吾妻鏡入門第三巻

壽永三年、元暦元年(1184)四月小「四月十六日元暦元年と爲す」

壽永三年(1184)四月小一日己巳。自北條御歸着鎌倉。藤九郎盛長献盃酒入夜。於北面屋有此儀。召行平。政義。忠常。季隆。國延等於御前。給鹿皮。〔各一枚。〕去比於伊豆國所射取之鹿歟。

読下し                     ほうじょうよ  かまくら  ごきちゃく   とうくろうもりなが はいしゅ けん
壽永三年(1184)四月小一日己巳。北條自り鎌倉へ御歸着。藤九郎盛長盃酒を献ず。

よ   い   ほくめん  や   をい  こ   ぎ あ
夜に入り北面@の屋に於て此の儀有り。

ゆきひら  まさよし ただつね すえたか くにのぶ  め    ごぜん   をい  しかがわ   たま   〔 おのおの いちまい 〕 
行平・政義・忠常・季隆・國延を召し、御前に於て鹿皮Aを給ふ〔各一枚〕

さんぬ ころ  いずのくに  をい  いと  ところのしか か
去る比、伊豆國に於て射取る所之鹿歟。

参考@北面は、御所の中を築地塀で南北に分け、南側を公の場とし、北側を私邸とした。
参考A
鹿皮は、敷皮や行縢に使う。

現代語寿永三年(1184)四月小一日己巳。頼朝様は、伊豆の北條から鎌倉へ戻られました。安達盛長が無事の帰還を祝って酒宴を用意しました。夜になってから北側の将軍私邸でこの儀式を行いました。下河邊庄司行平、下河邊四郎義政、新田四郎忠常、愛甲三郎季隆、戸崎右馬允国延をよんで、目の前で鹿皮を与えました「一人一枚」。先日、伊豆で狩をしたときに仕留めた鹿でしょうか。

壽永三年(1184)四月小三日辛未。尾張國住人大屋中三郎安資。依有其功。如元管領所帶。剩可鎭國中狼唳之由。給御下文。筑前三郎奉行之。當國之輩悉以順平氏之處。安資爲和田小太郎義盛之聟。獨候源家之間。如此云々。

読下し                     おわりのくにじゅうにん おおやのちゅうざぶろうやすすけ そ  こう あ    よつ    もと  ごと  しょたい  かんりょう
壽永三年(1184)四月小三日辛未。 尾張國住人  大屋中三郎安資@其の功有るに依て、元の如く所帶を管領すA

あまつさ くにじゅう ろうるい  しず    べ    のよし  おんくだしぶみ たま     ちくぜんさぶろう これ ぶぎょう
剩へ、國中の狼唳を鎭める可しB之由、御下文を給はる。筑前三郎C之を奉行す。

とうごくのやから ことごと もつ へいし  じゅん   のところ やすすけ   わだのこたろうよしもり のむこ   なり  ひと  げんけ  そうら  のかん  かく  ごと    うんぬん
當國之輩、悉く以て平氏に順ずる之處、安資は和田小太郎義盛之聟Dと爲て獨り源家に候ふ之間、此の如しと云々。

参考@大屋中三郎安資は、尾張大宅郷で現在の名古屋市中区古渡町。
参考A元の如く所帶を管領すは、本領安堵。
参考B國中の狼唳を鎭める可しは、守護又は総追捕使(国追補使)と同じ権限を与えられた。
参考C
筑前三郎は、惟宗高久。
参考D和田小太郎義盛之聟は、通婚圏が広かった。

現代語寿永三年(1184)四月小三日辛未。尾張国住人大屋中三郎安資は、その手柄があるので従来どうりに領地支配をすることになりました。そればかりか、国中の治安を守るようにと、下文(命令書兼権利書)を与えられました。筑前三郎高久が担当奉行を勤めました。尾張の国の地侍の殆ど全てが平家に味方したので、安資は和田小太郎義盛の娘婿になって、ひとりで源氏の味方をしたのでこのとうりだとさ。

壽永三年(1184)四月小四日壬申。御亭庭櫻開敷。艶色其濃也。仍被招請申大(中の間違い)宮亮能保朝臣。相共終日令翫此花給。前少將時家接其座。又有管弦詠哥之儀。

読下し                     おんてい にわ さくら ひら  し    えんしょく そ あざや なり
壽永三年(1184)四月小四日壬申。御亭の庭の櫻、開き敷く、艶色其れ濃か也。

よつ ちうぐうさかんよしやすあそん しょうせいもうされ あいとも しゅううじつ こ はな もてあそ せし  たま
仍て中宮亮能保朝臣を招請申被、 相共に終日 此の花を翫ば令め給ふ。

さきのしょうしょうときいえ そ  ざ   せつ   また かんげん えいかのぎ あ
 前少將時家@其の座に接す。又、管弦詠哥之儀有り。

参考@前少將時家は、平時家で「平家にあらずんば人非人たるべし」とほざいた平時忠の息子だが、後妻に嫌われ源平合戦前に上総へ配流されていた。

現代語寿永三年(1184)四月小四日壬申。(頼朝様の)お屋敷の庭の桜が満開です。その風情はなんとも鮮やかなものです。そこで、一条能保様をお誘いになり、一緒に一日中花見の宴会をなされておられました。前少將時家もご相伴に預かりました。また、演奏や歌詠みなどもありました。

壽永三年(1184)四月小六日甲戌。池前大納言〔頼盛〕并室家之領等者。載平氏没官領注文。自公家被下云々。而爲酬故池禪尼恩徳。申宥彼亞相勅勘給之上。以件家領卅四箇所。如元可爲彼家管領之旨。昨日有其沙汰。令辞之給。此内。於信濃國諏方社者。被相博伊賀國六ケ山云々。
  池大納言家沙汰
 走井庄〔河内〕        長田庄〔伊賀〕        野俣道庄〔伊勢〕       木造庄〔同〕
 在田庄〔幡磨〕        這田庄〔同〕         由良庄〔淡路〕        弓削庄〔美作〕
 
佐伯庄〔備前〕        山口庄〔但馬〕        矢野領〔伊与〕        小嶋庄〔阿波〕
 大岡庄〔駿河〕        香椎庄〔筑前〕        安冨領〔筑前〕        三原庄〔筑後〕
 球摩(原文王偏)臼間野庄〔肥後〕
 右庄園捨漆箇所。載没官注文。自於院所給預也。然而如元爲彼家沙汰。爲有知行。勒状如件。
    壽永三年四月五日
  池大納言家沙汰
 布施庄〔播广〕        龍門庄〔近江〕        安摩庄〔安藝〕        稻木庄〔尾張〕
   已上有由緒云々
 野邊長原庄〔大和〕      兵庫三ケ庄〔攝津〕      石作庄〔幡广〕        六人部庄〔丹波〕
 熊坂庄〔加賀〕        宗像社〔筑前〕        三ケ庄〔同〕         眞C田社〔尾張〕
 服織庄〔駿河〕        國冨庄〔日向〕
   已上八條院御領
 麻生大和田領〔河内〕     諏方社〔信濃。被相博伊賀六ケ山了。〕
   已上女房御領
 右庄園拾陸ケ所。注文如此。任本所之沙汰。彼家如元爲有知行。勒状如件。
    壽永三年四月六日

読下し                     いけのだいなごん なら   しつけ の りょうら は  へいしもっかんりょう ちゅうもん  の  こうけ よ  くださる    うんぬん
壽永三年(1184)四月小六日甲戌。池大納言@并びに室家A之領等者、平氏没官領B注文Cに載せ公家D自り下被ると云々。

しか    こいけのぜんに おんとく  むく    ため  か  あしょう  もう  ゆる  ちょっかん たま    のうえ
而るに故池禪尼の恩徳に酬いん爲、彼の亞相Eに申し宥す勅勘を給はる之上、

くだん かりょうさんじうよんかしょ  もつ もと  ごと  か   け   かんりょう な  べ   のむね  さくじつ そ   さた あ     これ  じ せし  たま
件の家領卅四箇所を以て元の如く彼の家の管領と爲す可し之旨。昨日其の沙汰有り、之を辞令め給ふ。

こ   うちしなののくに すわしゃ  をい  は  いがのくに むこやま  あいかへらる   うんぬん
此の内信濃國諏方社に於て者、伊賀國六ケ山Fを相G被ると云々。

