吾妻鏡入門第三巻

元暦元年(1184)十月大

元暦元年(1184)十月大六日辛酉。自去夜雨降。午尅属霽。未尅。新造公文所吉書始也。安藝介中原廣元爲別當着座。齋院次官中原親能。主計允藤原行政。足立右馬允藤内遠元。甲斐四郎大中臣秋家。藤判官代邦通等。爲寄人參上。邦通先書吉書。廣元披覽御前。次相摸國中神領佛物等事沙汰之。其後行垸飯。武衛出御。千葉介經營。公私有引出物。上分御馬一疋。下各野釼一柄云々。

読下し                     さんぬ よ よ  あめふる うまのこくはれ ぞく   ひつじのこく しんぞう  くもんじょ  きっしょはじめなり
元暦元年(1184)十月大六日辛酉。去る夜自り雨降。午尅霽に属す@。未尅、新造の公文所の吉書始A也。

あきのすけ なかはらひろもと べっとう な  ちゃくざ  さいいんじかんなかはらちかよし  かぞえのじょうふじわらゆきまさ  あだちのうまのじょうとうないとおもと
安藝介中原廣元B別當と爲し着座す。齋院次官中原親能C・主計允藤原行政D・ 足立右馬允藤内遠元E

かいのしろうおおなかとみあきいえ  とうのほうがんだいくにみちら よりうど  な    さんじょう    くにみちま  きっしょ  か     ひろもとごぜん  ひらん
甲斐四郎大中臣秋家F・藤判官代邦通等、寄人と爲して參上す。邦通先ず吉書を書く。廣元御前に披覽す。

つい  さがみのくにじゅう しんりょうぶつぶつら ことこれ   さた     そ   ご おうばん おこな   ぶえいしゅつご  ちばのすけけいえい
次で、相摸國中の神領佛物等の事之を沙汰す。其の後垸飯を行う。武衛出御。千葉介經營す。

こうし ひきでもの あ    じょうぶん おんうまいっぴき げきゃく  のだちいっぺい うんぬん
公私引出物有り。上分は御馬一疋。下各は野釼一柄と云々。

参考@霽に属すは、前日から晴の場合はリを使い、このは雨の後の晴を表すらしい。
参考A吉書始は、年の初めや將軍交替など改める時に縁起の良い内容を書く、一に神道、二に春耕、三に秋収、四に政治内容。
参考B安藝介中原廣元は、後の大江広元。
参考C中原親能は、大江広元の兄で秦野育ち1178から京都へ行っていた。
参考D藤原行政は、後に永福寺がそばに住んで、二階堂と称する。
参考E足立右馬允藤内遠元は、東京都足立区と埼玉県川口市あたりで、藤内は内舎人(うどねり)だった藤原で、名字になると内藤になる。
参考F大中臣秋家は、六月に暗殺した一條次郎忠頼の家来で舞の名人、6月18日条で許している。

現代語元暦元年(1184)十月大六日辛酉。夕べから雨が降っています。正午頃に晴れてきました。午後二時頃に、新築の公文所で縁起の良い幕府行事を書く吉書始めの式です。安芸介中原広元(大江広元)が長官として着座しました。齋院次官中原親能・主計允藤原行政・足立右馬允藤内遠元・甲斐四郎大中臣秋家・藤判官代邦通等が、副官などとして参り上がりました。大和判官代邦道がまず、吉書を書きます。広元が(頼朝様の)御前にお見せしました。次に相模の国中の神社の領地、お寺への上納物などの事を決定されました。その後、宴会になりました。頼朝様がお出になられ、千葉介常胤が用意し捧げました。千葉介常胤から頼朝様や同座の人々へ引き出物がありました。頼朝様へは馬一頭。同座の人々へは公卿用の飾り太刀一振りでしたとさ。

元暦元年(1184)十月大十二日丁卯。參州於安藝國。行賞於有勳功之輩。是依武衛仰也。其中。當國住人山方介爲綱殊被抽賞。軍忠越人之故也云々。

読下し                      さんしゅうあきのくに  をい   しょうをくんこう あ  のやから おこな     これ  ぶえい  おお   よつ  なり
元暦元年(1184)十月大十二日丁卯。參州安藝國に於て、賞於勳功有る之輩に行う@。是、武衛の仰せに依て也。

