吾妻鏡入門第四巻元暦二年(1185)正月大「八月十四日文治元年と爲す」

元暦二年(1185)正月大一日乙酉。卯剋。武衛〔御水干〕御參鶴岳宮。被奉神馬二疋〔黒・鹿毛〕。山上太郎高光、小林次郎重弘等引之。次法花經供養。導師別當法眼円曉也。供養之後、被引御布施〔裹物二〕。右馬助以廣取之。

読下し                     うのこく  ぶえい〔ごすいかん〕つるがおかぐう  ぎょさん  しんめ にひき〔 くろ かげ 〕  たてま らる
元暦二年(1185)正月大一日乙酉。卯剋。武衛〔御水干〕鶴岳宮へ御參。神馬@二疋〔黒・鹿毛〕を奉つ被る。

やまがみのたろうたかみつ こばやしのじろうしげひろ ら これ  ひ   つい  ほけきょう くよう  どうし  べっとうほうげんえんぎょうなり
山上太郎高光A、小林次郎重弘B等之を引く。次で法花經供養。導師は別當法眼円曉也。

くよう ののち  おんふせ  〔つつみもの に〕   ひかるる    うまのすけもちひと これ  と
供養之後、御布施〔裹物C二〕を引被る。右馬助以廣之を取る。

参考@神馬は、神社の神像門の裏に馬を立てている。
参考A
山上太郎高光は、上野國山上保で、群馬県桐生市新里町山上、旧新里村山上。
参考B小林次郎重弘は、上野國小林郷で藤岡市小林。
参考C
裹物は、風呂敷で包んだ物。

現代語元暦二年(1185)正月大一日乙酉。午前六時頃、頼朝様〔水干袴〕鶴岡八幡宮へお参りです。馬二頭〔黒と鹿毛〕を奉納しました。山上太郎高光と小林次郎重弘がこれを引きました。ついで、法華経を上げました。指導僧は筆頭の法眼円暁です。供養が終わってお布施を出しました〔風呂敷包み二つ〕。橘右馬助以広が手渡しました。

元暦二年(1185)正月大六日庚寅。爲追討平家在西海之東士等、無船粮絶而、失合戰術之由、有其聞之間、日來有沙汰。用意船可送兵粮米之旨、所被仰付東國也。以其趣、欲被仰遣西海之處、參河守範頼〔去年九月二日出京赴西海〕去年十一月十四日飛脚、今日參着。兵粮闕乏間。軍士等不一揆。各戀本國、過半者欲迯歸云々。其外鎭西條被申之。又被所望乘馬云々。就此申状、聊雖散御不審。猶被下遣雜色定遠、信方、宗光等。但定遠、信方者在京。自京都可相具之旨。被仰含于宗光。々々帶委細御書。是於鎭西可有沙汰條々也。其状云。

読下し                     さいかい  あ   へいけ  ついとう    ための とうしら  ふね りょうた な  て   かっせん  すべ  うしな のよし
元暦二年(1185)正月大六日庚寅。西海に在る平家を追討せんが爲之東士等、船、粮絶へ無く而、合戰の術を失う之由、

そ  きこ  あるのあいだ  ひごろ さた  あ   ふね  ようい ひょうろうまい おく  べ  のむね  とうごく  おお  つ  らる ところなり
其の聞へ有之間、日來沙汰有り。船を用意し兵粮米を送る可し之旨、東國へ仰せ付け被る所也。

そ おもむき もっ   さいかい  おお  つか  され    ほっ   のところ
其の趣を以て、西海へ仰せ遣は被んと欲する之處、

みかわのかみのりより 〔きょねん くがつ ふつかきょう  い   さいかい おもむ〕  きょねんじゅういちがつじゅうよっか ひきゃく きょうさんちゃく
參河守範頼〔去年九月二日京を出で西海へ赴く〕、去年十一月十四日の飛脚、今日參着す。

ひょうろうけつぼう あいだ  ぐんしら  いっきせず  おのおの ほんごく こ   かはんは のが  かえ  ほっ  うんぬん
兵粮闕乏の間、軍士等一揆不@、 各、本國を戀い、過半者迯れ歸らんと欲すAと云々。

 そ  ほかちんぜい じょうじょう これ  もうさる   また じょうば  しょもう さる   うんぬん
其の外鎭西が條々B、之を申被る。又、乘馬を所望C被ると云々。

かく もうしじょう つ   いささ ごふしん  ちら  いへど   なお  ぞうしき さだとお のぶかた むねみつら  くだ  つか  さる    ただ  さだとお  のぶかたは ざいきょう
此の申状に就き、聊か御不審を散すDと雖も、猶、雜色E定遠、信方、宗光等を下し遣は被る。但し定遠、信方者在京す。

きょうと よ  あいぐ  べ  のむね  むねみつに おお  ふく  らる    むねみつ いさい おんしょ  たい    これ  ちんぜい  をい   さた あ  べ   じょうじょうなり
京都自り相具す可し之旨、宗光于仰せ含め被る。々々委細の御書を帶す。是、鎭西に於てF沙汰有る可しの條々也。

そ じょう  い
其の状に云はく。

参考@不一揆は、団結をしない。
参考A過半者迯れ歸らんと欲すは、範頼が抑えきれない。
参考B條々は、箇条書きにしてある。
参考C乘馬を所望は、持って行った二頭の馬はどうしたのだろう。
参考D
御不審を散すは、疑問が振り払われた。
参考E雜色は、武士身分ではないので領地を持たないので名字が無い。
参考F
是、鎭西に於ては、蒲冠者範頼が代官として九州でやるべきこと。
参考この頃に、頼朝は後白河法皇と交渉して瀬戸内海に幾つかの荘園を指定して、一年間だけ収穫を兵糧として取り上げられるよう兵糧料所を得た。

現代語元暦二年(1185)正月大六日庚寅。瀬戸内海に居る平家を攻め滅ぼすための関東の武士達は、船も兵粮も無くなって合戦をする術が無くなっていると、噂が聞こえて来ていますので、最近検討をしました。船を用意して兵粮米を送るように、関東へ命令をしたところです。
その内容を、瀬戸内海へ知らせようとしていたところ、弟参河守範頼〔去年九月二日京都を出発して瀬戸内へ行きました〕去年十一月十四日の伝令が今日到着しました。
兵粮が不足しているので、武士達が団結しないで、それぞれ地元が恋しくて、殆どの人は帰りたがっているんだとさ。その他に九州の状況を箇条書きにして報告してきてます。また、乗馬を欲しいとも云って来てるそうな。
その、云って来ていることに、多少疑問が振り払われましたけれど、なお、雑用の宗遠・信方・宗光を関西へ行かせます。但し、定遠・信方は京都に居るので、京都から連れてい行くようにと、宗光に言い含めました。宗光は詳しい書類を持っています。これは九州方面での行動すべき内容を箇条書きにしています。その手紙に書いてるのは、

