吾妻鏡入門第三巻

元暦元年(1184)九月小

元暦元年(1184)九月小二日戊子。小山小四郎朝政下向西海。可属參州之由被仰云々。又彼官途事所望申左右兵衛尉也云々。

読下し                     おやまのこしろうともまさ さいかい げこう     さんしゅう ぞく  べ  のよし  おお  られ    うんぬん
元暦元年(1184)九月小二日戊子。小山小四郎朝政@西海へ下向し、參州に属す可し之由、仰せ被ると云々。

また   か  かんと  こと  さゆうひょうえのじょうのぞ もう ところなり  うんぬん
又、彼の官途の事、左右兵衛尉望み申す所也と云々。

参考@小山小四郎朝政は、栃木県小山市。

現代語元暦元年(1184)九月小二日戊子。頼朝様は、小山小四郎朝政に関西へ下って、源参河守範頼の指揮下に入るように命じられましたとさ。又、彼の官職の希望は、左右のどちらでも良いので、兵衛尉が欲しいと望んでいますとさ。

元暦元年(1184)九月小九日乙未。出羽前司信兼入道已下平氏家人等京都之地。可爲源廷尉沙汰之由。武衛被遣御書。
 平家没官領内京家地事。未致其沙汰。仍雖一所不宛賜人也。武士面々致其沙汰事。全不下知事也。所詮可依 院御定也。於信兼領者。義經沙汰也。                    御判

読下し                    でわのぜんじのぶかねにゅうどういか   へいし けにんら   きょうとの ち     げんていい   さた たるべ   のよし
元暦元年(1184)九月小九日乙未。出羽前司信兼入道已下の平氏家人等が京都之地@は、源廷尉が沙汰爲可し之由、

ぶえいおんしょ  つか  さる
武衛御書を遣は被る。

  へいけもっかんりょう ない きょう  やち  こと   いま  そ   さた   いた      よつ いっしょ  いへど ひと  あてたま  ざるなり
 平家没官領A内の京の家地の事、未だ其の沙汰を致さず。仍て一所と雖も人に宛賜は不也。

  ぶし めんめん  そ    さた   いた  こと    まった げちせざることなり  しょせん いん ごじょう  よるべ   なり
 武士面々に其の沙汰を致す事は、全く下知不事也。所詮 院Bの御定に依可き也。

  のぶかね りょう をいては  よしつね  さた なり
 信兼が領に於者、義經が沙汰也。

                              ごはん
              御判

参考@平氏家人等京都之地は、平家やその一族が使っていた屋敷の地(屋地)。
参考A
平家没官領は、平家から取り上げた領地。
参考Bは、後白河法皇。

現代語元暦元年(1184)九月小九日乙未。出羽前司関信兼入道を始めとする平家一族が住んでいた京都の屋敷の地は、源廷尉義経が管理をするように、頼朝様は命令書を送りました。

平家が持っていた領地の内の京都の屋敷の地は、未だにどうするか決めていなかったので、だから、一箇所足りと言えど誰にも与えてはいない。武士達が勝手にそれを自分の分だと決めていることは、全然命令を下してはいない。すべて、後白河院の判断に任せるものだ。出羽前司関信兼の屋敷地は源九郎義経が管理をしなさい。
     花押

元暦元年(1184)九月小十二日戊戌。參河守範頼朝臣去朔日使者。今日參着献書状。去月廿七日入洛。同廿九日賜追討使官苻。今日〔九月一日。〕發向西海云々。

読下し                      みかわのかみのりよりあそん さんぬ ついたち ししゃ  きょうさんちゃく  しょじょう  けん
元暦元年(1184)九月小十二日戊戌。參河守範頼朝臣が去る朔日の使者、今日參着し書状を献ず。

さぬ つきにじうしちにちじゅらく  おな    にじうくにち ついとうし  かんぷ  たま      きょう 〔くがつ ついたち〕 さいかい はっこう    うんぬん
去る月廿七日入洛す。同じく廿九日追討使の官苻を賜はる。今日〔九月一日〕西海へ發向すと云々。

現代語元暦元年(1184)九月小十二日戊戌。源参河守範頼様の先日一日に発した伝令が、今日鎌倉へ到着して、手紙を差し出しましとさ。先月の二十七日に京都へ入り、二十九日に平家追討使の役職の太政官布告を貰いました。今日「九月一日」に四国中国九州方面へ出発しますだとさ。

