吾妻鏡入門第二巻

養和元年(1181)十一月大

養和元年(1181)十一月大五日丁丑。足利冠者義兼。源九郎義經。土肥次郎實平。土屋三郎宗遠。和田小太郎義盛等。爲防禦惟盛朝臣。欲行向遠江國之處。佐々木源三秀能申云。件羽林。當時在近江國。下向不知其期。且十郎藏人〔行家〕張軍陣於尾張國。先可相支歟。各雖無楚忽。進發有何事哉云々。仍延引云々。

読下し            ひのとうし  あしかがのかじゃよしかね  みなもとのくろうよしつね といのじろうさねひら  つちやのさぶろうむねとお
養和元年(1181)十一月大五日丁丑。足利冠者義兼、 源九郎義經、 土肥二郎實平、土屋三郎宗遠、

 わだのこたろうよしもり  ら   これもりあそん  ぼうぎょ   ため とおとうみのくに い  むか      ほっ   のところ
和田小太郎義盛等維盛朝臣防禦せん遠江國はんとする之處

ささきのげんざひでよし  もう    い       くだん うりん   とうじ おうみのくに あ    げこう そ  ご  しらず
佐々木源三秀能申してはく。羽林、當時近江國に在り、下向其の期を不知。

かつう じゅうろうくらんど ぐんじんを おわりのくに は    ま   あいそな  べ   か
且は十郎藏人、軍陣於尾張國に張り、先ず相支ふ可き歟。

おのおの そこつ しんぱつ な  いへど  なにごと  あ      や うんぬん  よっ  えんいん   うんぬん
各、楚忽の進發無しと雖も、何事が有らん哉と云々。仍て延引すと云々。

現代語養和元年(1181)十一月大五日丁丑。足利冠者義兼、源九郎義経、土肥次郎実平、土屋三郎宗遠、和田小太郎義盛などが、平惟盛の攻撃を迎え撃つために、遠江(静岡県西部)へ出発しようとしたところ、佐々木源三秀義が云うには、「例の平惟盛は現在近江(滋賀県)にいますが、それからのこちらへ向かっている様子は分かりません。」「叔父の十郎蔵人行家が尾張(愛知県)にいるので、陣を張って構えるようにさせようか。そうすれば、あわてて出発しなくても、さほど問題はないんじゃないか。」だってさ。そこで延期しましたとさ。

養和元年(1181)十一月大十一日癸未。加賀竪者參着。是故入道源三位卿〔頼政〕一族也。而彼三品禪門近親埴生弥太郎盛兼。去年宇治合戰以後。蟄居于或所。潜欲參關東之處。九月廿一日。前右大將〔宗盛卿〕遣勇士擬生虜刻。忽以自殺。号件与力衆。搦取小納言宗綱畢。依爲親昵。同被搜求之間。失度參向云々。

読下し           みずのとひつじ  かがりっしゃ さんちゃく   これ こにゅうどうげんざんみのきょう いちぞくなり
養和元年(1181)十一月大十一日癸未。加賀竪者@參着す。是、故入道源三位卿の一族也。

しか    か  さんぽんぜんもん きんしん はにゅうのいやたろうもりかね   きょねんうじがっせん いご  あるところにちっきょ   ひそか かんとう  さん      ほっ のところ
而るに彼の三品禪門の近親、埴生弥太郎盛兼、 去年宇治合戰以後、或所于蟄居し、潜に關東に參ぜんと欲す之處。

くがつにじういちにち さきのうだいしょう〔むねもりきょう〕 ゆうし つか      い   ど     こら    とき  たちま もっ  じがい
九月廿一日、前右大將〔宗盛卿〕勇士を遣はし、生け虜りを擬すの刻。忽ち以て自害す。

くだん よりきしゅう  ごう    しょうなごんむねつな から  と   をは
件の与力衆と号し、少納言宗綱を搦め取り畢んぬ。

しんい   な     よっ    おな   さが  もと   られ のかん   ど  うしな さんこう   うんぬん
親眤を爲すに依て、同じく搜し求め被る之間、度を失ひ參向すと云々。

参考@加賀竪者は、頼兼で、大和源氏、荒加賀頼房の末裔で、判官代頼安の男。
参考@
竪者は、比叡山延暦寺や奈良の興福寺などの大寺院で行われる経典の論義の席上,問者の反論に解答する役目の僧。

現代語養和元年(1181)十一月大十一日癸未。加賀竪者頼兼が到着しました。彼は入道源三位頼政の一族です。それなのに入道源三位頼政の親戚の埴生弥太郎盛兼は、去年の宇治合戦の後、ある所に隠れて、見つからないうちに、関東へ来ようとしていたけれども、9月21日に宗盛が軍隊をよこして、生け捕りにしようとしたので、あっさりと自害してしまいました。仕方なく彼に加担したと言って少納言宗綱を逮捕して連れて行きました。親しい間柄だったので、私も探されましたので、どうにも出来ないので関東へ来たんだとさ。

養和元年(1181)十一月大廿一日癸巳。中宮亮通盛朝臣。左馬頭行盛。自北國歸洛。但馬守經正朝臣逗留若狭國云々。

読下し            みずのとみ  ちゅうぐうさかんみちもりあそん  さまのかみゆきもり   ほっこく よ   きらく
養和元年(1181)十一月大廿一日癸巳。中宮亮通盛朝臣@、左馬頭行盛A、北國自り、歸洛す。

たじまのかみつねまさあそん  わかさのくに とうりゅう うんぬん
但馬守經正朝臣B、若狹國に逗留すと云々。

参考@中宮亮通盛朝臣は、C盛の弟教盛の子。
参考A左馬頭行盛は、重盛の弟基盛の子。
参考B但馬守經正朝臣は、C盛の弟經盛の子。

現代語養和元年(1181)十一月大廿一日癸巳。中宮亮平通盛、左馬頭平行盛が北陸道から京都へ戻ってきました。但馬守平経正は、若狭国(福井県)に残って構えているんだとさ。

養和元年(1181)十一月大廿廿九日辛丑。早河庄所領乃貢者。一向所被免除也。依殊御燐愍也。

読下し             かのとうし  はやかわのしょうしょりょうのうぐ は いっこう めんじょされ ところなり  こと   ごれんみん  よっ  なり
養和元年(1181)十一月大廿九日辛丑。早河庄所領乃貢@者、一向に免除被る所也。殊なる御憐愍に依て也。

参考@早河庄所領乃貢は、摩々局で、閏二月七日に逢いに来ている。

現代語養和元年(1181)十一月大廿九日辛丑。早川庄の年貢は、この先ずうっと免除されるようにしました。これは特に頼朝様の乳母の摩々局を大事にしているからです。

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