吾妻鏡入門幻の寿永二年 

 吾妻鏡の寿永二年癸卯は抜けているが、切り貼りの誤謬の、寿永二年(1183)分を参考に乗せる。

寿永二年(1183)二月十日。前右大將〔宗盛卿〕家人大夫判官景高以下千餘騎。爲襲前武衛發向東國云々。

読下し      さきのうだいしょう むねもりきょう けにん   たいふほうがん かげたかいげ  せんよき   さきのぶえい おそ   ため  とうごく   はっこう    うんぬん
二月十日。前右大將「宗盛卿」家人の大夫判官@景高以下の千餘騎が前武衛を襲はん爲、東國に發向すと云々。

参考@大夫判官は、五位の検非違使。

現代語寿永二年(1183)二月十日。前右大将平宗盛の家来の大夫判官景高以下の千騎以上が頼朝を攻めようとして関東に向けて出発したんだとさ。

寿永二年(1183)二月十五日。被下院廳御下文於東海道之諸國。藏人頭重衡朝臣帶之。率千余騎精兵。發向東國。是爲追討前武衛也。

読下し        いんのちょう おんくだしぶみ をとうかいどうのしょこく くだされ
二月十五日。院廳の御下文@於東海道之諸國に下被る。

くろうどのとうしげひらあそんこれ たい   せんよき   せいへい ひき    とうごく   はっこう    これ さきのぶえい  ついとう   ためなり
藏人頭重衡朝臣之を帶し、千余騎の鴛コを率い、東國に發向す。是、前武衛を追討する爲也。

参考@院廳の御下文は、頼朝追討の宣旨。

現代語寿永二年(1183)二月十五日。院の庁(後白河法皇の役所)の命令書を東海道の各国司に出されました。平重衡がこれを持って千騎以上の軍隊を引き連れて関東に向けて出発しました。これは頼朝を討つためです。

寿永二年(1183)二月十七日。安田三郎義定相率義盛。忠綱。親光。祐茂。義C。并遠江國住人横地太郎長重。勝〔間〕田平三成長等。到于當國濱松庄橋本邊。是依前武衛仰也。此所爲要害之間。可相待平氏襲來之故也。

読下し         やすだのさぶろうよしさだ よしもり ただつな ちかみつ すげもち  よしきよなら  とうとうみのくにじゅうにん よこちのたろうながしげ
二月十七日。安田三郎義定、義盛、忠綱、親光、祐茂、義C并びに遠江國住人 横地太郎長重@

かつまたのへいざしげなが ら あいひき  とうごく はままつのしょう はしもと へんにいた
勝間田平三成長A等を相率ひ、當國 濱松庄 橋本B邊于到る。

これ  さきのぶえい おお   よ     なり  かく ところようがい な   のかん  へいし  しゅうらい  あいまつ  べ  のゆえなり
是、前武衛の仰せに依って也。此の所要害を爲す之間、平氏の襲來を相待つ可し之故也。

参考@横地太郎長重は、静岡県菊川市東横地に横地郵便局・同小学校あり。元小笠郡菊川町東横地。
参考A
勝間田平三成長は、静岡県牧之原市勝間に勝間田郵便局・同小学校あり。元榛原郡榛原町勝間。
参考B濱松庄橋本は、浜名湖の海とつながる場所の橋の西側で橋の本から名の由来。現静岡県湖西市新居町浜名に橋本交差点あり。

現代語寿永二年(1183)二月十七日。安田三郎義定、和田太郎義盛、岡部次郎忠綱、工藤五郎親光、宇佐美三郎祐茂、土屋次郎義Cと遠江の武士の横地太郎長重と勝田平三成長を引き連れて遠江国浜松庄橋本の辺りに着きました。これは頼朝の命令によってです。ここが守りやすい地形なので、ここで平氏の攻め来るのを待っているからです。

寿永二年(1183)二月廿日。武衛伯父志田三郎先生義廣忘骨肉之好。忽率數万騎逆黨。欲度鎌倉。縡已發覺。出常陸國。到于下野國 平家軍兵襲來之由。日來風聞之間。勇士多以被遣駿河國以西要害等畢。彼此計會。殊思食煩。爰下河邊庄司行平在下総國。小山小四郎朝政在下野國。彼兩人者雖不被仰遣。定勵勳功歟之由。尤令恃其武勇給。依之朝政之弟五郎宗政。并同從父兄弟關次郎政平等。爲成合力。各今日發向下野國。而政平參御前申身暇。起座訖。武衛覽之。政平者有貳心之由被仰。果而自道不相伴于宗政。經閑路馳加義廣之陣云々。

読下し      ぶえい   おじ   しだのさぶろうせんじょうよしひろ  こつにくのよし   わす   たちま すうまんき  ぎゃくとう  ひき    かまくら  はか     ほっ
二月廿日。武衛が伯父の志田三郎先生義廣@は骨肉之好みを忘れ、忽ち數万騎の逆黨を率い、鎌倉を度らんと欲す。

こと  すで  はっかく   ひたちのくに  いで   しもつけのくにに いた  うんぬん
縡、已に発覺す。常陸國を出て、下野國于 到ると云々。

へいけ  ぐんぴょう しゅうらい   のよし  ひごろふうぶん    のかん  ゆうしおお  もっ  するがのくにいせい  ようがいら  つか  されおはんぬ
平家の軍兵が襲來する之由、日來風聞する之間、勇士多く以て駿河國以西の要害等に遣は被畢。

かれこれのけいか こと わずら おぼ め    ここ  しもこうべのしょうじゆきひら   しもふさのくに あ     おやまのこしろうともまさ   しもつけのくに あ
彼此計會、殊に煩ひ思し食す。爰に下河邊庄司行平A、下総國に在り。小山小四郎朝政Bは下野國に在り。

か  りょうにんは おお つか されず いへど   さだ    くんこう  はげ      か のよし  もっと  そ  ぶゆう   たの  せし  たま
彼の兩人者仰せ遣は被不と雖も、定めし勳功を勵まさん歟之由。尤も其の武勇を恃ま令め給ふ。

これ  よっ  ともまさのおとうと ごろうむねまさ なら    おな      いとこ    せきのじろうまさひら ら  ごうりき な    ため おのおの きょう しもつけのくに はっこう
之に依て朝政之弟の五郎宗政C并びに同じく從父兄弟の關次郎政平D等は合力成さん爲 各、今日下野國へ發向す。

しか    まさひら  ごぜん  まい  み   いとま もう    ざ   た おはんぬ
而して政平は御前に參り身の暇を申し、座を起ち訖。

ぶえいこれ  み    まさひらはふたごころあ  のよしおお  られ    はたして みちよ  むねまさにしょうばんせず  かんろ  へ  よしひろのじん  は  くわ      うんぬん
武衛之を覽て、政平者貳心有る之由仰せ被る。果而、道自り宗政于相伴不、 閑路を經て義廣之陣に馳せ加はると云々。

参考@志田三郎先生義廣は、義朝の弟で常陸信太荘で現在の茨城県稲敷郡美浦村大字信太あたり。
参考A
下河邊庄司行平は、栗橋市・古河市・春日部市・野田市・幸手市等。
参考B
小山小四郎朝政は、栃木県小山市。
参考C
五郎宗政は、後に長沼(栃木県芳賀郡二宮町大字長沼)となる。
参考D
關次郎政平は、常陸国関郡。秀郷流小山に近い大方氏。

現代語寿永二年(1183)二月二十日頼朝様の叔父の志田三郎先生義広は親戚の縁を忘れて、数万の軍勢を引き連れて、鎌倉を落としいれようと考えました。そのことが既に発覚しました。常陸の国を出発して下野(栃木)へ到着しているとの事でした。平家の軍隊が襲来すとの噂があり、鎌倉の勇士は皆、駿河より西の要塞に遣わし終わっています。色々と考えて思い煩っています。ここに下河辺庄司行平は下総国におり、小山小四郎朝政は下野国にいます。その二人は特に命令しなくても、きっと手柄をたててくれるだろうから、特にその武勇を充てにされております。このために、小山四郎朝政の弟の五郎宗政と一族の従兄弟の関次郎政平達は援軍するため、それぞれ今日下野へ出発しました。そして、政平は頼朝様の前に暇乞いの挨拶に来て、帰りました。頼朝様はこれを見て政平は二心をもっているなと仰せられました。案の定、途中の道から裏道を通って義広の軍隊へ走り加わりましたとさ。

