治承五年、養和元年(1181)七月大「七月十四日養和元年と爲す」
治承五年(1181)七月大三日丁丑。若宮營作事。有其沙汰。而於鎌倉中。無可然之工匠。仍可召進武藏國淺草大工字郷司之旨。被下御書於彼所沙汰人等中。昌寛奉行之。 |
読下し ひのとうし わかみやえいさく こと そ さた あ しか かまくらちゅう をい しかるべきのこうしょう な
治承五年(1181)七月大三日丁丑。若宮營作の事、其の沙汰有り。而るに鎌倉中に於て可然之工匠無し。
よっ むさしのくにあさくさ だいこう あざ ごうし め しん べ のむね おんしょを か ところ さたにんら なか くださる しょうかんこれ ぶぎょう
仍て武藏國浅草の大工@で字は郷司を召し進ず可し之旨、御書於彼の所の沙汰人等の中に下被る。昌寛之を奉行す。
参考@大工は、ダイクの棟梁を指してその他のダイクは小工(しょうく)と云う。現在の大工と区別する為あえて「だいこう」とかなを振った。
参考A郷司は、国が国司、郡は郡司とあるので郷の責任者をしていたのかも知れない。
現代語治承五年(1181)七月大三日丁丑。鶴岡八幡宮の社殿を造る作業初めの式典をするよう命令がありました。しかしながら鎌倉ではそれをできる匠の技に長けた棟梁がいません。そこで、武蔵の浅草の郷司という名の大工の棟梁を呼んで来るように、命令書をその地域の責任者に出されました。一品房昌寛が手続きをしました。
治承五年(1181)七月大五日己卯。長尾新六定景蒙厚免。是去年石橋合戰之時。討佐奈田余一義忠之間。武衛殊被處奇恠。賜于義忠父岡崎四郎義實。々々元自專慈悲者也。仍不能梟首。只爲囚人送日之處。定景令持法華經。毎日轉讀敢不怠。而義實稱去夜有夢告。申武衛云。定景爲愚息敵之間。不加誅戮者。雖難散欝胸。爲法華持者。毎聞讀誦之聲。怨念漸盡。若被誅之者。還可爲義忠之冥途讎歟。欲申宥之者。仰云。爲休義實之欝陶。下賜畢。奉優法華經之條。尤同心也。早可依 者。則兔許云々。 |
読下し つちのとう ながおのしんろくさだかげ こうめん こうむ
治承五年(1181)七月大五日己卯。長尾新六定景@、厚免を蒙る。
これ きょねん いしばしかっせんのとき さなだのよいちよしただ う のかん ぶえいこと きっかい しょせら よしただ ちち おかざきのしろうよしざねに たま
是、去年石橋合戰之時佐奈田余一義忠を討つ之間、武衛殊に奇恠に處被れ、義忠の父 岡崎四郎義實于賜はるA。
よしざね もとよ じひ もっぱら ものなり よっ きょうしゅ あたはず
々々、元自り慈悲を專にする者也。仍て梟首に不能。
ただしゅうじん な ひ おく のところ さだかげ ほけきょう じせし まいにちてんどく あえ おこたらず
只囚人と爲し日を送る之處。定景法華經を持令め、毎日轉讀し、敢て不怠。
しこう よしざね さん よ ゆめ つげあ しょう ぶえい もう い
而して、義實去ぬる夜夢の告有りと稱し、武衛に申して云はく。
さだかげ ぐそく あだ な のかん ちうりく くはえず ば うっとう さん がた いへど
定景愚息の敵を爲す之間、誅戮を不加ん者、鬱陶を散じ難しと雖も。
ほっけ じしゃ な どくしょうのこえ き ごと おんねんようや つ も これ ちうせられば かえっ よしただのめいど あだ な べ か
法華の持者を爲し讀誦之聲を聞く毎に怨念漸く盡く。若し之を誅被者、還て義忠之冥途の讎を爲す可き歟。
これ もう なだ ほっ てへ おお い よしざね うっとう やす ため くだ たま おはんぬ
之を申し宥めんと欲す者れば、仰せて云はく義實が鬱陶を休めん爲に下し賜ひ畢。
ほけきょう ゆう たてまつ のじょう もっと どうしんなり はや こ よ べ てへ すなは めんきょ うんぬん
