吾妻鏡入門第三巻

壽永三年(1184)三月小「四月十六日元暦元年と爲す」

壽永三年(1184)三月小一日庚寅。武衛被遣御下文於鎭西九國住人等之中。可追討平家之趣也。凡雖被召聚諸國軍兵。彼國々依令与同平氏。未奉歸往之故也。件御下文云。
 下 鎭西九國住人等
  可早爲鎌倉殿御家人且如本安堵且各引率追討平家賊徒事
 右。彼國之輩皆悉引率。可追討朝敵之由。奉 院宣所仰下也。抑平家謀叛之間。去年追討使。東海道者遠江守義定朝臣。北陸道者左馬頭義仲朝臣。爲鎌倉殿御代官。兩人上洛之處也。兼又。義仲朝臣爲平家和議。謀反之條。不慮之次第也。仍 院宣之上。加私勘當。令追討彼義仲畢。然而平家令經廻四國之邊。動出浮近國之津泊。奪取人民之物。狼唳不絶者也。於今者。云陸地云海上。遣官兵。不日可令追討也者。鎭西九國住人等。且如本安堵。且皆引率彼國官兵等。宜承知不日全勳功之賞矣。以下。
    壽永三年三月一日
  前右兵衛佐源朝臣
次四國之輩者。大畧以雖令与力平家。土佐國者。爲宗者奉通其志於關東之間。爲北條殿御奉。同遣御書。其詞云。
 下 土佐國大名國信。國元。助光入道等所
   可早源家有志輩同心合力追討平家事
 右當國大名并御方有志之武士。且企參上。且同心合力。可追討平家之旨。被 宣下之上。依鎌倉殿仰。所令下知也。就中當時上洛御家人信恒可令下向。如舊令安堵。不可有狼藉。大名武士同心合力不可見放之状如件。宜承知敢勿遺失。以下。
    壽永三年三月一日                       平

読下し                         ぶえい おんくだしぶみをちんぜい きゅうこく じゅうにん らのなか  つか され
壽永三年(1184)三月小一日庚寅。武衛、御下文於鎭西、九國の住人@等之中に遣は被る。

へいけ ついとうすべ のおもむきなり  およ しょこく  ぐんぴょう めしあつ らる   いへど    か  くにぐに   へいし  よどうせし       よっ
平家を追討可し之趣也。凡そ諸國の軍兵を召聚め被ると雖も、彼の國々、平氏に与同令むるに依て、

いま きおうたてまつら のゆえなり くだん おんくだしぶみ い
未だ歸往奉ず之故也。件の御下文に云はく

  くだ    ちんぜい きゅうごく  じゅうにんら
 下すA 鎭西、九國の住人等へ

    はやばや かまくらどの  ごけにん   な    かつう もと  ごと  あんど    かつう おのおのいんそつ  へいけぞくと  ついとう  べ  こと
  早B々と鎌倉殿の御家人と爲し、且は本の如く安堵し、且は各々引率しC平家賊徒を追討す可き事 

  みぎ  か  くにのやから みなことごと いんそつ ちょうてき  ついとう べ   のよし  いんぜん うけたまは おお くだ  ところなり  
 右、彼の國之輩、皆悉く引率し、朝敵を追討す可し之由、院宣を奉り、仰せ下す所也。 

  ようや  へいけ むほん のかん きょねん  ついとうし  とうかいどうは とうとうみのかみよしさだあそん ほくろくどうは さまのかみよしなかあそん かまくらどの おんだいかん な
 抑く、平家謀叛之間、去年の追討使は東海道者遠江守義定朝臣、 北陸道者左馬頭義仲朝臣、鎌倉殿の御代官と爲し、

  りょうにんじょうらくのところなり かね また よしなかあそん へいけ  わぎ   な  むほんのじょう   ふりょの しだいなり
 兩人上洛之處也。兼て又、義仲朝臣平家に和議を爲す謀反之條D、不慮之次第也。

  よつ  いんぜんのうえ  し  かんどう  くは  か   よしなか ついとうせし をはんぬ
 仍て院宣之上、私の勘當を加へ彼の義仲を追討令め畢。

  しかして  へいけ しこくのへん  けいかいせし  ややもすれ きんごくのつとまり  い  うか     じんみんのもの うば   と    ろうぜきたへざるものなり
 然而、平家四國之邊に經廻令め、動ば、近國之津泊に出で浮び、人民之物を奪い取り、狼唳絶不者也。

  いま  をい  は   くがち  い   かいじょう い   かんぺい つか   ふじつ  ついとうせし  べ   なりてへ
 今に於て者、陸地と云ひ海上と云ひ官兵を遣はし不日に追討令む可き也者り。

  ちんぜいきゅうこく じゅうにんら かつう もと  ごと  あんど    かつう みな か くに  かんぺいら  いんそつ
 鎭西九國の住人等、且は本の如く安堵しE、且は皆彼の國の官兵等を引率し、

  よろ    しょうち     ふじつ  くんこうのしょう  まった       と
 ≠オく承知し、不日の勳功之賞を全くすべし矣。

  もつ  くだ
 以て下す  

    じゅえいさんねんさんがつついたち
  壽永三年三月一日

  さきのうひょうえのすけみなもとあそん
 前右兵衛佐源朝臣F

つぎ    しこくのやからは  たいりゃくもつ へいけ  よりきせし    いへど   とさのくにはむねとた  もの  そ こころざいしをかんとう つう たてまつ のかん
次に、四國之輩者、大畧以て平家に与力令むと雖も、土佐國者宗爲る者G、其の志於關東に通じ奉る之間、

ほうじょうどの おんうけたまはり な   おな    おんしょ つか      そ   ことば  い
北條殿の 御奉と爲しH、同じく御書を遣はす。其の詞に云はく

  くだ     とさのくにだいみょうくにのぶ くにもと すけみつにゅうどうら ところ
 下す 土佐國大名國信、國元、助光入道等の所  

    はやばや げんけ こころざしあ やから  どうしん  ごうりき   へいけ  ついとう  べ    こと
  早々と源家に志有るの輩、同心し合力しK平家を追討す可しの事

  みぎ    とうごくだいみょうなら  みかた こころざしあ のぶし   かつう  さんじょう くはだ   かつう どうしん  ごうりき   へいけ  ついとう  べ  のむね
 右は、當國大名并びに御方の志有る之武士、且Jは參上を企て、且は同心、合力し平家を追討す可し之旨。