寿永二年(1183)二月廿一日。今日以後七ケ日。可有御參鶴岡若宮之由立願給。是東西逆徒蜂起事爲靜謐也。未明參給。被行御神樂云々。

読下し        きょう  いご なぬかにち つるがおかわかみや ぎょさんあ べ   のよしりゅうがん たま
二月廿一日。今日以後七ケ日、鶴岡若宮に御參有る可し之由立願し給ふ。

これ  とうざい  ぎゃくとほうき  こと  せいひつ     ためなり  みめい  さん  たま  おかぐら  おこな  らる   うんぬん
是、東西の逆徒蜂起の事、靜謐なさん爲也。未明に參じ給ひ御~樂を行は被ると云々。

現代語寿永二年(1183)二月二十一日。今日から七日間は、八幡宮にお参りに行く事を神に誓はれました。これは東の義広、西の平氏の攻撃が納まる様に祈るためです。夜明け前にお参りをしてお神楽を奉納しましたとさ。

寿永二年(1183)二月廿三日。義廣率三万余騎軍士。赴鎌倉方。先相語足利又太郎忠綱。忠綱本自背源家之間。成約諾亦小山与足利。雖有一流之好。依爲一國之兩虎。爭權威之處。去年夏之比。可誅滅平相國一族之旨。高倉宮被下令旨於諸國畢。小山則承別語。忠綱非其列。太含欝憤。加平氏。渡宇治河。敗入道三品頼政卿之軍陣。所奉射宮也。異心未散。且以次爲亡小山。有此企云々。次義廣相觸可与之由於小山小四郎朝政。々々父政光者。爲 皇居警衛。未在京。郎從悉以相從之。仍雖爲無勢。中心之所之在武衛。可討取義廣之由凝群議。老軍等云。早可令与同之趣。僞而先令領状之後。可度之也者。則示遣其旨。義廣成喜悦之思。來臨于朝政舘之邊。先之。朝政出本宅。令引篭于野木宮。義廣到于彼宮前之時。朝政廻計議而令人昇于登々呂木澤地獄谷等林之梢。令造時之聲。其音響谷。爲多勢之粧。義廣周章迷惑之處。朝政郎從太田菅五。水代六次。々郎和田。池二郎。蔭澤次郎。并七郎朝光郎等保志泰三郎等攻戰。朝政着火威甲。駕鹿毛馬。時年廿五。勇力太盛而懸四方。多亡凶徒也。義廣所發之矢中于朝政。雖令落馬。不及死悶。爰件馬離主。嘶于登々呂木澤。而五郎宗政〔年廿〕自鎌倉向小山之處。見此馬。合戰已敗北。存令朝政夭亡歟之由。馳駕向于義廣陣方。義廣乳母子多和利山七太揚鞭。隔于其中。宗政逢于弓手。射取七太訖。宗政小舎人童取七太之首。其後義廣聊引退。張陣於野木宮之坤方。朝政宗政自東方襲攻。于時暴風起於巽。揚燒野之塵。人馬共失眼路。横行分散。多曝骸於地獄谷登々呂木澤。又下河邊庄司行平。同弟四郎政義。固古我。高野等渡。討止餘兵之遁走 足利七郎有綱。同嫡男佐野太郎基綱。四男阿曾沼四郎廣綱。五男木村五郎信綱。及大田小權守行朝等。取陣于小手差原小堤等之處々合戰。此外八田武者所知家。下妻四郎C氏。小野寺太郎道綱。小栗十郎重成。宇都宮所信房。鎌田七郎爲成。湊河庄司太郎景澄等加朝政。蒲冠者範頼同所被馳來也。彼朝政者。曩祖秀郷朝臣。天慶年中追討朝敵。〔平將門。〕兼任兩國守。令敍從下四位以降。傳勳功之跡。久護當國。爲門葉棟梁也。今聞義廣之謀計。思忠輕命之故。臨戰塲得乘勝〔矣〕。

読下し       よしひろ さんまんよき  ぐんし  ひき    かまくらかた  おもむ  ま  あしかがのまたたろうただつな  あいかた
二月廿三日。義廣三万余騎の軍士を率い、鎌倉方へ赴く。先ず足利又太郎忠綱@に相語る。

ただつなもとよ  げんけ  そむ  のかん  やくだく  な
忠綱本自り源家に背く之間、約諾を成す。

また  おやまと あしかが  いちりゅうのよしみ あ  いへど   いっこくの りょうこ  な     よっ    けんい  あらそ  のところ
亦、小山与足利は一流之好A有ると雖も、一國之兩虎を爲すに依て、權威を爭うB之處、

きょねんなつのころ  へいしょうこくいちぞく ちゅうめつすべ のむね たかくらのみやりょうじをしょこく  くだされおはんぬ おやますなは べつご うけたまわ
去年夏之比C、平相國一族を 誅滅可し之旨、高倉宮令旨於諸國に下被畢。 小山則ち 別語を承る。

ただつな  そ  れつ あらず はなは うっぷん ふく   へいし くは     うじがわ   わた    にゅうどうさんぽんよりまさのきょうのぐんじん やぶ
忠綱は其の列に非。太だ鬱憤を含み、平氏に加はり宇治河を渡しD、入道三品頼政卿之 軍陣を敗り、

みや いたてまつ ところなり いしん いま  さん      かつ  ついで  もっ  おやま   ほろ     ため  かく  くわだ あり  うんぬん
宮を射奉る所也。 異心未だ散ぜず。且うは次を以て小山を亡ぼさん爲、此の企て有と云々。

つぎ よしひろ  くみ  べ   のよしを  おやまのこしろうともまさ  あいふ
次に義廣、与す可し之由於小山小四郎朝政に相觸れる。

ともまさ  ちちまさみつは  こうきょけいえい なし いま  ざいきょう   ろうじゅうことごと もっ これ  あいしたが
々々の父政光者、皇居警衛と爲て未だ在京しE、郎從悉く以て之に相從ふ。

よっ  むぜい  な     いへど  ちゅうしんのところ これぶえい  あ     よしひろ  う   と   べ   のよし  ぐんぎ  こら
仍て無勢を爲すと雖も、中心之所、之武衛に在り。義廣を討ち取る可し之由、群議を凝す。

ろうぐんら い     はや  よどうせし  べ のおもむき  いつわ て ま  りょうじょうせし ののち  これ はか  べ  なりてへ
老軍等云はく早く与同令む可し之趣、僞り而先ず領状令む之後、之を度る可き也者り。

すなは そ  むね  しめ  つか     よしひろ きえつのおも   な     ともまさ  たちのへんに らいりん
則ち其の旨を示し遣はす。義廣喜悦之思いを成し、朝政の舘之邊于來臨す。

参考@足利又太郎忠綱は、藤性足利氏で下野國足利庄現足利市。実は裏で頼朝が彼の一族に密書を送り裏切りを示唆して、結果彼は一族に裏切られる。
参考A一流之好は、同じ俵藤太藤原秀郷流である。
参考B權威を爭うは、、相隣関係で遠交近攻となる。
参考C去年夏之比は、実は三年前の治承四年五月であるが記載場所を誤謬しているので無理につじつまを合わせている。
参考D平氏に加はり宇治河を渡るは、平家軍として十七歳で宇治川の合戦に参加し、増水で渡れない宇治川を馬筏を組んで渡った話が平家物語第四巻橋合戦にある。
参考E皇居警衛と爲し未だ在京しは、清盛が始めた京都大番役で三年間としたのが地方豪族の反感をかう。後に頼朝は半年とし、時頼は三ヶ月にする。

現代語寿永二年(1183)二月二十三日。義広は三万騎以上の軍隊を連れて鎌倉方面へ向かいました。まず、足利又太郎忠綱を誘いました。忠綱は元々源氏を嫌っているので、承知をしました。又、小山と足利は同族の流れではありますが、この国では共に筆頭なので、互いに統領を争う間柄なのです。去年の夏の頃に平清盛一族を滅ぼすように以仁王の令旨を下された時、小山は特別に命を受けました。しかし、足利忠綱には来ませんでしたので、とても怒って平氏方に味方して、宇治川の合戦で源三位頼政の軍隊を滅ぼし、以仁王を射殺した事になります。しかしこの源氏への反発を持ったままで、このついでに小山をも滅ぼうそうと、この誘いに乗りましたとさ。

