吾妻鏡入門第一巻

治承四年(1180)十月小

治承四年(1180)十月小一日庚辰。甲斐國源氏等相具精兵。競來之由。風聞于駿河國。仍當國目代橘遠茂催遠江駿河兩國之軍士。儲于興津之邊云々〕於石橋合戰之時令分散之輩。今日多以參向于武衛鷺沼御旅舘。又醍醐禪師全成同有光儀。被下令旨之由。於京都傳聞之。潜出本寺。以修行之躰下向之由。被申之。武衛泣令感其志給云々。

読下し               かのえたつ  かいのくに  げんじら せいへい あいぐ   きそ  きた  のよし  するがのくににふうぶん
治承四年(1180)十月小一日庚辰。甲斐國の源氏等鴛コを相具し競い來る之由、駿河國于風聞す。

よっ  とうごく  もくだい たちばなとおしげ とおとうみ するがりょうごくのぐんし  もよお  おきつ のへんに もう    うんぬん
仍て當國の目代、橘遠茂は遠江、駿河兩國之軍士を催し、興津@之邊于儲くと云々。

いしばしがっせんのとき ぶんさんせし のやから をい      きょう おお  もっ  ぶえい  さぎぬま  ごりょかんに さんこう
石橋合戰之時、分散令む之輩に於ては、今日多く以て武衛の鷺沼Aの御旅舘于參向す。

また だいごぜんじぜんじょう  おな   こうぎ  あ
又、醍醐禪師全成B同じく光儀C有り。

りょうじ  くだされ  のよし を きょうと  これ  つた  き  ひそか ほんじ  い  しゅぎょうのてい  もっ   げこうのよし   これ  もうされ
令旨を下被る之由於京都で之を傳え聞き潜に本寺を出で修行之躰を以て下向之由、之を申被る。

ぶえい ない そ こころざし かん せし  たま   うんぬん
武衛泣て其の志を感じ令め給うと云々。

参考@興津は、静岡県清水市興津町。
参考A鷺沼は、千葉県習志野市鷺沼。
参考B醍醐禅師全成は、阿野全成で頼朝の弟。母は常盤御前、今若、乙若、牛若三兄弟の今若丸。清盛に醍醐寺へ入れられた。後に政子の妹と結婚し、駿河国阿野荘を貰って阿野全成と名乗る。
参考C光儀は、入り来るの意味。

現代語治承四年(1180)十月小一日庚辰。甲斐の国の源氏の人たちが軍隊を連れて急いで来ると駿河に噂が流れたので、駿河の国の代官の橘遠茂は遠江と駿河の軍隊を集めて、興津の辺りに陣を構えたとの事です。一方、石橋合戦の時に別れ別れになった人たちの多くは頼朝様のおられる鷺沼の宿泊先に参りました。又、醍醐禅師全成も来ると言う良い事が重なりました。令旨が出されたことを京都で聞いて、寺を抜け出して修行者に扮装をして下ってきたと話されました。頼朝様はその志に泣いて感激をされたんだとさ。

治承四年(1180)十月小二日辛巳。武衛相乘于常胤廣常等之舟檝。濟大井A隅田兩河。精兵及三万餘騎。赴武藏國。豊嶋權守C元。葛西三郎C重等。最前參上。又足立右馬允遠元。兼日依受命。爲御迎參向云々〕今日。武衛御乳母故八田武者宗綱息女。〔小山下野大掾政光妻。号寒河尼〕相具鍾愛末子。參向隅田宿。則召御前。令談往時給。以彼子息。可令致昵近奉公之由望申。仍召出之。自加首服給。取御烏帽子授之給。号小山七郎宗朝。〔後改朝光〕今年十四歳也云々。

読下し                かのとみ  ぶえい  つねたね ひろつねらのせんしゅう に あいの   ふとひ  すみだりょうが  わた
治承四年(1180)十月小二日辛巳。武衛は常胤、廣常等之舟檝@于相乘り、太井A、隅田兩河を濟る。

せいへいさんまんよき およ  むさしのくに おもむ  てしまのごんのかみきよもと かさいのさぶろうきよしげら さいぜん さんじょう
C兵三万餘騎に及び武藏國に赴く。豊嶋權守C元、葛西三郎C重等は最前に參上す。

また  あだちのうまのじょうとおもと けんじつめい う       よっ   おんむかえ ため さんこう    うんぬん
足立右馬允遠元は兼日命を受くるに依て、御迎の爲に參向すと云々。

きょう  ぶえい  おんめのと  こはったのむしゃむねつな   そくじょ 〔おやまのしもつけだいじょうまさみつ  つま  さがに    ごう 〕
今日、武衛の御乳母で故八田武者宗綱Bの息女〔小山下野大掾政光Cの妻で寒河尼Dと号す〕

 ちょうあい まっし  あいぐ     すみだのしゅく さんこう
鍾愛の末子を相具し、隅田宿に參向す。

すなは ごぜん  め  おうじ  だん  せし  たま     か   しそく   もっ    じっきん  ほうこう  いた せし  べ   のよし  のぞ  もう
則ち御前に召し往時を談ぜ令め給ふ。彼の子息を以て、眤近の奉公を致さ令む可し之由を望み申す。

よっ  これ  め  いだ  みづか しゅふく  くわ  たま   おんえぼし    と   これ  さず  たま

仍て之を召し出し自ら首服を加へ給ひ、御烏帽子を取り之を授け給ふ。

おやまのしちろうむねとも   ごう  〔のち ともみつ  あらた〕  ことし じうよんさいなり  うんぬん

小山七郎宗朝Eと号す〔後に朝光と改む〕今年十四歳也と云々。

参考@は、シュウと読み、かじ・かい。で、船を巡らすの意味。もしかしたら筏と書きたかったのか?船筏?
参考A大井川は太日川で、渡良瀬川が東京湾へ注いでいた現在の江戸川(武藏風土記には利根川の古名とある)。当時は利根川と荒川と入間川とが合流して隅田川へ注いでいた。江戸時代になって利根川も渡良瀬川も銚子方面へ繋いで流れを変えた。
参考B
八田武者宗綱は、常陸国八田荘で、現下館市八田。
参考C
小山下野大掾政光は、下野国小山荘で、現栃木県小山市。
参考D寒河尼は、小山政光の後妻で政光の死後は小山荘を伊勢神宮へ切り替え寒河御厨とする。
参考E
小山七郎宗朝は、改名して朝光に、後に頼朝から結城を貰い、結城七郎朝光となる。想像だが宗朝の宗は、母方の祖父八田武者宗綱からとったものと思われ、後に父の小山下野大掾政光から光をとり、兄の小山朝政と同じように頼朝から貰った朝の字を上へ持って来たのであろう。

現代語治承四年(1180)十月小二日辛巳。頼朝様は、千葉介常胤、上総介広常等が用意した船に乗って太井川(現江戸川)、墨田川を渡りました。立派な軍隊は三万騎にも膨れ上がり武蔵の国へ進みました。豊島権守清元と葛西三郎清重が一番にやって来ました。足立右馬允遠元は前々からの命令を守って迎えにくる為向かってきているとの事です。今日、頼朝様の乳母で故八田武者宗綱の娘〔小山下野大掾政光の妻の寒河尼と云います〕が最愛の末っ子を連れて墨田川の宿泊所へ来ました。直ぐに御前に呼んで昔の思い出話をし合いました。その息子を頼朝様の近侍にして欲しいと望みました。そこで、その子を呼び出し、直接烏帽子親になって加冠し元服をさせました。名を小山七郎宗朝と名付けました〔後に朝光と変えます〕。今年数えの十四歳です。

治承四年(1180)十月小三日壬午。千葉介常胤含嚴命。遣子息郎從等於上総國。追討伊北庄司常仲。〔伊南新介常景男〕伴類悉獲之。千葉小太郎胤正專竭勳功。彼常仲依爲長佐六郎外甥。所被誅也云々。

読下し               みずのえうま ちばのすけつねたね げんめい  ふく     しそくろうじゅうらを かずさのくに  つか
治承四年(1180)十月小三日壬午。千葉介常胤、嚴命を含めて、子息郎從等於上総國へ遣はし、

いほうのしょうじつねなか 〔いなんしんすけつねかげ  おとこ〕 ついとう  ばんるいことごと これ  え    ちばのこたろうたねまさ  もっぱ くんこう  かっ
伊北庄司常仲@〔伊南新介常景Aの男〕を追討し、伴類悉く之を獲る。千葉小太郎胤正B専ら勳功を竭す。

か  つねなか  ながさのろくろう  がいせい な    よっ  ちうされ ところなり  うんぬん
彼の常仲は長佐六郎Cの外甥を爲すに依て誅被る所也と云々。

参考@伊北庄司常仲は、勝浦市夷隅町あたりらしい。夷隅庄北。
参考A
伊南新介常景は、勝浦市。夷隅庄南。
参考B
千葉小太郎胤正は、常胤の総領。
参考C
長佐六郎は、常伴、九月三日に頼朝を襲おうとして三浦義澄に討たれている。

現代語治承四年(1180)十月小三日壬午。千葉介常胤は、厳しく命令して、子供等と部下達を上総へ行かせ、伊北庄司常仲〔伊南新介常景の息子〕を攻撃させ、一族郎等悉くやっつけました。千葉太郎胤政が手柄を立てました。その常仲は長佐六郎の甥なので殺すことにしましたとさ。

治承四年(1180)十月小四日癸未。畠山次郎重忠。參會長井渡。河越太郎重頼。江戸太郎重長又參上。此輩討三浦介義明者也。而義澄以下子息門葉多以候御共勵武功。重長等者。雖奉射源家。不被抽賞有勢之輩者。縡難成歟。存忠直者更不可貽憤之旨。兼以被仰含于三浦一黨。彼等申無異心之趣。仍各相互合眼列座者也。

読下し             みずのとひつじ はたけやまのじろうしげ ただながい  わた   さんかい   かわごえのたろうしげより  えどのたろうしげなが またさんじょう
治承四年(1180)十月小四日癸未。畠山次郎重忠、長井の渡し@に參會す。川越太郎重頼A、江戸太郎重長、又參上す。

かく やから みうらのすけよしあき う   ものなり  しか   よしずみ いげ  しそくもんよう  おお もっ  おんとも  そうら   ぶこう  はげ
此の輩は三浦介義明を討つ者也。而るに義澄以下子息門葉、多く以て御共に候ひ、武功を勵む。

しげながらは げんけ  いたてまつ  いへど   うぜいのやから ちゅうしょう られずんば こと   な  がた  か
重長等者源家を射奉ると雖も、有勢之輩を抽賞せ被不者、縡を成し難き歟。

ちゅうちょく ぞん   ば  さら  いかり のこ べからずのむね  かね もっ  みうらいっとうに おお  ふく  らる
忠直を存ずれ者、更に憤を貽す不可之旨、兼て以て三浦一黨于仰せ含め被る。

かれら いしん な のおもむき もう   よっおのおの そうご  ごうがん れつざ    ものなり
彼等異心無き之趣を申す。仍て各相互に合眼し列座する者也。

参考@長井の渡しは、現在の東京都台東区橋場1丁目の白髭橋あたりらしい。江戸時代の渡しは橋の下流だったが、頼朝の渡ったのは上流の石濱神社のあたりらしい。しかし、2日の記事で「墨田宿に寒川尼が」とあるので、2泊したことになってしまうのは、3日の記事の千葉平定を待っていたのか?5日には府中にいて、6日に鎌倉入りになる。
参考A川越太郎重頼は、秩父一族の統領を継いでいるが、実力は江戸太郎重長らしい。

現代語治承四年(1180)十月小四日癸未。畠山次郎重忠が長井の渡しに参りました。川越太郎重頼、江戸太郎重長も一緒に参りました。この人たちは三浦介義明を殺した人たちです。そして義澄以下の子供等も一族も沢山の人達がお供について武勇を上げています。重長達は源氏に敵対し、その部下の三浦を射たけれども、大勢力の秩父一族を味方にしないと目的を遂げ難いでしょう。忠義を尽くすには、その恨み辛みを持っていてはいけないと、前もって三浦一族に言い聞かせていました。三浦の人々は異論はないと云ってますので、お互いに目を合わせただけで同列に並びました。