 十一月十四日御文。正月六日到來。今日自是脚力を立とし候つる程に。此脚力到來。仰遣たるむね委承候畢。筑紫の事。なとか從はさらんとこそ。おもふ事にて候へ。物騒しからすして。能々閑に沙汰し給へし。かまへてく 國の者共ににくまれすしておはすへし。馬ノ事。誠にさるへき事にてはあれとも。平家は常に京城うかゝふ事にてあれは。もしをのつから道にて被押取なとしたらん事は。聞にも見苦しき事にてあらんすれは。つかはさぬ也。又内藤六が周防のとをいしをさまたけ候なる。以外事也。當時は國の者の心を破らぬ樣なる事こそ。吉事にてあらんすれ。又八嶋に御座す大やけ。并に二位殿女房たちなと。少もあやまちあしさまなる事なくて。向へ取申させ給へし。かくとたにも披露せらるは。二位殿なとは。大やけくしまいらせて。向さまにおはする事も有らん。大方は帝王の御事。いまに始ぬ事なれとも。木曾はやまの宮。鳥羽の四宮討奉せて。冥加つきて失にき。平家又三條高倉宮討奉せて。か樣にうせんとする事也。されは能々したゝめて。敵をもらさすして。閑に可被沙汰也。内府は極て億病におはする人なれは。自害なとはよもせらるし。生取に取て京へくして上へし。さて世のすゑにも言傳てあらは。いま少吉事也。返々此大やけの御事おほつかなき事也。いかにもく して。事なきやうにさたせさせ給へし。大勢共にも。此由をよくく 仰含らる候へし。穴賢く 。さては。侍共に構々心〃ならすして有へきよし。能〃被仰へし。搆〃て。筑紫の者ともににくまれぬやうに。ふるまはせ給へし。坂東の勢をはむ祢として。筑紫の者共をもて。八嶋をは責させて不忩やうに。閑に沙汰候へし。敵はよはくなりたりと。人の申さむに付て。敵あなつらせ給事。返〃有へからす。搆〃敵をもらさぬ支度をして。能〃したゝめて。事を切せ給へし。猶〃返〃。大やけの御事。ことなきやうに沙汰せさせ給へき也。二月十日之比には。一定船をは上ンする也。さては佐々木三郎。筑紫へは下さかりたるによて。下して備前の兒嶋をは責落たる也。搆〃て。いかにも物騒しからすして。閑に軍しおほすへし。侍共の事。是により。かれによりなとして。さゝやき事なとして。人に見うとまれ給へからす。又路〃の間。なくなりたるなと。京より方〃にうたへ申せとも。さほとの大勢の軍粮料にて上らさりしかは。爭かはさなくて有へきとおもふなり。坂東にも其後別事もなし。少も騒事候はす。委は此雜色に仰含候ぬ。恐〃。
 千葉介ことに軍にも高名し候けり。大事にせらる候へし。
       正月六日
    蒲殿

  じゅういちがつじゅうよっか おんふみ しょうがつむいか とうらい   きょう  これよ きゃくりき  たてん  そうらい  ほど   かく きゃくりきとうらい
 十一月十四日の御文。正月六日に到來す。今日、是自り脚力@を立とし候つる程に、此の脚力到來す。

  おお  つか         くわし  うけたまわ そうらいをはんぬ つくし  こと などか  したが   ざらん      思う こと そうら
 仰せ遣したるむね委しく承り候畢A。 筑紫Bの事なとか從はさらんとこそC。おもふ事にて候へD

  ものさわが    ず     よくよくしず     さた   たまうべ     構えて  構えて くに  ものども  憎まれ   ず
 物騒しからすしてE。能々閑かにF沙汰し給へし。かまへてゝ國の者共ににくまれすしてGおはすへし。

  うま  こと  まこと     べ  こと         あれども   へいけ  つね  けいじょう 伺う  こと   あれば
 馬ノ事。誠にさるへき事にてはあれともH、平家は常に京城うかゝふ事にてあれはI

  もし  自ずから    おうしゅされ など         こと   きく   みぐる   こと      ずれば   遣わさぬ なり
 もしをのつから道にて押取被なとしたらん事はJ、聞にも見苦しき事にてあらんすれはK。つかはさぬ也L

参考@脚力は、飛脚の事。
参考A
委しく承り候畢は、良く分かりました。
参考B筑紫は、奈良時代には筑前・筑後・豊前・豊後の四カ国を指したが、この時点では漠然と九州を指している。
参考Cなとか從はさらんとこそは、従わないわけではない。
参考Dおもふ事にて候へは、もっと自信を持って思ったとおりにしろ。
参考E
物騒しからすしては、じたばたと騒がないで。
参考F
能々閑かには、落ち着いて。
参考G
國の者共ににくまれすしては、現地の人達に憎まれないように、乱暴狼藉略奪暴行を抑えて。
参考Hさるへき事にてはあれともは、そうするべきではあろうけれども。
参考I平家は常に京城うかゝふ事にてあれはは、平家は常に京都へ戻ろうと思って情報収集をしているだろうから。
参考Jもしをのつから道にて被押取なとしたらん事は、源氏の棟梁が戦場の大将に馬を送って、横取りでもされたら。
参考K聞にも見苦しき事にてあらんすれはは、人に伝わりゃみっともないことなので。
参考Lつかはさぬ也は、送らないよ。

  またないとうろく  すおう  遠石   妨げ   そうらい     もっ   ほか  ことなり
 又内藤六が周防のとをいしMをさまたけN候なる、以ての外の事也。

  とうじ  くに  もの  こころ  やぶ   よう   こと    きちじ
 當時は國の者の心を破らぬ樣Oなる事こそ、吉事にてあらんすれ。

  また やしま   をは  おおやけ(公) ならび  にいどの にょぼう   など   すこしも  過ち     悪しざま   こと    むこう とりもう   たま
 又八嶋に御座す大やけP、并に二位殿Q女房たちなと、少もあやまち、あしさまなる事なくて、向へ取申させ給へしR

  かくとだにも   ひろう           にいどの 等   公   具し  参らせ    向い様に      こと  あ
 かくとたにも披露せらるはS、二位殿なとは、大やけくしまいらせて向さまにおはする事も有らん。

  おおかた  ていおう  おんこと  今  はじま こと        きそ   山  みや  とば  しのみや うちたてまつら    みょうが    うしない
 大方は帝王の御事、いまに始ぬ事なれとも、木曾はやまの宮、鳥羽の四宮討奉せて、冥加つきて失にき

