養和二年(1182)四月小「五月二十七日寿永元年と爲す」
養和二年(1182)四月小五日乙巳。武衛令出腰越邊江嶋給。足利冠者。北條殿。新田冠者。畠山次郎。下河邊庄司。同四郎。結城七郎。上総權介。足立右馬允。土肥次郎。宇佐美平次。佐々木太郎。同三郎。和田小太郎。三浦十郎。佐野太郎等候御共。是高雄文學上人。爲祈武衛御願。奉勸請大辨才天於此嶋。始行供養法之間。故以令監臨給。密議。此事爲調伏鎭守府將軍藤原秀衡也云々。今日即被立鳥居。其後令還給。於金洗澤邊。有牛追物。下河邊庄司。和田小太郎。小山田三郎。愛甲三郎等。依有箭員。各賜色皮紺絹等。 |
読下し きのとみ ぶえい こしごえへんえのしま い せし たま
養和二年(1182)四月小五日乙巳。武衛、腰越邊江嶋に出で令め給ふ。
あしかがのかじゃ ほうじょうどの にったのかじゃ はたけやまのじろう しもこうべのしょうじ おな しろう ゆうきのしちろう かずさのごんのすけ あだちのうまのじょう
足利冠者、北條殿、新田冠者、畠山次郎、下河邊庄司、同じき四郎、結城七郎、上総權介、足立右馬允、
といのじろう うさみのへいじ ささきのたろう おな さぶろう わだのこたろう みうらのじうろう さののたろう ら おんとも そうら
土肥次郎、宇佐美平次、佐々木太郎、同じき三郎、和田小太郎、三浦十郎、佐野太郎等御共に候う。
これ たかおのもんがくしょうにん ぶえい ごがん いの ため だいべんざいてんを こ しま かんじょう たてまつ くようほう はじ おこな のかん
是、高尾文學上人、武衛の御願を祈らん爲、大辨才天於此の嶋に勸請し奉り、供養法を始め行う之間。
ことさら もっ かんりんせし たま みつぎ かく こと ちんじゅふしょうぐんふじわらひでひら ちょうぶく な なり うんぬん
故に以て監臨令め給ふ。密議なり。此の事、鎭守府將軍藤原秀衡を調伏を爲す也と云々。
きょう すなは とりい た らる そ のち かへ せし たま かねあらいさわ へん をい うしおうもの あ
今日、即ち鳥居を立て被る。其の後、還ら令め給ふ。金洗澤@邊に於て牛追物A有り。
しもこうべのしょうじ わだのこたろう おやまだのさぶろう あいこうのさぶろうら やかず あ よっ おのおの いろかわこんきぬら たまは
下河邊庄司、和田小太郎、小山田三郎、愛甲三郎等箭員B有るに依て、各 色皮紺絹等を賜る。
参考@金洗澤は、七里ガ浜の行合橋と稲村ガ崎との間。下の明治の地図を見ると、稲村ケ崎西の林(後世の松の植林)が広い。
参考A牛追物は、柵の中に牛を放し、それを蟇目で射る。
参考B箭員は、当った矢の数。
現代語養和二年(1182)四月小五日乙巳。頼朝様は、江ノ島へ行かれました。足利冠者義兼・北条時政・新田冠者義重・畠山次郎重忠・下河辺庄司行平・同四郎政義・結城七郎朝光・上総権介広常・足立右馬允遠元・土肥次郎実平・宇佐美平次実政・佐々木太郎定綱・同三郎盛綱・和田小太郎義盛・三浦十郎義連・佐野太郎忠家等がお供をしました。これは、門覚上人が、頼朝様の願いをかなえるために、弁財天をこの江ノ島へ呼び祀り、その開眼供養を始めるので、特に訳があって立ち会われました。秘密のことですが、これは奥州平泉の藤原秀衡を祈り殺すためなんだとさ。今日、直ぐにその場で鳥居を立てられました。その後、帰る途中の金洗い沢(七里ガ浜)で牛追物をさせました。下河辺庄司行平・和田小太郎義盛・小山田三郎重成・愛甲三郎季隆などが当てた矢の数が多かったので、それぞれに色染めの皮や藍染の絹を褒美に与えました。