治承四年(1180)十月小五日甲申。武藏國諸雜事等。仰在廳官人并諸郡司等。可令致沙汰之旨。所被仰付江戸太郎重長也。

読下し                きのえさる  むさしのくに  しょぞうじ ら   ざいちょうかんじん なら  しょぐんじら    おお
治承四年(1180)十月小五日甲申。武藏國の諸雜事@等、在廳官人A并びに諸郡司等に仰せて、

 さた いた  せし べ   のむね  えどのたろうしげなが  おお  つ   らる  ところなり
沙汰致さ令む可し之旨、江戸太郎重長に仰せ付け被るB所也

参考@雑事は、万雑公事で臨時の労働奉仕だが、これが馬鹿にならない。
参考A在廳官人は国衙の役人。諸郡司は郡衙の役人。武蔵府中での行為と思われる。
参考B
重長に仰せ付け被るは、実質上の国司代行権限を持ったようだ。

現代語治承四年(1180)十月小五日甲申。武蔵の国での労働奉仕の万雑公事については、国衙の役人や郡衙支配人に命令して処理させるように、江戸太郎重長に命じられました。

治承四年(1180)十月小六日乙酉。着御于相摸國。畠山次郎重忠爲先陣。千葉介常胤候御後。凡扈從軍士不知幾千万。楚忽之間。未及營作沙汰。以民屋被定御宿舘云々。

読下し               きのととり  さがみのくにに つ  たま    はたけやまのじろうしげただせんじん な  ちばのすけつねただおんうしろ そうら
治承四年(1180)十月小六日乙酉。相摸國于着き御う。畠山次郎重忠先陣を爲し、千葉介常胤御後に候う。

およ  こしょう  ぐんし いくせんまん し   ず    そこつのかんいま  えいさく  さた   およ       みんや もっ  ごしゅくかん  さだ  らる    うんぬん
凡そ扈從の軍士幾千万を知ら不@。楚忽之間未だ營作の沙汰に及ばず。民屋を以て御宿舘に定め被ると云々。

参考@幾千万をしらずは、当時の日本の人口が1200万を越えていないと思われる。

現代語治承四年(1180)十月小六日乙酉。相模の国へ到着しました。畠山次郎重忠が先頭に立ち、千葉介常胤がしんがりをしました。お供にしたがっている軍勢は数え切れぬ程でした。行動が余りにも早かったので、居館を作る暇も有りませんでしたので、民家を借りて宿泊所にしました。

治承四年(1180)十月小七日丙戌。先奉遥拝鶴岡 八幡宮給。次監臨故左典厩〔義朝〕之龜谷御舊跡給。即點當所。可被建御亭之由。雖有其沙汰。地形非廣。又岡崎平四郎義實爲奉訪彼没後。建一梵宇。仍被停其儀云々。

読下し              ひのえいぬ  ま  つるがおかはちまんぐう  ようはい たてまつ たま
治承四年(1180)十月小七日丙戌。先ず鶴岡八幡宮@を遙拜し奉り給ふ。

つい こさてんんきゅうの かめがやつ ごきゅうせき  かんりん たま
次で故左典厩之龜谷の御舊跡Aを監臨し給ふ。

すなは とうしょ てん  おんてい た   らる  べ   のよし   そ   さた あ    いへど   ちけい ひろ    あら
即ち當所を點じ御亭を建て被る可し之由、其の沙汰有ると雖も、地形廣きに非ず。

また おかざきのへいしろうよしざね か  ぼつご とぶら たてまつ  ため  いちぼんう   た     よっ  そ   ぎ   と  らる     うんぬん
又、岡崎平四郎義實が彼の没後を訪い奉らん爲、一梵宇を建つ。仍て其の儀を停め被るBと云々。

参考@鶴岡八幡宮は、鎌倉市材木座1丁目の元八幡。
参考A
亀谷の旧跡は、鎌倉市扇ガ谷1丁目の寿福寺の地。
参考B
其の儀を停め被るは、父の供養寺を使うわけには行かない。

現代語治承四年(1180)十月小七日丙戌。まず鶴岡八幡宮を遠くから拝んで、次に亡き父左馬頭源義朝様の亀谷の邸宅跡を見に行きました。直ぐにこの場所に邸宅を構えようと一旦は決められましたが、地形が広くなく、それに岡崎四郎義実が義朝様の供養の為に、お堂を建てていましたので、やめることにしました。

治承四年(1180)十月小八日丁亥。足立右馬允遠元。日者有勞之上。應最前召。參上之間。領掌郡郷事不可有違失之旨。被仰云々。

読下し                 ひのとい  あだちのうまのじょうとおもと ひごろ いたわ あ   のうえ
治承四年(1180)十月小八日丁亥。足立右馬允遠元、日者勞り有る之上、

さいぜん  め     おう  さんじょう   のかん りょうしょう ぐんごう  こといしつ あ  べからずのむねおお らる   うんぬん
最前に召しに應じ參上する之間、領掌の郡郷の事違失有る不可之旨仰せ被る@と云々

参考@郡郷の事違失有る不可之旨仰せ被るとは、本領安堵(領地支配権の今で言う登記)の安堵状(今で言う権利書)を発出されたものであろう。足立の郡郷は、現足立区・川口・浦和。

現代語治承四年(1180)十月小八日丁亥。足立右馬允遠元は普段からよくつかえており、それにいち早く命令に従いやって来たので、元からの領地である郡郷の支配権を今までどおり認めるとおおせになられましたとさ。

治承四年(1180)十月小九日戊子。爲大庭平太景義奉行。被始御亭作事。但依難致合期沙汰。暫點知家事〔兼道〕山内宅。被移建之。此屋。正暦年中建立之後。未遇回祿之災。C明朝臣押鎭宅之符之故也。

読下し               つちのえね  おおばのへいたかげよし  ぶぎょう なし おんてい  さくじ   はじ  らる
治承四年(1180)十月小九日戊子。大庭平太景義@、奉行と爲て御亭の作事を始め被る。

ただ    ごうき    さた   いた  がた   よっ    しばら   ちけじ  〔かねみち〕  やまのうちたく てん    うつされ これ  こんりゅう
但し、合期の沙汰を致し難きに依て、暫く知家事A〔兼道〕の山内宅を點じ、移被て之を建立す。

こ   や しょうりゃくねんちゅうこんりゅうののち いま かいろくのわざわい  あわ  せいめいあそん   ちんたくのふ   お   のゆえなり
此の屋は正暦年中建立之後、未だ回祿之災Bに遇ず。リ明朝臣Cの鎭宅之符Dを押す之故也。

参考@大庭平太景義は、相模国大庭御厨(鎌倉権五郎景政が開発領主)、藤沢市大庭で、保元の乱の時膝を為朝に射られて身障者になっている。
参考A知家事は、公文所の役人。別当・令・案主の下の四等官。兼道さんがこの時代の人なら、恐らく知家事職を先祖にもち、家のあった位置から山内家の家来かも知れない。但し、過去の人で家だけが伝承されていたのか分からない。
参考B回祿之災は、火事のことだが、忌言葉の火事を使わない。
参考C
リ明朝臣は、陰陽師で有名な安倍清明。この谷戸に知家事兼道の家があったと伝説する安陪晴明の石碑が北鎌倉浄智寺そばの踏み切り際の〔ケンチン汁〕の店〔鎌倉五山〕の隣に立っている。前は店の裏の線路脇にあった気がする。
参考D
鎭宅之符は、新築・転居の際、新居の安全を祈るための密教の修法。除災のためにも行う。家堅めの法。そのお札。

現代語治承四年(1180)十月小九日戊子。大庭平太景義を実施担当の奉行として頼朝様の家を造る行事の作事を始めた。但し直ぐの間に合わせられないので当分の間、知家事〔兼道〕の山内の屋敷を指定して、是を移転建築させた。この建物は正暦(990-995)の頃に立てられて未だに火災にあっていないのは、安倍清明の家を守るお札を貼ってあるからである。

治承四年(1180)十月小十一日庚寅。卯尅。御臺所入御鎌倉。景義奉迎之。去夜自伊豆國阿岐戸郷。雖令到着給。依日次不宜。止宿稻瀬河邊民居給云々〕又走湯山住侶專光房良暹依兼日御契約參着。是武衛年來御師檀也。

読下し                                 かのととら  うのこく  みだいどころかまくら  にゅうぎょ かげよしこれ  むか たてまつ
治承四年(1180)十月小十一日庚寅。卯尅、御臺所鎌倉に入御す。景義之を迎へ奉る。

さぬ  よ   いずのくに  あきとのごう  よ  とうちゃくせし  たま    いへど  ひなみ  よろ     ず   よっ    いなせがわへん  みんきょ ししゅく たま    うんぬん
去る夜、伊豆國阿岐戸郷A自り到着令め給ふと雖も、日次@≠オから不に依て、稻瀬河邊Bの民居に止宿し給ふと云々。

また そうとうさんじゅうりょせんこうぼうりょうせん けんじつ ごけいやく よっ  さんちゃく   これ  ぶえい ねんらい ごしだん なり
又、走湯山住侶專光坊良暹、兼日の御契約に依て參着す。是、武衛年來の御師檀也。

参考@日次は、その日の吉凶。日柄。
参考A秋戸郷は、静岡県熱海市伊豆山の水葉亭の地を秋戸郷として、国道135号線に丁寧な説明看板を立てている。9月2日条参考。
参考B
稻瀬河は、長谷を南北に流れる。この時代は稲瀬川を鎌倉の内と外の境としているようである。後にこの堤で〔白波五人男〕が揃い踏みをするのは、〔いなせ〕の文字に由来するらしい。

現代語治承四年(1180)十月小十一日庚寅。午前六時頃の卯の刻に御台所(政子)が鎌倉入りをしました。大庭景義が迎えに上がりました。昨夜、伊豆の秋戸郷から到着しましたけれども、引越しをしては縁起が悪い日なので、稲瀬川の民家に宿泊しましたんだとさ。又、伊豆山走湯権現の專光坊良暹が、前々の約束があるので到着しました。彼は頼朝様の何時もの仏教の先生です。

治承四年(1180)十月小十二日辛卯。快リ。寅尅。爲崇祖宗。點小林郷之北山。搆宮廟。被奉遷鶴岡宮於此所。以專光房暫爲別當軄。令景義執行宮寺事。武衛此間潔齋給。當宮御在所。本新兩所用捨。賢慮猶危給之間。任神鑒。於寳前自令取探鬮給。治定當砌訖。然而未及花搆之餝。先作茅茨之營。本社者。後冷泉院御宇。伊予守源朝臣頼義奉 勅定。征伐安部貞任之時。有丹祈之旨。康平六年秋八月。潜勸請石C水。建瑞籬於當國由比郷。〔今號之下若宮〕永保元年二月。陸奥守同朝臣義家加修復。今又奉遷小林郷。致蘋繁礼奠云々。

読下し                   かのとう  かいせい とらのこく そしゅう あが  ため  こばやしごうの きたやま  てん
治承四年(1180)十月小十二日辛卯。快リ。寅尅、祖宗を祟めん爲、小林郷之北山を點じ、

きゅうびょう かま つるがおかを こ  ところ うつ たてまつらる  せんこうぼう  もっ  しばら べっとうしき  な     かげよしぐうじ  こと  しぎょうせし
宮廟を搆へ鶴岡宮於此の所に遷し奉被る。專光坊を以て暫く別當軄と爲す。景義宮寺の事を執行令む。

ぶえい   こ  かんけっさい  たま    とうぐう  ございしょ  ほんしんりょうしょ ようしゃ   けんりょなおあやぶ たま のかん  しんかん まか  ほうぜん  をい
武衛、此の間潔齋し給ふ。當宮の御在所、本新兩所の用捨@、賢慮猶危み給ふ之間、~鑒に任せ寳前に於て

