吾妻鏡入門第二巻

治承五年(1181)正月大「七月十四日養和元年と爲す」

治承五年(1181)正月大一日戊申。卯尅。前武衛參鶴岳若宮給。不及日次沙汰。以朔旦被定當宮奉幤之日云々。三浦介義澄。畠山次郎重忠。大庭平太景義等率郎從。去半更以後警固辻々。御出儀御騎馬也。着御于礼殿。専光房良暹豫候此所。先神馬一疋引立寳前。宇佐美三郎祐茂。新田四郎忠常等引之。次法華經供養。御聽聞。事終還御之後。千葉介常胤献垸飯。相具三尺里魚。又上林下客不知其員云々。

読下し               つちのえさる  うのこく さきのぶえい つるがおかわかみや さん たま
治承五年(1181)正月大一日戊申。卯尅、前武衛、鶴岳若宮に參じ給ふ。

ひなみ   さた  およばず  ついたち もっ  とうぐう ほうへいたてまつ のひ  さだ  らる   うんぬん
日次の沙汰に及不、朔旦を以て當宮へ奉幤奉る之日と定め被ると云々。

みうらのすけよしずみ はたけやまのじろうしげただ おおばのへいたかげよしら ろうじゅう ひき   さんぬ はんそう  いご つじつじ  けいご
三浦介義澄、 畠山次郎重忠、 大庭平太景義等郎從を率ひ、去る半更@以後、辻々を警固す。

ぎょしゅつ ぎ  おんきば なり  れいでんにちゃくご せんこうぼうりょうせん あらかじ こ ところ そうら
御出の儀は御騎馬也。礼殿于着御、專光坊良暹は豫め此の所に候う。

ま   しんめいっぴき  ほうぜん  ひきた    うさみのさぶろうすけもち   にたんのしろうただつねらこれ ひ     つい  ほけきょう  くよう   ごちょうもん
先ず~馬一疋を寳前に引立て、宇佐美三郎祐茂、新田四郎忠常等之を引く。次で法華經の供養を御聽聞。

ことおわ    かんごののち ちばのすけつねたねおうばん けん    さんじゃく  こい   あいぐ    また じょうりん げきゃく  そ かず  しらず  うんぬん
事終りて還御之後、千葉介常胤垸飯を献ず。三尺の里魚を相具す。又、上林A下客B其の員を知不と云々。

参考@半更は、真夜中。
参考A
上林は、果物や魚鳥の肉の多い事。
参考B
下客は、酒のこと。

現代語治承五年(1181)正月大一日戊申。午前六時頃の卯刻に、頼朝様が八幡宮に行かれました。占い上では外出はいけない日でも気にしないで一日を初詣の日に決めました。
三浦介義澄、畠山次郎重忠、大庭平太景義達が部下を連れて前夜の真夜中から辻々(交差点)を警備していました。馬でお出ましになられました。
拝殿に到着すると、專光坊良暹は前もってここで控えていました。まず、馬一頭を寄附しました。宇佐美三郎祐茂、仁田四郎忠常が手綱を引いてきました。次に法華経の読経をお聞きになりました。
それが終って帰った後で、千葉介常胤が将軍への御馳走のふるまいを催しました。目の下三尺
(90cm)もある鯉を持ってきました。菓物と魚鳥や酒の量は数え切れない程でしたとさ。

治承五年(1181)正月大五日壬子。關東健士等廻南海。可入花洛之由風聞。仍平家分置家人等於所々海浦。其内。差遣伊豆江四郎。警固志摩國。而今日熊野山衆徒等競集于件國菜切嶋。襲攻江四郎之間。郎從多以被疵敗走。江四郎經太神宮御鎭坐神道山遁隱宇治岡之處。波多野小次郎忠綱〔義通二男〕同三郎義定〔義通孫〕等主從八騎。折節相逢于其所。爲抽忠於源家。遂合戰誅江四郎之子息二人云々。忠綱。義定者。相傳故波多野次郎義通遺跡。住于當國。右馬允義經有不義。於相摸國雖蒙誅罰。於此兩人者。依思舊好。所勵勳功也。

