吾妻鏡入門第三巻

壽永三年(1184)二月大「四月十六日元暦元年と爲す」

壽永三年(1184)二月大一日庚申。蒲冠者範頼主蒙御氣色。是去年冬爲征木曾。上洛之時。於尾張國墨俣渡。依相爭先陣。与御家人等鬪乱之故也。其事。今日已聞食之間。朝敵追討以前。好私合戰。太不隱便之由被仰云々。

読下し                         かばのかじゃのりよりぬし  みけしき  こうむ
壽永三年(1184)二月大一日庚申。蒲冠者範頼主、御氣色を蒙る。

これ   こぞ  ふゆ   きそ   せい    ため  じょうらく   のとき  おわりのくにすみまた わた    をい
是、去年の冬、木曾を征せん爲に上洛する之時、尾張國墨俣の渡し
@に於て、

せんじん あいあらそ   よっ    ごけにんら  と とうらん    のゆえなり
先陣を相爭うに依て、御家人等与鬪乱する之故也。

そ   こと   きょうすで  き     め   のかん  ちょうてきついとう  いぜん    し   かっせん この     はなは おんびんならずのよし おお られ  うんぬん
其の事、今日已に聞こし食す之間、朝敵追討の以前に、私の合戰を好むとは太だ穩便不之由、仰せ被ると云々。

参考@墨俣渡は、墨俣河=長良川の別名、当時は木曽川と揖斐川が合流し、要害の地であった。

現代語寿永三年(1184)二月大一日庚申。範頼殿は頼朝様のご機嫌を損ねました。これは、去年の冬に京都の義仲を攻めるために京都へ向かった時、尾張の墨俣川(今の長良川)で先陣を争って御家人と喧嘩をしたからです。その事が今日頼朝様のお耳に入りましたので、平家軍と戦う前に、味方同士が争うとは、ただ事ではないとおおせられましたとの事です。

壽永三年(1184)二月大二日辛酉。樋口次郎兼光梟首。澁谷庄司重國奉之。仰郎從平太男。而斬損之間。子息澁谷次郎高重斬之。但去月廿日合戰之時依被疵。爲片手打云々。此兼光者。与武藏國兒玉之輩。爲親昵之間。彼等募勳功之賞。可賜兼光命之旨。申請之處。源九郎主雖被奏聞事由。依罪科不輕。遂以無有免許云々。

読下し                         ひぐちのじろうかねみつ きょうしゅ  しぶやのしょうじしげくに これ うけたま ろうじゅうへいたおこと おお
壽永三年(1184)二月大二日辛酉。樋口次郎兼光@梟首す。澁谷庄司重國A之を奉り、郎從平太男に仰す。

しか      きりそこな のかん  しそく   しぶやのじろうたかしげ これ き
而るに、斬損う之間、子息の澁谷次郎高重
B之を斬る。

ただ    さぬ つきはつか  かっせんのとき  きずせら   よっ    かたて う   た   うんぬん
但し、去る月廿日の合戰之時に疵被るに依て、片手打ち爲りと云々。

こ   かねみつは むさしのくにこだまのやから と じっこんた   のかん  かれらくんこうのしょう  つの    かねみつ いのち たま   べ   のむね
此の兼光者、武藏國兒玉之輩
C与親眤爲る之間、彼等勳功之賞を募り、兼光の命を賜はる可し之旨、

もう   こ   のところ  げんくろうぬしこと  よし  そうもんされ   いへど  ざいかかろからず よっ    つい  もっ  めんきょあ     な    うんぬん
申し請う之處、源九郎主事の由を奏聞被ると雖も、罪科輕不に依て、遂に以て免許有るは無しと云々。

参考@樋口次郎兼光は、中原兼遠の次男。今井兼平・巴御前の兄。木曽義仲の乳母子にして股肱の臣。義仲四天王の一人である。
参考A澁谷庄司重國は、神奈川県大和市の小田急江ノ島線「高座渋谷」駅。
参考B澁谷次郎高重は、澁谷庄司重國の次男。
参考C武藏國兒玉之輩は、武蔵七党の一つ児玉党。埼玉県本庄市(児玉駅)から児玉郡一帯。

現代語寿永三年(1184)二月大二日辛酉。樋口次郎兼光を打ち首にしました。渋谷庄司重国がこれを任されて、家来の平太男に命じました。しかし、うまく首を切れませんでしたので、重国の息子の渋谷次郎高重がこれを切りました。だけれども先月二十日の戦で怪我をしていたので、片手で切りましたとさ。この兼光は、武蔵国児玉党の人達と仲良くしていたので、児玉党の今までの手柄に免じて、樋口次郎兼光の命を預かりたいとお願いをしましたので、源九郎義経はそのことを朝廷に申し上げましたが、罪がとても重いという事で、とうとう許可にはなりませんでしたとさ。

壽永三年(1184)二月大四日癸亥。平家日來相從西海山陰兩道軍士數万騎。搆城郭於攝津与播磨之境一谷。各群集。今日迎相國禪門三廻忌景。修佛事云々。

読下し                         へいけ  ひごろ さいかいさんいんりょうどう ぐんしすうまんき  あいしたが
壽永三年(1184)二月大四日癸亥。平家、日來西海山陰兩道の軍士數万騎を相從へ、

じょうかくを せっつと はりまのさかいいちのたに  かま おのおの ぐんしゅう  きょう   しょうこくぜんもん さんかいきけい むか ぶつじ   しゅう  うんぬん
城郭於攝津与幡磨之境一谷
@に搆へ、各、群集す。今日、相國禪門の三廻忌景を迎へ佛事を修すと云々。

参考@一谷は、神戸市中央区生田から須磨区あたりまでらしい。

現代語寿永三年(1184)二月大四日癸亥。平家は、この頃は山陽道と山陰道の軍隊を数万の騎馬隊を家来にして、城郭を摂津(大阪府)と播磨(兵庫県)との境の一の谷に整備をして、集合しています。今日は、亡き清盛大臣の三回忌の法事を行ったのだとさ。

壽永三年(1184)二月大五日甲子。酉尅。源氏兩將到攝津國。以七日卯剋。定箭合之期。大手大將軍蒲冠者範頼也。相從之輩。
 小山四郎朝政    武田兵衛尉有義    板垣三郎兼信    下河邊庄司行平
 長沼五郎宗政    千葉介常胤      佐貫四郎廣綱    畠山次郎重忠
 稻毛三郎重成    同四郎重朝      同五郎行重     梶原平三景時
 同源太景季     同平次景高      相馬次郎師常    國分五郎胤道
 東六郎胤頼     中條藤次家長     海老名太郎     小野寺太郎通綱
 曾我太郎祐信    庄司三郎忠家     同五郎廣方     塩谷五郎惟廣
 庄太郎家長     秩父武者四郎行綱   安保次郎實光    中村小三郎時經
 河原太郎高直    同次郎忠家      小代八郎行平    久下次郎重光
已下五万六千餘騎也。搦手大將軍源九郎義經也。相從之輩。
 遠江守義定     大内右衛門尉惟義   山名三郎義範    齋院次官親能
 田代冠者信綱    大河戸太郎廣行    土肥次郎實平    三浦十郎義連
 糟屋藤太有季    平山武者所季重    平佐古太郎爲重   熊谷次郎直實
 同小次郎直家    小河小次郎祐義    山田太郎重澄    原三郎C益
 猪俣平六則綱
已下二万餘騎也。平家聞此事。新三位中將資盛卿。小松少將有盛朝臣。備中守師盛。平内兵衛尉C家。惠美次郎盛方已下七千余騎。着于當國三草山之西。源氏又陣于同山之東。隔三里行程。源平在東西。爰九郎主如信綱實平加評定。不待曉天。及夜半襲三品羽林。仍平家周章分散畢。

読下し                         とりのこく  げんじ  りょうしょう せっつのくに  いた
壽永三年(1184)二月大五日甲子。酉尅、源氏の兩將、攝津國に到る。

なぬか うのこく  もっ    やあわせのご  さだ    おおて  だいしょうぐん かばのかじゃのりよりなり あいしたが のやから
七日卯尅を以て、箭合之期と定む。大手の大將軍は蒲冠者範頼也。相從う之輩は

  おやまのこしろうともまさ        たけだのひょうえのじょうありよし  いたがきのさぶろうかねのぶ     しもこうべのしょうじゆきひら
 小山小四郎朝政   武田兵衛尉有義   板垣三郎兼信    下河邊庄司行平

  ながぬまのごろうむねまさ       ちばのすけつねたね        さぬきのしろうひろつな        はたけやまのじろうしげただ
 長沼五郎宗政    千葉介常胤     佐貫四郎廣綱    畠山次郎重忠

  いなげのさぶろうしげなり       おな    しろうしげとも       おな    ごろうゆきしげ       かじわらのへいざかげとき
 稻毛三郎重成    同じき四郎重朝   同じき五郎行重   梶原平三景時

  おな    げんたかげすえ      かじわらのへいじかげたか      そうまのじろうもろつね        こくぶのごろうたねみち
 同じき源太景季   梶原平次景高    相馬次郎師常    國分五郎胤道

  とうのろくろうたねより          ちゅうじょうのとうじいえなが      えびなのたろう            おのでらのたろうみちつな
 東六郎胤頼     中條藤次家長    海老名太郎     小野寺太郎道綱

  そがのたろうすけのぶ         しょうじのさぶろうただいえ      おな    ごろうひろかた      えんやのごろうこれひろ 
 曾我太郎祐信    庄司三郎忠家    同じき五郎廣方   塩谷五郎惟廣

  しょうのたろういえなが         ちちぶのむしゃしろうゆきつな   あぼのじろうさねみつ         なかむらのこさぶろうときつね
 庄太郎家長     秩父武者四郎行綱  安保次郎實光    中村小三郎時經

  かわはらのたろうたかなお       かわはらのじろうただいえ      しょうだいのはちろうゆきひら    くげのじろうしげみつ
 河原太郎高直    河原次郎忠家    小代八郎行平    久下次郎重光

いか  ごまんろくせんよき なり  からめて  だいしょうぐん げんくろうよしつねなり あいしたが のやから
已下五万六千餘騎也。搦手の大將軍は源九郎義經也。相從う之輩、

  とおとうみのかみよしさだ       おおうちのうえもんのじょうこれよし やまなのさぶろうよしのり       さいいんじかんちかよし
 遠江守義定     大内右衛門尉惟義  山名三郎義範    齋院次官親能

  たしろのかじゃのぶつな        おおかわどのたろうひろゆき    といのじろうさねひら         みうらのじゅうろうよしつら
 田代冠者信綱    大河戸太郎廣行   土肥次郎實平    三浦十郎義連

  かすやのとうたありすえ         ひらやまのむしゃどころすえしげ  ひらさこのたろうためしげ      くまがいのじろうなおざね
 糟屋藤太有季    平山武者所季重   平佐古太郎爲重   熊谷次郎直實

