吾妻鏡入門第三巻

元暦元年(1184)十一月大

元暦元年(1184)十一月大六日辛卯。於鶴岡八幡宮有神樂。武衛參給。御神樂以後。入御別當坊。依奉請也。別當自京都招請兒童〔号惣持王。〕去比下着。是郢曲逹者也。以之爲媒介。所勸申盃酒也。垂髪吹横笛。梶原平次付之。又唱歌。畠山次郎歌今樣。武衛入興給。及晩令還給云々。

読下し                      つるがおかはちまんぐう をい かぐら あ    ぶえいさん  たま    おかぐら いご   べっとうぼう  にゅうぎょ
元暦元年(1184)十一月大六日辛卯。鶴岡八幡宮に於て神樂有り。武衛參じ給ふ。御神樂以後、別當坊に入御す。

しょう たてまつ よつ  なり  べっとう  きょうと よ  じどう  〔そうじおう   ごう   〕    しょうせい   さぬ  ころげちゃく    これ えいきょく たっしゃなり
請じ奉るに依て也。別當、京都自り兒童〔惣持王と号す〕を招請し、去る比下着す。是、郢曲の逹者也。

これ もつ  ばいかい  な    はいしゅ すす  もう ところなり  すいはつ よこぶえ ふ     かじわらのへいじ これ つ      またしょうか
之を以て媒介と爲し、盃酒を勸め申す所也。垂髪は横笛を吹き、梶原平次之に付きて、又唱歌す。

はたけやまのじろう いまよう  うた  ぶえいきょう い   たま   ばん およ   かえ  せし  たま    うんぬん
畠山次郎 今樣@を歌う。武衛興に入り給ふ。晩に及び還ら令め給ふと云々。

現代語元暦元年(1184)十一月大六日辛卯。鶴岡八幡宮でお神楽の奉納をしました。頼朝様が出席なされました。お神楽が終わってから、八幡宮長官法眼円暁の公舎へいかれました。これは招待されたからです。長官法眼円暁は京都から神様に仕える少年「惣持王と言います」を呼び寄せ、最近到着したのです。この少年は歌いの名人です。この人をお酌の人としてお酒を勧めている所です。髪を結わずに垂らしている少年は横笛を吹いて、梶原平次景高がこれに合わせて歌を歌いました。畠山次郎重忠が現在の流行歌を歌いました。頼朝様はすっかり気に入っておられ、夜になってやっと帰られましたとさ。

参考@今樣は、流行歌で後白河法皇が大好き。

元暦元年(1184)十一月大十二日丁酉。常陸國住人等。爲御家人可存其旨之由。被仰下云々。

読下し                        ひたちのくに じゅうにん ら  ごけにん    な     そ   むね ぞん  べ   のよし   おお   くだされ    うんぬん
元暦元年(1184)十一月大十二日丁酉。常陸國の住人@等、御家人と爲すと其の旨を存ず可し之由、仰せ下被ると云々。

参考@住人は、領地を持っている武士身分を差す。

現代語元暦元年(1184)十一月大十二日丁酉。常陸国の領地持ちの侍は、鎌倉の御家人になっていることを認識しなくてはいけないと、命令を出していただけましたとさ。

参考八月十三日条で、常陸國奥郡の連中が鹿島神社への年貢を納めないので、鹿島神宮領地であることを再度安堵しているので、この続きとして鎌倉幕府の命を聞くように指示している。相手は恐らく常陸大掾氏の分家等と思われる。

元暦元年(1184)十一月大十四日己亥。左衛門尉朝綱。刑部丞成綱已下宛賜所領於西國之輩多之。仍存其旨。面々可被沙汰付之由。武衛今日被遣御書於源廷尉之許云々。

読下し                        さえもんのじょうともつな  ぎょうぶのじょうなりつな いげ しょりょうを さいごく  あ  たま    のやから これおお
元暦元年(1184)十一月大十四日己亥。左衛門尉朝綱@・刑部丞成綱A已下、所領於西國に宛て賜はる之輩、之多し。

よつ  そ  むね  ぞん   めんめん さた   ふせら  べ   のよし  ぶえい きょう   おんしょを げんていいのもと  つか され     うんぬん
仍て其の旨を存じ、面々沙汰し付被る可し之由、武衛今日、御書於源廷尉之許へ遣は被るBと云々。

参考@左衛門尉朝綱は、宇都宮左衛門尉朝綱。
参考A
刑部丞成綱は、小野の三男で「野三刑部丞成綱」で出演。
参考B源廷尉之許へ遣は被るは、関東で決めた事を実施するように義経に言いつけた。義経が管理していたので引き渡すように伝えた。西国領地を貰ったものは切り取り次第である。つまり、実力で年貢を取り上げる。

現代語元暦元年(1184)十一月大十四日己亥。宇都宮左衛門尉朝綱・野三刑部丞成綱を始めとする所領を四国・中国・九州に領地を与えられた武士達が多く居ます。だからそのことを良く理解して、それぞれに手続きをして与えるように、頼朝様は、その命令書を源廷尉義経の所へ遣わしましたとさ。

