吾妻鏡入門第一巻

治承四年(1180)五月大

治承四年(1180)五月大十日辛酉。下河邊庄司行平進使者於武衛。告申入道三品頼政用意事云々。

読み下し               かのととり  しもこうべのしょうじゆきひらししゃを  ぶえい すす   にゅうどうさんぽん よりまさ ようい こと   つ  もう     うんぬん
治承四年(1180)五月大十日辛酉。下河邊庄司行平@使者於武衛Aに進め、入道三品B頼政用意の事を告げ申すと云々。

参考@下河辺荘は、荒川の下流域で今の埼玉県幸手市、杉戸町、庄和町、春日部市、松伏町、吉川市、三郷市のあたりで、八条院領(この八条院が源氏再興のスポンサー)
参考A武衛は、兵衛の唐名でもう少し階級の幅が広い(この場合は頼朝を差す)。
参考B三品は、三位のことだが、本来は品は皇族の事を指して云い、一品、二品、三品、無品と云う。

現代語治承四年(1180)五月大十日辛酉。下河辺庄司行平は頼朝様に使いを送って、頼政殿の蜂起の準備を知らせて来たんだとさ。

治承四年(1180)五月大十五日丙寅。陰。可被配流茂仁王於土左國之旨。被 宣下。上卿三條大納言實房軄事藏人少弁行隆云々。是被下平家追討令旨事。依令露顯也。仍今日戌剋。檢非違使兼綱。光長等。相率随兵。參彼三條高倉御所。先之。得入道三品之告。逃出御。廷尉等雖追補御所中。遂不令見給。此間。長兵衛尉信連取太刀相戰。光長郎等五六輩。爲之被疵。其後搦取信連。及家司一兩。女房三人歸去云々。

読み下し                         ひのえとら くもり  もちひとおう  とさ のくに はいるされ  べ   のむね  せんげされ
治承四年(1180)五月大十五日丙寅。陰。茂仁王を土左國へ配流被る可し之旨、宣下被る。

しょうけい さんじょうだいなごんさねふさしきじ   くろうどうしょうべんゆきたか うんぬん   これへいけついとう  りょうじ  くだされ   こと  ろけんせし   よつ  なり
上卿@は三條大納言實房軄事は藏人右少弁行隆と云々。是平家追討の令旨を下被るの事、露顯令むに依て也。

よつ  きょういぬのこく   けびいし  かねつな みつながら ずいへい あいひき   か  さんじょうたかくらごしょ  まい
仍て今日戌剋、検非違使の兼綱A、光長等随兵を相率ひ、彼の三條高倉御所に參る。

これ  さき    にゅうどうさんぽんのつ    え    のが  い  たま     ていいら ごしょちゅう  ついぶ    いへど   つい  みたま   せし  ず
之に先んじ入道三品之告げを得て、逃れ出で御う。廷尉B等御所中を追捕すと雖も、遂に見給は令め不。

こ   かん  ちょう ひょうえのじょうのぶつらたち と  みつなが  ろうとう  あいたたか  ごろくやから こ ため きず  らる
此の間、長Cの兵衛尉信連太刀を取り、光長の郎等と相戰ひ、五六輩之の爲疵つけ被るD

そ   ご  みつなが  のぶつらおよ かし いちりょう  にょぼうさんにん から  と  かえ  さ    うんぬん
其の後、光長は信連及び家司一兩と女房三人を搦め取り歸り去ると云々。

参考@上卿は、議事主席で通常は右大臣とか左大臣とか内大臣あたりがやるものであるが、せいぜい大納言で大物の大臣が出ていないのは平家があわてて議事を実施したことが伺われる。
参考A検非違使の兼綱は、源兼綱。頼政の弟の子(甥)で頼政の養子になっているので、頼政が以仁王の謀反に加担していることを実は兼綱は知っている。しかし、この時点で平家は知らない。
参考B廷尉は、検非違使で左衛門尉を兼務している者の名で検非違使の官職名は判官。
参考Cは、長谷部の略
参考D信連と戦って怪我をしたのは、藤原光長の部下だけである。源兼綱は裏で頼政と繋がっているので本気で長兵衛尉信連と戦っていない。

現代語治承四年(1180)五月大十五日丙寅。陰。以仁王を土佐に流罪にしようと朝廷は決めました。議事を仕切った人は藤原実房、執行者は行隆とのことです。
これは平家追討の令旨を勝手に出した事によります。そこで、検非違使の源兼綱と藤原光長は兵隊を連れて三条高倉御所を捜索しました。しかし、その前に源頼政様の知らせを受けて逃げ去った後だったので、御所中を捜しましたがとうとう見つかりませんでした。
皇子の侍の長谷部信連は刀を持ってこの役人と戦ったので、兵隊が五、六人怪我をさせられました。その後、この信連と家の召使一人か二人、女官三人を捕まえて帰っていったんだとさ。

治承四年(1180)五月大十六日丁卯。リ。今朝。廷尉等猶圍宮御所。破天井。放板敷。雖奉求不見給。而宮御息若宮八條院女房三位局盛章女腹。御坐八條院之間。池中納言頼盛爲入道相國使。率精兵參八條御所。奉取若宮歸六波羅。此間洛中騒動。城外狼藉。不可勝計云々。