参考@池前大納言〔頼盛〕は、頼盛はC盛の腹違いの弟で、頼朝の命乞いをした池禅尼の子。
参考A頼盛室家は、鹿ケ谷事件で鬼怪ケ島(現薩摩硫黄島)へ流された俊寛の娘。
参考B平氏没官領は、平C盛の縁で平氏一族が所有していた荘園などの一切の権限を、官職を失ったので本来の日本の所有者である天皇家へ返すと言う名目で後白河法皇は取り上げた。
参考C注文は、文に注すで一枚の紙に書き上げた。
参考D公家は、「くげ」ではなく、朝廷を指しているので「こうけ」と読みたい。
参考E亞相は、亜は(つぐ)の意味で、相は丞相(しょうじょう)=大臣の意味。で大臣の次になるので大納言。これが転化して大臣でないの意味にも使う。
参考F六箇山とは、名張川上流の伊勢神宮領のこと。東限高回河、其河後伊賀郡阿保村主(青山町)南限大和国水界(奈良県曽爾村、神末)西限粟河在夏見郷夏見村主(名張市夏見)北限大地頭在(名張市小波田)とある。http://kamnavi.jp/en/mie/kunitu.htm
国津、比奈知、太郎生、御杖、曽爾地区は、六箇山(むこやま)と呼ばれる伊勢神宮領であった。
http://www.city.nabari.mie.jp/kunitu/machizukuri/k02_1.html
参考G相博は、交換させられること。

    いけのだいなごんけ  さた
  池大納言家の沙汰

  はしりいのしょう 〔かわち〕       おさだのしょう 〔いが〕          のまたみちのしょう 〔いせ〕      こづくりのしょう 〔いせ〕
 走井庄@〔河内〕   長田庄A〔伊賀〕     野俣道庄B〔伊勢〕  木造庄C〔同〕

参考@走井庄〔河内〕は、「堀田璋左右先生は大阪府枚方市走谷としているが、大阪府豊中市走井だと思う。」と書きましたが、okayamateさんから豊中市は摂津国と教わりまして、堀田先生の枚方市走谷(はしりだに)が正解ですね。
参考A長田庄〔伊賀〕は、三重県伊賀市長田。
参考B野俣道庄〔伊勢〕は、堀田璋左右先生野俟道と書いておられるので、読みを「のしみち」として似ているのは、三重県桑名郡多度町下野代に野志里神社あり。(未特定)俟の文字はシ・ジ又はまつの意。http://www.isenokaze.com/noshisato.htm
参考C木造庄〔伊勢〕は、三重県久居市木造町。

  ありたのしょう 〔はりま〕         ほうだのしょう 〔はりま〕          ゆらのしょう 〔あわじ〕         ゆげのしょう 〔みまさか〕
 在田庄@〔幡磨〕   這田庄A〔同〕     由良庄B〔淡路〕   弓削庄C〔美作〕

参考@在田庄〔幡磨〕は、兵庫県加西市上道山町80に兵庫県加西市立西在田小学校あり。
参考A這田庄〔播磨〕は、兵庫県三木市別所町東這田。すぐ隣に在田寺あり。(まぎわらわしい)
参考B由良庄〔淡路〕は、兵庫県洲本市由良町由良。
参考C弓削庄〔美作〕は、岡山県久米郡久米南町。「弓削駅」「弓削郵便局」「弓削小学校」あり。

   さえきのしょう 〔びぜん〕       やまぐちのしょう 〔たじま〕        やのりょう 〔いよ〕            こじまのしょう 〔あは〕
 佐伯庄@〔備前〕   山口庄A〔但馬〕    矢野領B〔伊与〕   小嶋庄C〔阿波〕

参考@佐伯庄〔備前〕は、岡山県和気郡佐伯町佐伯。
参考A山口庄〔但馬〕は、兵庫県朝来市山口と思われる。http://www.kkr.mlit.go.jp/toyooka/kenbunroku/
参考B矢野領〔伊与〕は、愛媛県八幡浜市矢野町。
参考C小嶋庄〔阿波〕は、堀田璋左右先生の注に「麻殖郡桑島村字川島に其の名を存す。」から探した処、徳島県吉野川市川島町児島と推定される。吉野川市「学がく」駅そばに吉野川を渡る橋の名が阿波麻殖(おえ)大橋と書かれている。吉野川市のHPに平成16年10月1日、徳島県北部中央に位置する麻植郡4町村(鴨島町・川島町・山川町・美郷村)が合併し、吉野川市が誕生した。とある。

  おおおかのしょう 〔するが〕      かしいのしょう 〔ちくぜん〕        やすとみりょう 〔ちくぜん〕       みはらのしょう 〔ちくご〕 
 大岡庄@〔駿河〕   香椎庄A〔筑前〕    安富領B〔筑前〕   三原庄C〔筑後〕

参考@大岡庄〔駿河〕は、北條四郎時政の後妻牧ノ方の出身地大岡の牧と思われる。静岡県沼津市大岡。
参考A香椎庄〔筑前〕は、福岡県福岡市東区香椎。香椎宮。
参考B安冨領〔筑前〕は、堀田璋左右先生の注に「安富は志摩郡内なり。今糸島郡芥屋村をもと安富と云へり。」とあるので、福岡県糸島郡志摩町芥屋。
参考C三原庄〔筑後〕は、福岡県小郡市稲吉に御原郵便局、二夕(フタ)に御原小学校あり。
http://www2.wagamachi-guide.com/japanpost/search/syousai.asp?ID=17881

   くま  うすまのしょう  〔ひご〕
 球磨@臼間野庄A〔肥後〕

  みぎ しょうえんじゅうしちかしょ  もっかんちゅうもん の    いん  をい  よ  あずか たま   ところなり
 右の庄園拾漆箇所、没官注文に載せ、院に於て自り預り給はる所也。

  しかれども もと   ごと  か  け    さた   な       ちぎょう あ   ため ろくじょうくだん ごと
 然而、元の如く彼の家の沙汰と爲して、知行有らん爲の勒状件の如し

         じゅえいさんねんしがついつか
    壽永三年四月五日

参考@球摩(王+摩)〔肥後〕は、堀田璋左右先生の注に「球磨は別所とす。郷名に在り。」とあり、球磨と臼真野を分けておりますので、球磨を熊本県球磨郡球磨村。
参考A臼間野庄〔肥後〕は、堀田璋左右先生の注に「臼間野は玉名郡南關・坂上・坂下の辺、約三十村を云うと。」とあるので、熊本県玉名郡南関町関町。同上坂下・下坂下。又、熊本県玉名郡南関町下坂下付近に戦国時代の臼間野氏城跡在り。
http://f34.aaa.livedoor.jp/~batabaru/sakashitajou.htm
別説として、熊本県水俣市長崎に「木臼野」の地名在り。
別説に球摩臼間野庄を球磨郡錦町とする説在り(根拠は吾妻鏡・久我家文書とある)。http://www.yumechiyo.jp/yatsushiro/hitoyoshi2.html

    いけのだいなごんけ  さた
  池大納言家の沙汰

  ふせのしょう 〔はりま〕         りゅうもんのしょう 〔おうみ〕        あまのしょう 〔あき〕           いなきのしょう 〔をはり〕
 布施庄@〔幡广〕   龍門庄A〔近江〕    安摩庄B〔安藝〕   稻木庄C〔尾張〕

     いじょう ゆししょ あ    うんぬん
  已上由緒有りDと云々

参考@布施庄〔播广〕堀田璋左右先生の注に「布施は布勢とも書く。揖保郡の郷名に在り。後の揖西郡住吉・北沢・竹原・小畑・尾崎・南山・坂・土師の八村これなり。」とあるので、調べると兵庫県龍野市揖西町に住吉・北沢・竹原・小畑・尾崎・南山・土師の小字名在り。尚、揖西西小学校HPの歴史に「明治24年7月布施尋常小学校(小畑村)が誕生。明治42年5月平井・桑原・布施の3村が合併して揖西村となる。」とあるので、堀田先生の説が立証。
参考A龍門庄〔近江〕は、滋賀県大津市大石龍門。
参考B安摩庄〔安藝〕は、不明。堀田璋左右先生の注に「江田、瀬戸、倉橋、蒲刈の諸島を含む。清盛が本家、領家分共に厳島社に献ぜり」とある。
参考C稻木庄〔尾張〕は、愛知県江南市寄木町稲木に稲木神社在り。
参考D
已上由緒有りは、事情がある。(何か問題があるらしい)

  のべ ながはらのしょう 〔やまと〕   ひょうごみけのしょう 〔せっつ〕       いさわのしょう 〔はりま〕       むとべのしょう 〔たんば〕
 野邊長原庄@〔大和〕 兵庫三ケ庄A〔攝津〕  石作庄B〔幡广〕   六人部庄C〔丹波〕

参考@野邊長原庄〔大和〕は、堀田璋左右先生の注に「野辺庄は今磯郡纏向村大字東田の辺、東田村は旧名を野辺と云へり。」とあるので、野辺が奈良県桜井市東田(山之辺からの変化)。長原は、奈良県天理市永原町。
参考A兵庫三ケ庄〔攝津〕は、大阪府大東市三箇。
参考B石作庄〔幡广〕は、兵庫県姫路市安富町安志。
参考C六人部庄〔丹波〕は、福知山市字多保市132−1に六人部中学あり。又、下六人部小学校あり。
http://www.nes-k.gr.jp/shimoroku/map.html

