吾妻鏡入門第四巻

元暦二年(1185)二月小「八月十四日文治元年と爲す」

元暦二年(1185)二月小一日乙卯。參州渡豊後國。北條小四郎。下河邊庄司。澁谷庄司。品河三郎等令先登。而今日。於葦屋浦。太宰少貳種直。子息賀摩兵衛尉等。引随兵相逢之挑戰。行平重國等廻懸射之。彼輩雖攻戰。爲重國被射畢。行平誅美氣三郎敦種云々。

読下し                     さんしゅうぶんごのくに わた  ほうじょうのこしろう  しもこうべのしょうじ  しぶやのしょうじ しながわにさぶろうらせんとせし
元暦二年(1185)二月小一日乙卯。參州豊後國へ渡る。北條小四郎@・下河邊庄司・澁谷庄司・品河三郎等先登令む。

しこう    きょう   あしやのうら  をい   だざいのしょうにたねなお  しそくがまのひょうえのじょう ら ずいへい ひき  これ あいあ   ちょうせん
而して今日、葦屋浦Aに於て、太宰少貳種直B・子息賀摩兵衛尉C等、随兵を引い之に相逢い挑戰す。

ゆきひら しげくにら これ  い か   めぐ   か  やから せ たたか  いへど  しげくに  ためいられ をはんぬ ゆきひら みいけのさぶろうあつたね  ちう   うんぬん
行平・重國等之を射懸け廻る。彼の輩攻め戰うと雖も、重國の爲射被れ畢。行平は美氣三郎敦種
Dを誅すと云々。

参考@北條小四郎は、義時だが、しょっぱなに書かれて居るのは怪しい。
参考A葦屋浦は、筑前で現在の福岡県遠賀郡芦屋町。航空自衛隊芦屋基地がある。
参考B太宰少貳種直は、原田大夫種直で原田庄・現福岡県前原市(マエバルシ)。
参考C
賀摩兵衛尉は、種益で現福岡県嘉麻市。
参考D美氣三郎敦種は、三池で福岡県大牟田市大字三池。

現代語元暦二年(1185)二月小一日乙卯。源参河守範頼は、豊後国へ渡りました。北条小四郎義時・下河辺庄司行平・渋谷庄司重国・品川三郎等が先頭を切りました。そして今日、筑前の葦屋浦で、太宰少弐種直とせがれの賀摩兵衛尉種益が、軍隊を引き連れて出会い、合戦を始めました。下河辺庄司行平や渋谷庄司重国が周りを廻りながら矢を射掛けました。彼等も攻撃をしてきますが、渋谷庄司重国に射られっぱなしです。下河辺庄司行平は、美気三郎敦種を殺しましたとさ。

元暦二年(1185)二月小五日己未。典膳大夫中原久經。近藤七國平。爲使節上洛〔先々雖爲使節。他人相替。今度治定云々〕。是追討平氏之間。寄事於兵粮。散在武士於畿内近國所々致狼藉之由。有諸人之愁緒。仍雖不被相待平家滅亡。且爲被停止彼狼唳。所被差遣也。先相鎭中國近邊之十一ケ國。次可至九國四國。悉以經奏聞。可随 院宣。此一事之外。不可交私之沙汰之由。被定仰云々。今兩人雖非指大名。久經者。故左典厩御時殊有功。又携文筆云々。國平者勇士也。有廉直譽之間。如此云々。依仰各可致憲法沙汰之趣。進起請文云々。

読下し                     てんぜんだいぶなかはらのひさつね こんどうしちくにひら しせつ な   じょうらく
元暦二年(1185)二月小五日己未。 典膳大夫中原久經、 近藤七國平、使節と爲し上洛す。

 〔 さきざき  しせつたり いへど   たにん  あいかは    このたびちじょう  うんぬん〕
〔先々も使節爲と雖も、他人に相替り、今度治定すと云々〕

これ  へいしついとうのかん  ことを ひょうろう よ      さんざい   ぶし    きないきんごく  しょしょ  をい  ろうぜき  いた  のよし  しょにんのしゅうしょ あ
是、平氏追討之間、事於兵粮に寄せ@、散在の武士A、畿内近國の所々に於て狼藉を致す之由、諸人之愁緒B有り。

