吾妻鏡入門第二巻

治承五年(1181)四月大「七月十四日養和元年と爲す」

治承五年(1181)四月大一日丙午。前武衛參鶴岳給。而廟庭有荊棘。瑞籬藏草露。仍被掃除。大庭平太景能參上。終日有此沙汰云々。

読下し                ひのえうま  さきのぶえい つるがおか さん たま   しか   びょうてい  けいし あ
治承五年(1181)四月大一日丙午。前武衛、鶴岳に參じ給ふ。而るに廟庭に荊棘有り。

みずがきくさつゆ かく    よっ  そうじさる     おおばのへいたかげよし さんじょう  ひねもす こ    さた  あ    うんぬん
瑞籬草露に藏る。仍て掃除被る。大庭平太景能@參上して、終日此の沙汰有りと云々。

参考@大庭平太景義は、大庭の御厨を拓いた鎌倉權五郎の子孫だが、弟の大庭三郎景親が総領を継ぎ、彼は懐島(茅ヶ崎市柳島)に領地を持っていた。しかし、弟が頼朝に敵対したので滅ぼされ、彼が総領になった。

現代語治承五年(1181)四月大一日丙午。頼朝様は鶴岡八幡宮に参りました。そしたら宮の庭に茨が繁っていました。瑞垣も草が絡みついています。そこで掃除をさせました。大庭平太景義が来て一日中この作業をさせましたそうな。

治承五年(1181)四月大七日壬子。御家人等中。撰殊逹弓箭之者亦無御隔心之輩。毎夜可候于御寢所之近邊之由被定
 江間四郎    下河邊庄司行平   結城七郎朝光   和田次郎義茂
 梶原源太景季  宇佐美平次實政   榛谷四郎重朝   葛西三郎C重
 三浦十郎義連  千葉太郎胤正    八田太郎知重

読下し                みずのえね  ごけにんら   なか  こと  きゅうせん たっ    のもの
治承五年(1181)四月大七日壬子。御家人等の中、殊に弓箭に達する之者、

また  ごかくしん な   のやから えら   まいよ ごしんじょのきんぺんに そうら べ   のよし  さだ   らる    うんぬん
亦、御隔心無き之輩を撰び、毎夜御寢所之近邊于候ふ可し之由、定め被ると云々。

   えまのしろう         しもこうべのしょうじゆきひら   ゆうきのしちろうともみつ   わだのじろうよしもち
 江間四郎@    下河邊庄司行平A  結城七郎朝光B  和田次郎義茂C

  かじわらのげんたかげすえ うさみのへいじさねまさ      はんがやつのしろうしげとも かさいのさぶろうきよしげ
 梶原源太景季D  宇佐美平次實政E  榛谷四郎重朝F  葛西三郎C重G

  みうらのじゅううろうよしつら  ちばのたろうたねまさ       はったのたろうともしげ
 三浦十郎義連H  千葉太郎胤正I   八田太郎知重J

参考@江間四郎は、北條四郎義時でこの頃は伊豆の江間郷(北条の沼津側)を貰って独立しているらしい。但し、彼の武勇伝は何処にも出てこない。また、○○をして感状をもらった人の名簿などに最初に書かれているので、吾妻鏡編纂時に書き加えられた可能性がある。
参考A下河邊庄司行平は、当時一番の弓の名人。
参考B結城七郎朝光は、初めて結城で登場、今までは小山だったが、実はこの時点では結城の所領はもらっていない。寿永二年の小山合戰の際に頼朝への勝利進言の褒美にもらう。
参考C和田次郎義茂は、三浦一族。和田義盛の弟で、後に越後国奥山荘(新潟県北蒲原郡)をもらい高井と名乗り、その子孫が紫雲寺町・中条町・黒川村の三家に分家する。
参考D梶原源太景季は、鎌倉党。梶原平三景時の総領だが、なぜか源太なのか分からない。
参考E宇佐美平次實政は、宇佐美は伊豆の宇佐美。工藤と同族。但し彼は伊東市大見なので大見でも出演する。
参考F榛谷四郎重朝は、秩父党。小山田有重の子で稲毛重成の弟。榛谷御厨は保土ヶ谷区神戸町から旭区二俣川にかけた大きな荘園だった。榛谷の名はわずかに半谷として旭区さちが丘にバス停名だけが残っている。当時二番目の弓の名人。
参考G葛西三郎C重は、秩父一族。葛飾の西なので葛西。葛飾区と市川市。
参考H三浦十郎義連は、三浦一族。三浦介義明の十男。後に佐原をもらい、佐原氏を名乗るが本家が北条氏に敗滅すると三浦介を受け、戦国初期の導寸まで続く。
参考I千葉太郎胤正は、常胤の子で総領。
参考J八田太郎知重は、知家の子で総領。

現代語治承五年(1181)四月大七日壬子。御家人達の中で、特に弓の芸に優れている者で、それに頼朝様に忠実で裏切りのない人たちを選んで、毎晩交代で寝所の警護をすることに決められましたとの事です。
 江間四郎    下河邊庄司行平   結城七郎朝光   和田次郎義茂
 梶原源太景季  宇佐美平次實政   榛谷四郎重朝   葛西三郎C重
 三浦十郎義連  千葉太郎胤正    八田太郎知重