  くまさかのしょう 〔かが〕        むなかたしゃ 〔ちくぜん〕         みけのしょう 〔おなじき〕        ますみたしゃ 〔おわり〕
 熊坂庄@〔加賀〕   宗像社A〔筑前〕     三ケ庄B〔同〕    眞C田社C〔尾張〕

参考@熊坂庄〔加賀〕は、石川県加賀市熊坂町。
参考A宗像社〔筑前〕は、福岡県宗像市田島に宗像大社あり。
参考B三ケ庄〔筑前〕は、福岡県朝倉郡筑前町に三箇山と三ケ山あり?又は筑前町夜須。
参考C眞C田社〔尾張〕は、愛知県一宮市真清田1丁目に真清田神社(尾張一ノ宮)あり。

  はとりのしょう 〔するが〕       くにとみのしょう 〔ひゅうが〕
 服織庄@〔駿河〕   國富庄A〔日向〕

      いじょう はちじょういん ごりょう
   已上八條院B御領

参考@服織庄〔駿河〕は、駿河安部郡服織の建穂寺を探すと、静岡県静岡市葵区羽鳥に服織小学校・服織中学校あり。隣の建穂に服織幼稚園もあり。
参考A國冨庄〔日向〕は、宮崎市。宮崎県東諸県郡国富町本庄。
参考B八条院(本所)は、鳥羽天皇の娘で名はワ子(後白河の腹違いの妹)。母は美福門院、保元元年鳥羽上皇の遺領の大部分を伝領し、又母の遺領も伝領し、その所領(荘園)は二百四十箇所に及び、経済的にも政治的にも大きな勢力を有した。以仁王を猶子とし、挙兵を支援した。又下河辺行平は八条院領下河辺庄の庄司なので、八条院が平家追討の中核であったと思われる。八條院が本所で頼盛が領家になると思う。この下に納税徴収者としての預所織や地頭職(庄司、下司)があり、その下に名主・作人・下作人・在家・小作等等と続く。

  あそう おおわだりょう  〔かわち〕          すわしゃ  〔しなの  いが むこやま    そうでんせら をはんぬ〕
 麻生大和田領@〔河内〕    諏方社〔信濃、伊賀六ケ山と相被れ了〕A

参考@麻生大和田領は、大阪府門真市に大和田駅・大和田小学校・大和田幼稚園有、但し町名は無し。
参考A諏方社〔信濃。被相博伊賀六ケ山了〕は、信州の諏訪神社をさすが、六箇山(むこやま)と交換をしたようである。

      いじょう にょぼうごりょう
   已上女房御領

  みぎ しょうえんじうろっかしょ  ちうもんかく  ごと    ほんじょの さた   まか    か   け ちぎょう あ   ため  じょう  ろく   くだん ごと
 右、庄園拾陸ケ所の注文此の如し。本所之沙汰に任せ、彼の家知行有らん爲、状を勒すは件の如し。

        じゅえいさんねんしがついつか
    壽永三年四月五日

現代語寿永三年(1184)四月小六日甲戌。池前大納言平頼盛様とその奥様の領地は、平氏没官領名簿に載せ、取り上げて朝廷から(頼朝様に)与えられました。しかし、昔命を助けてもらった池禪尼の恩に答えるため、その息子の池大納言頼盛様にそのまま知行できるように朝廷に申し込み許可を得たので、その領地34箇所を以前どおりに彼の管理する領地とするよう、昨日裁断をして、ご自分の領地からはずしました。その内の信濃國諏訪神社は、伊賀國六ケ山と替える事にしましたとさ。

  池大納言家の領地としての扱い

 走井庄〔河内〕     長田庄〔伊賀〕     野俣道庄〔伊勢〕     木造庄〔同〕
 在田庄〔幡磨〕     這田庄〔同〕      由良庄〔淡路〕      弓削庄〔美作〕
 佐伯庄〔備前〕     山口庄〔但馬〕     矢野領〔伊与〕      小嶋庄〔阿波〕
 大岡庄〔駿河〕     香椎庄〔筑前〕     安富領〔筑前〕      三原庄〔筑後〕
 球摩臼間野庄〔肥後〕
以上の荘園17箇所は、平家からの没収名簿に載せて、後白河院から拝領しました。しかし、元のとおり池大納言頼盛家が所領して、扱うように決めたのはこのとおりです。

    寿永三年四月五日

  池大納言家の領地としての扱い

 布施庄〔播磨〕     龍門庄〔近江〕     安摩庄〔安芸〕      稻木庄〔尾張〕
   以上は、領地としての事情理由(証拠)があるとの事です

 野辺長原庄〔大和〕   兵庫三ケ庄〔摂津〕   石作庄〔播磨〕      六人部庄〔丹波〕
 熊坂庄〔加賀〕     宗像社〔筑前〕     三ケ庄〔同〕       真清田社〔尾張〕
 服織庄〔駿河〕     国富庄〔日向〕
   以上は八條院が本所の御領です

 麻生大和田領〔河内〕  諏方社〔信濃。伊賀六ケ山と交換をしました。〕
   以上は朝廷の女房(後白河の女御)の御領地です。

 右の庄園16ケ所の書き出しはこのとおりです。本所の命令に従って、池家が元のとおりに納めるように紙に書いて納め整えることは、このとおりです。
    寿永三年四月六日

壽永三年(1184)四月小八日丙子。本三位中將自伊豆國來着鎌倉。仍武衛點郭内屋一宇。被招入之。狩野介一族郎從等。毎夜十人令結番守護之。

読下し                     ほんざんみちゅうじょう いずのくによ  かまくら  らいちゃく
壽永三年(1184)四月小八日丙子。本三位中將、伊豆國自り鎌倉へ來着す。

よつ  ぶえい  かくない  や いちう  てん    これ  まね  い   らる   かのうのすけ  いちぞくろうじうら  まいよじゅうにん けちばん せし これ  しゅご
仍て武衛の郭内が屋@一宇を點じ、之を招き入れ被る。狩野介が一族郎從等。毎夜十人で結番A令め之を守護すべし。

参考@郭内が屋は、大倉御所内は寝殿造りなので、そのうちの一棟を空けた。
参考A結番は、班を決めて順番に見張る。この場合10人づつなので番頭(ばんがしら)を置いたと思う。

現代語寿永三年(1184)四月小八日丙子。本三位中將(重衡)様が、伊豆から鎌倉へ到着されました。そこで、頼朝様の屋敷内の一軒を決めて、この建物に入らせました。狩野介宗茂の一族とその家来たちに、毎晩十人づつ班を決めて、見張るように命じました。

壽永三年(1184)四月小十日戊寅。源九郎使者自京都參着。去月廿七日有除目。武衛敍正四位下給之由申之。是義仲追討賞也。持參彼聞書。此事。藤原秀郷朝臣天慶三年三月九日自六位昇從下四位也。武衛御本位者從下五位也。被准彼例云々。亦依忠文〔宇治民部卿。〕之例。可有征夷將軍 宣下歟之由有其沙汰。而越階事者彼時准據可然。於將軍事者。賜節刀被任軍監軍曹之時。被行除目歟。被載今度除目之條。似始置其官。無左右難被 宣下之由。依有諸卿群議。先敍位云々。

読下し                     げんくろう  ししゃ きょうと よ   さんちゃく  さぬ つきにじうしちにちじもく あ
壽永三年(1184)四月小十日戊寅。源九郎が使者京都自り參着す@。去る月廿七日除目A有り。

ぶえい   しょうしいのげ  じょ  たま  のよしこれ  もう    これ  よしなかついとう しょうなり  か  ききがき   じさん
武衛、正四位下に敍し給ふ之由之を申す。是、義仲追討の賞也。彼の聞書
Bを持參す。

こ   こと  ふじわらひでさとあそん てんぎょうさんねんさんがつここのか ろくいよ   じゅしいげ  くらい のぼ  なり  ぶえい  ごほんい は  じゅのげ ごい なり
此の事、藤原秀郷朝臣、 天慶三年三月九日 六位自り從下四の位に昇る也。武衛の御本位者、從下五位也。

か   れい  なぞられ  うんぬん  また  ただふみ〔うじみんぶのきょう〕  のれい  よつ   せいいしょうぐん せんげ あ  べ   かのよし    そ    さた あ
彼の例に准被ると云々。亦、忠文〔宇治民部卿〕之例に依て、征夷將軍の宣下有る可き歟之由、其の沙汰有り。

しか    おっかい   ことは  か   とき  じゅんきょしかるべし
而るに越階
Cの事者、彼の時に准據然可。

しょうぐん こと をい  は   せっとう  たま    ぐんかんぐんそう   にん  られ のとき  じもく   おこな れ   か
將軍の事に於て者、節刀を賜はり軍監軍曹
Dに任ぜ被る之時、除目が行は被る歟。