よつ  へいけ  めつぼう  あいまたれず いへど   かつう か  ろうるい  ちょうじされ  ため  さ   つか  さる ところなり
仍て平家の滅亡を相待不被と雖も、且は彼の狼唳を停止被ん爲、差し遣は被る所也。

ま   ちゅうごくきんぺんのじういっかこく  あいしず   つぎ きゅうごくしこく  いた  べ    ことごと もつ  そうもん  へ   いんぜん したが べ
先ず中國近邊之十一ケ國を相鎭め、次に九國四國へ至る可しC。悉く以て奏聞を經、院宣に随う可しD

こ   いちじ の ほか    し の さた   まじ    べからずのよし  さだ  おお  られ   うんぬん
此の一事之外は、私之沙汰を交へる不可之由、定め仰せ被ると云々。

いま    りょうにんさ   だいみょう あらず いへど  ひさつねは  こさてんきゅう  おんとき   こと  こうあ    また   ぶんぴつ かかは  うんぬん
今は、兩人指せる大名に非と雖も、久經者、故左典厩Eの御時、殊に功有り。又、文筆に携ると云々。

くにひらは   ゆうしなり  れんちょく ほまれあ のかん  かく  ごと    うんぬん
國平者、勇士也。廉直の譽有る之間、此の如しと云々。

おお    よつ  おのおのけんぽう さた   いた べ  のおもむき  きしょうもん  しん    うんぬん
仰せに依て、各憲法の沙汰Fを致す可し之趣、起請文を進ずと云々。

参考@事於兵粮に寄せは、平家討伐の兵糧徴収だといって。しかし、頼朝は後白河から年貢を兵糧として取って良い兵糧料所を設けている。
参考A散在の武士は、関東武士でない連中。
参考B諸人之愁緒は、荘園領主の公卿が困っている。
参考C先ず中國近邊之十一ケ國を相鎭め、次に九國四國へ至る可しは、占領行政監察をしている。
参考D悉く以て奏聞を經、院宣に随う可しは、後白河法皇の命令に従うように諭している。
参考E
故左典厩は、頼朝の父義朝。
参考F憲法の沙汰は、正しい原理原則に基づいて。

現代語元暦二年(1185)二月小五日己未。典膳大夫中原久経と近藤七国平は、頼朝様の代官として京都へ上りました。「前にも使者ととなりましたが、他の人が代わりに行ったので、今度は役目を果たす事になりましたとさ」この役目は、平家を追討している最中なので、ついでに軍事用食料だといつわって、あちこちの武士が、京都やその近辺のあっちこっちで横取りをするので、公卿たちが嘆いています。
そこで、平家の滅亡を待っていないで、とりあえずそう云う横行を止める為に、出張させたのです。
まず中国地方の十一カ国(長門・周防・出雲・伯耆・美作・安芸・備後・備中・備前・播磨・丹波)を統率して、次に九州四国へ行くように、事は何でも全て朝廷へ奏上(伺って)して、命令に合わせるように。それ以外は一切、自分の考えで手出しをしてはならないと決めて、(頼朝様は)命じられましたとさ。現在は二人共、たいした大名ではないけれども、典膳大夫中原久経は、父の左典厩義朝の時代に手柄を立てており、又、文章能力に長けているからだとさ。近藤七国平は、勇士で、生真面目だと評判なので、(頼朝様は)このように計られましたとさ。(頼朝様の)命令を受けて、それぞれ理屈に合った正しい行いをするように、起請文(誓いの文書)を提出したんだとさ。

元暦二年(1185)二月小十二日丙寅。武衛令赴伊豆國給。是爲建立伽藍。於狩野山日來被求材木。仍爲監臨之也。

読下し                      ぶえい いずのくに  おもむ せし  たま
元暦二年(1185)二月小十二日丙寅。武衛伊豆國へ赴か令め給ふ。

これ  がらんこんりゅう ため  かのうさん   をい  ひごろざいもく   もと  らる    よつ  これ  かんりん    ためなり
是、伽藍建立の爲、狩野山@に於て日來材木を求め被る。仍て之を監臨する爲也。