そ   なか  とうごくじゅうにん やまがたのすけためつな こと ちゅうしょうさる  ぐんちゅうひと  こ   のゆえなり  うんぬん
其の中、當國住人A山方介爲綱B、 殊に抽賞被る。軍忠人を越ゆる之故也と云々。

参考@賞於勳功有る之輩に行うは、兵糧米の徴収権を与えるためらしい。
参考A當國住人は、この国の土着の豪族だが、未だ御家人になっていない武士。
参考B山方介爲綱は、安芸介で山県郡司。広島県山県郡。

現代語元暦元年(1184)十月大十二日丁卯。源参河守範頼様は、安芸の国で、褒美の表彰式を手柄のある武士達に実施しました。これは、頼朝様の指示によりました。その内で、安芸の国の土豪の山方介為綱は特別に表彰されました。戦争中の手柄がひときわ抜き出ていたからですとさ。

元暦元年(1184)十月大十五日庚午。辰時地震。今日。武衛令歴覽山家紅葉給。若宮別當法眼〔圓曉〕參會。

読下し                       たつのこくじしん  きょう   ぶえい さんが もみじ  れきらん せし たま   わかみやべっとうほうげん 〔えんぎょう〕 さんかい
元暦元年(1184)十月大十五日庚午。辰時地震。今日、武衛山家の紅葉を歴覽@令め給ふ。若宮別當法眼〔圓曉〕參會す。

参考@歴覽は、何箇所かを見て回っている。

現代語元暦元年(1184)十月大十五日庚午。午前八時頃に地震がありました。今日、頼朝様は山々の紅葉を楽しむために歩き回られました。八幡宮長官法眼円暁がお付き合いしました。

元暦元年(1184)十月大廿日乙亥。諸人訴論對决事。相具俊兼。盛時等。且召决之。且令注其詞。可申沙汰之由。被仰大夫属入道善信云々。仍點御亭東面廂二ケ間。爲其所。号問注所。打額云々。

読下し                     しょにんそろんたいけつ  こと  としかね  もりときら    あいぐ   かつう  これ  め   けつ
元暦元年(1184)十月大廿日乙亥。諸人訴論對决@の事。 俊兼・盛時等を相具し、且は之を召し决し。

かつう そ  ことば ちゅう  せし     さた もう   べ   のよし  たいふさかんにゅうどうぜんしん おお られ   うんぬん
且は其の詞を注さ令めA、沙汰申す可し之由、 大夫属入道善信に仰せ被ると云々。

よつ  おんてい ひがしつらひさしにかけん てん    そ  ところ  し    もんちゅうじょ ごう  がく  う      うんぬん
仍て御亭の 東面廂二ケ間を點じ、其の所を爲て、問注所と号す額を打つBと云々。

参考@訴論對决は、裁判の事で、原告が訴人。被告が論人。原告は訴えを起こし、被告はそれに対し論じたり陳じたりを三度まで繰り返した後、裁決される。
参考A注さ令めは、書き出させる。
参考B問注所と号す額を打つ、問注所の設置。1180年に侍所を設置し、先月の9月に公文所を設置している。この問注所設置をもって鎌倉幕府成立説を唱える学者もいる。

現代語元暦元年(1184)十月大二十日乙亥。武士達の領地争いの裁判での訴人(原告)と被訴人(被告)の論理対決の仕組みの事を、筑後権守俊兼と平民部烝盛時を一緒に連れて、一つは呼び出して対決させる事、もう一つはその言い分を文章にするように、決めて皆に告げるように、大夫属入道善信に命じられましたとさ。それなので、御所の東側の庇の下ふたまを仕切ってその場所に決めて、問注所と書いた額を打ち付けましたとさ。

