吾妻鏡入門第三巻

元暦元年(1184)七月大

元暦元年(1184)七月大二日戊子。成就院僧正房使者。去夜戌尅參着。是寂樂寺僧徒令乱入高野山領紀伊國阿弖河庄。致非法狼藉之由。依訴申也。則進覽當山結界繪圖。并大師御手印案文等。筑後權守俊兼於御前釋申之。凡吾朝弘法者。併爲大師聖跡之由。武衛有御信仰之間。不日被經沙汰。可止狼藉之旨。被下御書。其状云。
 下 紀伊國阿弖河庄
  可早停止旁狼藉。如舊爲高野金剛峯寺領事
 右件庄者。大師御手印官苻内庄也。而今自寂樂寺致濫妨云々。事實者不隱便事歟。御手印内。誰可成異論哉。早停止彼妨。如舊可爲金剛峯寺領之状如件。以下。
    元暦元年七月二日

読下し                     じょうじゅいん そうじょうぼう ししゃ  さぬ よ いぬのこく さんちゃく
元暦元年(1184)七月大二日戊子。成就院@僧正房が使者、去る夜戌尅に參着す。

これ  じゃくらくじ そうと こうやさん りょう きいのくに あてがわのしょう  らんにゅうせし ひほう  ろうぜき  いた  のよし  うった  もう    よつ  なり
是、寂樂寺A僧徒高野山B領紀伊國阿弖河庄Cへ乱入令め、非法な狼藉を致す之由、訴へ申すに依て也。

すなは とうざんけっかいえず なら    だいし  ごしゅいん  あんぶん ら  しんらん   ちくごごんのかみとしかね ごぜん  をい  これ  と   もう
則ち當山結界繪圖D并びに大師の御手印E案文F等を進覽すG。筑後權守俊兼、御前に於て之を釋き申す。

およ  わがちょう ぐぼう は   もっぱ   だいし せいせき  な   のよし  ぶえいごしんこう あ   のかん  ふじつ    さた   へられ
凡そ吾朝の弘法H者、併らI大師の聖跡を爲す之由、武衛御信仰有る之間、不日Jに沙汰を經被、

ろうぜき   や    べ   のむね  おんしょ くださる    そ  じょう  い
狼藉を止める可し之旨、御書を下被る。其の状に云はく。

   くだ    きいのくに あてがわのしょう
 下すK 紀伊國阿弖河庄

   はやばや かたがた ろうぜき ちょうじ   もと  ごと   こうやこんごうぶじりょう    な   べ   こと
  早と 旁の狼藉を停止し、舊の如く高野金剛峯寺領と爲す可き事

  みぎ  くだん しょうは  だいし  ごしゅいん  かんぷ   うち  しょうなり  しか    いまじゃくらくじ よ  らんぼういた   うんぬん
 右、件の庄者、大師の御手印、官苻Lの内の庄也。而るに今寂樂寺自り濫妨致すと云々。

  じじつたらば おんびん ざることか   ごしゅいん  うち  たれ  いろん  な   べ   や
 事實者隱便なら不事歟。御手印の内、誰か異論を成す可き哉。

  はやばや か さまた  ちょうじ    もと  ごと  こんごうぶじりょうたるべきのじょう   くだん ごと   もつ  くだ
 早と彼の妨げを停止し、舊の如く金剛峯寺領爲可之状、件の如し。以て下す。

         げんりゃくがんねんしちがつふつか
    元暦元年七月二日

参考@成就院は、高野山内にある寺。
参考A
寂樂寺は、京都北白川の現白河の喜多院。
参考B
高野山は、金剛峰寺。
参考C阿弖河庄は、和歌山県有田郡有田川町清水。
参考D結界繪圖は、現存する。
参考E
大師御手印も、現存する。
参考F
案文は、写し。
参考G進覽は、証拠書類として提出した。
参考H
弘法は、仏教を広めること。
参考I
併らは、この場合は全ての意味。
参考J不日には、日をおかずに、直ぐに。
参考K下すは、「下す」で始まり「以って下す」で終える「下し文」で強い命令が入っている。
考L官苻は、太政官府。