  せんげさる  のうえ  かまくらどの  おお    よつ    げち せし  ところ なり なかんづくに とうじ じょうらく  ごけにんのぶつね  げこうせし  べ
 宣下被る之上、鎌倉殿の仰せに依て、下知令む所L也。 就中、當時M上洛の御家人信恒、下向令む可し。

  きゅう  ごと  あんどせし    ろうぜきあ  べからず  だいみょう ぶし  どうしん  ごうりき         みはな べからずのじょう くだん ごと
 舊の如く安堵令む。狼藉有る不可。大名、武士は同心、合力すれば、見放す不可之状、件の如し。

  よろ    しょうち     あえ いしつなかれ もつ  くだ
 宜しく承知して、敢て遺失勿、以て下す。

      じゅえいさんねんさんがつついたち
   壽永三年三月一日

参考@鎭西九國の住人は、九州の未だ御家人になっていない武士や領主。
参考Aすは、下すで始まり以って下すで終わる「下文(くだしぶみ)」。下文には命令的強い意志が入っている。反対に呼びかけ程度は御教書(みぎょうしょ)。
参考Bは、一文字ながら二文字分と読み「早々と」(はやばやと)と読む。他にも「尚」を「なおなお」、「直」を「じきじきに」「又」を「またまた」「弥」を「いやいや」と読む。
参考C各々引率は、義経に引率して指揮下に入れの意味。
参考D義仲朝臣平家に和議を爲す謀反之條は、木曾冠者義仲が関東に攻め入られた時に平家と和議を結んだと玉葉に書かれている。
参考E本の如く安堵しは、本領安堵される。
参考F前右兵衛佐源朝臣と、年月日の左上に書くのは、身分が高いからで、奥上署判と云う。
参考G宗爲る者は、主だった者の意味だが、ここでは希義の関係で夜須と橘公成を指す。
参考H北條殿の御奉と爲し、同じく御書を遣はす。は、時政が土佐と関係がある。何故なら、伊豆山権現の領地が土佐にあり、灯篭の油を船を出して納品させているがこの縁かと思われる。又は、この関係のコネじゃなくて北條水軍を持っていたかも知れない?1170頃に大島の鎮西八郎為朝を討伐の為伊豆水軍が20隻で行っており北条は二隻出しているので水軍を持っていたと思われる。しかもこの時点では頼朝の舅と言う立場で伊豆の代表的存在になっている。
参考Jの文字は、「且は何々、且はかにかに」と二つ以上の理由があるときなどに使い、一文字の時は「しばらく」になる。
参考K同心し合力しは、御家人への道として1、参上して名簿ミョウフ奉呈して安堵状がでると本領安堵となる。2、同心合力して国毎に一枚の紙に書き(一紙差出)代官が(交名注進)提出するの二種類が考えられる。
参考L宣下被る之上、鎌倉殿の仰せに依て、下知令む所也は、宣下により鎌倉殿が命令権を持ったので、その仰せによって代官として時政が命令している。
参考M當時は、現在を指す。

現代語寿永三年(1184)三月小一日庚寅。頼朝様は、九州の未だ御家人になっていない在地武士たちへ命令書をお遣しになりました。平家を追討させる内容です。殆ど日本中の軍人を呼び集めましたが、九州の武士たちは平家に味方しているので、未だに恭順してきていないからです。その命令書に書いてあるのは

 命令する 九州の在地武士たちへ
  さっさと鎌倉殿の御家人になって、ひとつは本領安堵を受け、ひとつはそれぞれ軍隊に入って平家の賊軍を追討する事
右のとおり、九州の武士たちは、皆全員一緒に、朝廷の敵を追討するように、院宣を戴いているので、命令をしているのです。そこで、平家が謀反を起こしたので、朝廷から任命された追討する使者として東海道を安田遠江守義定、北陸道は木曾左馬頭義仲が鎌倉殿の代官として、両方が京都へ上洛したところです。ところが、木曾冠者義仲が平家と同盟を結んだ謀反は思っても居なかったことです。それで院宣に従って、私が代官から勘当して義仲を追討してしまったのです。しかしながら平家は四国のあたりをうろつきながら、時には関西の港に出没して、人々の年貢を奪い取る乱暴に泣くことが絶えないのです。今となっては、陸地でも海上でも、官軍を行かせて日を置くことなくすぐに追討する必要があるのですと(頼朝様が)おっしゃられています。だから九州の武士たちは、一つは本領安堵をするので、一つは皆を官軍として連れて行くので、その旨を承知してすぐに手柄を自分のものにしなさい。命令する 壽永三年三月一日 前右兵衛佐源朝臣

次に、四国の武士たちは、殆ど皆が平家に見方をしているけれども、土佐国の主だった武士その心に目指しているのは、源氏へ味方しようと思っているので、北条殿が頼朝様から命じられて同様な趣旨の手紙を出しました。その内容は

命令する 土佐の国大豪族の国信・国元・助光入道たちへ
 さっさと源氏に味方の意思のあるものは、一緒になって力をあわせて平家を追討すること
右のとおり、土佐の国の大名で源氏の味方になる気のある武士は、一つは源氏軍へ来るようにすること、一つは皆一緒になって力をあわせて平家を追討するように、宣旨を受けている鎌倉殿のお言葉によって、命令しているわけです。なかでも特に現在京都へ来ている御家人の信恒は地元へ帰りなさい。(地元へ帰って周りを説得しなさい)そうすれば、従来どおりの本領を安堵するので、逆らうことのないように、大豪族も武士も一緒に名簿に署名をして提出すれば、御家人としての取立てに落とすことが無いようにすることはこの手紙のとおりです。よく承知をして間違えの無いように命令します。
    
寿永三年三月一日

壽永三年(1184)三月小二日辛卯。三位中將重衡卿。自土肥次郎實平之許。渡源九郎主亭。實平依可赴西海也。

読下し                         さんみちゅうじょうしげひらきょう といのじろうさねひらのもとよ   げんくろうぬし  てい   わた
壽永三年(1184)三月小二日辛卯。三位中將重衡卿、土肥次郎實平之許自り源九郎主の亭Aに渡る。

