吾妻鏡入門第二巻

養和二年、寿永元年(1182)五月大「五月二十七日寿永元年と爲す」

養和二年(1182)五月大十二日辛巳。伏見冠者藤原廣綱初參武衛。是右筆也。馴京都者。依有御尋。安田三郎被擧申之。日來住遠江國懸河邊云々。

読下し                  かのとみ  ふしみかじゃふじわらのひろつな  ぶえい ういざん
養和二年(1182)五月大十二日辛巳。伏見冠者藤原廣綱@、武衛に初參す。

これ  ゆうひつなり  きょうと  なじ もの おんたずね あ   よっ   やすだのさぶろうこれ きょ  もうさる    ひごろ  とおとうみのくにかけがわへん す  うんぬん
是、右筆也。京都に馴む者、御尋有るに依て、安田三郎之を擧し申被る。日來、遠江國懸河邊に住むと云々。

参考@伏見冠者藤原廣綱は、遠江国佐野郡(サヤグン)の豪族で広綱は掛河の出身。ウィキペディアから

現代語養和二年(1182)五月大十二日辛巳。伏見冠者藤原広綱が、初めて頼朝様への対面にやってきました。この人は、事務官で京都に居た事がある人です。頼朝様が適当な人はいないかと探していたので、安田三郎義定が推薦をしました。近頃は、遠江の掛川辺りに住んでいるんだとさ。

参考この五月の十五日に、鶴ヶ丘八幡宮寺社務式次第には、石造の赤橋をかけたとある。

養和二年(1182)五月大十六日乙酉。及日中。老翁一人正束帶把笏。參入營中候西廊。僮僕二人從之。各着淨衣。捧榊枝。人恠之。面々到其座砌。雖問參入之故。更不答。前少將時家到問之時。始發言語。直可申鎌倉殿云々。羽林重問名字之處。不名謁。即披露此趣。武衛自簾中覽之。其躰頗可謂神。稱可對面。令相逢之給。老翁云。是豊受太神宮祢宜爲保也。而遠江國鎌田御厨者。爲當宮領。自延長年中以降。爲保數代相傳之處。安田三郎義定押領之。雖通子細。不許容。枉欲蒙恩裁云々。以此次。神宮勝事。引古記所見述委曲。武衛御仰信之餘不能被問安田。直賜御下文。則以新藤次俊長。爲御使可沙汰置爲保使於彼御厨之由。被仰付之云々。

読下し                  きのととり  にっちゅう およ  ろうおうひとり そくたい ただ    しゃく にぎ えいちゅう さんにゅう   にしろう そうら
養和二年(1182)五月大十六日乙酉。日中に及び老翁一人束帶を正し、笏を把り營中に參入し、西廊に候う。

どうぼくふたり これ したが おのおの じょうい  き    さかき えだ  ささ
僮僕二人之に從う。各、淨衣@を着て、榊の枝を捧ぐ。

ひとこれ  あや     めんめん そ ざ  みぎり いた    さんにゅうのゆえ  と    いへど   さら  こたえず
人之を恠しみ、面々其の座の砌に到り、參入之故を問うと雖も、更に不答。

さきのしょうしょうときいえ いた と  のとき  はじ    げんご  はっ    じき  かまくらどの  もう  べ    うんぬん
前少將時家A、到り問う之時、始めて言語を發す。直に鎌倉殿に申す可しと云々。

うりん かさ    みょうじ   と   のところ  な  なのらず すなは こ おもむき  ひろう
羽林重ねて名字Bを問う之處、名を謁不。即ち此の趣を披露す。

ぶえい れんちゅうよ これ み    そ  てい すこぶ かみ いひ  べ     たいめんすべ  しょう     これ  あいあ  せし  たま
武衛簾中自り之を覽て、其の躰頗る~と謂つ可しC。對面可しと稱し、之に相逢は令め給ふ。