元暦元年(1184)十一月大廿一日丙午。今朝。武衛有御要。召筑後權守俊兼。々々參進御前。而本自爲事花美者也。只今殊刷行粧。着小袖十餘領。其袖妻重色之。武衛覽之。召俊兼之刀。即進之。自取彼刀。令切俊兼之小袖妻給後。被仰曰。汝冨才翰也。盍存儉約哉。如常胤。實平者。不分C濁之武士也。謂所領者。又不可雙俊兼。而各衣服已下用麤品。不好美麗。故其家有冨有之聞。令扶持數輩郎從。欲勵勳功。汝不知産財之所費。太過分也云々。俊兼無所于述申。垂面敬掘(原文口偏)。武衛向後被仰可停止花美否之由。俊兼申可停止之旨。廣元。邦通折節候傍。皆銷魂云々。

読下し                         けさ   ぶえいごよう あ      ちくごのごんのかみとしかね  め    としかね ごぜん  さんしん
元暦元年(1184)十一月大廿一日丙午。今朝、武衛御要有りて、筑後權守俊兼@を召す。々々御前に參進す。

しか    もとよ    かび   こと  な  ものなり  ただいまこと ぎょうしょう かひつくろ こそでじうよりょう  き     そ   そでつまこれ いろ  かさ
而して本自り花美を事と爲す者也。只今殊に行粧を刷ひ、小袖十餘領を着て、其の袖妻之に色を重ぬ。

ぶえいこれ  み     としかねのかたな め   すなは これ  しん
武衛之を覽て、俊兼之刀を召す。即ち之を進ず。

みづか か  かたな と     としかねのこそで  つま  き   せし  たま   のち  おお  られ  いは   なんじさいかん と  なり  なん けんやく ぞん   や
自ら彼の刀を取り、俊兼之小袖の妻を切ら令め給ふの後、仰せ被て曰く、汝才翰に冨む也。盍ぞ儉約を存ぜぬ哉。

つねたね さねひら ごと  は   せいだく  わかたずのぶし なり  いはん しょりょうはまた  としかね なら べからず
常胤・實平の如き者、C濁を不分之武士A也。謂や所領者又、俊兼に雙ぶ不可。

しか   おのおの いふくいか そひん  もち    びれい このまず
而るに各、衣服已下粗品用い、美麗を不好。

そ   ゆえ  いえふゆうのきこ  あ      すうやから ろうじゅう  ふち せし    くんこう   はげ     ほつ
其の故に家冨有之聞へ有りて、數輩の郎從を扶持令め、勳功を勵まんと欲す。

なんじさんざいのつい  ところ  しらず はなは かぶんなり うんぬん  としかねの  もう  にところな   おもて た  けいくつ
汝産財之費える所を不知。太だ過分也と云々。俊兼述べ申す于所無く、面を垂れ敬掘す。

ぶえいきょうこう かび  ちょうじすべ   いな   のよし  おお  らる    としかねちょうじすべ のむね もう
武衛向後花美を停止可くか否か之由を仰せ被る。俊兼停止可し之旨を申す。

ひろもと  くにみち おりふしかたわら そうら  みなたましい け    うんぬん
廣元・邦通、折節 傍に候う。皆魂を銷すBと云々。

参考@筑後權守俊兼は、藤原俊兼。
参考A
C濁を不分之武士は、綺麗な物を見分け見出す力は無いけれど。
参考B廣元・邦通、折節 傍に候う。皆魂を銷すは、居合わせた大江広元や大和判官代邦道をもビビらしているのは、京下りの文官への「武士の覚悟」の警告が入っている。武士達は命がけで領地を手に入れるが、文官は頭を使うだけで領地をもらえる。武士達は贅沢しない分家来を増やして次の戦の手柄に備えるが文官はその必要が無いので贅沢を出来る。それを武士達が心で批判をしているのに気が付かないと文武の衝突を招くことになりかねない事を頼朝は懸念している。もしかしたら出来合いの一芝居を打ったのかもしれない。

現代語元暦元年(1184)十一月大二十一日丙午。今朝、頼朝様は、考えることがあって、筑後権守俊兼を呼び出しました。俊兼は、御前に座りました。この人は、前々から華やかに贅沢をしている人で、呼ばれた今は特に念入りにお洒落をして、小袖を十四枚も重ねて着て、その袖口を色とりどりに重ねて見せています。頼朝様はこれを見て、俊兼の刀を貸すよう命じられましたので、俊兼は直ぐに前へ差出しました。頼朝様はその刀を自分で抜かれて、俊兼の小袖を手に取りその袖口を切り取ってしまわれた後で、話し諭されました。「お前は事務官として才能に恵まれているのに、なんで倹約を心がけないのだ。千葉介常胤や土肥次郎実平たちは、綺麗な物を見出す力は無い武士ではあるけれども、所領は俊兼とは比較にならない程多く持っているぞ。それなのに彼等は衣服を始め、粗末なものを使い、贅沢をしていないじゃないか。それだから、裕福と云われ、多くの家来を養い、戦時には手柄を立てようと頑張って心がけていられるわけだ。それにひかえ、お前は財産を貯めることをせず、贅沢しているのは、とても身分に過ぎた事をしているんじゃないのか。」とおっしゃられましたとさ。俊兼は、弁解する余地も無くひたすらうつむいて、うなだれていました。頼朝様は、「今後は贅沢を止めるかどうか?」と問いただしました。俊兼は、「もう致しません。」とお詫びをしました。大江広元と大和判官代邦道がちょうどそば居て一緒に聞いて、生きた心地もしなかったとさ。

