吾妻鏡入門第二巻

治承五年(1181)六月小「七月十四日養和元年と爲す」

治承五年(1181)六月小十三日戊午。新所御移徙也。千葉介常胤献垸飯以下云々。

読下し           つちのえうま  しんしょ    ごいし なり  ちばのすけつねたね おうばん  いげ  けん   うんぬん
治承五年(1181)六月小十三日戊午。新所への御移徙也。千葉介常胤 垸飯@以下を献ずと云々。

参考@垸飯は部下が将軍様へご馳走を用意することで、正月などは政権立場の高い順に振舞う。これが後に「大盤振る舞い」の語源となる。

現代語治承五年(1181)六月小十三日戊午。新築された建物への引越し式です。千葉介常胤がご馳走などを用意し献上しましたとさ。

治承五年(1181)六月小十九日甲子。武衛爲納凉逍遥。渡御三浦。彼司馬一族等兼日有結搆之儀。殊申案内云々。陸奥冠者以下候御共。上総權介廣常者。依兼日仰。參會于佐賀岡濱。郎從五十余人悉下馬。各平伏沙上。廣常安轡而敬屈。于時三浦十郎義連令候御駕之前。示可下馬之由。廣常云。公私共三代之間。未成其礼者。爾後令到于故義明舊跡給。義澄搆盃酒飯。殊盡美。酒宴之際。上下沈醉。催其興之處。岡崎四郎義實所望武衛御水干。則賜之。依仰乍候座着用之。廣常頗嫉之。申云。此美服者。如廣常可拝領者也。被賞義實樣老者之條存外云々。義實嗔云。廣常雖思有功之由。難比義實最初之忠。更不可有對揚之存念云々。其間互及過言。忽欲企鬪諍。武衛敢不被發御詞。無左右難宥兩方之故歟。爰義連奔來。叱義實云。依入御。義澄勵經營。此時爭可好濫吹乎。若老狂之所致歟。廣常之躰又不叶物儀。有所存者。可期後日。今妨御前遊宴。太無所據之由。再往加制止。仍各罷言無爲也。義連相叶御意。併由斯事云々。

読下し            きのえね   ぶえい のうりょうしょうよう ため  みうら  とぎょ
治承五年(1181)六月小十九日甲子。武衛、納涼逍遙の爲に三浦に渡御す。

 か  しば  いちぞくら  けんじつ けっこう の ぎ あ      こと  あない もう    うんぬん  むつのかじゃ  いげ おんとも  そうら
彼の司馬@一族等は兼日A結搆B之儀有りて、殊に案内C申すと云々。陸奥冠者D以下御共に候ふ。

かずさのごんのすけ ひろつねは けんじつ おお よっ    さがおかはま に さんかい   ろうじゅうごじゅうよにん ことごと げば おのおのさじょう へいふく
上総權介E廣常者、兼日の仰せに依て、佐賀岡濱F于參會す。郎從五十余人 悉く下馬し各沙上に平伏す。

ひろつねくつわ やす  てけいくつ    ときに みうらのじゅうろうよしつら おんがのまえ そうら せし     げば すべ  のよし  しめ
廣常轡を安んじ而敬屈す。時于三浦十郎義連、御駕之前に候は令め、下馬可し之由を示す。

ひろつね い     こうしともさんだいのかんいま  そのれい なさ   てへ    そのご  こよしあききゅうせき にいた せし たま
廣常云はく、公私共三代之間未だ其礼を成ずG者り。伱後、故義明舊跡H于到ら令め給ふ。

よしずみ はいしゅおうばん かま    こと  び  つく
義澄、盃酒垸飯を搆へ、殊に美を盡す。

しゅえんのさい じょうげちんすい そ きょう もよお のところ  おかざきのしろうよしざね ぶえい ごすいかん  しょもう
酒宴之際上下沈醉、其の興を催す之處、岡崎四郎義實、武衛の御水干を所望す。

すなは これ たま     おお    よっ  ざ   そうら なが  これ ちゃくよう
則ち之を賜はる。仰せに依て座に候ひ乍ら之を着用す。

ひろつね すこぶ これ ねた   もう     い      かく  びふくは ひろつね ごと   はいりょうすべ ものなり
廣常、頗る之を嫉みて申して云はく、此の美服者廣常が如きが拜領可き者也。

