吾妻鏡入門第二巻

寿永元年(1182)十一月小

壽永元年(1182)十一月小十日丁丑。此間。御寵女〔龜前〕住于伏見冠者廣綱飯嶋家也。而此事露顯。御臺所殊令憤給。是北條殿室家牧方密々令申之給故也。仍今日。仰牧三郎宗親。破却廣綱之宅。頗及恥辱。廣綱奉相伴彼人。希有而遁出。到于大多和五郎義久鐙摺宅云々。

読下し                 ひのとうし  かく  かん  ごちょうじょ 〔かめのまえ〕 ふしみかじゃひろつな いいじま  いえに す なり
壽永元年(1182)十一月小十日丁丑。此の間、御寵女〔龜前〕伏見冠者廣綱が飯嶋@の家于住む也。

しか    こ  こと ろけん   みだいどころこと  いか せし  たま    これ  ほうじょうどのしつけ まきのおんかた みつみつ これ もう せし  たま    ゆえなり
而るに此の事露顯し、御臺所殊に憤ら令め給ふ。是、北條殿室家の牧御方、密々に之を申さ令め給ふの故也。

よっ  きょう まきのさぶろうむねちか おお     ひろつなのたく  はきゃく   すこぶ ちじょく  およ
仍て今日、牧三郎宗親Aに仰せて、廣綱之宅を破却し、頗る耻辱に及ぶ。

ひろつな か ひと  あいともな たてまつ  けう    て のが  い  おおたわのごろうよしひさ  あぶずる  たく  いた   うんぬん
廣綱彼の人を相伴ひ奉り、希有にし而遁れ出で大多和五郎義久Bの鐙摺Cの宅に到ると云々。

参考@飯島は、鎌倉の材木座のはずれ、逗子市小坪5丁目の旧町名。(小坪が不便なので、通いやすいように移らせた。小坪へは、住吉城の山を越えていかなければならないが、飯島なら山の手前になる。但し現在は海を埋め立て辻子マリーナが出来たのとトンネルを通したので現地へ行っても実感が湧かない。
参考A
牧三郎宗親は、駿河大岡牧・静岡県沼津市大岡。
参考B
大多和五郎義久は、五郎ではなく三郎義久で、三浦介義明の三男。神奈川県横須賀市太田和。
参考C鐙摺は、旧葉山町鐙摺。釣り船の港で有名。現在は、神奈川県三浦郡葉山町堀内の葉山港でバス停に「鐙摺」の名が残る。

現代語壽永元年(1182)十一月小十日丁丑。ここの処、頼朝様が可愛がっている「亀の前」を伏見広綱の飯島の屋敷に住まわせました。しかし、この事がばれてしまい、御台所(政子)はえらく怒っておられます。実は時政殿の後妻の牧の方が(わざわざ)まことしやかに内緒で(政子に)教えたからであります。そしたら、今日牧三郎宗親に命令して、(「うわなりうち」をさせて、)広綱の屋敷を破壊させ侮辱をしました。広綱は彼女(亀の前)をつれてなんとかして、やっとの事で逃げだし、太多和五郎義久の鐙摺の屋敷に逃げたのだとさ。

壽永元年(1182)十一月小十二日己卯。武衛寄事於御遊興。渡御義久鐙摺家。召出牧三郎宗親被具御共。於彼所召廣綱。被尋仰一昨日勝事。廣綱具令言上其次第。仍被召決宗親之處。陳謝巻舌。垂面於泥沙。武衛御欝念之餘。手自令切宗親之髻給。此間被仰含云。於奉重御臺所事者。尤神妙。但雖順彼御命。如此事者。内々盍告申哉。忽以与恥辱之條。所存企甚以奇恠云々。宗親泣逃亡。武衛今夜止宿給。

読下し                   ひのとうし  ぶえい ことを ごゆうきょう  よ  よしひさ  あぶづる  いえ  とうぎょ
壽永元年(1182)十一月小十二日己卯。武衛事於御遊興に寄せ義久の鐙摺の家へ渡御す。

まきのさぶろうむねちか め いだ    おんとも  ぐ さる    か  ところ をい    ひろつな め  いっさくじつ  しょうじ   たず  おお  らる
牧三郎宗親を召し出し、御共に具被る。彼の所に於て、廣綱を召し一昨日の勝事@を尋ね仰せ被る。

ひろつな つぶさ そ  しだい  ごんじょうせし   よっ  むねちかめ  けっ  らる  のところ  ちんしゃした  ま     つらを でいさ  たれ
廣綱、具に其の次第を言上令む。仍て宗親召し決せ被るA之處、陳謝舌を巻きB、面於泥沙に垂るC