さねひらさいかい おもむ べ    よつ   なり
實平西海へ赴く可しに依ってB也。

参考@三位中將重衡卿は、奈良の大仏を焼いた平重衡。
参考A源九郎主亭は、京都五条堀川。
参考B實平西海へ赴く可しに依ては、これによって土肥次郎實平は範頼の戦目付になり、梶原平三景時が義経の戦目付に交替する。

現代語寿永三年(1184)三月小二日辛卯。三位中将重衡様は、預かっている土肥次郎実平から源九郎義経様の屋敷へと移されました。それは、土肥実平が九州へ出かけるからです。

壽永三年(1184)三月小五日甲午。去月於攝津國一谷被征罸平家之日。武藏國住人藤田三郎行康先登令討死訖。仍募其勳功賞。於彼遣跡。子息能國可傳領之旨。今日被仰下。御下文云。
 件行康。平家合戰之時。最前進出。被討取其身訖。仍彼跡所知所領等。無相違。男小三郎能國可令相傳知行之由云々。

読下し                         さんぬ つき  せっつのくにいちのたに をい へいけ  せいばつされ のひ
壽永三年(1184)三月小五日甲午。去る月、攝津國 一谷に於て平家を征罸被る之日、

むさしのくにじゅうにんふじたのさぶろうゆきやす  せんと うちじにせし  をは
武藏國住人 藤田三郎行康@、先登に討死令め訖んぬA

よつ  そ   くんこう   しょう つの   か  ゆいせき  をい    しそくよしくに でんりょうすべ のむね  きょう おお くだ され     おんくだしぶみ  い
仍て其の勳功Bの賞を募り、彼の遣跡に於ては子息能國C傳領可し之旨、今日仰せ下さ被る。御下文に云はく  

  くだん ゆきやす へいけかっせんのとき  さいぜん すす  い  そ   み   う  とられをはんぬ
 件の行康、平家合戰之時、最前に進み出で其の身を討ち取被訖。

  よつ  か   あと  しょちしょりょうら そういな     だんこさぶろうよしくにそうでんちぎょうせし  べ   のよし  うんぬん
 仍て彼の跡の所知所領等相違無く、男小三郎能國相傳知行令む可し之由と云々。

参考@武藏國住人藤田三郎行康は、武蔵藤田庄で本荘市藤田。
参考A
先登に討死令め訖んぬは、一の谷合戰で範頼軍として生田の森から攻めた。
参考B其の勳功は、先陣と討ち死に。
参考C子息能國(藤田)は、後に承久の乱で後鳥羽上皇からの手紙を読めたので学者と言われ名字も学者となる。

現代語寿永三年(1184)三月小五日甲午。先月の摂津の国の一の谷で平家を破った日に、武蔵武士の藤田三郎行康は先陣を切って討ち死にをしました。そこでその手柄に答えるために彼の残した財産などについては、子供の能国が引き継ぐように、今日(頼朝様が)お命じになられました。その命令書に書いてあるのは、その行康は、平家との合戦の時、最前に進んでいって、敵に討ち取られてしまいました。それなので彼の持っていた役職と領地については、間違いなく息子の三男の能国が相続して経営するようにとの内容でしたとさ。

壽永三年(1184)三月小六日乙未。蒲冠者蒙御氣色事免許。日來頻依愁申之也。

読下し                         かばのかじゃ みけしき  こうむ こと めんきょ      ひごろしき    これ  うれ  もう     よつ  なり
壽永三年(1184)三月小六日乙未。蒲冠者御氣色を蒙る事@免許あり。日來頻りに之を愁ひ申すAに依て也。

参考@御氣色を蒙る事は、上洛の途中で墨俣川で、大将のくせに御家人と先陣争いをしたので、頼朝から勘気を蒙った。
参考A日來頻りに之を愁ひ申すは、侘びの手紙を沢山出していたのか。

現代語寿永三年(1184)三月小六日乙未。蒲冠者範頼様は、頼朝様から謹慎をさせられていましたが、許されました。普段から何度も嘆き詫びていたからです。

壽永三年(1184)三月小九日戊戌。去月十八日 宣旨状到着鎌倉。是近日武士等寄事於朝敵追討。於諸國庄園打止乃貢。奪取人物。而彼輩募關東威歟。無左右難處罪科之由。公家内々有其沙汰云々。武衛依令傳聞之給。下官全不案煩庶民之計。其事早可被糺行之由。被申請云々。
 壽永三年二月十八日 宣旨 近年以降。武士等不憚 皇憲。恣耀私威。成自由下知。廻諸國七道。或押黷神社之神税。或奪取佛寺之佛聖。况院宮諸司及人領哉。天譴遂露。民憂無空。自今以後永從停止。敢莫更然。前事之存。後輩可愼。若於有由緒。散位源朝臣頼朝相訪子細。觸官言上不道行旨。猶令違犯者。專處罪科。不曾寛宥。
                        藏人頭左中弁兼皇后宮亮藤原光雅〔奉〕

読下し                         さんぬ つきじうはちにち せんじのじょう かまくら とうちゃく
壽永三年(1184)三月小九日戊戌。去る月十八日の宣旨状、鎌倉に到着す@

これ  きんじつ ぶしら ことを ちょうてきついとう よ    しょこくしょうえん  をい  のうぐ   う     と      ひと  もの   うば  と
是、近日武士等事於朝敵追討に寄せ、諸國庄園Aに於て乃貢を打ち止めB、人の物Cを奪ひ取る。

しか    か  やから かんとう  い  つの  か    そう  な  ざいか   しょ  がた  のよし  こうけ ないない そ   さた  あ    うんぬん
而るに彼の輩、關東の威に募る歟。左右無く罪科に處し難き之由、公家内々に其の沙汰有りと云々。

ぶえいこれ でんぶんせし たま    よつ    げかん まった しょみん わずらは のはかり あんぜず
武衛之を傳聞令め給ふに依て、下官D全く庶民を煩はす之計を案不。

そ   ことはや ただ おこ  られ  べ    のよし  もう うけたま らる    うんぬん
其の事早く糺し行は被る可し之由、申し請は被ると云々。  

   じゅえいさんねんにがつじうはちにち せんじ
 壽永三年二月十八日  宣旨

  きんねん いこう   ぶしら   こうけん はばか ず ほしいまま しい  かがや   じゆう    げち   な       しょこくしちどう  めぐ
 近年以降、武士等 皇憲を憚ら不、恣に私威を輝かし自由Eの下知を成して、諸國七道を廻り、

