吾妻鏡入門第三巻

元暦元年(1184)十二月小

元暦元年(1184)十二月小一日丙辰。武衛召園城寺使者。賜御下文二通。所令寄附兩村於一寺伽藍給也。其状云。
 奉寄 三井寺御領事
  在若狹國玉置領壹處
 右件所。依爲平家没官之領。自 院所給預也。而今爲崇當寺佛法。所令寄進也。但於下司軄者。從鎌倉所沙汰付也。不可有相違之状如件。
    元暦元年十一月廿八日                    前右兵衛佐源朝臣
 奉寄 寺領貳箇所事
 右爲平家之逆徒。及寺院之破壞。自爾以降。未知住侶之有無。不達蓄懷之案内。期上洛之時。暫送日之處。牒状忽到來。旨趣尤甚深也。仍寺領二箇所〔近江國横山。若狹國玉置領〕相副寄文。所令寄進也。爲無事之妨。撰便宜之村也。但世間落居者。此上重可計沙汰之由。存思給也。仍勒状如件。
   十二月一日                     前兵衛佐

読下し                      ぶえい おんじょうじ ししゃ   め      おんくだしぶみにつう たま
元暦元年(1184)十二月小一日丙辰。武衛園城寺の使者を召し、御下文二通を賜はる。

りょうそんを いちじ  がらん   きふ せし  たま ところなり  そ  じょう  い
兩村於一寺の伽藍に寄附令め給ふ所也。其の状に云はく。

   よ  たてまつ   みいでら ごりょうのこと
 寄せ奉る 三井寺御領事

     わかさのくにたまきりょう  あ   いっしょ
  若狹國玉置@領に在る壹處

  みぎ  くだん ところ へいけもっかんのりょう  な    よつ    いんよ   たま   あず   ところなり
 右、件の所、平家没官之領と爲すに依て、院自り給はり預かる所也。

  しか    いま とうじ  ぶっぽう  あが    ため  きしんせいし ところなり  ただ  げすしき   をい  は   かまくらより さた  つ    ところなり
 而るに今當寺の佛法を崇めん爲、寄進令む所也。但し下司軄Aに於て者、鎌倉從沙汰し付くる所也。

  そうい あ  べからずのじょうくだん ごと
 相違有る不可之状件の如し。

        げんりゃくがんねんじういちがつにじうはちにち                                     さきのうひょうへのすけみなもとのあそん
    元暦元年十一月廿八日                    前右兵衛佐源朝臣

   よ  たてまつ  じりょうにかしょ   こと
 寄せ奉る 寺領貳箇所の事

  みぎ  へいけの ぎゃくと  ため  じいんの はかい  およ    これよ   いこう  いま  じゅうりょの うむ   し        かいきゅうのあない たっせず
 右、平家之逆徒の爲、寺院之破壞に及ぶ。爾自り以降、未だ住侶之有無を知らず、蓄懷之案内を不達。

   じょうらくのとき  ご      しばら ひ  おく  のところ  ちょうじょうたちま とうらい  ししゅもっと  じんしんなり
 上洛之時を期しB、暫く日を送る之處、牒状忽ち到來す。旨趣尤も甚深也。

  よつ  じりょう にかしょ 〔 おうみのくによこやま  わかさのくにたまき りょう 〕 よせぶみ あいそ    きしんせし   ところなり
 仍て寺領二箇所〔近江國横山C・若狹國玉置領〕寄文を相副へ、寄進令める所也。

  ことの さまた  な      ため  びんぎの むら  えら  なり
 事之妨げD無からん爲、便宜之村を撰ぶ也。

  ただ  せけん  らっきょ  ば   こ   うえかさ   はから  さた すべ  のよし  ぞん  おも  たま  なり  よつ  じょう ろく     くだん ごと
 但し世間の落居せ者、此の上重ねて計ひ沙汰可し之由、存じ思ひ給ふ也。仍て状を勒すこと件の如し。