参考@狩野山は、伊豆の狩野川周りの山と思われるが、現在の地名にはない。

現代語元暦二年(1185)二月小十二日丁卯。頼朝様は、伊豆国へお出かけになられました。それは、新規の寺を建立するために、狩野山から普段材木を調達しているので、その実地検分をするためです。

元暦二年(1185)二月小十三日丁卯。爲平家追討御祈請。於鶴岡寳前。召聚鎌倉中僧徒。被轉讀大般若經。京都又被始行廿壇之秘法云々。今日。伊澤五郎書状自鎭西到着于武衛御旅館。其詞云。爲廻平家追討計。雖入長門國。彼國饑饉依無粮。猶欲引退于安藝國。又欲攻九州之處。無乘船之間。不進戰之由云々。即御返事云。依無粮退長門之條。只今不相向敵者。有何事哉。攻九國事。當時不可然歟。先渡四國。与平家可遂合戰云々。 

読下し                      へいけ ついとう  ごきしょう    ため   つるがおかほうぜん をい  かまくらちう  そうと    め   あつ
元暦二年(1185)二月小十三日丁卯。平家追討の御祈請の爲に、鶴岡寳前に於て、鎌倉中の僧徒を召し聚め、

だいはんにゃきょう てんどく さる   きょうと   また  にじうだんのひほう  しぎょうさる    うんぬん
大般若經を轉讀
@被る。京都も又、廿壇之秘法を始行被ると云々。

きょう    いさわのごろう   しょじょう ちんぜいよ  ぶえい  ごりょかんに とうちゃく    そ   ことば  い
今日、伊澤五郎
Aが書状、鎭西自り武衛の御旅館于到着す。其の詞に云はく、

へいけついとう  はか    めぐ      ため  ながとのくに い    いへど   か   くに ききん  かてな    よつ    なお  あきのくにに ひ   の       ほつ
平家追討の計りを廻らさん爲、長門國に入ると雖も、彼の國饑饉し粮無きに依て、猶、安藝國于引き退かんと欲す。

また  きゅうしゅう せ      ほつ   のところ  じょうせんな  のかん  すす たたか ざるのよし  うんぬん
又、九州を攻めんと欲する之處、乘船無き之間、進み戰は不之由と云々。

すなは ごへんじ   い       かてな    よつ  ながと  の  のじょう  ただいまてき  あいむか ずんば  なにごと  あ     や
即ち御返事に云はく、粮無きに依て長門を退く之條、只今敵に相向は不者、何事か有らん哉。

きゅうごく  せ    こと  とうじ しか  べからざるか  ま   しこく  わた    へいけと かっせん  と   べ    うんぬん
九國を攻める事、當時然る不可歟。先ず四國へ渡り、平家与合戰を遂ぐ可しと云々。

参考@轉讀は、お経を飛ばし読みにすることだが、経文をアコーデオンのように片手から片手へはじきながら經を讀む。
参考A伊澤五郎は、甲斐武田党の石和五郎信光。

現代語元暦二年(1185)二月小十三日丁卯。(頼朝様は)平家討伐の神の加護があるようにお祈りをするために、鶴岡八幡宮寺の本堂の前で、鎌倉中の坊さんを呼び集めて、大般若経を轉讀(経文をあおりながらお経を読む)させました。京都朝廷でも、同様に二十壇飾りをして二十人の坊さんが密教の呪詛を行いましたとさ。

今日、伊沢五郎信光の手紙が、九州から頼朝様がとまっている伊豆の館へ到着しました。その内容は、平家を追討する作戦実行のために、長門国(山口県)へ入りましたが、この国は飢饉がひどくて、兵糧を集められないので、仕方が無いので安芸国(広島県)へ戻ろうと思います。他にも九州へ攻めようとしましたが、船が無いので、進軍が出来ませんだとさ。直ぐにご返事に書かれたのは、兵糧が無いので長門から撤退するなんて、今、敵に向かって行かなくちゃ、どうすんのよ。九州へ攻める事は、今はやるべきじゃないだろう。まずは、四国へ海を渡って、四国の平家と戦闘をするようにだとさ。