  ある    じんじゃのしんぜい お   けが    ある    ぶつじのぶっしょう  うば  と    いはん いんくうしょし およ  じんりょう  や
 或ひは~社之~税を押し黷し、或ひは佛寺之佛聖を奪ひ取る。况や院宮諸司及び人領を哉。

  てんけんつい あら   たみ  うれ  むな        な     じこん いご なが  ちょうじ    あえ  さら  しか      な    ぜんじのぞんじ  あと やからつつし べ
 天譴遂に露はれ民の憂ひ空しきこと無し、自今以後永く停止し、敢て更に然ること莫し、前事之存、後の輩愼む可し。

  も   ゆいしょあ     をい     さんにみなもとのあそんよりとも しさい  あいたず    かん  ふ    どうぎょうせざ むね  ごんじょう
 若し由緒有るに於てはF、散位G源朝臣頼朝、子細を相訪ねH、官に觸れて道行不る旨Iを言上し、

  なお  いはんせし もの  もっぱ ざいか  しょ  あえ  かんゆうせず
 猶、違犯令む者は專ら罪科に處し曾て寛宥不J

                     くらんどのとうさちゅうべんけんこうごうぐうりょうふじわらみつまさ  〔ほうず〕
          藏人頭左中弁兼皇后宮亮藤原光雅K〔奉〕

参考@去る月十八日の宣旨状鎌倉に到着すと二十日以上もかかったのは、院の勅旨なので、あっちこっち寄って饗応を受けながら来るので時間がかかる。
参考A
庄園は、荘を崩すと庄となり、荘園の種類があり、米は庄、牧場は牧、畑は御園、津が川淵や湖の淵で港使用税、浦は海産物を納める、杣は薪など山の恵、保は役所の領地で公領のはずが長官の私領となっている、御厨は伊勢神社の領地。
参考B乃貢を打ち止めは、横取りをして。
参考C人の物を奪ひ取るは、現在で云う他人のものを盗ると似ているが、当時は「神の物」「仏の物」「人の物」と云う様に分ける考え方なので、一度神様に捧げたものをお下がりして食べるなどの習慣はなかった。
参考D下官とは、自分を遠慮して下げていっている。
参考E自由は、好き勝手にの意味。
参考F若し由緒有るに於てはは、そうは行かないと事情がある者があれば。
参考G散位は、位はあるけれども、官職についていない者をさす。
参考H源朝臣頼朝、子細を相訪ねは、寿永2年10月宣旨で後白河が関東支配を認めたので「頼朝が調査をして」の意味。
参考I官に觸れて道行不る旨は、「太政官に旨く出来ない内容を届けてくれ」の意味。この後、頼朝は「10月宣旨の内容を修正して太政官へ届けるよう」に云っている。
参考J寛宥不は、許さないように。
参考K藤原光雅は、後に義経の爲に「頼朝追討の宣旨」を書いて頼朝に下官させられる。

現代語寿永三年(1184)三月小九日戊戌。先月十八日の宣旨の手紙が、鎌倉へ到着しました。これは、最近武士達が、平家追討のどさくさにまぎれて、国衙領や荘園で納めるべき年貢を納めず、私財にしてしまうからです。その上、その連中は、関東のご威光を着ているらしく、安易に罰することもやり難いので、朝廷から非公式に打診をしてきました。頼朝様は、この話を伝え聞かれましたので、私は全然一般庶民に負担をかけるようなことは、考えてもいない。そのことは早く是正するように、承知をなされました。

寿永三年二月十八日 宣旨

最近、武士達が朝廷の権威に遠慮をしないで、好きなように個人的権威を振りかざして、勝手気ままに命令をして、日本中を蹂躙している。或る時は神社への年貢だといって押し付け、或る時は寺の灯明代を奪い取るので、当然神仏の権威のない院や親王や諸役人や公家の領地においても同様です。天のお告げが出て、民の苦労を無駄にはしません。今から以後は、ずうっと悪事を止めて、それが守られないことはないでしょう。この良い前例をわきまえて、将来の後輩たちも遠慮して守っていくことでしょう。もし、そうはいかない事情があるものは、頼朝様が詳しい事情を調査して、太政官に旨く出来ない内容を届けてください。なお、違反をするものがあれば、罰を加えて許さないようにしてください。
          蔵人頭左中弁兼皇后宮亮藤原光雅が命を受けて書きました。

壽永三年(1184)三月小十日己亥。リ。三位中將重衡卿今日出京赴關東。梶原平三景時相具之。是武衛依令申請給也。」今日。被召因幡國住人長田兵衛尉實經〔後日改廣經。〕賜二品御書云。右人同心平家之間。雖可罪科。父資經〔高庭介也。〕以藤七資家。伊豆國迄送事。至子々孫々更難忘。仍本知行所不可有相違者。去永暦御旅行之時。累代芳契之輩。或夭亡或以變々之上。爲左遷之身。敢無從之人。而實經(資經)奉副親族資家事。不思食忘之故也。

読下し                    はれ  さんみちゅうじょうしげひらきょう きょう  きょう い    かんとう  おもむ   かじわらへいざかげときこれ あいぐ
壽永三年(1184)三月小十日己亥。リ。三位中將重衡卿、今日、京を出で、關東へ赴く。梶原平三景時之を相具す。

これ  ぶえい  もう  う   せし  たま   よつ  なり
是、武衛@申し請け令め給ふに依て也。

きょう   いなばのくにじゅうにん おさだのひょうえのじょうさねつね 〔ごじつ ひろつね  あらた  〕  めさ     にほん  おんしょ  たま     い
今日、因幡國住人  長田兵衛尉實經A〔後日廣經と改む〕召被れ、二品@御書を賜はりて云はく。

みぎ ひと  へいけ   どうしん    のかん  ざいか    べ    いへど   ちちすけつね〔たかばのすけなり〕 とうしちすけいえ もつ    いずのくにまでおく  こと
右の人、平家に同心する之間、罪科たる可しと雖も、父資經〔高庭介也〕Bは藤七資家を以て、伊豆國迄送る事、