  へいけ また さんじょうたかくらのみやう ちたてまつら    かように失    ことなり
 平家又、 三條高倉宮 討奉せて、か樣にうせんとする事也。

参考Mとをいしは、遠石庄で徳山市遠石。
参考N
さまたけは、横領する。
参考O國の者の心を破らぬ樣は、地元の日と怒らせないように。
参考P
大やけは、公で安徳天皇。
参考Q二位殿は、平相國禪閤〔C盛〕の妻平時子。
参考R取申させ給へしは、生け捕りにする。京都には後鳥羽天皇がおられるけれでも、三種の神器がないので譲位させなくてはならない。
参考Sかくとたにも披露せらるは、発表すれば。
参考
向さまにおはする事は、
彼岸の彼方へ行ってしまう
参考㉒やまの宮は、比叡山の円恵法親王。
参考㉓
鳥羽の四宮は、後白河の子供の恒恵法親王。
参考㉔冥加つきて失にきは、天皇家の人を殺したので滅びた。
参考㉕三條高倉宮討奉せては、以仁王を討ったから。

  されば  よくよく 認めて   てき  漏らさず    しず   さた さる べ   なり
 されは能々したゝめて。敵をもらさすして。閑かに沙汰被可き也。

  ないふ  きはめ おくびょう          ひと      じがい 等                  いけどり  とり きょう  具   あがる べし
 内府は極て億病におはする人なれは、自害なとはよもせらるし、生取に取て京へくして上へし。

      よ    末   ことづ   あらば    今 すこ  きちじ なり  かえすがえす かくの 公  おんこと         ことなり
 さて世のすゑにも言傳てあらは、いま少し吉事也。返々も此大やけの御事おほつかなき事也。

   いかにも  いかにも して  こと 無き 様に       たまふ べし    おおぜいども    このよし  よくよく  おおせふく  そうらい べし
 いかにもゝして、事なきやうにさたせさせ給へし。大勢共にも、此由をよくゝ仰含らる候へし。

  あなかしこあなかしこ      さむらいども  かまへかまへて こころこころ ならず   あるべき   よくよく  おお  らる  べし
 穴賢 ゝ。さては、侍共に 構ゝて心ゝならすして有へきよし。能々仰せ被るへし。

参考㉖能々したゝめては、良く考えて。
参考㉗
閑かに沙汰被可きは、じっくりと計略を立てて。
参考㉘事なきやうには、間違いの無いように。
参考㉙構へ々へては、団結をして。

  かまえかまえ つくし    ものども    憎まれ              振るまわせ   たまふべし
 搆々て、筑紫の者ともににくまれぬやうに、ふるまはせ給へし。

  ばんどう いきおいをば 旨として      つくし   ものども  もって  屋島 おば せめ      いそがさぬように    しず    さたそうらうべし
 坂東の勢をはむ祢として、筑紫の者共をもて、八嶋をは責させて不忩やうに。閑かに沙汰候へし。

  てき   弱く                ひと  もう      つけ   てきあなどらせ    たまふこと  かえすがえすあるべからず
 敵はよはくなりたりと、人の申さむに付て。敵あなつらせ給事。返〃有へからす。

  かまえかまえ てき 洩らさぬ  したく          よくよく したためて     こと  きら  たまふべし
 搆〃て敵をもらさぬ支度をして、能〃したゝめて。事を切せ給へし。

  なおなお かえすがえす 公の   おんこと   事無き          さた       たまふべきなり   にがつとおかのころ      いちじょうふね  ば のぼんずるなり
 猶〃返〃も、大やけの御事。ことなきやうに沙汰せさせ給へき也。二月十日之比には、一定船をは上ンする也。

          ささきのさぶろう  つくし     くだ              よって  くだ    びぜん  こじまをば   せめおとしたるなり
 さては佐々木三郎。筑紫へは下さかりたるによて、下して備前の兒嶋をは責落たる也。

  かまえかまえ          ものさわがしからずして    しずか ぐんじ おぼすべし     さむらいども こと  これ         彼       等
 搆〃て、いかにも物騒しからすして。閑に軍しおほすへし。侍共の事。是により、かれによりなとして、

          こと 等         ひと  み 疎まれ   たまうべからず
 さゝやき事なとして、人に見うとまれ給へからす。

  またみちみち あいだ 無く          など   きょう    かたがた  訴え   もうせども     さほど   おおぜい  ぐんりょうりょう   のぼらざりしかば
 又路〃の間、なくなりたるなと、京より方〃にうたへ申せとも、さほとの大勢の軍粮料にて上らさりしかは、

  いかで             あるべき    思う也      ばんどう    そのご べつじ        すこし さわぐことそうらはず くはしく このぞうしき おおせふくめそうらひ きょうこう
 爭かはさなくて有へきとおもふなり。坂東にも其後別事もなし。少も騒事候はす。委は 此雜色に仰含候ぬ。恐〃。

  ちばのすけ 殊に  いくさ   こうみょう そうらひ    だいじ        そうらうべし
 千葉介ことに軍にも高名し候けり。大事にせらる候へし。

               しょうがつむいか
       正月六日

         かばどの
    蒲殿

現代語十一月十四日の手紙が、正月六日に到着した。今日こちらから飛脚を出そうと思っていたら、この手紙の飛脚が着いた。

伝言したことは詳しく承知しましたよ。九州の連中は従わないわけではないと思うので、もっと自信を持って思ったように行動してください。じたばたと騒がないで、せいぜい落ち着いて対処してください。良く検討をして現地の人達に憎まれないようにしてください。

馬の事だけど、確かにそうするべきではあろうけれども、平家は常に京都へ戻ろうと思って情報収集をしているだろうから、源氏の棟梁が戦場の大将に馬を送って、若し横取りでもされて、人に伝わりゃみっともないことなので送らないよ。

又、内藤六(藤性足利盛家)が周防の遠石庄を横領した事は、以外な事である。
現在は地元の人達を怒らせないようにする事こそ、良い事なのですよ。

又、屋島にいらっしゃる安徳天皇やに二位殿時子や女房たち等に、多少でも過ちやなどや、悪い扱いをすることの無いようにお迎えして、生け捕りにさせていただきなさい。その予定を発表すれば、二位殿時子などは、安徳天皇をお連れなされて、彼岸の彼方へ行ってしまうかも知れません。
大方は帝王への配慮は、今に始まった事でないが、木曾は比叡山の円恵法親王と鳥羽の四宮恒恵法親王を討ち奉ったので、運が尽きて滅びました。
平家は又、三條高倉宮以仁王を討ち奉ったので、このように滅びるようなことになりました。そういうことなので、良く考えて、敵を洩らさないようにじっくりと計略を立てて、命令を出しなさい。

内府平宗盛は、とても億病な人なので、自害などはやりはしないだろう。生け捕りにして京都へ連れて上りなさい。その事が世間の隅々まで伝われば、多少は気が晴れることだろう。考えれば考えるほど安徳天皇が心配事です。どのようにしても、何か事の無いようにうまくやりなさい。大勢の武士たちにも、このことを良く言い含めるようにしなさい。くれぐれも宜しく。そこで、侍たちには良く良く団結をさせるように、詳しく教えなさい。