現代語元暦元年(1184)七月大二日戊子。高野山内成就院僧正房の使いが先日の夜、到着しました。これは、寂楽寺の武者僧達が高野山の領地である紀伊国阿弖河庄を自分達の領地だと言って不法にも横領してきたので、それを訴えに来ました。直ぐに高野山金剛峰寺の境界を許可した絵図と弘法大師が自ら手形を押して証明した文書の写しを差し出して見せました。それを筑後権守俊兼が(頼朝様に)詳しく説明しました。だいだいこの日本国の仏教を広まったのは、弘法大師の遺跡があるからなのだと、頼朝様は信仰深いので、日をおかずに直ぐに検討を経て、横領を止めるように、命令書を出してくださいました。その命令書に書いてあるのは、

 命令する 紀伊国阿弖河庄について
  さっさと他の連中の横取りを止めて、元の通りに高野山金剛峰寺の領地とすること
 右の通り、この荘園は、弘法大師の御手印を太政官が認めた範囲の荘園である。それなのに今
寂楽寺が横取りしているとの事。本当ならそれは穏便なことでは無い。弘法大師の御手印に対して、誰が異論を唱えることが出来ようか。さっさと他の連中の横取りを止めて、元の通りに高野山金剛峰寺の領地とすることを命令する手紙はこの通りである。あえて命令する。
   元暦元年七月二日

参考内容的には、高野山領である「阿弖河庄」を寂樂寺が自分の領地だといって押領してきたので、かつての絵図や弘法大師の書付の写しをもって鎌倉幕府へ裁許を受けに来た。頼朝は直ぐにそれを認めた。とあります。
実は寂樂寺は上部団体の法勝寺(廃寺で現岡崎動物園の地にあった)から阿弖河庄を与えられた訳ですが、法勝寺は後白河法王の自寺なので、裏で後白河法皇が工作している事が伺われます。それを頼朝は知ってか知らずかさっさと高野山の言い分を認めています。

元暦元年(1184)七月大三日己丑。武衛爲追討前内府已下平氏等。以源九郎主。可遣西海事。被申仙洞云々。

読下し                     ぶえい  さきのないふ いか  へいしら   ついとう  ため
元暦元年(1184)七月大三日己丑。武衛、前内府已下の平氏等を追討の爲、

げんくろうぬし   もつ   さいかい  つか   べ   こと  せんとう  もうさる    うんぬん
源九郎主を以て、西海に遣はす可き事、仙洞へ申被ると云々。

現代語元暦元年(1184)七月大三日己丑。頼朝様は、前内府平宗盛をはじめとする平家一門を追討するために、源九郎義経様を司令官として九州方面へ派遣するように、後白河法皇のもとへ申し上げたのだとさ。

元暦元年(1184)七月大五日辛卯。大内冠者惟義飛脚參着。申云。去七日於伊賀國。爲平家一族被襲之間。所相恃之家人多以被誅戮云々。因茲諸人馳參。鎌倉中騒動云々。

読下し                    おおうちのかじゃこれよし  ひきゃくさんちゃく   もう     い
元暦元年(1184)七月大五日辛卯。大内冠者惟義@が飛脚參着す。申して云はく。

さんぬ なのか いがのくに をい    へいけ いちぞく ら ため  おそわれ のかん  あいたの ところのけにんおお  もつ ちうりくされ    うんぬん
去る七日伊賀國に於て、平家一族A等が爲に襲被る之間、相恃む所之家人多く以て誅戮被ると云々。

これ  よつ  しょにんは  さん    かまくらじうそうどう    うんぬん
茲に因て諸人馳せ參じ、鎌倉中騒動すと云々。

参考@大内冠者惟義の大内は、元大内裏の警備官をした職を名誉して子孫が名字にしている。なお、大内相模守惟義は伊賀國の守護である。
参考A平家一族は、伊勢伊賀志摩を支配していた伊勢平氏で、清盛一族等の現地部隊。この騒動を「三日平氏の乱」という。

現代語元暦元年(1184)七月大五日辛卯。大内冠者惟義の伝令が到着して言いました。先月の七日に伊賀国で、伊勢平氏本拠地の平家軍に襲撃を受け、有力な私の部下達が沢山討ち殺されましたとの事です。この知らせによって、武士達が走り集まってきて、鎌倉中が大騒ぎでしたとさ。

