吾妻鏡入門第二巻

養和二年(1182)三月大「五月二十七日寿永元年と爲す」

養和二年(1182)三月大五日乙亥。山田太郎重澄日來朝夕祗候。殊竭慇懃之忠。仍今日賜一村地頭

読下し                 きのとい  やまだのたろうしおげずみ  ひごろちょうせき しこう    こと  いんぎんのちゅう  かっ
養和二年(1182)三月大五日乙亥。山田太郎重澄@、日來朝夕に祗候しA、殊に慇懃之忠を竭す。

よっ  きょう いっそん  ぢとうしき   たまは
仍て今日一村の地頭職Bを賜る。

参考@山田太郎重澄は、満政流清和源氏で息子が山田重忠。美濃源氏で、旧岐阜県郡上郡山田村→大和町→現在の岐阜県郡上市大和町。
参考A日來朝夕に祗候しは、朝夕祗候人(ちょうせきしこうにん)と云い、石高がなく、一日玄米五合を与えられる。
参考B
一村の地頭職は、上野国らしい。
参考
奈良時代は玄米を白米に精米すると六割が減少し、江戸時代は四割減、現在は8%程度の減ですむ。技術的理由による。

現代語養和二年(1182)三月大五日乙亥。山田太郎重澄は、今まで地頭領地が無く朝夕祗候人として、真面目に勤めてきたので、今日(頼朝様は)一村を領地に地頭職を与えられました。

養和二年(1182)三月大九日己卯。御臺所御着帶也。千葉介常胤之妻。依殊仰。以孫子小太郎胤政(成胤)爲使献御帶。武衛奉令結之給。丹後局候陪膳。

読下し                つちのとう  みだいどころごちゃくたい ちばのすけつねたねのつま こと    おお   よっ
養和二年(1182)三月大九日己卯。御臺所、御着帶。千葉介常胤之妻、殊なる仰せに依て、

 まご  こたろうたねまさ   もっ   つか    な    おんおび けん    ぶえいこれ ゆは たてまつ せし たま    たんごのつぼね ばいぜん  そうら
孫子小太郎胤@を以て、使ひと爲し、御帶を献ず。武衛之を結へ奉ら令め給ふ。丹後局A倍膳Bに候う。

参考@孫子小太郎胤政は、胤政は子の千葉太郎胤正で、孫が千葉小太郎成胤なので「成胤」の間違いであろう。
参考A
丹後局は、比企尼の娘で藤九郎盛長の妻。丹後局の墓というのが、神奈川県横浜市戸塚区上矢部の上矢部バス停から西南へ入った左に丹後山明神社があり、頼朝の妾の墓との伝説がある。
参考B倍膳は、本来お給仕を云うが、ここでは手伝いの意味であろう。

現代語養和二年(1182)三月大九日己卯。御臺所(政子様)の腹帯を着ける儀式です。千葉介常胤の妻が特別の命により、孫の千葉小太郎成胤を使いとして帯を献上しました。頼朝様は、自らこれを結わえられました。丹後局がお手伝いをしました。

養和二年(1182)三月大十五日乙酉。自鶴岳社頭。至由比浦。直曲横而造詣往道。是日來雖爲御素願。自然渉日。而依御臺所御懷孕御祈故。被始此儀也。武衛手自令沙汰之給。仍北條殿〔時政〕已下各被運土石云々。

読下し                  きのととり  つるがおかしゃとうよ ゆいのうら  いた きょくおう なお  て  けいおう  みち  つく
養和二年(1182)三月大十五日乙酉。鶴岳社頭自り由比浦@に至り曲横を直し而、詣往の道を造るA

これ  ひごろ ごそがんたり    いへど   じねん  ひ   わた て   みだいどころごかいよう  おいのり  よっ   ことさら かく  ぎ  はじめらる なり
是、日來御素願爲りと雖も、自然に日を渉り而、御臺所御懷孕の御祈に依て、故に此の儀を始被る也。

ぶえい てよ   これ   さた せし  たま   よっ  ほうじょうどのいげ おのおの どせき  はこばれ  うんぬん
武衛手自り之を沙汰令め給ふ。仍て北條殿已下 各 土石を運被ると云々。

参考@由比浦は、鎌倉市由比ガ浜2丁目3地先の発掘された大鳥居跡の辺りまで浦が入っていたものと思われる。
参考A詣往の道を造るは、若宮大路を造った。幅十二丈を掘り下げ両脇に幅一丈・深さ五尺の濠を構え、掻き上げた土で土塁を造った。特に西側は東側より三尺ほど高い。上中下の三カ所に東西通路を設け、下馬橋とした。これに先立ち、鎌倉中央を流れていた滑川を宝戒寺の裏で掘り下げ川筋を変えたようだ。

現代語養和二年(1182)三月大十五日乙酉。鶴岡八幡宮の神社の前から、由比の浦まで参詣の道を造られました。このことは前からの願いでありましたが、きっかけが無く日を過ごして来てしまいました。御台所政子様の妊娠の安産祈願の爲にこの儀式(神に道を捧げる)を始められました。頼朝様自ら陣頭に指揮を取りました。それなので北条時政殿を初めとして御家人達が土や石を運んだんだとさ。

養和二年(1182)三月大廿日庚寅。太神宮奉幣御使歸參。二宮一祢宜各領納幣物。可抽懇祈之由。内々申之。但不奉状。是若憚平家之後聞歟之旨。有御疑云々。

読下し                かのえとら  だいじんぐうほうへい おんし きさん
養和二年(1182)三月大廿日庚寅。太神宮奉幣の御使歸參す。

にのみやいちねぎ おのおの へいぶつ りょうのう  こんき  ぬき    べ   のよし  ないないこれ  もう
二宮一祢=A各 幣物を領納し、懇祈を抽んず可し之由、内々之を申す。

ただ   じょう たてまつらず これ も   へいけの こうぶん はばか かのむね  おんうたが あ   うんぬん
但し、状を奉不。是、若し平家之後聞を憚る歟之旨、御疑ひ有ると云々。

現代語養和二年(1182)三月大廿日庚寅。伊勢神宮への参拝の使いが帰ってきました。内宮外宮それぞれの筆頭の神主が捧げ物を受け取り、心を込めて祈ることを平家に知れないようそっと言いました。しかし、納める予定の祈願文は、受け取りませんでした。もしも平家にばれた時の事を恐れているのだろうと、頼朝様は(どっちつかずの態度に)お疑いをもたれましたとさ。

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