このたび  じもく   の   らる  のじょう  はじ   そ   かん  お     に       そう な   せんげ さ  がた  のよし
今度の除目に載せ被る之條、始めて其の官を置くに似たり、左右無く宣下被れ難き之由

しょきょうぐんぎ あ    よつ    ま  じょい  うんぬん
諸卿群議有るに依て、先ず敍位と云々。

参考@源九郎が使者京都自り參着すは、義経が京都守護になっている。
参考A
除目は、朝廷の人事異動。
参考B聞書は、御所での人事異動の決定を右筆的な人が会議場の廊下で聞きながら書く。
参考C越階は、階級特進の事で、頼朝は從五位下から、從五位上・正五位下・正五位上・従四位下・従四位上を飛ばして正四位下に六階級特進している。
参考D軍監軍曹鎮守府には將軍(かみ)副将軍(すけ)軍監(じょう)軍曹(さかん)が置かれる。

現代語寿永三年(1184)四月小十日戊寅。源九郎義経様の伝令が京都から到着しました。先月二十七日に朝廷で人事異動があり、頼朝様は正四位下を与えられましたと報告をしました。これは、木曽冠者義仲を追討した手柄なのです。その決定書を持ってきていました。この六階級特進は、俵藤太藤原秀郷様が天慶三年(940)三月九日六位から従四位下へ上ったのと同じです。頼朝様は、現在従五位下なのです。あの将門の乱平定の例に合わせたんだとさ。又、忠文(宇治民部卿)の例に合わせて、征夷将軍を与えたほうが良いかと、議題に上りました。しかし、位を飛ばした特進のことは、あの例に合わせてもっともだ。将軍任命については、天皇から征伐用の太刀を与え、軍人の部下を任命しなくてはならないのではないか。今度の人事異動の名簿には載せていないので、初めて任命することになるので、簡単に任命はできないと、公卿たちが騒ぎ立てるので、とりあえず位階を与えようとのことなんだとさ。

壽永三年(1184)四月小十一日己卯。快霽。新典厩〔能保。去月廿七日任。〕被參鶴岡八幡宮。是被申慶之由也。次被參謁御亭。

読下し                       かいせい しんてんきゅう  〔よしやす  さぬ  つきにじうしちにち にん    〕 つるがおかはちまんぐう まいら
壽永三年(1184)四月小十一日己卯。快霽。新典厩@〔能保A去る月廿七日任ざれる。〕鶴岡八幡宮へ參被る。

これ よろこ   もうされ  の よしなり   つぎ おんてい  まい   えつ  らる
是、慶びを申被るB之由也。次に御亭Cへ參られ謁せ被る。

参考@典厩は、左馬頭の唐名。
参考A能保は、一条能保。頼朝の姉の連れ合いで、関東申し次。馬の目利きでもある。頼朝が死ぬ四年前に突然死に息子も直ぐに死ぬ。
参考B慶を申さるは、任官を神様にお礼参りを云う。
参考C
御亭は、頼朝の大倉御所。

現代語寿永三年(1184)四月小十一日己卯。雨も上がり、すっかり晴れ上がりました。新左馬頭〔一条能保様が先月二十七日に任命されました〕が鶴岡八幡宮へ参拝をされました。これは、任命の喜びのお礼を神様に報告されたのです。それから(頼朝様の)屋敷へおいでになり、面会されました。

壽永三年(1184)四月小十四日壬午。源民部大夫光行。中宮大夫属入道善信〔俗名康信。〕等自京都參着。光行者。豊前々司光季属平家之間爲申宥之也。善信者本自其志在關東。仍連々有恩喚之故也。

読下し                      げんみんぶたいふみつゆき  ちゅうぐう だいぶさかんにゅうどうぜんしん 〔ぞくみょう やすのぶ 〕 ら きょうとよ さんちゃく
壽永三年(1184)四月小十四日壬午。源民部大夫光行@。 中宮A大夫属入道善信 〔俗名康信B等京都自り參着す。

みつゆきは  ぶぜんぜんじみつすえ へいけ ぞく    のかん  これ  もう  なだ    ためなり
光行者、豊前々司光季C平家に属する之間、之を申し宥めんD爲也。

ぜんしんは もとよ  そ こころざし かんとう あ     よつ  れんれん おんかん あ  のゆえなり
善信者本自り其の志 關東に在り。仍て連々の恩喚E有る之故也。

参考@源民部大夫光行は、満政流清和源氏。やがて京都へ戻り北面の武士になる。
参考A中宮は、天皇の二号的存在で、この場合は建禮門院である。でも正妻はいないので正妻なしの二号。元々中国では中宮とは皇后を指し、同意語だったが長保二年(1000)藤原道隆の娘「定子」が一条天皇の皇后であったところへ、藤原道長が自分の娘「彰子」を入内させるために、皇后と中宮の言葉を分けて並立させてしまった。
参考B康信は、三善康信。母の姉が頼朝の乳母で、流人時代に月に三度京都の情勢を手紙で伝えていた。治承4年(1180)6月小19日条
参考C豊前々司光季は、光行の父。
参考D
申し宥めんは、謝りに来た。
参考E恩喚は、頼朝からのお呼びが合った。後に問注所執事になる。

現代語寿永三年(1184)四月小十四日壬午。源民部大夫光行と中宮大夫属入道善信〔俗名康信〕等が京都から到着しました。光行は、父の豊前々司光季が平家方についているので、それを謝りに来ました。善信は、元々関東方に味方をしていたので、色々と(頼朝様から)お誘いがあったからです。

壽永三年(1184)四月小十五日癸未。武衛參鶴岡給。被奉御供之後。於廻廊對面属入道善信給。令參住當所。可輔佐武家政務之由。及嚴密御約諾云々。于時光行推參彼所之間被止言談云々。善信者甚隱便者也。同道之仁頗有無法氣歟之由。内々被仰云々。

読下し                      ぶえいつるがおか さん  たま   ごくう  たてまつらる ののち
壽永三年(1184)四月小十五日癸未。武衛鶴岡へ參じ給ふ。御供を奉被る之後、

かいろう  をい さかんにゅうどうぜんしん たいめん たま    とうしょ  まい  す   せし    ぶけ   せいむ   ほさ すべ  のよし  げんみつ  ごやくだく  およ    うんぬん
廻廊に於て、属入道善信に對面し給ふ。當所に參り住は令め、武家の政務を輔佐可し之由。嚴密の御約諾に及ぶと云々。

ときに みつゆきか ところ  お    まい   のかん  げんだん  と  らる    うんぬん
時于光行彼の所に推して參る@之間、言談を止め被るAと云々。

ぜんしんは はなは おんびん ものなり  どうどうの じん すこぶ むほうっけ あ  か のよし  ないない  おお  らる   うんぬん
善信者、甚だ隱便の者也。同道之仁は頗る無法氣有る歟之由。内々に仰せ被ると云々。

参考@推して參るは、了解なしに勝手に来てしまった。
参考A
言談を止めは、話をやめてしまった。

現代語寿永三年(1184)四月小十五日癸未。頼朝様は、鶴岡八幡宮へ参られました。供養の儀式の終えた後に、回廊で三善属入道善信とお会いになられました。この鎌倉に住んで、武家の政治や事務を手伝ってもらいたいと、熱心にお誘いになり、三善もしっかりと承知をしましたとさ。そんな所へ源光行は了解もなしに勝手に押し入ってきてしまったので、話を止めてしまわれましたとさ。三善善信はとても気性が穏当な人です。しかし、一緒に来た人はとても我侭勝手な所があるなと、内緒で言われましたとさ。

元暦元年(1184)四月小十六日甲申。改元。改壽永三年爲元暦元年。

読下し                      かいげん じゅえいさんねん あらた げんりゃくがんねん な
元暦元年(1184)四月小十六日甲申。改元@壽永三年を改め、元暦元年と爲す。

現代語元暦元年(1184)四月小十六日甲申。改元です。寿永三年を元暦元年に変えました。

参考@改元は、後鳥羽天皇の即位による。出典は尚書考霊輝の「天地開闢、元暦紀名、月首甲子、冬至、日月若懸壁、五星若編珠」(元号事典から)

元暦元年(1184)四月小十八日丙戌。依殊御願。仰下下総權守爲久。被奉圖繪正觀音像。爲久着束帶役之。潔齋已滿百日。今日奉始之云々。武衛又御精進讀誦觀音品給云々。

読下し                       こと    ごがん   よつ  しもふさごんのかみためひさ  おお  くだ
元暦元年(1184)四月小十八日丙戌。殊なる御願に依て、下総權守爲久@に 仰せ下す。

 ずえ  しょうかんのんぞう たてま  られ  ためひさそくたい  き  これ  えき   けっさい すで ひゃくにち み    きょうこれ  はじ たてまつ   うんぬん
圖繪の正觀音像を奉つ被る。爲久束帶を着て之を役す。潔齋A已に百日に滿ち、今日之を始め奉ると云々。