       じうにがつついたち                                           さきのひょうえのすけ
   十二月一日                     前兵衛佐

参考@玉置は、福井県三方上中郡若狭町玉置。前の遠敷郡(おにゅうぐん)上中町玉置(たまき)。
参考A下司職は、本所や領家の代理人として現地で徴税する人で、地頭と競合したり、地頭に取って代わられたり、地頭に変身したりもする。この場合は、本所が頼朝で領家が三井寺となる。
参考B上洛之時を期しは、自分が上洛した時にでも考えようと思っていたら。
参考C横山は、滋賀県東近江市横山町。元蒲生郡(がもうぐん)蒲生町横山。
参考D事之妨げは、「自力救済」といって、支配者になっても旧来の住民がすなおに徴税に従うとは限らないので自力で圧迫し年貢を徴収しなくてはならない事。今回はそういう恐れの無い所を選んだつもり。

現代語元暦元年(1184)十二月小一日丙辰。頼朝様は、園城寺から来た使いのものを呼び寄せて、命令書二通を与えました。二つの村を園城寺に寄付されるためです。内容は、

 寄付いたします 三井寺の領地の事
  若狭国玉置内の一箇所
 右は、その場所は平家から没収した領地なので、後白河院から与えられ管理している場所です。そこで三井寺の仏教を崇拝するために寄付いたします。但し、現地の徴税係は、鎌倉から命令して置きます。間違いの無いようにこの通り文書にします。
    元暦元年十一月廿八日                    前右兵衛佐源朝臣
 寄付いたします 三井寺の領地二箇所の事
 右は、平家の反乱者のために、寺を破壊され、それから後は、未だに住職をいるのかいないのか分からない状態で、どうなっているか知りませんでした。京都へ上がったついでにと思っていましたが、いつの間にか日が過ぎてきたら、そちらから催促の手紙がやってきました。云ってる事は最もです。それなので寺の領地として二箇所「近江国横山若狭国玉置領」寄進状を一緒に、寄付いたします。現所有者との揉め事が無いように、以前三井寺管理だった村を選びました。但し、世間が落ち着いたら、もっと追加することを考えますので、楽しみにしていてください。そこで文章にしておくことはこの通りです。
   十二月一日                     前兵衛佐

参考前の文書に年号があり、後の文書に年号が無いのは、前が公文書で後は私文書的に親しみを込めている。

元暦元年(1184)十二月小二日丁巳。武衛被遣御馬一疋〔葦毛〕於佐々木三郎盛綱。々々爲追討平家。當時在西海。而折節無乘馬之由。依令言上。態立雜色。被送遣之云々。

読下し                      ぶえい おんうまいっぴき 〔 あしげ 〕 を  ささきのさぶろうもりつな  つか  され
元暦元年(1184)十二月小二日丁巳。武衛御馬一疋〔葦毛@於佐々木三郎盛綱に遣は被る。

もりつな へいけついとう ため  とうじ さいかい あ
々々平家追討の爲、當時西海に在り。

しか    おりふしじょうば な  のよし  ごんjこうせし   よつ   わざわざぞうしき  た       これ  おく  つか さる    うんぬん
而るに折節乘馬無き之由、言上令むに依て、態 雜色を立てて、之を送り遣は被ると云々。

参考@葦毛は、は、体の一部や全体に白い毛が混生し、年齢とともにしだいに白くなる。はじめは栗毛や鹿毛にみえることが多い。原毛色の残り方から赤芦毛・連銭芦毛など種々ある。

現代語元暦元年(1184)十二月小二日丁巳。頼朝様は、馬を一頭(葦毛)を佐々木三郎盛綱に送りました。盛綱は、平家を討伐するために今は中国地方におります。それなのにたまたま乗馬がないと言ってきたので、わざわざ下っ端の使いに命じて、この馬を送っていかせましたとさ。

