吾妻鏡入門第二巻

寿永元年(1182)七月大

壽永元年(1182)七月大十二日庚辰。御臺所依御産氣。渡御比企谷殿。被用御輿。是兼日被點其所云々。千葉小太郎胤正。同六郎胤頼。梶原源太景季等候御共。梶原平三景時。可奉行御産間雜事之旨。被仰付云々。

読下し                 かのえたつ  みだいどころ ごさんけ  よっ  ひきがやつどの  とぎょ    おんこし もちいらる
壽永元年(1182)七月大十二日庚辰。御臺所@御産氣に依て比企谷殿Aに渡御す。御輿を用被る。

これ  けんじつ そ  ところ  てん  らる  うんぬん  ちばのこたろうたねまさ   おな   ろくろうたねより  かじわらのげんたかげすえら おんとも そうら
是、兼日B其の所を點ぜ被るCと云々。千葉小太郎胤正、同じき六郎胤頼、梶原源太景季等、御共に候う。

かじわらのへいざかげとき ごさん かん  ざつじ  ぶぎょう すべ のむね おお つけらる   うんぬん
梶原平三景時御産の間の雜事を奉行D可し之旨、仰せ付被ると云々。

参考@御臺所は、北条政子。
参考A
比企谷殿は、比企一族の屋敷で現在の妙本寺の地。出産は、産穢と云って穢れるので、御所ではない場所へ移る。
参考B兼日は、前もって。
参考C
點ぜ被るは、場所を指定して取り上げる又は借りることでここでは産所とする。
参考D梶原平三景時御産の間の雜事を奉行をするは、乳母となることを表している。

現代語寿永元年(1182)七月大十二日庚辰。御台所(政子様)の出産の日が近づいたので、比企谷の比企一族の屋敷へ引っ越しました。輿で参られました。これは、前もって出産場所はその家にするように指定しておりました。千葉太郎胤正・東六郎大夫胤頼・梶原左衛門尉景季がお供をしました。梶原平三景時はお産に伴う諸行事の担当奉行をするように、頼朝様は仰せ付けられましたとさ。

壽永元年(1182)七月大十四日壬午。新田冠者義重主蒙御氣色。是彼息女者。惡源太殿〔武衛舎兄。〕後室也。而武衛。此間以伏見冠者廣綱。潜雖被通御艶書。更無御許容氣之間。直被仰父主之處。義重元自於事依廻思慮。憚御臺所御後聞。俄以令嫁件女子於師六郎ーー之故也。

読下し                みずのえうま  にったのかじゃよししげ ぬし みけしき  こうむ
壽永元年(1182)七月大十四日壬午。新田冠者義重@主御氣色を蒙る。

これ  か  そくじょは あくげんた どの 〔ぶえい  しゃけい〕 こうしつ なり  しか    ぶえい こ かん  ふしみのかじゃひろつな  もっ
是、彼の息女者惡源太A殿〔武衛の舎兄〕後室B也。而るに武衛此の間、伏見冠者廣綱を以て、

ひそか おんつやがき つう られ   いへど   さら  ごきょよう   け な  のかん  じき  ちちぬし  おお  られ  のところ
潜に御艶書を通ぜ被ると雖も、更に御許容の氣無き之間、直に父主に仰せ被る之處

よししげもとよ   こと  をい  しりょ  めぐ      よっ    みだいどおろ  ごこうぶん  はばか
義重元自り事に於て思慮を廻らすに依て、御臺所の御後聞を憚り

にわか もっ くだん じょしを そちのろくろう ー ー   か せし    のゆえなり
俄に以て件の女子於師六郎Cー ーに嫁令むる之故也。

参考@新田冠者義重は、石橋山合戦の報告を家来たちは殆ど死に頼朝は何処かへ逃げていると平家に報告している事が山塊記に書き写されている。
参考A惡源太は、頼朝の兄長男の鎌倉悪源太義平。義平は秩父に婿入りして武蔵から相摸への進出を図っていた叔父で木曾冠者義仲の父の帶刀先生義賢を三浦一族とともに夜襲して殺しているので、悪の文字が付き源氏の太郎なので源太。
参考B後室は、未亡人。
参考C師六郎は、全くの不明な人で、師は太宰權師(だざいごんのそつ)のはずなのに全く不明なので、新田ほどの娘が訳の解らない人と結婚させるか疑問である。源氏への北條氏の思惑が入っていると思われる。

現代語寿永元年(1182)七月大十四日壬午。源氏一族の新田冠者義重は、頼朝様から嫌われました。それは、彼の娘が鎌倉悪源太義平〔頼朝様の兄上〕の後家です。それなのに頼朝様は最近、伏見冠者広綱に言いつけて、内緒で恋文を送りましたが、色よい返事がないので、父の新田冠者義重に話してみたところ、新田冠者義重はよくよく考えて、御台所(政子様)にばれた時の事を恐れて、突然娘を師六郎何某に嫁がせてしまったからです。

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