ろうおう い      これ とようけだいじんぐう ねぎ ためやすなり  しか  とうとうみのくにかまたのみくりや は とうぐうりょう な   えんちょうねんちゅうよ いこう
老翁云はく、是、豊受太~宮祢≒ィ保也。而るに遠江國鎌田御厨D者、當宮領を爲し延長年中自り以降、

ためやす すうだいそうでんのところ やすだのさぶろうよしさだこれ おうりょう     しさい  つう    いへど きょようせず まげ  おんさい こうむ     ほっ   うんぬん
爲保、數代相傳之處、 安田三郎義定E之を押領す。子細を通ずFと雖も許容不。枉て恩裁を蒙らんと欲すと云々。

かく  ついで もっ    じんぐう  しょうじ    こき   み     ところ ひ     いきょく  のべ
此の次を以て、~宮の勝事G、古記に見ゆる所を引き、委曲を述るH

ぶえい ごよくしんの あま    やすだ  と   らる   あたはず  じき おんくだしぶみ たまは  すなは  しんとうじとしなが  もっ  おんし  な
武衛御仰信之餘り、安田に問は被るに不能。直に御下文を賜り、則ち新藤次俊長を以て御使と爲す。

ためやす つかいを か みくりや   さた お   べ   のよし  これ  おお  つ   らる    うんぬん
爲保が使於彼の御厨に沙汰置く可し之由、之を仰せ付け被ると云々。

参考@淨衣は、清浄なる衣服,つまり潔斎の服であり,神事や仏参のときに用いる。白色無文の狩衣 (かりぎぬ) と同じ作りで,布 ( 麻) でつくるのが常である。
参考
A前少將時家は、時忠の先妻の子で後妻に嫌われ上総へ流罪になっていたのが、上総權介廣常の推挙で右筆になっている。
参考B名字は、ここでは単なる名前で名字の地の名字とは違う。苗字の苗は応仁の乱からで江戸時代に本居宣長が苗を植える所と理由をつけた。
参考C頗る~と謂つ可しは、とても神々しい。
参考
D遠江國鎌田御厨は、静岡県磐田市鎌田(鎌田神明宮あり)。伊勢神宮が本所で左兵衛藤原正清は庄司。
参考E安田三郎義定は、遠江守護。
参考
F子細を通ずは、事情を説明しても。
参考G
~宮の勝事は、忌み言葉で、最近の良くないこと。今度の災難。
参考H古記に見ゆる所を引き、委曲を述るは、先例どおりならこうあるべきなのにと先例に反する事をこぼしている。

現代語養和二年(1182)五月大十六日乙酉。昼頃になって、老人が一人衣冠束帯の正装姿で、笏を持て幕府に入ってきて、西の廊下に座り込みました。従者二人がお供をしています。それぞれ二人とも、白いお祈り用の着物を着て、榊の枝を捧げ持っています。皆一帯なんだろうと疑問に思って、その座っている傍へ来て、入ってきた理由を聞きますが、全然答えません。前少将平時家が来て問いかけると、初めて言葉を言いましたが、「直接頼朝様に申し上げたいことがある」とのことだとさ。羽林前少将時家がなおも名前を聞きましたが、名乗りませんので、この様子を頼朝様に伝えました。頼朝様は簾の中から見て、「その風体はかなり修行していて神様に仕える者と言えるだろう、対面することにしよう」と仰られて、お逢いになりました。老人が言うには、この人は伊勢神宮外宮豊受太神宮の神官禰宜の為保です。「遠江國鎌田御厨(静岡県磐田市鎌田)は、伊勢神宮領として延長年間(923-931)からずうぅっと為保が先祖代々領地として伝えられてきましたが、安田三郎義定が横取りをしました。いきさつを話しても聞いてくれません。安田三郎義定の云ってることを曲げてでも、有難い判決を出してください」との事だとさ。「このためにわざわざ伊勢神宮の今度の災難は、昔の記録の先例どおりならこうあるべきなのに先例に反している」とこぼしました。頼朝様は、信心深いので、訴えには弁論をするところですが、安田三郎義定に事情を聞くことなしに、直接に命令書を与え、直ぐに新藤次俊長を使いとして、為保の代理人に鎌田御厨を任せるように命じなさいと言いつけましたとさ。