元暦元年(1184)十二月小三日戊午。園城寺專當皈洛。而北條殿殊令歸依當寺給之間。相副慇懃御書。被申彼寺事於源廷尉。其詞曰。
 園城寺之衆徒。殊勒牒状。被申于鎌倉殿事候歟之間。平家領一兩所。別以所令寄進御候也。此次第。尤嚴重思食候之故也。而自彼衆徒之御中。令觸申給事候者。殊入御心。御沙汰可有候者也。更御疎略不可候者歟。且又依御氣色。所令申上候也。凡可申上候事等雖多之候。忩々候之間。不能心事候。恐々謹言。
      十二月三日                       平
    進上  判官殿

読下し                      おんじょうじ  せんとう きらく
元暦元年(1184)十二月小三日戊午。園城寺の專當皈洛す。

しか    ほうじょうどのこと とうじ    きえ せし  たま  のかん  いんぎん おんしょ  あいそ    か   てら  ことを げんていい    もうさる    そ  ことば いは
而るに北條殿殊に當寺に歸依令め給ふ之間、慇懃の御書を相副へ、彼の寺の事於源廷尉@に申被る。其の詞に曰く。

  おんじょうじのしゅうと   こと  ちょうじょう ろく    かまくらどのにもうさる  ことそうろうかのかん へいけりょういちりょうしょ べつ   もつ   きしんせし  たま  ところ そうろうなり
 園城寺之衆徒、殊に牒状を勒し、鎌倉殿于申被る事候歟之間、平家領一兩所、別して以てA寄進令め御う所に候也。

  かく  しだい  もつと げんじゅう おぼ  め  そうろうのゆえなり
 此の次第、尤も嚴重に思し食しB候之故也。

  しか     か  しょううとのおんちゅうよ    ふ  もう  せし  たま  ことそうらはば こと おんこころ い     ごさた  あるべ そうろうものなり
 而るに彼の衆徒之御中自り、觸れ申さ令め給ふ事候者、殊に御心を入れ、御沙汰有可く候者也。

  さら   ごそりゃく   べからずそうろうものか かつう また  みけしき   よつ    もう  あ   せし  そうろうところなり
 更に御疎略にす不可候者歟。且は又、御氣色に依て、申し上げ令め候所也。

  およ  もう  あ   べ   そうら ことら これおお そうろう いへど  そうそう そうろうのかん   しんじ  あたはず そうろう きょうきょうきんげん
 凡そ申し上ぐ可く候う事等之多く候と雖も、忩々に候之間C、心事に不能D候。 恐々謹言。

             じうにがつみっか                                               たいら
      十二月三日                       平

        しんじょう   ほうがんどの
    進上  判官殿

参考@源廷尉は、義経が京都守護をしている。
参考A別して以ては、特別に用意をして。
考B尤も嚴重に思し食しは、とても大切に思う。
参考C忩々に候之間は、急いでいるので。
参考D心事に不能は、他にも云いたいことはあるけれども。

現代語元暦元年(1184)十二月小三日戊午。園城寺の使いが帰ります。そこで北条時政殿は、特に三井寺に信仰しているので、丁寧な手紙を渡して、この寺への今回の待遇を源九郎義経様に伝えました。その書いてある内容は、

 園城寺の武者僧達が、わざわざ願い事を書いて鎌倉殿に言ってきたので、元平家の領地二箇所を特別に用意をして寄付されました。このことを大切なことだとご理解なされたからです。そこで、もしその武者僧達に何か命令するようなことがあれば、この事を良く認識されて、お気遣い願いたいものです。うっかりいい加減にすることの無いように。又、頼朝様の機嫌を損ねることの無いように、お伝えしておきますよ。色々と伝えたいことは沢山ありますけれど、急いでいるので、わざわざ気を煩わさせる程ではありません。宜しくね。
       十二月三日                         平
    お進めします検非違使様