元暦元年(1184)十一月廿三日戊申。園城寺專當法師下着關東。所持參衆徒牒状也。武衛則召出御前。被令因幡守廣元讀之。其状云。
 園城寺牒  右兵衛佐家〔衙〕
  應被以平家領没官地寄進當寺紹隆當寺佛法事
 右當伽藍者。弥勒慈尊利生之地。智證大師興隆之庭。所學者。中道上乘之教法。所祈者。天長地久之御願。法皇之列門侶。崇吾寺致八挺之靜謐。筌宰之輔朝政。歸此地祈一家之繁昌。誠知。崇我佛法之聖主。寳祚延長。蔑我佛法之人臣。門族滅亡。事見縁起。誰貽疑滯者乎。爰故入道太政大臣〔C盛〕。忽背皇憲。恣犯悪罪。幽閇射山之禪居。配流博陸之重臣。其後又追捕親王宮。兼擬伐頼政卿之間。各逃虎口之難。來此烏瑟之影。衆徒等慈愍禀性。救護在心。隨皇子之令旨。伴源氏之謀略。廻國家鎭護之秘策。專逆臣降伏之懇祈。依之。引率千万騎之軍兵。燒失數百宇之房舎。佛像經論。化煙炎而昇天。學徒行人。溺涕涙而投地。計其夭亡者。行學合五百人。思其離散者。老少惣千餘輩。哀哉三百餘歳之法燈。爲平家永滅。痛哉四十九院之佛閣。爲逆賊忽失。過唐土會昌天子。超我朝守屋大臣。而去七月廿五日。北陸道之武將。且以入洛。六波羅之凶徒永以退散。四海悦之。况於三井乎。一天感之。况於吾寺乎。然而所行之旨。已過先輩。燒落禪定法皇之仙洞。殺害天台兩門之貫首。事絶常篇。例在非常。以誰力命伏之。只仰大菩薩之冥鑒。以何人征伐之。專待侍當將軍之進發。爰貴下出重代勳功之家。爲万民倚頼之器。遂廻思於邊城之間。忽决勝於上郡之内。即於當寺之頭。自獲義仲之首。今各成安堵之思。雖可企止宿之計。末寺庄園。武士之妨不靜。法侶禪徒。歸往之便既闕。讒止讒住。如存如亡。春蕨煙老。一鉢之貯惟空。秋桂嵐踈。三衣之衫易破。法之衰弊。處之陵遲。見者掩面。行者反袖。若無哀憐者。爭企住持乎。然則。平家領之内。没官地之間。雖兩三所。就當寺者。且挑欲消之法燈。且續欲断之佛種。倩考先例。聖徳太子降伏守屋大臣之後。以彼家宅而爲佛寺。以彼田園而寄堂舎。自厥以来。 王法安隱。佛法繁昌。此時尤可追彼例。今代必可守其蹤。又貴下先祖伊豫入道〔頼義〕。蒙承詔命。征伐貞任之刻。先詣園城之仁祠。殊祈新羅之靈社。依其効驗。伏彼夷狄。傳梟首於洛中。施虎威於關東。曩祖已如此。子孫豈不皈乎。以之思之。源家与當寺。因縁和合。風雨感會者歟。然則當寺之興隆。可任當家之扶持。當家之安隱。可依專寺之祈念。仍毎月限七箇日。掘(原文口偏)百口僧綱大法師。修百壇不動供。即注交名。聞達先畢。抑大師記文云。予之法可付属國王大臣。於此法門。王臣若忽緒者。國土衰弊。王法減少。天神捨離。地祗忿怒。内外驚乱。遐邇騒動。相當彼時。王臣恭敬。祈予佛法〔矣〕。忽緒我佛法者。洛中騒乱。皈依此法文者。天下安隱。彼平氏者。破滅當寺。自亡門葉。此源家者。恭敬當寺。宜招榮花。衆徒之丹祈元無貳。三寳之冥助弥有恃。於戯山重江湛。縱隔面於万里之晩雲。朝祈夕念。將通情於兩郷之曉月。志合者胡越爲昆弟。誠哉此言。仍以状。牒到准状。故牒。
   元暦元年十月日                    小寺主法師成賀
 檢校權僧正法印大和尚位〔在判〕              權都維那大法師慶俊
 別當大僧都法印大和尚位                  權都維那大法師仁慶
 上座法橋上人位
 大學頭阿闍梨大法師
 權上座傳燈大法師

読下し                      おんじょうじ せんとう ほっし かんとう  げちゃく   しゅうと  ちょう じょう じさん   ところなり
元暦元年(1184)十一月廿三日戊申。園城寺@專當A法師關東へ下着す。衆徒の牒B状を持參する所也。

ぶえいすなは ごぜん  め   いだ   いなばのかみひろもと これ よませし  られ    そ   じょう  い
武衛則ち御前に召し出し、因幡守廣元に之を讀令め被るC。其の状に云はく。