法華經に優じ奉る之條、尤も同心也。早く請ひに依る可し者れば、則ち免許すと云々。
参考@長尾新六定景は、横浜市栄区長尾台町JR大船駅西側丘の上。菩提寺は鎌倉市白廻の久成寺。長尾はこの後も三浦の被官で居る。
参考A岡崎四郎義實に賜るは、生殺与奪の権を与えた事になる。
現代語治承五年(1181)七月大五日己卯。長尾新六定景が石橋合戦の敵対した罪を許されました。去年の合戦で佐那田余一義忠を討ったので、頼朝様は特に厳しく思われて佐那田余一義忠の父の岡崎四郎義実に与えました。岡崎四郎義實は元々心優しい人なので、殺すことが出来ず、ただ、囚人として預かって来ました。長尾新六定景は毎日法華経を呼んで、毎日怠り無く続けました。
そうこうするうちに、岡崎四郎義実は「昨夜夢のお告げがありました。」と頼朝様を尋ねて言いました。「長尾新六定景は私の息子の敵ではありますので、死刑にして仇を討たなければ、心を癒すことは出来ないが、法華経を帰依してお経を読んでいる声を聞く度に恨みが消えていくんです。もし、これを死刑にすれば、かえって息子義忠の冥土の旅の妨げになるのではないかと思うので、是を許してやって欲しいんです。」と云いますと、頼朝様が云われるには「義実の悔しさを癒す為に下げ渡したのだから、法華経を優先している心は私も同じ心なので、望みどおりにしましょう。」と直ぐに許可したんだとさ。
治承五年(1181)七月大八日壬午。淺草大工參上之間。被始若宮營作。先奉遷神躰於假殿。武衛參給。相摸國大庭御厨庤一古娘依召參上。奉行遷宮事。亦輔通景能等沙汰之。來月十五日可有遷宮于正殿。其以前可造畢之由云々。 |
読下し みずのえうま あさくさ だいこうさんじょう のかん わかみや えいさく はじ らる
治承五年(1181)七月大八日壬午。浅草の大工參上する之間。若宮の營作を始め被る。
ま しんたいを かりでん うつ たてまつ ぶえい まい たま
先ず~躰於假殿へ遷し奉り。武衛參り給ふ。
さがみのくに おおばのみくりや まうけ いち こむすめ め よっ さんじょう せんぐう こと ぶぎょう
相摸國 大庭御厨@の庤A一の古娘B、召しに依て參上し、遷宮の事を奉行す。
また すけみち かげよしら これ さた らいげつじうごにち しょうでんにせんぐうあるべし そ いぜん つく をは べ のよし うんぬん
亦、輔通、景能等之を沙汰す。來月十五日 正殿于遷宮有可。其の以前に造り畢る可し之由と云々。
参考@大庭御厨は、神奈川県藤沢市大庭(藤沢市一帯と茅ヶ崎市の一部を含む)で、後三年の役で武名を上げた鎌倉権五郎景政が開発して立荘したと伝えられる。
参考A庤(マウケ)は、儲の義で社の田地を言う。又は、カンダチと読み神館を意味するので、現藤沢市鵠沼神明の烏森皇大神宮を云う。
参考B古娘は、巫女を指す。
現代語治承五年(1181)七月大八日壬午。浅草の大工の棟梁が鎌倉へ来ましたので、八幡宮の造作を始めることにしました。最初に御神体を仮の社殿にお移り戴き、頼朝様がお参りをしました。相模国大庭御厨の鵠沼神明の巫女が呼ばれてやってきて、八幡宮の仮殿への引越しの采配を振りました。また輔通と大庭景能が造作の指示をしました。来月の十五日を完成後の新しい神殿への引っ越しにするので、その前までに完成するようにと命じたんだとさ。
養和元年(1181)七月大十四日戊子。改元治承五年。爲養和元年。 |
読下し つちのえね かいげん じしょうごねん ようわがんねん な
養和元年(1181)七月大十四日戊子。改元、治承五年を養和元年と爲す。
参考安徳天皇即位による改元。出典は後漢書に「幸得保性命、存神養和」。(元号事典から)