参考八月八日に鎌倉を出発して、八月二十七日に京都へ入り、早々に京都朝廷は太政官布を発行し、九月一日に出発している。朝廷側の官布の発行が非常に手回しがよいのは、木曾冠者義仲の時で懲りているので、征討軍の京都駐留を早く追い出そうとしたのではないか。

元暦元年(1184)九月小十四日庚子。河越太郎重頼息女上洛。爲相嫁源廷尉也。是依武衛仰。兼日令約諾云々。重頼家子二人。郎從三十餘輩從之首途云々。

読下し                      わごえのたろうしげより そくじょじょうらく    げんていい   あいか      ためなり
元暦元年(1184)九月小十四日庚子。河越太郎重頼@が息女上洛す。源廷尉に相嫁させん爲也。

これ ぶえい おお   よつ    けんじつやくだくせし  うんぬん  しげより  いえのこふたり  ろうじゅうさんじうよやから これ したが かどで  うんぬん
是武衛が仰せに依て、兼日約諾令むと云々。重頼が家子二人、郎從三十餘輩、之に從ひ首途すと云々。

参考@河越太郎重頼は、埼玉県川越市で、彼は比企の尼の婿でもあり、この時点では秩父党の頭領として祖父重隆の武蔵検校職をもっている。

現代語元暦元年(1184)九月小十四日庚子。河越太郎重頼の娘が京都へ向かって出発しました。これは源九郎義経に嫁ぐ為です。頼朝様の命令で、前々から約束だ出来ていたんだとさ。河越太郎重頼の家中の家来が二人、身分の低い家来が三十数人お供をして出発しましたとさ。

元暦元年(1184)九月小十七日癸卯。相摸國大山寺免田五町。畠八町。任先例可引募之由。今日下知給云々。

読下し                      さがみのくにおおやまでら めんでん ごちょう はたけはっちょう
元暦元年(1184)九月小十七日癸卯。相摸國大山寺@免田A五町。 畠八町。

せんれい まか  ひ  つの  べ   のよし   きょう  げち   たま   うんぬん
先例に任せ引き募る可し之由、今日下知し給ふと云々。

参考@相摸國大山寺は、神奈川県伊勢原市大山阿夫利神社。現在は神仏分離して別々になっている。http://www.afuri.or.jp/ http://www.oyamadera.jp/
参考A免田は、万雑公事(国司や郡司の都合で臨時に課せられる税で主に労働)の免除で正税は絶対に免除にならない。

現代語元暦元年(1184)九月小十七日癸卯。相模の国の阿夫利神社兼大山寺の、万雑公事の免除された田五町(5ヘクタール)畑八町(8ヘクタール)は、今までどおりその権利を引き継ぐように、(頼朝様は)今日命令をなされましたとさ。

元暦元年(1184)九月小十九日乙巳。平氏一族。去二月被破攝津國一谷要害之後。至于西海。掠虜彼國々。而爲被攻襲之。被發遣軍兵訖。以橘次公業。爲一方先陣之間。着讃岐國。誘住人等。欲相具。各令歸伏搆運志於源家之輩。注出交名。公業依執進之。有其沙汰。於今者。彼國住人可隨公業下知之由。今日所被仰下也。
     在御判
 下 讃岐國御家人等
  可早隨橘公業下知。向西海道合戰事
 右國中輩。平家押領之時。無左右御方參交名折紙。令經御覽畢。尤奉公也。早隨彼公業下知。可令致勳功忠之状如件。
    元暦元年九月十九日
  讃岐國御家人
   注進 平家當國屋嶋落付御坐捨參源氏御方奉參京都候御家人交名事
  藤大夫資光     同子息新大夫資重  同子息新大夫能資  藤次郎大夫重次
  同舎弟六郎長資   藤新大夫光高    野三郎大夫高包   橘大夫盛資
  三野首領盛資    仲行事貞房     三野九郎有忠    三野首領太郎
  同次郎       大麻藤太家人
 右度々合戰。源氏御方參。京都候之由。爲入鎌倉殿御見參。注進如件。
     元暦元年五月日

読下し                      へいし いちぞく さぬ にがつせっつのくにいちのたに  ようがい やぶれるののち
元暦元年(1184)九月小十九日乙巳。平氏一族、去る二月攝津國一谷@の要害に破被之後、