ぶえい ごうつねんの あま   て   よ  むねちかのもとどり き  せし  たま
武衛御鬱念之餘り、手ず自り宗親之髻を切ら令め給ふ。

こ  かん  おお  ふく  られ  い      みだいどころ おも たてまつ こと をい は   もっと しんみょう
此の間、仰せ含め被て云はく、御臺所を重く奉る事に於て者、尤も~妙。

ただ  か  おんめい したが   いへど  かく  ごと  ことは ないない なん  つ  もう     や
但し彼の御命に順うと雖も、此の如き事者内々に盍ぞ告げ申さん哉。

たちま もっ  ちじょく  あた   のじょう  しょそん くはだ はなは もっ きっかい  うんぬん  むねちか な   とうぼう    ぶえいこんやししゅく  たま
忽ち以て耻辱を与へる之條、所存の企て甚だ以て奇恠と云々。宗親泣いて逃亡す。武衛今夜止宿し給ふ。

参考@勝事は、忌言葉で縁起の悪いことをあえて言葉を変える。
参考A召し決せ被るは、呼びつけ詰問をした。
参考B
陳謝舌を巻きは、旨く謝りを云えない。
参考C面於泥沙に垂るは、土下座をする。

現代語壽永元年(1182)十一月小十二日己卯。頼朝様は、遊覧ということにして、太多和五郎義久の鐙摺の家へまいりました。牧三郎宗親を呼び出してお供に入れて行きました。その屋敷で広綱を呼んで、おとといの出来事をわざわざ質問なされました。広綱は丁寧に一部始終を申し上げました。そこで、宗親を呼びつけて詰問されましたが、弁明することが出来ずにしどろもどろになって、地べたに這いつくばりました。頼朝様は、怒った勢いで宗親の髻をつかんで切り落としてしまいました。そして、云って聞かせました。御台所(政子)を重要視するのは神妙である。又その命令に従うのも分かるが、このような事柄は前もって内緒で私に告げないのだ。すぐさま(亀の前)恥辱をあたえるとは、私を無視した企てはとんでもない反逆だとの事でした。宗親は泣き泣き飛び出して行きました。頼朝様は今夜も亀の前の所にお泊りです。

壽永元年(1182)十一月小十四日辛巳。晩景。武衛令還鎌倉給。而今晩。北條殿俄進發豆州給。是依被欝陶宗親御勘發事也。武衛令聞此事給。太有御氣色。召梶原源太。江間〔義時〕者有隱便存念。父縱插不義之恨。不申身暇雖下國。江間者不相從歟。在鎌倉哉否。慥可相尋之云々。片時之間。景季歸參。申江間不下國之由。仍重遣景季召江間。々々殿參給。以判官代邦通被仰云。宗親依現奇恠。加勘發之處。北條住欝念下國之條。殆所違御本意也。汝察吾命。不相從于彼下向。殊感思食者也。定可爲子孫之護歟。今賞追可被仰者。江間殿不被申是非。啓畏奉之由。退出給云々。

読下し                    かのとみ  ばんけい ぶえい かまくら かへ せし  たま
壽永元年(1182)十一月小十四日辛巳。晩景、武衛鎌倉へ還ら令め給ふ。

しか   こんばん ほうじょうどのにわか ずしゅう しんぱつ たま    これ むねちかごかんぱつ こと  うっとうされ    よっ  なり
而るに今晩、北條殿俄に豆州へ進發し給ふ。是、宗親御勘發の事を鬱陶被るに依て也。

ぶえい こ  こと  き   せし  たま    はなは みけしき あ    かじわらげんた  め     えま  は  おんびん  ぞんねん あ
武衛此の事を聞か令め給ひ、太だ御氣色有り。梶原源太を召し、江間@者穩便の存念有り。

ちちたと  ふぎの うらみ さしはさ  み  いとま  もうさず  げこく   いへど    えまは あいしたがはざるか  かまくら  あ  やいなや
父縱ひ不義之恨を挿み、身の暇を申不に下國すAと雖も、江間者相從不歟。鎌倉に在る哉否。

たしか これ  あいたず べ    うんぬん  へんし のかん  かげすえきさん  えま  げこくせずのよし  もう
慥に之を相尋る可しと云々。片時之間、景季歸參し江間下國不之由を申す。

よっ  かさ    かげすえ つか    えま   め     えまどの さん  たま    ほうがんだいくにみち  もっ   おお  られ  い
仍て重ねて景季を遣はし江間を召す。々々殿參じ給ふ。判官代邦通を以て、仰せ被て云はく。