元暦元年(1184)十二月小七日壬戌。平氏左馬頭行盛朝臣。引率五百餘騎軍兵。搆城郭於備前國兒嶋之間。佐々木三郎盛綱爲武衛御使。爲責落之雖行向。更難凌波涛之間。濱潟案轡之處。行盛朝臣頻招之。仍盛綱勵武意。不能尋乘船。乍乘馬渡藤戸海路〔三丁余〕所相具之郎從六騎也。所謂志賀九郎。熊谷四郎。高山三郎。与野太郎。橘三。同五等也。遂令着向岸。追落行盛云々。

読下し                      へいし さまのかみゆきもりあそん  ごひゃくよき   ぐんぴょう  いんそつ じょうかくをびぜんのくにこじま  かま    のかん
元暦元年(1184)十二月小七日壬戌。平氏左馬頭行盛朝臣@、五百餘騎の軍兵を引率し城郭於備前國兒嶋Aに搆へる之間、

ささきのさぶろうもりつな ぶえい おんつかい な     これ  せ  おと    ため  ゆ   むか   いへど   さら  はとう  しの   がた  のかん
佐々木三郎盛綱武衛の御使と爲し、之を責め落さん爲に行き向うと雖も、更に波涛を凌ぎ難きB之間、

はま  かた くつわ やすん   のところ  ゆきもりあそんしきり これ  まね
濱の潟に轡を案ずる
C之處、行盛朝臣頻に之を招く。

よつ  もりつな ぶい  はげま  じょうせん たず あたはず  うま  の   なが  ふじと   かいろ  〔さんちょうよ〕   わた     あいぐ  ところのろうじゅうろっきなり
仍て盛綱武意を勵し、乘船を尋ね不能、馬に乘り乍ら藤戸の海路〔三丁余〕Dを渡る。相具す所之郎從六騎也。

いはゆる  しがのくろう   くまがいのしろう  たかやまのさぶろう よののたろう  きつざ  おなじきごろうらなり つい むこうぎし つ   せし    ゆきもり  お  おと    うんぬん
所謂、志賀九郎・熊谷四郎・高山三郎・ 与野太郎・橘三・同五等也。遂に向岸へ着か令め、行盛を追い落すと云々。

参考@平氏左馬頭行盛は、清盛の孫。清盛─基盛─行盛。備前児島(現在の児島半島)の篝地蔵(かがりじぞう、倉敷市粒江)に城郭を構えた。
参考
A備前國兒嶋は、倉敷市藤戸町藤戸57藤戸寺北側のもりつな橋(藤戸大橋の一本下流)の東側歩道に佐々木三郎盛綱の像がある。
参考B波涛を凌ぎは、波の間を潜り抜けて。
参考C轡を案ずるは、どうしようかと考えている。
参考D藤戸の海路は、江戸時代に埋めたてられて田圃になっている。現在の倉敷市有城付近から倉敷市粒江へ渡ったらしい。

現代語元暦元年(1184)十二月小七日壬戌。平氏の左馬頭行盛は、五百騎以上の軍勢を引き連れて、砦を備前国児島湾に備えているので、佐々木三郎盛綱は頼朝様の代官として、攻め落とすために進んでいきましたが、海に遮られているので、砂浜の上で行きあぐね、どうしようかと考えていると、行盛が手を振って攻めて来いと挑発をします。それなので、佐々木三郎盛綱は戦闘意欲を掻き揚げられ、船が見当たりませんので、馬に乗ったまま藤戸の瀬「300m」を渡りました。一緒にお供をしたのは六騎です。それは、志賀九郎・熊谷四郎・高山三郎・与野太郎・橘三・同五達です。とうとう向こう岸へたどり着き、行盛を攻め滅ぼしましたとさ。