元暦元年(1184)七月大十日。丙申。今日。井上太郎光盛於駿河國蒲原驛被誅。是依有同意于忠頼之聞也。光盛日來在京之間。吉香船越の輩含兼日嚴命。相待下向之期。討取之云々。

読下し                     きょう   いのうえのたろうみつもり  するがのくにかんばらのうまや をい ちうされ
元暦元年(1184)七月大十日丙申。今日、井上太郎光盛@、駿河國 蒲原驛Aに於て誅被る。

これ ただより に どういの きこ  あ      よつ  なり
是、忠頼B于同意之聞へ有るに依て也。

みつもり  ひごろざいきょうのかん きっかわ   ふなこし のやから けんじつ げんめい ふく    げこう の ご   あいま     これ  う   と     うんぬん
光盛、日來在京之間、吉香C・船越D之輩、兼日の嚴命を含み、下向之期を相待ち、之を討ち取ると云々。

参考@井上太郎光盛は、頼季流清和源氏で、信濃国高井郡井上庄発祥の清和源氏井上氏。http://www.harimaya.com/o_kamon1/seisi/11_20/inoue.html
参考A蒲原驛は、蒲原宿で静岡県静岡市清水区蒲原で旧庵原郡蒲原町蒲原。
参考B忠頼は、一條次郎忠頼で武田党の有力者。京都から頼朝追討の宣旨を受けたとされ、前月十六日に御所で暗殺されている。
参考C吉香は、南家流で駿河國吉川郡。現静岡県静岡市清水区吉川。
参考D船越は、静岡県静岡市清水区船越。

現代語元暦元年(1184)七月大十日丙申。今日、井上太郎光盛が駿河国蒲原駅で殺されました。この人は、一条次郎忠頼と一緒に謀反の意思があるとの情報があるからです。光盛は近頃京都へ行っていたので、吉川と船越の武士達が前もって堅く命令を受けていたので、鎌倉へ帰ってくる時を待ち伏せをしていて、上意討ちにしましたとさ。

元暦元年(1184)七月大十六日壬寅。澁谷次郎高重者。勇敢之器。頗不耻父祖之由。度々預御感。凢於事快然之餘。彼領掌之所於上野國黒河郷。止國衙使入部。可爲別納之由。賜御下文。仍今日被仰含其由於國。奉行人藤九郎盛長云々。

読下し                      しぶやのじろうたかしげは   ゆうかんのうつわ すこぶ ふそ  はじず のよし  たびたびぎょかん あずか
元暦元年(1184)七月大十六日壬寅。澁谷次郎高重者、勇敢之器、頗る父祖に不耻之由、度々御感に預る。

およ  こと  をい  かいぜんのあま   か  りょうしょうのところ こうづけのくにくろかわごう  をい   こくが   し   にゅうぶ   と
凡そ事に於て快然之餘り、彼の領掌之所、上野國黒河郷@に於て、國衙の使の入部Aを止め、

べつのう たるべ  のよし  おんくだしぶみ たまは
別納B爲可き之由、御下文を賜る。

よつ  きょう   そ   よしを くに  おお  ふく  らる    ぶぎょうにん とうくろうもりなが   うんぬん
仍て今日、其の由於國へ仰せ含め被るC。奉行人は藤九郎盛長と云々。

参考@黒河郷は、群馬県富岡市黒川で、黒川郷と言う公領。
参考A國衙の使の入部は、國衙の役人が毎年作柄を調査に来て年貢高を決めることで、この際に接待を充分にしないと年貢を吹っかけられるので、この接待に相当に費用を使う。
参考B別納は、中世、年貢を通常の手続きを経ないで、一定額を直接納付することで、国衙使などの入部を拒否する特権であり、直納は忘れても國衙は文句をいえない。
参考C國へ仰せ含め被るは、國衙に通知をする。國衙の役人も云うことを聞かないと頼朝から直接朝廷に注文をつけられ役職を解任される恐れがある。