みずか くじ  と   さぐ せし  たま   とうみぎり ちじょう おはんぬ しかしながら いま かこうの かざ   およ      ま   ぼうしの えい  つく
自ら鬮を取り探ら令め給ひ、當砌に治定し訖。然而、未だ花搆之餝りに及ばず、先ず茅茨之營を作る。

ほんじゃは   ごれいぜいいん おんう  いよのかみみなもとのあそんよりよし ちょくじょう たてまつ あべのさだとう  せいばつの とき   たんきの むねあ
本社者、後冷泉院の御宇、伊与守源朝臣頼義A、 勅定を奉り、 安倍貞任を征伐之時B、丹祈之旨有りて、

こうへいろくねんあきはちがつ ひそか  いわしみず  かんじょう  みずがきを とうごくゆいのごう 〔いまこれ  しものわかみや  ごう 〕  たて
康平六年秋八月、 潜にC石清水を勸請し、瑞籬於當國由比郷〔今之を下若宮Dと號す〕に建る。

えいほうがんねんにがつむつのかみ おな  あそんよしいえしゅうふく くわ    いままた  こばやしごう うつ たてまつ  ひんぱん  れいそんいた  うんぬん
永保元年二月陸奥守、同じき朝臣義家修復を加う。今又、小林郷に遷し奉り、蘋蘩Eを礼奠致すと云々。

参考@用捨は、用いることと捨てること。つまりは、引越し。
参考A
源朝臣頼義は、頼義─義家─義親─爲義─義朝─頼朝
参考B
安倍貞任を征伐之時は、前九年の役(1051-62)。
参考C
潜にとは朝廷の許可を得ないで、と云う意味だと思います。
参考D
下若宮は、現在の元八幡。鎌倉市材木座一丁目9。
参考E
蘋蘩は、神に供える。ウキクサとシロヨモギ。

現代語治承四年(1180)十月小十二日辛卯。快晴。午前四時頃の寅の刻に祖先からの八幡宮を祀るため小林郷の北山を決めて社殿を造って鶴岡宮をここへ遷されました。專光坊良暹を暫く八幡宮の長官職としておきます。大庭景義が八幡宮寺の事務担当をします。頼朝様は、今度の実施に際しお清めをされて、八幡宮の居場所、新旧両方の場所の選定を、なお心配されて、神のお告げをお聞きするために宮の前で、ご自分でおみくじを引いて、ここの場所に決定し終わりました。しかし、綺麗な飾りはまだせずにとりあえず、茅葺の社殿を造りました。

この八幡宮の元社は、後冷泉上皇の時代に伊与守源朝臣頼義が天皇の命令を受けて安倍貞任を討った時に、願い事があって、康平六年(1063)秋八月に密かに石清水八幡宮から勧請して瑞垣を相模の国由比の郷〔今はこれを下の若宮といいます〕に建てました。永保元年二月陸奥守同朝臣義家は修理をしました。今またその子孫が小林郷に神に供える頻繁(浮き草と白蓬)を祀りましたとさ。

治承四年(1180)十月小十三日壬辰。木曾冠者義仲尋亡父義賢主之芳躅。出信濃國。入上野國。仍住人等漸和順之間。爲俊綱〔足利太郎也〕雖煩民間。不可成恐怖思之由。加下知云々〕
又甲斐國源氏并北條殿父子赴駿河國。今日暮兮止宿大石驛云々。
戌尅。駿河目代〔遠茂〕以長田入道之計。廻富士野。襲來之由有其告。仍相逢途中。可遂合戰之旨群議。武田太郎信義。次郎忠頼。三郎兼頼。兵衛尉有義。安田三郎義定。逸見冠者光長。河内五郎義長。伊澤五郎信光等。越富士北麓若彦路。爰加藤太光員。同藤次景廉。石橋合戰以後。逃去于甲斐國方。而今相具此人々。到駿州云々。

読下し                みずのえたつ  きそのかじゃよしなか  ぼうふよしかたぬしの ほうしょく たず   しなののくに  い    こうづけのくに  い
治承四年(1180)十月小十三日壬辰。木曾冠者義仲、亡父義賢主之芳躅@を尋ね、信濃國を出で、上野國に入る。

よっ  じゅうにんらよう   わじゅんのかん  としつな  ため  みんかん わずらは いへど きょうふ おも    な   べからずのよし  げち  くわ    うんぬん
仍て住人等漸やく和順之間、俊綱Aの爲、民間を煩すと雖も恐怖の思いを成す不可之由、下知を加うと云々。」

また  かいのくに  げんじ なら   ほうじょうどのふし するがのくに おもむ   きょう  くれて おおいしのうまや  ししゅく   うんぬん
又、甲斐國の源氏B并びに北條殿父子駿河國へ赴く。今日、暮兮大石驛Cに止宿すと云々。

いぬのこく するがもくだい  〔とおしげ〕 おさだのにゅうどうの はか    もっ   ふじの   めぐ  おそ きた  のよし  そ   つ   あ
戌尅、 駿河目代D〔遠茂〕長田入道之計りEを以て富士野に廻り襲い來る之由、其の告げ有り。

よっ   とちゅう  あいあ   かっせん  とげ   べ   のむね  たけだのたろうのぶよし じろうただより  さぶろうかねより ひょうえのじょうありよし
仍て、途中で相逢い合戰を遂るF可し之旨、武田太郎信義、次郎忠頼、三郎兼頼、兵衛尉有義、

やすだのさぶろうよしさだ いつみのかじゃみつなが かわちのごろうよしなが いさわのごろうのぶみつら ぐんぎ    ふじ ほくろく  わかひこじ    こ
安田三郎義定、 逸見冠者光長、 河内五郎義長、伊澤五郎信光等群議し、富士北麓の若彦路Gを越ゆ。

ここ  かとうたみつかず おな   とうじかげかど  いしばしがっせんいご かいのくにかたに に  さ
爰に加藤太光員同じき藤次景廉、石橋合戰以後甲斐國方于逃げ去る。

しか   いま  こ   ひとびと  あいぐ  すんしゅう いた   うんぬん
而して今、此の人々を相具し駿州に到ると云々。

参考@亡父義賢主之芳躅の上野國は、多胡荘。群馬県高崎市吉井町多胡に名が残る。
参考A
俊綱は、藤性足利氏(藤原秀郷の子孫)で足利荘、現足利市。
参考B
甲斐國の源氏は、武田党。
参考C
大石驛(うまや)は、富士宮市大石寺辺。
参考D駿河目代は、橘遠茂。
参考E長田入道の計りを以て富士野に廻りは、義朝を殺した長田忠致。尾張知多半島長田荘。頼朝にとって親の敵なので頼朝が勢力を持つことは脅威なので、先手を打って頼朝を倒そうと考えた。
参考F途中で相逢い合戰を遂るは、待ち伏せをしようとしている。
参考G
若彦路は、富士山の北側ではなく東側。
参考○○一族と言う場合は、血縁関係者を指し、総領が指揮権を持つことになる。しかし、○○党という時は、血縁にこだわらず同盟関係を結んで平等に共和的同盟者を指す。

現代語治承四年(1180)十月小十三日壬辰。木曽冠者義仲は亡き父義賢の遺跡を訪れるために、信州を出て上州に入ってきました。そこで住人は木曽義仲に従ったので、藤性足利俊綱に煩わされても私に従っていれば怖れることは無いと命令をしました。(足利太郎俊綱の云うことを聞かずに木曽冠者義仲の命令に従えと云う意味です。)

又、甲州の源氏と北条四郎時政、北条四郎義時親子は駿河へ向かい、今日も暮れたので大石宿に泊りましたとの事です。

午後八時頃に、駿河目代橘遠茂は、長田入道忠致の計略を採用して富士野へ回って攻めて来るとの、連絡が入ったので、途中で出迎えて戦いをしようと武田太郎信義、一条次郎忠頼、板垣三郎兼頼、武田兵衛尉有義、安田三郎義定、逸見冠者光長、河内五郎義長、石和五郎信光達は軍議をして、富士山の北麓の若彦路を越えて行きました。加藤太光員と加藤次景廉は石橋合戦の後、甲州に逃げていましたが、ここで一緒に駿河へ向かいました。

解説前半の木曾義仲の記事は、平家物語第七巻「北国下向」によると寿永二年三月上旬に義仲と頼朝との間で対立し、碓氷峠で対抗し、善光寺平へ押し出し長野県長野市中御所に陣を張り、対峙す。(善光寺裏合戦の名だけ残り内容は不明)」とあるので、寿永元年暮頃か寿永二年一・二月頃の出来事と思われる。

治承四年(1180)十月小十四日癸巳。午尅。武田安田人々。經神野并春田路。到鉢田邊。駿河目代率多勢。赴甲州之處。不意相逢于此所。境連山峯。道峙磐石之間。不得進於前。不得退於後。然而信光主相具景廉等。進先登。兵法勵力攻戰。遠茂暫時雖廻防禦之搆。遂長田入道子息二人梟首。遠茂爲囚人。從軍舎(捨)壽被疵者。不知其員。列後之輩不能發矢。悉以逃亡。酉尅。梟彼頚於富士野傍伊堤之邊云々。

読下し                みずのとみ  うまのこく  たけだ  やすだ ひとびと じんの なら    はるた   みち  へ     はちだへん いた
治承四年(1180)十月小十四日癸巳。午尅。武田、安田の人々~野@并びに春田Aの路を經て、鉢田邊に到る。

するが   もくだい たぜい  ひき  こうしゅう おもむ のところ こころならず かく ところにあいあ
駿河の目代、多勢を率い甲州に赴く之處、不意も此の所于相逢うB

さかい さんれい つら     みち  ばんじゃく へ     のかん  まえ  すす を えず   うしろ の   を えず
境は山峯に連なり、道は磐石を峙つる之間、前に進む於得不、後に退く於得不。

しかして のぶみつぬし  かげかどら  あいぐ  せんと  すす    へいほうちから はげま せ  たたか
然而、信光Cは景廉等を相具し先登に進み、兵法力を勵し攻め戰う。

とおしげ  しばら ぼうぎょの かま   めぐ     いへど   つい  おさだのにゅうどう しそくふたり  きょうしゅ   とおしげ しゅうじん な じゅうぐんいのち す
遠茂は暫く防禦之搆へを廻らすと雖も、遂に長田入道の子息二人を梟首し、遠茂は囚人と爲り從軍壽を捨て、

きず こうむ もの そ  かず  しらず  うしろ つらな のやから や   はな   あたわず   ことごと もっ とうぼう
疵を被る者其の員を知不。後に列る之輩、矢を發つに能不に、悉く以て逃亡す。

とりのこく か   くびを  ふじの  かたわら  いで の へん  か    うんぬん
酉尅、彼の頸於富士野の傍、伊堤D之邊に梟くと云々。

参考@~野は、富士宮市白糸。浅間神社の野原の意味
参考A春田は、富士宮市原田。
参考B不意(こころならずも)も此の所于相逢うは、待ち伏せをされていた。
参考C信光は武田の五男で石和といい、後に武田の総領となる。
参考D伊堤は、沼津市井出。

現代語治承四年(1180)十月小十四日癸巳。昼頃に、武田と安田の人達は、神野と春田路を通って鉢田の辺りに到着しました。駿河の代官は大勢の軍隊を率いて甲州に向かった処、不意にこの場所で武田軍に出会いました。山々の狭い一本道に大軍なので前進も退却も思うように動けません。そこで、信光殿は加藤次景廉達と一緒に先へ進んで攻め戦いました。橘遠茂は多少はこらえて攻撃を守りましたが、ついに長田入道忠致の子供二人が討たれて、橘遠茂は捕虜となり、従っていた軍隊は討ち死にしたり怪我をしたものは数え切れないほどでした。軍隊の後の方にいた兵隊も矢を撃つひまもなく、皆逃亡しました。午後六時頃には、討ち取った敵軍の首を富士野の伊堤辺りに晒したんだとさ。

治承四年(1180)十月小十五日甲午。武衛始入御鎌倉御亭。此間爲景義奉行所令修理也。

読下し                  きのえうま  ぶえい はじ   かまくら おんてい   い  たま    こ   かん  かげよしぶぎょう  な  しゅうりせし ところなり
治承四年(1180)十月小十五日甲午。武衛始めて鎌倉の御亭@に入り御う。此の間、景義奉行と爲し修理令む所也。