元暦元年(1184)十二月小十六日辛未。吉備津宮々仕。今日參着鎌倉。供僧行實所捧解状也。其趣。本宮長日法華經免田。并二季彼岸佛聖田等依西海合戰事没倒。爲關東御沙汰。如元可被奉寄之由也。武衛相尋子細。可成敗之由。相副御消息於件解状。被遣實平之許云々。實平當時在備前國云々。

読下し                        きびつのみや  みやじ   きょう かまくら  さんちゃく   ぐそう ぎょうじつ げじょう   ささ   ところなり
元暦元年(1184)十二月小十六日辛未。吉備津宮@々仕A、今日鎌倉へ參着す。供僧B行實解状Cを捧げる所也。

そ おもむき  ほんぐうちょうじつ ほけきょう  めんでん なら  にき   ひがん   ぶっしょうでん ら  さいかいがっせん こと  よつ  もっとう
其の趣、本宮長日の法華經の免田
D并びに二季の彼岸Eの佛聖田F等、西海合戰の事に依て没倒Gす。

かんとう  おんさた   な     もと  ごと よせたてまつられ べ のよしなり
關東の御沙汰と爲し、元の如く寄奉被る可し之由也。

ぶえい しさい  あいたず   せいばしすべ のよし  ごしょうそこをくだん  げじょう  あいそ     さねひら のもと  つか  さる    うんぬん
武衛子細を相尋ね、成敗可し之由、御消息於件の解状に相副へH、實平I之許へ遣は被ると云々。

さねひらとうじ  びぜんのくに あ    うんぬん
實平當時J備前國に在りと云々。

参考@吉備津宮は、岡山県岡山市の吉備津神社。
参考A宮仕は、神社へ仕えている人。
参考B供僧は、神仏混交で神社の坊主。
参考C解状は、当時下から上への文書を出すことを解、同格へは牒、上から下へは符と云った。
参考D長日の法華經の免田は、毎日朝から晩まで続けて法華經を唱えるために、万雑公事(まんぞうくじ労働等の雑税)を免除されている田。
参考E二季彼岸は、春分と秋分のお彼岸。
参考F佛聖田は、灯明をあげるための代金として年貢を納める田。
参考G没倒は、占領されて取り上げられた。同意語に顛倒てんとうがある。
参考H御消息於件の解状に相副へは、当時は紙が高価だったので、解状内容は上の中ほどに書かれて、前(袖)後(奥)が空いており、袖に命令、奥に成敗が書かれ、袖に頼朝の花押が書き込まれたものと思われる。室町時代になると紙が容易に手に入るようになり、糊で貼り足して譲り状となるので、どんどん張り足され長くなっていき、人の手から手へ渡るので手紙と言われたそうだ。
参考I實平は、土肥次郎實平で備前を代官として管領していると思われる。
参考J當時は、今現在。

現代語元暦元年(1184)十二月小十六日辛未。吉備津神社の神主が、今日鎌倉へ到着しました。供の坊さんが申出書を出しました。その内容は、神社での長日(毎日朝から晩まで続けて)の法華経の(を唱えるため)免田(万雑公事(まんぞうくじ)と云う労働等の雑税を免除されている田)と春分と秋分のお彼岸の仏聖田(灯明をあげるための代金として年貢を納める田)等が、中国地方の源平合戦のどさくさで横取りされています。鎌倉殿の命令を出して、元通りに寄付してくれるようにとの事でした。頼朝様は、詳しく聞いて取り計らうように、手紙をその申出書に添えて、土肥次郎実平へ送らせましたとさ。土肥次郎実平は現在備前国におりますとさ。

元暦元年(1184)十二月小廿日乙亥。今日。源廷尉請文自京都參着。是西國賜所領之輩事。任仰之旨。沙汰付之由云々。

読下し                       きよう    げんていい   うけぶみ   きょうとよ  さんちゃく
元暦元年(1184)十二月小廿日乙亥。今日、源廷尉@が請文A、京都自り參着す。