  おな     こじろうなおいえ     おがわのこじろうすけよし       やまだのたろうしげずみ      はらのさぶろうきよます
 同じき小次郎直家  小河小次郎祐義   山田太郎重澄    原三郎C益

  いのまたのへいろくのりつな
 猪俣平六則綱

いか  にまんよきなり    へいけ こ   こと  き     しんさんみちゅうじょうつぐもりきょう こまつのしょうしょうありもりあそん びっちゅうのかみもろもり
已下二万餘騎也。平家此の事を聞き、新三位中將資盛卿、 小松少將有盛朝臣、 備中守師盛、

へいないひょうえのじょうきよいえ えみのじろうもりかた いか ななせんよき  とうごく みくさやま のにしに つ
平内兵衛尉C家、 惠美次郎盛方已下七千余騎、當國三草山
@之西于着く。

げんじ また  おな  やまのひがしにさんり  こうてい  へだ  じん    げんぺい とうざい  あ
源氏又、同じく山之東于三里の行程を隔て陣す。源平東西に在り。

ここ   くろうぬし  のぶつな さねひら ごと   ひょうじょう  くは   ぎょうてん  またず  やはん  およ さんぽんうりん   おそ
爰に九郎主、信綱、實平の如きの評定を加へ、曉天を待不に夜半に及び三品羽林を襲う。

よっ  へいけ しゅうしょうぶんさん おはんぬ
仍て平家、周章分散し畢。

参考@三草山は、大阪府豊能郡能勢町トヨノグンノセチョウと兵庫県加東市上三草カトウシカミミクサの県境の山564.1m。

現代語寿永三年(1184)二月大五日甲子。酉の刻(午後六時頃)に蒲冠者範頼・源九郎義経の両將軍は摂津國(播磨との境の一の谷のそば)に到着しました。七日の卯の刻(午前六時頃)に開戦の鏑矢を射あう時間と決めました。

正面の大手口の総大将は蒲冠者範頼です。これに従うのは、
 小山四郎朝政  武田兵衛尉有義   板垣三郎兼信   下河辺庄司行平
 
長沼五郎宗政  千葉介常胤     佐貫四郎広綱   畠山次郎重忠
 稲毛三郎重成  同四郎重朝     同五郎行重    梶原平三景時
 同源太景季   同平次景高     相馬次郎師常   国分五郎胤道
 東六郎胤頼   中条藤次家長    海老名太郎    小野寺太郎通綱
 曽我太郎祐信  庄司三郎忠家    同五郎広方    塩谷五郎惟廣
 庄太郎家長   秩父武者四郎行綱  安保次郎実光   中村小三郎時経
 河原太郎高直  同次郎忠家     小代八郎行平   久下次郎重光
を始めとして五万六千の騎馬軍団です。

裏側の搦手の総大将は源九郎義経です。従う人達は、
 
遠江守義定   大内右衛門尉惟義  山名三郎義範   齋院次官親能
 
田代冠者信綱  大河戸太郎広行   土肥次郎実平
    三浦十郎義連
 
糟屋藤太有季  平山武者所季重   平佐古太郎為重  熊谷次郎直実
 同小次郎直家  小河小次郎祐義
    山田太郎重澄   原三郎C益
 
猪俣平六則綱   を始めとした二万の騎馬軍団です。

平家は、この情報を聞いて、新三位中将資盛卿、小松少将有盛朝臣、備中守師盛、平内兵衛尉清家、惠美次郎盛方を始めとする七千余りの騎馬軍団を摂津の国(大阪府豊能郡能勢町トヨノグンノセチョウと兵庫県加東市上三草カトウシカミミクサの県境)の三草山の西(兵庫県)に着きました。源氏は同様に三草山から東へ三里(12km)ほど離れて陣を敷きました。山を挟んで東西に源平が揃いました。源九郎義経殿は、田代信綱や土肥実平と戦の相談をして、夜明けを待たずに夜中のうちに新三位中将資盛卿を襲撃しました。それなので平家は慌てふためいてばらばらに逃げ散ってしまいました。

壽永三年(1184)二月大七日丙寅。雪降。寅剋。源九郎主先引分殊勇士七十餘騎。着于一谷後山。〔号鵯越〕爰武藏國住人熊谷次郎直實。平山武者所季重等。卯剋。偸廻于一谷之前路。自海道競襲于舘際。爲源氏先陣之由。高聲名謁之間。飛騨三郎左衛門尉景綱。越中次郎兵衛盛次。上總五郎兵衛尉忠光。悪七兵衛尉景C等。引廿三騎。開木戸口。相戰之。熊谷小次郎直家被疵。季重郎從夭亡。其後蒲冠者。并足利。秩父。三浦。鎌倉之輩等競來。源平軍士等互混乱。白旗赤旗交色。鬪戰爲躰。響山動地。凡雖彼樊噲張良。輙難敗績之勢也。加之城郭。石巖高聳而駒蹄難通。澗谷深幽而人跡已絶。九郎主相具三浦十郎義連已下勇士。自鵯越〔此山猪鹿兎狐之外不通險阻也〕被攻戰間。失商量敗走。或策馬出一谷之舘。或棹船赴四國之地。爰本三位中將〔重衡〕於明石浦。爲景時。家國等被生虜。越前三位〔通盛〕到湊河邊。爲源三俊綱被誅戮。其外薩摩守忠度朝臣。若狹守經俊。武藏守知章。大夫敦盛。業盛。越中前司盛俊。以上七人者。範頼。義經等之軍中所討取也。但馬前司經正。能登守教經。備中守師盛者。遠江守義定獲之云々。

読下し                         ゆきふ    とらのこく  げんくろうぬし ま  こと    ゆうし  ななじゅうよき  ひきわ
壽永三年(1184)二月大七日丙寅。雪降る。寅尅、源九郎主先ず殊なる勇士七十餘騎を引分け、

いちのたに  うしろやま 〔ひよどりごえ   ごう 〕 に つ
一谷
@の後山〔鵯越Aと号す〕于着く。

ここ むさしのくにじゅうにん くまがいのじろうなおざね ひらやまのむしゃどころすえしげら うのこくひそか  いちのたにのぜんろにめぐ
爰に武藏國住人、熊谷次郎直實
B、 平山武者所季重C等、卯剋偸に、一谷之前路于廻り、

かいどうよ やかたぎわに きそ おそ      げんじ  せんじん  な  のよし  たかごえ  なのるのかん
海道自り舘際于競い襲ひて、源氏の先陣を爲す之由、高聲に名謁之間、

ひだのさぶろうさえもんのじょうかげつな えっちゅうのじろうひょうえもりつぐ かずさのごろうひょうえのじょうただみつ あくしちひょうえのじょうかげきよら にじゅうさんき ひ
飛騨三郎左衛門尉景綱、 越中次郎兵衛盛次、 上總五郎兵衛尉忠光、 悪七兵衛尉景C等、廿三騎を引き、

 きどぐち   ひら   これ  あいたたか   くまがいのこじろうなおいえきず こうむ  すえしげ  ろうじゅうようぼう
木戸口を開きて之と相戰う。熊谷小次郎直家疵を被り、季重の郎從夭亡す。

 そ  ご   かばのかじゃなら   あしかが ちちぶ  みうら  かまくらのやからら きそ きた
其の後、蒲冠者并びに足利、秩父、三浦、鎌倉之輩等競ひ來る。

げんぺい ぐんしら たが    こんらん   しろはたあかはたいろ まじ   とうせん  ていたら    やま  ひび     ち   うご
源平の軍士等互いに混乱し、
白旗赤旗色を交え、鬪戰の爲躰く、山を響かせ、地を動かす。

およ  か  はんかい  ちょうりょう  いへど  たやす はいせき がた のいきおいなり
凢そ彼の樊會D、張良Eと雖も、輙く敗績し難き之勢也。

これ  くわ   じょうかくせきげんたか そび て   くていかよ  がた   じゅんこくしんれい して  じんせきすで た
之に加へ、城郭石巖高く聳へ而、駒蹄通ひ難く、澗谷深幽に而、人跡已に絶えたり。

くろうぬし   みうらのじゅうろうよしつら いか ゆうし   あいぐ   ひよどりごえ 〔 こ  やま  いのしし  しか  うさぎ  きつねのほか とおらず  けんそなり  〕 よ
九郎主、三浦十郎義連已下の勇士を相具し、鵯越〔此の山、猪、鹿兎、狐之外不通の險阻也〕自り、

 せ  たたか られ   かん しょうりょう うしな はいそう    ある   うま  むちう いちのたののやかた いで  ある   ふね  さお    しこくの ち  おもむ
攻め戰は被るの間、商量を失ひ敗走し、或ひは馬に策ち一谷之舘を出る。或ひは船に棹さし四國之地に赴く。

ここ  ほんさんみちゅうじょう 〔 しげひら 〕 あかしうら をい  かげとき いえくにら  ため  いけどられ
爰に本三位中將〔重衡〕明石浦に於て景時、家國等の爲に生虜被る。

えちぜんさんみ 〔 みちもり 〕  みなとがわ へん いた    げんざとしつな ため  ちゅうりくされ
越前三位〔通盛〕
Fは湊河G邊に到りて、源三俊綱の爲に誅戮被る。

そ   ほか さつまのかみただのりあそん わかさのかみつねとし むさしのかみともあき  たいふあつもり   たいふなりもり   えっちゅうぜんじもりとし いじょうしちにんは
其の外、薩摩守忠度朝臣
H、若狭守經俊、 武藏守知章I、大夫敦盛J、大夫業盛K、越中前司盛俊L以上七人者、

のりより  よしつねらのぐんちゅう  う  と  ところなり
範頼、義經等之軍中、討ち取る所也。

たじまのぜんじつねまさ  のとのかみのりつね びっちゅうのかみもろもり は  とおとうみのかみよしさだ これ え  うんぬん
但馬前司經正、 能登守教經
M、備中守師盛N者、  遠江守義定 之を獲ると云々。

参考@一谷は、平氏は福原に陣営を置いて、その外周(東の生田口、西の一ノ谷口、山の手の夢野口)に強固な防御陣を築いて待ち構えていた。
参考A鵯越は、有名な源九郎義經の鵯越の逆落とし。
参考B熊谷次郎直實は、埼玉県熊谷市。この戦で我が子と同じ年の敦盛を討って無情を感じ出家した。熊谷寺が屋敷跡とも。
参考C平山武者所季重は、武蔵国多摩郡の西党(きさいとう)で、父は眞季。東京都日野市平山。なお八王子市堀之内に平山城址公園があるが本当の城趾ではないようである。
参考D樊會は、劉邦の幼馴染。肉屋から漢の勇将となる。
参考E張良は、中国、前漢初期の政治家(?-前168) 。字は子房。韓の人で韓が秦に滅ぼされると、始皇帝暗殺を企図したが失敗。後に黄石公から太公望の兵法書を授けられ、漢の高祖劉邦に天下を取らせるべく補佐役に徹した功臣。漢建国の三傑の一人。
参考F越前三位通盛は、C盛の弟教盛の子。
参考G湊河は、神戸市中央を流れる湊川。後に足利尊氏と戦って楠木正成が討ち死にするところ。
参考H薩摩守忠度は、岡部六弥太忠澄に討たれた。
参考I武藏守知章は、知盛の子。弱冠十六歳で討たれた。
参考J大夫敦盛は、C盛の弟經盛の末子。熊谷次郎直實に弱冠十六歳で討たれ、無常を感じた直実は出家した。幸若や謡曲「敦盛」で有名。
参考K
大夫業盛は、C盛の弟教盛の末子で。陸国住人比気四郎・五郎兄弟に、立った十七歳の若さで討たれた。
参考L越中前司盛俊は、C盛が死んだ家の持ち主側近盛国の子。
参考M能登守教經は、玉葉では偽者の首と云い、平家物語でも壇ノ浦で源九郎義經に八艘跳びをさせたことになっている。
参考N備中守師盛は、十四歳で討ち死に最年少。