よしざね  よう  ろうじゃ  しょうせら のじょうぞんがい うんぬん
義實の樣な老者に賞被る之條存外と云々。

よしざね いか  い       ひろつねゆうこうのよし  おも   いへど    よしざねさいしょのちゅう くら  がた   さら  たいようのぞんねんあ べからず  うんぬん
義實嗔りて云はく、廣常有功之由を思ふと雖も、義實最初之忠に比べ難し、更に對揚之存念有る不可と云々。

そ  かん たがい かごん およ   たちま とうじょう くはだ     ほっ     ぶえいあえ おことば はっ られず      そう  な   りょうほう  なだ  がた  のゆえか
其の間互に過言に及ぶ。忽ち鬪諍を企てんと欲す。武衛敢て御詞を發せ被不I。左右無く、兩方を宥め難き之故歟。

ここ  よしつらはし きた    よしざね  しっ    い      にゅうご  よっ  よしずみけいえい はげ
爰に義連奔り來りて義實を叱して云はく、入御に依て義澄經營を勵ます。

かく  とき いかで らんすい このむべ      も   ろうきょうのいた ところか  ひろつねのていまたぶつぎ かなはず しょぞんあ  ば   ごじつ  ご   べ
此の時に爭か濫吹を好可し乎。若し老狂之致す所歟。廣常之躰又物儀に叶不。所存有ら者、後日を期す可し。

いまごぜん  ゆうえん さまた   はなは よ  ところな  のよし   さいおうせいす  くわ   よっ おのおのことば や むいなり
今御前の遊宴を妨ぐ、太だ據る所無き之由、再往制止を加ふ、仍て各言を罷め無爲也。

よしつら ぎょい あいかな   しか  そ   こと   よ    うんぬん
義連御意に相叶ふ。併し斯の事に由ると云々。

参考@司馬は、唐名で介(国司次官)のこと。
参考A
兼日は、前もって。
参考B
結搆は、そのまま結び構えることで、準備の意味。宴会にせよ戦にせよ。又は悪巧みを用意するのも結構と言う。
参考C
案内は、案内すると精通しているの二種類に使い分ける。
参考D
陸奥冠者は、治承四年(1180)9月17日千葉介常胤が預かっていた毛利冠者頼隆(陸奥六郎義隆の子)を紹介している。
参考E
權介は、定員以外の介、国衙の次官だが現地での一番の実力者。桓武天皇はこの権を辞めさせようとしたが、果たせなかったので、京都へ遷都する。
参考F
佐賀岡濱は、神奈川県三浦郡葉山町一色海岸(三ケ丘バス停あり、神奈川県立近代美術館葉山館前)。
参考G
公私共三代之間未だ其礼を成ずは、上総広常は桓武平氏の嫡流の自負がある。
参考H
故義明舊跡は、横須賀市矢部の衣笠城と二の丸の三浦義澄の屋敷と思われる。
参考I
武衛敢て御詞を發せ被不は、未だ御家人を統制できる状態ではない。

現代語治承五年(1181)六月小十九日甲子。頼朝様が納涼の軽旅行のため、三浦まで行きました。その国司次官の三浦介義澄の一族はかねて準備を進めていて、特に来て欲しいとの事でした。毛利冠者頼隆以下の御家人がお供をしました。上総権介広常は前もって云われていたとおり、三ケ丘浜(一色海岸)で出迎えました。彼の部下達五十余人は全て馬から下りて砂の上に平伏しました。広常は轡を緩めて(馬が下を向く)お辞儀をしました。その時、三浦十郎義連が頼朝様の馬の前へ出てきて、馬から下りるように云いましたが、広常はどんな場面においても祖父の代からそのような礼の仕方はしていないと云いました。

その後、今は亡き三浦介義明の屋敷へ行きました。三浦次郎義澄は特別に酒やご馳走を用意しました。
酒宴が進んでいくに従って皆酔いが回ってきて、その勢いで岡崎四郎義實が頼朝様の着ている水干をねだりました。すぐにこれを下賜され、着てみるように云われたので、頼朝様の前へ進んで拝領し袖を通してみました。
これを見ていた広常は、やきもちを焼いて云いました。「そのような綺麗な高貴な人の衣服は、私が拝領すべきで、岡崎四郎義實のような年寄りには向いていない。」との事でした。