これ  さいごく  しょりょう たま    のやから こと  おお  のむね  まか     さた  つ       のよし   うんぬん
是、西國に所領を賜はる之輩が事、仰せ之旨に任せ、沙汰し付けるB之由と云々。

参考@源廷尉は、義経が京都守護をしている。
参考A請文は、依頼に対する返事。
参考B
沙汰し付けるは、知行地などを与える行為を執行しぎょうと云う。

現代語元暦元年(1184)十二月小二十日乙亥。今日、源九郎義経の返事が京都から来ました。これは、中国九州地方の所領を与えられた御家人の連中に対し、頼朝様の言いつけの通りに、処理しますとの事でした。

元暦元年(1184)十二月小廿四日己卯。於公文所。被置雜仕女三人。爲因幡守沙汰。今日定其輩云々。

読下し                         くもんじょ  をい    ぞうしめ  さんにん  おかる
元暦元年(1184)十二月小廿四日己卯。公文所に於て、雜仕女@三人を置被るA

いなばのかみ さた たり   きょう そ  やから さだ      うんぬん
因幡守の沙汰爲。今日其の輩を定めると云々。

参考@雜仕女は、雑事をする女中さん。
参考A
三人を置被るは、候補者が三人以上いて、三人に絞ったものと思われる。(識字能力を問われたか?)

現代語元暦元年(1184)十二月小二十四日己卯。公文所(幕府事務所)に、雑用の女性三人を置くことにしました。大江広元の部下として、今日その人たちを選考しましたとさ。

元暦元年(1184)十二月小廿五日庚辰。鹿嶋社神主中臣親廣。親盛等。依召參上。今日參營中。賜金銀祿物。剩當社御寄進之地。永停止地頭非法。一向可令神主管僚之旨。被仰含。是日來捧御願書。抽丹祈給之處。去春之比。現嚴重神變御之後。義仲朝臣伏誅。平内府又出一谷城郭敗北。赴四國訖。弥依催御信心。今及此儀云々。

読下し                        かしましゃ  かんぬし なかとみのちかひろ ちかもりら
元暦元年(1184)十二月小廿五日庚辰。鹿嶋社@神主 中臣親廣、 親盛等、

めし よつ  さんじょう   きょう えいちゅう さん    きんぎんろくぶつ たま
召に依て參上し、今日營中へ參じ、金銀祿物を賜はる。

あまつさ とうしゃ ごきしんのち   なが  ぢとう  ひほう   ちょうじ     いっこう  かんぬし かんりょうせし  べ  のむね   おお ふく  らる
剩へ當社御寄進之地、永く地頭の非法を停止し、一向に神主が管僚令む
A可し之旨、仰せ含め被る。

これ  ひごろ ごがんしょ  ささ    たんき   ぬき    たま  のところ
是、日來御願書を捧げ、丹祈を抽んじ給ふ之處。

さんぬ はるのころ げんじゅう しんぺんげん たま ののち  よしなかあそんちう  ふく    へいないふ また いちのたにじょうかく い はいぼく    しこく  おもむ をはんぬ
去る春之比、嚴重の神變現じ御う之後、義仲朝臣誅に伏し、平内府B又、一谷城郭を出で敗北し、四國へ赴き訖。

いよいよ ごしんじん もよお  よつ    いまかく  ぎ   およ    うんぬん
弥、御信心を催すに依て、今此の儀に及ぶと云々。

参考@鹿嶋社は、茨城県鹿嶋市宮中2306の鹿島神宮。常陸一の宮。
参考A一向に神主が管僚令むは、鎌倉からは地頭を置かないか、又は神社側が置く。
参考B平内府は、宗盛。