  おんじょうじ ちょう    うひょうえのすけけ 〔が〕
 園城寺牒す  右兵衛佐家〔衙〕

  まさ  へいけりょうもっかんのち もつ  とうじ   きしん     とうじ  ぶっぽう  しょうりゅうせら こと
 應に平家領没官地を以て當寺に寄進し、當寺の佛法を紹隆被る事

  みぎとうがらん は  みろくじそん りしょうの ち    ちしょうだいし こうりゅうのてい  まな ところは ちゅうどうじょうじょうのきょうほう いの ところは てんちょうちきゅうのごがん
 右當伽藍者、弥勒慈尊利生之地。智證大師D興隆之庭。學ぶ所者、中道上乘之教法。祈る所者、天長地久之御願。

  ほうおうの もんりょ れつ    わがてら  あが   はっせん のせいひつ いた   せんさい のちょうせい たす   こ   ち   き   いっかのはんじょう いの
 法皇之門侶に列し。吾寺を崇めて八挺E之靜謐を致す。筌宰F之朝政を輔け、此の地に歸し一家之繁昌を祈る。

  まこと  し     わがぶっぽう あが   のしょうしゅ  ほうそえんちょう    わがぶっぽう さげす のじんしん  もんぞく  めつぼう   ことえんぎ  み
 誠に知る。我佛法を崇める之聖主、寳祚延長し、我佛法を蔑む 之人臣、門族は滅亡す。事縁起に見ゆ。

  たれ  ぎたい  のこ  もの  や  ここ  こにゅうどうだじょうだいじん 〔きよもり〕  たちま  こうけん そむ  ほしいまま あくざい おか
 誰か疑滯を貽す者と乎。爰に故入道太政大臣〔C盛〕、忽ち皇憲に背き、恣に悪罪を犯す。

  しゃざんのぜんきょ  ゆうへい    はくろく のじゅうしん  はいる
 射山之禪居を幽閇しG、博陸H之重臣を配流す。

  そ   ご また  しんのうのみや ついぶ   かね   よりまさきょう ばつ    ぎ     のかん おのおの ここうの なん のが    こ   うしち の かげ  きた
 其の後又、親王宮を追捕し、兼ては頼政卿を伐んと擬する之間、各 虎口之難を逃れ、此の烏瑟I之影に來る。

  しゅうとら じみんしょう  う     きゅうごこころ  あ     みこ の りょうじ   したが  げんじの ぼうりゃく ともな   こっかちんご の  ひさく   めぐ
 衆徒等慈愍性を禀け、救護心に在り。皇子之令旨に隨ひ、源氏之謀略に伴い、國家鎭護之秘策を廻らす。

  もっぱ ぎゃくしんごうぶくのこんき      これ   よつ   せんまんきのぐんぴょう いんそつ   すうひゃくうの ぼうしゃ  しょうしつ
 專ら逆臣降伏之懇祈をす。之に依て、千万騎之軍兵を引率し、數百宇之房舎を燒失す。

  ぶつぞうきょうろん えんえん か  て てん  のぼ   がくとぎょうにん ているい おぼ て ち   とう
 佛像經論、煙炎と化し而天へ昇る。學徒行人J涕涙に溺れ而地に投ず。

  そ  ようぼう   かぞえ ば  ぎょうがくあわ ごひゃくにん  そ  りさん   おも  ば  ろうしょうすべ せんよやから
 其の夭亡を計れ者、行學合せ五百人。其の離散を思は者、老少惣て千餘輩。

  かなし や  さんびゃくよさいの ほうとう   へいけ  ため  えいめつ   いた     や しじうくいんの ぶっかく   ぎゃくぞく ため  たちま うしな
 哀き哉、三百餘歳之法燈K、平家の爲に永滅す。痛ましき哉四十九院之佛閣L、逆賊の爲に忽ち失う。

  からど かいしょう てんし    す     わがちょう もりやのおとど   こ
 唐土會昌の天子Mにも過ぎ、我朝の守屋大臣Nを超ゆ。

  しか    さんぬ しちがつじじうごにち ほくろくどうのぶしょう 〔よしなか〕
 而して去る七月廿五日、北陸道之武將〔義仲〕

  かつう じゅらく  もつ    ろくはら の きょうと なが たいさん      もつ    しかいこれ  よろこ
 且は入洛を以て、六波羅之凶徒永く退散するを以て、四海之を悦ぶ。

  いはん  みい  をい    や   いってんこれ かん  いはん わがてら  をい    や
 况や三井に於てを乎。一天之を感ず。况や吾寺に於てを乎。

  しかれども しょぎょうのむね すで せんぱい す   ぜんじょうほうおうのせんとう  やきおと   てんだいりょうもんのかんじゅ せつがい
 然而、所行之旨、已に先輩に過ぎ、禪定法皇之仙洞を燒落し、天台兩門之貫首を殺害す。

  ことじょうへん た     れいひじょう  あ    たれ  ちから もつ  これ  めいぶく
 事常篇に絶へ、例非常に在り。誰が力を以て之を命伏せん。

  ただ  だいぼさつのみょうかん  あお   なんびと もつ  これ  せいばつ
 只、大菩薩之冥鑒を仰ぎ、何人を以て之を征伐す。

  もっぱ とうしょうぐんのしんぱつ ま     ここ  きか じゅうだいくんこうのいえ  い    ばんみんきらいの うつわたり
 專ら當將軍之進發を待つ。爰に貴下重代勳功之家に出で、万民倚頼之器爲。