参考訴論(裁判)は、通常訴人(原告)VS論人(被告)で3度対決するが、安田は、頼朝が石橋山で負けたとき、頼朝を手伝うのだといって反対方向の信濃へ攻めて、信濃を半分支配している。又、遠江守護は自分で勝手になっている。ことなどから、実力をつけ始めた頼朝が甲斐源氏の一族をいじめ始めている。

この条は、切り貼りの誤謬で、実際は治承五年・養和元年(1181)なので、そちらにに読み下し以下を載せる

原文壽永元年(1182)五月大十九日戊子。十郎藏人行家在參河國。爲追討平家。可令上洛之由内儀。先爲祈請。相語當國目代大中臣藏人以通。密勒告文。相副幣物等。奉二所大神宮。
 奉送 御幣物
  美紙拾帖 八丈絹貳疋
 右奉送如件。
    治承五年五月十九日               參河目代大中臣以通
 依藏人殿仰。所令申候也。太神宮御事。自本内心御祈念候之上。旁御夢想候歟。仍所思食御意趣之告文。御幣物送文等献上之。以此趣。可有御祈念候也。仰之旨如此。謹言。
        五月十九日                    大中臣以通〔奉〕
    内外宮政所大夫殿

 

養和二年(1182)五月大廿五日甲午。相摸國金剛寺住侶等捧解状。群參營中。是所訴申古庄近藤太非法也。彼状被召出御前。相鹿大夫光生讀申之。
 金剛寺住僧等解申請 鎌倉殿御裁定事
   請被特蒙 慈恩停止古庄郷司近藤太致非例濫行苛法難堪子細状
 副進所課注文一通
 右。住僧等謹言上。倩案。當寺爲躰。大日如來變身不動明王靈地也。仰其利生之倫。破惡魔怨敵。趣十善尊位者也。爰住僧聖禪。切拂幽々山中。安置明王尊像。招集無縁禪徒。勸晝夜勤行。朝叩鐘聲。奉祈大主尊閣。夕崛蘿衿。祈請國土安隱。而當郷司猥沈一旦之貪利。永忘三寳之冥助哉。依此呵責。住僧等各閇庵室之樞。捨供養之法器畢。寺中無耕作田畠。唯懸露命於林菓許也。就中爲山狩。追出僧衆之條。希代事也。依如此之責。住僧等已迯散。加之。聖禪於破壞精舎。雖企修造之勵。誰留安堵之踵哉。若無御裁許者。誰住僧留浮跡〔矣〕。望請。早任注文之状被停止之者。住僧等各凝三業一心之丹誠。可奉祈千秋之御寳算〔矣〕。以解。
    治承六年五月日                       金剛寺住僧等

読下し                  きのえうま  さがみのくにこんごうじ じゅうりょら げじょう  ささ   えいちゅう  ぐんさん
養和二年(1182)五月大廿五日甲午。相摸國金剛寺@住侶等解状Aを捧げ、營中に群參す。

これ  ふるしょうこんどうた   ひほう  うった もう ところなり  か  じょう  ごぜん  め  いだされ  あいがのたいぶみつお これ  よ  もう
是、古庄近藤太Bの非法を訴へ申す所也。彼の状、御前に召し出被、相鹿大夫光生C之を讀み申すD