 次に義広は、味方をするように小山四郎朝政に云ってきました。小山四郎朝政の父の小山政光は、京都大番役で京都御所警護のために今は京都におりますので、部下達は殆ど父についていっております。ですから軍隊が少ないとはいいながらも忠義の心は頼朝に従っているので、義広を討ち取るように戦の相談をしました。熟練の兵士たちが「早く味方すると嘘をついて誘いを了解しておき策略を練りましょう。」と云いました。直ぐに承知の返事をすると義広は喜んで合流しようと小山四郎朝政の館の近くへきました。

これ    さき    ともまさほんたく  い    のぎのみや に ひ  こ   せし    よしひろかのみやまえ にいた のとき  ともまさ けいぎ  めぐ   て
之より先に、朝政本宅を出で、野木宮@于引き籠ま令む。義廣彼宮前A于到る之時、朝政計議を廻らし而、

ひと   とどろききざわ  じごくだに ら  はやしのこずえにのぼ せし   ときのこえ  つく  せし     そ  おとたに  ひび   たぜいのよそお   な
人を登々呂木澤地獄谷B等の林之梢于昇ら令め、時之聲を造ら令む。其の音谷に響き、多勢之粧ひを爲す。

よしひろ しゅうしょうめいわくのところ
義廣、周章迷惑之處。

ともまさ ろうじゅう  おおたかんご   みずしろろくじ     じろうわだ     いけのじろう   かげさわじろう  なら  しちろうともみつ ろうとう ほしやすさぶろう ら こうせん
朝政が郎從、太田菅五C、水代六次D、々郎和田E、池二郎F、蔭澤次郎G并びに七郎朝光が郎等保志秦三郎H等攻戰す。

ともまさ ひおどしのよろい  ちゃく かげのうま  が     とき  としにじゅうご ゆうりきはなは さか   して  しほう   かた    おお きょうと ほろ   なり
朝政 火威甲Iを着し、鹿毛馬に駕し。時に年廿五。勇力太だ盛んに而、四方を懸め、多く凶徒を亡ぼす也。

よしひろ はっ  ところのや ともまさに あた   らくば せし   いへど  いもん  およばず
義廣發する所之矢朝政于中る。落馬令むと雖も。死悶に及不。

ここ くだん  うま  ぬし はな     とどろきざわ  に いなな   しか    ごろうむねまさ 〔としはたち〕 かまくらよ おやま  むか  のところ
爰に件の馬、主を離れ。登々呂木澤于嘶く。而して五郎宗政〔年廿〕鎌倉自り小山に向う之處、

こ   うま  み     かっせんすで はいぼく     ともまさようぼうせし    か のよし  ぞん    が   は   よしひろ  じんかたにむか
此の馬を見て、合戰已に敗北して、朝政夭亡令むる歟之由を存じ、駕し馳せ義廣の陣方于向ふ。

よしひろ  めのとご  たわやまのしちた むち  あ     そ   なかに へだ   むねまさゆんで に あ    しちた  いと  おはんぬ
義廣の乳母子多和利山七太鞭を揚げ、其の中于隔つ。宗政弓手J于逢ひ、七太を射取り訖。

むねまさ ことねりわらわ  しちたの くび  と     そのご よしひろいささ  ひ  の     じんを のぎみやのひつじさるかた  は
宗政が小舎人童K七太之首を取る。其後、義廣聊か引き退き、陣於野木宮之 坤方に張る。

ともまさ  むなまさとうほう よ  おそ  せ    ときにぼうふうたつみ をい  おこ    やけのの ちり  あ       じんばとも  がんろ  うしな   おうこうぶんさん
朝政、宗政東方自り襲ひ攻む。時于暴風巽に於て起り。燒野之塵を揚げる。人馬共に眼路を失ひ、横行分散す。

おお むくろを じごくだに  とどろきざわ   さら
多く骸於地獄谷登々呂木澤に曝す。

参考@野木宮は、栃木県下都賀郡野木町大字野木に野木神社あり。近くに野木小学校。野木神社南200mに雷電神社があるが轟の名残か。
参考A宮前は、野木神社の前。
参考B登々呂木澤・地獄谷は、ともに江戸時代に埋め立てられて平らな田になっている。
参考C太田菅五は、長沼荘大田郷・栃木県芳賀郡二宮町長沼で菅原の五郎。そこは往昔、長沼荘と称し、明治二二年の町村制施行の際、太田、掘込、大道泉、西大島、鷲巣、上江連、古山、青田、砂ケ原、上大曽、上谷貝、谷貝新田などの旧村を合併して良沼村と称したが、昭和二九年の町村合併により、二宮町と称することになった。
参考D水代六次は、栃木県下都賀郡大平町西水代で六郎の次郎。
参考E次郎和田は、栃木県さくら市南和田。旧喜連川市和田。
参考F
池二郎は、鹿沼市池の森かも。
参考G蔭澤次郎は、不明。但し蔭を鹿毛と考えると栃木県芳賀郡二宮町に鹿の地名有り。
参考H保志泰三郎は、不明。栃木市に星野町の地名があるが、鹿沼市との境で山の中過ぎる。
参考I火威の甲は、緋威の鎧で、緋色の緒を通すからきている。
参考J弓手は、右手で弓を引いて射るので左手側。反対を馬手(めて)という。
参考K小舎人童は、身分を現す場合もあり、子供とは限らない。
参考L小山氏は、室町初期に鎌倉公方足利氏満に滅ぼされ結城から養子が入る。

現代語それよりも先に、小山四郎朝政は屋敷を出て、野木宮に隠れていました。義広が宮の前に来た時に、小山四郎朝政は策略を考えて家来達を等々力沢の地獄谷の林の木の天辺に登らせて、一斉に大声を出させました。その声が谷にこだまして大勢の軍隊に聞こえました。義広は驚いて困り果て迷い惑いました。小山四郎朝政の部下の太田菅五、水代六次、次郎和田、池二郎、蔭澤次郎と七郎朝光の部下の保志秦三郎達が戦いました。小山四郎朝政は緋縅の鎧を着て、鹿毛の馬に乗り、年は二十五歳で一番力が勝っている時なので、しっかり周りを守って沢山の敵を滅ぼしました。義広の射た矢が小山四郎朝政にあたりました。落馬はしましたが、死ぬような事はありません。

 その話の馬は、主人から離れて、等々力沢でいなないていました。そこへ小山五郎宗政(二十歳)が鎌倉から小山へ向かう途中でこの馬を見て、戦は既に負けて小山四郎朝政は死んでしまったのかと考えて、馬に乗り義広の陣へ向かいました。義広の乳母子の多和利山七太が馬に鞭を当てその真中に立ちふさがる。小山五郎宗政に取って弓手(左側)に出会ったので七太を弓でしとめました。小山五郎宗政の家来が七太の首を取りました。その後、義広は陣を引いて野木宮の西南に構える。小山四郎朝政と小山五郎宗政は東から攻めかかりました。ちょうど激しい風が東南から吹いて、焼けた野原の灰を吹き上げましたので、人も馬も前が見えなくなって、バラバラになってしまい、多くが地獄谷等々力沢に死体をさらしました。

また  しもこうべのしょうじゆきひら  おな  おとうと しろうまさよし  こが   たかの ら  わた    かた    よへいの とんそう   う   と      うんぬん
又、下河邊庄司行平@、同じき弟四郎政義、古我A、高野B等の渡しを固め、餘兵之遁走を討ち止めると云々。

あしかがのしちろうありつな  おな ちゃくなん さののたろうもとつな  よんなんあそぬまのしろうひろつな  ごなんきむらのごろうのぶつな およ おおたのしょうごんのかみゆきとも ら
足利七郎有綱C、同じき嫡男佐野太郎基綱D、四男阿曾沼四郎廣綱E、五男木村五郎信綱F及び太田小權守行朝G等は、