ししそんそん   いた     さら  わす  がた    よつ ほんちぎょうしょ  そういあ   べからずてへ
子々孫々に至るまで更に忘れ難し。仍て本知行所は相違有る不可者り。

さんぬ えいりゃく ごりょこうのとき   るいだいほうきつのやから ある   ようぼう     ある    もつ へんぺんのうえ  させんのみ   な     あえ したが のひとな
去る永暦の御旅行之時、累代芳契之輩、或ひは夭亡し、或ひは以て變々之上、左遷之身と爲し、敢て從ふ之人無し。

しか    さねつね                しんぞくすけいえ そ たてまつ ことおぼ め  わす  ざ   のゆえなり
而るに實經(資經の間違い)は親族資家を副へ奉る事思し食し忘れ不る之故也。

参考@武衛二品、同じ日の文書に頼朝が武衛二品の二つの呼び方で出ている。二品は平家討伐の賞で受けたので「今日因幡國住人」後半の内容は書き足されたものと思われる。
参考A長田兵衛尉實經は、因幡國高庭庄で鳥取市野坂で後廣經と改める。
参考B資經〔高庭介也〕は、因幡國高庭庄で鳥取市野坂。国の介で高場郡司でもある。頼朝が伊豆へ配流されるときに、平家をはばかって誰も送ってくれないのに、資經は親族の資家に伊豆まで送らせた。

現代語寿永三年(1184)三月小十日己亥。晴。三位中将重衡卿は、今日京都を出発して関東へ護送されます。梶原平三景時が連行します。これは、頼朝様が院へ願い出たからです。

同じ今日、(鎌倉では)因幡の国の武士で長田兵衛尉実経〔後日、広経に名前を変えます。〕が呼ばれて、二位の頼朝様から書面を与えられました。それに書いてあることは、この人は、平家に味方をしたので、その罪は逃れがたいが、父親の資経〔高庭介をしている〕が、部下の藤七資家に伊豆まで遅らせた事は、私の子孫たちにまで忘れられない恩があります。それなので、本領安堵をします。それは、昔の永暦時代に伊豆へ流されて行く時に、家代々の家人達は、滅びてしまったり、平家に鞍替えをしたり、流浪の民となってしまったので、誰も来ませんでした。それなのに資経は、親戚の資家をお供につけてくれた恩を忘れずにいたから、その恩に報いるためです。

壽永三年(1184)三月小十三日壬寅。尾張國住人原大夫高春依召參上。是故上総介廣常外甥也。又爲薩摩守忠度外甥。雖爲平氏恩顧。就廣常之好。背平相國。去治承四年馳參關東以來。偏存忠之處。去年廣常誅戮之後。成恐怖半面邊土。而今廣常無罪而賜死。潜有御後悔之間。彼親戚等多以免許。就中高春依有其功。本知行所領。如元令領掌之。可抽奉公之旨。被仰含云々。

読下し                     おわりのくにじゅうにん はらのたいふたかはる  め   よつ  さんじょう   これ  こかずさのすけひろつね がいせいなり
壽永三年(1184)三月小十三日壬寅。尾張國住人 原大夫高春@、召しに依て參上す。是、故上総介廣常が外甥也。

また  さつまのかみただのり がいせいた
又、薩摩守忠度Aは外甥爲り。

へいし おんこ た   いへど   ひろつねのよしみ つ    へいしょうこく  そむ   さぬ  じしょうよねんかんとう  は   さん    いらい
平氏恩顧爲りと雖も、廣常之好に就き、平相國に背き、去る治承四年關東へ馳せ參ずる以來、

ひと    ちう  ぞん    のところ  きょねんひろつねちうりくののち きょうふ な   へんど  はんめん    しか    いま  ひろつねつみな  て  し  たま
偏へに忠を存ずる之處、去年廣常誅戮之後、恐怖を成し邊土に半面Bす。而るに今、廣常罪無くし而死を賜はる。

ひそか おんこうかいあ  のかん  か  しんせきら おお もつ  めんきょ   なかんづく たかはる そ   こうあ    よつ    ほんちぎょう しょりょうもと  ごと
潜に御後悔有る之間、彼の親戚等多く以て免許す。就中、高春は其の功有るに依て、本知行の所領元の如く、

これ りょうしょうせし ほうこう  ぬき    べ    のむね  おお ふく   らる   うんぬん
之を領掌令め奉公を抽んず可しC之旨、仰せ含め被ると云々。

参考@尾張國住人原大夫高春は、犬山市尾張二宮大縣神社神主で母は上総權介廣常の妹。ちなみに尾張一宮は一宮市真C田神社
参考A薩摩守忠度は、高春の娘婿。忠度は、清盛の腹違いの弟と云う事で清盛に呼ばれ京都へ行ったのは平治の乱の10年後。
参考B半面とは、半分顔を背けうつむくの意味で吾妻鏡の造語。
参考C奉公を抽んず可しは、ご恩と奉公。

現代語寿永三年(1184)三月小十三日壬寅。尾張国に所領を持つ武士の原大夫高春が、お呼びに従って参りました。この人はなくなった上総権介広常の甥です。又、薩摩守平忠度は高春の甥であります。平家の縁が近い人であるけれども、広常の方の縁を慕って、平相国清盛に背を向け、大分前の治承四年に関東へ飛んできたからずぅーっと、ひたすら忠義を尽くしてきました。去年広常が処刑されたとき、その縁で同罪扱いされることを恐怖して、片田舎にひっそりと伏せるようにしていました。しかし今となれば、上総広常は罪がないのに処刑してしまった事を、人知れず心の中で後悔し、その親戚の人たちの多くは嫌疑を許されました。中でも、高春は元々手柄のある人なので、本来の所領を元のとおりに知行して、頼朝様に尽くすように、言って聞かせましたとさ。

壽永三年(1184)三月小十四日癸卯。遠江國都田御厨。如元從神宮使。可致沙汰之由。被定下云々。

読下し                      とうとうみのくに みやこだのみくりや もと ごと     しんぐうし   したが さた いた  べ   のよし
壽永三年(1184)三月小十四日癸卯。遠江國 都田御厨@、 元の如く、~宮使に從ひ沙汰致す可し之由、