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H□□K┌┴┐
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現代語寿永三年(1184)二月大七日丙寅。雪が降りました。寅剋(午前四時頃)に、源九郎義経様は、特に強い精兵七十数名の騎馬隊を選び分けて、一の谷の裏山「ひよどり超えと云います」に到着しました。

全く別な話ですが、武蔵の国の土豪の熊谷次郎直実・平山武者所季重等が、午前六時頃に人目につかないようにこっそりと一の谷の前へ回って、山陽道から平家の建物のそばへ、競争しながら襲撃して、源氏側の一番乗りだぞと、大きな声で名乗ったので、飛騨三郎左衛門尉景綱、越中次郎兵衛盛次、上総五郎兵衛尉忠光、悪七兵衛尉景清達が二十三人の騎馬隊を引き連れて、防禦用の木戸を開いて、熊谷達の軍と戦いあいました。直実の子熊谷小次郎直家は傷を受け、季重の家来は殺されました。その後、大手の蒲冠者範頼とその軍隊の足利一族や秩父一族、三浦一族、鎌倉党の軍隊が競争するようにやってきました。源平の軍隊がお互いに入り乱れて、源氏軍の白旗と平家軍の赤旗が混ざり合って戦う様は、山を響かせて、地を動かすかのようです。さしもの中国の漢王朝成立の立役者の樊會や張良が攻めてさえも、簡単には負けられない勢いです。

しかもそればかりか、平家軍の構えは城郭の岩山は高くそびえて、馬の蹄では通りにくく、流れる谷は深山幽谷のようで、人の通った気配さえありません。

源九郎義経様は、三浦十郎義連を初めとする勇敢なおのこ達を連れ立って、鵯越〔この山の猪・鹿・兎・狐以外は通れない険しさです〕から攻め寄せたので、状況を測り考える暇も無く敗走したり、又は馬に乗り鞭を当てて一の谷の建物から逃げたり、又は船に乗って出発して四国へ逃げました。

そして、本三位中將重衡は、明石浦で梶原平三景時・家国たちに捕まり捕虜になりました。越前三位通盛は、湊川の辺りまで逃げて、源三俊綱に殺されました。そのほかに薩摩守忠度朝臣・若狹守經俊・武藏守知章・大夫敦盛・業盛・越中前司盛俊の以上七人は、蒲冠者範頼・源九郎義經の軍隊が討ち取りました。但馬前司經正・能登守教經・備中守師盛は、遠江守義定の軍隊が獲物にしました。

壽永三年(1184)二月大八日丁卯。關東兩將。自攝津國。進飛脚於京都。昨日於一谷遂合戰。大將軍九人梟首。其外誅戮及千餘輩之由申之。

読下し                         かんとう  りょうしょうせっつのくによ ひきゃくを きょうと  すす
壽永三年(1184)二月大八日丁卯。關東の兩將攝津國自り飛脚於京都に進む。

さくじついちのたに をい かっせん と     だいしょうぐん くにんきょうしゅ  そ  ほか ちゅうりく  せんよやから およ  のよしこれ  もう
昨日一谷に於て合戰を遂ぐ。大將軍九人
@梟首す。其の外、誅戮は千餘輩に及ぶ之由之を申す。

参考@大將軍九人は、通盛・忠度・經俊・知章・敦盛・業盛・盛俊・經正・教經・師盛では、一人多いな?盛俊は、C盛の側近の子なので大將軍からのけられているのか。

現代語寿永三年(1184)二月大八日丁卯。関東の二人の将軍が攝津の国から伝令を京都へ送りました。昨日、一の谷で合戦をしました。平家の将軍達九人の首を上げました。その他にも殺した相手は千人以上にもなりましと伝えました。

壽永三年(1184)二月大九日戊辰。源九郎主入洛。相具之輩不幾。從軍追可參洛歟。是平氏一族首可被渡大路之旨。爲奏聞。先以揚鞭云々。

読下し                         げんくろうぬし じゅらく   あいぐ     のやからいくならず じゅうぐん おっ さんらくすべ  か
壽永三年(1184)二月大九日戊辰。源九郎主入洛す。相具する之輩不幾、從軍は追て參洛可き歟。

これ  へいしいちぞく  くび おおじ   わたされ べしのむね  そうもん  ため  ま  もっ  むち  あ     うんぬん
是、平氏一族の首を大路に渡被る可之旨、奏聞の爲、先ず以て鞭を揚ぐと云々。

現代語寿永三年(1184)二月大九日戊辰。源九郎義経様が京の都へ入りましたが、お供は幾らもおりません。軍隊は後から追って京へ参るのでしょうかね。それは、平氏のさらし首を披露行進する段取りを、院の庁へお伺いする為に、先に馬に鞭をくれて来たんだとさ。

壽永三年(1184)二月大十一日庚午。平氏等之首可被渡大路之由。源氏兩將經奏聞。仍博陸三公。堀川亞相〔忠親卿。〕等被預勅問。彼一族仕朝廷已年尚。可有優恕沙汰歟。將又範頼。義經爲果私宿意。所申請非無道理歟。兩樣之間。難决 叡慮。宜計申之由云々。而意見雖區分。兩將強申請之間。遂可被渡之由治定云々。勅使右衛門權佐定長數度往反云々。

読下し                            へいしらの くび おおじ  わたされ  べ   のよし  げんじ りょうしょう そうもん  へ
壽永三年(1184)二月大十一日庚午。平氏等之首大路に渡被る可し之由、源氏の兩將奏聞を經る。

 よっ   はくろく さんこう  ほりかわあしょう 〔ただちかきょう〕 らちょくもん あずかられ  か  いちぞく  ちょうてい つか すで  ねんしょう
仍て、博陸
@三公、堀川亞相A〔忠親卿〕等勅問に預被る。彼の一族は朝廷に仕へ已に年尚し、

ゆうりょ   さた  あ   べ  か   はたまた のりより  よしつね  し  すくい   はた    ため  もう  こ    ところ  どうりな    あらざ か
優恕の沙汰有る可き歟。將又、範頼、義經が私の宿意を果さん爲、申し請ふの所、道理無きに非る歟。

りょうようのかん  えいりょ  けっ  がた   よろ    はか    もう       のよし  うんぬん  しか   いけんまちまち     いへど
兩樣之間、叡慮を决し難し。≠オく計らひ申すべし之由と云々。而るに意見區分なりと雖も、

りょうしょう し   もう   こ    のかん  つひ  わたされ  べ   のよし  ちじょう   うんぬん
兩將強ひて申し請うる之間、遂に渡被る可し之由を治定すと云々。

ちょくしうえもんごんのすけさだなが すうど  おうはん    うんぬん
勅使右衛門權佐定長、數度も往反すと云々。

参考@博陸はくろくは、関白の唐名から大臣を指す。
参考A亞相あしょうは、大納言で丞相に次ぐの意味。と同時に相でないの意味もある。

現代語寿永三年(1184)二月大十一日庚午。平氏等の首を都大路をさらしながら歩いていくべきであると源氏の蒲冠者範頼・源九郎義経二大将軍は、朝廷に伺いをたてました。それなので、関白等大臣の三人と堀川大納言が天皇から質問を受けました。この藤原の人たちは朝廷に使えてずいぶんとなるので、理解しているので優れた結論を出すであろう。あるいは、蒲冠者範頼・源九郎義経の親の敵を討ったと、世間に知らしめて憂さを晴らす爲に願い出ている事は、道理が無い訳ではないんじゃない。どちらにしたらよいのか、後白河法皇はよい知恵が出ないので決められないので、旨くやってくださいよと、云っていたんだとさ。ようするに意見はまちまちになっていたけれども、両将軍が無理強いに希望するので、しょうがなくて渡すことに決めたのだとさ。勅使の右衛門権佐勧修寺定長は、何度も朝廷と源氏の屋敷の間を行き来したんだとさ。

壽永三年(1184)二月大十三日壬申。平氏首聚于源九郎主六條室町亭。所謂通盛卿。忠度。經正。教經。敦盛。師盛。知章。經俊。業盛。盛俊等首也。然後。皆持向八條河原。大夫判官仲頼以下請取之。各付于長鎗刀。又付赤簡。〔平某之由。各注付之。〕向獄門懸樹。觀者成市云々。

読下し                            へいし  くび  げんくろうぬし  ろくじょうむろまちていに あつ
壽永三年(1184)二月大十三日壬申。平氏の首を源九郎主の六條室町亭于聚む。

いはゆる みちもりきょう ただのり つねまさ  のりつね あつもり  もろもり  ともあき  つねとし  なりもり  もりとしら  くびなり
所謂、通盛卿・忠度・經正・教經・敦盛・師盛・知章・經俊・業盛・盛俊等の首也。

しか  のち  みなはちじょうがわら  もちむか   たいふほうがんなかよりいげこれ うけと  おのおの ながやりがたなにつけ
然る後、皆八條河原に持向ふ。大夫判官仲頼以下之を請取り、各、長鎗刀于付る。

また  あかふだ〔たいらぼうのよし おのおのこれ ちう つけ〕    つ     ごくもん  むか   き   か       み  ものいち  な    うんぬん
又、赤簡〔平某之由、各之を注し付る〕を付け、獄門に向ひて樹に懸くる。觀る者市を成すと云々。

現代語寿永三年(1184)二月大十三日壬申。平氏の首を源九郎義経様の六条室町の屋敷に集めました。それは、通盛卿・忠度・経正・教経・敦盛・師盛・知章・経俊・業盛・盛俊等の首です。約束の時間になったので、皆で八条河原へ持って行き、検非違使の大夫判官仲頼が受け取って、それぞれを長刀に結わえ付けました。また、赤い札〔平家の誰それと名前を書いてある〕を付けて、獄舎の門へ向けて向かいの樹木に架けました。見物人たちは市場開催日の様に大勢が集まっていたんだとさ。