心を整えて、九州の人達に憎まれたれしないように、振舞いなさい。関東武者の誇りを持って、九州の人達に屋島の攻撃を急がせたりしないで、静かに命令を出しなさい。もう敵は弱くなってしまったと人はいっても、敵を侮るようなことは、絶対にあってはいけない。良く考えて、敵を打ち漏らすことの無いように、よくよく検討をして、事を決定しなさい。なお、念には念を入れて、天皇の事は、何事も無いように計らいなさい。二月十日頃には、ある程度船を上洛させられると思う。

話は違うが、佐々木三郎盛綱が、九州へ下っていったので、命令して備前の児島を攻め落とさせました。

良く落ち着いて考えて、じたばたしないで、静かに軍隊を使うように心得なさい。侍たちには、あれだこれだと細かい指図をして、鬱陶しがられたりしないようにしなさい。また、軍旅の間は、食料などが足りなくなっても、京都朝廷を使ってあちこちに催促をしたところで、それだけ大勢の軍隊用食料を要求しても、殆ど無理だと思うからじたばたしなさんな。関東でも、時に変わったことはないので、騒ぐようなことはありません。詳しいことは使いの雜色に言い含めてありますよ。宜しく。千葉介常胤は、特に大切な人なので、大事にしてください。
        正月六日
     蒲殿

 國の者なと。おのつから落まうてくる事あらは。もてなして。よにく 糸惜せさせ給ふへし。豊後の船たにもあらは。やす(安)き事也。四國をは船少〃あらは。自是もせめよと云也。東國の船は。二月十日のころに。國を立て上する也。猶〃も筑紫の事。よくく したゝめて。物さはかしからす。こと(事)なきやうに沙汰せらる候へし。又侍共のさ樣に心〃にてあんなる。返〃以外也。實に其條さそあるらん。又方〃より。われか事をは。訴あひたれとも。人のとかくいはんに。全よるへからす。誠に能たにもふるまはれは。それそよき事又人云すとも所せん(所詮)なくおはせんするそ。以外の事にて有へき。又小山の者共。いつれをも殊に糸惜しくし給へし。穴賢〃〃。自是行たる者は。われを思はゝ。當時所知所領をしらす候とも。さやうの論をすへき樣なし。件のさまたけ。止させ給ふへく候。當時は搆〃て。國の者をすかしてよき樣にはからはせ給へ。筑紫の者にて。四國をは責させ給へく候。此使は。雜色宗光。定遠。信方。三人遣也。信方。定遠は。京にあるを下也。宗光そ國より上する。委事は宗光かもちたる文に申たるなり。よろつ能〃計沙汰すへし。穴賢〃〃。
       正月六日
     參河守殿 御返事

  くに  もの 等      自ずから   おちもうてくる     こと  あらば                良に 良に いとをしくさせ たまうべし
 國の者なと、おのつから落まうてくる事あらは@、もてなして、よに〃糸惜せさせ給ふへし。

  ぶんご   ふねだにも   あらば     安    ことなり    しこく をば ふねしょうしょうあらば   これよ    攻め     いうなり
 豊後の船たにもあらはA、やすき事也B。四國をは船少〃あらは、是自りもせめよと云也。

  とうごく   ふね    にがつとおか   頃      くに  た   じょう   なり
 東國の船は、二月十日のころに、國を立て上する也。

  なおなおもつくし のこと  よくよく   したためて      もの騒がし     からず    事   無き  様に    さた       そうらうべし
 猶〃も筑紫の事、よく〃したゝめて、物さはかしからす、ことなきやうに沙汰せらる候へし。

  またさむらいども さよう しんしん     安        かえすがえすいがいなり じつ そのじょうさぞ
 又侍共のさ樣に心〃にてあんなる。返〃以外也。 實に其條さそあるらん。

  またほうぼう       我が   ことをば    うったえあい    ども    ひとの 兎角  云          まったく   べからず
 又方〃より、われか事をは、訴あひたれとも、人のとかくいはんに、全よるへからすC

  まこと よしだにも   振舞われば        それぞ   良   ことまたひというず    所詮                       いがい   こと     あるべき
 誠に能たにもふるまはれは、それそよき事又人云すとも所せんなく
Dおはせんするそ、以外の事にて有へき。

  また おやま ものども   何れ      こと  いとお        たまうべし  あなかしこあなかしこ
 又小山の者共、いつれをも殊に糸惜しくし給へし。穴賢〃〃。

  これより おこな  もの    我     思わば    とうじ しょち しょりょう  知らず  そうろう      左様    ろん  すべき  さま 無し
 自是行たる者は、われを思はゝ、當時所知所領をしらす候とも
E、さやうの論をすへき樣なし。

  くだん  妨げ       とめ    たまうべくそうろう   とうじ  かまへかまへ  くに  もの                よう  計ら        たま
 件のさまたけ、止させ給ふへく候。當時は搆〃て、國の者をすかして
Fよき樣にはからはせ給へ。

  つくし   もの      しこく     せめ   たまうべくそうろう
 筑紫の者にて、四國をは責させ給へく候。

  このつかい  ぞうしきむねみつ さだとお のぶかたさんにんつかはすなり のぶかた さだとお   きょう      くだすなり  むねみつぞくに    あがんずる
 此使は、雜色宗光・定遠・信方三人遣也。  信方・定遠は、京にあるを下也。宗光そ國より上する。

  くわしいこと むねみつ 持     ふみ  もうし          よろず  よくよく はかり さたすべし   あなかしこあなかしこ
 委事は宗光かもちたる文に申たるなり。よろつ能〃計沙汰すへし。穴賢〃〃。

             しょうがつむいか
      正月六日

         みかわのかみどの ごへんじ
    參河守殿 御返事

参考@おのつから落まうてくる事あらはは、降伏してくることがあれば。
参考A船たにもあらはは、船を徴収できれば。
参考Bやすき事也は、たやすいことですね。
参考C
全よるへからすは、いちいち人の云うことを聞いていることはない。
参考D人云すとも所せん(所詮)なくは、人の言うことなんか気にするな。
参考E所知所領をしらす候ともは、だれそれの領地なぞ気にしないで。
参考F
國の者をすかしては、旨くこの場だけ使えばよい。

現代語地元の人達が降伏してくるようなことがあれば、もてなして、よおく大切にするようにしなさい。

豊後(大分県)の船を調達できれば、たやすいことなので、四国へは船があれば自分たちで攻めて行くように云いなさい。関東からの船は二月十日ごろに出発できるように仕上げています。