  つい おもいをへんじょうのかん めぐ      たちま しょうを じょうぐんのうち けつ
 遂に思於邊城之間に廻らし、忽ち勝於上郡之内に决す。

  すなは とうじの ほとり  をい   よしなかの くび え   よ  いま  おのおの あんどのおもい  な
 即ち當寺之頭に於て、義仲之首を獲て自り今、各、安堵之思を成す。

  ししゅくのはかり くはだ  べ   いへど   まつじしょうえん ぶしのさまたげ しずまらず  ほうりょぜんと  きおうの びん  すで  か
 止宿之計を企つ可しと雖も、末寺庄園、武士之妨、不靜、法侶禪徒、歸往之便を既に闕く。

  わづか とど  わづか  じゅう   そん     ごと   ぼう      ごと
 讒に止まり讒に住し、存するが如く亡ずるが如し。

  はる わらび けむりおい  いちはちのたくはへむな   あき  けいらんうと   さんえ のころもやぶ やす
 春に蕨の煙老て、一鉢之貯惟空し。秋に桂嵐踈く、三衣O之衫破れ易し。

  ほうのすいへい  ところのりょうち  み  ものおもて おお   ゆ   ものそで   かえ   も   あいりん な   ば  いかで じゅうじ  くはだ  や
 法之衰弊、處之陵遲、見る者面を掩ひ、行く者袖を反す。若し哀憐無くん者、爭か住持を企ん乎。

  しから  すなは へいけりょうのうち  もっかんのちのあいだ りょうさんじょ いへど  とうじ   つかず ば  かつう きえ     ほつ    の ほうとう  かか
 然ば、則ち平家領之内、没官地之間、兩三所と雖も、當寺に就ん者、且は消なんと欲する之法燈を挑げ、

  かつう た       ほつ    のぶっしゅ  つ   つらつら せんれい かんが    しょうとくたいし   もりやのおとど  ごうぶくののち
 且は断へんと欲する之佛種を續ぎ、倩と先例を考るに、聖徳太子、守屋大臣を降伏之後、

  か   かたく   もつて ぶつじ  な     か  でんえん  もつてどうしゃ  き     それよ  いらい   おうほうあんど    ぶっぽうはんじょう
 彼の家宅を以而佛寺と爲し、彼の田園を以而堂舎に寄す。厥自り以来、王法安隱し、佛法繁昌す。

  かく  ときもつと か   れい  お  べ     いま  だいかなら そ  あと  まも  べ
 此の時尤も彼の例を追う可し。今の代必ず其の蹤を守る可し。

  また きか  せんぞ いよのにゅうどう 「よりよし」   ちょくめい こうむ うけたまわ さだとうせいばつのとき  ま  おんじょうのにんし  もう     こと  しんらのれいしゃ  いの
 又貴下の先祖伊豫入道〔頼義〕は詔命を蒙り承り、貞任征伐之刻、先ず園城之仁祠に詣で、殊に新羅之靈社Oを祈る。

  そ   こうけん  よつ    か   いてき  ふく     きょうしゅをらくちゅう つた    こい を かんとう  ほどこ   のうそすで  かく  ごと    しそんあにきせざるや
 其の効驗に依て、彼の夷狄を伏し、梟首於洛中に傳へ、虎威於關東に施す。曩祖已に此の如し。子孫豈不皈乎。

  これ  もつ  これ  おも       げんけと とうじ  いんねんわごう    ふうう  かんかい    ものか
 之を以て之を思うに、源家与當寺、因縁和合し、風雨感會する者歟。

  しから すなは とうじのこうりゅう   とうけ の  ふち   まか   べ    とうけの あんのん  せんじの きねん  よるべ
 然ば則ち當寺之興隆、當家之扶持に任す可し。當家之安隱、專寺之祈念に依可し。

  よつ  まいげつなぬかにち かぎ    ひゃっくそうごうだいほっし  くつ    ひゃくだん ふどうぐ  しゅう   すなは きょうみょう ちゅう  もんだつさき をはんぬ
 仍て毎月七箇日を限り、百口僧綱大法師を掘し、百壇の不動供を修す。即ち交名を注し、聞達先に畢。

  そもそも だいし  きぶん  い        よ の ほう  こくおうだいじん  ふぞくすべ   こ   ほうもん をい      おうしん も こっしょ  ば
 抑、大師の記文に云はく、予之法は國王大臣に付属可し。此の法門に於ては、王臣若し忽緒せ者、

  こくど すいへい   おうほうげんしょう   てんじんす  はな    ちぎ ふんぬ    ないがいきょうらん   かじ そうどう
 國土衰弊し、王法減少す。天神捨て離ち、地祗忿怒す。内外驚乱し、遐邇騒動す。

  か  とき   あいあた    おうしんくぎょう    よ  ぶっぽう  いの    や   わがぶっぽう  こっしょ ば   らくちゅうそうらん
 彼の時に相當り、王臣恭敬し、予が佛法を祈らん矣。我佛法を忽緒せ者、洛中騒乱す。