読下し               みずのえね  かんとう  けんじらなんかい  めぐ    からく   い  べ   のよし ふうぶん
治承五年(1181)正月大五日壬子。關東の健士等南海を廻り、花落へ入る可し之由風聞す。

よっ  へいけ   けにんらを しょしょ  かいうら  わか  お     そ   うち いずのえしろう   さ   つか    しまのくに  けいご
仍て平家は家人等於所々の海浦に分ち置く。其の内伊豆江四郎を差し遣はし志摩國を警固す。

しか    きょう くまのさん  しゅうとら くだん くに なきりじま に きそ  あつ      えしろう   おそ  せ     のかん
而るに今日熊野山が衆徒等件の國菜切嶋@于競い集まり、江四郎を襲ひ攻むる之間、

ろうじゅうおお もっ きず  こうむ はいそう    えしろう    だいじんぐう ごちんざ  しんどうさん へ   うじのおか  のが  かく    のところ
郎從多く以て疵を被り敗走す。江四郎は太神宮御鎮坐の~道山を經て宇治岡に遁れ隱るる之處、

はだののこじろうただつな   〔よしみち じなん〕  おな    さぶろうよしさだ〔よしみち まご〕 ら しゅじゅうはっきおりふし そ ところに あいあ
波多野小次郎忠綱〔義通が二男〕同じき三郎義定〔義通が孫〕等主從八騎折節其の所于相逢ひ、

ちゅうを げんけ  ぬき     ため  かっせん と    えしろう の しそく ふたり   ちゅう    うんぬん
忠於源家に抽んずが爲、合戰を遂げ江四郎之子息二人を誅すと云々。

ただつな よしさだは  こはだののじろうよしみち  ゆいせき  そうでん    とうごくに す
忠綱、義定者故波多野次郎義通が遺跡を相傳し、當國于住む。

うまのじょうよしつね   ふぎ あ    さがみのくに をい  ちゅうばつをこうむ いへど   こ  りょうにんはきゅうこう  おも    よっ  くんこう  はげ   ところなり
右馬允義經は不義有りて相摸國に於て誅罸於蒙ると雖も、此の兩人者舊好を思うに依て勳功を勵ます所也。

参考@菜切島は、志摩国、三重県志摩市大王町波切。

現代語治承五年(1181)正月大五日壬子。関東の武士団が太平洋を回って京都へ攻め込んでくると噂が流れました。
そこで平家は、家来達をアチコチの港に分けて駐屯させました。そのうちの伊豆江四郎を志摩国へ差し向けて警備させました。
それなのに今日熊野山の武者僧達が志摩国の菜切島へ争うように集まって江四郎を襲撃したので、その家来達の多くは怪我をさせられて逃げました。
江四郎は伊勢神宮のある神道山を通って宇治岡に逃げて隠れていましたが、波多野小次郎忠綱〔波多野義通の次男〕同族の三郎義定〔義通の孫〕達、主従八騎が丁度そこで出会ったので、源氏への忠誠の手柄を立てるため合戦をしかけて江四郎の息子二人を殺してしまったんだとさ。
忠綱と義定は故波多野次郎義通から相続を受けてこの国に住んでいます。波多野右馬允義常は頼朝様に逆らって相模国で責め滅ぼされましたが、この二人は昔からの縁を思っているので、手柄を立てたのです。

治承五年(1181)正月大六日癸丑。工藤庄司景光生取平井紀六。是去年八月早河合戰之時。害北條三郎主之者也。而武衛入御鎌倉之後。紀六逐電。不知行方之間。仰駿河伊豆相摸等之輩。被搜求之處。於相摸國蓑毛邊。景光獲之。先相具參北條殿。即被申事由於武衛。仍被召預義盛訖。但無左右不可梟首之旨被仰付之。糺問之處。於所犯者令承伏云々。

読下し          みずのとうし  くどうのしょうじかげみつ ひらいのきろく   い   ど
治承五年(1181)正月大六日癸丑。工藤庄司景光、平井紀六@を生け取る。