   こんごうじじゅうそうら げ     もう   こ    かまくらどの  ごさいてい  こと
 金剛寺住僧等解して申し請う 鎌倉殿の御裁定の事

       とく  じおん  こうむ ちょうじされ    こ     ふるしょうごうしこんどうた  ひれい  らんぎょう いた    かほう た  がた  しさい  じょう
   特に慈恩を蒙り停止被んと請う、古庄郷司近藤太、非例の濫行を致し、呵法堪へ難き子細の状

    そへしん   しょかちゅうもんいっつう
  副進ず、所課注文一通

  みぎ じゅうそうら つつし  ごんじょう つらつら あん      とうじ   ていたる   だいにちにょらい へんしん ふどうみょうおうれいちなり
 右、住僧等謹んで言上す。倩、案ずるに當寺の躰爲や、大日如来の變身、不動明王靈地也。

  そ   りしょう   あお のともがら あくまおんてき  やぶ   じゅうぜん そんい  おもむ ものなり
 其の利生を仰ぐ之倫、惡魔怨敵を破り、十善の尊位に趣く者也。

  ここ じゅうそうしょうぜん ゆうゆう   さんちゅう  き   はら   みょうおうそんぞう あんち    むえん  ぜんと  まね  あつ    ちゅうや  ごんぎょう つと
 爰に住僧聖禪、幽々なる山中を切り拂い、明王尊像を安置し、無縁の禪徒を招き集め、晝夜の勤行を勸め、

  あさ  しょうせい  たた   だいしゅ  そんかく いの たてまつ  ゆう  らきん   くつ      こくどあんのん  きしょう
 朝に鐘聲Eを叩き、大主の尊閣を祈り奉る。夕に蘿衿Fを屈して、國土安穩を祈請す。

  しか    とうごうし   みだ    いったんの たんり  ふけ   なが  さんぽうのめいじょ  わす    や
 而るに當郷司、猥りに一旦之貪利に躭り、永く三寳之冥助を忘れん哉。

  こ   かしゃく  よっ   じゅうそうら おのおの あんしつのとぼそ とじ  くようのほうき  す  をはんぬ
 此の呵責に依て、住僧等 各 庵室之樞を閇て供養之法器を捨て畢。

  じちゅう  こうさく  でんぱた な   ただろめい を りんか  か     ばか  なり  なかんづく  やまがり  ため そうしゅう  お  いだ      のじょう  きだい  ことなり
 寺中に耕作の田畠無く、唯露命於林果に懸くるG許り也。就中に、山狩の爲、僧衆に追い出させる之條、希代の事也。

  かく  ごと  の せ     よっ  じゅうそうらすで  に   さん    これ  くは    しょうぜんはかい しょうじゃ  をい   しゅうぞうのはげ   くはだ   いへど
 此の如き之責めに依て、住僧等已に迯げ散ず。之に加へ、聖禪破壞の精舎に於て、修造之勵みを企つと雖も、

  だれ  あんどのきびす とど    や   も   ごさいきょ な     ば  だれ  じゅうそう  ふせき  とど
 誰か安堵之踵を留めん哉。若し御裁許H無くん者、誰の住僧か浮跡を留めんI「矣」

  のぞ  こ   はやばや  ちゅうもんのじょう  まか  これ  ちょうじ られ  ば    じゅうそうら おのおの さんごう いっしんのたんせい こ
 望み請う、早〃と注文之状に任せ、之を停止せ被れ者、住僧等 各 三業J一心之丹誠を凝らし、

  せんしゅうのごほうさん  いの たてまつ べ        もっ   げ
 千秋之御寳算を祈り奉る可し「矣」以て解す

           じしょうろくねんごがつにち                                     こんごうじじゅうそうら
     治承六年五月日                  金剛寺住僧等