今一度九州の事は、よく考えてじたばた騒がず、余分なことの無いように指図をしなさい。また、侍たちがそのように帰りたがっていたなんて意外なことでしたが、それも実際にはありえることですね。又、あちこちから自分の意見を訴えてくるかもしれないが、いちいち人の云うことなんか聞いていることはない。本当に良いと思う方法を行っていれば、それこそ良いことで、人の云うことなんか所詮仕方の無いことですよ。考えが違うのですから。

又、小山一族の人達は、どの人も特に大事にするように宜しくね。これ以降に、合戦に参加する人達は、私の命令を考えるならば、現在この土地がだれそれの領地や知行地だと気にしないで、そんな事を考えているよりも、その事が合戦の邪魔者になるので止めるべきである。今は地元の人達をなだめすかしてでも旨くこの場だけでも使って、九州の武士たちに四國を攻めさせてください。

此の使いは、雜色の宗光・定遠・信方の三人を行かせました。信方・定遠は、京都に居たのを下させて、宗光だけが関東から京都へ上りました。委しい事は宗光が持っている文書に書きました。すべて良く相談して実施するように、宜しく。正月六日參河守殿 御返事

 重仰
 御下文一まい進し候。國の者共に見せさせ給へく候。わうわく法師の事用させ給へからす候。穴賢〃〃。甲斐の殿原の中には。いさわ殿。かゝみ殿。ことにいとをしくし申させ給へく候。かゝみ太郎殿は。二郎殿の兄にて御座候へ共。平家に付。又木曾に付て。心ふせん(不善)につかひたりし人にて候へは。所知なと奉へきには及はぬ人にて候なり。たゝ二郎殿をいとをしくして。是をはくゝみて候へきなり。
又御下文一通。被遣于九國御家人中。其状云。
 下 鎭西九國住人等
  可早爲鎌倉殿御家人且安堵本所且隨參河守下知同心合力追討朝敵平家事
 右仰彼國々之輩。可追討朝敵之由。 院宣先畢。仍鎌倉殿御代官兩人上洛之處。參河守向九國。以九郎判官所被遣四國也。爰平家縱雖在四國。雖着九國。各且守 院宣旨。且隨參河守下知。令同心合力。可追討件賊徒也者。九國官兵宜承知。不日全勳功之賞矣。以下。
     元暦元年正月日
 前右兵衛佐源朝臣

  かさねて おおせ
 重の仰

  おんくだしぶみ一枚しんじそうろう  くに  ものども  み      たまうべきそうろう   枉惑   ほっし    こともちい    たまうべからずそうろう あなかしこあなかしこ
 御下文一まい進し候。國の者共に見せさせ給へく候。わうわく法師@の事用させ給へからす候。穴賢〃〃。

   かい    とのばら  なか       石和どの     加々美どの                         もう    たまうべくそうろう
 甲斐の殿原の中には。いさわ殿。かゝみ殿。ことにいとをしくし申させ給へく候。

   加々美 たろうどの    加々美二郎長C  あに ござそうらへども    へいけ  つき   また きそ   つい    こころ 不善   使           ひと   そうらへば
 かゝみ太郎殿
Aは、二郎殿Bの兄にて御座候へ共、平家に付。又木曾に付て、心ふせんにつかひたりし人にて候へは、

  しょち等   たてまつるべき   おおよばぬひと   そうろう     ただ  じろうどの                  これ   はぐくみて   そうろうべき
 所知なと奉へきには及はぬ人にて候なり。たゝ二郎殿をいとをしくして、是をはくゝみて候へきなり。

  また  おんくだしぶみいっつう きゅうこくごけにん  うちに つか  され    そ  じょう  い
 又、御下文一通を、九國御家人の中于遣は被る。其の状に云はく。

  くだ    ちんぜいきゅうごく じゅうにんら
 下す 鎭西九國の住人等へ

  はやばや かまくらどのごけにん   な    かつう  ほんじょ あんど     かつう みかわのかみ げち  したがい どうしんごうりき ちょうてき  へいけ ついとう    べきこと
 早〃と鎌倉殿御家人と爲し、且は本所を安堵し
C、且は參河守が下知に隨て同心合力し朝敵の平家を追討する可事

  みぎ  かのくにぐにのやから おお    ちょうてき  ついとうすべ のよし  いんぜんさき をはんぬ
 右、彼國々之輩に仰せて、朝敵を追討可し之由、院宣先に畢。

  よつ かまくらどのおんだいかんりょうにんじょうらくのところ みかわのかみきゅうごく むか   くろうほうがん  もつ  しこく    つか  され ところなり
 仍て鎌倉殿御代官 兩人上洛之處、 參河守 九國へ向ひ、九郎判官を以て四國へ遣は被る所也。

  ここ  へいけ   したが しこく   あ    いへど   きゅうごく  つ   いへど  おのおの かつう いんぜん むね まも   かつう みかわのかみ げち  したが
 爰に平家に縱い四國に在りと雖も、九國へ着くと雖も、各、且は院宣の旨を守り、且は參河守の下知に隨ひ、

  どうしんごうりきせし    くだん ぞくと   ついとうすべ なりてへ     きゅうごく かんぺい よろ  しょうち     ふじつ   くんこうのしょう  まっと  す  もつ   くだ
 同心合力令め、件の賊徒を追討可し也者れば、九國の官兵宜しく承知し、不日に勳功之賞を全う矣。以て下す。

          げんりゃくがんえんしょうがつにち
     元暦元年正月日

  さきのうひょうえのすけみなもとのあそん
 前右兵衛佐源朝臣

参考@わうわく法師は、わうわくを阿波弁のわやの語源としてわうわく(横着)としている。上方落語メモでも、「わや(駄目・無茶)」の語源として「枉惑わうわく(ごまかしだますこと)」とし、語源由来辞典では、漢語「枉惑わうわく」で腕白わんぱくの語源としている。坊主がつくので、おそらく後白河法皇を指していると思われる。
参考Aかゝみ太郎殿は、秋山太郎光朝。
参考B二郎殿は、加々美二郎長Cで。
治承四年「庚子」(1180)十月小十九日条で、加々美次郎長Cは「母が病気だ」と云って平家をだまして関東へ来ているが、兄太郎光朝は京都に残った。
参考C本所を安堵は、本領安堵。

現代語追伸です。命令書を一枚送付しましたので、九州の地元の武士たちに見せてください。横着坊主の意見など聞いてはいけませんので、十分気をつけて宜しく。甲斐の武士たちの中には、伊澤五郎信光殿・加々美次郎長C殿等は特に大事にしてください。加々美太郎光朝殿は、加々美次郎長Cの兄ではありますけど、平家についたり、木曾冠者義仲についたりした人なので、所領などを与える必要には及ばない人です。弟の次郎殿だけを大事にしてあげるべきです。又、命令書を一通、九州の御家人たち全体へ発行しました。その命令書に書いてあることは、