さだ  くださる    うんぬん
定め下被ると云々。

参考@都田御厨は、静岡県浜松市都田町。

現代語寿永三年(1184)三月小十四日癸卯。遠江國の都田御厨(伊勢神宮へ寄付した荘園)を元通りに神宮の使者の言い分に合わせた方法で、年貢を納付するように決めてくださいましたとさ。

壽永三年(1184)三月小十七日丙午。板垣三郎兼信飛脚去夜到來鎌倉。今日。判官代邦通披露彼使者口状。其趣。應貴命。爲追討平家所赴西海〔去八日出京云々。〕也。而適列御門葉。奉一方追討使。可爲本懷之處。實平乍相具此手。稱蒙各別仰。於事不加所談。剰云西海雜務。云軍士手分。不交兼信口入。獨可相計之由。頻結搆。始終爲如此者。頗可失勇心。居住西國之間。諸事兼信可爲上司之旨。賜御一行。欲當于眉目云々。此事會無許容。不可依門葉。不可依家人。凡實平貞心者。難混傍輩之上。守眼代器。委付西國巨細訖。如兼信者。只向戰塲。可弃命一段也。其猶以不可定。今申状可謂過分者。使者空走歸云々。

読下し                      いたがきのさぶろうかねのぶ ひきゃく さんぬ よ かまくら  とうらい
壽永三年(1184)三月小十七日丙午。板垣三郎兼信@が 飛脚、去る夜鎌倉へ到來す。

きょう   ほうがんだいくにみち か   ししゃ   こうじょう  ひろう
今日、判官代邦通、彼の使者が口状を披露す。

そ おもむき きめい   おう  へいけ  ついとう    ため  さいかい おもむ 〔さんぬ  ようか しゅっきょう   うんぬん    〕 ところなり
其の趣、貴命に應じ平家を追討せん爲に西海へ赴く〔去る八日出京すと云々〕所也。

しか    たまた ごもんよう   れつ   いっぽう  ついとうし  たてまつ  ほんかいた べ   のところ
而るに適ま御門葉
Aに列し、一方の追討使を奉り、本懷爲る可きB之處、

さねひらこのて  あいぐ   なが   かくべつ おお   こうむ   しょう    こと  をい  しょだん くは  ず
實平此手に相具し乍ら、各別の仰せを蒙ると稱し、事に於て所談を加へ不
C

あまつさ さいかい ぞうむ  い    ぐんし   てわけ   い    かねのぶ こうにゅう まじへず  ひと  あいはか べ   のよし  しき    けっこう
剩へ西海の雜務と云ひ、軍士の手分と云ひ、兼信が口入を交不、獨り相計る可し之由、頻りに結搆す。

しじゅうかく  ごと  た   ば  すこぶ ゆうしん うしな べ
始終此の如く爲ら者、頗る勇心を失う可し。

さいごく  きょじゅうのかん  しょじかねのぶじょうした  べ   のむね  ごいちぎょう  たま      びもく に あ       ほつ    うんぬん
西國に居住之間、諸事兼信上司爲る可し之旨、御一行
Dを賜はり、眉目于當てんと欲すと云々。

こ   こと   あ    きょよう な     もんよう  よ  べからず  けにん  よ  べからず
此の事、合へて許容無し。門葉に依る不可、家人に依る不可。

およ  さねひら ていしんは  ぼうはい  まじ  がた  のうえ  もくだい うつわ まも    さいごく  こさい   まか  つ  をはんぬ
凡そ實平が貞心者、傍輩に混り難き之上、眼代の器を守り、西國の巨細を委せ付け訖。

かねのぶ ごと  は   ただせんじょう むか いのち す べ  いちだんなり   そ  なおもつ  さだ べからず  いま  もう  じょうかぶん いひ  べ
兼信が如き者、只戰塲に向ひ命を弃つ可き一段也
E。其れ猶以て定む不可F。今の申し状過分と謂つ可し。

てへ   ししゃ むな   はし   かえ    うんぬん
者れば使者空しく走り歸ると云々。

参考@板垣三郎兼信は、甲斐武田党。武田太郎信義の三男。
参考A御門葉は、源氏一門。
参考B本懷爲る可きは、本来在るべきなのに。
参考C所談を加へ不は、仲間に入れてくれない。
参考D御一行は、一筆。
参考E命を弃つ可き一段也は、命を捨てればそれで十分だ。
参考F其れ猶以て定む不可は、それさえも過分な事だ。

現代語寿永三年(1184)三月小十七日丙午。板垣三郎兼信の伝令が昨夕鎌倉へ到着しました。今日になって大和判官代邦道が、その伝令の言い分を皆の前に述べました。その内容は、頼朝様の命令に従い、平家を追討するために、山陽道へ向かいました〔注書き:先日の八日に今日を出発しました〕。しかも、清和源氏の一門として一方の追討司令官に任命され、大変名誉なことだと感心・納得していたのです、ですが、土肥次郎実平は私の軍隊に入っていながら、特別な指令を受けていると云って、何か行動を決めるにも私を仲間はずれにします。挙句の果てには、山陽道での補給の事や部隊の配分配置のことなど、私板垣三郎兼信の意見を聞かずに、一人で考え指図するからと、自分で決めてしまいます。何から何までこのとおりなので、やる気がなくなってしまいますよ。関西のほうにいる間は、全ての事を板垣三郎兼信を上司として扱うように、一筆いただけると、心配事が解決してほっと安心できるのですがとの事でした。このことを(頼朝様は)あえて許可をしませんでした。「源氏一族だからどうとか、家人だからどうとか、身分で判断することではない。土肥次郎実平ほどの忠臣は、周りの人たちと同列には出来ないほど抜き出ているので、あんたは代官としての名目上の身分に甘んじて、関西方面の指図は任せておきなさい。板垣三郎兼信くらいの立場の者は、ひたすら戦場で命を捨てる思いで戦うのが一番似合っている。なので、そんな話には乗れないし、その言葉はのぼせ上がっているとしかいえないぞ。」と云われたので伝令は何も得るものがなく、手ぶらで走って帰っていきましたとさ。

壽永三年(1184)三月小十八日丁未。武衛進發伊豆國給。是爲覽野出鹿也。下河邊庄司行平。同四郎政義。新田四郎忠常。愛甲三郎季隆。戸崎右馬允國延等。可爲御前之射手由被定云々。