壽永三年(1184)二月大十四日癸酉。リ。右衛門權佐定長奉勅定。爲推問本三位中將重衡卿。向故中御門中納言〔家成卿。〕八條堀川堂。土肥次郎實平同車彼卿。來會件堂。於弘庇問之。口状條々注進之云々。」今日。上総國御家人等。多以私領本宅。如元可令領掌之旨。給武衛御下文。彼輩去年依爲廣常同科。所被収公所帶也。

読下し                          はれ  うえもんのごんのすけさだなが ちょくじょう たてまつ ほんざんみ ちうじょうしげひらきょう すいもん ため
壽永三年(1184)二月大十四日癸酉。リ。右衛門權佐定長@勅定を奉り、本三位A中將重衡卿を推問の爲、

 こなかみかどちゅうなごん〔いえなりきょう〕   はちじょうほりかわどう むか   といのじろうさねひら  か  きょう  どうしゃ    くだん  どう  らいかい
故中御門中納言〔家成卿〕の八條堀川堂に向う。土肥次郎實平彼の卿に同車し、件の堂に來會す。

ひろびさし おい  これ   と    こうじょう  じょうじょう これ ちゅうしん   うんぬん
弘庇Bに於て之を問い、口状Cの條々之を注進Dすと云々。

 きょう   かずさのくに ごけにんら   おお  しりょう ほんたく  もっ もと  ごと りょうしょう せし べ   の むね  ぶえい おんくだしぶみ たま
今日、上総國御家人等、多く私領本宅を以て元の如く領掌令む可し之旨、武衛御下文Eを給はる。

 か やから きょねん ひろつね どうか  ため  よっ  しょたい  しゅうこう  され ところなり
彼の輩は去年廣常の同科の爲に依て所帶Fを収公G被る所也。

参考@右衛門權佐定長は、勧修寺(カジュウジ)。
参考A本三位は、平家に三位が二人いるので本と新。
参考B弘庇(ヒロビサシ)は、玄関がなく広い縁側になっているので、牛車は付ける、輿は乗せる。
参考C口状は、この場合白状する。
参考D注進は、註の意味で書いて差し出す。
参考E武衛御下文は、この場合は本領安堵状を与え、御家人と認めた。
参考F所帶は、帯する所の役職(地頭)と所領。
参考G収公は、公(頼朝政権)に収めた(返した)で、地頭としての所領を取り上げられること。

現代語寿永三年(1184)二月大十四日癸酉。リ。右衛門権佐勧修寺定長は、後白河法皇の命令により、本三位中将重衡殿を取り調べるために、故中御門中納言家成殿の屋敷八条堀川の堂に行きました。土肥次郎実平が重衡の車に一緒に乗って警護して来てお会いになりました。罪人なので座敷へは入らず縁側の上で質問を受けました。言った事は皆書き残しましたとさ。

今日、上総国の御家人たちの多くが、自分の領地と門田を含む屋敷地とを、以前のとおり知行するように、頼朝様の許可証を与えました。この人たちは、去年の上総権介広常事件に縁者として同罪とみなされ、領地などを没収された人々です。

壽永三年(1184)二月大十五日甲戌。辰剋。蒲冠者範頼。源九郎義經等飛脚。自攝津國參着鎌倉。献合戰記録。其趣。去七日於一谷合戰。平家多以殞命。前内府〔宗盛〕已下浮海上赴四國方。本三位中將生虜之。通盛卿。忠度朝臣。經俊。〔已上三人。蒲冠者討取之。〕經正。師盛。教經。〔已上三人。遠江守義定討取之。〕敦盛。知章。業盛。盛俊。〔已上四人。義經討取之。〕此外梟首一千餘人。武藏相摸下野等軍士。各所竭大功也。追可注記言上云々。

読下し                          たつのこく かばのかじゃのりより げんくろうよしつね ら  ひきゃく  せっつのくによ  かまくら  さんちゃく
壽永三年(1184)二月大十五日甲戌。辰剋、蒲冠者範頼・源九郎義經等の飛脚、攝津國自り鎌倉に參着し、

かっせんきろく  けん    そ おもむき さぬ なぬかいちのたにかっせん をい へいけおお もっ いのち おと
合戰記録を献ず。其の趣、去る七日一谷合戰に於て平家多く以て命を殞す。

さきのないふいか かいじょう うか   しこく    ほう  おもむ   ほんざんみちゅうじょうこれ  いけど
前内府已下海上に浮び、四國@の方へ赴く。本三位中將は之を生虜る。

みちもりきょう ただのりあそん  つねとし 〔 いじょうさんにん  かばのかじゃ  これ  うちと  〕 つねまさ もろもり  のりつね 〔 いじょうさんにん  とおとうみのかみよしさだ  これ  うち と 〕
通盛卿・忠度朝臣・經俊〔已上三人蒲冠者之を討取る〕經正・師盛・教經〔已上三人、遠江守義定之を討取る〕

あつもり ともあき  なりもり  もりとし 〔 いじょう よねん  よしつね これ   うち と   〕    こ  ほか  きょうしゅ  いっせんよにん
敦盛・知章・業盛・盛俊〔已上四人義經之を討取る〕此の外、梟首は一千餘人。

およ  むさし   さがみ  しもつけら  ぐんし おのおの たいこう かっ   ところなり  おっ  ちうきごんじょうすべ   うんぬん
凡そ武藏・相摸・下野等の軍士、各、大功を竭する所也。追て注記言上可しと云々。

参考@四國は、屋島。

現代語寿永三年(1184)二月大十五日甲戌。辰の刻(午前八時頃)に蒲冠者範頼・源九郎義経の伝令が摂津国(大阪府)から鎌倉へ到着し、合戦の記録を差し出しました。その内容は、先日の七月一の谷合戦で平家の人たちが沢山命を落としました。宗盛は船に乗って四国のほうへ逃げました。本三位中将重衡は捕虜にしました。越前三位通盛・薩摩守忠度・経俊は、蒲冠者範頼軍が討ち取り、但馬前司経正・備中守師盛・能登守教経の三人は、遠江守義定の軍が討ち取り、大夫敦盛・武蔵守知章・業盛・越中前司盛俊は源九郎義経の軍が討ち取りました。このほかにも、首を上げること千人以上です。武蔵・相模・上野の軍勢がそれぞれに大きな手柄を立てましたが、それは追って後から紙に書き出した上で、申し上げることにしましたとさ。

壽永三年(1184)二月大十六日乙亥。今日。又定長推問重衡卿。事次第同一昨日云々。

読下し                            きょうまた  さだなが しげひらきょう すいもん   こと  しだい おととい  おな    うんぬん
壽永三年(1184)二月大十六日乙亥。今日又、定長重衡卿を推問す。事の次第一昨日と同じと云々。

現代語寿永三年(1184)二月大十六日乙亥。今日もまた、勧修寺定長は本三位中将重衡に質問しました。話す内容は一昨日と同じだったとさ。

参考玉葉によると平家が安徳天皇と三種の神器をもっていったので、宗盛宛てに三種の神器と重衡とを捕虜交換して返すよう重衡に手紙を書かせたとある。

壽永三年(1184)二月大十八日丁丑。武衛被發御使於京都。是洛陽警固以下事所被仰也。又播磨。美作。備前。備中。備後。已上五ケ國。景時。實平等遣專使。可令守護之由云々。

読下し                            ぶえい おんしを きょうと  はつ  らる   これ  らくようけいご いげ  こと  おお  らる ところなり
壽永三年(1184)二月大十八日丁丑。武衛@御使於京都に發せ被る。是、洛陽警固A以下の事を仰せ被る所也。

また はりま  みまさか  びぜん  びっちゅう びんご いじょう  ごかこく    かげとき  さねひらら  せんし  つか    しゅごせし   べ   のよし  うんぬん
又、幡磨・美作・備前・備中・備後已上五ケ國は、景時B・實平C等が專使Dを遣はし守護令むE可し之由と云々。

参考@武衛は兵衛の唐名で、ここでは頼朝を指す。
参考A洛陽警固は、源九郎義經が京都守護。駐屯軍。
参考B景時は梶原平三景時で義経軍の軍監。
参考C
實平は土肥次郎實平で平家討伐範頼軍の軍監。
参考D専使は権限を限定された使いのようです。
参考E守護令むは、治安維持と兵糧の徴収。

現代語寿永三年(1184)二月大十八日丁丑。頼朝様は京都へ使いを発しました。これは京都の警護等を言いつける為です。他に播磨・美作・備前・備中・備後の五カ国については、梶原景時や土肥実平が使いを出して守護させるようにとの事でした。

参考これで、五カ国の分担分けは分からないが二人が守護になった事を現しているようである。後の12月16日条で吉備津神社の関係処理を實平に命じているので、おそらく備前・備中・備後が土肥次郎實平で他の播磨・美作が梶原平三景時と推測できる。

壽永三年(1184)二月大廿日己卯。去十五日。本三位中將〔重衡〕遣前左衛門尉重國於四國。告 勅定旨於前内府〔宗盛〕。是舊主并三種寳物可奉皈洛之趣也。件返状今日到來于京都。備 叡覧云々。其状云。
 去十五日御札今日〔廿一日。〕到來。委承候畢。藏人右衛門佐書状同見給候畢。主上國母可有還御之由。又以承候畢。去年七月。行幸西海之時。自途中可還御之由。院宣到來。備中國下津井御解纜畢之上。依洛中不隱。不能不日立歸。憖被遂前途候畢。其後云日次世務世理。云恒例之神事佛事。皆以懈怠。其恐不少。頗洛中令属靜謐之由。依有風聞。去年十月。出御鎭西。漸還御之間。閏十月一日。稱帶 院宣。源義仲於備中國水嶋。相率千艘之軍兵。奉禦万乘之還御。然而爲官兵。皆令誅伐凶賊等畢。其後着御于讃岐國屋嶋。于今御經廻。去月廿六日。又解纜遷幸攝州。奏聞事由。爲随 院宣行幸近境。且去四日相當亡父入道相國之遠忌。爲修佛事。不能下船。經廻輪田海邊之間。去六日修理權大夫送書状云。依可有和平之儀。來八日出京。爲御使可下向。奉勅答不歸參之以前。不可有狼藉之由。被仰關東武士等畢。又以此旨。早可令仰含官軍等者。相守此仰。官軍等本自無合戰志之上。不及存知。相待院使下向之處。同七日。關東武士等襲來于 叡船之汀。依 院宣有限。官軍等不能進出。各雖引退。彼武士等乘勝襲懸。忽以合戰。多令誅戮上下官軍畢。此條何樣候事哉。子細尤不審。若相待 院宣。可有左右之由。不被仰彼武士等歟。將又雖被下 院宣。武士不承引歟。若爲緩官軍之心。忽以被廻奇謀歟。倩思次第。迷惑恐歎。未散朦霧候也。爲自今以後。爲向後將來。尤可承存子細候也。唯可令垂賢察御。如此之間。還御亦以延引。毎赴還路。武士等奉禦之。此條無術事候也。非難澁還御之儀。差遣武士於西海依被禦。于今遲引。全非公家之懈怠候也。和平事。爲朝家至要。爲公私大功。此條須被逹奏之處。遮被仰下之條。兩方公平。天下之壤災候也。然而于今未断。未蒙分明之 院宣。仍相待慥御定候也。凡夙夜于 仙洞之後。云官途。云世路。我后之御恩。以何事可奉報謝乎。雖涓塵不存疎畧。况不忠之疑哉。况反逆之儀哉。行幸西國事。全非驚賊徒之入洛。只依恐 法皇御登山也。朝家事可爲誰君御進止哉。主上女院御事。又非 法皇御扶持者。可奉仰誰君哉。雖事躰奇異。依恐御登山一事。周章楚忽。遷幸西國畢。其後又稱 院宣。源氏等下向西海。度々企合戰。此條已依賊徒之襲來。爲存上下之身命。一旦相禦候計也。全非公家之發心。敢無其隱也。云平家。云源氏。無相互之意趣。平治信頼卿反逆之時。依 院宣追討之間。義朝朝臣依爲其縁坐。有自然事。是非私宿意。不及沙汰事也。於 宣旨院宣者非此限。不然之外。凡無相互之宿意。然者。頼朝与平氏合戰之條。一切不思寄事也。公家仙洞和親之儀候者。平氏源氏又弥可有何意趣哉。只可令垂賢察給也。此五六年以來。洛中城外各不安隱。五畿七道皆以滅亡。偏營弓箭甲冑之事。併抛農作乃貢之勤。因茲。都鄙損亡。上下飢饉。一天四海。眼前煙滅。無双之愁悶。無二之悲歎候也。和平儀可候者。天下安隱。國土靜謐。諸人快樂。上下歡娯。就中合戰之間。兩方相互殞命之者不知幾千万。被疵之輩難記楚筆。罪業之至。無物于取喩。尤可被行善政。被施攘災。此條。定相叶神慮佛意歟。還御事。毎度差遣武士。被禦行路之間。不被遂前途。已及兩年候畢。於今者。早停合戰之儀。可守攘災之誠候也。云和平云還御。兩條早蒙分明之 院宣。可存知候也。以此等之趣。可然之樣。可令披露給。仍以執啓如件。
      二月廿三日