読み下し                 ひのとう  はれ  けさ ていいら  なお  みや  ごしょ   かこ   てんじょう やぶ   いたじき  はな
治承四年(1180)五月大十六日丁卯。リ。今朝廷尉等猶、宮の御所を圍み、天井を破り、板敷を放ち、

もと たてまつ いへど    みたま  ず   しかし みや おんそく わかみや はちじょういん にょぼう さんみのつぼねもりあきら むすめ はら
求め奉ると雖も、見給は不。而て宮の御息の若宮八條院の女房で三位局盛章の女の腹

はちじょういん  おは   のかん  いけのちゅうなごんよりもりにゅうどうしょうこく つか   なし   せいへい ひき  はちじょうごしょ  まい
八條院に御坐す之間、池中納言頼盛@入道相國の使いと爲て、精兵を率い八條御所に參り、

わかみや  と  たてまつ  ろくはら   かえ   こ   かん  らくちゅう そうどう  じょうがい ろうぜき   あ    かぞ  べからず うんぬん
若宮Aを取り奉り、六波羅Bへ歸る。此の間、洛中の騒動、城外の狼藉、勝げて計う不可と云々。

参考@頼盛は、清盛の腹違いの弟で、母は頼朝の命乞いをした池禅尼。彼は、平家の都落ちの時同道しなかったので、母の恩も有り、頼朝に大事にされた。
参考A
若宮は、後の道尊僧正。
参考B
六波羅には、平家一族の屋敷が三百軒はあったといわれる。

現代語治承四年(1180)五月大十六日丁卯。リ。今朝、昨日の検非違使達は、なお高倉御所を囲んで、天井を破ったり、床を剥がしたりして探しましたがやはり見つかりません。
しかし、以仁王の息子(八条院の女官で高階盛章の娘の子)が八条院にいるところを、頼盛が兄の清盛の命令で兵隊を連れて八条院へ来て捕まえて、六波羅へ帰りました。近頃の京の都の騒動や、平安城の外の地方での乱暴狼藉は数え切れぬほど
(数えても仕様が無い程)なんだとさ。

治承四年(1180)五月大十九日庚午。雨降。高倉宮去十五日密々入御三井寺。衆徒於法輪院搆御所之由。風聞京都。仍源三位入道。近衛河原亭自放火。相率子姪家人等。參向宮御方云々。

読み下し                  かのえうま   あめ ふ   たかくらのみや さぬ  じうごにちみつみつ みいでら   はい  たま
治承四年(1180)五月大十九日庚午雨降る。高倉宮は去る十五日密々に三井寺に入り御う。

しゅうとほうりんいん  おい    ごしょ  かま    のよし  きょうと  ふうぶん
衆徒@法輪院Aに於て御所を搆へる之由、京都に風聞す。

よつ げんざんみにゅうどう  このえかわらてい みずか ひ  はな    してつ けにんら  あいひき  みや みかた  さんこう   うんぬん
仍て源三位入道、近衛河原亭に自ら火を放ちB、子姪C家人等を相率い宮の御方に參向すと云々。

参考@衆徒は、僧の下位の者で高地位の僧(学生(がくしょう)学匠、学侶)の下働きだったが、領家の年貢収奪の為、武力を持つようになって僧衆・悪僧と呼ばれ、江戸時代以後僧兵と呼ばれる。僧兵は後年の言語なので、あえて「武者僧」とした。
参考A
法輪院は、大津市石山寺隣。
参考B
この項、源平盛衰記に詳しい。屋敷に火をつけては、不退転の志を表すものと思われる。
参考Cの字は、応仁の乱までは甥を指していた。

現代語治承四年(1180)五月大十九日庚午雨降る。以仁王は、この十五日にひそかに三井寺に行きました。寺の武者僧達は法輪院で宮を守っていると京都に噂が流れました。そこで、頼政は近衛河原の自分の屋敷に火をつけて、家族使用人皆連れて宮のいる三井寺に向かいましたとさ。

治承四年(1180)五月大廿三日甲戌。雨降。三井寺衆徒等搆城深溝。可追討平氏之由。僉議之云々。

読み下し                きのえいぬ  あめふ    みいでら   しゅうとら   しろ  かま  みぞ ふか      へいし  ついとう  べ   のよし
治承四年(1180)五月大廿三日甲戌。雨降る。三井寺の衆徒等、城を搆へ溝を深くし、平氏を追討す可し之由、

これ  せんぎ    うんぬん
之を詮議すと云々。

現代語治承四年(1180)五月大廿三日甲戌。雨降る。三井寺の武者僧達は、塀を建て、堀を深くして構え、平氏を追討しようと議論しあったんだとさ。

治承四年(1180)五月大廿四日乙亥。入道三品中山堂并山庄等燒亡。

読み下し                 きのとい  にゅうどうさんぽん なかやまどうなら   さんそうらしょうぼう
治承四年(1180)五月大廿四日乙亥。入道三品の中山堂@并びに山庄等燒亡す。