こてさしがはら こつつみ などの しょしょに じんど  かっせん
小手差原H小堤I等之 處々于陣取り合戰す。

こ   ほか はったのむしゃどころともいえ  しもつまのしろうきようじ  おのでらのたろうみちつな おぐりのじゅうろうしげなり うつのみやのところのぶふさ かまたのしちろうためなり
此の外、八田武者所知家K、下妻四郎C氏、小野寺太郎道綱L、小栗十郎重成M、宇都宮所信房N、鎌田七郎爲成O

みなとがわのしょうじたろうかげずみ ら ともまさ  くは      かばのかじゃのりより おな   はせきた ところなり
湊河庄司太郎景澄P等が 朝政に加はる。蒲冠者範頼Q同じく馳來被る所也。

か   ともまさは  のうそ ひでさとあそん   てんぎょうねんちゅう ちょうてき 〔たいらのまさかど〕 ついとう  りょうごく  かみ  けんにん
彼の朝政者、曩祖秀郷朝臣R、天慶年中に 朝敵 〔平將門〕を追討し、兩國の守を兼任し、

じゅげしい    じょせし  いこう    くんこうのあと  つた    ひさ    とうごく  まも    もんよう とうりょう なすなり
從下四位に敍令む以降、勳功之跡を傳へ、久しく當國を護り、門葉の棟梁を爲也。

いま  よしひろのぼうけい  き    ちゅう おも  いのち かろ      のゆえ  せんじょう のぞ かち  じょう   え     と
今、義廣之謀計を聞き、忠を思い命を輕んずる之故。戰塲に臨み勝に乘ずを得る「矣」

参考@下河邊庄司行平は、このころ一番の弓の名人。
参考A
古我は、埼玉県北埼玉郡北川辺町から古河への鬼怒川の渡し。
参考B高野は、栃木県栃木市高谷町の思井川の渡し。
参考C足利七郎有綱は、忠綱の一族。
参考D
佐野太郎基綱は、下野佐野荘で現栃木県佐野市。
参考E阿曾沼四郎廣綱は、栃木県佐野市浅沼町。
参考F木村五郎信綱は、木村保で現栃木県下都賀郡都賀町木(現栃木市都賀町木)。
参考G大田小權守行朝は、上野太田荘で現群馬県太田市。
参考H
小手差原は、茨城県猿島郡五霞町小手指。
参考I小堤は、下河邊荘内で現茨城県古河市小堤で旧猿島郡総和町小堤。
参考K八田武者所知家は、旧下館市八田で現筑西市八田。武者所は、国府国衙の役所の内、侍所の指揮官。税を扱うところを税所さいしょ。蔵人所は所と名乗る。
参考L小野寺太郎道綱は、栃木県下都賀郡岩舟町小野寺堀内に館跡あり。
参考M小栗十郎重成は、小栗御厨で現茨城県真壁郡協和町小栗に館跡あり石碑有り但し照手姫の方で有名。
参考N宇都宮所信房は、下野蔵人所に勤めている。
参考O鎌田七郎爲成は、茨城県鉾田市。
参考P湊河庄司太郎景澄は、茨城県ひたちなか市に那珂湊駅あり。
参考Q蒲冠者範頼は、蒲御厨で
静岡県浜松市東区神立町に蒲神明宮があり、熱田神宮(熱田大宮司範季)の末社である。冠者範頼は、池田宿遊女の子で初見。
参考R曩祖秀郷朝臣は、俵藤太藤原秀郷。

現代語また、下河辺庄司行平、弟の四郎政義は古河と高野などの渡しで陣を張り、義広の兵隊の逃げて来るのをやっつけたとの事でした。足利七郎有綱、嫡子の佐野太郎基綱、四男の浅沼四郎廣綱、五男の木村五郎信綱と太田小権守行朝達は、小手差原小堤等に陣を張って合戦しました。この他に、八田知家、下妻C氏、小野寺道綱、小栗重成、宇都宮信房、鎌田為成、湊川景澄達が小山四郎朝政の味方に参加しました。範頼も同様に走って来ました。この小山四郎朝政は、先祖の藤原秀郷が天慶の時代に反逆者の平将門を退治し、二つの国司を兼ね、従四位下を賜る。その手柄の領地を代々伝えて、長い間この国を守って一族の本家をしてきました。現在、義広の謀叛の話を聞いて、忠義を励む為、命を顧みずに戦ったので勝利を得ることが出来ました。

寿永二年(1183)二月廿五日。足利又太郎忠綱雖令同意于義廣。野木宮合戰敗北之後。悔先非。耻後勘。潜篭于上野國山上郷龍奥。招郎從桐生六郎許。數日蟄居。遂隨桐生之諌。經山陰道。赴西海方云々。是末代無雙勇士也。三事越人也。所謂一其力對百人也。二其聲響十里也。三其齒一寸也云々。

読下し       あしかがのまたたろうただつな よしひろにどういせし    いへど
二月廿五日。足利又太郎忠綱は義廣于同意令むと雖も。

のぎみやかっせんはいぼくののち  せんぴ  く     ごかん  は    ひそか こうづけのくにやまがみごう たつおく にこも
野木宮合戰敗北之後、先非を悔い、後勘を耻じ。潜に上野國山上郷 龍奥@于籠る。

ろうじゅうきりゅうのろくろう ばか まね    すうじつちっきょ     つい  きりゅうのいさ    したが   さんいんどう  へ    さいかいかた  おもむ   うんぬん
郎從桐生六郎A許りを招き、數日蟄居Bす。遂に桐生之諫めに随い、山陰道を經て、西海方に赴くと云々。

これ  まつだいむそう  ゆうしなり  さんことひと  こゆ  なり
是、末代無雙の勇士也。三事人を越るC也。

いはゆる ひとつ そ ちからひゃくにん たい  なり  ふたつ そ  こえじゅうり  ひび なり  みつ  そ  はいっすんなり  うんぬん
所謂、一は其の力百人に對する也。二に其の聲十里Dに響く也。三は其の齒一寸也と云々。

参考@山上郷龍奥は、群馬県桐生市新里町山上に山上城趾あり。
参考A桐生六郎は、群馬県桐生市。
参考B
蟄居は、この場合は隠れ住んでいる。
参考C人を越ゆるは、ぬきんでている。
参考D
十里は、律令制では、五尺を一歩とし、三百歩で一里(454.5m)とした。

現代語寿永二年(1183)二月二十五日。足利忠綱は義広に同意しましたが、野木宮の合戦で負けた後、先の行いを後悔して、後で罰せられる事を恥ずかしく思って、内緒で上野国山上郷龍奥に逃げ隠れました。部下の桐生六郎だけをそばに呼び寄せ、数日隠れていました。とうとう桐生の注意を聞いて、山陰道を通って九州のほうへ行ったとの事です。彼は先祖代々の勇敢な侍です。人よりもすごい事が三つあります。ひとつは力が百人力。声は4kmも届く。歯が3cmもあると謂われるのだとさ。

寿永二年(1183)二月廿七日。武衛奉幣若宮給。今日所満七ケ日也。而跪寳前。三郎先生蜂起如何之由。獨被仰出。于時小山七郎朝光持御釼。候御共。承此御旨云。先生已爲朝政被攻落訖歟云々。武衛顧面曰。小冠口状者。偏非心之所發也。尤可爲神託。若如思於令属無爲者。可被行優賞者。朝光今年十五歳也。御奉幣事終。還向給之處。行平朝政使參着之。義廣逃亡之由申之。及晩朝政使又參上。相具先生伴黨頚之由言上。仍仰三浦介義澄。比企四郎能員等被遣彼首於腰越。被梟之云々。

読下し        ぶえいわかみや ほうへい たま    きょう なぬかにち  みつ ところなり
二月廿七日。武衛若宮に奉幣し給ふ。今日七ケ日に滿る所也。

しか    ほうぜん  ぬかづ  さぶろうせんじょう  ほうき  いかんのよし  ひと  おお  い  さる
而して寳前に跪き、三郎先生@が蜂起は如何之由、獨り仰せ出だ被る。

ときに おやまのしちろうともみつぎょけん も   おんとも  そうら   こ  おんむね うけたま  い       せんじょうすで ともまさ  ため  せ  お  されおわ  か  うんぬん
時于小山七郎朝光御釼を持ち、御共に候う。此の御旨を承りて云はく。先生已に朝政の爲に攻め落と被訖る歟と云々。