参考@鎌倉の御亭は、山内から持って来た家の修理がやっと終ったものと思われる。この間頼朝一家は何処にいたのか。

現代語治承四年(1180)十月小十五日甲午。頼朝様は初めて鎌倉の屋敷に入りました。大庭景義が担当の奉行をして修理をしていました。

治承四年(1180)十月小十六日乙未。爲武衛御願。於鶴岡若宮。被始長日勤行。所謂法華。仁王。最勝王等鎭護國家三部妙典。其外大般若經。觀世音經。藥師經。壽命經等也。供僧奉仕之。以相摸國桑原郷爲御供料所〕又今日令進發駿河國給。平氏大將軍小松少將惟盛朝臣率數万騎。去十三日到着于駿河國手越驛之由。依有其告也。今夜。到于相摸國府六所宮給。於此處。被奉寄當國早河庄於箱根權現。其御下文。相副御自筆御消息。差雜色鶴太郎。被遣別當行實之許。御書之趣。存忠節之由。前々知食之間。敢無疎簡之儀。殊以可凝丹祈之由也。御下文云。
  奉寄 筥根權現御神領事
   相摸國早河本庄
     爲筥根別當沙汰。早可被知行也
 右。件於御庄者。爲前兵衛佐源頼ー沙汰。所寄進也。全以不可有其妨。仍爲後日沙汰。注文書。以申。
     治承四年十月十六日

読下し                ぎのとひつじ  ぶえい  ごがん  な   つるがおかわかみや をい  ちょうじつ ごんぎょう はじ  らる
治承四年(1180)十月小十六日乙未。武衛の御願と爲し鶴岡若宮に於て、長日の勤行を始め被る。

いわゆる ほっけ  にんおう  さいしょうおう ら ちんごこっか さんぶ みょうてん   そ  ほか だいはんにゃきょう かんぜおんきょう やくしきょう じゅみょうきょうらなり
所謂、法華、仁王、最勝王@等鎭護國家三部の妙典。其の外に大般若經、觀世音經、藥師經、壽命經等也。

ぐそう これ  ほうし     さがみのくにくわばらごう  もっ    ごくりょうしょ   な
供僧之を奉仕す。相摸國桑原郷Aを以て、御供料所と爲す。

また きょう するがのくに しんぱつせし  たま
又、今日駿河國に進發令め給ふ。

へいし  だいしょうぐんこまつのしょうしょうこれもりあそん すうまんき ひき  さんぬ じうさんにち するがのくにてごしのうまや に とうちゃくの よし  そ つ   あ     よっ  なり
平氏の大將軍小松少將惟盛朝臣、數万騎を率いB、去る十三日、駿河國手越驛C于 到着之由、其の告げ有るに依て也。

こんや  さがみのこくふ ろくしょのみやに いた たま    こ  ところ をい  とうごくはやかわのしょう を はこねごんげん よ たてまつらる
今夜、相摸國府D 六所宮于到り給ひ、此の處に於て當國早河庄E於箱根權現に寄せ奉被る。

そ  おんくだしぶみ おんじひつ ごしょうそこ  あいそ    ぞうしきつるたろう   さ   べっとうぎょうじつのもと  つか  さる
其の御下文に御自筆の御消息を相副え、雜色鶴太郎を差し別當行實之許に遣は被る。

おんしょのおもむき ちゅうせつ ぞん のよし まえまえ し    め   のかん  あえ  そかんの ぎ な    こと もっ  たんき   こ     べ   のよしなり
御書之趣、忠節を存ず之由、前々知ろし食す之間、敢て踈簡之儀無し、殊に以て丹祈を凝らす可し之由也。

おんくだしぶみ い
御下文に云はく

  よ  たてまつ  はこねごんげんごしんりょう こと
 寄せ奉る 筥根權現御~領の事

    さがみのくにはやかわほんじょう
  相摸國早河本庄

      はこねのべっとう  さた   な  はやばや  ちぎょうさる べ  なり
   筥根別當の沙汰と爲し早〃と知行被る可き也

  みぎ くだん おんしょう をい は  さきのひょうえのすけみなもとよりとも  さた な  きしん    ところなり  まった もっ  そ  さまた あ  べからず
 右、件の御庄に於て者、前兵衛佐源頼―Eの沙汰と爲し寄進する所也。全く以て其の妨げ有る不可。

  よっ  ごじつ    さた   な   もんじょ  ちう もっ  もう
 仍て後日の沙汰と爲し文書に注し以て申す。

        じしょうよねんじうがつじうろくにち
    治承四年十月十六日

参考@仁王経、最勝王経は、承久の乱の項には、鎌倉では仁王経、最勝王経を承久の乱のときに初めて詠んだと書かれている。
参考A相摸國桑原郷は、神奈川県小田原市桑原。
参考B万騎を率いては、京都を出たときは300騎、官軍として兵糧軍隊を途中で掻き集めて来ている。それでも玉葉には四千騎とある。
参考C駿河國手越驛は、静岡市手越。

参考D
相摸国府は、神奈川県中郡大磯町国府新宿内。国府本郷飛地に六所神社有り。
参考E早河庄は、神奈川県足柄下郡湯河原町真鶴町辺り。早川荘は、本所は頼朝・領家は箱根権現・総地頭は土肥次郎實平・小地頭のひとりが麻々局(頼朝の乳母)。
参考E源頼―の書き方は、朝の文字は朝廷に通じるので、遠慮をして縦線を引き文字を書かない。

現代語治承四年(1180)十月小十六日乙未。頼朝様の願いとして八幡宮で一日中続けるお経を始めました。経は、法華経、仁王経、最勝王経など国を守る三つの効き目あるお経。その他にも、大般若経、観世音経、薬師経、寿命経などです。八幡宮寺に仕えている僧達が勤めました。相模の国の桑原郷をお経用の年貢徴収用として寄附しました。
 又、今日駿河の国へ出発されました。平家の大將軍として平左近少将惟盛が数万騎の軍勢を率いて、去る十三日に駿河の国の手越の馬屋に到着したと連絡があったからです。
今夜相模の国府の六所宮につきまして、ここでこの国の早川庄を箱根神社に寄附することにしました。その下し文に自筆の手紙を添えて雜色の鶴太郎に命じて長官の行実の処へ遣わしました。書面の内容は、忠節であることは前々から承知しているので、あえて粗略にしているとは思わないが、特別に熱心に祈るようにとの事です。
下文に書いてあるのは
  寄附します 箱根権現の神の領地の事
  相模の国の早川の庄 箱根神社長官の領地として早く命令するように
  右の庄園は頼朝様の命令により寄附する所です。絶対にその邪魔をしてはならない。そこで後日のために文書にして命令する。
     治承四年十月十六日

治承四年(1180)十月小十七日丙申。爲誅波多野右馬允義常。被遣軍士之處。義常聞此事。彼討手下河邊庄司行平等未到以前。於松田郷自殺。子息有常者在景義之許。遁此殃。義常姨母者中宮大夫進〔朝長〕母儀。〔典膳大夫久經爲子〕仍父義通就妹公之好。始候左典厩〔義朝〕之處。有不和之儀。去保元三年春之比。俄辞洛陽。居住波多野郷云々。

読下し                  ひのえさる  はたののうまのじょうよしつね ちう   ため  ぐんし   つか  さる のところ
治承四年(1180)十月小十七日丙申。波多野右馬允義常を誅さん爲、軍士を遣は被る之處、

よしつね こ こと  き    か  うって しもこうべのしょうじゆきひらら いま いた      いぜん  まつだごう   をい  じさつ
義常此の事を聞き彼の討手下河邊庄司行平等未だ到らざる以前に松田郷@に於て自殺す。

しそく ありつねは かげよし あ    こ   けつ  のが    よしつね しゅうとぼは ちゅうぐうたいふさかん〔ともなが 〕  ははぎ 〔てんぜんたいふひさつね こ  な〕
子息有常者景義に在って此の殃を遁る。義常の姨母者、中宮大夫進〔朝長Aの母儀〔典膳大夫久經の子と爲す〕

よっ  ちちよしみち   いもうとぎみのよし  つ   はじ    さてんきゅう  〔よしとも〕   そうら のところ  ふわ の ぎ あ
仍て父義通は、妹公之好みに就き始めて左典厩B〔義朝〕に候う之處、不和之儀有りてC

さんぬ ほうげんさんねんはるのころ にわか らくよう  じ   はたのごう   きょじゅう   うんぬん
去る保元三年春之比、俄に洛陽を辞し波多野郷に居住すと云々。

参考@松田郷は、神奈川県足柄上郡松田町に総領の地名有り(他に庶子の地名も有り)。
参考A朝長は、義朝の次男で母は波多野の女。平治の乱に父に随い落ち延びるが、足に矢傷を負い足でまといになるので、青墓で自決、義朝が介錯をしたという。
参考B左典厩は、左馬頭の唐名。
参考C不和の義有りは、保元の乱の際に敵方となった義朝の父爲義の殺害を義朝から義通に任され、主人の父や幼い弟達を討たなければならなかった事に無常を感じ、武家奉公を嫌い家令を辞めた。そこで左兵衛藤原(鎌田)正清が代わって家令になった。

現代語治承四年(1180)十月小十七日丙申。波多野右馬允義常を討つ為に軍隊を派遣した処、義常はこれを聞いて下河辺庄司行平達が到着する前に松田で自殺しました。子供の有常は大庭平太景義の処にいたので、その攻めに合いませんでしたた。義常の叔母は義朝の次男の朝長の母で久恒の子です。それで父の義通は、妹の推挙によって、左典厩義朝の家来となっていましたが、不仲になり、保元三年の春に突然京都から波多野に帰って来て住んでいたんだとさ。

治承四年(1180)十月小十八日丁酉。大庭三郎景親爲加平家之陣。伴一千騎欲發向之處。前武衛引率二十万騎精兵。越足柄給之間。景親失前途。逃亡于河村山云々〕今日。伊豆山專當捧衆徒状馳參路次。兵革之間。軍兵等以當山結界之地。爲往反路之間。狼藉不可斷絶歟。爲之如何云々。仍可停止諸人濫吹之旨。下御書被宥仰。其状云。
 謹請 走湯山大衆解状旨
  早可令停止彼山狼藉等令喜悦御祈祷次第事
 右。所到祈念。法力已以令成就畢。是無他念。偏仰權現御利生旨也。不可致狼藉事。彼山。是 新皇并兵衛佐殿御祈祷所也。仍乱悪乃輩不可乱入。故所仰下知如件。
    治承四年十月十八日
及晩着御黄瀬河。以來廿四日。被定箭合之期。爰甲斐信濃源氏并北條殿相率二万騎。任兼日芳約。被參會于此所。武衛謁給。各先依篤光夢想及菅冠者等事奉附其所於諏方上下社事。面々申之。寄進事。尤叶御素意之由。殊被感仰之。次与駿河目代合戰事。其伴黨生虜十八人召覽之。又同時合戰之間。加藤太光員討取目代遠茂。生虜郎等一人。藤次景廉討同郎等二人。生虜一人之由申之。工藤庄司景光於波志太山。与景久攻戰。竭忠節之旨言上。皆被仰可行賞之趣。
于時令与景親奉射源家之輩。後悔銷魂云々。仍荻野五郎俊重。曾我太郎祐信等束手參上云々。入夜。實平。宗遠等献盃酒。此間。北條殿父子已下伊豆相摸人々。各賜御馬御直垂等。其後以實平爲御使。可修理松田御亭〔故中宮大夫進舊宅〕之由。被仰中村庄司宗平云々。

読下し                ひのととり  おおばのさぶろうかげちか へいけの じん  くわ      ため  いっせんき  ともな はっこう      ほっ   のところ
治承四年(1180)十月小十八日丁酉。大庭三郎景親、平家之陣に加はらん爲、一千騎を伴い發向せんと欲する之處、