さいかいに いた   か   くにぐに りゃくりょ
西海于至り、彼の國々を掠虜す。

しこう   これ  こうげきさら ため  ぐんぴょう はっけんさら をはんぬ
而して之を攻襲被る爲、軍兵を發遣被れ訖。

きつじきんなり   もつ    いっぽう  せんじん  な   のかん  さぬきのくに つ    じゅうにんら   いざな   あいぐ       ほつ
橘次公業Aを以て、一方の先陣と爲す之間、讃岐國に着き、住人等Bを誘ひ、相具さんと欲す。

おのおの きふくせし こころざしを げんけ  かま  めぐ    のやから  きょうみょう  ちう いだ   きんなりこれ  と  しん      よつ    そ   さた あ
各、歸伏令め 志於 源家に搆へ運らす之輩、交名Cを注し出す。公業之を執り進ずるに依て、其の沙汰有り。

いま  をい  は   か  くに  じゅうにん きんなり  げち  したが  べ   のよし  きょう おお  くださる  ところなり
今に於て者、彼の國の住人、公業が下知に隨ふ可し之由、今日仰せ下被る所也。

           ごはん あ
     御判在りD

  くだ     さぬきのくにごけにんら
 下す 讃岐國御家人等へ

    はやばや たちばなきんなり げち したが  さいかいどう かっせん  むか  べ   こと
  早と、橘公業が 下知に隨ひ、西海道の合戰に向う可き事

  みぎ くにじゅう やから へいけおうりょうのとき  そう な   みかた   さん   きょうみょう おりがみ  ごらん  へせし をはんぬ もっと ほうこうなり
 右、國中の輩、平家押領之時、左右無く御方に參ずる交名の折紙、御覽を經令め畢。尤も奉公也。

  はやばや か きんなり  げち   したが   くんこう  ちゅう いたせし  べ  のじょう  くだん ごと
 早と彼の公業が下知に隨ひ、勳功の忠を致令む可き之状、件の如し。

         げんりゃくがんねんくがつじうくにち
    元暦元年九月十九日

     さぬきのくにごけにん
  讃岐國御家人

      ちゅう  しん   へいけ とうごく  やしま  お   つ   おは    す   まい  げんじ  みかた  さん たてまつ きょうと  そうら ごけにん  きょうみょう こと
   注し進ず 平家當國の屋嶋に落ち付き御坐すを捨て參り源氏の御方に參じ奉り京都に候う御家人の交名の事

    とうのだいぶすけみつ        おな   しそくしんだいぶすけしげ     おな   しそくしんだいぶよしすけ    とうのじろうだいぶしげつぐ
  藤大夫資光E    同じき子息新大夫資重  同じき子息新大夫能資  藤次郎大夫重次

    おなじきしゃていろくろうながすけ  とうのしんだいぶみつたか          ののさぶろうだいぶたかかね        たちばなのだいぶもりすけ
  同舎弟六郎長資   藤新大夫光高F     野三郎大夫高包G    橘大夫盛資H

    みののしゅりょうもりすけ        なかのぎょうじさだふさ            みののくろうありただ             みののしゅりょうたろう
  三野首領盛資I   仲行事貞房J      三野九郎有忠      三野首領太郎K

    おなじきじろう              たいまのとうたけにん
  同次郎       大麻藤太家人L

  みぎ  たびたび かっせん   げんじ  みかた   さん    きょうと  そうら のよし  かまくらどの  ごげんざ   いれ  ため ちゅう しん    くだん ごと
 右、度々の合戰に、源氏の御方に參じ、京都に候う之由、鎌倉殿が御見參に入ん爲、注し進ずは件の如し。

         げんりゃくがんねんごがつにち
    元暦元年五月日

参考@攝津國一谷は、神戸。
参考A
橘次公業は、元伊予国宇和郡宇和庄で現在の愛媛県宇和島市。
参考B住人等は、領地を持っている人で未御家人。
参考C交名は、名簿。
参考D御判在りは、頼朝の花押がある。注進以降を先に書いて鎌倉へ提出し前半分を頼朝の命令で右筆が書き、頼朝が花押を書く。
参考E藤大夫資光は、新居氏で香川県観音寺市大野原町中姫。
参考F藤新大夫光高は、大野郷で香川県高松市香川町大野。高松駅と高松空港の真ん中。
参考G野三郎大夫高包は、三野郡で現在の香川県三豊市三野町。
参考H橘大夫盛資は、鵜足郷で現在の香川県綾歌郡綾川町で元の綾上町。
参考I三野首領盛資の首領は、三野郡の郡司。
参考J仲行事貞房は、那珂郡で丸亀市に郡家町あり。行事は郡衙の役人。
参考K三野首領太郎は、郡司盛資の息子と思われる。
参考L大麻藤太家人は、香川県善通寺市大麻神社で金毘羅山の隣。