ぶえいつら かえりみ い      しょうかん こうじょうは  ひとへ こころのはっ  ところ あらずなり もっと しんたくた  べ
武衛面を顧て曰はく。少冠が口状者、偏に心之發する所に非也。尤も~詫爲る可し。

も   おも    ごと   むい   ぞく  せし   をい  は   ゆうしょう おこな らる  べ  てへ    ともみつ  ことしじゅうごさいなり
若し思うが如く無爲に属さ令むに於て者、優賞に行は被る可し者り。朝光は今年十五歳也。

ごほうへい  ことおは     かんこう  たま  のところ  ゆきひら  ともまさ  つか これさんちゃく  よしひろとうぼうのよしこれ  もう
御奉幣の事終りて、還向し給ふ之處。行平、朝政の使い之參着す。義廣逃亡之由之を申す。

ばん およ  ともまさ  つか  またさんじょう  せんじょう ばんとう  くび  あいぐ  のよしごんじょう
晩に及び朝政が使い又參上す。先生が伴黨の頚を相具す之由言上す。

よっ みうらのすけよしずみ ひきのしろうよしかず ら  おお    か  くびをこしごえ   つか され   これ きょうされ   うんぬん
仍て三浦介義澄、比企四郎能員等に仰せて彼の首於腰越Aへ遣は被、之を梟被ると云々。

参考@先生(せんじょう)は、皇太子の護衛部隊の隊長、帯刀先生。
参考A
腰越は、鎌倉の外であり、出入り口なので獄門台がある。

現代語寿永二年(1183)二月二十七日。頼朝様は、八幡宮にお参りです。願をかけて七日目になります。志田先生義広の裏切り蜂起はどうなったか独り言を言いました。そばに小山七郎朝光が太刀持ちでお供をしておりました。この言葉を聞いて、「志田先生義広はもうすでに小山四郎朝政に攻め滅ばされた事でしょう。」と云ったとの事です。頼朝は振り返って云いました。「若者が云ってる事は心が思いついて云ったことではなくて、神様からのお告げに相違ない。もし、お前の思っているとおり無事に終了すれば、褒美をとらせなくてはな。」と云われました。朝光は、今年数えでまだ十五歳ですよ。参拝が終わって御所へ戻ったところ、下河辺庄司行平や小山四郎朝政の使いが到着しました。志田先生義広が逃げた事を云いました。夜になって、又もや朝政の使いが参って、志田先生義広の部下の首を持ってきたと報告しました。そこで、三浦次郎義澄、比企能員などに命令して、その首を腰越へ運ばせ、さらさせましたとさ。

寿永二年(1183)二月二十七日。安田三郎義定飛脚自遠江國參上于鎌倉。申云。平氏大將軍中宮亮通盛朝臣。左少將維盛朝臣。薩摩守忠度朝臣等。相率數千騎下向。己至尾張國。重差軍士。可被搆防戰之儀歟云々。  

やすだのさぶろうよしさだ ひきゃく  とおとうみのくによ かまくらに さんじょう   もう    い
安田三郎義定@が飛脚、遠江國自りA鎌倉于參上し、申して云はく、

へいしたいしょうぐん ちゅうぐうのすけみちもりあそん さしょうしょうこれもりあそん さつまのかみただのりあそんら すうせんき あいひき げこう
平氏大將軍  中宮亮通盛朝臣、 左少將惟盛朝臣、薩摩守忠度朝臣等、數千騎を相率ひ下向す。

すで  おわりのくに いた   かさ    ぐんし   さ   ぼうせんの ぎ  かま  らる  べ  か    うんぬん
已に尾張國に至る。重ねて軍士を差し防戰之儀を搆へ被る可き歟と云々。

参考@安田三郎義定は、甲斐源氏武田党。
参考A遠江國自りは、遠江守護になっている。

現代語安田三郎義定の飛脚(使者)が遠江国から鎌倉にやって来て云いました。平家の通盛、惟盛、忠度が数千騎の軍隊を従えて向かってくる。もう、尾張国まで来ている。もっと援軍を差し向けて防戦を用意したほうが良いのではとの事でした。

寿永二年(1183)二月廿八日。宗政爲朝政名代〔朝政依被疵不參〕相率一族及今度合力之輩。參上于鎌倉。武衛有御對面。被感仰勳功。宗政行平以下一族列居西方。知家重成以下亦列東方。所生虜之義廣從軍廿九人。或梟首。或被召預行平有綱等 次常陸下野上野之間。同意三郎先生之輩所領等。悉以被収公之。朝政朝光等預恩賞云々。

読下し        むねまさ  ともまさ みょうだい し   〔 ともまさきずせら  よっ さんぜず〕  いちぞくおよ  このたび ごうりきのやから あいひき  かまくらにさんじょう
二月廿八日。宗政、朝政の名代と爲て〔朝政疵被るに依て不參〕一族及び今度の合力之輩を相率ひ、鎌倉于參上す。

ぶえいごたいめん あ    くんこう  かん おお   られ   むねまさ ゆきひらいげ いちぞくにしかた れっきょ   ともいえ しげなり いげ またひがしかた れつ
武衛御對面有り、勳功を感じ仰せ被る。宗政、行平以下一族西方に列居し、知家、重成以下亦東方に列す。

い   ど  ところのよしひろ じゅうぐんにじゅうくにん  ある   きょうしゅ  ある    ゆきひら  ありつなら  め  あず  らる    うんぬん
生け虜る所之義廣が從軍廿九人。 或ひは梟首、或ひは行平、有綱等に召し預け被ると云々。

つい  ひたち  しもつけ  こうづけのかん    さぶろうせんじょう どうい    のやから しょりょうら    ことごと もっ これ しゅうこう され
次で常陸、下野、上野之間で、三郎先生に同意する之輩の所領等は、悉く以て之を収公被る。

ともまさ  ともみつら おんしょう あずか  うんぬん
朝政、朝光等恩賞に預る@と云々。

参考@朝光等恩賞に預るは、このときの恩賞に朝光は、頼朝から結城をもらい「結城朝光」と名乗っていく。

現代語寿永二年(1183)二月二十八日。小山五郎宗政が小山四郎朝政の代理として「小山四郎朝政は傷を受けてこれません。」一族と加勢してくれた武士達を連れて鎌倉に参りました。頼朝様はお会いになり、手柄を感じたと誉められました。宗政、下河辺庄司行平以下の一族は西方に並び、八田知家、小栗重成以下は、東方に並びました。生け捕りにした志田先生義広の部下は二十九人で、あるものは獄門に、あるものは下河辺庄司行平や佐野有綱に囚人として預けられることになりましたとの事です。次に常陸、下野、上野の侍で志田先生義広に味方した武士の所領はことごとく全てこれを取り上げました。朝政や朝光達は褒美をもらいましたとさ。

参考*この野々宮合戦によって、関東の内で頼朝に服従しないものはいなくなった。

寿永二年(1183)二月二十八日。志太三郎先生義廣濫悪掠領常陸國鹿嶋社領之由。依聞食之。一向可爲御物忌沙汰之由被仰下。散位久經奉行之云々。」今日。和田小太郎義盛。岡部次郎忠綱。狩野五郎親光。宇佐美三郎祐茂。土屋次郎義C等差遣遠江國。平氏等發向之由依有其告也。

しだのさぶろうせんじょうよしひろ らんあく  ひたちにくにかしましゃ りょう りゃくりょう   のよし   これ  きこ  め     よっ
志田三郎先生義廣 濫惡し、常陸國鹿嶋社@領を掠領する之由、之を聞し食すに依て、

いっこう  おんものいみ  さた た   べ   のよし  おお くださる    さんにひさつねぶぎょう   うんぬん
一向に御物忌の沙汰爲る可し之由、仰せ下被る。散位久經奉行すと云々。

きょう    わだのこたろうよしもり   おかべのじろうただつな かのうのごろうちかみつ  うさみのさぶろうすけしげ  つちやのじろうよしきよら とうとうみのくに さ  つか
今日、和田小太郎義盛、岡部次郎忠綱A、狩野五郎親光、宇佐美三郎祐茂、土屋次郎義C等を遠江國へ差し遣はす。

