吾妻鏡入門第二巻

養和元年(1181)十月小

養和元年(1181)十月小三日丙午。頭中將維盛朝臣爲襲東國赴城外云々。

読下し         ひのえうま  とうのちゅうじょうこれもりあそん  とうごく おそ  ため  じょうがい おもむ うんぬん
養和元年(1181)十月小三日丙午。頭中將維盛朝臣@、東國を襲はん爲、城外に赴くと云々。

参考@頭中將維盛朝臣は、重盛の子なので、本来なら嫡男の嫡男であるが、後妻の時子が我が子の宗盛を嫡流をしている。この嫡男の嫡男がなまって「チャキチャキ」の江戸っ子の語になる。

現代語養和元年(1181)十月小三日丙午。平惟盛が関東を攻めるために、京都から出発しました。

養和元年(1181)十月小六日己酉。以走湯山住侶禪睿補鶴岳供僧并大般若經衆。給免田二町〔在鶴岳西谷。〕御下文云々。又以玄信大法師。被加同軄。於最勝講衆者。可從長日役之旨被仰云々。
  定補
   若宮長日大般若經供僧軄事
    大法師禪養
   右以人。爲大般若經供僧。長日可令勤行之状如件。
     治承五年十月六日
 定補
   若宮長日最勝講供僧軄事
    大法師玄信
 右以人。爲最勝講衆。長日之役可令勤仕之状。所仰如件。
   治承五年十月六日

読下し        つちのととり  そうとうさんじゅうりょぜんえい もっ   つるがおかぐそうなら  だいはんにゃきょうしゅう ぶ
養和元年(1181)十月小六日己酉。走湯山住侶禪叡を以て、鶴岳供僧并びに大般若經衆に補し、

めんでんにちょう〔つるがおかにしたに あ 〕 おんくだしぶみ たま     うんぬん  また  げんしんだいほっし もっ  どうしき  くは  らる
免田二町〔鶴岳西谷に在る〕御下文を給はると云々。又、玄信大法師を以て同職に加へ被る。

さいしょうこうしゅう をい  は  ちょうじつ  えき  したが べ  のむね  おお  らる   うんぬん
最勝講衆に於て者、長日@の役に從ふ可し之旨、仰せ被ると云々。

  さだ   ぶ
 定め補す

    わかみやちょうじつだいはんやきょうぐそうしき こと
  若宮長日大般若經供僧職の事

      だいほっしぜんえい
   大法師禪叡

  みぎ  ひと  もっ    だいはんやきょうぐそう  な  ちょうじつごんぎょうせし べ のじょうくだん ごと
 右の人を以て、大般若經供僧と爲し長日勤行令む可し之状件の如し

         じしょうごねんじうがつむいか
    治承五年十月六日

  さだ   ぶ
 定め補す

    わかみやちょうじつさいしょうこうぐそうしき こと
  若宮長日最勝講供僧職の事

      だいほっしげんしん
   大法印玄信

  みぎ  ひと  もっ   さいしょうこうしゅう な  ちょうじつのやくごんぎょうせし べ のじょうおお  ところくだん ごと
 右の人を以て、最勝講衆と爲し長日之役勤行令む可し之状仰せる所件の如し

    じしょうごねんじうがつむいか
   治承五年十月六日

参考@長日は、休みなく昼夜ぶっ通しでお祈りをする。

現代語養和元年(1181)十月小六日己酉。熱海の走湯神社代表僧の禅叡を鶴岡八幡宮の僧と大般若経の供養をする僧たちの指導者に任命して、税金を免除されている田んぼ2ヘクタール(鶴岡の西の谷にある)を与える命令書を与えられたとの事です。又、玄信を同職に追加しました。最勝王経の担当として、休みなくお経を続ける「長日の役」をするように命令されました

任命する 八幡宮の長日の大般若経の指導職は、     大法師禅叡
この人を、大般若経を読む代表者として任命しますので、長日の勤行をするようにとの命令書はこのとおりです。
    治承五年十月六日
任命する 八幡宮の長日の最勝王経の講義の指導職は、     大法印玄信
この人を、最勝王経を読む代表者として任命しますので、長日の勤行をするようにとの命令書はこのとおりです。
    治承五年十月六日

養和元年(1181)十月小十二日乙卯。以常陸國橘郷。令奉寄鹿嶋社。是依爲武家護持之神。殊有御信仰
 奉寄 鹿嶋社御領
  在常陸國橘郷
 右。爲心願成就。所奉寄如件。
   治承五年十月日

読下し           きのとう  ひたちのくにたちばなごう  もつ   かしましゃ   よ たてまつ せし
養和元年(1181)十月小十二日乙卯。常陸國 橘郷@を以て、鹿嶋社Aに寄せ奉ら令む。

これ   ぶけ   ごじ の かみたる  よつ   こと ごしんこう あ
是、武家の護持之神爲に依て、殊に御信仰有り。

   よ たてまつ   かしましゃ  ごりょう
 寄せ奉る 鹿嶋社の御領を

    ひたちのくにたちばなごう あ
  常陸國橘郷に在り

  みぎ しんがんじょうじゅ ため  よ たてまつ ところ くだん ごと
 右、心願成就の爲、寄せ奉る所、件の如し。

       じしょうごねんじうがつにち
   治承五年十月日

参考@常陸國橘郷は、茨城県小美玉市、行方市玉造甲・乙。
参考A
鹿嶋社は、茨城県鹿嶋市大字宮中2306−1鹿島神宮。

現代語養和元年(1181)十月小十二日乙卯。常陸の国の橘郷を鹿島神社に寄付しました。この神社は、武士を守ってくれる神様なので、特に信心深くされております。
  寄付します 鹿島神社が税を徴収できるところとして、常陸の国の橘郷にします
  右の通り、今思っている願い事を叶えて下さいます様に寄付することは、このとおりです。
    治承五年十月日