読下し                          さんぬ じうごにち ほんざんみちゅうじょう さきのさえもんのじょうしげくに を しこく つか
壽永三年(1184)二月大廿日己卯。去る十五日@本三位中將、 前左衛門尉重國 於四國へ遣はし、

ちょくじょう むねをさきのないふ つげ   これ  きゅうしゅ なら  さんしゅのほうぶつ きらく たてまつ べ のおもむきなり
勅定の旨於前内府に告る。是、舊主A并びに三種寳物B皈洛し奉る可し之趣也。

くだん へんじょう きょう きょうとに とうらい    えいらん そな   うんぬん  そ   じょう  い
件の返状、今日京都于到來し、叡覽に備ふと云々。其の状に云はくC

参考@去十五日は、実際には重衡に、彼と安徳天皇・三種の神器とを捕虜交換させるように、手紙を十六日に書かせているので一日早い。
参考A舊主は、安徳天皇。
参考B三種寳物は、三種の神器。
参考C其の状に云はくとあるのに、書かされた趣旨の〔重衡との捕虜交換」の話が載せていないのは何故かわからない。この手紙は他の資料にはまったく出てこない。

さぬ  じうごにち  ぎょさつ  きょう 〔にじういちにち〕 とうらい    くは うけたまは そうら おはんぬ くろうどうえもんのすけ じょう  おな    みたま そうら おはんぬ
去る十五日の御札@、今日〔廿一日〕到來す。委しく承り候ひ畢。 藏人右衛門佐が状、同じく見給ひ候ひ畢。

しゅじょう  こくぼ かんご あ  べ   のよし  またもっ うけたまは そうら おはんぬ
主上A、國母B還御有る可し之由、又以て承り候ひ畢。

きょねんしちがつ さいかい ぎょうこう のとき  とちゅう よ  かんごすべ  のよし  いんぜんとうらい
去年七月C、西海に行幸D之時、途中自り還御可し之由、院宣到來す。

びっちゅうのくにしもつい   ごかいらんおはんぬ のうえ らくちゅうおだやかならず よっ ふじつ たちかえ あたはず  なまじい  ぜんと   と られそうらい おはんぬ
備中國下津井Eにて御解纜畢る之上、洛中 不穩に依て、不日に立歸る不能。憗いに前途を遂げ被候ひ畢。

そ   ご    ひなみのせいむせいり   い     こうれいのしんじ ぶつじ  い     みなもっ ようたい    そ   おそ すくなからず
其の後、日次之世務世理と云ひ、恒例之~事佛事と云ひ、皆以て擁怠し、其の恐れ不少。

参考@去る十五日の御札は、重衡が書いた捕虜交換の手紙をさすが、弟からの手紙に「御」を付ける意味がわからない。
参考A主上は、安徳天皇。
参考B國母は、建禮門院。
参考C去年七月は、一昨年の間違い。
参考D行幸は、天皇のみに使う言葉なので安徳天皇を正統と主張している。
参考E下津井は、岡山県倉敷市下津井に安徳天皇安在所あり。

そ   ご  すこぶ らくちゅうせいひつ ぞくさせし のよし ふうぶんあ    よっ   きょねんじうがつちんぜい しゅつご   ようや かんご のかん
其の後、頗る洛中靜謐に属令む之由、風聞有るに依て、去年十月鎭西を出御し、漸く還御之間@

うるうじゅうがつついたち いんぜん たい しょう  みなもとのよしなか びっちゅうのくにみずしま  をい せんそうのぐんぴょう あいひき    ばんじょう のかんご ふせ たてまつ
閏十月一日、院宣を帶すと稱しA、源義仲、 備中國水嶋Bに 於て千艘之軍兵を相率ひ、万乘C之還御を禦ぎ奉るD

しかして  かんぺい し  みなきょうぞくら ちうばつせし おはんぬ そ  ご  さぬきのくにやしまに ちゃくご  いまにおんへめぐ
然而、官兵を爲て皆凶賊等を誅伐令めE畢。其の後、讃岐國屋嶋于着御し今于御經廻る。

参考@漸く還御之間は、帰ろうとしていたら。
参考A院宣を帶すと稱しは、命令だといって。
参考B備中國水嶋は、倉敷市水島。
参考C万乘は、安徳天皇。
参考D還御を禦ぎ奉るは、邪魔したのは木曾冠者義仲の指揮下の足利義C。
参考E凶賊等を誅伐令め畢は、水島合戦で、現在島はコンビナートになり、かつての水道は川となって残っている。

さんぬるつきむいか また かいらん せっしゅう かんこう      こと  よし  そうもん    いんぜん  したが て  きんきょう ぎょうこう
去月廿六日、又解纜し、攝州へ遷幸し@、事の由を奏聞しA、院宣に随ひ爲、近境に行幸す。

かつう さんぬ よっか  ぼうふにゅうどうしょうこくのえんき   あいあた   ぶつじ   しう    ため  げせん  あたはず  わだ   かいへん  へめぐ  のかん
且は去る四日、亡父入道相國之遠忌Bに相當り、佛事を修せん爲、下船に不能、輪田Cの海邊を經廻る之間。

さんぬ むいかしゅりごんのたいふ しょじょう  おく    い       わへいの ぎ あ  べ     よっ    きた  ようかしゅっきょう  おんし   な   げこうすべ
去る六日修理權大夫、書状を送りて云はく。和平之儀有る可しに依て、來る八日出京し御使Dと爲し下向可し。

ちょくとう  たてまつ  きさんせざるのいぜん ろうぜき あ  べからずのよし  かんとう   ぶし ら   おお  られおはんぬ
勅答Eを奉りて歸參不之以前、狼藉F有る不可之由。關東の武士等に仰せ被畢G

また こ  むね  っ    はや  かんぐん ら  おお ふく  せし  べ てへれば こ  おお   あいまも    かんぐんら もとよ  かっせん こころざしな のうえ
又此の旨を以て、早く官軍H等に仰せ含め令む可し者、此の仰せを相守りI、官軍等本自り合戰の志無き之上、

ぞんち  およばず いんし   げこう   あいま  のところ  おな   なぬか  かんとう   ぶしら えいせんのみぎわに おそ きた
存知に不及、院使の下向を相待つ之處、同じく七日、關東の武士等叡船之汀于襲ひ來る。

参考@攝州へ遷幸しは、一の谷へ行った。
参考A事の由を奏聞しは、後白河法王へ報告している。
参考B亡父入道相國之遠忌は、平C盛の三回忌。
参考C輪田は、神戸市和田岬町。
参考D御使は、正式の使者。
参考E勅答は、安徳天皇の返事。
参考F狼藉は、この場合合戦を指す。
参考G關東の武士等に仰せ被畢は、源氏軍には云ってあるよ。
参考H官軍は、ここでは平氏軍。
参考I此の仰せを相守りは、後白河法皇の命令を守って。

いんぜんかぎ あ    よっ      かんぐんら すす いず   あたはず おのおの ひ の   いへど   か    ぶしら   かち  じょう   おそ  かか
院宣限り有るに依て@、官軍等進み出るに不能、各、引き退くと雖も、彼の武士等、勝に乘じて襲ひ懸り、

たちま もっ  かっせん   おお  じょうげ かんぐん ちうりくせし おはんぬ かく じょういかようそうら こと や   しさいもっと  ふしん
忽ち以て合戰し、多く上下の官軍を誅戮令め畢。此の條何樣候ふ事ぞ哉。子細尤も不審なり。

も     いんぜん  あい ま    そう  あ  べ   のよし   か    ぶしら   おお  られざるか
若し 院宣を相待ちて左右有る可し之由、彼の武士等に仰せ被不歟A

はたまた  いんぜん くださる   いへど    ぶし しょういんせざ か   も  ため  かんぐんのこころ  ゆる   たちま もっ  きぼう  めぐ  さる  か
將又 院宣を下被ると雖も、武士承引不る歟B。若し爲に官軍之心を緩め、忽ち以て奇謀を廻ら被る歟C

つらつら しだい おも      めいわくきょうかん いま ぼうむさん  そうろうなり
倩、次第を思ふに、迷惑恐歎。未だ朦霧散せず候也。

参考@院宣限り有るに依ては、院宣の範囲内で、つまり院宣を守っているので。院宣に限りがあるのではなく、院宣の中身に受令者の行動を限られる。
参考A彼の武士等に仰せ被不歟は、源氏には云わなかったのか。
参考B武士承引不る歟は、云っても聞かなかったのか。
参考C奇謀を廻ら被る歟は、だましたのか。休戦の話を@源氏にいわなかったのかA云っても聞かなかったのかBあんたがだましたのかと宗盛はとても正直に疑問を持っている。幸田露伴は随筆源頼朝で宗盛の素直さを褒めている。(頼朝に比べ政治家としては素直すぎる)

いまより いご   ため  こうごしょうらい ため  もっと しさい うけたまは ぞん べ そうろうなり  ただけんさつ た  せし たも  べ
自今以後の爲、向後將來の爲、尤も子細を承り存ず可く候也。唯賢察を垂れ令め御ふ可し。