  こ    ほうもん  きえ   ば   てんかあんのん
 此の法文に皈依せ者、天下安隱す。

  か  へいし は    とうじ   はめつ    みづか もんよう  ほろぼ  こ  げんけは   とうじ    くぎょう    よろ     えいが   まね
 彼の平氏者、當寺を破滅し、自ら門葉を亡す。此の源家者、當寺を恭敬し、宜しく榮花を招く。

  しゅうとの たんき もと   ふたごころな  さんぽうのきょうじょ いよいよたのみあ
 衆徒之丹祈元より貳無し。三寳之冥助、弥 恃有り。

   ああ   やまかさ    こうたた    たと おもてをばんりのばんうん  へだ         あさ  いの  ゆう  ねん
 於戯、山重なり江湛へ、縱ひ面於万里之晩雲に隔つとも、朝に祈り夕に念ず。

  まさ  こころをりょうごうのぎょうげつ つう     こころざし  は   こえつ  こんていた    まこと   やかく  ことば
 將に情於兩郷之曉月に通ぜん。志合は者、胡越も昆弟爲り。誠なる哉此の言。

  よつ  じょう もち    ちょういた   じょう なぞらへ  ゆえ ちょう
 仍て状を以て、牒到らば状に准よ。故に牒す。

       げんりゃくがんねんじうがつ にち                                     しょうじしゅほっしじょうが
   元暦元年十月日                    小寺主法師成賀

  けんぎょうごんのそうじょうほういんだいおしょうい〔ざいはん〕                           ごんのついな だいほっしけいしゅん
 檢校權僧正法印大和尚位〔在判〕              權都維那P大法師慶俊

  べっとうだいそうづほういんだいおしょうい                                      ごんのついなだいほっそじんけい
 別當大僧都法印大和尚位                  權都維那大法師仁慶

  じょうざほっきょうしょうにんい
 上座法橋上人位

  だいがくのかみあじゃりだいほっし
 大學頭阿闍梨大法師

  ごんのじょうざ でんとうだいほっし
 權上座R傳燈大法師

参考@園城寺は、通称三井寺。天智天皇・天武天皇・持統天皇の三人が産湯を使った井戸から「三井」と呼ぶ。
参考A專當は、あることに専門にあたる人。この場合は三井寺の渉外担当坊主。
参考B
は、同格への手紙。参考に上から下へは符、下から上へは解(げ)。
参考C之を讀令め被るは、会議の席上で音読をする。この場合の手紙は折紙である。折紙とは、紙を横長に持ち下半分を向うへ折り、半分の大きさにする。折り山は下に来る。それの名残が、手紙を出す時に、用件が一枚の紙で終わる時は白紙(礼紙)を一枚添えるのである。この折紙が江戸時代には鑑定書になるので「折紙つきの○○」となるのである。
参考D智證大師は、円珍で、その孫弟子あたりから解釈の違いで円珍派は分裂し、園城寺となる。
参考E八挺は、宇宙をさす。
参考F筌宰は、偉いお役人さん。この場合摂関家をさす。
参考G
射山之禪居を幽閇しは、C盛が後白河法皇を鳥羽殿へ幽閉した。射山は、上皇の御所をいう「藐姑射(はこや)の山」の略「射山」を音読した語。上皇・法皇の異名で後白河を指す。
参考H博陸は、関白の唐名。博陸之重臣を配流すは、松殿基房を備前に流罪にした。
参考I烏瑟は、烏瑟膩沙(うしちにしや)で仏の三十二相の一。仏・菩薩の頂上に骨肉が隆起してもとどりのような形に見えるもの。肉髻(につけい)。烏瑟之影に來るは、三井寺に逃げ込んできた。
参考J學徒行人は、学徒は学侶で学のある坊主。行人は下っ端の坊主。
参考K三百餘歳之法燈は、859〜877の頃に智証大師円珍和尚が、園城寺を天台別院として中興されたので、1184-859=325話が合う。
参考L四十九院之佛閣とは、三井寺は三谷・四十九院・五別所・二十五坊と謂われる
参考M唐土會昌の天子は、正法眼藏行持第十六 上 に武宗は會昌の天子なり。佛法を癈せし人なり。とある。
参考N我朝の守屋大臣は、物部守屋で聖徳太子の時代に仏教反対論者だった。
参考O三衣は、〔「さんね」とも〕僧尼の着る僧伽梨(そうぎやり)(大衣・九条衣)・鬱多羅僧(うつたらそう)(上衣・七条衣)・安陀会(あんだえ)(中衣・五条衣)の三種の衣。袈裟(けさ)三衣一鉢は、三衣と一個の鉄鉢。僧が行脚・托鉢(たくはつ)に携えるもの。
参考O新羅之靈社は、園城寺新羅善神堂で、大津市園城寺町長等地区の園城寺所有、室町時代建立(国宝)の園城寺北院の森の中に、南面して建つ。園城寺の中興開山智証大師円珍が唐より帰朝の途次、船中で護法を誓った新羅明神を祀る。明治の神仏分離によって現在の名称となった。三間社流造の神社本殿の建築で、桁行三間・梁間二間の内陣は、正面中央を板扉とする以外はすべて漆喰壁とし、その前に一間の外陣がつく。外陣の正面・側面の欄間には、牡丹唐草と鳳凰の透彫がほどこされている。寺伝によれば、貞和3年(1347)足利尊氏により再建されたという。
参考P都維那(ついな)は、寺院内の事務をつかさどる僧職。上座・寺主とあわせて三綱(さんごう)という。
参考R上座は、10年以上修行を積んだ僧。教団の長老。