養和二年(1182)四月小十一日辛亥。貞能爲平家使者。此間在鎭西。而申下官使。相副數輩私使。稱兵粮米。廻國郡。成水火之責。庶民悉以爲之費。仍肥後國住人菊池次郎高直。爲去當時之難。令歸伏之由申之云々。 |
読下し かのとい さだよし へいけ ししゃ な こ かんちんぜい あ
養和二年(1182)四月小十一日辛亥。貞能@平家の使者と爲し此の間鎭西に在りA。
しか かんし もう くだ すうやから しし あいそ ひょうろうまい しょう こくぐん めぐ すいかのせめ な
而して官使を申し下し、數輩の私使を相副へ、兵粮米と稱し、國郡を廻り水火之責を成す。
しょみんことごと もっ これ ため つい
庶民悉く以て之が爲に費ゆB。
よっ ひごのくにじゅうにんきくちのじろうたかなお とうじのなん さ ため きふくせし のよし これ もう うんぬん
仍て、肥後國住人菊池次郎高直、當時之難Cを去らん爲、歸伏令むる之由之を申すDと云々。
参考@貞能は、平家侍大将廿数人中のナンバーワン。
参考A此の間鎭西に在りは、薩摩・大隅・日向の暴動を治める為、宗盛は、平家一門を使わず侍大将だけを政府の官吏を一緒に行かしている。
参考B費ゆは、収奪された。
参考C當時之難は、目前の被害。
参考D之を申すは、この申した内容が平家を悪く言っているのが疑わしい。
現代語養和二年(1182)四月小十一日辛亥。貞能は、平家の派遣軍侍大将として、現在薩摩大隅日向の鎮圧のため九州に来ております。そして政府の官吏を伴い、兵糧米の徴収だと云って、国衙や郡衙を水攻めや火攻めに攻めました。庶民の全てがこの災難のために略奪されました。仕方なく熊本県の豪族菊池次郎高直は、目の前の災難を遁れる為、平家に降伏し恭順を誓いましたとさ。
参考平家は二年後京都へ凱旋した時、木曾冠者義仲の京都攻め寸前だった。しかし、連れて戻った軍勢がたった三千の兵なので、戦わずに都落ちをした。
養和二年(1182)四月小廿日庚申。圓浄房依召自武藏國參上。爲抽御祈丹誠。此間候營中。是爲左典厩〔義朝〕護持僧。武衛御胎内之昔加持御帶者也。而平治逆乱以後。出洛陽來武藏國。草創一寺〔号蓮生寺。〕爲住所云々。仍且感往年之功。且被優當時懇祈。以田五町。桑田五丁。限未來際。寄附彼寺給。 |
読下し かのえさる おんじょうぼう め っ むさしのくによ さんじょう
養和二年(1182)四月小廿日庚申。圓淨房召しに依て武藏國自り參上す。
おんき たんせい ぬき いだ ため
こ かんえいちゅう そうら
御祈の丹誠を抽き出さん爲、此の間營中に候う。
これさてんきゅう ごじそう な ぶえいごたいないのむかし おんおび かじ ものなり
是左典厩の護持僧@と爲し武衛御胎内之昔、御帶を加持する者也。
しか へいじぎゃくらん いご らくよう い むさしのくに きた いちじ 〔れんしょうじ ごう 〕 そうそう す ところ な うんぬん
而るに平治逆乱以後、洛陽を出で武藏國に來り、一寺〔蓮生寺Aと号す〕を草創し住む所と爲すと云々。
よっ かつう おうねんのこう かん かつう とうじ こんき ゆうじら たごちょう くわだごちょう もっ みらいさい かぎ かのてら きふ たま
仍て且は往年之功を感じ、且は當時の懇祈を優被れ、田五町B纉c五丁Cを以て未來際を限りD、彼寺に寄附し給ふ。
参考@護持僧は、他からの呪詛から守る為に祈る坊さん。
参考A蓮生寺は、八王子市別所の由木山蓮生寺に天台宗として1182年に創建の伝説有。Ehight多摩の駅シリーズ「京王線堀之内駅」参照