現代語養和元年(1181)七月大十四日戊子。改元です。治承五年を養和元年と替えました。
養和元年(1181)七月大廿日甲午。鶴岳若宮寳殿上棟。社頭東方搆假屋。武衛着御。々家人等候其南北。工匠賜御馬。而可引大工馬之旨。被仰源九郎主〔義經〕之處。折節無可引下手者之由被申之。重仰云。畠山次郎。次佐貫四郎等候之上者。何被申無其仁之由哉。是併存所役卑下之由。寄事於左右。被難澁歟者。九郎主頗恐怖。則起座引兩疋。初下手畠山次郎重忠。後佐貫四郎廣綱也。此外。土肥次郎實平。工藤庄司景光。新田四郎忠常。佐野太郎忠家。宇佐美平次實政等引之。申尅事終。武衛令退出給。爰未見今見之男一人。相交供奉人。頻進行于御後。其長七尺余。頗非直也者。武衛覽之。聊御思慮令立留給。未被出御詞之前。下河邊庄司行平虜件男訖。還御之後。召出庭中。曳柿直垂之下着腹巻。髻付札。安房國故長佐六郎々等左中太常澄之由注之。事之躰可謂奇特。被推問事由之處。不能是非陳謝。只稱可被斬罪矣。行平云。可被梟首之條勿論也。但不知食其意趣者。爲汝無所據。早可申之者。于時常澄云。去年冬。於安房國。主人蒙誅罰之間。從類悉以窂籠。寤寐難休其欝陶之間。爲果宿意。此程佇立御亭邊。又曝死骸之時。爲令知姓字於人。髻付簡 仰云。不及子細早可誅。但今日宮上棟也。可爲明日者。被召預梶原平三景時畢。次召行平仰云。今日儀尤神妙。募此賞。所望一事直可令逹者。行平申云。雖非指所望。毎年貢馬事。土民極愁申事也 仰云。行勳功賞時可庶幾者。官祿之兩途也。今申状雖爲比興。早可依 者。仍於御前。成給御下文。成尋奉行之。 |
読下し きのえうま つるがおかわかみや ほうでんじょうとう しゃとう とうほう かりや かま ぶえいちゃくご
養和元年(1181)七月大廿日甲午。鶴岳若宮の寳殿上棟す。社頭の東方に假屋を搆へ、武衛着御す。
ごけにんら そ なんぼく そうら こうしょう おんうま たま
々家人等其の南北に候ふ。工匠に御馬を賜はる@。
しか だいこう うま ひ べ のむね げんくろうぬし おお らる のところ おりふし めて ひ べ もの な のよし これ もうさる
而して大工に馬を引く可し之旨を源九郎主に仰せ被る之處。折節下手を引く可きの者無し之由、之を申被る。
かさ おお い はたけやまのじろう つぎ さぬきのしろうら これ そうら うえは なん そ じん な のよし もうさる や
重ねて仰せて云はく畠山次郎、次に佐貫四郎等之に候ふ上者、何ぞ其の仁無き之由を申被る哉。
これ しかし しょやく ひげ のよし ぞん ことを そう よせ なんじゅうさる か てへ
是、併ながら所役卑下之由を存じ、事於左右に寄て、難澁被る歟者り。
くろうぬし すこぶ きょうふ すなは ざ た りょうひき ひ はじ めて はたけやまのじろうしげただ あと さぬきのしろうひろつな
九郎主頗る恐怖し、則ち座を起ち兩疋を引く。初め下手は畠山次郎重忠、後は佐貫四郎廣綱A。
こ ほか といのじろうさねひら くどうのしょうじかげみつ にたんのしろうただつね さののたろうただいえ うさみのへいじさねまさ ら これ ひ
此の外、土肥次郎實平、工藤庄司景光、新田四郎忠常、佐野太郎忠家、宇佐美平次實政等之を引く。
さる こく ことおわ ぶえいたいしゅつせし たま ここ いま み のおとこひとり ぐぶにん あいまじ しき おんうしろにしんこう
申の尅、事終り武衛退出令め給ふ。爰に未だ見ざる之男一人、供奉人に相交り、頻りに御後于進行す。
そ たけななしゃくよ すこぶ ただなるもの あらず ぶえいこれ み いささ ごしりょ せし た どま たま
其の長七尺余。頗る直也者に非。武衛之を覽て聊か御思慮令め立ち留り給ふ。