現代語元暦元年(1184)十一月二十三日戊申。園城寺三井寺の渉外担当坊主が関東へ到着しました。武者僧達の申し入れ文書を持って来たのです。頼朝様は直ぐに、御前に呼び出されて、大江広元にこれを読ませました。その内容は、

園城寺から申します  右兵衛佐家(頼朝様の)〔衙〕(事務所へ)

 今すぐに、平家から取上げた領地をこの寺へ寄付をして、この寺の運営を盛んにすること

右の内容は、このお寺は、弥勒慈尊利生之地。智證大師(円珍)が興した仏教の庭で、学ぶ事は、仏教の中心をなす大乗仏教の教え。

祈る事は、天皇家は長く庶民は久しく続くようにと願っている。法皇は当門への入門者として我が寺を崇め、宇宙を平和に静めるように祈っております。摂関家の政治を助けて、政治の反映が日本の全国に帰ってきて皆繁盛するように祈ります。

良く理解してください。私どもの仏法を信奉する徳の高い君主は、天皇の位が延長し、私達の仏法を蔑む者は、一族が滅亡します。それは、寺の由来記などに書かれています。それを誰が疑うものでしょうか。ところが、無くなった入道太政大臣「C盛」は、権力を持つと天皇家の政治を邪魔して、好きなように横暴に振舞まいました。

後白河法皇を鳥羽殿へ幽閉したり、関白松殿基房を備前に流罪にした。其の後又、以仁王を捕らえようと追いかけ、ついでに入道源三位頼政を滅ぼそうとした時に、それぞれ危うい危険から逃げて、この三井寺に逃げ込んできました。武者僧達が優しい心を持ち合わせていたので、これを助けたいと思い、以仁王の命令に従って、源三位頼政の策略を支持して国を守る天台密教のまじないをし、熱心に敵の平家が降伏するように祈りました。

これが原因で、何千もの大勢の騎馬武者を連れて攻めてきて、何百もある寺の建物を焼いてしまいました。仏像も、お経も全て燃えて煙となって空へ上がっていってしまいました。勉学中の坊主(学生がくしょう)も、下っ端で世話係の坊主(大衆だいしゅ)も、上下の区別無く泣き泣き地面にひれ伏してしまいました。その事件で死んだ者を数えてみると、大衆と学生上下合せて五百人。寺を追われて離散したものは、老若合わせて千人以上にもなります。

なんと悲しいことでしょう。三百余年も続いた祈りの永遠の灯も平家のために消されてしまいました。もったいなくも三谷・四十九院・五別所・二十五坊の仏閣も、逆賊平家のために、あっという間に失くしてしまいました。古代中国の會昌の天子武宗よりもひどく、我国の物部守屋大臣(聖徳太子時代の仏教反対論者)をも超えている。そして先日の七月二十五日に北陸道から木曾冠者義仲が京都へ攻め込んできて、六波羅の平家を永遠に追い出したので、世界中が喜びました。勿論三井寺でもそうです。天皇さえ喜んでいるのですから、内の寺においても当然のことです。

それなのに彼の行動は、先輩の平家以上に悪く、後白河法皇の仙洞を襲撃して燃やし、天台宗の比叡山と三井寺の長官を殺しました。この事は通常が無くなり、とんでもないことです。誰が腕ずくでこれを抑えられましょうか。ひたすら大菩薩のお力に頼んで、誰に征伐をお願いしましょうか。ひたすら貴將軍の出発を待ちましょう。貴方は先祖代々の武家の頭領の出身で、皆が期待している大物です。とうとう心を京都へ運び、あっという間に勝って軍勢を京都周辺に進め、すぐに三井寺の前で、木曾冠者義仲の首を得てから現在まで、それぞれほっとしております。

泊めて上げられるように計らいましたけれども、三井寺の末寺も荘園も、武士達が乱入横取りをして乱れています。坊さんも修行僧も三井寺へ戻ってくる道に不便をしています。多少は留まり、多少は住んでいますが、生きているようでもあり、滅びてしまったようでもあります。春に蕨を焚く煙もとだえ、一つの鉢の貯えもありません。秋の景色を楽しむ隙も無く、僧の衣も破れそうです。つまり托鉢をして歩くしかないのか。規律は衰退して、寺は荒廃して、見る人は見ない不利をして行き過ぎます。もしも、面倒を見てくれなければ、どうやって寺を守っていけるであろうか。