現代語元暦元年(1184)七月大十六日壬寅。渋谷次郎高重は、勇ましい武士らしい器であり、とても父祖に恥をかくようなことはないと、何度も(頼朝様の)お褒めに預かりました。何かあった時のその気分のよさのついでに、彼の領地である上野国黒川郷では、国司の作柄検査を止めさせ、一定量の直接納付にするよう命令書を与えられました。そこで今日、その内容を国衙の役人へ知らせました。指揮担当は藤九郎盛長だとさ。

考察この記事から察するに、藤九郎盛長は上野国の守護的役目をしているらしい。

元暦元年(1184)七月大十八日甲辰。伊賀國合戰之間事。被經其沙汰。可討亡平家隱逃之郎從等之由。被仰大内冠者。并加藤五景員入道父子。及瀧口三郎經俊等云々。雜色友行宗重兩人。帶彼御書等進發云々。

読下し                      いがのくにかっせん のかん  こと  そ    さた   へられ
元暦元年(1184)七月大十八日甲辰。伊賀國合戰之間の事、其の沙汰を經被る@

へいけ いんちょうのろうじゅうら う   ほろぼ  べ  のよし  おおうちかじゃなら    かとうごかげかずにゅうどうおやこ
平家隱逃之郎從等を討ち亡す可し之由、大内冠者并びに加藤五景員入道A父子B

およ  たきぐちさぶろうつねとし ら おお  られ   うんぬん  ぞうしきともゆき  むねしげ りょうにん か   おんしょら  お   しんぱつ   うんぬん
及び瀧口三郎經俊C等に仰せ被ると云々。雜色友行・宗重の兩人、彼の御書等を帶び進發すと云々。

参考@其の沙汰を經被るとは、既に評定をしているのだろうか。
参考A加藤五景員入道は、治承四年(1180)八月小廿七日石橋山合戰で敗北し逃げる途中で出家して伊豆山走湯權現へ逃げ込んでいる。
参考B父子の子は、加藤太光員と加藤次景廉。
参考C瀧口三郎經俊は、山内首藤瀧口三郎經俊で伊勢の守護である。鎌倉の山内に住み山内氏となり、子孫に一豊や酔鯨がいる。

現代語元暦元年(1184)七月大十八日甲辰。伊賀国での戦闘について、その裁量を決定しました。平家の隠れたり逃げたりしている兵隊達を全滅させるように、大内惟義と加藤五景員入道親子、それに瀧口三郎経俊たちに命令されましたとさ。雑用下男の知行と宗重の二人が、その命令書を持って出発しましたとさ。

元暦元年(1184)七月大廿日丙午。此間。於鶴岡若宮之傍。被新造社壇。今日所被奉勸請熱田大明神也。仍武衛參給。武蔵守義信。駿河守廣綱已下門客等。殊刷行粧列供奉。結城七郎朝光持御劔。河勾三郎實政懸御調度。此實政者。去年上洛之時。依渡船之論。与一條次郎忠頼合戦之間。雖蒙御氣色。武勇之譽不耻上古之間。不經幾旬月有免許。剩從此役奉昵近。觀者成不思議之念云々。御遷宮事終之後。爲貢税料所。被奉寄相摸國内一村。筑後權守俊兼被召寶前。書御寄附状云々。

読下し                     こ  かん  つるがおかわかみやのかたわら をい しゃだん しんぞうせら
元暦元年(1184)七月大廿日丙午。此の間、鶴岡若宮之 傍に於て、社壇を新造被る。

きょう あつただいみょうじん かんじょう たてまつられ ところなり
今日熱田大明神を勸請し 奉被る所也。

よつ  ぶえい さん たま   むさしのかみよしのぶ  するがのかみひろつな いげ もんきゃくら こと ぎょうしょう かいつくろ ぐぶ れつ
仍て武衛參じ給ふ。武藏守義信@・駿河守廣綱A已下の門客等、殊に行粧を刷い供奉に列す。

ゆうきのしちろうともみつぎょけん も     かわわのさぶろうさねまさごちょうど か
結城七郎朝光御劔を持つ。河匂三郎實政御調度を懸くB

こ   さねまさは  きょねん  ふゆじょうらくのとき  とせんの ろん  よつ   いちじょうのじろうただよりとかっせん  のかん  みけしき    こうむ   いへど
此の實政者、去年の冬上洛之時、渡船之論に依て、一條次郎忠頼与合戰する之間、御氣色を蒙ると雖も、