いま おんことば い らる のまえ しもこうべのしょうじゆきひら くだん おとこ とら をはんぬ かんごののち ていちゅう め いだ
未だ御詞を出で被る之前に下河邊庄司行平、件の男を虜へ訖。還御之後、庭中に召し出す。
ひきがき ひたたれのした はらまき つ かみ ふだ つ あわのくに こちょうさのろくろう ろうとうさちゅうたつねずみのよし これ ちゅう
曳柿の直垂之下に腹巻を着け、髻に札を付け、安房國故長佐六郎の々等左中太常澄之由之を注す。
ことのてい きとく いひ べ こと よし すいもんさる のところ ぜひ ちんしゃ あたはず ただざんざい さる べ しょう
事之躰奇特と謂つ可し、事の由を推問被る之處。是非を陳謝する不能。只斬罪に被る可しと稱す「矣」。
ゆきひら い きょうしゅされ べ のじょうもちろんなり ただ そ いしゅ し め ずんば なんじ ため よんどころな
行平云はく梟首被る可し之條勿論也。但し其の意趣を知ろし食さ不者、汝が爲に據所無きか。
はや これ もう べ てへ ときにつねずみ い きょねん ふゆ あわのくに をい しゅじんちゅうばつ こうむ のかん
早く之を申す可し者り、時于常澄云はく、去年の冬安房國に於て主人誅罸を蒙る之間、
じゅうるい ことごと もっ ろうろう ごび そ うっとう やす がた のかん すくい はた ため こ ほど おんていへん たたず た
從類 悉く以て窂籠し、寤寐にも其の鬱陶を休み難き之間、宿意を果さん爲、此の程、御亭邊に佇み立つ。
また しがい さら のとき せいじ を ひと し せし ため かみ かん つけ うんぬん
又、死骸を曝す之時、姓字於人に知ら令めん爲、髻に簡を付ると云々。
おお い しさい およばず はや ちゅう べ ただ きょう みや じょうとうなり あした た べ てへ
仰せて云はく子細に不及、早く誅す可し。但し今日は宮の上棟也。明日爲る可し者り。
かじわらのへいざかげとき め あず られをはんぬ つぎ ゆきひら め おお い
梶原平三景時に召し預け被畢。次に行平を召し仰せて云はく。
きょう ぎ もっと しんみょう こ しょう つの しょもう いちじ じき たっ せし べ てへ ゆきひら もう い
今日の儀尤も~妙。此の賞に募りて所望の一事、直に達さ令む可し者り。行平申して云はく。
さし しょうもうあら いへど まいねん けんば こと どみん きは うれ もう ことなり うんぬん
指たる所望非ずと雖も、毎年の貢馬の事、土民極めて愁い申す事也と云々。
おお い くんこう しょう おこな とき しょきすべ は かんろくのりょうとなり
仰せて云はく、勳功の賞を行う時、庶幾可き者官禄之兩途也。
いま もうしじょう こ きょう た いへど はや こい よ べ てへ よっ ごぜん をい おんくだしぶみ な たま じょうじんこれ ぶぎょう
今の申状、比の興爲りと雖も、早く請に依る可し者り。仍て御前に於て、御下文を成し給ふ。成尋之を奉行す。
くだ しもふさのくにみくりやべっとう ところ
下す 々総國御厨別當の所
はや けんば こと めんじょすべ
早く貢馬の事を免除可し
ゆきひらしょち けんば
行平所知の貢馬
参考@御馬を賜はるは、褒美に与える馬は、馬の手綱を左右両側に二人がそれぞれ持ち、受賞者に手綱を渡す。馬の弓手側(左側)が上で女手(右側)が下。(馬の手綱は左右が繋がってはいない)
参考A佐貫四郎廣綱は、群馬県邑楽郡明和町大佐貫。