さきのぶえい にじうまんき せいへい いんそつ あしがら  こ   たま  のかん  かげちかぜんと うしな かわむらやまにとうぼう    うんぬん
前武衛二十万騎の鴛コを引率し足柄を越へ給ふ之間、景親前途を失ひ河村山于逃亡すと云々。

きょう いずさん せんとうしゅうと  じょう ささ     は   さん
今日伊豆山專當衆徒、状を捧げに馳せ參ず。

 ろじ へいかくのかん ぐんぴょうら とうさんけっかいのち  もっ  おうはんろ  な   のかん  ろうぜきだんぜつ べからずか  こ  いかん   な    うんぬん
路次兵革之間、軍兵等當山結界之地を以て往反路と爲す之間、狼藉斷絶す不可歟、之は如何と爲すと云々。

よっ  しょにん らんすい  ちょうじすべの むね  おんしょ  くだ  なだ おお  らる   そ   じょう  い
仍て諸人の濫吹を停止可し之旨、御書を下し宥め仰せ被る。其の状に云はく

  つつし   う       そうとうさんだいしゅ  げじょう  むね
 謹みて請くる 走湯山大衆の解状の旨

    はやばや か  やま     ろうぜきら   ちょうじ  きえつせし  べ     ごきとう   しだい   こと
  早〃と彼の山での狼藉等を停止し喜悦令む可き、御祈祷の次第の事

  みぎ  きねんいた ところ ほうりきすで  もっ じょうじゅせし おはんぬ これたねんな  ひとえ  ごんげんごりしょう  おお   むねなり  ろうぜきいた べからざると
 右、祈念致す所の法力已に以て成就令め畢。是他念無く、偏に權現御利生の仰せる旨也。狼藉致す不可事。

  か   やま  これ  しんのうなら  ひょうえのすけどの  ごきとうしょなり  よっ  らんあくのやかららんにゅう べからず ことさら げち おお  ところ くだん ごと
 彼の山は是、新皇并びに兵衛佐殿の御祈祷所也。仍て乱惡之輩乱入す不可。故に下知仰せる所、件の如し

         じしょうよねんじうがつじうはちにち
    治承四年十月十八日

ばん  およ    きせがわ  ちゃくご   きた  にじうよっか  もっ  やあわ  の ご   さだ  られ
晩に及び、黄瀬河に着御。來る廿四日を以て箭合せ之期と定め被る。

ここ   かい   しなの   げんじなら    ほうじょうどの  にまんき   あいひき   けんじつ  ほうやく  まか  かく ところにさんかいさる    ぶえい えっ  たま
爰に甲斐、信濃の源氏并びに北條殿は二万騎を相率い、兼日の芳約に任せ此の所于參會被る。武衛謁し給ふ。

おのおの ま  あつみつ  むそう  よっ      すがのかじゃら  こと  およ  そ   ところを すわ じょうげしゃ  つ たてまつ こと  めんめん きしん  ことこれ  もう
 各、先ず篤光の夢想に依って、菅冠者等の事に及び其の所於諏方上下社に附け奉る事、面々寄進の事之を申す。

もっと   ごそい   かな   のよし  こと  これ  かん  おお  らる   つい  するが もくだいと かっせん  こと  そ  ばんとうせいりょじうはちにんこれ しょうらん
尤も御素意に叶うA之由、殊に之を感じ仰せ被る。次で駿河目代与合戰の事、其の伴黨生虜十八人之を召覧す。

また  どうじ かっせんのかん  かとうたみつかず  もくだいとおしげ  う   と   ろうとう ひとり   せいりょ
又、同時合戰之間。加藤太光員は目代遠茂を討ち取り郎等一人を生虜すB

とうじかげかど  おな    ろうとう ふたり   う     ひとり   せいりょ    の よし  これ  もう
藤次景廉は同じく郎等二人を討ち、一人を生虜する之由、之を申す。

くどうのしょうじかげみつ  はしたやま     をい    かげひさと こうせん   ちゅうせつ かっ   のむね ごんじょう   みなしょう おこな   べ   のおもむき おお らる
工藤庄司景光は波志太山Cに於て、景久与攻戰し、忠節を竭する之旨言上す。皆賞を行はる可し之趣を仰せ被る。

ときに  かげちか  よせし  げんけ  いたてまつ のやから こうかい たましい け    うんぬん
時于、景親に与令め源家を射奉る之輩、後悔 魂を銷すと云々。

よっ  おぎののごろうとししげ   そがのたろうすけのぶ ら て  つか     さんじょう   うんぬん
仍て荻野五郎俊重D、曾我太郎助信E等手を束ねてF參上すと云々。

よ   い     さねひら むねとおら はいしゅ けん  こ   かん  ほうじょうどのおやこ いか いず   さがみ ひとびと おのおの おんうま おんひたたれ ら たま
夜に入り、實平、宗遠等盃酒を献ず。此の間、北條殿父子已下伊豆、相摸の人々、各、御馬 御直垂G等を賜はる。

そ   ご  さねひら もっ  おんつか   な     まつだ おんてい  〔こちゅうぐうたいふさかん きゅうたく〕  しゅうり  べ   のよし
其の後、實平を以て御使いと爲し、松田御亭H〔故中宮大夫進の舊宅〕を修理す可し之由、

なかむらのしょうじむねひら   おお  られ    うんぬん
中村庄司宗平Iに 仰せ被ると云々。

参考@河村山は、現在の御殿場線山北駅南に河村城址有り。
参考A御素意に叶うとは、信仰心の尊さを云ってる。
参考B
加藤太光員討取目代遠茂。生虜郎等一人」とあるが、14日条では、遠茂爲囚人」とある。捕えた後、梟首したのか?
参考C波志太山は、鉢田山とも云うが、位置は不明。
参考D荻野は、現厚木市上荻野、下荻野。下荻野に江戸時代の荻野中山藩陣屋跡有り。
参考E曾我は、現神奈川県小田原市曽我。曽我の梅林で有名。
参考F
手を束ねては、この時代では単に降参しての意味だが、前九年の役頃は本当に両手を結わえて出頭してきた。
参考G直垂は、素袍に同じ。元は貴人の夜の具なりしが、後、公武並びに諸人の常服となる。但しこの時点で頼朝は本当に配るだけの資産を持っていたか?
参考H松田亭は、頼朝の兄、朝長の育った屋敷。母は波多野氏。
参考I中村庄は、現神奈川県足柄上郡中井町。中井町は中村と井口村とが合併した。

現代語治承四年(1180)十月小十八日丁酉。大庭三郎景親は、平家方に付く為に千騎を連れて出発しようとしましたが、頼朝様が二十万騎の軍隊を引き連れて、足柄峠を越えて行かれたので、景親は前を塞がれてしまい、河村山に逃げ込みました。
今日、伊豆山走湯権現の当番の武者僧達が手紙を提出の為急いで来ました。世間で戦争中なので兵士達が当山の神聖地を通行路にしているので、狼藉が絶えないと思われるのだが、どうおもいますかとの事です。そこで、一般人の狼藉を停止するよう文書を下して宥められました。その書面には、
 
謹んで請けます 走湯山の皆さんの捧げ状について
 早くこの山の狼藉を停止して喜ばせるためのご祈祷の事について
 右の祈る事への経の力はすでに旨くいきました。これは他の力ではなく走湯山神社のご利益のとおりであるから、狼藉はしないように。その神社は以仁王と頼朝様の祈りの神社である。だからやたらに入ってはならないことを言いつける。
  治承四年十月十八日

 夕方になって、黄瀬河に着きました。来る二十四日を戦始めの矢合わせの時と決めました。そこへ甲斐、信濃の源氏と北條四郎時政が二万騎をつれて、前に約束しておいたとおり、この場所に来ました。頼朝様は面会をしました。
それぞれ、諏訪の神官篤光の夢のお告げによって、菅冠者を滅ぼした事とその領地をお礼に諏訪の上下社に寄附した事を話しました。もっとも頼朝様の心にあっている事をしたと、特別感心しました。次に駿河目代との合戦の話に移り、その部下達の捕虜十八人を見分しました。又その合戦で加藤太光員は目代の橘遠茂を討ち取り、部下一人を捕虜にする。加藤次景廉は部下二人を討ち一人を捕虜にする。工藤庄司景光はあしたか山で俣野五郎景久を責め戦い、頼朝様への忠節を示した旨を報告しました。皆、表彰を受けました。

 今、大庭三郎景親に同意して頼朝様に弓を引いた者達は、後悔して生きた心地がしなかったんだとさ。それなので、荻野五郎俊重、曽我太郎助信は手を揃えて出し降参してやってきたんだとさ。夜になって、土肥次郎実平や土屋三郎宗遠達はお酒の用意を整えました。この間に北条時政殿親子を始めとする伊豆や相模の人々に馬や直垂を褒美に配られました。その後、土肥次郎実平を使いとして、故中宮大夫進源朝長が育った松田の屋敷を修理するように中村庄司宗平に命じられたんだとさ。

治承四年(1180)十月小十九日戊戌。伊東次郎祐親法師。爲属小松羽林。浮船於伊豆國鯉名泊。擬廻海上之間。天野藤内遠景窺得之。令生虜。今日相具參黄瀬河御旅亭。而祐親法師聟三浦次郎義澄參上御前。申預之。罪名落居之程。被仰召預于義澄之由。先年之比。祐親法師欲奉度武衛之時。祐親二男九郎祐泰依告申之。令遁其難給訖。優其功可有勸賞之由。召行之處。祐泰申云。父已爲御怨敵爲囚人。其子爭蒙賞乎。早可申身暇者。爲加平氏上洛云々。世以美談之。
其後。加々美次郎長C參着。去八月上旬出京。於路次發病之間。一兩月休息美濃國神地邊。去月相扶。先下着甲斐國之處。一族皆參之由承之。則揚鞭。兄秋山太郎者。猶在京之旨申之。此間兄弟共属知盛卿。在京都。而八月以後。頻有關東下向之志。仍寄事於老母病痾。雖申身暇。不許。爰高橋判官盛綱爲鷹装束。招請之次。談話世上雜事。得其便。愁不被許下向事。盛綱聞之。向持佛堂之方合手。殆慚愧云。當家之運因斯時者歟。於源氏人々者。家礼猶可被怖畏。矧亦如抑留下國事。頗似服仕家人。則稱可送短札。献状於彼知盛卿云。加々美下向事。早可被仰左右歟云々。卿翻盛綱状裏有返報。其詞云。加々美甲州下向事。被聞食候訖。但兵革連續之時遠向。尤背御本懷。忩可歸洛之由。可令相觸給之趣所候也云々。

読下し                つちのえいぬ  いとうのじろうすけちかほっし   こまつうりん   ぞく    ため ふねを いずのくにこいなのとまり  うか
治承四年(1180)十月小十九日戊戌。伊東次郎祐親法師、小松羽林に属さん爲、船於伊豆國鯉名泊@に浮べ、

かいじょう めぐ        ぎ   のかん  あまののとうないとおかげ これ うかが え  いけどらせし    きょう あいぐ   きせがわ   ごりょてい   まい
海上を廻らさんと擬す之間、天野藤内遠景、之を窺い得て生虜令め、今日相具し黄瀬河の御旅亭に參る。

しか    すけちかほっし  むこみうらのじろうよしずみ ごぜん さんじょう これ もう あずか   ざいめいらっきょのほど よしずみに め   あず     のよしおお  られ
而して祐親法師の聟三浦次郎義澄御前に參上し之を申し預り、罪名落居之程は義澄于召し預けるA之由仰せ被る。

せんねんのころ  すけちかほっし ぶえい  はか たてまつ    ほっ    のとき   すけちかほっし   じなん くろうすけやす これ  つ   もう    よっ
先年之比、祐親法師、武衛を度り奉らんと欲する之時B、祐親法師の二男九郎祐泰、之を告げ申すに依て、

そ  なん  のが  せし  たま おはんぬ
其の難を遁れ令め給ひ訖。

そ   こう  ゆう  けんじょう あ  べ   のよし め おこな のところ すけやすもう    い       ちちすで ごおんてき  な  しゅうじんたり
其の功に優じ勸賞有る可き之由召し行う之處、祐泰申して云はく、父已に御怨敵と爲し囚人爲。