かく   ごと  のかん  かんごまたもっ えんいん    かんろ  おもむ ごと     ぶしら  これ  ふさ たてまつ  かく じょうすべな  こと そうろうなり
此の如き之間、還御亦以て延引す。還路に赴く毎に、武士等@之を禦ぎ奉る。此の條術無き事に候也。

かんご の ぎ  なんじゅう        あらず  ぶし を さいかい  さ  つか      ふさ  るる  よっ  いまにちいん
還御之儀を難澁するのみに非。武士於西海に差し遣はし、禦が被に依て今于遲引す。

まった こうけ  の けたい あらずそうろうなり  わへい こと  ちょうけ  しよう た      こうし   たいこう た
全く公家A之懈怠に非候也。 和平の事、朝家の至要爲りB。公私の大功爲り。

参考@武士等は、この言葉には関東の野蛮な源氏軍への侮蔑の気持ちが入っている。
参考A公家は、安徳天皇を指すので「くげ」ではなく「こうけ」と読みたい。
参考
B和平の事、朝家の至要爲りは、和睦の意志が有りますの意味。実は、頼朝も後白河へ関東は源氏、関西は平家が治安維持をして、国司の派遣は認めると和睦申し入れをしている。
かく じょう すべか  たっそうされ       のところ  さえぎっ おお くだされ のじょう  りょうほう くひょう  てんかのじょうさい そうろうなり
此の條須らく達奏被んとする之處、遮て仰せ下被る之條、兩方の公平、天下之攘災に候也。

しかれども いまにみだん  いま  ぶんめいのいんぜん  こうむ   よっ  たしか   ごじょう  あいま  そうろうなり
然而、今于未断、未だ分明之院宣を蒙らず。仍て慥なる御定を相待ち候也。

およ    せんとうに しゅくよ    ののち  かんと   い     せじ   い     わがきみのごおん  なにごと  もっ ほうしゃたてまつ べけ  や
凡そ 仙洞于夙夜する之後、官途と云ひ、世路と云ひ、我后之御恩、何事を以て報謝奉り可ん乎。

けんじん  いへど  そりゃく ぞんぜず  いはん はんぎゃくのぎ や  さいごく  ぎょうこう こと  まった ぞくとの じゅらく  おどろ   あらず
涓塵と雖も@、疎畧を不存。况や反逆之儀を哉。西國に行幸の事、全き賊徒之入洛を驚くに非。

ただ  ほうおう   ごとざん  おそ      よっ  なり
只 法皇の御登山Aを恐るるに依て也。

参考@涓塵と雖もは、ほんの少しでも。
参考A法皇の御登山は、義仲軍が京都へ攻め入るときに平家は後白河法皇を連れて逃げるつもりだったが、法王はいち早く比叡山へ逃げた。この人は平治の乱でも逃げた。

ちょうけ  こと  たれ きみ   ごしんじ た   べ     や
朝家の事、誰か君の御進止爲る可けん哉。

しゅじょう  にょいん おんこと また  ほうおう  おんふち あらずんば  たれ きみ  あお たてまつ べ   や
主上、女院の御事は又、法王の御扶持に非者、誰か君を仰ぎ奉る可けん哉。

こと  てい きい      いへど    ごとざん   いちじ  おそ      よっ    しゅうしょう そこつ  さいごく  せんこう をはんぬ
事の躰奇異なりと雖も、御登山の一事を恐れるに依て、周章し楚忽に西國に遷幸し畢。

そ   ご また  いんぜん しょう    げんじら さいかい  げこう    たびたびかっせん くはだ
其の後又、院宣と稱し、源氏等西海に下向し、度々合戰を企つ。

かく  じょう すで  ぞくとの しゅうらい よっ    じょうげのしんめい  なが      ため  いったん あいふさ そうろうはか なり
此の條、已に賊徒之襲來に依て、上下之身命を存らえん爲、一旦は相禦ぎ候計り也。

まった こうけの ほっしん  あらざ     あへ  そ  かくれな  なり  へいけ  い    げんじ   い     そうごの いしゅ な
全く公家之發心に非るは、敢て其の隱無き也。平家と云ひ、源氏と云ひ、相互之意趣無し。

へいじ のぶよりきょうはんぎゃくのとき いんぜん よっ  ついとう    のかん  よしともあそん そ  えんざ た     よっ    じねん  こと あ
平治、信頼卿反逆之時、院宣に依て追討する之間、義朝朝臣其の縁坐爲るに依て、自然の事有り。

これ し すくい  あらず   さた  およばずことなり  せんじいんぜん をい  は   こ   かぎ   あらず
是私の宿意に非。沙汰に不及事@也。宣旨院宣に於て者、此の限りに非。

しからざるのほか   およ そうご の すくい な    しからば  よりともと へいし    かっせんのじょう  いっさいおも よらずことなり
不然之外は、凡そ相互之宿意無し。然者、頼朝与平氏との合戰之條、一切思ひ寄不事也。

こうけ   せんとう わしんのぎ そうら ば  へいし  げんじまたやや  なん  いしゅ あ  べ    や   ただけんさつ たれせし たま  べ   なり
公家、仙洞和親之儀候は者。平氏、源氏又弥、何の意趣有る可けん哉。只賢察を垂令め給ふ可き也。

参考@不及事は、止むを得ないこと。

こ   ごろくねんいらい  らくちゅうらくがい おのおの あんのんならず ごきしちどうみなもっ めつぼう
此の五六年以來、洛中城外、 各、 安穩不。五畿七道皆以て滅亡す。

ひとへ きゅうぜんかっちゅうのこと いとな   あわ   のうさくのうぐの つとめ  なげう
偏に、弓箭甲冑之事を營み、併せて農作乃貢之勤を抛つ。

これ  よっ     とひ   そんぼう  じょうげ  ききん  いってんしかいがんぜん えんめつ  むそうのしゅうもん  むにのひかんそうろうなり
茲に因て、都鄙の損亡、上下の飢饉、一天四海眼前に煙滅し、無双之愁悶、無二之悲歎候也。

わへい  ぎそうらひべけ ば てんかあんのん こくどせいひつ  しょにんかんらく    じょうげかんご
和平の儀候可ん者、天下安穩、國土靜謐、諸人歡樂し、上下歡娯す。

なかんづく  かっせんのかん りょうほうそうごいのち おと  のもの  いくせんまん  しらず   きず こうむ のやから  そひつ  き   がた
就中に、合戰之間、兩方相互命を殞す之者、幾千万を不知@。疵を被る之輩、楚筆に記し難し。

ざいごうの いた   たとえ と   に もの な   もっと ぜんせい おこなはれ  じょうさい ほどこされ べ
罪業之至り、喩を取る于物無し。尤も善政を行被、 攘災を施被る可し。

かく  じょう  さだ   しんりょぶつい  あいかな    か   かんご  こと  まいど  ぶし   さ   つか      こうろ  ふさ  らる  のかん
此の條、定めて~慮佛意に相叶はん歟。還御の事、毎度武士を差し遣はして行路を禦が被る之間、

ぜんと   と   られず    すで りょうねん および そうら をはんぬ いま をい  は   はや かっせんのぎ   と     じょうさいのまこと まも  べ  そうろうなり
前途を遂げ被不に、已に兩年に及び候ひ畢。 今に於て者、早く合戰之儀を停め、攘災之誠を守る可く候也。

わへい  い     かんご  い     りょうじょうはや ぶんめい のいんぜん こうむ  ぞんちすべ そうろうなり
和平と云ひ、還御と云ひ、兩條早く分明A之院宣を蒙り、存知可く候也。

これらのおもむき もっ    しかるべ  のよう  ひろうせし  たま  べ     よっ   もっ  しっけいくだん ごと
此等之趣を以て、然可き之樣、披露令め給ふ可し、仍て以て執啓件の如し。

      にがつにじうさんにち
   二月廿三日

参考@幾千万を不知とあるが、当時は日本全国で一千万人くらいしかいなかった。
参考A分明は、どちらかにはっきりとして。

現代語寿永三年(1184)二月大二十日己卯。去る十五日本三位中将重衡は、前左衛門尉重国を四国へ派遣して、院から勅定が出ている事を宗盛に知らせました。それは、安徳天皇と三種の神器を京都へ戻すようにとの内容でした。その返事が今日、京都へ届いたので後白河法皇のご覧に入れましたとさ。その手紙に書いてあることは、

先日の十五日のお手紙が今日〔二十一日〕に届きました。詳しく良くわかりました。蔵人右衛門佐の手紙も同様に拝見いたしました。天皇とそのご母堂様(建礼門院)の京都へお帰りになるようにとの事、話は承りました。去年の七月に九州へ向かったときに、途中から戻られるように、法皇様からの命令が届きました。備中国下津井(田之浦)から出港しましたが、京都では不穏な情報があったので、日をおかずに帰る事が出来ず、仕方なしに先へ進むことになりました。それからは、暦のよくない日などのお払いの儀式も政務も、また毎日欠かしていなかった神様への祈りや仏様への祈りの行事なども、すべて(陸に上がっていないので)やっていなかったので、神仏の罰を心配しないわけには行きません。

それから後に、京都の中もとても落ちついて静かになったと噂を聞きましたので、去年の十月に九州を立って、帰ろうとしたら、閏十月一日の事、後白河法皇の命令書を持っていると云って、木曽冠者義仲が備中国水島で、千艘もの船を率いて、安徳天皇の京都へ帰るのを邪魔しました。しかし、官軍を使ってあの敵どもを懲らしめてました。その後、讃岐国屋島へ到着して今に至っています。

先月の二十六日にまたもや出港して、摂津国(一の谷)へ移動をして、今までのいきさつをお伝えして、法皇様の仰せに従い、京都の近くまで参りました。ちょうど先日の四日は、亡き父平相国禅閤〔清盛〕の三回忌に当たるので、その法事をしたかったのですが、下船することが出来ずに輪田(神戸市和田岬町)の海上を巡っていると、先だっての六日に修理権大夫が手紙を送ってきました。それには和平の協議のために来る八日京都を出て使者として下りますので、安徳天皇からの返事を戴いて帰るまでは、合戦をしないように関東から来た源氏軍には云ってある。また、同様な趣旨を官軍である平家軍にも言っておくようにとの事だったので、後白河法皇の命令を守って、平家軍は元々合戦をする意思なぞないし、わざわざ云ってくるには及びませんので、後白河院の使者がやってくるのを待っていたところだったのに七日に、関東の源氏軍が天皇の船のそば(一の谷)まで攻めてきたんですよ。

院宣を守っているので、平家官軍は前へ攻め出て行くわけにも行かないので、退却したところ、その武士たちは勝ったと調子付いて攻め込んできたので、合戦になってしまい、多くの上下の平家軍が殺されてしまいました。このことはいったい如何したと言う事なんでしょうか。詳しく考えてみると怪しいことばかりです。院宣を待って行動するように源氏軍の武士には云ってなかったのか。それとも、源氏の大将は院宣を出したけれども従わなかったのか。或いは、平家軍に油断をさせて、たたいてしまおうとだましたのか。良く成り行きを考えてみると、悩むことばっかりで、未だに考えがまとまりません。