現代語養和元年(1181)七月大廿日甲午。鶴岳若宮の社殿の上棟式です。その手前の東方に仮屋を作り、頼朝様が着座しました。御家人達はその南北に座り、携わった技術者達に褒美の馬を与えます。しかし、頼朝様が大工の棟梁に与える馬を引く役を義經殿に言いつけたところ、「(上の手綱を私が引くと私は貴方の弟なので)これに見合った下の手綱を引く身分のものがいないのではないか。」と云われました。頼朝様が続けて言われるのには「畠山次郎重忠がいる。次には佐貫四郎広綱がこれをするのだから、何で見合う相手がいないなどと云うのだ。それとも、この役が身分の低いもののやる役だから、文句をつけて渋っているのか。」と云われました。義経殿はとても恐れて、直ぐに立って、二頭の馬を引きました。初めの下の手綱を畠山次郎重忠が引き、後の馬の下の手綱を佐貫四郎広綱がひきました。この他には、土肥実平、工藤景光、新田忠常、佐野忠家、宇佐美実政等が引きました。午後四時頃に式典が終わって、頼朝様が引き上げはじめました。
しかし、供の中に今まで見たことの無い人がいて、やたらと後ろへ付こうとします。その背丈は2メートル余りもあり、とても只者ではありません。頼朝様はこれを見つけて、考える事があって立ち止まりました。何かを云おうとする前に下河邊庄司行平がこの男を取り押さえました。御所へ帰った後、庭に引き出しました。渋柿色の直垂の上下の下に腹巻(簡易な鎧の一種)を着けて、髷に札をつけて、これに安房国の長狹六郎常伴の部下で左中太常澄と書かれていました。わざわざ名札をつけているなんて一寸変っているので、どう云う訳か聞いてみたけれども、事の良し悪しを弁解するつもりは無いので早く切り殺してくれと云いました。下河邊庄司行平が云いました。「死刑になるのは当たり前だけど、その趣旨を知らしていかなければ、お前が何の為に死んだか知る由も無いでのは死ぬ意味が無いではないか。早く話して見なさい。」と云えば、やっと常澄も言いました。「去年の冬、安房国で主人が征伐されてから、部下達は全てが流浪者となって、寝ても覚めてもその苦しさは休まる思いがありませんでしたので、敵を打つ為にお屋敷の辺りに来ていました。敵を打ってもどうせ皆に打たれて死骸となってしまった時に、名前を知って貰う為に髪に名札を付けておりました。」との事です。頼朝様が仰せられるには「理由を糺す必要は無いから、直ぐに死刑にしてしまえ。但し、今日は八幡宮の上棟式なので縁起が悪いので明日にしなさい。と云って、(侍所所司の)梶原景時に預けられました。
次に下河辺庄司行平を呼び寄せて云いました。「今日の処置はとても良かった。この手柄の褒美として何か要望を一つ出しなさい。直接に何とかしてあげよう。」下河辺庄司行平は云いました。「これといって大きな望みはありませんけれども、毎年朝廷に税として馬を献上する事が、農民達の負担になっていると嘆いています。」との事でした。頼朝様が仰せられました。「手柄の褒美を要求する時は、官位の昇給か、領地の増加かいずれかなものなのだが、今臨んで云った事は、この場の余興のように思えるけれども、早く要望どおりにしてあげよう。」と云いました。これによって、頼朝様の御前で、命令書を作ってくれました。義勝房成尋が担当しました。
命令する 下総国下河辺御厨の長官へ
早く、税として馬を献上することを免除すること
下河辺庄司行平に課されている馬の献上
右の通り、下河邊庄司行平に分担されている馬の献上は免除したので、御厨の長官は承知して間違えぬようにすること 命令する
養和元年(1181)七月大廿一日乙未。和田太郎義盛。梶原平三景時等。承仰相具昨日被召取之左中太。向固瀬河。而追而遣遠藤武者於稻瀬河邊。被仰云。景時者若宮造營之奉行也。早可令歸參。天野平内光家爲彼替。義盛相共可致沙汰者。仍光家相具之。中太云。是程事。兼不被思定。輕々敷哉 遂到彼河邊梟首之。雜色濱四郎時澤。爲別御使實檢之。今夜。武衛御夢想。或僧參御枕上。申云。左中太者。武衛先世之讎敵也。而今造營之間露顯云々。覺後被仰云。謂造營者奉崇重大菩薩。宮寺上棟之日有此事。尤可信者。仍不改時尅被奉御厩御馬〔號奥駮。〕於若宮。葛西三郎爲御使云々。 |