へいしら はっこう のよし そ  つ   あ     よっ  なり
平氏等發向之由其の告げ有るに依て也。

参考@鹿嶋社は、茨城県鹿島市鹿島神宮。
参考A岡部次郎忠綱は、駿河国志太郡。泰綱ー忠綱。現静岡県藤枝市岡部町岡部。

現代語志田三郎先生義広が悪い事をして、常陸国鹿島神社の領地の貢物を略奪したとの事を頼朝様がお聞きになりましたので、ひたすら物忌みにするよう命令されました。(同族の源氏の叔父が神様に対して悪いことをしたので行動を控えて神様に祈った。)久經が担当したとの事です。
今日、和田太郎義盛、岡部次郎忠綱、狩野五郎親光、土屋次郎義清達を遠江へ差し向けました。平氏がこっちへ向けて出発したと知らせがあったからです。

(今日、以降の文書の内容は、十七日の内容とダブっている。どちらかが切り貼りの誤謬であろう)

 

平家物語第七巻「北国下向」によると
寿永二年三月上旬に義仲と頼朝との間で対立し、碓氷峠で対抗し、善光寺平へ押し出し長野県長野市中御所に陣を張り、対峙します。(善光寺裏合戦の名だけ残り内容は不明)その結果、義仲の嫡男「清水冠者義高」が頼朝の娘大姫の婿として人質にきます。
大姫と義高の悲恋は拙歴散加藤塾の「頼朝の娘達」をご覧ください。http://homepage2.nifty.com/katohjuk/musume-main.htm
吾妻鏡にはなぜか、下の通り治承四年十二月二十四日に書かれている。

治承四年「庚子」(1180)十二月小廿四日壬寅。木曾冠者義仲避上野國。赴信濃國。是有自立志之上。彼國多胡庄者。爲亡父遺跡之間。雖令入部。武衛權威已輝東關之間。成歸往之思。如此云々。

寿永二年三月上旬

きそのかじゃよしなか  こうづけのくに さ  しなののくに  おもむ
木曾冠者義仲、上野國を避け信濃國へ赴く。

これ  じりつ こころざしあ のうえ   か  くにたこのしょう は ぼうふ  ゆいせきたるのかん  にゅうぶせし  いへど
是、自立の志有る之上、彼の國多胡庄@者亡父の遺跡爲之間、入部令むと雖も、剥いた

ぶえい  けんいすで  とうかん  かがや のかん  きおうの おも    な   かく  ごと    うんぬん
武衛の權威已に東關に輝く之間、歸往之思いを成し此の如しと云々。

参考@多胡庄は、群馬県多野郡吉井町多胡。館跡は竹藪になっていた。館跡の下が仁叟寺になっていて、長谷川平蔵の4〜6代前の先祖のお墓がある。

現代語寿永二年(1183)三月上旬。木曽冠者義仲は上州から信州に立ち退きました。これは自分で独立して立ち上がろうとする意志を持っている上、上州多古庄は父帯刀先生義賢の由緒があるので侵入したけれども、頼朝様の権威が関東に行き渡っているので、怖れを抱いて降伏的和順をもったので、こうなりましたと云う事です。

寿永二年三月 山城国和束杣の・杣工等二十四人中十七人が平家に出兵させられている。

以下寿永二年四月も切り貼りの誤謬なので、本来の年号にした。原文には「○日条」で年月は書かれていない。

寿永二年(1183)四月十六日。中宮亮通盛朝臣。爲追討木曾冠者。又赴北陸道。伊勢守C綱。上總介忠C。館太郎貞保發向東國。爲襲武衛也。

読下し   ちゅうぐうさかんみちもりあそん  きそのかじゃ ついとう  ため  また ほくろくどう おもむ
十六日。中宮亮通盛朝臣、木曾冠者を追討せん爲、又北陸道に赴く。

いせのかみきよつな かずさのすけただきよ  たちのたろうさだやす とうごく はっこう   ぶえい   おそ   ためなり
伊勢守C綱、上總介忠C@、舘太郎貞保 東國に發向す。武衛を襲はん爲也。

参考@上總介忠Cは、伊藤上總介忠Cで富士川の合戰の侍大将。息子に謡曲景Cの悪七兵衛景C、永福寺造営中に頼朝暗殺がばれて処刑された上総五郎忠光あり。

現代語寿永二年(1183)四月十六日。中宮亮通盛朝臣も木曽義仲を追討するために同じく北陸道に出かけました。伊勢守清綱、上総介忠清、舘太郎貞保は関東へ向けて出発しました。頼朝様を攻めるためです。

参考この記事は、二巻養和元年八月に記載されているが、源平盛衰記などから寿永二年四月の出来事と思われるので、ここに掲載した。

寿永二年四月十七日 平家北陸道へ出兵

寿永二年(1183)四月廿六日。散位康信入道所進飛脚申云。今月一日。自福原歸洛。而去十六日。官軍等差東方發向。尤可被廻用意歟。

読下し   さんにやすのぶにゅどう しん  ところ ひきゃくもう    い
廿六日。散位康信入道進ずる所の飛脚申して云はく。

こんげつついたち ふくはら  きらく     しか     さぬ じゅうろくにち かんぐんら とうほう さ はっこう    もっと ようい    めぐ  され  べ   か
今月一日、lエより歸洛す。而して去る十六日官軍等東方を差し發向す。尤も用意を廻ら被る可き歟。

現代語寿永二年(1183)四月二十六日。散位三善康信入道が出した飛脚が頼朝様に申し上げました。「今月一日(康信は)福原(神戸)から京都へ戻りました。そして、先日の十六日に現政府軍が東を目指して出発しました。充分に迎え撃つ準備をするべきだと思います。

参考この記事は、二巻養和元年八月に記載されているが、源平盛衰記などから寿永二年四月の出来事と思われるので、ここに掲載した。

寿永二年(1183)五月四日。木曾冠者爲平家追討上洛。廻北陸道。而先陣根井太郎至越前國水津。与通盛朝臣從軍。已始合戰云々。 

読下し                     きそのかじゃよしなか へいけ ついとう  ため  じょうらく   ほくろくどう  めぐ
寿永二年(1183)五月四日。木曾冠者義仲、平家追討の爲に上洛し、北陸道へ廻る。

しか    せんじん  ねいのたろう  えちぜんのくにすいづ  いた  みちもりあそん  じゅうぐんとすで  かっせん  はじ    うんぬん
而るに先陣の根井太郎は越前國水津@に至り、通盛朝臣が從軍与已に合戰を始めると云々。

参考@越前國水津は、福井県敦賀市杉津。

現代語寿永二年(1183)五月四日。木曽冠者義仲は、平家追悼のために京都へ向かって北陸道(日本海沿い)へ回りました。それなのに、根井太郎は越前の水津で、道盛の軍と既に合戦を始めてしまったのだとさ。

参考この記事は、二巻養和元年八月に記載されているが、源平盛衰記などから寿永二年五月の出来事と思われるので、ここに掲載した。

寿永二年五月十二日 砺波山合戦

寿永二年七月二十五日 平家都落ち

寿永二年七月二十八日 木曾冠者義仲入洛、行家、義広、武田、安田が同行す

以下も切り貼りの誤謬なので、読み下しは本来の年号にした。

寿永二年(1183)九月七日。從五位下藤原俊綱〔字足利太郎〕者。武藏守秀郷朝臣後胤。鎭守府將軍兼阿波守兼光六代孫。散位家綱男也。領掌數千町。爲郡内棟梁也。而去仁安年中。依或女性之凶害。得替下野國足利庄領主軄。仍平家小松内府賜此所於新田冠者義重之間。俊綱令上洛。愁申之時被返畢。自爾以降。爲酬其恩。近年令属平家之上。嫡子又太郎忠綱同意三郎先生義廣。依此等事。不參武衛御方。武衛亦頻咎思食之間。仰和田次郎義茂。被下俊綱追討御書。三浦十郎義連。葛西三郎C重。宇佐美平次實政被相副之。先義茂今日下向。

読下し                     じゅごいげふじわらのとしつな 〔あざ あしかがのたろうとしつな 〕 は むさしのかみひでさとあそん こういん
寿永二年(1183)九月七日。從五位下藤原俊綱〔字を足利太郎俊綱@〕者、武藏守秀郷朝臣の後胤、

ちんじゅふしょうぐんけんあわのかみかねみつ ろくだい まご さんにいえつな おとこなり  すうせんちょう りょうしゅう  ぐんない  とうりょう  な   なり
鎭守府將軍兼阿波守兼光が 六代の孫、散位家綱が男也。數千町を領掌し、郡内の棟梁を爲す也。