これから先のことをどうしようかと考えると、きちんと理由を聞いておきたいものです。良く考えて配慮してください。このようなことがあれば安徳天皇の京都への帰りはなおさら遅くなるでしょう。帰り道に着くたびに源氏の武士に邪魔をされたのでは、やりようが無いではありませんか。我々が京都への帰りが難しくしているだけではなく、関東武士を瀬戸内海によこして、邪魔をするから遅くなっているので、天皇を立ってている平家の落ち度ではありません。和睦することは、我々も望んでいるし、天下の手柄ともなりましょう。

以上のことを後白河院へお知らせに行こうとしているのに、先回りをして命じてくるとは、双方を平穏にせず、天下を騒がせているだけじゃないですか。ところが未だにきちんとした判断し、明らかにした(こうした重衡の手紙でよこしただけで、)正式な院宣を受け取ってはいませんので、きちんとした命令書を待っているところです。今まで仙洞に一心にお仕えして(色々と面倒を見ましたよね)、官職を与えたのも、荘園を増やしたのも、わが平家の建礼門院からのご恩を、何を持って感謝の気持ちに変えたら良いのでしょうね(ご恩を与えたことを忘れてはいませんよ)。ほんの少したりとも、ないがしろにしたことはありません。ましてや反逆など思いもよらぬことです。福原へ京落ちしたのも木曾冠者義仲の賊軍が入洛をしてきたからではなく、むしろ後白河法皇が平家を捨てて比叡山へ逃げてしまったので、反逆者として追われる立場になってしまったからです。

朝廷の儀式など、誰が進退を決められるのですか。天皇や建礼門院は、後白河法皇のお導きがなければ、誰が天皇の云うことを聞くでしょうか。いきさつにおかしな疑問を感じるけれども、後白河法皇が平家を捨てて比叡山へ逃げてしまったので、敵対視されている事に驚いて、あわてて福原へ天皇をお連れ申し上げたのです。その後院宣による法王の命令だといって、源氏の者共が山陽道へ来て、何度も合戦を仕掛けました。そのように源氏の賊軍が襲撃してくるので、天皇をはじめとする平家の人々の命を守るために、仕方なく防ぎ守る算段をしたわけです。全く天皇から合戦を発した事で無いのは、明らかでしょう。平家も源氏もお互いに恨みは無いのです。

平治の乱では、藤原頼長が謀反を起こしたときに、院宣の命令に従って追討したのですし、義朝様はその同罪だったので、成り行き上自然に死に追いやられました。それは、平氏の年来の恨みではありませんので、止むを得ないでしょう。宣旨や院宣に対してはどうこうできないでしょう。それ以外は、殆どお互いに恨みつらみはないでしょう。だから、頼朝と平氏が合戦をしなけりゃならないことは、思いもかけないことなんですよ。天皇と法王とが和睦をすれば、平氏も源氏も何の反対意見がありましょや、良く考えをめぐらして下さいよ。

この五六年まえからずっと、京都の内も外も情勢が不安定じゃないですか。五畿七道の全国的に生産が止まっています。もっぱら弓矢と鎧のことばかりで、農業や年貢の勤めを投げ出しています。これが原因で都も田舎も損亡して、偉い人も庶民も飢饉になっている。天も海も眼の前で煙と消える。他に類を見ないほどの悶々とした哀しみ、二つと競いようの無い悲しみ嘆くことですよ。和平が整えば、天下は安心し、国土は静まり返り、人々は楽しむことも出来、政府も庶民も大喜びをするでしょう。特に合戦の間中は、両陣営ともに命を落とすものは何万人にもなるでしょう。怪我を受けるものは書けない程沢山になりますよ。罪を重ねるもっとも最たるもので、例え様も無いでしょう。もっとも、良い政治を行われて災いの来ないようにすれば、このこともきっと神仏の配慮にかなうのことでしょう。天皇の京都へのお帰りを毎回毎回源氏武士を出動させて、行く手を邪魔させるので、目的を遂げられずに早二年もの年月が流れました。今となっては、早く停戦させて災いを取り払う儀式をきちんとするべきでしょう。和平をされるか、無理に京都へ帰ると戰になりますので、どちらかにはっきりとした院宣を出して分からしてくださいよ。このような趣旨をきちんとした形で表明してください。という訳で敬ってお示しするのはこのとおりです。

二月三日

壽永三年(1184)二月大廿一日庚辰。有尾藤太知宣者。此間属義仲朝臣。而内々任御氣色。參向關東。武衛今日直令問子細給。信濃國中野御牧。紀伊國田中池田兩庄。令知行之旨申之。以何由緒。令傳領哉之由被尋下。自先祖秀郷朝臣之時。次第承継處。平治乱逆之刻。於左典厩御方〔義朝〕。窂籠之後得替。就愁申之。田中庄者。去年八月。木曾殿賜御下文之由申之。召出彼下文覽之。仍知行不可有相違之旨被仰云々。

読下し                            びとうたとものぶ       もの あ     こ  かん  よしなかあそん  ぞく
壽永三年(1184)二月大廿一日庚辰。尾藤太知宣@という者有り。此の間、義仲朝臣に属す。

しか    ないない   みけしき   まか      かんとう  さんこう   ぶえい きょう じき  しさい  と   せし  たま
而して内々Aに御氣色を任せて、關東へ參向す。武衛今日直に子細を問は令め給ふ。

しなののくになかの みまき    きいのくに たなか いけだ りょうしょう ちぎょうせし   のむね  これ  もう
信濃國中野の御牧B。紀伊國田中C池田D兩庄を知行令むる之旨、之を申す。

なん  ゆいしょ もっ  でんりょうせし   や のよし  たず  くださる    せんぞひでさとあそんの ときよ    しだい   う    つ    ところ
何の由緒を以て傳領令める哉之由、尋ね下被る。先祖秀郷朝臣之時自り、次第に承け継ぐの處。

へいじぎゃくらんのとき  さてんきゅう みかた   をい    ろうろうののち とくたい
平治乱逆之刻、左典厩の御方に於て、窂籠之後得替す。

これ  うれ   もう    つ      たなかのしょうは きょねんはちがつ きそどの おんくだしぶみ たま   のよし  これ  もう
之を愁ひ申すに就きて、田中庄者 去年八月 木曾殿御下文を賜はる之由、之を申す。

か  くだしぶみ  めしいだ これ  み    よっ  ちぎょうそうい あ  べからずのむね  おお らる   うんぬん
彼の下文を召出し之を覽る。仍て知行相違有る不可之旨、仰せ被るEと云々。

参考@尾藤太知宣は、俵藤太藤原秀郷の子孫と書いてある。先祖に尾張守藤原。この尾藤の子「景綱」は泰時の家令となり、複数化して執事と云い、北条が分派すると全体をまとめ始めて内管領となる。
参考A内々は、密書で調略をしている。
参考B中野御牧は、長野県中野市中野。牧は、律令制で馬を租税とする。荘園には種類として荘の田。園の畑。杣は山。浦は海。港の津。等あり。
参考C田中は、紀の川市田中馬場で旧那賀郡打田町田中馬場。西行が開発したとも言われ、又平家物語後二条関白立願では「殿下の領紀伊国に田中庄といふ所を八王子の御社へ永代寄進せらる」とあり有名。紀の川市打田に田中小学校あり。
参考D池田は、紀の川市池田新で旧那賀郡打田町池田新。池田郵便局あり。田中と池田は隣。
参考E相違有る不可之旨仰せ被るは、ここで改めて安堵状を交付したと思われる。

現代語寿永三年(1184)二月大二十一日庚辰。尾藤太知宣という人は、この間まで木曾冠者義仲についていました。しかし、内緒で頼朝様の命に応じて関東へ従いにきました。今日、直接に面会して今までの細かいいきさつを聞きました。信濃の国の中野の牧三郎宗、紀伊の国の田中庄と池田庄を領地として持っていたと云いました。何を根拠に先祖伝来と言えるのかと尋ねられました。先祖の俵の藤太秀郷様の時から、代々受け継いできましたが、平治の乱に左典厩〔義朝〕様についたので、追い出されて地頭職を変えられてしまいました。それを嘆き訴えたら去年の八月に木曾冠者義仲様が安堵状をくれましたと言いました。頼朝様はその安堵状を出させてご覧になりました。そこでそのまま領地として経営して良いことは間違いないとおっしゃられましたとさ。

壽永三年(1184)二月大廿三日壬午。前右馬助秀高。散位宗輔等依同意于義仲朝臣。被召禁之被下使廳云々。

読下し                            さきのうまのすけすえたか さんに むねすけら  よしなかあそん に どうい      よっ
壽永三年(1184)二月大廿三日壬午。前右馬助季高、 散位@宗輔等、義仲朝臣于同意するに依って、

これ  めしいまし られ  しちょう   くださる    うんぬん
之を召禁め被、使廳Aに下被ると云々。

参考@散位(さんに)は、位は持っているが官職がない人。逆に官職にありながら位を持ってない人を有官という。
参考A
使廳は検非違使の庁。

現代語寿永三年(1184)二月大二十三日壬午。前右馬助季高、散位宗輔達は、木曽義仲に味方をしたので、捕まえられて検非違使の庁に下げ渡されましたとさ。

壽永三年(1184)二月大廿五日甲申。朝務事。武衛注御所存。條々被遣泰經朝臣之許云々。其詞云。
  言上
   條々
 一 朝務等事
  右。守先規。殊可被施徳政候。但諸國受領等尤可有計御沙汰候歟。東國北國兩道國々。追討謀叛之間。如無土民。自今春。浪人等歸往舊里。可令安堵候。然者。來秋之比。被任國司。被行吏務可宜候。
 一 平家追討事
  右。畿内近國。号源氏平氏携弓箭之輩并住人等。任義經之下知。可引率之由。可被仰下候。海路雖不輙。殊可忩(怱)追討之由。所仰義經也。於勳功賞者。其後頼朝可計申上候。
 一 諸社事
  我朝者神國也。往古神領無相違。其外今度始又各可被新加歟。就中。去比鹿嶋大明神御上洛之由。風聞出來之後。賊徒追討。神戮不空者歟。兼又若有諸社破壞顛倒事者。隨功程。可被召付處。功作之後。可被御裁許候。恒例神事。守式目。無懈怠可令勤行由。殊可有尋御沙汰候。
 一 佛寺間事
  諸寺諸山御領。如舊恒例之勤不可退轉。如近年者。僧家皆好武勇。忘佛法之間。行徳不聞。無用樞候。尤可被禁制候。兼又於濫行不信僧者。不可被用公請候。於自今以後者。爲頼朝之沙汰。至僧家武具者。任法奪取。可与給於追討朝敵官兵之由。所存思給也。
 以前。條々事。言上如件。
   壽永三年二月日                        源頼朝