元暦元年(1184)十月大廿四日己卯。因幡守廣元〔九月十八日任〕申云。去月十八日。源廷尉敍留。今月十五日聽院内昇殿云々。其儀駕八葉車。扈從衛府三人。共侍廿人。〔各騎馬〕於庭上舞踏。撥釼笏參殿上云々。

読下し                     いなばのかみひろもと 〔くがつじうはちにち  にん  〕  もう      い
元暦元年(1184)十月大廿四日己卯。因幡守廣元〔九月十八日任ず〕申して云はく。

さんぬ つきじうはちにち げんていいじょりゅう   こんげつじうごにちいんない しょうでん  ゆる     うんぬん
去る月十八日、 源廷尉敍留@す。今月十五日院内の昇殿Aを聽さると云々。

そ  ぎ はちようのくるま  が    こしょう   えふさんにん ともざむらいにじうにん 〔おのおの きば〕
其の儀八葉車Bに駕し、扈從の衛府三人。 共侍廿人〔各騎馬〕。

ていじょう をい  ぶとう     けんじゃく はら    てんじょう  まい   うんぬん

庭上に於て舞踏しC、釼笏を撥ひてD殿上に參ると云々。

参考@敍留は、官職はそのままで位階が上げること。源九郎義經は正六位上から従五位下に上がり、これで朝廷内ではやっと人並みになれた。
参考A院内の昇殿は、後白河院のいる仙洞と後鳥羽天皇のいる大内裏の両方への昇殿が許された。
参考B八葉車は、九曜星と同じ形で真ん中に丸星と周りに八つの丸星が取り囲む。真ん中の丸が大きいのは大八と云って三位以上が乗れる。源九郎義經は小八車だがそれでも公卿の乗るものなので、侍は乗らないはず。でも、後に頼朝も乗る。
参考C舞踏は、初見時に対面に感激し舞を舞うが如く喜びを表現する儀式。座って二度頭を下げ、杓を脇に置いて立ち上がり、体を左右に二度振って、しゃがんで杓を取り、大きく頭を二度下げ、小さく頭を二度下げる。
参考D釼笏を撥ひては、刀を置いて。

現代語元暦元年(1184)十月大二十四日己卯。因幡守広元〔九月十八日に任命されました〕が云いました。先月の十八日に源九郎義経検非違使の尉の官職はそのままで位を従五位下へ昇進を受け、今月十五日に後白河法皇の院へ昇る資格を与えられましたとさ。その昇殿の式には、五位以上の公卿が乗る八葉模様の牛車に乗り、お供には、近衛府の役人が三人、自分の供の侍が二十人「皆馬に乗る」です。殿上の前庭で喜びを表す儀式の舞を舞い、太刀をはずして置いて、建物の上へ上がりましたとさ。

元暦元年(1184)十月大廿七日壬午。淡路國廣田庄者。先日被寄附廣田社之處。梶原平三景時爲追討平氏。當時在彼國之間。郎從等乱入彼庄。妨乃貢歟。仍仲資王被申子細。更非改變儀。且可下知景時之由。今日被遣御報云々。

読下し                      あわじのくにひろたのしょう は せんじつ ひろたしゃ きふ され のところ
元暦元年(1184)十月大廿七日壬午。淡路國廣田庄@者、先日A廣田社Bに寄附被る之處、

かじわらのへいざかげとき へいし ついとう ため  とうじ か   くに  あ   のかん  ろうじゅうら か  しょう  らんにゅう   のうぐ  さまたげ か
梶原平三景時C平氏を追討の爲、當時彼の國に在る之間、郎從等彼の庄に乱入し、乃貢を妨る歟。

よつ  なかすけおう  しさい もうされ    さら  かいへん ぎ  あらず かつう かげとき  げち すべ  のよし  きょう ごほう  つか  さる   うんぬん
仍て仲資王
D子細を申被る。更に改變の儀に非。且は景時に下知可し之由、今日御報を遣は被ると云々。