これには岡崎四郎義實も怒って言い返しました「広常は部下を沢山従えてきたので、手柄はあるように思われるけれども、義實の頼朝様旗揚げの最初から参加している手柄とは比べものにもならないよ。まして比較なんぞ出来る訳が無い。」。それから双方共に言い合いがあって、今にも斬り合いの喧嘩になりそうでした。頼朝様は、特に言葉を発することもありませんでした。これは、簡単にどちらもなだめられそうにも無いからでしょうか。

そこへ、三浦十郎義連が走ってきて、岡崎四郎義實に向かって叱りました。
「頼朝様をお迎えして、兄の三浦次郎義澄が折角ご招待をしているのに、なんでそんな時に喧嘩を好むのか。若しかして老化してボケたんじゃないのですか。広常殿の行動も理屈に合いませんよ。文句があるのならば後日にして下さい。今、頼朝様の宴会を邪魔することは理由のつけようが無いでしょ。」と、何度もとどめました。
それで二人とも文句の云い会いを止めたので無事でした。三浦十郎義連は頼朝様に気に入られましたのは、その事が原因なのだとさ。

治承五年(1181)六月小廿一日乙丑。令還鎌倉給。義澄献甲以下。又進馬一疋。号髪不擦。度々合戰駕之。無雌伏之例云々。

読下し            きのとうし  かまくら  かえ  せし  たま   よしずみかぶといげ  けん
治承五年(1181)六月小廿一日乙丑。鎌倉へ還ら令め給ふ。義澄甲以下を献ず。

また うまいっぴき すす   かみなでず ごう    たびたび かっせん これ  の     しふくのたぐいな    うんぬん
又馬一疋を進む。髪不撫と号す。度々の合戰に之に駕る。雌伏之例無し@と云々。

参考@雌伏之例無しは、未だに負けたことのない縁起の良い馬。

現代語治承五年(1181)六月小廿一日乙丑。頼朝様は鎌倉へ帰られます。三浦次郎義澄は兜等を土産に用意しました。又、馬を一頭差し出しました。名を「髪撫でず」と云って、何度もの戦で是に乗り、負けた事が無いんだとさ。

治承五年(1181)六月小廿五日庚午。戌尅。客星見艮方。鎭星色赤有芒角。是寛弘三年出見之後無例云々。

読下し           かのえうま  いぬのこく きゃくせい うしとらかた あらわ  ちんせい  いろ あおあか ぼうかく あ
治承五年(1181)六月小廿五日庚午。戌尅、客星 艮方に見る@。鎭星Aの色赤で芒角有り。

これ  かんこうさんねん しゅつげんののち れいな   うんぬん
是、寛弘三年に出見之後、例無しと云々。

参考@客星艮方に見るは、彗星が丑寅の鬼門の方向に現れることは、よくないことが起きる前兆とされている。
参考A鎭星は、土星の異称だが?たぶん「土星の色のように」の意味と思われる。

現代語治承五年(1181)六月小廿五日庚午。夜の八時頃に、彗星が東北に現れました。土星の色の青赤で、彗星の尾を引いている。これは寛弘三年(1006)に出現して以来、その例は無いんだとさ。

治承五年(1181)六月小廿七日壬申。鶴岳若宮材木。柱十三本。虹梁二支。今朝且着由比浦之由申之。

読下し          みずのえさる  つるがおかわかみや ざいもく   はしらじうさんぼん こうりょう にし   けさ かつ    ゆいのうら   つ   のよし  これ  もう
治承五年(1181)六月小廿七日壬申。鶴岳 若宮の材木@、柱十三本、虹梁二支、今朝且うは由比浦Aに着く之由、之を申す。

参考@若宮の材木は、材木の伐採地は分からない。後の建長寺建築の際は、神奈川県津久井郡藤野町から相模川を流して運んできている。恐らく現在の相模原市あたりの木が鎌倉時代に伐採されてしまったと考えられる。
参考A由比浦は、鎌倉市由比ガ浜2丁目3地先の発掘された大鳥居跡の辺りまで浦が入っていたものと思われる。

現代語治承五年(1181)六月小廿七日壬申。鶴岡八幡宮の新築の材木が柱13本と虹梁2本が、今朝一緒に由比浦に着きましたとの報告です。

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