これ さんぬ としはちがつ はやかわかっせん のとき ほうじょうのさぶろうぬし  がい  のものなり
是、去る年八月の早河合戰A之時、北條三郎主Bを害する之者也。

しか    ぶえい  かまくらにゅうごののち  きろく ちくてん    ゆくえしらずのかん   するが   いず   さがみなどのやから おお   さが   もと  らる  のところ
而るに武衛、鎌倉入御之後、紀六逐電し、行方知不之間、駿河、伊豆、相摸等之輩に仰せて搜し求め被る之處、

さがみのくにみのげ へん をい かげみつこれ え     ま   あいぐ    ほうじょうどの  さん   すなは こと  よしを ぶえい  もうさる
相摸國蓑毛C邊に於て景光之を獲る。先ず相具して北條殿に參じ、即ち事の由於武衛に申被る。

よっ  よしもり   め  あず  られおはんぬ ただ   とこう な   きょうしゅ べからずのむね  これ  おお  つ   られ
仍て義盛に召し預けD被訖。但し、左右無く、梟首す不可之旨、之を仰せ付け被る。

きゅうもんのところ しょはん をい  はしょうふくせし   うんぬん
糺問之處、所犯に於て者承伏令むと云々。

参考@平井紀六は、静岡県高田郡函南町平井。大和朝廷時代の紀氏。
参考A早河合戰は、石橋山合戦。
参考
B北條三郎主は、時政の子宗時、義時・政子の兄。
参考C相摸國蓑毛は、秦野市蓑毛、波多野城奥、やびつ峠への途中、丈六の大日如来及び五知如来有り。
参考D
召し預けは、罰が決まるまで同族、親族、姻族等に預けられ、自己謹慎します。これを「預かり囚人(あずかりめしうど)」と云う。これがそのまま主従関係になる場合があります。三浦に預けられた長尾の例がある。

現代語治承五年(1181)正月大六日癸丑。工藤庄司景光が平井紀六を生け捕りました。
紀六は去年八月石橋山合戦の時に北条三郎宗時を殺害した者です。それなのに頼朝様が鎌倉へお入りになった後、紀六は逃げ隠れて行方不明になっていましたが、駿河と伊豆の武士たちに言いつけて探させた所、相模国蓑毛の辺りで工藤庄司景光が捕まえました。
先ずこれを連れて北条四郎時政の処へ参り、直ぐに事の次第を頼朝様に云ってもらいました。そこで和田太郎義盛に囚人として預けられました。
ただし、簡単に死刑にしないように言いつけられました。罪を問いただした処、これを認め承知しましたとさ。

治承五年(1181)正月大十一日戊午。梶原平三景時依仰初參御前。去年窮冬之比。實平相具所參也。雖不携文筆功言語之士也。専相叶賢慮云々。

読下し           つちのえうま  かじわらのへいざかげとき おお  よっ  ごぜん  ういざん
治承五年(1181)正月大十一日戊午。梶原平三景時仰せに依て御前に初參す。

さぬ  としきゅうとう のころ  さねひらあいぐ まい ところなり  ぶんぴつ かかわらず いへど げんごたくみ    の しなり  もっぱ けんりょ  あいかな   うんぬん
去る年窮冬@之比、實平相具し參る所也。文筆に携不と雖も、言語巧なるA之士也。專ら賢慮に相叶うと云々。

参考@窮冬は、旧暦では10・11・12月が冬なので冬が窮まるで十二月を洒落て云っている。
参考A文筆に携不と雖も、言語巧なるは、文盲の意味ではなく公文書(漢文)には慣れてはいないが、言葉での表現が上手だったと解釈すべき。

現代語治承五年(1181)正月大十一日戊午。梶原平三景時が頼朝様の命を受けて御前に初めて参りました。
昨年の冬に土肥次郎実平が連れてきた者です。文章は余り達者ではなくても、話術に長けているので、頼朝様のお気に入りなんだってさ。