読下し                      ぶえい いずのくに  しんぱつ たま    これ  ので   しか  み     ためなり
壽永三年(1184)三月小十八日丁未。武衛伊豆國へ進發し給ふ。是、野出の鹿を覽んが爲也。

しもこうべのしょうじゆきひら おな    しろうまさよし  にたんのしろうただつね  あいこうのさぶろうすえたか とさきのうまのじょうくにのぶ ら
下河邊庄司行平、同じき四郎政義、新田四郎忠常、愛甲三郎季隆@、 戸崎右馬允國延A等、

ごぜんの  いて た  べ   よしさだ  らる    うんぬん
御前之射手爲る可き由定め被ると云々。

参考@愛甲三郎季隆は、神奈川県厚木市愛甲
参考A戸崎右馬允國延は、埼玉県加須市戸崎。

現代語寿永三年(1184)三月小十八日丁未。頼朝様は伊豆へ出発なさいました。これは、鹿狩りをするためです。下河辺庄司行平・下河辺四郎政義・仁田四郎忠常・愛甲三郎季隆・戸崎右馬允国延達は、前を行く射手を務めるように決められましたとさ。

壽永三年(1184)三月小廿日己酉。去夜着御北條。」今日。大内冠者惟義可爲伊賀國守護之由。被仰付之云々。

読下し                     さんぬ よ ほうじょう  ちゃくご
壽永三年(1184)三月小廿日己酉。去る夜、北條に着御。

きょう   おおうちのかじゃこれよし  いがのくにしゅご た   べ   のよし  これ おお  つ   らる    うんぬん
今日、大内冠者惟義@、伊賀國守護爲る可き之由、之を仰せ付け被ると云々。

参考@大内冠者惟義は、新羅三郎義光系清和源氏。平賀義信の子。

現代語寿永三年(1184)三月小二十日己酉。昨晩北条に到着しました。今日、大内冠者惟義を伊賀の国の守護にしようと決めて、御命じになられましたとさ。

壽永三年(1184)三月小廿二日辛亥。大井兵衛次郎實春欲向伊勢國。是平家々人爲宗者。潜篭當國之旨。依有其聞。行向可征之由。令下知給之故也。

読下し                      おおいのひょうえじろうさねはる  いせのくに  むか      ほつ
壽永三年(1184)三月小廿二日辛亥。大井兵衛次郎實春@、伊勢國Aへ向はんと欲す。

これ  へいけけにん むねとた  もの  ひそか とうごく  こも  のむね  そ  きこ   あ     よつ    ゆ  むか  せい  べ   のよし げち せし たま  のゆえなり
是、平家々人の宗爲る者B、潜に當國に籠る之旨、其の聞へ有るに依て、行き向ひ征す可しC之由下知令め給ふ之故也。

参考@大井兵衛次郎實春は、武蔵国大井庄で東京都品川区大井。参考にしている、堀田璋左右先生の参考注に「大井は紀氏品川の族にして、武蔵国荏原郡に住す。實春は紀兵三實直の次男とす。」とある。
参考A伊勢國は、元々伊勢平氏と言われ平氏の本拠だった。
参考B宗爲る者は、主だった者。
参考C
行き向ひ征す可しは、実際に伊勢平氏の乱が起きている。

現代語寿永三年(1184)三月小二十二日辛亥。大井兵衛次郎実春が伊勢の国へ行こうとしています。それは、伊勢平氏の主だった家来の連中が、伊勢の国に潜んでいるとの連絡があったので、出かけていって征伐するように(頼朝様に)命令されたからです。

壽永三年(1184)三月小廿五日甲寅。土肥次郎實平爲御使。於備中國行釐務。仍在廳散位藤原資親已下數輩還補本軄。是爲平家失度者也。

読下し                      といのじろうさねひら おんつかい な  びっちゅうのくに をい  りむ  おこな
壽永三年(1184)三月小廿五日甲寅。土肥次郎實平御使と爲し備中國に於て釐務@を行う。

よつ  ざいちょう さんにふじわらすけちか いげ すうやから ほんしき かんぽ     これへいけ  ため  ど   うしな ものなり
仍て在廳A、 散位藤原資親B已下 數輩、本職に還補すC。是平家の爲に度を失うD者也。

参考@釐務(りむ)は、国司の仕事を指すが、内容は年貢の徴収なので、この場合は兵糧米を徴収した。になる。
参考A在廳は、在庁官人で國衙の役人で、現地の豪族で郡司を兼ねている。
参考B藤原資親は、備中の在庁官人。
参考C本職に還補すは、通常の政務につかせた。
参考D平家の爲に度を失うは、平家に追い出されて逃げ退いた。

現代語寿永三年(1184)三月小二十五日甲寅。土肥次郎実平は、(頼朝様の)使者として、備中の国の国衙へ兵糧米の指図をしました。それで国衙に勤めている役人の散位藤原資親以下の数人を元の役職に復職させました。この人たちは平家に追い出されていた人達です。

壽永三年(1184)三月小廿七日丙辰。三品羽林着伊豆國府。境節武衛令坐北條給之間。景時以專使伺子細。早相具可參當所之由被仰。仍伴參。但明旦可遂面謁之由。被仰羽林云々。

読下し                       さんぽん うりん  いず  こくふ    つ     をりふし  ぶえいほうじょう  ざせし  たま  のかん
壽永三年(1184)三月小廿七日丙辰。三品@羽林A伊豆の國府Bに着く。境節、武衛北條に坐令め給ふ之間。

かげときせんし  もつ  しさい  うかが    はや  あいぐ  とうしょ  まい  べ   のよし  おお  らる    よつ  ともな まい
景時專使を以て子細を伺う。早く相具し當所へ參る可し之由を仰せ被る。仍て伴ひ參る。

ただ  みょうたんめんえつ と  べ   のよし  うりん   おお  らる    うんぬん
但し明旦面謁を遂ぐ可し之由、羽林に仰せ被ると云々。

参考@三品は、三位の位。
参考A羽林は、近衛府の唐名で、ここでは重衡のこと。
参考B伊豆の國府は、三島神社近くの駐車場が跡地と言われる。

現代語寿永三年(1184)三月小二十七日丙辰。三品羽林(重衡)が伊豆の国府(三島)へ着きました。ちょうど、頼朝様が北条に来ておられますので、梶原平三景時は使いをやってどうしましょうかと伺いました。(頼朝様は)早く連れて来るように命じられましたので、連れてやって来ました。しかし、明日の朝一で面会をしようと、重衡に伝えさせましたとさ。