参考@相摸國金剛寺は、厚木市飯山の飯山観音脇の金剛寺。弘法大師の開山の伝説もあり、厚木市のHPには「身代わり地蔵といわれ、健康と安全を願う人々に信仰されました。この像の内側の銘文から、正安元年(1299)9月に京都の仏師院慶によって造られたことがわかりました。作者と製作年代が共に明確である大変珍しい貴重な仏像です。とある。
参考A
解状は、下役から上役へ出すのを解、上役から下役へ出すのを符、同格には移か牒となるので、幕府の支配下にある事が分かる。
参考B古庄近藤太は、ふるのしょうで、相模国愛甲郡古庄(現在の場所は不明)。近藤は、三代前が近江守藤原なので近藤。古庄能成で息子は大友宗麟の先祖となる大友能直。
参考C相鹿大夫光生は、常陸国相鹿で現在の日立市相賀町。この人は七巻文治三年正月二十日の二度しか出演がない。
参考D
之を讀み申すは、会議の議題を皆に読んで知らせる。
参考E鐘聲は、梵鐘。
参考F
蘿衿は、粗末な服装。
参考G
露命於林果に懸くるは、木の実で生活している。
参考H
裁許は、裁許状を発行する。
参考I
浮跡を留めんは、無住となる。
参考J三業は、体が、身業、口が口業、心が意業の三つ。

現代語養和二年(1182)五月大廿五日甲午。相模の国の金剛寺の住職達が申出状を捧げながら、御所に押しかけてきました。これは、近藤太郎古庄能成横領の訴えなのです。その手紙を頼朝様は面前に開かせて、相鹿大夫光生がこれを読み上げました。

金剛寺の僧侶等が申し上げます。鎌倉殿の裁決をお願いします。

 特に暖かい配慮を戴いて止めさせるように願います。それは古庄の郷司近藤太が不当な行為をし、仏法を馬鹿にされ、我慢できない状況を説明した文書を添えて提出します。それと寺が認められていた年貢の文書を添付します。

 右の事を、謹んで申し上げます。ちゃんと考えてみると、私どものお寺は大日如来が庶民に近づくために変身した不動明王を祀った神聖な地なのです。そのご利益を申し上げると悪魔や怨敵を破り、天皇家の安泰をはかるものです。住職の聖禅が、深山幽谷を切り開いて、不動明王の像を安置して、仏教を知らない人達を集めて、昼夜兼行の祈りをして、朝には梵鐘の音を響かせ鎌倉殿の繁栄を祈り、夕方には粗末な着物を着て礼拝し、国の平穏無事を祈っています。それなのにここの郷士は単純に一時的な欲望に走り、長く続いてきた仏教の有難さを忘れているらしい。この厳しい責めによって、僧侶達はそれぞれが庵の扉を閉じて仏教用具を捨て去らざるを得ません。寺の境内には耕作するような田畑の用地も無いので、木の実を食べて生活するほかありません。そのうちでも特に、山狩りをするといって僧侶や大衆(だいしゅ)に(獣を)追い出させ(殺生をす)るなんて前代未聞のことです。このような責めを受けて僧侶達は逃げ散ってしまいます。そればかりではなく、聖禅が壊された寺で修理しようと頑張っても、誰が安心して手伝ってくれるのでしょうか。若し、裁決をしていただけないと、誰が住職として残れましょうか。お願いです。早く添付書類の通りに、非法を止めさせていただければ、僧侶達はそれぞれに身業・口業・意業の三つをそろえて一心に心を込めて、鎌倉殿の永久なる繁栄をお祈りいたします。

 治承六年五月日 金剛寺住僧等

参考治承の年号を使うのは。養和・寿永・元暦は平家方の安徳天皇の年号だから使わない。

養和二年(1182)五月大廿六日乙未。金剛寺僧徒訴事。昨日擬有其沙汰之處。已及秉燭之上。昌寛申障而不參之間。今日被經沙汰。被成下外題云々。
 如僧徒等申状者。課有謂山寺〔仁〕公事。并狩山蝅養召仕事。見苦事也。速可令停止状。仰處如件。