命じる 九州地方の武士たちへ

早く、鎌倉殿(頼朝様)の御家人になって、一つは本領を安堵してもらい、一つは三河守(蒲冠者範頼)の部下となりその命令に従って、心を一つに力を合わせて、朝廷の敵となった平家を滅ぼしなさい。

右のとおり、九州の武士たちに命令して、朝廷の敵を退治するように、後白河法皇の命令書が出されています。それなので鎌倉殿の代官の二人が京都へ上ったところ、三河守(蒲冠者範頼)は九州へ行き、源九郎義經は四国へ派遣されました。現在平家の部下となり四国に居ても、九州へ着いたとしても、皆それぞれに後白河法皇の命令を大事にして、三河守(蒲冠者範頼)の命令に従って、心を一つに力を合わせ、例の反逆者たちを退治するように命じるので、九州の朝廷へ着いた兵隊たちは、日をおかずに手柄を立てなさい。以上を命令する。元暦元年正月○日  前右兵衛佐源朝臣

参考頼朝は、この後戦略を変えて棚上げにしていた義経を追討使として再起用し義経軍に変えている。京都守護は後白河からの任命なのでやらしていた。同日に範頼から義経に変えたのは、多くの研究者は関東軍がホームシックになっているので義経に変えたというが、この手紙では、範頼への配慮をしているので、前の先に書いていた範頼宛の手紙は励ましに過ぎない。

元暦二年(1185)正月大十二日丙申。參州自周防國到赤間關。爲攻平家。自其所欲渡海之處。粮絶無船。不慮之逗留及數日。東國之輩。頗有退屈之意。多戀本國。如和田小太郎義盛。猶潜擬歸參鎌倉。何况於其外族矣。而豊後國住人臼杵二郎惟隆。同弟緒方三郎惟榮者。志在源家之由。兼以風聞之間。召船於彼兄弟。渡豊後國。可責入博多津之旨有議定。仍今日。參州歸周防國云々。 

読下し                     さんしゅう すおうのくによ  あかまがせき いた
元暦二年(1185)正月大十二日丙申。參州@周防國自り赤間關へ到る。

へいけ  せ     ため  そ   ところよ  とかい       ほつ   のところ  かてた  ふねな    ふりょのとうりゅうすうじつ  およ
平家を攻めん爲、其の所自り渡海せんと欲する之處、粮絶へ船無く、不慮之逗留數日に及ぶ。

とうごくのやから すこぶ たいくつ のこころあ    おお ほんごく  こい
東國之輩、頗る退屈
A之意有り。多く本國を戀す。

わだのこたろうよしもり    ごと       なお ひそか かまくら きさん       こら     なに   いは   そ   ほか やから をい をや
和田小太郎義盛の如きは、猶、潜に鎌倉へ歸參せんと擬す。何をか况んや其の外の族に於て矣。

しかる ぶんごのくにじゅうにんうすきのじろうこれたか おな おとうと おがたのさぶろうこれよしは こころざし げんけ あ のよし  かね  もつ  ふうぶん    のかん
而に豊後國住人臼杵二郎惟隆
B、同じく弟緒方三郎惟榮C者、 志を源家に在る之由、兼て以て風聞する之間、

ふねを か  きょうだい  め    ぶんごのくに  わた   はかたのつ  せめい  べ   のむねぎじょうあ
船於彼の兄弟に召し、豊後國へ渡り、博多津へ責入る可し之旨議定有り。

よつ  きょう  さんしゅうすおうのくに かえ   うんぬん
仍て今日、參州周防國へ歸ると云々。

参考@參州は、範頼で蒲神明神社。
参考A
退屈は、退いて屈するから退却。
参考B
臼杵二郎惟隆は、臼杵庄で現大分県臼杵庄臼杵市。
参考C緒方三郎惟榮は、豊後国大野郡緒方庄で、現在の大分県豊後大野市緒方町。通称は三郎。諱は惟義とも書かれる。

現代語元暦二年(1185)正月大十二日丙申。源参河守範頼は、周防国(山口県防府)から赤間関(下関)へ到着しました。彦島の平家を攻撃するために、赤間関から海を渡ろうと考えましたが、食料はなくなるわ、船もないわで、思いのほかの逗留が数日に渡ってしまいました。関東武士達は、とても退却したい思いがあり、皆本国へ帰りたそうです。特に和田左衛門尉義盛なんぞは、侍所別当のくせに内緒で鎌倉へ帰ろうとする始末です。別当ですらそんなですから、一般の御家人どもは何をかいわんやです。ところが、豊後の豪族の臼杵二郎惟隆と、同族の弟緒方三郎惟栄は、源氏の味方をしたいと前々から噂がありますので、船をこの兄弟から徴発して、豊後へ渡り、ぐるりと回って、後ろから博多の船着場へ攻め込むのが良いと話し合いで決めました。そこで、今日源参河守範頼は周防へ戻ることにしましたとさ。

元暦二年(1185)正月大廿一日乙巳。武衛依御宿願。參栗濱明神給。御臺所同令伴給云々。

読下し                      ぶえい ごすくがん  よつ    くりはまみょうじん  さん  たま   みだいどころおな  ともな せし  たま    うんぬん
元暦二年(1185)正月大廿一日乙巳。武衛御宿願に依て、栗濱明神@へ參じ給ふ。御臺所同じく伴は令め給ふと云々。

参考@栗濱明神は、神奈川県横須賀市久里浜8丁目29の住吉神社。住吉神(すみのえのかみ)は、底筒男命(そこつつのおのみこと)・中(なか)筒男命・表(うわ)筒男命の総称。海上の守護神、外交の神、和歌の神とされる海神なので、平家との海戦を覚悟してのようである。

現代語元暦二年(1185)正月大二十一日乙巳。頼朝様は、前々から心の中にもっていた強い願いを祈るために、久里浜明神へお参りに行きました。奥方様も一緒に連れて行ったんだとさ。

元暦二年(1185)正月大廿二日丙午。以出雲國安東郷。先日令寄附于鴨祖神領給訖。而可爲冬季御神樂料所之旨被仰遣。廣元施行之。

読下し                      いずものくに あんどうごう  もつ   せんじつ かもみおや しんりょうにきふ せし たま をはんぬ
元暦二年(1185)正月大廿二日丙午。出雲國安東郷@を以て、先日、鴨祖A神領于寄附令め給ひ訖。

しか    とうき    おかぐらりょうしょ    な   べ  のむねおお  つか  さる   ひろもとこれ  せぎょう
而して冬季の御神樂料所
Bと爲す可し之旨仰せ遣は被る。廣元之を施行す。