参考@中山堂は、頼政の持仏堂で黒谷光明寺の北門外、今の真如堂の辺りらしい。

現代語治承四年(1180)五月大廿四日乙亥。頼政様の中山堂や別荘も燃えてしまった。

治承四年(1180)五月大廿六日丁丑。快霽。卯尅。宮令赴南都御。三井寺無勢之間。依令恃奈良衆徒御也。三位入道一族并寺衆徒等候御共。仍左衛門督知盛朝臣。權亮少將維盛朝臣已下入道相國子孫。率二万騎官兵追競。於宇治邊合戰。三位入道。同子息仲綱。兼綱。仲宗及足利判官代義房等梟首三品禪門首。非彼面之由。謳歌云々。宮又於光明山鳥居前有御事御年三十云々

読み下し                 ひのとうし  かいせい  うのこく  みや なんと  おもむ  せし  たま

治承四年(1180)五月大二十六日丁丑。快霽。卯尅、宮は南都に赴か令め御う。

みいでら   むぜいのかん   なら   しゅうと  たの  せし  たま   よつ  なり  さんみにゅうどう いちぞくなら   てら  しゅうとら   おんとも  そうら
三井寺は無勢之間、奈良の衆徒を恃ま令め御うに依て也。三位入道の一族并びに寺の衆徒等、御共に候う。

よつ さえもんのかみとももりのあそん ごんのさかんしょうしょうこれもりのあそんいか にゅうどうしょうこく こ まご にまんき  かんぺい
仍て左衛門督知盛朝臣@、權亮少將維盛朝臣已下、入道相國の子と孫が二万騎の官兵を

ひき  お   きそ    うじ   へん  おい  かっせん
率い追い競ひ、宇治の邊に於て合戰す。

さんみにゅうどう おな   しそく なかつな かねつな なかむね およ あしかがのほうがんだいよしふさら きょうしゅ
三位入道同じく子息仲綱、兼綱、仲宗 及び足利判官代義房B等、梟首さる。

さんぽんぜんもん くび  か  つら  あらざ のよし おうか   うんぬん みやまた こうみょうさん とりいまえ おい おんこと あ   おんとし さんじう  うんぬん
 三品禪門の首は彼の面に非る之由謳歌すと云々 宮又光明山の鳥居前に於て御事有りC御年は三十と云々

参考@知盛は、清盛の子。維盛は重盛の子(清盛孫)。
参考Aこの頃「山」と言えば比叡山延暦寺を差し、「寺」とか「門」とか云えば三井寺を指す。「南都」といえば東大寺興福寺を差す。
参考B足利判官代義房は、源性足利氏で矢田流(丹波國矢田庄)父は義清で後に木曽義仲の水軍を率いる
参考C御事有りは、忌言葉。

現代語治承四年(1180)五月大二十六日丁丑。快晴になりました。朝六時頃、宮は奈良に向かいました。三井寺は武者僧が少ないので、奈良の武者僧を当てにするためです。頼政と三井寺の武者僧はお供としていきました。是に対し、平家の知盛と維盛など、清盛の子や孫が二万騎の軍勢をつれて、これを追いかけ宇治の辺りで追いついて合戦になりました。頼政様とその子供〔仲綱、兼綱、仲宗〕と婿の足利義房は首をさらされました。〔頼政の首は偽者だと世間で評判なんだとさ。〕以仁王も光明山の鳥居の前で命を落とされました。〔年は三十だそうです。〕

治承四年(1180)五月大廿七日戊寅。官兵等燒拂宇治御室戸。是三井寺衆徒依搆城郭也。」同日。國々源氏并興福園城兩寺衆徒中應件令旨之輩。悉以可被攻撃之旨。於 仙洞有其沙汰云々。

読み下し                つちのえとら かんぺいら うじ   みむろと  や  はら
治承四年(1180)五月大廿七日戊寅。官兵等宇治の御室戸@を燒き拂う。

これ   みいでら  しゅうと  じょうかく  かま     よつ   なり
是、三井寺の衆徒が城郭を搆えるに依て也。

おな    ひ  くにぐに  げんじなら    こうふく おんじょう りょうじ しゅうとちゅう   くだん  りょうじ  おう   のやから
同じき日、國々の源氏并びに興福、園城A、兩寺の衆徒中で件の令旨に應じる之輩、

ことごと もっ こうげきされ  べ   のむね  せんとう  おい そ    さた あ    うんぬん
悉く以て攻撃被る可し之旨、仙洞に於て其の沙汰有りと云々。

参考@御室戸は、三室戸寺で三井寺に属す。京都府宇治市菟道滋賀谷。
参考A園城寺は、三井寺。三井寺は俗称で、天智天皇・天武天皇・持統天皇の三人が産湯を使った井戸があることから三井寺と云う。

現代語治承四年(1180)五月大廿七日戊寅。平家の軍隊が、宇治の御室戸を焼き払いました。これは、三井寺の武者僧が武装を構えていたからです。同じ日に平家が朝廷において、源氏と興福寺・園城寺の武者僧であの令旨に従ってる連中は、全て退治しようと決めたんだとさ。

六月へ

吾妻鏡入門第一巻

inserted by FC2 system