ぶえいまたごしょうじん    かんのんぼん  どくしょう  たま   うんぬん
武衛又御精進し、觀音品Bを讀誦し給ふと云々。

参考@下総權守爲久は、京都の宅間流の絵描きの家で、兄は京都で本家を継ぎ、弟の爲久は鎌倉へ来て報国寺の谷に住んだので宅間谷(たくまがやつ)と云う。
参考A潔齋は、精進潔斎のこと。
参考B觀音品は、観音経。頼朝の作った鉄の観音様を小町通のそばの川喜多映画記念館の場所に作った新清水寺に収めた。火事にあった時、観音像は自ら井戸に飛び込んだと謂れ、その井戸が鉄井戸(くろがねのいど)である。明治の廃仏毀釈の際に槌で打ち砕いている処へ江戸の商人が買い求め、現在は水天宮から20m程の処にある大観音寺と云う小さな寺にあり、開帳日は変わるので調べて上で。

現代語元暦元年(1184)四月小十八日丙戌。(頼朝様は)特別な祈願があり、下総権守為久に言いつけました。絵に描いた聖観音像を奉納されます。為久は束帯の正装を着て、この仕事をします。この絵を描くために精進潔斎をしてすでに百日になりましたので、今日この作業を始めましたとさ。頼朝様も同様に精進して、観音経をあげられましたとさ。

元暦元年(1184)四月小廿日戊子。雨降。終日不休止。本三位中將〔重衡〕依武衛御免有沐浴之儀。其後及秉燭之期。稱爲慰徒然。被遣藤判官代邦通。工藤一臈祐經。并官女一人〔号千手前。〕等於羽林之方。剩被副送竹葉上林已下。羽林殊喜悦。遊興移剋。祐經打鼓歌今樣。女房彈琵琶。羽林和横笛。先吹五常樂。爲下官。以之可爲後生樂由稱之。次吹皇急。謂往生急。凡於事莫不催興。及夜半。女房欲皈。羽林暫抑留之。与盃及朗詠。燭暗數行虞氏涙。夜深四面楚歌聲云々。其後各皈參御前。武衛令問酒宴次第給。邦通申云。羽林。云言語。云藝能。尤以優美也。以五常樂謂後生樂。以皇麞急号往生急。是皆有其由歟。樂名之中。廻忽者。元書廻骨。大國葬礼之時調此樂云々。吾爲囚人待被誅條。存在旦暮由之故歟。又女房欲皈之程。猶詠四面楚歌句。彼項羽過呉之事。折節思出故歟之由申之。武衛殊令感事之躰給。依憚世上之聞。吾不臨其座。爲恨之由被仰云々。武衛又令持宿衣一領於千手前。更被送遣。其上以祐經。邊鄙士女還可有其興歟。御在國之程可被召置之由。被仰之云々。祐經頻憐羽林。是往年候小松内府之時。常見此羽林之間。于今不忘舊好歟。

読下し                     あめ ふ   しゅうじつ やまず  ほんざんみちゅうじょう 〔 しげひら 〕 ぶえい ごめん  よっ    もくよく のぎ あ
元暦元年(1184)四月小廿日戊子。雨降る。終日不休止。本三位中將〔重衡〕武衛の御免に依て、沐浴@之儀有り。

 そ  ご   へいしょく のご  およ   つれづれ  なぐさ     ため  しょう   とうのほうがんだいくにみち  くどうのいちろう すけつね
其の後、秉燭A之期に及び、徒然を慰めんが爲と稱し、藤判官代邦通B、 工藤一臈C祐經

なら   かんにょひとり  〔せんじゅのまえ ごう   〕 ら を うりん の かた  つか さる   あまつさ ちくよう じょうりん  いげ   そ   おくら
并びに官女一人D〔千手前と号す〕等於羽林E之方へ遣は被る。剩へ竹葉上林F已下を副え送被る。

うりん こと   きえつ    ゆうきょうとき うつ    すけつねつづみ う  いまよう   うた    にょぼう びわ   ひ    うりん よこぶえ  わ
羽林殊に喜悦す。遊興剋を移す。祐經鼓を打ち今樣Gを歌ふ。女房琵琶を彈き、羽林横笛を和す。

ま   ごじょうらく   ふ     げかん   ためこれ  も     ごしょうらく  な   べ     よし  これ しょう    つぎ おうしょうきゅう ふ      おうじょうきゅう い
先ず五常樂を吹き、下官Hの爲之を以って後生樂と爲す可しの由、之を稱す。次に皇麞急を吹きて、往生急と謂ふ。

およ  こと  をい  きょう もよおさず な     やはん  およ   にょぼうかえ      ほっ
凡そ事に於て興を不催は莫し。夜半に及び、女房皈らんと欲す。

うりん しばら これ  おさ  とど  さかづき あた ろうえい   およ    しょくくろ    すうぎょう ぐし なみだ  よ ふこ      しめんそか   こえ  うんぬん
羽林暫く之を抑へ留め、盃を与へ朗詠Iに及ぶ。燭暗うして數行虞氏の涙。夜深うして四面楚歌の聲と云々。

そ  のち おのおの かえ ごぜん  さん    ぶえい  しゅえん  しだい  と   せし  たま
其の後、各、皈り御前に參ず。武衛、酒宴の次第を問は令め給ふ。

くにみち もう   い       うりん   げんご  い     げいのう   い    もっと  もつ  ゆうびなり
邦通申して云はく、羽林は言語と云ひ、藝能と云ひ、尤も以て優美也。

ごじょうらく   もつ  ごしょうらく  い    おうじょうきゅう もつ おうじょうきゅう ごう   これみな そ  よし あ     か
五常樂を以て後生樂と謂ひ、皇急を以て往生急と号す。是皆其の由有らん歟J

がくめいのなか かいこつはもとかいこつ  か    たいこく   そうれいの とき   こ  がく  しら     うんぬん
樂名之中、廻忽者元廻骨と書く。大國には葬礼之時、此の樂を調ぶと云々。

われ めしうど なし ちうされ   ま     じょう   たんぼ   あ     よし  ぞん    のゆえか
吾囚人と爲て誅被るを待つの條、旦暮Kに在るの由を存ずる之故歟。

また にょうぼう かえ     ほつ    のほど  なお  しめんそか   く   えい
又、女房皈らんと欲する之程、猶、四面楚歌Lの句を詠ずる。

か   こうう  ご  す     のこと    おりふしおも  いだ    ゆえかの よし  これ  もう    ぶえいこと  ことのてい  かん  せし  たま
彼の項羽呉を過ぐる之事を、折節思ひ出すの故歟之由、之を申す。武衛殊に事之躰を感じ令め給ふ。

せじょうのきこ    はばか  よつ    われ そ  ざ   のぞまず  うら  た   のよし   おお  られ    うんぬん
世上之聞へを憚るに依て、吾其の座に不臨。恨み爲る之由M、仰せ被ると云々。

ぶえいまた すくい いちりょう せんじゅのまえ も  せし    さら  おく  つか  さる
武衛又、宿衣N一領を千手前に持た令め、更に送り遣は被る。

そ   うえ  すけつね もっ    へんぴ  しじょ かえ     そ  きょうあ   べ    か   ございこく  ほど  めしおかれ  べ  のよし  これ  おお  られ  うんぬん
其の上に祐経を以て、辺鄙の士女O還って其の興有る可きP歟。御在国の程、召置被る可し之由、之を仰せ被ると云々。

すけつねすこぶ うりん あわれ  これ  おうねんこまつないふ   そうら のとき   つね  こ   うりん   み  のかん  いまにきゅうこう  わすれずか
祐經頗る羽林を憐む。是、往年小松内府Qに候ふ之時、常に此の羽林を見る之間、今于舊好を不忘歟。

参考@沐浴は、穢れを洗い流すための儀式。沐は髪を洗い、浴は体を洗う。
参考A
秉燭は、明かりをつける時間。
参考B藤判官代邦通は、頼朝の祐筆。
参考C
一臈は、六位の蔵人。
参考D官女一人は、平家物語では手越の長者の娘と云っている。
参考E羽林は、近衛府の唐名。
参考F
竹葉上林は、酒と肴。
参考G
今樣は、流行歌。後白河が梁塵秘抄を作っている。
参考H下官は、役人が自分を差して遠慮して言う言葉。
参考I
朗詠するのは、漢文の歌。
参考J
其の由有らん歟は、道理に合っている。
参考K旦暮は、朝か夕か。
参考L四面楚歌は、項羽と劉邦の楚の項羽が敗れて四面を囲む漢軍の中に楚の歌を聞き、楚はすでに漢にくだったのかと驚きなげいたという。その時に「力山を抜き気は世を蓋(おお)う。時利あらず…、虞や虞や汝をいかんせん」と歌い、嘆じたという。
参考M
恨み爲る之由は、残念でならないとの思い。
参考N宿衣は、寝る時に被る綿入れ、後に「かいまき」になる。
参考O邊鄙の士女は、片田舎の女も。
参考P
還って其の興有る可きは、かえって物珍しく面白い。
参考Q
小松内府は、C盛の嫡男の平重盛。