ぶゆうのほまれじょうこ  はじずのかん  いくしゅんげつ へず     めんきょ あ
武勇之譽上古に不耻之間、幾旬月を不經して免許有り。

あまつさ こ  やく  したが  じっきん たてまつ  みるもの ふしぎの ねん  な     うんぬん
剩へ此の役に從いて昵近を奉る。觀者不思議之念を成すと云々。

ごせんぐう   ことおわ  ののち   こうぜい りょうしょ   な     さがみのこくないいっそん よ たてまつらる
御遷宮Cの事終る之後、貢税の料所Dと爲し、相摸國内一村を寄せ奉被る。

ちくごごんのかみとしかね ほうぜん めされ   ごきふじょう   か     うんぬん
筑後權守俊兼を寳前に召被、御寄附状を書くと云々。

参考@武藏守義信は、大内。河内源氏で爲義の兄。
参考A
駿河守廣綱は、太田。摂津源氏で入道源三位頼政の末子。子孫に道灌。
参考B御調度を懸くは、花嫁の御調度は箪笥だが、武士の御調度は弓矢なので、頼朝の弓矢を部下が替わりに背負う。
参考C遷宮は、神社の引越しだが、この場合は熱田社を勧請してきた。
参考D
貢税の料所は、一定の土地の年貢は熱田社専用に使う。用途税。

現代語元暦元年(1184)七月大二十日丙午。近頃、鶴岡八幡宮寺で神社を祀る壇を新しく作りました。そこへ今日熱田大明神を勧請してきて奉納したところです。それなので頼朝様が参られてました。源武蔵守義信・駿河守太田広綱以下の源氏の一族の人たちは、特に行列を飾ってお供の列に繋がりました。結城七郎朝光は太刀持ちで、河勾三郎実政は弓矢調度を肩にかけました。この河勾三郎実政は、去年の冬木曽冠者義仲討伐に上洛した際に、一番乗りを目指して川を渡る時に、一条次郎忠頼と先争いの喧嘩をして、頼朝様からご勘気を受けていましたが、その武勇も先祖に恥じないことなので、幾らも経たずに許されました。しかも、この役を仰せつかって頼朝様のお傍近く仕えられる栄誉を与えられたので、見ている御家人達は不思議がっていましたとさ。神様が引っ越してきた遷宮の式を終えると、熱田社専用の年貢田を一村寄進されました。筑後権守俊兼を社殿前へ呼んで、寄進状を書かせましたとさ。

元暦元年(1184)七月大廿五日辛亥。故井上太郎光盛侍保科太郎。小河原雲藤三郎等。爲降人參上。仍可爲御家人之由被仰下。藤内朝宗奉行云々。

読下し                      こいのうえのたろうみつもり さむらい ほしなのたろう   おがわらのうんとうさぶろう ら   こうじん  な   さんじょう
元暦元年(1184)七月大廿五日辛亥。故井上太郎光盛が侍の保科太郎@・小河原雲藤三郎A等、降人と爲し參上す。

よつ  ごけにん たるべ   のよし  おお  くだされ   とうないともむね ぶぎょう   うんぬん
仍て御家人爲可し之由、仰せ下被る。藤内朝宗B奉行すと云々。

参考@保科太郎は、信濃国高井郡保科(穂科)長野県長野市若穂保科。から発祥。http://www2.harimaya.com/sengoku/html/hosina_k.html
参考A小河原雲藤三郎は、長野県須坂市小河原。雲藤は、出雲守藤原氏の子孫。
参考B藤内朝宗は、比企藤内朝宗。内は内舎人経験者で内藤の名字が発生する。

現代語元暦元年(1184)七月大二十五日辛亥。七月十日に処刑された故井上太郎光盛の家来の保科太郎と小河原雲藤三郎達が、降伏して出頭して来ました。そこで御家人にするよう頼朝様は仰せになりました。比企藤内朝宗が担当をしましたとさ。

参考こういう大物の豪族を廃して、その郎党等を御家人に取り立てるのを故安田元久氏は「大豪族抑圧策」と云い、奥富孝之氏は「御家人平均化説」と唱えている。塾長は「大豪族解体説」と名づけたい。

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