参考@淡路國廣田庄は、兵庫県南あわじ市広田。
参考A先日は、四月二十八日条
参考B廣田社は、西宮市大社町広田山公園に広田神社あり。
参考C梶原平三景時は、淡路島に占領軍としている。
参考D仲資王は、神祇官の神祇伯。神道を司る。詳しくはウイキペディアの白川伯王家(しらかわはくおうけ)参照。万寿二年(1024)に花山天皇の孫である延信王が臣籍に下り、源姓を賜った後、永承元年(1046)に神祇伯に任ぜられた。白川家はこの延信王に端を発していると言われている。神祇伯は神祇官の長であり、最上位の官職であるとともに、奉幣使としても重要な職務である。その神祇伯の重要性と、源氏という最も高貴な血筋、及び顕広王の室で仲資王の母が大中臣氏である上に、顕康王が有力な村上源氏源顕房の養子となっているという、多くの要素により王姓復命が成立したのである。顕広王の子である仲資王(源仲資)が顕広王の後を継いで神祇伯となり、代々白川家は王を名乗る。

現代語元暦元年(1184)十月大二十七日壬午。淡路国(淡路島)の広田庄は、先日西宮の広田神社に寄付したのに、梶原平三景時が平家討伐のため、現在そこの国に駐留している間に、その荘園へ押し入って年貢を横取りしたので、神道を担当する神祇官の長官の仲資王から抗議がありました。あれから変更をしたことは無いので、一つは梶原平三景時に命令をして、もう一つは、今日返事の手紙を出させましたとさ。

元暦元年(1184)十月大廿八日癸未。石C水別當成C法印申興行兩條。所被申京都也。俊兼奉行之。
 成C法印申
  弥勒寺庄々事
  寳塔院庄々事
 右兩條。任道理。可有御沙汰之由。被仰下候畢。神社之事。殊可被行善政候也。自然被默止不便事候。以此旨可令披露給候。恐惶謹言。
    十月廿八日                        頼朝
  進上 大藏卿〔泰經〕殿

読下し                      いわしみずべっとうじょうせいほういん もう こうぎょう  りょうじょう きょうと  もうされ ところなり  としかねこれ  ぶぎょう
元暦元年(1184)十月大廿八日癸未。石C水別當 成C法印申す興行@の兩條、京都へ申被る所也。俊兼之を奉行す。

    じょうせいほういん もう
 成C法印申す

      みろくじしょうしょう  こと
  弥勒寺庄々の事

      ほうとういんしょうしょう  こと
  寳塔院庄々の事

    みぎ りょうじょう  どうり   まか    ごさた  あ   べし のよし おお くだされそうら をはんぬ じんじゃのこと  こと  ぜんせい おこな れるべくそうろうなり
 右の兩條、道理に任せ、御沙汰有る可之由、仰せ下被候ひ畢。 神社之事、殊に善政を行は被可候也。

    じねん    もくし され   ふびん  こと そうろう  こ  むね  もつ  ひろうせし  たま  べくそうろう  きょうこうきんげん
 自然にA默止被るは不便の事に候。此の旨を以て披露令め給ふ可候。 恐惶謹言。

          じうがつにじうはちにち                                                よりとも
    十月廿八日                        頼朝

      しんじょう おおくらのきょう〔やすつね 〕どの
  進上 大藏卿 〔泰經B殿

参考@興行は、盛んにさせること。
参考A
自然には、やむを得ず。
参考B
泰經は、高階泰經。

現代語元暦元年(1184)十月大二十八日癸未。岩清水八幡宮長官の成清法印が云うところの神社を盛んにするための行事二種類について、京都朝廷へ申し入れました。筑後権守俊兼が担当指揮をしました。

 成清法印が云うには、
  一つ 八幡宮内の弥勒寺の荘園等のこと
  一つは同様に宝塔院の荘園等のこと
 以上二つのことを、本来のとおりに荘園を横取りしたりしないように決定をされ、命令してくださるように。神社については、よく面倒を見てくださるように。(年貢の滞納を仕様が無いと)やむを得ず見過ごしていることは、(神社が)困っていることなので可愛そうでしょう。この内容を法皇様に伝えるように取り計らってください。宜しく!
      十月二十八日                 頼朝から
    お知らせします大蔵卿「泰経」へ

十一月へ

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