治承五年(1181)正月大十八日乙丑。去年十二月廿八日。南都東大寺。興福寺已下堂塔坊舎。悉以爲平家燒失。僅勅封倉寺封倉等免此災。火焔及大佛殿之間。不堪其□。周章投身。燒死者三人。兩寺之間。不意燒死者百餘人之由。今日風聞于關東。是相摸國毛利庄住人僧印景之説也。印景爲學道。此兩三年在南都。依彼滅亡歸國云々。

読下し                  きのとうし きょねんじうにがつにじうはちにち なんと とうだいじ  こうふくじいか どうしゃぼうしゃ
治承五年(1181)正月大十八日乙丑。去年十二月廿八日、南都の東大寺、興n屁゚下の堂塔坊舎、

ことごと もっ へいけ  ため  しょうしつ   わずか  ちょくふうぐら   じふうぐら   こ  わざわい まぬ
悉く以て平家の爲に燒失す。僅かに勅封倉@、寺封倉Aが此の災を免かる。

かえん  だいぶつでん およ  のかん  そ  しゅうしょう たまらず  み  な   やけし    ものさんにん
火焰が大佛殿に及ぶ之間、其の周章に堪不、身を投げ燒死ぬる者三人。

りょうじのかん   ふい  しょうししゃ  ひゃくよにんのよし   きょう かんとう  ふうぶん
兩寺之間、不意の燒死者は百餘人之由、今日關東に風聞す。

これ さがみのくにもうりのしょう  じゅうにん そういんけいのせつなり  いんけい がくどう ため こ  りょうさんねん なんと  あ     か  めつぼう  よっ  きこく   うんぬん
是、相摸國毛利庄Bの住人、僧印景之説也。印景は學道の爲に此の兩三年南都に在り。彼の滅亡に依て歸國すと云々。

参考@勅封倉は、正倉院の北倉と中倉らしく、A寺封倉は、南倉らしい。
参考B毛利庄(もりのしょう)は、現在の厚木市、愛川町、城山町の一部。安芸の毛利氏の名字の地。

現代語治承五年(1181)正月大十八日乙丑。去年の十二月二十八日に、奈良の東大寺や興福寺の伽藍も僧房も全て平家のために焼けてしまいました。わずかに正倉院と寺宝倉庫だけが焼け残りました。
炎が大仏殿に回って来た時に、その災いの悲しみに思い余って火炎の中へ飛び込んだものが三人です。二つの寺で逃げ遅れて焼け死んだ者は百人を越えるとの事、今日関東に聞こえました。
これは、相模国毛利庄の僧印景の話です。彼は仏教勉学のためにこの二、三年奈良にいましたが、その焼失によって国へ帰ってきたとの事です。

治承五年(1181)正月大廿一日戊辰。熊野山悪僧等。去五日以後乱入伊勢志摩兩國。合戰及度々。至于十九日。浦七箇所皆悉追捕民屋。平家々人爲彼或捨要害之地逃亡。或伏誅又被疵之間。弥乘勝。今日燒拂二見浦人家。攻到于四瀬河邊之處。平氏一族關出羽守信兼相具姪伊藤次已下軍兵。相逢于船江邊防戰。悪僧張本戒光〔字大頭八郎房〕中信兼之箭。仍衆徒引退于二見浦。搦取下女〔齢三四十者〕并少童〔十四五者〕等。以上三十余人令同船。指熊野浦解纜云々。尋此濫觴。南海道者。當時平相國禪門虜掠之地也。而彼山依奉祈關東繁榮。爲亡平氏方人。有此企云々。平相國禪門驕奢之餘。蔑如朝政。忽諸神威。破滅佛法。悩乱人庶。近則放入使者於伊勢國神三郡。〔大神宮御鎭坐〕充課兵糧米。追捕民烟。天照太神鎭坐以降千百餘歳。未有如此例云々。凡此兩三年。彼禪門及子葉孫枝可敗北之由。都鄙貴賎之間。皆蒙夢想。其旨趣雖難分。其料簡之所覃。只件氏族事也。

読下し           つちのえたつ  くまのさん   あくそうら さんぬ いつか いご   いせ  しま  りょうごく  らんにゅう  かっせん たびたび およ
治承五年(1181)正月大廿一日戊辰。熊野山@の惡僧等去る五日以後、伊勢、志摩兩國に乱入し、合戰度々に及ぶ。