しか    さぬ じんあんねんちゅう あるじょせいのきょうがい よっ   しもつけのくにあしかがのしょうりょうしゅしき とくたい
而して去る仁安年中、或女性之凶害に依て、下野國 足利庄領主職を 得替される。

よっ    ほんけ こまつないふ  こ  ところを にったのかじゃよししげ たまは のかん  としつなじょうらくせし うれ もう   のとき  かへ  つか  され
仍て、本家小松内府、此の所於新田冠者義重に賜る之間。俊綱上洛令め愁ひ申す之時、返し遣は被る。

これよりいこう   そ   おん むく    ため  きんねんへいけ ぞく  せし  のうえ  ちゃくしまたたろうただつな  さぶろうせんじょうよしひろ どうい
自爾以降、其の恩に酬いん爲。近年平家に属さ令む之上、嫡子又太郎忠綱は三郎先生義廣に同意す。

これら   こと  よっ    ぶえい  みかた  さんぜず
此等の事に依て、武衛の御方に不參。

ぶえいまたしきり とが  おも  め   のかん  わだのじろうよしもち   おお      としつなついとう おんしょ  くだされ
武衛亦頻に咎め思ひ食す之間、和田次郎義茂に仰せて、俊綱追討の御書を下被る。

みうらのじゅうろうよしつら かさいのさぶろうきよしげ うさみのへいじさねまさ  これ  あいそ  らる     ま  よしもち きょう げこう
三浦十郎義連、葛西三郎C重、宇佐美平次實政を之に相副へ被る。先ず義茂今日下向す。

参考@足利太郎俊綱は、藤性足利氏。この当時、上州から下野にかけて新田と小山とこの藤性足利氏が三つ巴で覇権争いをしていた。源性足利氏は未だちっぽけだった。

現代語寿永二年(1183)九月七日。從五位下藤原俊綱〔名字は足利太郎俊綱〕は、俵の藤太郎藤原秀郷様の子孫で、鎭守府將軍兼阿波守兼光六代目の子孫の家綱の息子です。数千町分を支配して、足利郡の一番の頭領です。それなのに、以前の仁安(1166-1169清盛太政大臣になる)に京都である女性を殺害した罪により、足利の荘園領主を取り上げられました。そこで、空いた領主職を平重盛は新田義重に与えてしまったので、足利太郎俊綱は上洛して嘆き訴えたところ返されました。それ以降その恩に答えるために最近平家の子分になっているので、頼朝に敵対する志田三郎先生義広に味方しました。こういうことがあって、頼朝様の味方には来ませんので、頼朝様も憎く思うので、和田次郎義茂に命令して、足利太郎俊綱を攻め滅ぼす命令書を書き与えました。三浦十郎義連と葛西三郎清重と宇佐美平次実政を加勢につけました。まず始めに今日和田次郎義茂が向かいました。

寿永二年(1183)九月十三日。和田次郎義茂飛脚自下野國參申云。義茂未到以前。俊綱專一者桐生六郎。爲顯隱忠。斬主人而篭深山。搜求之處。聞御使之由。始入來陣内。但於彼首者。稱可持參。不出渡之。何樣可計沙汰哉云々。仰云。早可持參其首之旨。可令下知者。使者則馳皈云々。

読下し                        わだのじろうよしもち  ひきゃく  しもつけのくによ まい  もう     い
寿永二年(1183)九月十三日。和田次郎義茂が飛脚、下野國自り參り申して云はく。

よしもちいま  いた    いぜん    としつな せんいつ ものきりゅうのろくろう いんちゅう あらは  ため しゅじん  きって  しんざん  こも
義茂未だ到らず以前に、俊綱が專一の者桐生六郎、穩忠を顯さん爲、主人を斬而、深山に籠る。

さが  もと    のところ  おんしのよし   き     はじ    じんない い   きた
搜し求める之處。御使之由を聞き、始めて陣内に入り來る。

ただ  か   くび  をい  は  じさんすべ    しょう   これ  い   わた ず   いかよう   さた   はか  べきや  うんぬん
但し彼の首に於て者、持參可しと稱し、之を出で渡さ不。何樣に沙汰を計る可哉と云々。

おお    い       はや  そ   くび  じさんすべ  のむね  げち せし  べ  てへ     ししゃすなは は   かえ   うんぬん
仰せて云はく、早く其の首を持參可し之旨、下知令む可し者れば、使者則ち馳せ皈ると云々。

現代語寿永二年(1183)九月十三日。和田次郎義茂からの手紙を持った使者が栃木県から来て申し上げました。和田次郎義茂が現地へ入る前に足利太郎俊綱の一番の家来の桐生六郎が心にひそかに持っている(頼朝様への)忠誠心を示すために、主人を切って山の中へ隠れました。探させたところ、捜索者の言葉を聴いて、初めて陣地へやってきました。ただし、足利太郎俊綱の首については、鎌倉へ直接に持参したいと言って、渡しませんでしたので、どうしましょうかとの事です。頼朝様が申されるのには、早くその首を持って来させるようにと、命令しましたので、使いは直ぐに走り返りましたとさ。

寿永二年(1183)九月十六日。桐生六郎持參俊綱之首。先自武藏大路。立使者於梶原平三之許。申案内。而不被入鎌倉中。直經深澤。可向腰越之旨被仰之。次依可被加實檢。見知俊綱面之者有之歟之由被尋仰。而只今於祗候衆者。不合眼之由申之。爰佐野七郎申云。下河邊四郎政義常遂對面云々。可被召之歟云々。仍召仰之間。政義遂實檢令歸參。申云。刎首之後。經日數之故。其面殊改雖令變。大畧無相違云々。

読下し                       きりゅうろくろう  としつな くび  も   まい
寿永二年(1183)九月十六日。桐生六郎、俊綱が首を持ち參る。

ま   むさしおおじ よ     ししゃ を かじわらのへいざのもと  た    あないもう
先ず武藏大路自り、使者於梶原平三之許に立て、案内申す。

しか    かまくらちゅう い   られず  じき  ふかざわ  へ  こしごえ  むか  べ   のむね  これ  おお   られ
而るに鎌倉中に入れ被不。直に深澤@を經て腰越Aに向ふ可し之旨、之を仰せ被る。

つい  じっけん くは  られ  べ    よっ     としつな つら  み し   のもの  これあ  か のよし  たず  おお  られ
次で實撿を加へ被る可しに依て、俊綱の面を見知る之者、之有る歟之由、尋ね仰せ被る。

しか    ただいましこう しゅう  をい  は め   あわせずのよし  これ  もう
而して只今祗候の衆に於て者眼を不合之由、之を申す。

ここ  さののしちろう もう    い       しもこうべのしろうまさよし  つね  たいめん  と    うんぬん  これ  めされ  べ  か  うんぬん
爰に佐野七郎申して云はく、下河邊四郎政義は常に對面を遂ぐと云々。之を召被る可き歟と云々。

よっ  め   おお    のかん まさよしじっけん  と   きさんせし  もう    い
仍て召し仰せる之間。政義實撿を遂げ歸參令め申して云はく。

くび  き   ののち  にっすう  へ   のゆえ  そ  つらこと  あらた かへせし   いへど   たいりゃくそういな   うんぬん
首を刎る之後、日數を經る之故、其の面殊に改め變令むと雖も、大略相違無しと云々。

参考@深沢は、鎌倉市常盤に湘南モノレール「湘南深沢駅」「深沢郵便局」深沢小学校には梶原一族の墓といわれるやぐらあり。
参考A腰越は、鎌倉市腰越。

現代語寿永二年(1183)九月十六日。桐生六郎が足利太郎俊綱の首を持ってやってきました。まず、武蔵大路から、使いを梶原平三景時の処へ出して、引き回しを頼みました。しかしながら、鎌倉の中には入れてもらえず、深沢を通って腰越へ向かわせるように(頼朝様は)申されました。次に首実検をするために、誰か足利太郎俊綱の顔を知っているものはいるかと聞かれました。しかし、幕府に来ている人達の中には「目を合わせたことがない」と云っています。すると佐野七郎が言うのには「下河辺四郎政義は普段から会っているはずだから、彼を呼びつけたらどうですか」との事でした。そこで、呼び命じたところ、首実験を終えて、戻ってきて申し上げるのには、「首を切られてからだいぶ日数が立っているので、その顔がすっかり変わってしまっているのですが、概ね間違いないと思いますよ。」との事でした。