そ   こ いかで しょう こうむ   や  はや み   いとま  もう  べ  てへ    へいし   くわ       ためじょうらく    うんぬん  よ もっ  びだん
其の子爭か賞を蒙らん乎。早く身の暇を申す可し者り。平氏に加わらんと爲上洛すと云々。世以て美談とす。

そ   ご   かがみのじろうながきよさんちゃく   さんぬ はちがつじょうじゅん しゅっきょう  ろじ をい  はつびょうのかん  いちりょうげつ みののくにこうずち へん  きゅうそく
其の後、加々美次郎長C參着す。去る八月上旬に出京す。路次に於て發病之間、一兩月美濃國~地C邊に休息す。

さんぬ つき あいたす   ま   かいのくに  げちゃく    のところ  いちぞくみなさん   のよし  これ うけたまわ すなは むち あ
去る月、相扶けて先づ甲斐國に下着する之處、一族皆參ずる之由、之を承り、則ち鞭を揚ぐ。

あにあきやまたろう は なおざいきょうのむね これ  もう    こ   かん  きょうだいとも とももりきょう ぞく  きょうと   あ
兄秋山太郎D者、猶在京之旨 之を申す。此の間、兄弟共に知盛卿Eに属し京都に在り。

しか    はちがついごしきり  かんとうげこうのこころざしあ   よっ  ことを ろうぼ   びょうあ  よ  み   いとま もう    いえど ゆる    ず
而るに八月以後頻に關東下向之志有り。仍て事於老母の病痾に寄せ身の暇を申すと雖も許され不。

ここ  たかはしほうがんもりつな  たかしょうぞく ため しょうせいのついで せじょう ぞうじ  だんわ     そ   びん  え   げこう  ゆるされざること    うれ
爰に高橋判官盛綱F、鷹裝束の爲に招請之次に世上の雜事を談話す。其の便を得、下向を許被不事を愁う。

もりつなこれ  き     じぶつどう のほう  むか  て   あわ    ほと    ざんき     い     とうけの うん こ  とき  よ  ものか
盛綱之を聞き、持佛堂G之方に向い手を合せ、殆んど慚愧して云はく當家之運斯の時に因る者歟。

げんじ   ひとびと をい  は   かれいなお ふい せら べ    いはん またげこく  よくりゅう     ごと  こと  すこぶ けにん   ふくじ       に
源氏の人々に於て者、家礼猶怖畏被る可し。矧や亦下國を抑留するが如き事、頗る家人Hに服仕するに似たり。

すなは たんさつ おく  べ    しょう   じょうを か  とももりきょう  けん    い       かがみ  げこう   こと  はや  そう   おお  られ  べ   か  うんぬん
則ち短札を送る可しと稱し、状於彼の知盛卿に献じて云はく、加々美下向の事、早く左右を仰せ被る可き歟と云々。

きょうもりつな じょう うら ひるがえ へんぽうあ    そ  ことば  い       かがみ  こうしゅうげこう  こと  きこ   め さ  そうら おは
卿盛綱の状の裏を翻し返報有り。其の詞に云はく、加々美甲州下向の事、聞し食被れ候ひ訖んぬ。

ただ へいかくれんぞくのとき  えんこう   もっと ごほんかい   そむ      いそ  きらく  べ   のよし   あいふ  せし  たま べ のおもむきそうら ところなり うんぬん
但し兵革連續之時の遠向は、尤も御本懷に背けり、忩ぎ歸洛す可し之由、相觸れ令め給ふ可き之趣候う所也と云々。

参考@鯉名泊は、伊豆国賀茂郡竹麻村。現南伊豆町小稲。
参考A義澄に預ける旨は、預かり囚人(めしうど)。
参考B
祐親法師、武衛を度り奉らんと欲する之時とは、頼朝が祐親の娘の八重に子供を生ませた時で平氏全盛時代だった。
参考C神地は、岐阜県美濃市小倉山で旧美濃上有地(みのこうずち)で美濃源氏出身地。
参考D秋山太郎は、加々美遠光の子。光朝。甲斐国巨摩郡秋山村。義経軍に加わり平家討伐戦に参加。途上平重盛の娘を室に。頼朝に仕えるも謀反の罪で文治五年処刑された。
参考E
知盛卿は、平知盛で、熊谷直実や伊勢の波多野氏も家来にしている。
参考F
高橋判官盛綱は、大宅性。
参考G
持仏堂は、日常的に礼拝する仏像(念持仏)を安置する堂
参考H家人は、主人は一人だとする説が源氏の考え方で、家礼は複数の主人に仕えることを平氏が考え出したと思われる。

現代語治承四年(1180)十月小十九日戊戌。伊東次郎祐親法師は小松平左近少将惟盛に付こうとして、伊豆の鯉名に船を用意し、海上から回ろうとしていたので、天野藤内遠景がこれを見つけて生け捕りにして、黄瀬河の頼朝様の宿泊先に連れて来ました。そしたら伊東次郎祐親の聟の三浦介義澄が頼朝様の御前に参って預かりたい旨を申し出たので、処罰が決まるまで三浦介義澄に預けるとおっしゃられました。大分前のことですが、祐親法師が頼朝様を殺そうとした時に、祐親の次男の九郎祐泰(祐清)がこれを教えて来たので、その罠から逃げる事が出来ました。その手柄に今答えて賞しようと呼び出したところ、祐泰(祐清)が云うには、父親が將軍の敵として捕まっているのに、その子が何故賞をいただけましょうか。早く釈放してくれと云いました。平家に就く為に京都へ向かいましたとさ。人々はたいしたもんだと褒め称えたものです。

 その後、加々美長Cが到着して参りました。先の八月に京都を出ましたが、途中で病気になり、一・二ヶ月美濃国~地辺で休んでいました。先月やっと直して甲斐国へ着いたところ、一族は皆頼朝様の所へ参っている事を聞いて、直ぐに鞭を揚げました。兄の秋山太郎光朝は未だ京都にいる旨を言いました。今までの間、兄弟共に平知盛の部下として京都にいました。そして、八月以後は関東へ下りたい心がありました。そこで、年老いた母が病気だから帰りたいと申し出ても許されませんでした。高橋判官盛綱が鷹装束について、関東の装束を問い合わせるために呼ばれたついでに世間の雑談をしました。そのついでを利用して国へ帰る事を許されないとこぼしました。盛綱はこれを聞いて持仏堂の方へ手を合わせて、そうとう悔やみきって云うには、平家の運も是までかもしれない。源氏の人々を家礼として使うなんて、恐れ多いことなのに、ましてや国へ帰るのを無理に引き止めるなんて、まるで、家人として仕えさせるのと同じじゃないか。直ぐに手紙を送りましょうと云って、知盛卿宛てに差し上げて言うには、加々美の帰国の事、早く良いとおっしゃわれるのが良いんじゃないでしょうかだとさ。知盛卿は盛綱の手紙の裏を返して返事を書いてよこしました。その言葉には、加々美の帰国の事は承知した。但し、戦争が連続している時の遠出は本意ではないので、早く京都へ戻るように、よく伝えて置くようにとの内容だったんだとさ。

治承四年(1180)十月小廿日己亥。武衛令到駿河國賀嶋給。又左少將惟盛。薩摩守忠度。參河守知度等。陣于富士河西岸。而及半更。武田太郎信義。廻兵畧。潜襲件陣後面之處。所集于富士沼之水鳥等群立。其羽音偏成軍勢之粧。依之平氏等驚騒。爰次將上總介忠C等相談云。東國之士卒悉属前武衛。吾等憖出洛陽。於途中已難遁圍。速令歸洛。可搆謀於外云々。羽林已下任其詞。不待天曙。俄以歸洛畢。于時飯田五郎家義。同子息太郎等渡河追奔平氏從軍之間。伊勢國住人伊藤武者次郎返合相戰。飯田太郎忽被討取。家義又討伊藤云々。印東次郎常義者。於鮫嶋被誅云々。

読下し             つちのとい  ぶえい するがのくにかしま   いた  せし  たま
治承四年(1180)十月小廿日己亥。武衛、駿河國賀嶋@に到ら令め給ふ。

また  さしょうしょうこれもり  さつまのかみただのり みかわのかみとものりら ふじがわせいがんにじん
又、左少將惟盛A、薩摩守忠度、參河守知度等、富士河西岸于陣す。

しか    はんそう  およ たけだのたろうのぶよし へいりゃく めぐ    ひそか くだん じん  こうめん  おそ のところ
而して半更に及び武田太郎信義、兵畧を廻らし、潜に件の陣の後面を襲う之處、

ふじぬま に あつ   ところのみづどりら む  た     そ   はおとひとへ ぐんぜいのよそお  な     これ  よっ  へいしら おどろ さわ
富士沼于集まる所之水鳥等群れ立つ、其の羽音偏に軍勢之粧いを成す。之に依て平氏等驚き騒ぐ。

ここ  じしょう   かずさのすけただきよら あいだん い       とうごくの しそつ ことごと さきのぶえい ぞく
爰に次將Bの上總介忠C等相談じて云はく、東國之士卒は悉く前武衛に属す。

われら なまじ   らくよう  い     とちゅう  おい すで かこみ のが がた  すみや  きらくせし    はかりをほか かま  べ     うんぬん
吾等憖いに洛陽を出で、途中に於て已に圍を遁れ難し速かに歸洛令め、謀於外に搆ふ可しと云々。

うりん   いげ そ   ことば まか  てん あけぼの またず  にはか もっ きらく おはんぬ
羽林D已下其の詞に任せ、天の曙を待不、俄に以て歸洛し畢。

ときに いいだのごろういえよし おな    しそくたろう ら かわ  わた  へいしじゅうぐん ついふん   のかん
時于飯田五郎家義E、同じき子息太郎等河を渡り平氏從軍を追奔する之間、

いせのくに じゅうにん いとうむしゃじろう かえ あわ あいたたか いいだのたろうたちま   うちとられ   いえよしまた いとう  う    うんぬん
伊勢國住人伊藤武者次郎、返し合せ相戰ひ飯田太郎忽ちに討取被る。家義又伊藤を討つと云々。

いんとうのじろうつねよし は さめじま をい ちうされ   うんぬん
印東次郎常義F者鮫嶋Gに於て誅被ると云々。

参考@賀島は、富士市加島、富士川から四里。
参考A惟盛は、父の重盛から軍勢は相続しておらず、軍勢は伊勢に潜伏しているので直属の軍勢は持っていない。
参考B次將は、侍大将・戦目付、実質的指揮官。
参考C上總介忠Cは、伊藤上總介忠Cで富士川の合戰の侍大将。息子に謡曲景Cの悪七兵衛景C、永福寺造営中に頼朝暗殺がばれて処刑された上総五郎忠光あり。
参考D羽林は、近衛将校の唐名。
参考E飯田は、横浜市泉区上飯田下飯田で鎌倉古道上の道沿い。
参考F印東次郎常義は、上総權介廣常の弟。印東は印旛沼の東。女優の夏帆の本名は印東夏帆らしい。印東が淫蕩に似てるので止めたのか?
参考G鮫島は、富士市鮫島。
参考九条兼実の玉葉には、頼朝が加島まで来た。平家(4000騎が翌朝1000騎に減っている)が富士川まで来た。武田軍は横から割って入っているから、武田軍は頼朝を無視している。吾妻ではその辺を隠している。平家物語では平家が夜中に逃げたとされている。