参考@出雲國安東郷は、安来節の島根県安来市安来町の東と思われる。
参考A鴨祖(かもみおや)は、京都の賀茂御祖(かもみおや)神社(下鴨(しもがも)神社)。賀茂別雷(かもわけいかずち)神社(上賀茂神社)との併称が賀茂神社。創建は古く、特に平安時代以後、王城鎮護の神社として朝廷の尊崇あつく、嵯峨天皇の代より斎院として未婚の皇女を御杖代(みつえしろ)として奉仕させた。社の例祭(賀茂祭)は、葵祭として三大勅祭の一。山城国一の宮。
参考B御神樂料所は、お神楽奉納専用税徴収所。

現代語元暦二年(1185)正月大二十二日丙午。出雲国安東郷(安来の東)を、下鴨神社へ寄付されました。そして、冬のお神楽用の費用を捻出する荘園とするように命令を出されました。大江広元が担当し実行しました。

元暦二年(1185)正月大廿六日庚戌。惟隆。惟榮等。含參州之命。献八十二艘兵舩。亦周防國住人宇佐郡(那)木上七遠隆献兵粮米。依之參州解纜。渡豊後國云々。同時進渡之輩。
 北條小四郎     足利藏人義兼    小山兵衛尉朝政
 同五郎宗政     同七郎朝光     武田兵衛尉有義
 齋院次官親能    千葉介常胤     同平次常秀
 下河邊庄司行平   同四郎政能     淺沼四郎廣繩
 三浦介義澄     同平六義村     八田武者知家
 同太郎知重     葛西三郎C重    澁谷庄司重國
 同二郎高重     比企藤内朝宗    比企藤四郎能員
 和田小太郎義盛   同三郎宗實     同四郎義胤
 大多和次郎義成   安西三郎景益    同太郎明景
 大河戸太郎廣行   同三郎       中條藤次家長
 加藤次景廉     工藤一臈祐經    同三郎祐茂
 天野藤内遠景    一品房昌寛     土左房昌俊
 小野寺太郎道綱
此中。常胤者。不爲事衰老。凌風波進渡焉。景廉者。忘病身相從矣。行平者。粮盡而雖失度。投甲冑買取小舩。最前棹。人恠云。着甲冑。令參大將軍御舩。全身可向戰塲歟 行平云。於身命者。本自不爲惜之。然者雖不着甲冑。乘于自身進退之舩。先登欲任意 將師解纜。爰三州曰。周防國者。西隣宰府。東近洛陽。自此所。通子細於京都与關東。可廻計畧之由。有武衛兼日之命。然者。留有勢精兵。欲令守當國。可差誰人哉者。常胤計申云。義澄爲精兵。亦多勢者也。早可被仰 仍被示其旨於義澄之處。義澄辞申云。懸意於先登之處。徒留此地者。以何立功哉云々。然而。撰勇敢被留置之由。所命及再三之間。義澄結陣於防州云々。

読下し                      これたか   これよし ら  さんしゅうのめい ふく    はちじゅうにそう  へいせん けん
元暦二年(1185)正月大廿六日庚戌。惟隆@、惟榮A等、參州之命を含み、八十二艘の兵舩を献ず。

また  すおうのくにじゅうにんうさなぎのこおしちとおたか  ひょうりょうまい けん  これ  よつ さんしゅうともづな と   ぶんごのくに わた   うんぬん
亦、周防國住人宇佐那木上七遠隆
B、兵粮米を献ず。之に依て參州纜を解き、豊後國へ渡ると云々。

参考@惟隆は、臼杵次郎惟隆。
参考A
惟榮は、緒方三郎惟栄。
参考B
宇佐那木上七遠隆は、原文は「宇佐木上七遠隆」となっており、吉川本では「宇佐上七遠隆」とあり、黒板勝美先生は吉川本に従っている。堀田璋左右先生も吉川本に従い「周防国熊毛郡宇佐木村の住人とし、上七と称する事は、上毛野性の人なるの故か。尚考ふ可し。」と云ってますが、宇佐那木村の地名は不明です。また、山口県柳井市新庄佐保(さを・平生の隣)を宇佐保(うさほ)とし、国衙領を支配していた山口県熊毛郡平生町大字平生村(隣が大字宇佐木)の上七遠隆とする意見もあります。以上から宇佐郡は無いようですが、宇佐那木の「」の文字がどこから来ているのかは不明だったのですが、宇佐木の読みを郵便番号で引いてみたら「うさなき」とかながふられていますので、元は「宇佐那木」だったのが「宇佐木」となり、読みだけが「うさなき」と残ったようです。以上から原文の「郡」が誤写で吉川本の「宇佐那木」が正しいようです。附則:「こうしちとおたか」とも読むらしい。
追伸:山口新聞の東流西流の2001年1月11日に地元の眼科医さんが、柳井市と平生町の境、田布路木峠の平生側「宇佐木(うさな(の)き)」に住んでいて、源平云々と伝承が書かれています。「宇佐那木

どうじ   すす  わた のやから
同時に進み渡る之輩、

  ほうじょうのこしろう           あしかがのくらんどよしかね     おやまのひょうえのじょうともまさ
 北條小四郎
C    足利藏人義兼    小山兵衛尉朝政

  おな   ごろうむなまさ       おな   しちろううともみつ     たけだのひょうえのじょうありよし
 同じき五郎宗政   同じき七郎朝光   武田兵衛尉有義

  さいいんのすけちかよし       ちばのすけつねたね        おな   へいじつねひで
 齋院次官親能    千葉介常胤     同じき平次常秀

  しもこうべのしょうじゆきひら      おな   しろうまさよし        あさぬまのしろうひろつな
 下河邊庄司行平   同じき四郎政能   淺沼四郎廣繩
D

  みうらのすけよしずみ         おな   へいろくよしむら      はったのむしゃともいえ
 三浦介義澄     同じき平六義村   八田武者知家

  おな    たろうともしげ       かさいのさぶろうきよしげ       しぶやのしょうじしげくに
 同じき太郎知重   葛西三郎C重    澁谷庄司重國

  おな    じろうたかしげ      ひきのとうないともむね        ひきのとうしろうよしかず
 同じき二郎高重   比企藤内朝宗    比企藤四郎能員

  わだのこたろうよしもり         おな   さぶろうむねざね     おな    しろうよしたね
 和田小太郎義盛   同じき三郎宗實   同じき四郎義胤

  おおたわのじろうよしなり       あんざいのさぶろうかげます     おな   たろうあきかげ
 大多和次郎義成   安西三郎景益    同じき太郎明景

  おおかわどのたろうひろゆき     おな   さぶろう           ちゅうじょうのとうじいえなが
 大河戸太郎廣行   同じき三郎     中條藤次家長

  かとうじかげかど            くどうのいちろうすけつね       おな   さぶろうすけもち
 加藤次景廉     工藤一臈祐經    同じき三郎祐茂

