ  ウ  タツ  ミ  ウマ 未  ヒツジ  サル  トリ
 イヌ  イ  ネ  ウシ  トラ  ウ  タツ 巳   ウマ 未  ヒツジ
申  サル 酉  トリ 戌  イヌ 亥   ネ  ウシ 寅  トラ  ウ  タツ  ミ
 ウマ 未  ヒツジ 申  サル 酉  トリ 戌  イヌ 亥   ネ  ウシ  トラ  ウ
 タツ 巳   ウマ 未  ヒツジ 申  サル 酉  トリ  イヌ  イ  ネ  ウシ
寅  トラ 卯   タツ  ミ 午  ウマ  ヒツジ  サル 酉  トリ  イヌ  イ

 

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24、六斉について・・・六斉念仏の「六斉」について、前に聞いた気がするのですが、よく覚えていません。
その「六斉」ってなんだったか、誰か教えてください。(塾長)

答え:六斎日のことですね。辞書に載っていました。仏語で、特に身を慎み持戒清浄であるべき日と定められた六か日のことで、月の8,14,15,23、29、30日をいうとのことです。しかし、六斉念仏は、六斎日に行われたと言われていますが、その日に行われているわけではありませんよね。(越前屋)

答え:六斎日は帝釈天が人々の行動をチェックする日ですが、この興信所の親玉みたいな帝釈天はいやらしい事に手下を使って調査をします。 人々が殺生、盗み、妄語等を為さないか、父母に孝順であるか、師長を尊敬するか、貧しい人に施しをするかどうかが調査対象事項です。毎月8日、23日には子分が人間界にチェックに来ます。
 毎月14日、29日には帝釈天の子が人間界にチェックに来ます。毎月15日、30日には四天王が変身して人間界にチェックに来ます。いやらしさの極です。いわゆる変装とか、おとり調査の領域。段々これらの興信所の職員共は悪鬼と見なされ、人間の生死にまで影響すると考えられました。
 このため功徳を修し善心を発起謹んで生活する日とされたという訳です。
 6日間の「斎戒謹慎」日で六斎日という事です。
 6日間上手く帝釈天を騙し切ると、逆に御HAPPYにしてもらえると言われてます。さぞかし燃えた事でしょう。
 健康診断の前の節制を思い出します。これも検査が終わったら酒池肉林の生活に戻るのが普通です。医者さえ騙せたらの気持ちに自分の中の『いにしえ人』の心が蘇って来ます。
 もとえ、午後の断食までやってたそうですから、やはり健康診断もチェック項目に入ってたのでしょうか。
 そういえば8日は薬師如来の縁日です。まあ偶然でしょうが。
 日本では持統帝の時にやってたのが日本書紀に出てるそうです。(大黒屋)


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26、税制の統一化・・・基本的な質問ですが、鎌倉時代とそれ以前の天皇支配の農民、搾取する人、中間の人、がいると思いますが、それが。どう、変化したのか、今度、おしえて。(第70代会長)

答え:奈良・平安時代
645年の大化の改新により、天皇が日本国を統一したことを宣言し、古代奴隷制を廃して、土地や人は国家のものとし(公地公民)、人々を戸籍に登録して税を納めさせた。
班田收授法を断行して、六才以上の人に口分田を与え(死ねば国家に返却)、男は二反、女はその三分の二を与え、代わりに租・庸・調の税と他に徭役・仕丁・兵役をも負わせました。これにより、天皇は土地とそこから派生する農業生産を掌握し、さらに完璧にする為に法制化して、701年に大宝律令を発令しました。
やがて時代の経過と共に、口分田不足が発生し、これを補うために、天皇は開墾田永世私有の法を出さずにはいられなくなり、公地公民制が崩壊しはじめました。有力な豪族や、寺社は此の時ぞとばかりに一斉に開墾を始め、広大な土地を私有地化をし始めました。
一方、重税と徭役にさいなまれた一般の公民はこれに絶えきれず、口分田を棄てて、私有地の開墾主のもとに雇われていきました。奈良時代後半から平安時代初期にかけて、一般公民と有力な豪族との間に私的な隷属関係が成立しはじめ、国家の支配が根底からくつがえされ始め、大荘園主になった地方開墾主(豪族)は中央の貴族・寺院に所領の一部を寄進、又は婚姻し、その結びつきを強化して、身分保障を確保し、地元で数多の縦の従属関係社会を作りました。
平安時代中期〜後期に至ると全国的にこれ等の荘園が成立して、国領は著しく減少し、国家の権威は衰退の一路をたどりました。この後以降は、清盛を経て頼朝の武家社会へと推移し、まさに我々の得意な鎌倉時代へと移行します。一方、土地のパイは拡大したのに天皇の持つ土地は、古代にゲットしたままのやりくりですので、土地を餌にした権力は著しく下落しました。但し、大君としての権威はまだまだ絶対でした。(戸塚の太郎)


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作成者 加藤塾@塾長
吾妻鏡入門 鎌倉なんでも質問箱
更新日 : 2006/12/23


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