現代語治承四年(1180)十月小廿日己亥。頼朝様は駿河国賀島に到着しました。又、左少将惟盛、薩摩守忠度、三河守知度等は富士川の西岸に陣を張りました。しかし、宵闇の頃になって武田太郎信義が作戦を考えて、ひそかに平家の陣の後ろを襲おうとしたところ、富士沼に集まっていた水鳥が一斉に飛び立ちました。その羽音はまるで軍隊の攻撃にそっくりでした。これを平家が驚いて騒いだところ、次将の上総介忠清などが相談して云うには、東国の兵隊は全て頼朝様に付いてるので、我々平家が、しなきゃいいのにわざわざ京都を出て、鎌倉を攻める途中で囲まれては逃げられなくなるので、早く京都へ戻り、他の方法を考えたほうが良いとの事なんだとさ。知盛以下はその言葉のとおり夜明けを待たずに、すぐに京都へ向かってしまいました。その時、飯田五郎家義と子の太郎は川を渡って平家の軍勢を追い走っている時、伊勢の侍伊藤武者次郎は引き返してきて戦い、太郎は直ぐに討ち取られましたが、家義が伊藤を討ち取ったんだとさ。印東次郎常義(平家方)は鮫島で殺されたんだそうだ。

治承四年(1180)十月小廿一日庚子。爲追攻小松羽林。被命可上洛之由於士卒等。而常胤。義澄。廣常等諌申云。常陸國佐竹太郎義政。并同冠者秀義等。乍相率數百軍兵。未歸伏。就中。秀義父四郎隆義。當時從平家在京。其外驕者猶多境内。然者。先平東夷之後。可至關西云々。依之令遷宿黄瀬河給。以安田三郎義定爲守護。遠江國被差遣。以武田太郎信義。所被置駿河國也。
今日。弱冠一人。彳御旅舘之砌。稱可奉謁鎌倉殿之由。實平。宗遠。義實等恠之。不能執啓。移尅之處。武衛自令聞此事給。思年齢之程。奥州九郎歟。早可有御對面者。仍實平請彼人。果而義經主也。即參進御前。互談往事。催懷舊之涙。就中。白河院御宇永保三年九月。曾祖陸奥守源朝臣〔義家〕於奥州。与將軍三郎武衡。同四郎家衡等遂合戰。于時左兵衛尉義光候京都。傳聞此事。辞朝廷警衛之當官。解置弦袋於殿上。潜下向奥州。加于兄軍陣之後。忽被亡敵訖。今來臨尤協彼佳例之由。被感仰云々。此主者。去平治二年正月。於襁褓之内。逢父喪之後。依繼父一條大藏卿〔長成〕之扶持。爲出家登山鞍馬。至成人之時。頻催會稽之思。手自加首服。恃秀衡之猛勢。下向于奥州。歴多年也。而今傳聞武衛被遂宿望之由。欲進發之處。秀衡強抑留之間。密々遁出彼舘首途。秀衡失恪惜之術。追而奉付繼信忠信兄弟之勇士云々。
秉燭之程御湯殿。令詣三嶋社給。御祈願已成就。偏依明神冥助之由。御信仰之餘。點當國内。奉寄神領給。則於寳前。令書御寄進状給。其詞云。
  伊豆國御園 河原谷 長崎
   可早奉免敷地三嶋大明神
 右。件御園者。爲御祈祷安堵公平。所寄進如件。
   治承四年十月廿一日
  源朝臣

読下し                                      かのえね  こまつ うりん   お   せ     ため  じょうらくすべ のよしを  しそつら   めい  らる
治承四年(1180)十月小廿一日庚子。小松羽林を追い攻めん爲、上洛可し之由於士卒等に命ぜ被る。

しか    つねたね よしずみ ひろつねら かん  もう    い
而るに常胤、義澄、廣常等、諫じ申して云はく、

ひたちのくに  さたけのたろうよしまさ なら  おな    かじゃひでよしら  すうひゃく ぐんぴょう あいひき  なが   いま  きふく
常陸國の佐竹太郎義政@并びに同じき冠者秀義等は數百の軍兵を相率ひ乍ら、未だ歸伏せず。

なかんづく  ひでよし ちちしろうたかよし  とうじへいけ   したが  ざいきょう   そ  ほかおご   ものなおけいだい おお
就中に、秀義の父四郎隆義は當時平家に從い在京す。其の外驕れる者猶境内に多し。

しからば ま  とうい  たいら ののち  かんさい  いた  べ    うんぬん  これ  よっ    きせがわ  うつ しゅくせし たま
然者先ず東夷を平ぐ之後、關西に至る可しと云々。之に依て、黄瀬河に遷り宿令め給ふ。

やすだのさぶろうよしさだ もっ  しゅご  な  とうとうみのくに さ  つか  さる    たけだのたろうのぶよし もっ  するがのくに  おかる ところなり
安田三郎義定を以て守護と爲し遠江國に差し遣は被る。武田太郎信義を以て駿河國に置被る所也A

きょう じゃっかんひとり ごりょかんのみぎり たたず  かまくらどの えっ たてまつ べ  のよし  しょう
今日弱冠一人御旅舘之砌に彳む。鎌倉殿に謁し奉る可し之由を稱す。

さねひら むねとお よしざねら これ あやし  しっけい  あたわず  とき うつ  のところ  ぶえいみずか こ  こと   き  せし  たま
實平、宗遠、義實等之を恠み、執啓に不能、尅を移す之處、武衛自ら此の事を聞か令め給ひ、

 とし の ほど  おも    おうしゅう くろうか   はや  ごたいめん あ  べ  てへ    よっ  さねひら か ひと  しょう
年齡之程を思うに奥州の九郎歟。早く御對面有る可し者り。仍て實平彼の人を請ず。

はたして よしつねぬしなり  すなは ごぜん  さんしん   たが   おうじ  だん   かいきゅうのなみだ もよお
果而、義經主也。即ち御前に參進し、互いに往事を談じ、懷舊之涙を催すB

なかんづく  しらかわいん  ぎょう   ようほうさんねんくがつ  そふ むつのかみみなもとあそん〔よしいえ〕おうしゅう をい
就中に、白河院の御宇C、永保三年九月、曾祖陸奥守源朝臣〔義家〕奥州に於て、

しょうぐんさぶろうたけひら おな   しろういえひららと かっせん  と
將軍三郎武衡、同じき四郎家衡等与合戰を遂ぐ。

ときに さひょうえのじょうよしみつ きょうと そうろ  こ  こと  つた  き    ちょうていけいえいのとうかん  じ   つるぶくろをでんじょう と  お
時于左兵衛尉義光、京都に候て此の事を傳へ聞き、朝廷警衛之當官を辞し、弦袋於殿上に解き置きD

ひそか  おうしゅう げこう  あに  ぐんじんに くは   ののち  たちま てき  ほろ されおはんぬ
潜にE奥州へ下向し兄の軍陣于加はる之後、忽ち敵を亡ぼ被訖。

いま  らいりん  もっと か   かれい なぞら  のよし  かん  おお らる   うんぬん
今の來臨、尤も彼の佳例に協う之由、感じ仰せ被ると云々。

こ   にしは  さんぬ へいじにねんしょうがつ きょうほう のうち おい  ちち   も   あ   ののち
此の主者、去る平治二年正月、襁褓F之内に於て父の喪に逢う之後、

けいふ いちじょうおおくらきょう〔ながもち〕の ふち  よっ    しゅっけ  な    くらま    とざん
繼父一條大藏卿〔長成〕之扶持に依て、出家を爲し、鞍馬に登山す。

せいじん いた  のとき  しき    かいけいのおもい もよお   て  よ  しゅふく  くは    ひでひらの もうせい  たの   おうしゅうに げこう    たねん  へ  なり
成人に至る之時、頻りに會稽之思を催し、手づ自り首服を加へ、秀衡之猛勢を恃み、奥州于下向し、多年を歴る也。

しこう   つぐのぶただのぶきょうだいのゆうし  つ たてまつ  うんぬん
而して繼信忠信兄弟之勇士を付け奉ると云々。

へいしょくのほど  おゆどの   みしましゃ  もう  せし  たま   ごきがんすで  じょうじゅ
秉燭之程G御湯殿H。三島社に詣で令め給ふ。御祈願已に成就。

ひと   みょうじん めいじょ  よ    のよし  ごしんこうの あま  とうごくない  てん  しんりょう よ たてまつ たま
偏へに明~の冥助に依る之由、御信仰之餘り當國内を點じ~領を寄せ奉り給ふ。

すなは ほうぜん をい  ごきしんじょう  か  せし  たま     そ  ことば  い
則ち寳前に於て御寄進状を書か令め給ふ。其の詞に云はく

    いずのくにみその  かわらだに  ながさき
   伊豆國御園I 河原谷J 長崎K

   はやばや しきち  みしまだいみょうじん めん たてまつ べ
   早々と敷地を三島大明神に免じ奉る可し

  みぎ  くだん みそのは  ごきとうあんどこうへい  ため  きしん   ところくだん  ごと
 右、件の御園者御祈禱安堵公平の爲に寄進する所件の如し

      じしょうよねんじうがつにじういちにち
   治承四年十月廿一日

  みなもとのあそん
   源朝臣

参考@佐竹は、常陸国(茨城県)久慈郡佐竹郷。
参考A安田三郎義定を以て守護と爲し遠江國に差し遣は被る。武田太郎信義を以て駿河國に置被る所也は、この時点で未だ信濃源氏の安田や甲斐源氏の武田党は頼朝の指揮下には入っていないようなので後に作られた話ではないか。反映説。
参考B
懷舊之涙を催すは、黄瀬川そばの静岡県駿東郡清水町八幡の八幡神社に頼朝義経対面石がそれらしく祀られている。
参考
C就中に、白河院の御宇は、後三年の役の時、新羅三郎義光は兄の苦戦を知り、朝廷に援護を頼みますが、経済的に瀕していた朝廷ではこれを清原一族の私闘として、援護も恩賞も蹴ったため、義光は兄の危難を救おうと官職を辞して東北へ向かうのです。そして勝利をしたので縁起になぞらえているいる訳です。この途中で足柄峠の笛の別れや鎌倉の八雲神社の勧請をするのです。
参考
D弦袋於殿上に解き置きは、勝手に辞職して行ってしまうけど、武器の一部である弓弦の袋を置いて行く事により、朝廷に対し敵対するつもりの無いことを表明している。弦袋は、通常6本を鎧の腹帯の右に吊るす。
参考E潜には、朝廷の許可を得ず、身勝手に等の意味があります。
参考F
襁褓は、むつきとも云い、@おむつA赤子を包む衣。産着。B生まれたばかりの子に着せる衣。の意味があるが、あえて〔ねんねこ〕と訳した。
参考G秉燭之程は、明かりを付ける時間、即ち夕暮れ。
参考H御湯殿は、いわゆる入浴ではなく、体を清める、みそぎの意味である。
参考I御園は、田方郡中郷御園。
参考J河原谷は、田方郡錦田村河原谷。
参考K長崎は、田方郡韮山村長崎。

現代語治承四年(1180)十月小廿一日庚子。頼朝様は、平左近少将惟盛を追って攻める為に、京都へ行くように武士達に命令しました。しかし、千葉介常胤、三浦介義澄、上総権介広常達が忠告をして云いました。常陸国の佐竹太郎義政と冠者秀義は数百の軍隊を擁していながら、未だに部下として参加してきていません。中でも、秀義の父の隆義は現在平家に従って京都にいます。その他にも奢れるものが大勢います。だから、関東の武士に攻め勝ったうえで、関西に行くべきですなんだとさ。この進言によって黄瀬川宿に移動し宿泊することにしました。安田三郎義定を守護として遠江国へ行かせ、武田太郎信義を駿河の守護として置かれました。

 今日、一人の若者が宿泊所の入口に立って、鎌倉殿にお会いしたいと云いました。土肥実平、土屋宗遠、岡崎義実は、怪しく思って取り次ぎません。時間が経って行くうちに、頼朝様がこの話を聞いて、年齢を考えると奥州の義経かも知れない。早く対面しようと云いました。そこで、土肥実平はその人を招き入れました。やっぱり義経でした。直ぐに御前へ進んでお互いに昔を語り、懐かしの涙を流すのでした。
中でも、白河上皇の時代の永保三年(1083)九月、先祖の陸奥守同朝臣義家が奥州で征夷将軍清原三郎武衡・清原四郎家衡と合戦をしていました。その時、弟の左兵衛尉新羅三郎義光は京都に居てこのことを聞き知り、朝廷警護の官職を辞職して、朝廷から授けられている弓弦の袋を投げ出して、朝廷には内緒で奥州へ出向き、兄の軍隊に参加したので、間も無く敵を滅ぼすことが出来ました。今日ここへ来たのは、その良い例に似ていると感動しておっしゃられたんだとさ。
この義経殿は、平治二年正月に、まだねんねこの中にいる内に父の死にあった後、継父の一条長成に育てられ出家をさせるため鞍馬山に預けられました。成人になった時には、とても父の仇討ちをしたいと思い込み、自分で元服をして、秀衡の力を頼って奥州へ出かけ、年月を重ねました。そこで秀衡は継信・忠信兄弟という勇士を付けてくれたんだとさ。