参考B田五町は、当時約50石採れる。当時は一反で一石150kg。鎌倉後期以後はその倍は取れる。現在は、乾田で一反に8表480kg。湿田で5表300kg。陸稲は2表120kg取れるそうだ。面積単位は一町は10反で一丁も同じ。鎌倉時代は一反は360坪。秀吉が1反を300坪に変えた。重さの単位は一石は約150kg。米の単位の覚え方は、一俵は四斗60kg。一石=10斗=100升=1000合。
参考C纉c五丁は、桑畑五町で、当時は蚕を木にたからせて飼っていたらしい。
参考D未來際を限りは、「未来の際まで」で永久にの意味。
現代語養和二年(1182)四月小廿日庚申。円浄房が、頼朝様の呼び出しに従って武蔵の国からやってまいりました。特に丹精込めて御祈りをするために御所に来ております。この人は、父左典厩義朝様を守る専用の祈祷師として、頼朝様がお母さんのお腹の中にいる時、安産祈願の腹帯を締める祈りをした者です。それなのに平治の乱の折、京都から武蔵国へきて、蓮生寺を建立して住みかにしました。そこで、昔の恩返しと今平家討伐の祈りをさせるために、田5町と桑畑5町を未来の果てまでの約束(永久)で、その蓮生寺に寄付されました。
養和二年(1182)四月小廿四日甲子。鶴岳若宮邊水田〔号弦巻田〕三町余。被停耕作之儀。被改池。專光。景義等奉行之。 |
読下し きのえね つるがおかわかみやへん すいでん 〔つるまきだ ごう 〕 さんちょうあま こうさく の ぎ と いけ あらた らる
養和二年(1182)四月小廿四日甲子。鶴岳若宮 邊の水田〔絃巻田@と号す〕三町余りの耕作之儀を停め、池に改め被る。
せんこう かげよし これ ぶぎょう
專光、景能之を奉行す。
参考@弦巻田は、現在の源平池であるが、現在は三分の一しかない。かつては、流鏑馬馬場から南全体が池だった。なお、弦巻田というのは、苗を弦が巻きつくように渦巻きに植えていく神へ捧げる為の米を栽培する斎田のことであろう。私は、飛騨高山の飛騨民俗村で見た。田植えの仕方は真ん中に棒を立て縄を巻きつけ縄の端の位置に苗を植えながら進むと縄が解けた分外側へいくので自然と渦巻きになる。(グーグルで見たが最近は無いようだ)
現代語養和二年(1182)四月小廿四日甲子。鶴岡八幡宮の前の田んぼ三町ちょっとの水田作りを止めさせ、放生池を作ることにしました。頼朝様は、専光坊と大庭景義とに作事奉行を命じました。
養和二年(1182)四月小廿六日丙寅。文學上人依請參營中。自去五日。參篭江嶋。歴三七ケ日。昨日退出。其間断食而懇祈碎肝膽之由申之。 |
読下し ひのえとら もんがくしょうにんこい よっ えいちゅう まい
養和二年(1182)四月小廿六日丙寅。文學上人請に依て營中に參る。
さぬ いつかよ えのしま さんろう みなぬか へ さくじつたいしゅつ
去る五日自り、江嶋に參籠す。三七ケ日を歴て、昨日退出す。
そ かん だんじき て こんき かんたん くだ のよしこれ もう
其の間、断食し而、懇祈肝膽を碎く@之由之を申す。
参考@肝膽を碎くは、肝胆を砕くで、肝臓と胆嚢を砕くほどから「真心を尽くす。一所懸命になってする。」の意味。
現代語養和二年(1182)四月小廿六日丙寅。門覚上人が、頼朝様の要請で御所に参りました。先の五日から江ノ島に籠って祈りを捧げていました。三七の二十一日が経ったので、昨日立ち退きました。その間、断食をして一生懸命に祈ってきましたと報告しました。