むねちかきっかい あらわ  よっ  かんぱつ くわ   のところ  ほうじょううつねん おう    げこくのじょう   ほと    ごほんい  たが  ところなり
宗親奇恠を現すに依て勘發を加へる之處。北條鬱念に往じて下國之條、殆んど御本意に違う所也。

なんじ わがめい さっ   か   げこうにあいしたがはず  こと  かん おぼ  め   ものなり  さだ    しそんのまもりたる べ   か
汝、吾命を察し、彼の下向于相從不。殊に感じ思し食す者也。定めて子孫之護爲可き歟。

いま しょう  おっ おおさる  べ  てへ     えまどの ぜひ   もうされず   おそ たてまつ のよし  けい   たいしゅつ たま   うんぬん
今の賞、追て仰被る可し者り。江間殿是非を申被不、畏れ奉る之由を啓して退出し給ふと云々。

参考@江間は、北條四郎義時でこの頃は伊豆の江間郷(北条の沼津側)を貰って独立しているらしい。
参考A身の暇を申不は、無届休暇。

現代語壽永元年(1182)十一月小十四日辛巳。夜になって頼朝様は鎌倉へお帰りになりました。それなのに、時政殿は急に伊豆へ出かけてしまいました。これは、宗親を成敗したことに頭にきてしまったからです。頼朝様はこの事を聞いて、とても怒りました。梶原源太景季を呼び出して、江間義時は穏便な心持の人なので、たとえ父が間違いの恨みを抱いて、退散の挨拶もしないで国許へ帰ったとしても、江間は従わないで鎌倉にいるんじゃないか。これを確かめてきて欲しいとの事でした。半時ほどして景季戻ってきて江間殿は国へ帰ってはいませんと申しました。

そこで、もう一度景季を行かせて江間を呼び出しました。義時殿は頼朝様の所へ参りました。頼朝様は判官邦通を通じておっしゃられました。「宗親がとんでもないことをするので、罰したところ、北条時政は面白くなくって伊豆へ帰ってしまった事は、私の趣旨に反している。そなたは私の意を汲んで、その国下がりに従わなかったので、特に気に入っている。私の子孫をきっと守ってくれることであろう。この手柄を後日与えることにしよう。」といいました。義時殿は特に良し悪しを言わずに、ただ、かしこまって受ける旨を表して屋敷へ引き上げたんだとさ。

壽永元年(1182)十一月小廿日丁亥。爲征土佐國住人家綱俊遠等。被差遣伊豆右衛門尉有綱於彼國。有綱以夜七郎行宗。爲國中仕承。今曉首途。件家綱等依誅土佐冠者科。如此云々。

読下し                   ひのとい とさのくにじゅうにん いえつな  としとお ら せい      ため
壽永元年(1182)十一月小廿日丁亥。土佐國住人、家綱@、俊遠A等を征せんが爲、

いずうえもんのじょうありつな を か  くに  さ   つか  され    ありつな やすのしちろうゆきむね  もっ  くにじゅう ししょう   な     こんぎょうかどで
伊豆右衛門尉有綱B於彼の國へ差し遣は被る。有綱、夜湏七郎行宗Cを以て國中の仕承と爲し、今曉首途す。

くだん いえつなら   とさのかじゃ   ちゅう   とが  よっ    かく  ごと   うんぬん
件の家綱等、土佐冠者Dを誅する科に依て、此の如しと云々。

参考@家綱は、蓮池權守家綱。土佐国蓮池郷で、現在の高知県土佐市蓮池
参考A
俊遠は、平田太郎俊遠。平田村で現在の高知県宿毛市平田町
参考B伊豆右衛門尉有綱は、伊豆守源仲綱の子で、源三位頼政の孫。
参考C
夜須七郎行宗は、夜須郷で現在の高知県香南市夜須町、行宗の娘が希義の嫁でる。
参考D土佐冠者は、頼朝の弟で希義。壽永元年(1182)九月廿五日に平重盛の家人の蓮池權守家綱、平田太郎俊遠に攻め殺されている。

現代語壽永元年(1182)十一月小廿日丁亥。土佐國住人家綱、俊遠等を征伐するために、伊豆右衛門尉有綱を土佐へ派遣しました。有綱は、夜須七郎行宗を土佐国内の案内人として今朝出発しました。この家綱達は、希義を殺害した罪によってこのとおりだとさ。

十二月へ

吾妻鏡入門第二巻

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