じうくにち に いた     うらななかしょみなことご みんや ついぶ
十九日于至りて、浦七箇所皆悉く民屋を追捕すA

へいけけにん  か   ため  ある    ようがいのち   す   とうぼう    ある   ちゅう  ふく
平家々人B、彼の爲に或ひは要害之地を捨て逃亡し、或ひは誅に伏す。

また  きず  こうむ のかん ややかち じょう     きょう ふたみがうら  じんか  や   はら  しせがわ へんに せ   いた  のところ
又、疵を被る之間、弥勝に乘じて、今日二見浦Cの人家を燒き拂い四瀬河D邊于攻め到る之處、

へいしいちぞく せきのでわのかみのぶかね  おいいとうじ いか  ぐんぺい  あいぐ    ふなえ へんに あいあ  ぼうせん
平氏一族の關出羽守信兼E、姪伊藤次已下の軍兵を相具し、船江F邊于相逢い防戰す。

あくそうちょうほんかいこう〔あざ おおあたまのはちろうぼう〕のぶかねのや あた  よっ  しゅうとふたみがうらに ひ  の
惡僧張本戒光〔字を大頭八郎房〕信兼之箭に中る。仍て衆徒二見浦于引き退き、

げじょ 〔よわい さんしじゅうのもの〕 なら   しょうどう 〔じゅうしご  もの〕 ら いじょうさんじゅうよにん  から  と   どうせんせし   くまのうら     さ     ともづな と   うんぬん
下女〔齡三四十の者〕并びに少童〔十四五の者〕等以上三十余人を搦め取り同船令めG、熊野浦を指して纜を解くと云々。

こ  らんしょう たずね   なんかいどうは  とうじへいしょうこくぜんもんりょりゃくのちなり
此の濫觴を尋るに南海道者、當時平相國禪門虜掠之地也。

しか    か  やま  かんとう  はんえい いの たてまつ  よっ    へいしかたうど  ほろ     ため   こ  くわだ あ   うんぬん
而るに彼の山は關東の繁榮を祈り奉るに依て、平氏方人を亡ぼさん爲、此の企て有りと云々。

へいしょうこくぜんもん きょうしゃのあま ちょうせい べつじょ   しんい  こっしょ    ぶっぽう  はめつ    じんしょ  のうらん
平相國禪門、驕奢之餘り朝政を蔑如し、~威を忽緒し、佛法を破滅し、人庶を惱乱す。

ちか   すなは  ししゃを いせのくに  かみさんぐん 〔だいじんぐう ごちんざ〕   はな   い    ひょうろうまい  あ   か    みんいん  ついぶ
近くは則ち使者於伊勢國、~三郡H〔大~宮御鎭坐〕に放ち入れ、兵粮米を充て課し、民烟を追捕すI

あまてらすおおみかみちんざいこう せんひゃくよさい いま かく ごと れい あ      うんぬん
天照太~鎭坐以降、千百餘歳、未だ此の如き例有らずと云々。

およ  こ  りょうさんねん  か  ぜんもんおよ しよう そんし はいぼく べ   のよし   とひ きせんのかん   みなむそう こうむ
凡そ此の兩三年、彼の禪門及び子葉孫枝敗北す可き之由、郡鄙貴賤之間J、皆夢想を蒙る。

そ   ししゅ まちまち       いへど   そ  りょうけんのおよ ところ  ただくだん うじぞく  ことなり
其の旨趣区分なりすと雖も、其の料簡之覃ぶ所、只件の氏族の事也。