寿永二年(1183)九月十八日。桐生六郎以梶原平三申云。依此賞。可列御家人云々。而誅譜代主人。造意之企。尤不當也。雖一旦不足賞翫。早可誅之由被仰。景時則梟俊綱首之傍訖。次俊綱遺領等事。有其沙汰。於所領者収公。至妻子等者。可令本宅資財安堵之由被定之。載其趣於御下文。被遣和田次郎之許云々。
 仰下 和田次郎義茂所
  不可罸雖爲俊綱之子息郎從參向御方輩事
 右。云子息兄弟。云郎從眷属。始桐生之者。於落參御方者。不可及殺害。又件黨類等妻子眷属并私宅等。不可取損亡之旨。所被仰下如件。
     治承五年九月十八日

読下し                       きりゅうろくろう  かじわらのへいざ もっ  もう    い        こ  しょう  よっ  ごけにん   れつ  べ    うんぬん
寿永二年(1183)九月十八日。桐生六郎、梶原平三を以て申して云はく。此の賞に依て御家人に列す可しと云々。

しか    ふだい  しゅじん  ちゅう ぞういのくはだ    もっと ふとうなり  いったん いえど しょうがん たりず  はや  ちゅう  べ   のよし  おお   らる
而るに譜第の主人を誅す造意之企て、尤も不當也。一旦と雖も賞翫に不足。早く誅す可し之由、仰せ被る。

かげとき すなは としつな くびのかたわら きょう をは
景時、則ち俊綱の首之傍に梟し訖んぬ。

つい  としつな  ゆいりょうら  こと  そ   さた あ     しょりょう をい  は しゅうこう
次で俊綱が遺領等の事、其の沙汰有り。所領に於て者収公す。

 さいしら   いた    は  ほんたくしざい あんどせし  べ  のよし  これ  さだ  らる
妻子等に至りて者、本宅資財安堵令む可し之由、之を定め被る。

そ おもむき おんくだしぶみ の    わだのじろう の もと  つか  さる    うんぬん
其の趣を御下文に載せ、和田次郎之許へ遣は被ると云々。

  おお  くだ    わだのじろうよしもち  ところ
 仰せ下す 和田次郎義茂の所

     としつなの しそくろうじゅう な    いへど みかた  さんこう   やから ばっ  べからず  こと
  俊綱之子息郎從を爲すと雖も御方に參向する輩を罸す不可の事

  みぎ    しそくきょうだい  い    ろうじゅうけんぞく  い   きりゅうの もの  はじ    みかた  お   まい    をい  は   せつがい およ  べからず
 右は、子息兄弟と云ひ、郎從眷属と云ひ。桐生之者を始め、御方に落ち參るに於て者、殺害に及ぶ不可。

  また  くだん  とうるいら  さいしけんぞくなら    したく ら   と   こぼ ほろぼ べからずのむね おお くだされ し   ところ  くだん ごと
 又、件の黨類等、妻子眷属并びに私宅等は取り損ち亡す不可之旨、仰せ下被知らす所、件の如し。

        じしょうごねんくがつじうはちにち
    治承五年九月十八日

参考妻子等に至りて者、本宅資財安堵は、渇命所(かつめいどころ)と云って食べていける分だけは領地を保障する。蛭ケ島郷は頼朝の渇命所だった。

現代語寿永二年(1183)九月十八日。桐生六郎が梶原平三景時を通して申しました。「この手柄によって御家人に加えてください。」しかし、(頼朝様は)「代々使えている主人を殺すという反逆の策略は、最も不当な(計画的)犯罪だ。一度たりともほめるには値しないので、早く死刑にするように。」と、おっしゃられました。梶原平三景時は直ぐに(腰越の)足利太郎俊綱のさらし首の脇で、首を刎ねてさらしました。
次に足利太郎俊綱の残した領地について、命令が下されました。所領は没収します。但し妻子達の本宅とその資材はそのまま認めておくように決められました。
その内容の命令書を和田次郎義茂へ届けさせました。

命令する 和田次郎義茂へ
足利太郎俊綱の子息、兄弟、家来下僕に至るまで、桐生の里の者を始めとして、投降してくる者は殺してはいけません。また、その一族や妻子従僕の個人的住まいを壊したり取り上げたりしてはいけません。と(頼朝様が)命令なさっていることはこの通りですよ。
     治承五年九月十八日

寿永二年(1183)九月廿八日。和田次郎義茂自下野國歸參云々。

読下し                       わだのじろうよしもち  しもつけのくによ  きさん   うんぬん
寿永二年(1183)九月廿八日。和田次郎義茂、下野國自り歸參すと云々。

現代語寿永二年(1183)九月二十八日。和田次郎義茂が栃木県から戻ってきましたとさ。

寿永二年十月「十月宣旨」発行(頼朝宛に東国の支配を任せる。初め東海道、東山道、北陸道で出すが、二度目に木曾冠者義仲が怒るので北陸道をはずした。)

寿永二年十一月二十五日 法住寺殿合戦 結果 左馬頭征夷大将軍(閫外人・將は陣において天皇の命を待たず)をお手盛りする
         〜二十九日 木曾冠者義仲専横す
参考木曾義仲の法住寺攻めの合戰で死んだ武士の墓が発掘されている。鎧兜つけていたそうです。兜の桑形は細長いタイプで紐で結わえ付ける物だそうです。

寿永二年十二月二十二日 梶原平三景時が双六の席上で上総權介廣常を暗殺する。
 上総權介廣常は頼朝に「なんでふ朝家のことをのみ思いわずらう坂東にかくてあらんに誰かは引きはたかさん」(現代語訳)なんで京都の朝廷のことばかりを気にするのですか、関東ではこのまま京都への納税を止めたままにしておいたほうが良いのに誰がそんなことに加担するものですか。」と云って関東独立をほのめかす。これを将門の二の舞になっちゃかなわんし、このままでは政権不安定のままなので、未だ鎌倉殿の意向が染みとおっていないので、梶原平三景時が一芝居打った。
これにより、東国武士は頼朝が京都攻めを望んでいる事を知る。
参考建久元(1190)年、後に頼朝が初めて京に上洛し後白河法皇に告げたと慈円の愚管抄にある。
●愚管抄巻六 院に申しける事は、我が朝家の為。君の御事を私無く身に替えて思候しるしは、介の八郎広常と申し候し者は東国のノ勢人。頼朝打ち出で候いて君の御敵退け候はんとし候いし初めは、広常を召し取り手、勢にしてこそかくも打ちえて候しかば、功有る者にて候しかど、思い廻らし候えば、なんじょう朝家の事をのみ見苦しく思うぞ、ただ坂東にかくてあらんに、誰かは引働かさんなど申して、謀反心の者にて候いしかば、係る者を郎従に持ちて候はば、頼朝まで冥加候はじと思いて、失い候にきとこそ申しける。その介八郎を梶原景時をして討たせたる事、景時が功名と云うばかりなり。双六を打ちて、さりげなしにて盤を越えて、やがて首を掻き切りて持って来たりける。誠しからぬ程の事なり。細かに申さば、去る事は僻事もあればこれにて足りぬべし。この奏聞の様子誠ならば、返す返すも朝家の宝なりける者かな。

寿永二年(1183)十二月卅日。上総國御家人周西二助忠以下。多以可安堵本宅之旨。奉恩裁云々。

読下し                       かずさのくに ごけにん すさいのじろうすけただいげ おお もっ    ほんたくあんど すべ のむね おんさいたてまつ  うんぬん
寿永二年(1183)十二月卅日。上総國御家人 周西二郎助忠以下多く以て、本宅安堵@可し之旨、恩裁奉ると云々。

参考@本宅安堵とは、広常に従属している家人なので、広常事件で一度止められた屋敷とその門田を改めて許された。

現代語寿永二年(1183)十二月三十日。上総国の御家人の周西二郎助忠以下沢山の人が本宅分を安堵されましたとさ。

三巻へ

吾妻鏡入門幻の寿永二年 

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