治承五年(1181)四月大十九日甲子。於腰越濱邊。梟首囚人平井紀六。是射北條三郎主。罪科不輕之間。日來殊所被禁置也。

読下し                きのえね  こしごえのはま へん をい めしうどひらいきろく   きょうしゅ
治承五年(1181)四月大十九日甲子。腰越濱@邊に於て囚人平井紀六Aを梟首す。

これ ほうじょうさぶろうぬし  い  ざいか かろからずのかん  ひごろこと  きん  お   らる ところなり
是、北條三郎主を射る罪科は不輕之間。日來殊に禁じ置か被る所也。

参考@腰越濱は、鎌倉市腰越で江ノ島の付け根。
参考A
平井紀六は、静岡県田方郡函南町平井、函南町役場周辺。平井氏と関わりがあると思われる平井が後に御家人として出演する。現在でも平井性は小袋谷におられる。

現代語治承五年(1181)四月大十九日甲子。腰越の浜で平井紀六をさらし首にしました。この人は石橋合戦で義時の兄の宗時を射殺した罪は重いので、普段から厳重に捕らえられていたのです。

治承五年(1181)四月大廿日乙丑。小山田三郎重成。聊背御意之間。成怖畏篭居。是以武藏國多西郡内吉富。并一宮蓮光寺等。注加所領之内。去年東國御家人安堵本領之時。同賜御下文訖。而爲平太弘貞領所之旨。捧申状之間。糺明之處無相違。仍所被付弘貞也。

読下し                 きのとうし  おやまだのさぶろうしげなり  いささ ぎょい  そむ  のかん  ふい   な   ろうきょ
治承五年(1181)四月大廿日乙丑。小山田三郎重成@、聊か御意に背く之間、怖畏を成し籠居す。

これ むさしのくにたさきぐんないよしとみ  なら いちのみや  れんこうじ ら もっ  しょりょうの うち  ちゅう くは
是、武藏國多西郡内吉富A 并びに一宮B・蓮光寺C等を以て所領之内に注し加へD

きょねん  とうごく ごけにん  ほんりょうあんど    のとき  おな   おんくだしぶみ たま   おはんぬ
去年、東國御家人に本領安堵する之時、同じく御下文を賜はり訖。

しか    へいたひろさだ  りょうしょ  な   のむね じょう  ささ  もう   のかん きゅうめい   のところ  そうい な    よっ  ひろさだ ふ   らる  ところなり
而るに平太弘貞の領所を爲す之旨の状を捧げ申す之間、糺明する之處、相違無し。仍て弘貞に付せ被る所也。

参考@小山田三郎重成は、後に政子の妹を嫁にもらい、その持参金として稲毛荘をもらい、稲毛と名乗る。
参考A
多西郡内吉富、多摩市関戸から日野市百草のあたりらしいが、東京都あきる野市草花に多西郵便局と多西小学校あり。多西郡は多摩の西。真慈悲寺のあった百草園は吉富郷内らしい。
参考B
一宮は、東京都多摩市一ノ宮の小野神社。
参考C
蓮光寺は、東京都多摩市連光寺で、氷川神社領。地名だけ残っている。別当は範頼。
参考D注し加へは、書き足して、

現代語治承五年(1181)四月大二十日乙丑。小山田三郎重成は、頼朝様の意向に従わなかったので、恐れをなして蟄居しています。これは、武蔵国多西郡内吉富と一宮・蓮光寺などを所領として文書に書き加えて、去年関東の御家人達が本領安堵の書状を受けたときに命令書を戴きました。ところが、平太弘貞が自分の領地だと文書を提出して訴えたので、よく調べ究明したところ間違いなかった。それなので弘貞に与えられました。

解説重成が所領安堵状に弘貞の領地を勝手に書き加えた事が頼朝の機嫌を損ねた。

治承五年(1181)四月大卅日乙亥。遠江國淺羽庄司宗信。依安田三郎義定之訴。雖被収公所領。謝申之旨不等閑之間。安田亦執申之。仍且返給彼庄内柴村并田所軄畢。是子息郎從有數。尤可爲御要人之故云々。

読下し                きのとい  とおとうみのくに あさばのしょうじむねのぶ やすだのさぶろうよしさだのうった よっ
治承五年(1181)四月大卅日乙亥。遠江國の淺羽庄司宗信は安田三郎義定之訴へに依て、

しょりょう しゅうこうされ   いへど   しゃ  もう  のむね  なおざり  せずのかん やすだまたこれ  しつ  もう
所領を収公被ると雖も、謝し申す之旨、等閑に不之間、安田亦之を執し申す。

よっ  かつ   か  しょうないしばむらなら   たどころしき  かえ  たま  おはんぬ これ  しそくろうじゅうかずあ   もっと  ごようにん た  べ  のゆえ  うんぬん
仍て且うは彼の庄内柴村并びに田所職@を返し給はり畢。是、子息郎從數有り。尤も御要人爲る可し之故と云々。

参考@田所職は、国司の庁に属し、田畑のことを取り扱った役所なので、国衙の役人で大豪族。

現代語治承五年(1181)四月大卅日乙亥。遠江国の浅羽宗信は安田三郎義定に訴えられて、領地を取り上げられましたけれど、なおざりにせずに熱心に弁解して謝ってきたと、安田義定が取り成しました。だもんで、その荘園内の柴村と国衙の田所職を当人に返し与えました。彼は子供達や部下が沢山有り、かなり鎌倉側にとって有力な武士であるからなんだとさ。(平家方に寝返りでもされたひには面倒だから)

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