参考@熊野山は、主として本宮の熊野権現を指すが、本宮は平家派で、新宮が源氏派なので、ここでは新宮だと思われる。
参考
A民屋を追捕すは、略奪暴行放火。
参考B
平家々人は、伊勢平氏。
参考C二見浦は、三重県伊勢市二見町。
参考D
四瀬河は、固瀬川で五十鈴川支流。
参考E
關出羽守信兼は、鈴鹿の関で、息子が山木判官兼隆。平氏一族。
参考F船江は、三重県伊勢市船江で元は港のこと。
参考G
搦め取り同船令めは、労働力として徴発する。
参考H
~三郡は、「かみさんぐん」とも「じんさんぐん」とも読み、伊勢神社のお膝元の多気郡度合郡飯野郡を指し膝下荘園のこと。
参考I
民烟を追捕すは、一般庶民の竈の火を消す、一般庶民が生活できないように男手を労働力又は戦力として徴発する。
参考J
郡鄙貴賤之間は、都会も田舎も、身分の高いのも低いのも。
参考
律令制度で徴収される租は3%。庸は、1年に10日間都で働かせる。雑徭は国衙で30日間働く。

現代語治承五年(1181)正月大廿一日戊辰。熊野の悪僧と呼ばれる武者僧達は、この五日以後に伊勢国と志摩国へ乱入して合戦する事が何度もありました。十九日になると七箇所の港で片っ端から民家を襲いました。
平家の家来はこのために砦を棄てて逃げたり、滅ぼされたりしました。悪僧達は傷つけられはしましたが、勝っているのでその勢いのまま、二見ケ浦の人家を焼き払って四瀬川の辺りまで攻めて来た処、平氏一族の関出羽守信兼が甥の伊藤次達の軍隊を引き連れてるのに船江辺で出会い、合戦となりました。
悪僧達の大将の戒光〔通称を大頭の八郎坊と云います〕は信兼の矢に当たりました。それで武者僧は二見ケ浦に引き下がり、下女〔三、四十歳位〕と若い下僕〔十四、五歳〕等三十人を捕まえて一緒に船に乗せて、熊野の港を目差して出港したんだとさ。
この騒動の原因は、南海道沿い(紀伊半島を回り四国の南を通る)は、平相国禅門清盛が掌握している領地だからです。それなのに熊野山は関東の頼朝様の繁栄を祈り願っているので、平家を滅ぼそうとしてこの作戦を立てたんだとさ。
平相国禅門清盛は権勢を奢れすぎて、朝廷を無視して、神様の威光をおろそかにして、仏教を滅ぼし、人民を惑わしている。最近の事では、使いを伊勢神宮の領地神三郡に派遣して、領地を没収して兵糧米を出すよう義務付けて、しかも戦いに民衆を徴発しました。天照大神が鎮座して以降千百年以上、未だかつてこのようなことは有りませんでしたとさ。
この二、三年あの平相国禅門清盛とその一家が負けるように都や田舎の高貴な人も貧しい人も、皆そう夢見ています。その方法は色々に思うでしょうが、その目的の相手は、ひとえにその一族の事なのです。

治承五年(1181)正月大廿三日庚午。於武藏國長尾寺。并求明寺等者。以僧長榮。可致沙汰之旨被定下。是源家累代祈願所也。

読下し                 のえうま  むさしのくに ながおじ なら   ぐみょうじ ら をい  は
治承五年(1181)正月大廿三日庚午。武藏國長尾寺@并びに求明寺A等に於て者、

そうちょうえい もっ  さた いた  べ   のむね  さだ  くだ  らる    これげんけるいだい きがんしょ なり
僧長榮を以て沙汰致す可し之旨、定め下さ被る。是源家累代の祈願所B也。

参考@長尾寺は、神奈川県川崎市多摩区長尾三丁目の妙楽寺がかつての源氏祈願寺の長尾山威光寺跡と云われる。
参考A
求明寺は、神奈川県横浜市南区弘明寺町の弘明寺観音(京急弘明寺下車すぐ)で、尊像は平安中期と推測される鉈彫り観音。
参考B
源家累代の祈願所は、源家が僧侶の任命権を持っている。

現代語治承五年(1181)正月大廿三日庚午。武蔵国の長尾寺と弘明寺は僧の長栄が経営するように頼朝様が定められました。ここは源氏の繁栄を昔から祈るところです。

二月へ

吾妻鏡入門第二巻

inserted by FC2 system inserted by FC2 system inserted by FC2 system