読下し                 きのとひつじ  こんごうじそうと うった   こと  さくじつそ    さた あ       こ     のところ
養和二年(1182)五月大廿六日乙未。金剛寺僧徒訴への事、昨日其の沙汰有らんと擬らす之處、

しょうかん さわ   もう  て ふさんのかん   きょう  さた   へ ら  がいだい  な  くだ    うんぬん
昌寛@障りを申し而不參之間。今日沙汰を經被れ外題を成し下すAと云々。

  そうと ら   もう  じょう ごときは  いわ  あ   やまでら  〔に〕  くじ   か   なら    かりやまさんよう  めしつか こと   みぐる   ことなり
 僧徒等の申し状の如者、謂れ有る山寺〔仁〕公事を課し并びに狩山蚕養に召仕う事、見苦しき事也。

  すみや  ちょうじせし  べ    じょう  おお   ところくだん ごと
 速かに停止令む可きの状、仰せる處件の如し。

参考@昌寛は、一品坊昌寛で、比叡山僧兵の出身で右筆。寺院関係を担当していたが、翌年京都の下級公家がくると外れる。娘が頼家のご落胤を産むが義時に殺され、その恨みか娘は承久の乱で京都方に付く。
参考A外題を成し下すは、外題の文章に頼朝が袖判を書き外題安堵する。

現代語養和二年(1182)五月大廿六日乙未。金剛寺の僧侶の訴えについては、昨日その決定をしようと会議を繰り返しましたが、一品坊昌寛が具合が悪いと欠席したので、今日会議裁決を通して命令書を作り、頼朝様が花押を書いて認めましたとさ。

 僧侶等が云ってきた文書の内容は、由緒のある山寺に万雑公事という労役をさせたり、山狩りや養蚕にこき使うこと等、みっともないことである。速やかに止める様に命令が出たのはこの通りです。

壽永元年(1182)五月大廿七日丙申。改元。改養和二年。爲壽永元年。

読下し                         ひのえさる  かいげん   ようわにねん  あらた じゅえいがんねん  な
壽永元年(1182)五月大廿七日丙申。改元@、養和二年を改め壽永元年と爲す。

参考@改元は、京都ではこの春大飢饉となり、疫病が流行り、死者多数に及んだので改元した。(元号事典から)

現代語寿永元年(1182)五月大廿七日丙申。改元です。養和二年を寿永元年と替えました。

この条は、切り貼りの誤謬で、実際は治承五年・養和元年(1181)なので、そちらに読み下し以下を載せる

原文壽永元年(1182)五月大廿九日戊戌。十郎藏人〔行家〕去十九日奉告文等於伊勢太神宮。彼祢宜等返状。今日到着于參河國。
 今月十九日告文并御消息。同廿二日到來。子細披見畢。抑自去年冬比關東不靜。殊可祈請之旨。頻依被下綸言。各凝丹誠之處。不圖之外。神主祢宜等背朝家同意源氏。致彼祈請之由。讒奏出來之間。度々下院宣。依被相尋眞僞。勒不誤之状。進請文畢。而今被送告文。輙不能領状云々。以此旨。可經奏聞也。是後日勅勘之疑可有其恐之故也。神宮事。偏雖仰神明。又不蒙公家裁定者。不致沙汰之例也。又東國之中。太神宮御領既有其數。云神戸。云御厨。皆所勤有限。嚴重無止。而彼所司神人等。寄事於騒動。又号有兵粮之責。所當神税上分等依令難濟。任先例遣宮使令加催促之處。弁濟既少。對捍甚多。因之。色々神役闕乏。各々神人抱愁吟。神慮有恐。人意無休之間。今不可致妨之由被載状。可存其旨候之状如件。
     治承五年五月廿九日                     太神宮政所權神主
侍中披返状之後。知神慮不快之由。更令周章。又相恃山門衆徒。送牒状於延暦寺。是忘謀平家祈請。可合力源氏之由也。

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吾妻鏡入門第二巻

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