壽永三年(1184)三月小廿八日丁巳。被請本三位中將〔藍摺直垂。引立烏帽子。〕於廊令謁給。仰云。且爲奉慰君御憤。且爲雪父尸骸之耻。試企石橋合戰以降。令對治平氏之逆乱如指掌。仍及面拝。不屑眉目也。此上者。謁槐門之事。亦無所疑歟者。羽林答申曰。源平爲天下警衛之處。頃年之間當家獨守朝廷之。許昇進者八十餘輩。思其繁榮者二十餘年也。而今運命之依縮。爲囚人參入上者。不能左右。携弓馬之者。爲敵被虜。強非耻辱。早可被處斬罪云々。無纎芥之憚奉問答。聞者莫不感。其後被召預狩野介云々。」今日。就武家輩事。於自仙洞被仰下事者。不論是非可成敗。至武家帶道理事者。追可奏聞之旨被定云々。

読下し                       ほんざんみちゅうじょう 〔あいずりひたたれ  ひきたてえぼし〕  しょう  られ  ろう   をい  えつ  せし  たま
壽永三年(1184)三月小廿八日丁巳。本三位中將 〔藍摺直垂、引立烏帽子〕を請ぜ被、廊@に於て謁さ令め給ふ。

おお    い      かつう きみ  おいかり なぐさ たてまつ ため  かつう ちち しがいのはじ  そそ    ため
仰せて云はく。且は君Aの御憤を慰め奉らん爲。且は父の尸骸之耻を雪がん爲。

こころ   いしばしがっせん くはだ   いこう  へいしのぎゃくらん  たいじせし     てのひら さ     と     よつ  めんぱい  およ    ふせつ  びもくなり
試みに石橋合戰を企てし以降、平氏之逆乱を對治令むこと掌を指すが如しB、仍て面拜に及ぶ。不屑の眉目也。

 こ   うえは  かいもん  えつ     のこと  またうたが ところ な  か  てへ
此の上者、槐門Cに謁せんD之事、亦疑ふ所無き歟、者り。

 うりん こた  もう   いは    げんぺいてんか けいえい た  のところ  けいねんのかん  とうけひと  ちょうていこれ まも    しょうしん ゆる      ものはちじゅうよやから
羽林答へ申して曰く、源平天下の警衛E爲る之處、頃年F之間、當家獨り朝廷之を守り、昇進を許さるる者八十餘輩。

 そ  はんえい おも  ば   にじゅうよねんなり  しか    いま  うんめいのちぢま  よつ    めしうど  な  さんにゅう  うえは  とこう  あたはず
其の繁榮を思は者、二十餘年也。而るに今、運命之縮るに依て、囚人と爲し參入の上者、左右に不能。

きゅうば  かか    のもの  てき  ため  とら  らる   あなが ちじょく  あら    はや  ざんざい しょさる  べ    うんぬん
弓馬に携はる之者、敵の爲に虜へ被るは強ち耻辱に非ず。早く斬罪に處被る可しと云々。

せんかい のはばか な  もんどう たてまつ  き   ものかん ざ     な     そ   ご  かのうのすけ   め   あず  らる    うんぬん
纖芥G之憚り無く問答し奉る。聞く者感ぜ不るは莫し。其の後、狩野介Hに召し預け被ると云々。

きょう  ぶけ   やから こと  つ    せんとうよ   おお  くださる    こと  をい  は   ぜひ  ろん  ず せいばい すべ
今日武家の輩の事に就き、仙洞自り仰せ下被るに事Iに於て者、是非を論ぜ不成敗可し。

 ぶけ どうり  たい    こと  いた    は    おつ  そうもん  べ  のむねさだ  らる    うんぬん
武家道理を帶する事に至りて者J、追て奏聞す可し之旨定め被ると云々。

参考@は、廊下。
参考A
は、後白河法皇。
参考B掌を指すが如しは、思い通りにやってきた。
参考C槐門は宗盛、槐は大臣の事を言うので、金槐集は鎌倉の右大臣の意味。
参考D
謁せんは、捕虜にして会う事が出来る。
参考E源平天下の警衛は、源平並び立っていた。
参考F頃年は、傾年で、年が傾く年末。
参考G纖芥は、ごくわずか。
参考H狩野介は、狩野宗茂で茂光の子。静岡県伊豆の国市狩野川あたり。
参考I
仙洞自り仰せ下被るに事に於て者は、仙洞からいちゃもんがついた。
参考J武家道理を帶する事に至りて者は、こちらの方が道理があることは。
参考内容は、略奪禁止。

現代語寿永三年(1184)三月小二十八日丁巳。(頼朝様は)本三位中將(重衡)〔注:藍の擦り立て模様の直垂と立烏帽子〕を招かれて廊下に座らせて面会をされました。おっしゃられるには、一つは後白河院のお怒りを慰めるためで、もう一つは父のあだ討ちのために、試しに石橋山の合戰を始めたら、案の定平氏の抵抗をを退治出来たのは思ったとおりの結果になり、捕虜にしてお会いできるのは、大変な名誉挽回です。後は大臣(宗盛)も同様にお会いになることは、確実なことでしょうかね。と云われました。本三位中將〔重衡〕答えて云いました。源平は共に天下の見張り役です。ある時期に(源氏が落ちぶれたので)当平家だけが朝廷を守ることになり、官職に着いて者が八十数人にもなりました。その繁栄を考えると二十数年もありました。しかし、今では運命が縮まって、捕虜になりつれてこられたのですから、何をか言いましょうか。武士として弓馬の道に戦う者が、敵のために捕虜にされることは、それほど恥ずかしいことではありませんよ。さっさと切り殺せばいいじゃないですかだとさ。ごくわずかも動じることなくきちんと話し合いをしている態度には、聞いてる者で感心しない人はいなかったとさ。その後、狩野介宗茂に預けられましたとさ。
今日、武士の仕業の事で、仙洞から文句言ってきたことには、しのごの言わずに処置をしなさい。しかし、こちらの武士に道理があることは、すぐに言い返すように決められましたとさ。

四月へ

吾妻鏡入門第三巻

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