読下し きのとひつじ わだのたろうよしもり かじわらのへいざかげときら おお うけたまは
養和元年(1181)七月大廿一日乙未。和田太郎義盛、梶原平三景時等仰せを奉り、
さくじつめしとらる の さちゅうた あいぐ かたせがわ むか
昨日召取被る之左中太を相具し、固瀬河に向ふ。
しか おってえんどうむしゃを いなせがわへん つか おお られ い
而るに追而遠藤武者於稻瀬河邊に遣はし、仰せ被て云はく。
かげときは わかみやぞうえいのぶぎょうなり はや きさんせし べ あまののへいないみついえ か かえ なし よしもり あいとも さた いた べ てへ
景時者、若宮造營之奉行也。早く歸參令む可し。天野平内光家を彼の替と爲て義盛と相共に沙汰致す可し者り。
よっ みついえこれ あいぐ ちゅうたい これほど こと かね おも さだ られず かるがるしきや うんぬん つい か かわへん いた これ きょうしゅ
仍て光家之を相具す。中太云はく、是程の事、兼て思ひ定め不被輕々敷哉と云々。遂に彼の河邊に到り之を梟首す。
ぞうしき はましろうときさわ べつ おんし な これ じっけん
雜色@濱四郎時澤、別な御使と爲し之を實撿す。
こんや ぶえい ごむそう あるそうおんまくらがみ さん もう い さちゅうたは ぶえいせんせのあだてきなり
今夜、武衛の御夢想に或僧御枕上に參じ申して云はく、左中太者、武衛先世之讎敵也。
しか いま ぞうえいのかん ろけん うんぬん
而して今、造營之間露顯すと云々。
さめ のち おお られ い いは ぞうえいは だいぼさつ あが おも たてまつ ぐうじ じょうとうの ひ こ ことあ
覺て後、仰せ被て云はく。謂ゆる造營者、大菩薩を崇め重んじ奉る。宮寺上棟之日に、此の事有り。
もっと しん べ てへ よっ じこく あらためず おんうまや おんうま 〔おくざめ ごう 〕 を わかみや たてまつらる かさいのさぶろうおんしたり うんぬん
尤も信ず可し者り。仍て時尅を不改、御厨の御馬〔奥鮫と號す〕於若宮に奉被る。葛西三郎御使爲と云々。
参考@雜色は、御家人身分よりは低い、頼朝直属の身分の低い侍。
現代語養和元年(1181)七月大廿一日乙未。和田太郎義盛と梶原平三景時は頼朝様の命令どおりに、昨日捕らえた左忠太常澄を連行して片瀬川に向かいました。それなのに後から追って遠藤武者を稲瀬川辺りまで使いに行かせて、伝言されて言うには「景時は若宮造営の担当である。早く戻ってくるように。天野平内光家が景時と交替して義盛といっしょに執行するように。」と云われました。だから光家がこれを連行しました。常澄が言うには「こんな話(梶原平三景時は八幡宮造営奉行なので死刑という穢れに逢ってはならない。)は前もって考えるべきだろうに、軽々しい仕業だなあ。」だとさ。やがて片瀬の川に着いて、これを打ち首獄門にしました。
雑色の浜四郎時沢は別な使いとしてこれを確認しました。その夜に頼朝様は夢の中である僧が枕元に来て云うには「常澄は頼朝様前世での仇敵です。だから今、八幡宮の加護で八幡宮造営の時にばれてしまったのです。」だってさ。夢から覚めてから云はれるのには「ようするに神社を造営することは、八幡大菩薩を崇め奉って(善行を施して)いるから、八幡宮上棟式の日にこういうことがあったのだ。もっともっと信心すべきだ。」と云いました。そこで、時間を改めずに直ぐに厩の馬〔奥鮫と云う名〕を八幡宮に献上しました。葛西三郎清重が使いとして行きましたとさ。