吾妻鏡入門第二巻

寿永元年(1182)十月大

壽永元年(1182)十月大九日丙子。越後住人城四郎永用相繼兄資元〔當國守〕之跡。欲奉射源家。仍今日。木曽冠者義仲引率北陸道軍士等。於信濃國筑磨河邊遂合戰。及晩永用敗走云々。

読下し                ひのえね  えちごのじゅうにんじょうのしろうながもち あにすけもと 〔とうごく かみ〕  のあと  あいつ    げんけ  いたてまつ    ほっ
壽永元年(1182)十月大九日丙子。越後の住人城四郎永用、兄資元〔當國の守〕之跡を相繼ぎ、源家を射奉らんと欲す。

よっ  きょう    きそのかじゃよしなか  ほくろくどうぐんし ら を  いんそつ    しなののくにちくまがわへん  をい   かっせん  と    ばん  およ  ながもちはいそう   うんぬん
仍て今日、木曾冠者義仲、北陸道軍士等於引率して、信濃國筑磨河邊@に於て、合戰を遂ぐ。晩に及び永用敗走すAと云々。

参考@筑磨河邊は、千曲川、横田河原の合戦長野市篠ノ井線篠ノ井駅から東南に下車歩いて五分に小さな丘があり神社があり石碑がある。2km東が川中島。
参考A永用敗走すと書いて、木曾冠者義仲の勝利とは書いていないのが不思議。

現代語壽永元年(1182)十月大九日丙子。越後の国の豪族城四郎永用は、兄資元〔この国の国司〕から家督を継いで、源氏の一族を責め滅ぼそうと望みました。そこで今日、木曾冠者義仲は北陸道の軍勢を率いて、信濃国千曲川の辺り(長野市篠ノ井)で戦をしました。夜になって永用は、負けて逃げていったとさ。(横田河原の合戰と言われる)

壽永元年(1182)十月大十七日甲寅。御臺所并若公自御産所入御營中。佐々木太郎定綱。同次郎經高。同三郎盛綱。同四郎高綱等奉舁若公御輿。小山五郎宗政懸御調度。同小山七郎朝光持御劔。比企四郎能員爲御乳母夫。奉御贈物。此事。雖有若干御家人。能員姨母〔号比企尼〕當初爲武衛乳母。而永暦元年御遠行于豆州之時。存忠節之餘。以武藏國比企郡爲請所。相具夫掃部允。々々々下向。至治承四年秋。廿年之間。奉訪御世途。今當于御繁榮之期。於事就被酬彼奉公。件尼以甥能員爲猶子。依擧申如此云々。

読下し                 きのえとら  みだいどころ なら    わかぎみ ごさんじょよ    えいちゅう  にゅうぎょ
壽永元年(1182)十月大十七日甲寅。御臺所@并びに若公A御産所B自り、營中に入御す。

ささきのたろうさだつな    おな   じろうつねたか  おな   さぶろうもりつな  おな   しろうたかつなら  わかぎみ みこし   か たてまつ
佐々木太郎定綱、同じき次郎經高、同じき三郎盛綱、同じき四郎高綱等C若公の御輿を舁き奉る。

おやまのごろうむねまさ ごちょうど  か     おな   しちろうともみつ ぎょけん も     ひきのしろうよしかず おんめのと    な  おんおくりもの たてまつ
小山五郎宗政御調度Dを懸き、同じき七郎朝光E御劔を持つ。比企四郎能員御乳母夫Fと爲し御贈物を奉る。

かく  こと じゃっかん ごけにん あ    いへど  よしかず  しゅうとぼ 〔ひきのあま  ごう 〕   とうしょ ぶえい  めのとたり
此の事、若干の御家人有りと雖も、能員の姨母〔比企尼と号す〕當初武衛の乳母爲。

しか   えいりゃくがんねん ずしゅうに ごえんこうのとき  ちゅうせつ ぞん   のあま    むさしのくに ひきぐん  もっ  うけしょ   な     おっとかもんのじょう あいぐ
而るに永暦元年、豆州于御遠行之時、忠節を存ずる之餘り、武藏國比企郡を以て請所Gと爲し、夫掃部允を相具す。

かもんのじょう げこう    じしょうよねん  あき  いた      にじうねんのかん ごようとう とぶら たてまつ
々々々下向しH、治承四年の秋に至るまで廿年之間御世途を訪ひ奉る。

いま ごはんえいのごに あた    こと  をい  か  ほうこう   むく  らる    つ    くだん  あま   おい よしかず  もっ  ゆうし   な   きょ   もう     よっ
今御繁榮之期于當り、事に於て彼の奉公に酬い被るに就き、件の尼は、甥の能員を以て猶子と爲し擧し申すIに依て、

かく  ごと  うんぬん
此の如しと云々。

参考@御臺所は、北条政子(奥方様)。
参考A
若公は、万寿で後の頼家。
参考B
御産所は、比企の屋敷で現在の妙本寺の場所。
参考C佐々木太郎定綱、同じき次郎經高、同じき三郎盛綱、同じき四郎高綱等若公御輿を舁き奉るは、太郎から四郎までそろっているので縁起がよい。
参考D御調度は、武士の調度品は弓矢。
参考E
七郎朝光は、小山政光の子で後の結城七郎朝光。
参考F御乳母夫は、夫の字はあってもなくても「めのと」と読む。
参考G請所は、年貢を徴収して一定量を決めて収める役を請け負う。他に「検見取り」毎年収穫を検査するので変動相場制とがある。
参考H下向しは、京都から。
参考I
擧し申すは、推挙する。

現代語壽永元年(1182)十月大十七日甲寅。御台所(政子様)と若君(八月十二日誕生、万寿、後の頼家)が、産まれた所の比企の屋敷から御所へ帰ってきました。佐々木太郎定綱・佐々木次郎經高・佐々木三郎盛綱・佐々木四郎高綱の佐々木四兄弟が若君の輿を担いできました。小山五郎宗政が若君の弓矢を掲げ、小山七郎朝光が刀持ちをしました。比企四郎能員は、乳母夫としてお土産を送りました。この比企四郎能員を乳母夫にしたのは、乳母夫にふさわしい豪族の御家人は何人かいるけれども、能員の義母〔比企の尼と呼ばれます〕が武衛(頼朝様)が生まれた頃、乳母だったのです。それに永暦元年(1160)伊豆へ遠出(流罪)をした時に、忠義をつくそうとの思いが募って、武蔵国比企郡の代官(徴税取立人)となって、夫の掃部允と一緒に京から下って来て、治承四年(1180)の秋まで二十年間も仕送りをしました。今はこのとおり立身出世をしたので、その時の奉公への恩返しをするために聞いたら、比企の尼は甥の能員を猶子(相続権の無い養子)にして推挙したので、このとおりなんだとさ。

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