現代語元暦元年(1184)四月小二十日戊子。雨が降って一日中止みませんでした。重衡殿は頼朝様から許可されて、罪びととしての穢れを洗い流すため沐浴の儀式を行いました。
その後、明かりを燈す時間になって、退屈しのぎのためと云って、藤判官代邦通殿、工藤祐経殿と千手前と名乗る女官を一人を重衡殿の元へ(頼朝様は)行かせました。しかも、酒と魚を一緒に送りました。重衡殿は、とてもお喜びになられて、楽しい宴会の時間が過ぎてゆきました。
祐経殿は鼓を打ち、今様を歌われました。女房殿は琵琶を弾き、重衡殿は横笛を合奏しました。はじめに五常樂(ごじょうらく)を吹いて「捕虜となって職を解かれ殺されるのだから、この曲を後生楽(ごしょうらく)と言うことにしよう。」と云われました。次に(おうしょうきゅう)を吹いて往生急(おうじょうきゅう)と云いました。何をやってもお洒落で興味をそそります。夜更けになって、女官が帰ろうとすると、重衡殿はこれを呼び止めて、杯を与えて漢詩に曲節をつけてうたいました。明かりが暗くなって数行の虞美人の涙、夜は深くなって四面楚歌の歌声とでした。
その後、それぞれ帰ってきて、頼朝様の前へ来ました。頼朝様は宴会の成り行きを尋ねられました。大和判官代邦道が報告をしました。重衡殿は、言動といい、芸能といい、とても優美でおられます。五常樂
(ごじょうらく)を後生楽(ごしょうらく)
と云い、(おうしょうきゅう)を往生急(おうじょうきゅう)としゃれました。これは皆たしかにそう云えると思いますよ。曲の中の廻忽は元々は廻骨と書くんだと、大国では葬礼之時に此の曲を奏でるのだと事です。本人が私は囚人として死刑になるのは、明日の朝か今日の夕方かと近いうちであることを承知しているからでしょうかね。又、女官が帰ろうとすると、その行為に合わせて四面楚歌の句を吟じました。その項羽の出来事を丁度思い出したからだと云ってました。
頼朝様は、特に彼の心境や事の成り行きを最もだと感じられました。世間の評判を気にして、私はその席に同席出来なかった事が、悔やまれてならないとおっしゃられていたそうです。
頼朝様は、寝るときにかける夜具の着物一枚を千手前に持たせて、なお送らせました。その上で、工藤一臈祐経に「田舎の女性もまた乙なものじゃないか。鎌倉に居る間そばにおいておきなさい。」と伝言をさせましたとさ。工藤祐経は重衡様を気の毒に思いました。なぜなら、小松内大臣平重盛に仕えた時に、いつでも重衡様の事を見ていたので、今でも昔の事を忘れていないからでしょうか。

元暦元年(1184)四月小廿一日己丑。自去夜。殿中聊物忩。是志水冠者雖爲武衛御聟。亡父已蒙 勅勘。被戮之間。爲其子其意趣尤依難度。可被誅之由内々思食立。被仰含此趣於昵近壯士等。女房等伺聞此事。密々告申姫公御方。仍志水冠者廻計略。今曉遁去給。此間。假女房之姿。姫君御方女房圍之出郭内畢。隱置馬於他所令乘之。爲不令人聞。以綿裹蹄云々。而海野小太郎幸氏者。与志水同年也。日夜在座右。片時無立去。仍今相替之。入彼帳臺。臥宿衣之下。出髻。日闌之後。出于志水之常居所。不改日來形勢。獨打雙六。志水好雙六之勝負。朝暮翫之。幸氏必爲其合手。然間。至于殿中男女。只成于今令坐給思之處。及晩縡露顯。武衛太忿怒給。則被召禁幸氏。又分遣堀藤次親家已下軍兵於方々道路。被仰可討止之由云々。姫公周章令銷魂給。

読下し                       さぬ   よ よ でんちゅういささ ものさわがし
元暦元年(1184)四月小廿一日己丑。去る夜自り殿中聊か物忩。

これ  しみずのかじゃ  ぶえい おんむこ  な    いへど   ぼうふすで  ちょっかん こうむ  ころされ  のかん
是、清水冠者は武衛が御聟を爲すと雖も、亡父已に勅勘を蒙り、戮被る之間。

そ   こ   な   そ   いしゅもっと  はか がた    よっ    ちう  らる  べ   のよし  ないないおぼ  め  た
其の子と爲し其の意趣尤も度り難きに依て、誅せ被る可し之由、内々思し食ち立ち、

かく おもむきを じっこん そうし ら   おお  ふく  らる   にょぼうら  かく  こと  うかが き    みつみつ ひめぎみのおんかた  つ もう
此の趣於眤近の壮士@等に仰せ含め被る。女房等此の事を伺ひ聞き、密々に 姫公御方Aに告げ申す。

よっ   しみずのかじゃけいりゃく めぐ     こんぎょうのが  さ   たま    かく かん  にょぼうのすがた か
仍て、清水冠者計略を廻らし、今曉遁れ去り給ふ。此の間、女房之姿を假り、

ひめぎみのおんかた にょぼう これ かこ   かくない  い  をはんぬ
姫君御方の女房が之を圍み、郭内Bを出で畢。

 うま を たしょ  かく  お  これ  の   せし    ひと  き  せしまず ため  わた  もっ ひづめ つつ   うんぬん
馬於他所に隱し置き之に乘ら令む。人に聞か令不が爲、綿を以て蹄を裹むと云々。

しか    うんののこたろうゆきうじ は しみずと おな  どしなり  にちや ざう   あ     へんし   た   さ     な
而して海野小太郎幸氏C者清水与同い年也。日夜座右に在りて片時も立ち去りは無し。

よっ  いま  これ  あいかわ   か  ちょうだい  はい   すくいの した  ふ     もとどり いだ
仍て今、之に相替り、彼の帳臺Dに入り、宿衣之下に臥せ、髻を出す。

ひたけなわ  ののち  しみずのつね  きょしょに い     ひごろ  けいせい あらためず   ひと すごろく  う
日闌Eなる之後、清水之常の居所于出で、日來の形勢を不改F、 獨り雙六を打つ。

しみず すごろくのしょうぶ  この   ちょうぼ  これ  もてあそ  ゆきうじかなら そ  あいて   な
清水雙六之勝負を好み、朝暮に之を翫ぶ。幸氏必ず其の合手を爲す。

しかるかん でんちゅう だんじょにいた       ただいまにざせし  たま  おも    な  のところ  ばん  およ  ことろけん
然間、殿中の男女于至るまで、只今于坐令め給ふ思ひを成す之處、晩に及び縡露顯す。

ぶえいはなは ふんぬ  たま   すなは ゆきうじ  め  いましめらる
武衛太だ忿怒し給ひ、則ち幸氏を召し禁被る。

また ほりのとうじちかいえ いか  ぐんぴょうを ほうぼう  どうろ  わか  つか      う   と   べ   のよし  おお  らる    うんぬん
又、堀藤次親家已下の軍兵於方々の道路に分ち遣はし、討ち止む可し之由を仰せ被ると云々。

ひめぎみ しゅうしょう たましい け せし たま
姫公、周章し魂を銷し令め給ふ。

参考@昵近の壯士は、側近の侍。
参考A姫公御方は、大姫。
参考B郭内は、御所の内。
参考C
海野小太郎幸氏は、滋野性、幸氏は幸広の子。後に弓道の名手となる。盛衰記に宇野行氏とでるのはこの人と同一人。長野県東御市(とうみし)本海野。元小県郡東部町本海野。
参考D帳臺は、寝殿に一段高く台を設けて、帳を張り巡らした座席。
参考E
日闌は、日が上ったら。
参考F
日來の形勢を不改は、普段どうりのやり方を変えずに=いつもどおり。

現代語元暦元年(1184)四月小二十一日己丑。昨夜からお屋敷の中が騒がしいのです。それは大姫(数え年7歳)の許婚の清水冠者義高は頼朝の婿になっていますが、父の木曽義仲はすでに勅勘を蒙り殺されました。その子の無念を考えると、将来の意思を計り難いので、頼朝は殺してしまおうと内々に思い立ち、この意趣を近しい武士等に仰せ含めました。女房等がこの事を聞いてしまい、密々に姫公に告げました。
そこで清水冠者と共に計略を考え、今朝夜明け前に逃がしました。その時、女房姿に扮装させて、姫君(数え年7歳)の女房達が義高を囲んで、屋敷から出しました。馬を他の所に隠しておいてこれに乗せました。馬の蹄には真綿を巻いて蹄の音が聞こえないようにしました。
そして、海野小太郎幸氏(諏訪一族)は義高と同い年で、常に一緒にいます。日夜傍にいて片時も立ち去ることがありません。だから今入れ替わって、寝床に寝てかむり物の下に髻
(もとどり)を出してました。日が上った後は、清水の普段居る所に出て、何時もと同じ様に装って独りで双六を打っていました。清水は双六勝負(今の双六とは違ってバカラが似ているそうです。)が好きで年中遊んでいました。幸氏は必ず相手をしていました。それなので殿中の人たちは、いつもどおり座っているものと思っていました。夜になって事がばれました。
頼朝は大変怒って、すぐに幸氏を捕らえて、堀親家ほかの軍兵を方々の道路に遣わし、清水を見つけ討ち取るように命令しました。
姫君(数え年7歳)はあわてて魂を消すほど打ちしおれてしまいました。