現代語元暦元年(1184)九月小十九日乙巳。平氏一族は、先日の二月に摂津国一谷の砦で負けてしまって九州の方へ行って、そちらの国々を占領しました。それなのでそれらを攻め襲うために、軍隊を出発させました。橘次公業を一方の先陣として、元々讃岐の出身なので讃岐国へ行き、未だ御家人になっていない武士達を誘って、一緒にいかせようと考えて。それぞれ投降して忠誠を源氏に誓い、一緒に戦おうという連中は、名簿を提出するように。橘次公成がこの仲裁役として執り進めるように、その決定がなされました。

     (頼朝様の)花押あり
 命令する 讃岐国の御家人等へ
  さっさと橘公業の命令に従って、山陽・九州の西海道の合戦に出かけること
 右の讃岐の国中の武士達、平家に占領されていながら、悩まずに味方にやってくるとの名簿の用紙を(頼朝様は)ご覧を戴きましたら、とても殊勝である。さっさとその橘次公成の指揮に従って、手柄を立てるようにとの証拠書は、このとおりである。
    元暦元年九月十九日
  讃岐国御家人

   書き出して提出します 平家が讃岐の屋嶋に落ち付いているのを見放して来て、源氏の味方に參った京都に居る御家人の名簿の事
  藤大夫資光     同子息新大夫資重  同子息新大夫能資  藤次郎大夫重次
  同舎弟六郎長資   藤新大夫光高    野三郎大夫高包   橘大夫盛資
  三野首領盛資    仲行事貞房     三野九郎有忠    三野首領太郎
  同次郎       大麻藤太家人
 右の人達は、度々の合戰に、源氏の御方に参り来て、京都に居ると聞いている、鎌倉殿(頼朝様に)に見て戴くために、書き進めるのはこの十である
    元暦元年五月日

参考皆讃岐の西半分に所在する。
参考
御家人の安堵状には、關東勢は名簿を直接頼朝に提出し安堵状を受け保管する。関西勢は国毎に名簿を仲裁役に提出して、安堵を受け仲裁役が保管する。この提出役をしたのが源參河守範頼・源九郎義經・土肥次郎實平・梶原平三景時・橘次公業の五人らしい。

元暦元年(1184)九月小廿日丙午。玉井四郎資重濫行事。所被下 院宣也。今日到來于關東。武衛殊依恐申給。則可停止之旨。被仰下云々。
 丹波國一宮出雲社者。蓮花王院御領也。預給能盛法師。年來令知行。何有稱地頭之輩哉。年來又不聞食及。而号彼御下文。玉井四郎資重恣押領。其理可然哉。有限御領不可有異儀事也。早可停止件濫行之由。可宜令下知給之由。 院御氣色候也。仍執逹如件。
      八月卅日                       右兵衛權佐
  謹上  兵衛佐殿

読下し                    たまのいのしろうすけしげ  らんぎょう こと  いんぜん くだされ ところなり  きょう かんとうに とうらい
元暦元年(1184)九月小廿日丙午。玉井四郎資重@が濫行の事、院宣を下被る所也。今日關東于到來す。

ぶえい こと  おそ  もう  たま   よつ   すなは ちょうじすべ  のむね  おお  くだされ    うんぬん
武衛殊に恐れ申し給ふに依て、則ち停止可し之旨、仰せ下被ると云々。

  たんばのくにいちのみやいずもしゃは れんげおういんごりょうなり  よしもりほっしあずか たま   ねんらいちぎょうせし    なん  ぢとう  しょう   のやから あ   や
 丹波國一宮 出雲社A者、蓮花王院御領B也。能盛法師預り給ひC、年來知行令む。何ぞ地頭と稱する之輩有らん哉D

  ねんらいまた き      め    およばず  しか    か  おんくだしぶみ ごう    たまいのしろうすけしげ ほしまま おうりょう  そ   り しか  べけ  や
 年來又、聞こし食すに及不E。而るに彼の御下文と号し、玉井四郎資重 恣に押領す。其の理然る可ん哉F