読下し                            ちょうむ  こと  ぶえい  ごしょぞん  ちゅう   じょうじょう やすつねあそんのもと  つか さる    うんぬん
壽永三年(1184)二月大廿五日甲申。朝務の事、武衛が御所存を注し、條々を泰經朝臣之許に遣は被ると云々。

 そ  ことば  い
其の詞に云はく

    ごんじょう
  言上す

    じょうじょう
  條々

  ひとつ ちょうむら  こと
 一 朝務等の事

    みぎ  せんき  まも    こと   とくせい ほどこさる べ そうろう  ただ   しょこく  ずりょうらもっと  はから おんさた あ   べ  そうろうか
  右、先規を守り、殊に徳政を施被る可く候。但し、諸國の受領等尤も計ひ御沙汰有る可く候歟。

    とうごくほっこくりょうどう くにぐに   むほん  ついとう    のかん  どみん な    ごと
  東國北國兩道の國々、謀叛を追討する之間、土民無きが如し。

    こんしゅんよ ろうにんら きゅうり  きじゅう    あんど せし べ そうろう  しからずんば らいしゅうのころ  こくし  にん  られ   りむ  おこなはれ よろ     べ  そうろう
  今春自り浪人等舊里に歸住し、安堵令む可く候。 然者、來秋之比、國司を任ぜ被、吏務を行被て≠オかる可く候。

  ひとつ へいけついとう こと
 一 平家追討の事

    みぎ  きないきんごく  げんじ へいし   ごう   きゅうせん かか   のやから  なら   じゅうにんら
  右、畿内近國に源氏平氏と号し、弓箭に携はる之輩、并びに住人等。

    よしつねの げち   まか      いんそつ べ   のよし  おお  くださる  べ  そうろう
  義經之下知に任せて、引率す可し之由、仰せ下被る可く候。

    かいろ たや からず いへど  こと  いそ  ついとうすべ のよし  よしつね おお   ところなり
  海路輙す不と雖も、殊に急ぎ追討可し之由、義經に仰せる所也。

    くんこう  しょう をいては  そ  のち  よりともはから もう   あ  べ  そうろう
  勳功の賞に於者、其の後、頼朝計ひ申し上ぐ可く候。

  ひとつ しょしゃ  こと
 一 諸社の事

    わがちょうはしんこくなり  おうこ  しんりょうそうい な    そ  ほかこのたび  はじ   また おのおの あたら くはらる  べ  か
  我朝者~國也。往古の~領相違無し。其の外今度、始めて又、各、新しく加被る可き歟。

    なかんづく  さぬ ころ  かしまだいみょうじんごじょうらくのよし  ふうぶんしゅつらいののち ぞくと ついとう  しんりくむな  からざ ものか
  就中に、去る比、鹿嶋大明~御上洛之由、風聞出來之後。賊徒の追討は~戮空し不る者歟。

    かね  また  も   しょしゃはかいてんとう  こと あ  ば  こうてい  したが   めしつ  らる  べ  ところ
  兼て又、若し諸社破壞顛倒の事有ら者、功程に隨ひて召付け被る可き處。

    こうさくの のち  ごさいきょさる  べ そうろう  こうれい  しんじ   しきもく  まも    けたいな  ごんぎょうせし  べ   よし
  功作之後、御裁許被る可く候。恒例の~事は式目を守り、懈怠無く勤行令む可き由。

    こと   たず  おんさた あ  べ  そうろう
  殊に尋ね御沙汰有る可く候。

  ひとつ ぶつじ  かん  こと
 一 佛寺の間の事

    しょじ しょざん   ごりょう  きゅう ごと   こうれいの つと  たいてん   べからず
  諸寺諸山の御領、舊の如く、恒例之勤め退轉する不可。

    きんねん ごと  は   そうけ みな ぶゆう この      ぶっぽう  わす    のかん  ぎょうとく きかず  ようしゅ な  そうろう
  近年の如き者、僧家皆武勇を好みて、佛法を忘るる之間。行徳を不聞、用樞@無く候。

    もっと きんせいさる べ そうろう  かね  また  らんぎょうふしん そう  をい は   くしょう  もち  らる  べからずそうろう
  尤も禁制被る可く候。兼て又、濫行不信の僧に於て者、公請を用ひ被る不可候。

    いまより いご   をい  は   よりともの さた   なし    そうけ    ぶぐ   いた    は   ほう  まか  うば  と
  自今以後に於て者、頼朝之沙汰と爲て、僧家の武具に至りて者、法に任せ奪ひ取り、

    ちょうてきを ついとう   かんぺい あた たま    べ   のよし  ぞん  おも  たま    ところなり
  朝敵於追討する官兵に与へ給はる可し之由、存じ思ひ給はる所也。

  いぜんじょうじょう こと  ごんじょうくだん ごと
 以前條々の事、言上件の如し。

       じゅえいさんねんにがつにち                        みなもとのよりとも
   壽永三年二月日             源頼朝

参考@樞シュは、「とぼそ」扉の回転軸の軸受け。

現代語寿永三年(1184)二月大二十五日甲申。朝廷の政務の事について、頼朝様が考えておられる事を、箇条書きにして大藏卿高階泰經様へ送り渡されましたとさ。その書かれた言葉には

申し上げます。箇条書きにして。

一 政務の事
この事は、先々からの規則を守り、特に善政を施すこと。但し、諸国の国司達をきちんと決めてください。関東や北陸道の国には謀反人の木曾冠者義仲を追討している間は、農民はいないに等しかったが、この春から浮浪している者たちを、それぞれの元の村へ戻し、安心して農業を営めるようにしましょう。そうすれば、来年の秋には国司を任命して、徴税することも出来ることになるでしょう。

一 平家追討の事
この事は、
 畿内近國で、源氏だ平氏だと云って、弓箭を業としている武士たちと、又在住の武士達は、付いていくように命令を出してください。船が無くて海路は楽ではないけれど、それでも特に急いで追討するように義經に云ってありますので、手柄を立てたものへの褒美は、後ほど頼朝が推薦します。

一 諸社の事
我国は、神様を崇拝する国です。昔から宛てられた神様へ寄付した領地は変わりませんが、その他に今回改めてそれぞれに新しく増加してください。中でも、つい少し前に鹿島神宮の神様が京都へ向かったとお告げがあった後なので、反逆者の平家の追討は神様のご利益はあったものに違いない。今後とも、若しあちこちの神社が壊れたり、倒れたりした時は、修理工事手順に合わせて修理を命じているのですが、出来上がった後は官幣社と認めてください。代々継がれている神事は次第の規則を守って、怠けることなく祈りを勤めるように、特に調べて命令をしてください。

一 佛寺の間の事
どこの寺もどこの山寺も、坊さんたちは元のように決められたお勤めを手を抜くべきではありません。だのに近頃の坊さんたちは暴力に走って、本来の仏法を忘れて、きちんと徳を積んでいるとは聞かないし、経蔵をあけることもない。一番に禁止することですよ。しかも又、乱暴で信心の足りない坊さんなんぞ、朝廷からの支出を使わせるべきではありません。今から以降は、頼朝の仕事として、坊さんたちの武器を倫理に合わせて没収して、朝廷に敵対する平家を追討する官軍に与えるべきだと思って進言いたします。

以上の箇条書きを申し上げるところはこのとおりです。 壽永三年二月○日  源頼朝

壽永三年(1184)二月大廿七日丙戌。近江國住人佐々木三郎成綱參上。子息俊綱。一谷合戰之時。討取越前三位〔通盛。〕訖。可預賞之由申之。於勳功者。尤所感也。但日來者属平氏。殊奉蔑如源家之處。平氏零落都之後始參上。頗非眞實志之由被仰云々。

読下し                            おうみのくにじゅうにん ささきのさぶろうしげつな  さんじょう
壽永三年(1184)二月大廿七日丙戌。近江國住人、佐々木三郎成綱@、參上す。

しそく としつな いちのたにかっせんのとき えちぜんさんみ〔みちもり〕   う   と をはんぬ しょう あずか べ   のよし  これ  もう
子息俊綱A、一谷合戰之時、越前三位〔通盛〕を討ち取り訖。賞に預る可し之由、之を申す。

くんこう  をい   は  もっと かん   ところなり  ただ   ひごろは へいし  ぞく    こと  げんけ  べつじょ たてまつ のところ
勳功に於て者、尤も感ずる所也。但し、日來者平氏に属し、殊に源家を蔑如し奉る之處。

へいしみやこ れいらくののち  はじ    さんじょう  すこぶ しんじつ こころざし あら  のよし  おお  らる   うんぬん
平氏都を零落之後、始めて參上す。頗る眞實の志に非ざる之由、仰せ被ると云々。

参考@佐々木三郎成綱は、阿倍氏の系統で本佐々木と云い安土の佐々貴神社神主。この神主職を平安末期に廷尉爲義の貴下の宇多源氏の佐々木源三秀義に奪はれるが、平家全盛に佐々木源三秀義は解職され、この本佐々木へ戻された。
参考A俊綱は、阿部氏本佐々木俊綱、三郎成綱の子。

現代語寿永三年(1184)二月大二十七日丙戌。近江の国の武士佐々木三郎成綱が、お目見えにやってきました。息子の俊綱は、一の谷合戦の時に越前三位平通盛をやっつけました。その手柄の褒美を貰えるでしょうと、云ってきました。「手柄については偉いと思っている。しかしつい先日まで平家についていて、特に源氏を馬鹿にしていたけれど、平家が都落ちをした後にやって来たね。とても本音じゃないんじゃないの。」とおっしゃられましたとさ。

壽永三年(1184)二月大卅日己丑。信濃國東條庄内狩田郷領主軄。避賜式部大夫繁雅訖。此所被没収之處。爲繁雅本領之由。愁申故云々。

読下し                         しなののくに ひがしじょうのしょうない かりたごう りょうしゅしき   しきぶたいうしげまさ  さ  たまは をはんぬ
壽永三年(1184)二月大卅日己丑。信濃國 東條庄内 狩田郷@領主軄を、式部大夫A繁雅に避け賜り訖。

こ ところ  ぼっしゅうさる のところ  しげまさほんりょうた  のよし  うれ  もう     ゆえ うんぬん
此の所、没収被る之處、繁雅本領爲る之由を愁ひ申すの故と云々。

参考@東條庄狩田郷は、長野県長野市大字若槻東条字蚊里田1313番地に蚊里田八幡宮があるのでここかも知れない。
参考A式部大夫は、式部は式部丞。式部省の三等官で6位相当だが、従五位下を与えられているので大夫とつける。

現代語寿永三年(1184)二月大三十日己丑。信濃の国の東条庄の内の蚊里田郷の地頭職を、式部大夫繁雅に分け与えました。この場所は、平家没官領として没収したのですが、繁雅が元の領主だと嘆き訴えて来たからなんだとさ。

三月へ

吾妻鏡入門第三巻

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