そういう事なので、直ぐにでも、平家から取上げた領地のうちで、二つでも三つでも良いから、我が寺に寄付してくれれば、消えてしまいそうな仏法の命脈を保ち、、途絶えてしまいそうな代々の教えを繋ぎます。昔からの例を考えてみると、仏教奨励の聖徳太子が仏教反対の物部守屋を滅ぼしたときに、彼の家の土地を寺にして、彼の領地を寺へ寄付をしました。それから天皇家は落ち着き、仏法は流行りました。今回もその例に倣うべきです。現在の頭領もそのやりかたを守るべきです。又、貴方の先祖の伊予守入道頼義は、天皇の命令を受けて、安部貞任を征伐のとき、園城寺内の寺の園城寺新羅善神堂に拝みました。その霊力のおかげで、安部貞任等を負かし、首を晒した事を京都へ報告し、武力権威を関東に広めました。ご先祖様もこの通りなので、何で子孫が同じにしないものでしょうか。いやします。これ等の例を考えてみれば、源氏と我が寺の縁は深く、風と雨のように一緒です。

そう云う訳なので、我が寺の栄えは、源氏の支えによります。源氏の安泰は、源氏専用の寺の祈りによります。それなので、毎月七日間は、百人の僧侶が仏壇に跪き、百回のお不動様を祈りましょう。すぐに名簿を書き出して、お知らせしてあります。そもそも智證大師の書き残した文書に、世間の政治規則は国王や大臣が行うものである。仏教については、国王や大臣が、もしもおろそかにすると、国土は疲弊して、王の権力も減少する。天の神様には見捨てられ、血の神様はお怒りになる。国の内も外も混乱して、遠くも近くも大騒ぎになる。そんな時こそ、王も家来も慎み敬い、私の仏法を祈るべきである。我が仏法をおろそかにすると、京都の都中が騒動になる。この仏法に帰依すれば、天下は治まります。

あの平氏は、園城寺を破壊したので自分から一族を滅ぼします。この源氏は、我が寺を慎み敬うので、良く栄華をものにします。武者僧達の熱心な祈りは、元々、野心はありません。仏法僧のご利益は、とても頼みになります。あぁ、山は重なって連なり、川は水があふれ渡れず、その影響で私の目を巨大な夜の雲が遮ったとしても、朝は祈り、夕には願い、本当にその思いを園城寺と鎌倉の二つの里から同時に見えるの曉の月のように同じです。気持ちが通じれば、胡と越ほど離れていても兄弟のようなものです。本当です子の言葉は。それなので手紙を出しましたので、宜しく頼みます。

  元暦元年十月日                    小寺主法師成賀
 検校権僧正法印大和尚位〔花押有り〕            権都維那大法師慶俊
 別当(長官)大僧都法印大和尚位                  権都維那大法師仁慶
 上座法橋上人位
 大学頭阿闍梨大法師
 権上座伝燈大法師

元暦元年(1184)十一月廿六日辛亥。武衛爲草創伽藍鎌倉中之求勝地給。當于營東南。有一靈崛。仍被企梵宇營作於彼所。是報謝父徳之素願也。但大嘗會御禊已後。可有地曳始之由。被定之處。去月廿五日。被遂其議。〔大夫判官義經供奉云々。〕之間。今日有犯土。因幡守。筑後權守等奉行之。武衛監臨給云々。

読下し                      ぶえい がらん  そうそう  ため  かまくらじゅうのしょうち  もと  たま
元暦元年(1184)十一月廿六日辛亥。武衛伽藍を草創の爲、鎌倉中之勝地を求め給ふ。

えい  とうなんにあた    ひとつ れいくつあ    よつ  ぼんう  えいさくを か  ところ くわだ  らる   これ  ふとく   ほうしゃのそがんなり
營の東南于當り、一の靈崛有り。仍て梵宇の營作於彼の所へ企て被る。是、父徳へ報謝之素願也。

ただ    だいじょうえ   ごけい いご     ぢびきはじめあ  べ  のよし  さだ  らる のところ
但し、大嘗會
@の御禊已後に、地曳始有る可し之由、定め被る之處、

さんぬ つきにじうごにち そ  ぎ  〔だいぶほうががんよしつね ぐぶ     うんぬん〕   と   らる  のかん  きょう ぼんど  あ
去る月廿五日、其の議〔大夫判官義經が供奉すと云々〕を遂げ被る之間、今日犯土
A有り。

いなばのかみ ちくごごんのかみら これ ぶぎょう   ぶえいかんりん たま    うんぬん
因幡守、筑後權守等之を奉行す。武衛監臨し給ふと云々。

参考@大嘗會は、天皇の即位後最初の新嘗祭(しんじょうさい)。一代一度の祭事。京都朝廷で行われ在京の源九郎義經が出席している。
参考A犯土は、土を掘る場合、土の神様と契約の儀式をする。現在の地鎮祭にあたる。

現代語元暦元年(1184)十一月二十六日辛亥。頼朝様は、お寺を建立するために、鎌倉中の景勝の地を求めて探し回りました。幕府事務所の東南の方向に一つの神聖な聳え立つ場所がありました。それなので、仏閣の建立をその場所に決められました。これは、亡き父への菩提を弔いたいとの願いのためです。但し、京都の新天皇の大嘗祭が終わってから、縄張りを始めるように決められたところ、先日の二十五日にその儀式「源九郎義経がお供をしたんだとさ」は終ったとの事なので、今日鍬入れ式を行いました。大江広元と筑後権守俊兼が担当指令をして、頼朝様は監督していましたとさ。

十二月へ

吾妻鏡入門第三巻

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