  あまののとうないとおかげ       いっぽんぼうしょうかん        とさのぼうしょうしゅん
 天野藤内遠景    一品房昌寛     土左房昌俊

  おのでらのたろうみちつな
 小野寺太郎道綱

参考C北條小四郎は、義時だが、しょっぱなに書かれて居るのは怪しい。
参考D淺沼四郎廣繩は、群馬県佐野市浅沼。

こ   うち  つねたねは  すいろう   こと  せず   ふうは  しの  すす わた をはんぬ かげかどは びょうしん わす あいしたが と
此の中、常胤者、衰老を
E事と不爲、風波を凌ぎ進み渡り焉。景廉者、病身を忘れ相從ふ矣。

ゆきひらは  かてつ  て  ど  うしな   いへど   かっちゅう とう    こぶね  か   と      さいぜん  さお
行平者、粮盡き而度を失うと雖も、甲冑を投じて小舩を買い取り
F、最前に棹す。

ひとあやし  い        かっちゅう ちゃく    だいしょうぐん おんふね まい せし     み  まっと     せんじょう むか べ   か   うんぬん
人恠みて云はく。甲冑を着して、大將軍の御舩に參ら令め
G、身を全うして戰塲へ向う可き歟と云々。

ゆきひら い      しんめい をい  は  もと よ  これ  おし       なさず
行平云はく、身命に於て者、本自り之を惜まんと不爲。

しからずんば かっちゅう きず いへど   じしんしんたいのふねに の   せんと こころ まか       ほつ    うんぬん  しょうしともづな と
然者、甲冑を不着と雖も、自身進退之舩于乘り、先登を意に任せん
Hと欲すと云々。將師纜を解く。

ここ さんしゅうい       すおうのくには  にし  ざいふ  となり   ひがし らくよう  ちか
爰に三州曰はく、周防國者、西は宰府に隣し、東は洛陽に近し
I

こ   ところよ     しさいを きょうとと かんとう  つう    けいりゃく  めぐ   べ   のよし   ぶえい けんじつ のめい あ
此の所自り、子細於京都与關東に通じ、計畧を廻らす可し之由、武衛が兼日
J之命有り。

しからずんば うせい せいへい  とど    とうごく  まも  せし      ほつ    だれひと  さ   べ  や てへ
然者、有勢の精兵
Kを留め、當國を守ら令めんと欲す。誰人を差す可き哉者りL

つねたねはか もう    い       よしずみせいへいた   またたぜい  ものなり  はや  おお  らる  べ    うんぬん
常胤計り申して云はく。義澄精兵爲り。亦多勢の者也。早く仰せ被る可しと云々。

よつ  そ  むねを よしずみ しめさる のところ  よしずみ じ   もう     い
仍て其の旨於義澄に示被る之處。義澄辞し申して云はく。

こころを せんと  か     のところ いたずら こ   ち   とどま ば  なに  もつ  こう  た      や   うんぬん
意於先登に懸ける之處、徒に此の地に留ら者、何を以て功を立てる哉と云々。

しかして ゆうかん  えら  とど  おかる   のよし  めい   ところさいさん およ  のかん  よしずみじんを ぼうしゅう むす   うんぬん
然而、勇敢を撰び留め置被る之由、命ずる所再三に及ぶ之間、義澄陣於防州に結ぶと云々。

参考E常胤者衰老は、お年寄りだがの意味で、実に最年長で保元乱も出演している。
参考F甲冑を投じて小舩を買い取りと言っているが、甲冑と物々交換している。
参考G大將軍の御舩に參ら令めは、大将の船に乗せてもらって。
参考H
先登を意に任せんと欲すは、先陣を切りたいので。
参考I西は宰府に隣し、東は洛陽に近しは、西は大宰府に近く、東は京都に近い、ちょうど中間なのでの意味。
参考J兼日は、前もって。
参考K有勢の精兵は、大豪族の軍隊。
参考L誰人を差す可き哉者りは、誰がいいかなと千葉介常胤に相談しているので、千葉介常胤は戦目付であろう、軍監。

現代語元暦二年(1185)正月大二十六日庚戌。臼杵惟隆と緒方惟栄は、源参河守範頼の命令を承知して、八十二艘の軍船を差し出しました。又、周防の豪族宇佐那木上七遠隆は、軍用食料を差し出しました。このおかげで源参河守範頼軍は、船のとも綱を解いて船出し、豊後国へ渡ることが出来ましたとさ。

同時に渡る人は、
 北条小四郎   足利蔵人義兼   小山兵衛尉朝政
 同小山五郎宗政 同小山七郎朝光  武田兵衛尉有義
 齋院次官親能  千葉介常胤    同千葉境平次常秀
 下河辺庄司行平 同下河辺四郎政能 浅沼四郎広縄
 三浦介義澄   同三浦平六義村  八田武者知家
 同太郎知重   葛西三郎清重   渋谷庄司重国
 同二郎高重   比企藤内朝宗   比企藤四郎能員
 和田小太郎義盛 同和田三郎宗実  同和田四郎義胤
 大多和三郎義成 安西三郎景益   同安西太郎明景
 大河戸太郎広行 同大河戸三郎行方 中条藤次家長
 加藤次景廉   工藤一臈祐経   同工藤三郎祐茂
 天野藤内遠景  一品房昌寛    土左房昌俊
 小野寺太郎道綱

このうちの人で、千葉介常胤は老いをものともせず、風波を凌いで進んで渡りきりました。景廉者、病身すら忘れて従っていました。行平は、食料も無くなり、困ってしまいましたが、鎧兜を手放して小船を買い取って、一番初めに船出しました。他人はそれを批判するには、「鎧兜を着て大将の船に乗せてもらって、身支度を整えて戦場へ向かうのが、普通だろう。」だとさ。行平が云うには、「命は、元々惜しんではいない、だから、鎧兜を着けていなくても、自分の進退が自由になる船に乗って、一番乗りを目指しているんだよ。」だとさ。軍隊も一斉にとも綱を解いて船出しました。そしたら、源参河守範頼が言い出しました。「周防国は、西は大宰府に接しており、東は京都に近い、中継地点として、連絡を京都や鎌倉へ通じるように、駐屯軍を置くよう、頼朝様からあらかじめ命令を受けています。それなので、大軍を擁している豪族をここで駐屯させ、周防の国を守らせたいと思うが、いったい誰が良いのだろうか。」と云いました。常胤が深く思慮をしてから云いました。「義澄は精兵であり、又、大軍を擁しているので、早くお命じなさい。」との事だとさ。それなので、その話を義澄に促したところ、義澄が辞退して云うのには、「先陣を切ろうと勢いづいているのに、中途半端にこんな所にいたんでは、どうやって手柄を立てることが出来るんですか。」だとさ。それでも、勢力のある軍勢を選んで、駐屯させるのだからと、何度も説得をしたので、義澄は軍隊を防州に駐屯することになったんだとさ。

二月へ

吾妻鏡入門第四巻

inserted by FC2 system