養和元年(1181)十月小廿日癸亥。昨日。太神宮權祢宜度會光倫〔号相鹿二郎大夫〕自本宮參着。是爲致御祈禱賜御願書也。今日。武衛對面給。光倫申云。去月十九日。依平家之申行。爲東國歸往祈禱。任天慶之例。被奉金鎧於神宮。奉納以前。祭主親隆卿嫡男神祗少副定隆於伊勢國一志驛家頓滅。又件甲可被奉納事。同月十六日於京都有御沙汰。當于其日。本宮正殿棟木。蜂作巣。雀小虫也生子。就是等之恠。勘先蹤。輕 朝憲危國土之凶臣。當此時可敗北之條。兼而無疑者。仰曰。去永暦元年出京之時。有夢想告之後。當宮御事。渇仰之思異于他。所願成弁者。必可寄進新御厨云々。

読下し              みずのとい  さくじつ  だいじんぐうごんのねぎ わたらいみつとも〔さいがのじろうたいふ  ごう 〕   ほんぐうよ   さんちゃく
養和元年(1181)十月小廿日癸亥。昨日、太神宮權祢=@度會光倫〔相鹿二郎大夫と号す〕@本宮自り參着す。

これ  ごきとう いた    ため   ごがんしょ たまは なり  きょう   ぶえい たいめん たま   みつとももう    い
是、御祈祷致さん爲、御願書を賜る也。今日、武衛對面し給ふ。光倫申して云はく。

さぬ  つき  じうくにち   へいけの もう  おこな   よっ    とうごくきおう きとう   な     てんぎょうのれい まか   きん  よろいをじんぐう  たてまつらる
去る月の十九日、平家之申し行うに依て、東國歸往祈祷と爲し、天慶之例に任せ、金の鎧於~宮に奉被る。

ほうのういぜん さいしゅちかたかきょうちゃくなん しんぎしょうすけさだたか いせのくにいっしのうまや をい  とんめつ
奉納以前に祭主親隆卿 嫡男、~祗少副定隆、伊勢國一志驛家に於て頓滅す。

また くだん よろいほうのうさる べ  こと  どうげつじうろくにちきょうと  をい  おんさた あ
又、件の甲奉納被る可き事、同月十六日京都に於て御沙汰有り。

そ   ひに あた    ほんぐうしょうでんむなき   はち す  つく   すずめ こひるこ  う
其の日于當り、本宮正殿棟木に、蜂巣を作り、雀小虵子を生む。

これらのあやしみ つ    せんじゅう かんがえ  ちょうけん かろ   こくど  あやう     のきょうしん  こ  とき  あた  はいぼくすべ  のじょう
是等之恠に就き、先蹤を勘るに朝憲を輕んじ國土を危くする之凶臣、此の時に當り敗北可き之條、

かねて うたが な  てへ   おお    い      さぬ えいりゃくがんねんしゅっきょうのとき  むそう  つ  あ   ののち
兼而疑ひ無し者り、仰せて曰はく。去る永暦元年出京之時、夢想の告げ有る之後

とうぐう   おんこと  かつようのおも  ほかにことな  しょがんじょうべん ば  かなら しんみくりや きしんすべ   うんぬん
當宮の御事、渇仰之思い他于異り、所願成弁せ者、必ず新御厨を寄進可しと云々。

参考@太神宮權祢%x會光倫「号相鹿二郎大夫」は、後に弟が生倫(なりとも)の名で出てくる。度会氏にして会賀四郎太夫とも云う。

現代語養和元年(1181)十月小廿日癸亥。きのう、伊勢神宮の権(臨時の、官職としてだけの)禰宜(神主の下の職、その下が祝(はふり))の度会光倫(わたらいみつとも)〔名字は雑賀二郎大夫と云います〕は伊勢神宮からやってまいりました。これは、頼朝様が平家討伐の祈祷をしてもらうため祈願書を送ったからです。今日、頼朝様は対面されました。
光倫は云いました。「先月の十九日に平家から命令をされて関東が降参するように、天慶の将門事件の時のように金の鎧を伊勢神宮に奉納しました。その奉納する前に祭主(伊勢神宮の神職の長、大中臣)親隆の跡取りで神祇官の小の副(すけ)定隆が、運んでくる途中の三重県松阪市曽原町の一志のうまやで死んでしまった。また、そのよろいを奉納するように先月の16日に朝廷で決定の評定がありました。その日に限って、伊勢神宮の本殿の棟木(伊勢作りといって屋根の天辺の支える梁で、それが壁より外に出て、それを支える柱が建物の外にあるのが特徴。)に蜂が巣を作り、雀が未熟児を産んだ。このようなおかしなことが起こるのは、最近の出来事を考えてみると、朝廷を重く敬わないで、国土を危なくする悪い家来がいるからだ。今こそ退治してしまう機会であることが疑いのないことであります。」と云えば、頼朝様がおっしゃるには「1160年に京都から伊豆へ流されてくるときに、夢のお告げがあったので、伊勢神宮の事は何時も気にかかっていたので、すべて成し挙げたときは、必ず新たに御厨(伊勢神宮用荘園)を寄付いたしましょう。」との事でした。

三重県松坂市曽原町に◇勅使塚・養和元年(1181)源氏追討の祈願に伊勢神宮へ向かう途中の密勅使大中臣定隆(おおなかとみさだたか)がこの一志駅で急逝したといわれ、石碑が建つ。

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