  かぎ  あ   ごりょう   いぎ あ   べからざ  ことなり
 限り有る御領G、異儀有る不可る事也。

  はやばや くだん らんぎょう ちょうじすべ のよし よろ     げち せし  たま  べ   のよし  いん   みけしき   そうら   なり  よつ  しったつくだん ごと
 早と 件の濫行を停止可し之由、宜しく下知令め給ふ可し之由、院の御氣色Hに候う也。仍て執逹件の如し。

             はちがつさんじうにち                                            うひょうえのごんすけ
      八月卅日I                      右兵衛權佐

    きんじょう   ひょうえのすけどの
  謹上  兵衛佐殿J

参考@玉井四郎資重は、埼玉県熊谷市玉井で最寄の駅は湘南新宿ラインの行き先「籠原駅」。保元の乱にも横山党から出陣している。小説家の火野葦平(ひの・あしへい)は本名を玉井勝則と云い、この玉井の子孫だと言っている。代表作「花と龍」。
参考A丹波國一宮出雲社は、出雲社と言う荘園で、京都府亀岡市千歳町千歳出雲神社。
参考B蓮花王院御領は、京都三十三間堂の領地で、事実上後白河法皇の領地。
参考C能盛法師預り給ひは、北面の武士の能盛が、預所職として現地徴税役だ。荘園の重層的支配でその順は、後白河法皇─蓮華王院─出雲社─預所─名主─作人─小作人─在家とあり、実際に耕作しているのは在家。この朝廷から派遣された預所と武家である地頭とがねんじゅう徴税権利を争っている
参考D何ぞ地頭と稱する之輩有らん哉は、天皇家の領地なので地頭は置いていない。
参考E年來又、聞こし食すに及不は、数年来ずぅーとそんな話は聞いたことがない。
参考F其の理然る可ん哉は、そんなことがあってたまるか。
参考G
限り有る御領は、権限が及ばない土地なので。
参考H院の御氣色は、院のご意向だが、天皇の御気色が天気である。
参考I八月卅日は、年が無いので公文書ではなく、親しみを込めている形式。
参考J謹上 兵衛佐殿は、兵衛佐殿が日付と書き出しが同じ高さなので、特に敬ってはいないが、頼朝の機嫌をとるために 官職の上に「謹上」の文字をつけて日付より上に見せている。

現代語元暦元年(1184)九月小二十日丙午。玉井四郎資重が、力ずくで徴税を横取りしていると、後白河院から文句の手紙が、今日鎌倉に着きました。頼朝様は朝廷に遠慮をされて、すぐにやめるように命令を出されましたとさ。

 丹波国一宮出雲社荘園は、三十三間堂の領地である。能盛法師が後白河法皇から徴税役の預所職をまかされ、ずぅっと治めてきた。それなのになんで地頭と云える者があるわけがない。数年来ずぅーっとそんな話は聞いたことがない。それなのに、鎌倉の下文を持っていると偽って、玉井四郎資重がいいように横取りをしている。そんなことがあってたまるか。鎌倉側の権限の及ばない土地なので、鎌倉へ異議は申し立てられないのだそうだ。さっさと止める様に言いつけて欲しいと、後白河法皇のご意向なので、そのように書きました。
                   八月三十日                      右兵衛権佐
   謹んで申し上げます 兵衛佐頼朝殿

元暦元年(1184)九月小廿八日甲寅。去五日。季弘朝臣被停所帶軄畢之由。自 仙洞。被仰源廷尉〔義經。〕々々又所申其旨也。彼状今日到來鎌倉云々。

読下し                      さんぬ いつか  すえひろあそん しょたい しき  と  られをはんぬのよし せんとう よ
元暦元年(1184)九月小廿八日甲寅。去る五日、季弘朝臣@所帶の軄を停め被畢之由、仙洞自り、

げんていい 〔よしつね〕  おお  られ   ていいまた そ   むね  もう ところなり  か   じょうきょう かまくら  とうらい   うんぬん
源廷尉〔義經〕に仰せ被る。々々又其の旨を申す所也。彼の状今日鎌倉へ到來すと云々。

参考@季弘朝臣は、阿部で陰陽寮の陰陽頭だが、木曾冠者義仲の占い師をしたので、解任された。

現代語元暦元年(1184)九月小二十八日甲寅。先日の九月五日に阿部季弘は陰陽頭を解任されたとの事が、後白河法皇から源九郎義経に通知されました。源九郎義経がそのことを通知してくる手紙が今日鎌倉へ届きました。

十月へ

吾妻鏡入門第三巻

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