元暦元年(1184)四月小廿二日庚寅。民部大夫光行又豊前々司与平家之過事。可蒙免許之由。被遣御書於源九郎主云々。

読下し                      みんぶたいふみつゆき   またぶぜんぜんじ   へいけ  よ      のとが  こと
元暦元年(1184)四月小廿二日庚寅。民部大夫光行@、又豊前々司A、平家に与する之過の事、

めんきょ  こうむ べ   のよし  おんしょを げんくろうぬし  つか  さる    うんぬん
免許を蒙る可し之由。御書於源九郎主へ遣は被ると云々。

参考@民部大夫光行は、源 光行(1163年-1244年3月27日)は、鎌倉時代初期の政治家・文学者・歌人である。満政流清和源氏説(正木喜三郎氏)と、一方(奥富敬之氏説)では源義家源義忠源忠宗−源季遠−源光季−源光行−源親行としている。
参考A豊前々司は、光季で光行の父、その父は季遠で同様に平家に仕えていた。

現代語元暦元年(1184)四月小二十二日庚寅。民部大夫源光行とその父の豊前々司源光季は、平家と仲良くしていた罪を許してほしいと、源九郎義経に詫びの手紙を出したんだとさ。

元暦元年(1184)四月小廿三日辛卯。下河邊四郎政義者。臨戰塲竭軍忠。於殿中積勞効。仍御氣色殊快然。就中三郎先生義廣謀叛之時。常陸國住人等。小栗十郎重成之外。或与彼於逆心。或逐電奥州。政義自最初依令候御前。以當國南郡。宛賜政義之處。此一兩年國役連續之間。於事不諧之由。属筑後權守俊兼愁申之。仍可隨芳志之由。被遣慇懃御書於常陸目代。
 常陸國務之間事。三郎先生謀叛之時。當國住人。除小栗十郎重成之外。併被勸誘彼反逆。奉射御方。或迯入奥州。如此之間。以當國南郡。宛給下河邊四郎政義畢。此一兩年上洛。度々合戰。竭忠節畢。而南郡國役責勘之間。云地頭得分。云代官經廻。於事不合期之由。所歎申也。彼政義者。殊糸惜思食者也。有限所當官物。恒例課役之外。可令施芳意給候。於所當官物。無懈怠可令勤仕之旨。被仰含候畢。定令致其沙汰候歟。地頭軄所當官物。無對捍儀者。雖何輩何共煩候哉。以此旨可令申觸之旨。鎌倉殿所仰候也。仍執逹如件。
      四月廿三日                     俊兼〔奉〕
   謹上 常陸御目代殿

読下し                       しもこうべのしろうまさよし は  せんじょう のぞ  ぐんちゅう かつ  でんちゅう をい    ろうこう  つ
元暦元年(1184)四月小廿三日辛卯。下河邊四郎政義@者。戰塲に臨み軍忠を竭す。殿中に於ても勞効を積む。

よつ  みけしき こと  かいぜん  なかんづく さぶろうせんじょうよしひろむほんのとき  ひたちのくにじゅうにんら おぐりのじゅうろうしげなりの ほか
仍て御氣色殊に快然。 就中に三郎先生義廣謀叛之時、 常陸國住人等。 小栗十郎重成之外、

ある    か   ぎゃくしん よ     ある   おうしゅう ちくてん
或ひは彼の逆心に与し、或ひは奥州へ逐電す。

まさよしさいしょよ   ごぜん  そうら せし    よつ    とうごくみなみぐん  もつ   まさよし  あてたま   のところ
政義最初自り御前に候い令むに依て、當國南郡Aを以て、政義に宛賜はる之處。

こ   いちりょうねん くにやく れんぞくのかん  こと をい  かな  ず  のよし  ちくごごんのかみとしかね ぞく   これ うれ  もう
此の一兩年、國役B連續之間、事に於て諧は不C之由、筑後權守俊兼に属して之を愁い申す。

よつ  ほうし   したが べ   のよし  いんぎん おんしょを ひたちもくだい つか  さる
仍て芳志に隨う可し之由。慇懃の御書於常陸目代に遣は被る。

  ひたち   こくむの かん こと  さぶろうせんじょうむほんのとき  とうごく じゅうにん おぐりのじゅうろうしげなり のぞ のほか   あは    か  はんぎゃく かんゆうせら
 常陸の國務之間の事。三郎先生謀叛之時。當國の住人、小栗十郎重成を除く之外、併せて彼の反逆に勸誘被れ、

  みかた  いたてまつ  ある    おうしゅう にげい    かく  ごと   のかん  とうごくみなみぐん もつ   しもこうべのしろうまさよし  あ   たま  をはんぬ
 御方を射奉り、或ひは奥州に迯入る。此の如き之間、當國南郡を以て、下河邊四郎政義に宛て給ひ畢。

  こ   いちりょうねんじょうらく  たびたび  かっせん  ちゅうせつ かつ をはんぬ
 此の一兩年上洛し、度々の合戰に、忠節を竭し畢。

  しか   みなみぐん こくえきせっかんのかん  じとう とくぶん い     だいかん けいかい い     こと  をい  ごうきせずの  よし
 而るに南郡の國役責勘之間、地頭得分と云ひ、代官の經廻と云ひ、事に於て合期不D之由、

  なげ  もう ところなり  か   まさよしは  こと  いとおし  おも  め   ものなり
 歎き申す所也。彼の政義者、殊に糸惜く思い食す者也。

  ゆうげん  しょとう   かんもつ  こうれい  かえきのほか  ほうい  ほど  せし  たま   べ そうろう
 有限の所當Eの官物、恒例の課役之外、芳意を施こ令め給ふF可く候。

  しょとう  かんもつ  をい     けたいな   ごんじ せし  べ   のむね  おお  ふく  られそうら をはんぬ
 所當の官物に於ては、懈怠無く勤仕令む可き之旨、仰せ含め被候ひ畢。

  さだ    そ    さた いた  せし そうろうか  じとうしき  しょとう  かんもつ  たいかん ぎ な     ば  なにやから いへど なん とも わずら そうろうや
 定めて其の沙汰致さ令め候歟。地頭軄、所當の官物、對捍の儀無くん者、何輩と雖も何ぞ共に煩ひ候哉。

  かく  むね  もつ  もう  ふ   せし  べ  のむね  かまくらどのおお ところ そうろうなり  よつ  しったつくだん ごと
 此の旨を以て申し觸れ令む可し之旨。鎌倉殿仰す所に候也。 仍て執逹件の如し。

             しがつにじゅうさんにち                                         としかね〔ほうず〕
      四月廿三日                     俊兼〔奉〕G

      きんじょう  ひたち おんもくだいどの
   謹上 常陸御目代殿

参考@下河邊四郎政義は、下河邊庄司行平の弟。
参考A當國南郡は、公領で国府のある茨城県石岡市・小川町・千代田村。
参考B國役は、国単位で京都朝廷から課せられる。年貢のほかに公事は米以外の納税。万雑公事は国司の懐に入る。
参考C事に於て諧は不は、全然儲けが出なくて収入にならない。
参考D事に於て合期不は、収支が合わない。
参考E
有限の所當は、前もって量を決められた年貢。
参考F芳意を施こ令め給ふは、宜しく勘弁をしてやって欲しい。
参考G俊兼〔奉〕は、俊兼が頼朝の命に従って書きました。実物には頼朝の袖判があるはず。目代あての文ではあるが、目代に渡すのではなく、何かにつけて國衙に対しご威光を突きつけるために下河邊四郎政義が大事に持っている。

現代語元暦元年(1184)四月小二十三日辛卯。下河辺四郎政義は、合戦の場所では素晴らしい手柄をあらわし、幕府に仕えては苦労を惜しまず熱心に仕事に励むので、(頼朝様の)覚えもめでたく気分を特によくさせます。そのうちでも特に三郎先生義広の謀叛の時に、常陸国の武士たちは小栗十郎重成を除いて、殆どが志田義広の謀反に加担するか、奥州へ逃げてしまいました。政義は最初っから頼朝様の下へ従ってきたので、常陸の国の南郡を政義に与えられました。この一二年は臨時の国衙による予定外の徴収が続いたので、全然儲けが出なくて、収支が割に合わないよと、筑後権守俊兼を通して嘆き申し上げてきました。そこで、その希望をかなえてあげようと、丁寧な命令書を常陸国衙の代官宛の文書を作ってくれました。