 夕暮れになって、湯で体を清めて、三島神社へお参りに行きました。願い事が叶ったので、これもひとえに神社のお陰だと信仰深くて、伊豆国のうちの庄園を三島神社の領地として寄附しました。直ぐに本殿の前へ行き寄進状を書かせました。その内容は。
 伊豆国の御園、河原谷、長崎
 三島神社に寄附いたします。
 これは、この御園はご祈祷の効果があり、天下が平和になったお礼に寄進するのはこのとおりです。
  治承四年十月二十一日
   源朝臣

治承四年(1180)十月小廿二日辛丑。飯田五郎家義持參平氏家人伊藤武者次郎首。申合戰次第并子息太郎討死之由。昨日依御神拝事。故不參之由云々。武衛被感仰家義云。本朝無雙之勇士也。於石橋乍相伴景親。戰景親奉遁訖。今又竭此勳功。末代不可有如此類者。諸人無異心云々。

読下し                  かのとうし  いいだのごろういえよし   へいしけにん いとうむしゃじろう   くび  じさん
治承四年(1180)十月小廿二日辛丑。飯田五郎家義@、平氏家人伊藤武者次郎の首を持參し、

かっせん  しだいなら     しそくたろう うちじにのよし  もう    さくじつ ごしんぱい こと  よっ ことさら ふさんの よし  うんぬん
合戰の次第并びに子息太郎討死之由を申す。昨日御~拜の事に依て故に不參之由と云々。

ぶえい かん おお られ  いえよし  い    ほんちょうむそうのゆうしなり   いしばし おい かげちか あいともな なが かげちか たたか のが たてまつ おはんぬ
武衛感じ仰せ被て家義に云はく本朝無雙之勇士也。石橋に於て景親に相伴ひ乍ら景親と戰い遁し奉り訖。

いままた  こ   くんこう  かっ   いま  かく たぐい ごと  もの あ べからず  しょにん いしんな  うんぬん
今又、此の勳功に竭す。未だ此の類の如き者有る不可。諸人異心無しと云々

参考@飯田は、神奈川県横浜市泉区上下飯田。

現代語治承四年(1180)十月小廿二日辛丑。飯田五郎家義は平家の家人の伊藤武者次郎の首を持って来て、合戦の内容や子の太郎の討ち死にの話を報告しました。昨日は頼朝様の参拝の日だったので遠慮したんだってさ。頼朝様は感心して飯田五郎家義に云うには、今の日本で一番の比べるものの無い勇士である。石橋山においては、大庭景親の軍の中にいながら私のために景親と戦って逃がしてくれた。今は又この手柄を立てた。いまだにこれほどの勇者に会ったことは無いと云いました。周りの皆も異論は無いとの事だってさ。

治承四年(1180)十月小廿三日壬寅。着于相摸國府給。始被行勳功賞。北條殿。及信義。義定。常胤。義澄。廣常。義盛。實平。盛長。宗遠。義實。親光。定綱。經高。盛綱。高綱。景光。遠景。景義。祐茂。行房。景員入道。實政。家秀。家義以下。或安堵本領。或令浴新恩。亦義澄爲三浦介。行平如元可爲下河邊庄司之由被仰云々。大庭三郎景親。遂以爲降人。參此所。即被召預上總權介廣常。長尾新五爲宗召預岡崎四郎義實。同新六定景被召預義澄。河村三郎義秀被収公河村郷。被預景義。又瀧口三郎經俊召放山内庄。被召預實平。此外石橋合戰餘黨雖有數輩。及刑法之者。僅十之一歟云々。

読下し             みずのえとら  さがみ こくふ に つ  たま    はじ   くんこう  しょう おこ  らる
治承四年(1180)十月小廿三日壬寅。相摸國府@于着き給ひ、始めて勳功の賞を行は被る。

ほうじょうどのおよ のぶよし よしさだ つねたね よしずみ ひろつね よしもり  さねひら もりなが  むねとお よしざね ちかみつ さだつな つねたか もりつな たかつな
北條殿及び信義、義定、常胤、義澄、廣常、義盛、實平、盛長、宗遠、義實、親光、定綱、經高、盛綱、高綱、

かげみつ とおかげ かげよし すけしげ ゆきふさ かげかずにゅうどう さねまさ いえひで いえよし いげ  ある    ほんりょう あんど     ある    しんおん よくせし
景光、遠景、景義、祐茂、行房、景員入道、實政、家秀、家義以下を或ひは本領を安堵し、或ひは新恩に浴令む。

また  よしずみ みうらのすけ な    ゆきひら  もと  ごと   しもこうべのしょうじ  な  べ   のよし  おお  らる    うんぬん
亦、義澄を三浦介と爲し、行平を元の如く下河邊庄司と爲す可し之由を仰せ被ると云々。

おおばのさぶろうかげちか つい  もっ  こうじん  な   こ  ところ まい    すなは かずさごんのすけひろつね め あずけ らる
大庭三郎景親は、遂に以て降人と爲し此の所に參る。即ち上總權介廣常に召し預け被る。

ながおのしんごためむね おかざきのしろうよしざね  め   あず   おな   しんろくさだかげ よしずみ  め   あず  らる
長尾新五爲宗は、岡崎四郎義實に召し預け、同じく新六定景は義澄に召し預け被る。

かわむらのさぶろうよしひで かわむらごう  しゅうこう さ   かげよし  あず  られ
河村三郎義秀は、河村郷Aを収公被れ、景義に預け被る。

また たきぐちのさぶろうつねとし やまのうちしょう  め  はな   さねひら  め   あず  らる
又、瀧口三郎經俊から山内庄Bを召し放ち、實平に召し預け被る。

こ   ほか いしばしがっせん よとうすうやから あ   いへど けいほう  およ のもの わず   じゅうのいちか うんぬん
此の外、石橋合戰の餘黨數輩有ると雖も刑法に及ぶ之者僅かに十之一歟と云々。

参考@相摸国府は、神奈川県中郡大磯町国府新宿内国府本郷。
参考A河村郷は、相摸国足柄上郡山北町。
参考B山内庄は、相摸の国最大の庄園で七十一村に及んだ。現在の鎌倉市北鎌倉、藤沢市大鋸、横浜市戸塚区泉区栄区瀬谷区と港南区の上下永谷を含み、八条院領である。

現代語治承四年(1180)十月小廿三日壬寅。頼朝様は相模国府に着きまして、初めて論功行賞を行いました。北条時政、武田信義、安田義定、千葉常胤、三浦義澄、上総広常、和田義盛、土肥実平、藤九郎盛長、土屋宗遠、岡崎義実、工藤親光、佐々木定綱、佐々木経高、佐々木盛綱、佐々木高綱、工藤景光、天野遠景、大庭景義、宇佐美祐茂、市川行房、加藤景員入道、宇佐美実政、大見家秀、飯田家義以下の人達に今までの領地を認めたり、又は新しい領地を与えたりしました。義澄を三浦介に任命し、行平を前のとおり下河辺庄司に任命すると言われましたとさ。大庭三郎景親はとうとう降参してこの場所へ投降して来ました。すぐに上総権介広常に預かり囚人として預けられました。長尾新五為宗は岡崎四郎義実に預けられ、長尾新六定景は三浦義澄の預かりとなりました。河村三郎義秀は河村郷を取上げられ、大庭景義に預けられました。又、山内首藤瀧口三郎経俊の山内庄を取り上げ、土肥実平に身柄を預けました。この他に石橋合戦の対立者は相当数ありますが、死刑にしたのはほんの十人中一人位だとの事だとさ。

治承四年(1180)十月小廿五日甲辰。入御松田御亭。此所。中村庄司奉仰。日來所加修理也。侍廿五ケ間萱葺屋也云々。

読下し            きのえたつ  まつだ  おんてい   はい  たま
治承四年(1180)十月小廿五日甲辰。松田の御亭@に入り御ふ。

こ  ところ なかむらのしょうじ おお たてまつ  ひごろ しゅうり  くは  ところなり  さむらいにじゅうごかけん かやぶきやなり うんぬん
此の所は中村庄司に仰せ奉り、日來修理を加へる所也。 侍廿五ケ間の萱葺屋也と云々。

参考@松田の御亭は、相摸国足柄上郡松田町で頼朝様の兄朝長(母は波多野右馬允義常の叔母?)の屋敷跡。

現代語治承四年(1180)十月小廿五日甲辰。松田の屋敷に入られました。ここは中村庄司宗平に言いつけて、予め修理をさせておいた所です。侍所は二十五間の茅葺屋根なんだって。

治承四年(1180)十月小廿六日乙巳。大庭平太景義囚人河村三郎義秀。可行斬罪之由。被仰含云々。今日。於固瀬河邊景親梟首。弟五郎景久者。志猶在平家之間。潜上洛云々。

読下し                  きのとみ  おおばのへいたかげよし めしうど かわむらのさぶろうよしひで ざんざい おこな べ のよし  おお ふく  らる    うんぬん
治承四年(1180)十月小廿六日乙巳。大庭平太景義の囚人、河村三郎義秀を斬罪に行う可し之由、仰せ含め被ると云々。

きょう   かたせがわ へん をい  かげちかきょうしゅ   おとうとごろうかげひさは こころざし なおへいけ あ  のかん  ひそか じょうらく  うんぬん
今日、固瀬河@邊に於て景親梟首さる。弟五郎景久者、志、猶平家に在る之間、潜に上洛すと云々。

参考@固瀬河は、現在の江ノ島そばの片瀬川。

現代語治承四年(1180)十月小廿六日乙巳。大庭平太景義が預かっている河村三郎義秀を死刑にするよう(頼朝様が)言いつけたんだとさ。今日、片瀬川で大庭三郎景親は首をはねられました。弟の俣野五郎景久は、平家に付く為に旨く抜け出して京都へ向かったんだとさ。

治承四年(1180)十月小廿七日丙午。進發常陸國給。是爲追討佐竹冠者秀義也。今日爲御衰日之由。人々雖傾申。去四月廿七日令旨到着。仍領掌東國給之間。不可及日次沙汰。於如此事者。可被用廿七日云々。

読下し                 ひのえうま  ひたちのくに  しんぱつ  たま
治承四年(1180)十月小廿七日丙午。常陸國へ進發し給ふ。

これ  さたけのかじゃひでよし ついとう   ため  きょう    ごすいにち たるのよし  ひとびとかたぶ もう   いへど   さんぬ しがつにじうしちにち  りょうじとうちゃく
是、佐竹冠者秀義を追討せん爲、今日は御衰日@爲之由、人々傾け申すと雖も、去る四月廿七日に令旨到着す。

よっ  とうごく  りょうしょう たま  のかん ひなみ  さた   およ べからず  かく  ごと  こと  をい  は にじうしちにち もち  らる  べ    うんぬん
仍て東國を領掌し給ふ之間日次の沙汰に及ぶ不可。此の如き事に於て者、廿七日を用い被る可しと云々。

参考@ご衰日は、外出したり、戦に出るには縁起がよくない日。

現代語治承四年(1180)十月小廿七日丙午。頼朝様は、常陸国へ向けて出発されました。これは、佐竹冠者秀義を征伐するためです。今日は外出には縁起が悪いご衰日なのでと、多くの人が反対しましたが、前の四月二十七日に令旨が到着して関東を掌握できたのだから、日の縁起にあわせる必要は無い。むしろ前と同じに二十七日を使うべきであるとの事だとさ。

十一月へ

吾妻鏡入門第一巻

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