現代語元暦元年(1184)十二月小二十五日庚辰。鹿島神社の神主の中臣親広・親盛達が呼ばれて鎌倉へ来て、今日幕府の中へ来て、金銀などの贈り物を与えられました。しかも鹿島神社へ寄付した領地は、永遠に地頭の横領を止め、一切を神主が管理するように命じました。それは、普段から祈願の書を捧げて、それを熱心に神主達が拝んでいましたら、前の春に、厳しい神様のご利益が現れた後で、木曽義仲が討たれました。平家の宗盛も又、一の谷合戦で敗北して、四国へ逃走しました。それで、ますますご信心の気持ちが高まってきたので、この儀式をなされたとの事です。

元暦元年(1184)十二月小廿六日辛巳。佐々木三郎盛綱自馬渡備前國兒嶋追伐左馬頭平行盛朝臣事。今日以御書。蒙御感之仰。其詞曰。
 自昔雖有渡河水之類。未聞以馬凌海浪之例。盛綱振舞。希代勝事也云々。

読下し                        ささきのさぶろうもりつな うま よ  びぜんのくにこじま わた   さまのかみたいらのゆきもり あそん ついばつ こと
元暦元年(1184)十二月小廿六日辛巳。佐々木三郎盛綱馬自り備前國兒嶋@へ渡し、左馬頭平行盛A朝臣を追伐の事。

きよう おんしょ  もつ    ぎょかんのおお   こうむ    そ   ことば  いは
今日御書を以て、御感之仰せを蒙るB。其の詞に曰く。

  むかしよ  かすい  わた のたぐい あ   いへど   いま  うま  もつ  かいろう  しの  のれい  き       もりつな  ふるまい きだい  しょうじなり  うんぬん
 昔自り河水を渡す之類有りと雖も、未だ馬を以て海浪を凌ぐ之例を聞かず。盛綱が振舞、希代の勝事也と云々。

参考@備前國兒嶋は、倉敷市藤戸町藤戸57藤戸寺北側のもりつな橋(藤戸大橋の一本下流)の東側歩道に佐々木三郎盛綱の像がある。
参考A左馬頭平行盛は、清盛の孫。清盛─基盛─行盛。備前児島(現在の児島半島)の篝地蔵(かがりじぞう、倉敷市粒江)に城郭を構えた。
参考B御感之仰せを蒙るは、感状発布。いわば勲章のようなもので、名誉だが実質が伴わない。

現代語元暦元年(1184)十二月小二十六日辛巳。佐々木三郎盛綱、馬で備前国児島湾を渡って、左馬頭平行盛さんを追討した事を、今日書状を出して、お褒めの言葉を伝えました。その内容は、

昔から馬で川を渡るのはあるけれども、馬で海を渡った例は聞いたことがない。佐々木三郎盛綱のやった事は、まれに見る素晴らしい良い出来事だとの事です。

元暦元年(1184)十二月小廿九日甲申。常陸國鹿嶋社司宮介良景所領事。且准地主全富名。且任御物忌千富名例。可停止万難事之由被仰云々。

読下し                         ひたちのくに かしましゃじぐうのすけよしかげ しょりょう  こと
元暦元年(1184)十二月小廿九日甲申。常陸國、 鹿嶋社司宮介良景が所領の事。

かつう ぢぬしぜんとみみょう じゅん  かつう おんものいみせんとみみょう れい まか   まんぞうじ   ちょうじ すべ  のよし  おお  れる    うんぬん
且は地主 全富名に准じ、且は御物忌 千富名の例に任せ、万難事@を停止A可し之由、仰せ被ると云々。

参考@万難事は、万雑公事(まんぞうくじ)で、国司や郡司が勝手に労働力としての納税を強いる。よろず雑多な公の仕事。例は「いもがゆ」で領主が芋を要求すると翌日までに芋が山と集まった。
参考A
万難事を停止は、雑用の労働税を免除するで、年貢は別である。

現代語元暦元年(1184)十二月小二十九日甲申。常陸国鹿島神社の神社担当次官の良景の領地のことだが、地主の全富名主や神迎えの儀式担当の千富名主達と同様に雑税を免除するようにとの事でした。

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