 常陸の国衙の事務について、三郎先生義広の謀叛の時に、常陸国の武士たちは小栗十郎重成を除いて、殆どが志田義広の謀反に加担して(私頼朝の)味方に弓を引いたか、奥州へ逃げてしまいました。その時に常陸の国の南郡を政義に与えました。政義はこの一二年は、京都へ攻め上り、何度もの合戰に忠義な手柄を立てました。それなのに、南郡で色々な雑税を無理やり取上げたので、地頭の取り分も、代官の取り分も、全然儲けが出なくて収支が合わないとこぼしております。この下河辺四郎政義は、私頼朝が特に目をかけている者です。前もって決められた年貢と恒例となっている労働奉仕以外は、勘弁をしてやってほしい。元々決められている年貢は、怠けたり、滞らせたりすることの無い様に、良く言い聞かせておきますので、きっとそのとおりにするものと思います。地頭としての割り当てられた年貢を怠ることが無ければ、誰であろうと面倒は無いでしょうよ。この内容を云いおきますよと、鎌倉殿の命令をされているところです。よって文書化したのはこの通りです。
 四月二十三日 筑後権守俊兼が代書しました。
謹んで申し上げます。常陸御目代殿へ

元暦元年(1184)四月小廿四日壬辰。賀茂社領四十一ケ所。任 院廳御下文。可止武家狼藉之由。有其沙汰。

読下し                       かもしゃりょう しじゅういちかしょ  いんのちょう おんくだしぶみ まか
元暦元年(1184)四月小廿四日壬辰。賀茂社領四十一ケ所、院廳 御下文に任せ、

ぶけ   ろうぜき    と     べ   のよし  そ    さた あ
武家の狼藉@を止める可し之由、其の沙汰有り。

参考@狼藉は、年貢を横取りする。

現代語元暦元年(1184)四月小二十四日壬辰。賀茂神社の所領四十一ケ所を後白河法皇の事務所の命令書のとおり、武士たちの年貢の横取りを止めさせるよう、命令を出す事に会議で(頼朝様は)決められました。

元暦元年(1184)四月小廿六日甲午。堀藤次親家郎從藤内光澄皈參。於入間河原。誅志水冠者之由申之。此事雖爲密議。姫公已令漏聞之給。愁歎之餘令断漿水給。可謂理運。御臺所又依察彼御心中。御哀傷殊太。然間殿中男女多以含歎色云々。

読下し                      ほりのとうじちかいえ ろうじゅう とうないみつずみ きさん
元暦元年(1184)四月小廿六日甲午。堀藤次親家が郎從の藤内光澄皈參す。

 いるまがわら   をい    しみずかじゃ  ちゅう  のよし  これ  もう
入間河原@に於て、志水冠者を誅す之由、之を申す。

かく  こと みつぎ  な   いへど   ひめぎみすで これ  も   き   せし  たま   しゅうたんの あま  しょうすい た   せし  たま
此の事密議と爲すと雖も。姫公已に之を漏れ聞か令め給ふ。愁歎之餘りに漿水を断た令め給ふ。

りうん   いひ  べ    みだいどころまた か ごしんちゅう  さつ      よつ   ごあいしょうこと はなは
理運と謂つ可し。御臺所又彼の御心中を察するに依て。御哀傷殊に太だし。

しか  かん でんちゅう だんじょおお もつ  かんしょく ふく   うんぬん
然る間、殿中の男女多く以て歎色を含むと云々。  

参考@入間河原は、埼玉県狭山市入間川 3−35−9清水八幡社がある。

現代語元暦元年(1184)四月小二十六日甲午。堀藤次親家の部下の藤内光澄が帰ってきました。入間河原で清水義高を殺した事を報告しました。このことは内緒にしていましたが、姫君(数え年7歳)に洩れてしまい、嘆き悲しみの余り、水さえも喉を通らなくなりました。それは当然のことじゃないか。政子様も大姫の心中を察して、その悲しみようは特別に大きかった。そういうわけで、御所中の男女の多くが悲観しましたとさ。

元暦元年(1184)四月小廿八日丙申。平氏在西海之由風聞。仍被遣軍兵。爲征罰無事御祈祷。以淡路國廣田庄。被寄附廣田社。其御下文。付前齋院次官親能上洛便宜。可被遣神祗伯仲資王云々。
 寄進  廣田社神領事
   在淡路國廣田領壹所
 右爲増神威。殊存祈祷。寄進如件。
    壽永三年四月廿八日                    正四位下源朝臣

読下し                      へいし さいかい  あ   のよしふうぶん  よつ  ぐんぴょう つか  さ
元暦元年(1184)四月小廿八日丙申。平氏西海に在る之由風聞す。仍て軍兵を遣は被る。

せいばつぶじ   ごきとう   ため  あわじのくにひろたのしょう  もつ   ひろたしゃ   きふ  さ
征罰無事の御祈祷の爲、淡路國廣田庄@を以て、廣田社Aに寄附被る。

そ  おんくだしぶみ  さきのさいいんじかんちかよし じょうらく びんぎ  ふ   かみづかさのかみ なかつぐおう つか さる  べ    うんぬん
其の御下文を、前齋院次官親能の上洛の便宜に付し、神祗伯B仲資王に 遣は被る可しと云々。

  きしん     ひろたしゃしんりょう こと
 寄進  廣田社神領の事C

      あわじのくに  あ   ひろたりょういっしょ
   淡路國に在る廣田領壹所

  みぎしんい  ま       ため  こと   きとう  ぞん    きしんくだん ごと
 右神威を増さんが爲。殊に祈祷を存ず。寄進件の如し。

        じゅえいさんねん しがつ にじゅうはちにち                                    しょうしいのげみなもとのあそん
    壽永三年四月廿八日                    正四位下源朝臣

参考@淡路國廣田庄は、兵庫県南あわじ市広田広田(又は洲本市)で梶原景時が占領している。
参考A廣田社は、兵庫県西宮市大社町7広田神社。頼朝の寄進状が残っているらしい。
参考B神祗伯は、神祇官の長官。神祇官は太政官の上に位し、祭礼・卜占・社領を司る。
参考C寄進 廣田社神領の事、平家が横領していたのを頼朝が安堵したものであろう。

現代語元暦元年(1184)四月小二十八日丙申。平家は、瀬戸内海の方に居るらしいと噂で聞こえてきました。だから(頼朝様は)軍隊を派遣されることにしました。その戦争が無事に勝利をするように淡路国(淡路島)の広田庄を西宮の広田神社に寄付しました。その命令書を、前齋院次官中原親能が京都へ上洛するついでに、神祇官長官の仲資王に提出されました。

 寄進します 広田神社の領地として
  淡路国にある広田神社の領地一箇所
 このとおり、神様の威力を増して、平家撲滅の祈祷をしてもらうように、寄進することはこの通りです。
   壽永三年四月二十八日           正四位下源朝臣

元暦元年(1184)四月小廿九日丁酉。前齋院次官親能爲使節上洛。平家追討間事。向西海可奉行之云々。土肥次郎實平梶原平三景時等同首途。調置兵船。來六月属海上和氣期。可遂合戰之由被仰含云々。

読下し                       さきのさいいんじかんちかよし しせつ な  じょうらく
元暦元年(1184)四月小廿九日丁酉。前齋院次官親能、使節と爲し上洛す。

へいけついとう  かん  こと  さいかい む   これ  ぶぎょう すべ   うんぬん   といのじろうさねひら   かじわらのへいざかげとき ら おな    かどで
平家追討の間の事、西海へ向け之を奉行@可しと云々。土肥次郎實平・梶原平三景時A等同じく首途す。

へいせん ととの お     きた ろくがつかいじょう わけ  ぞく   ご      かっせん  と   べ   のよしおお  ふく  らる    うんぬん
兵船を調へ置き、來る六月海上和氣に属する期Bに、合戰を遂ぐ可し之由仰せ含め被ると云々。

参考@奉行は、この場合は兵糧奉行。
参考A
土肥次郎實平・梶原平三景時は、戰目付け。
参考B
海上和氣に属す期は、波静かな穏やかな季節。

現代語元暦元年(1184)四月小二十九日丁酉。前齋院次官中原親能は(頼朝様の)派遣員として京都へ上がりました。平家追討の戦争の間の京都での駐留事務官として処理をするためなんだとさ。土肥次郎実平と梶原平三景時も一緒に出発しました。軍船を用意しておいて、来る六月には海上が穏やかになるので、合戦をするようにと命令をなされましたとさ。

五月へ

吾妻鏡入門第三巻

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