元暦二年(1185)二月小十四日戊辰。參州日來在周防國之時。武衛被仰遣云。令談于土肥二郎。梶原平三。可召九國勢。就之。若見歸伏之形勢者。可入九州。不然者。与鎭西不可好合戰。直渡四國。可攻平家者。而今參州欲赴九國。無船而不進。適雖渡長門國。粮盡之間。又引退周防國訖。軍士等漸有變意不一揆之由。被歎申之。其飛脚今日參着伊豆國。仍今度不遂合戰。令歸洛者。有何眉目哉。遣粮之程令堪忍可相待之。平家之出故郷在旅泊。猶勵軍旅之儲。况爲追討使。盍抽勇敢思乎之由。被遣御書於參州并御家人等中云々。

読下し                      さんしゅう ひごろすおうのくに  あ   のとき   ぶえいおお  つか され  い
元暦二年(1185)二月小十四日戊辰。參州、日來周防國に在る之時、武衛仰せ遣は被て云はく。

といのじろう    かじわらのへいざにだんぜし  きゅうこく せい  め  べ     これ  つ     も   きふくの けいせい  み   ば  きゅうしゅう い  べ
土肥二郎・梶原平三于談令め、九國の勢を召す可し。之に就き、若し歸伏之形勢を見れ者、九州へ入る可し。

しからずんば ちんぜいとかっせん このむべからず  じき しこく    わた   へいけ   せ     べ  てへ
不然者、鎭西与合戰を好不可。 直に四國へ渡り、平家を攻める可し者り。

しか   いま  さんしゅうきゅうこく おもむ    ほつ    ふねな    てすすまず
而るに今、參州九國へ赴かんと欲す。船無くし而進不。

たまたまながとのくに わた   いへど   かてつ    のかん  またすおうのくに  ひ   の  をはんぬ
適、長門國へ渡ると雖も、粮盡きる之間、又周防國へ引き退き訖。

ぐんしら  ようや へんいあ     いっきせずのよし  これ  なげ  もうさる    そ   ひきゃく  きょう いずのくに  さんちゃく
軍士等漸く變意有りて一揆不之由、之を歎き申被る。其の飛脚、今日伊豆國へ參着す。

よつ このたび  かっせん とげず    きらく せし  ば   なん  びもく  あ   や   かて  つか    のほど  かんにんせし これ  あいま  べ
仍て今度、合戰を不遂に、歸洛令め者、何の眉目が有り哉。粮を遣はす之程、堪忍令め之を相待つ可し。

へいけの ふるさと  い   たび  とま    あ    なお  ぐんりょのまうけ はげ      いはん ついとうした    なんぞゆうかん おも   ぬき    やのよし
平家之故郷を出で旅の泊りに在る。猶、軍旅之儲を勵ます。况や追討使爲り。盍勇敢の思いを抽んず乎之由。

おんしょをさんしゅうなら    ごけにんら   うち  つか  さる    うんぬん
御書於參州并びに御家人等の中へ遣は被ると云々。

現代語元暦二年(1185)二月小十四日戊辰。源参河守範頼さんは、当時周防国(山口県東部防府市あたり)に居る時に、頼朝様が命じられましたのは、土肥次郎実平や梶原平三景時と話し合って、九州勢を味方に呼んで見なさい。それを実行して、若し降参して味方に付くようなら、九州へ行くのが良い。そうでなければ、九州の連中と戦闘をする必要はない。直ぐに四国へ渡って、平家を攻撃しなさい、と云われました。
しかし今、源参河守範頼は九州へ行こうとしたが、船が無いので進軍できない。機会があったので、長門国(山口県西部)まで来たけれども、食料が無いので、元の周防国へ引き返しました。
関東武士達が、とうとう気が変わってきて、云う事を聞かなくなってきた事をこぼしてきました。その伝令が、今日伊豆国へ着きました。
それなので、「今度の合戦を勝ち終えずに京都へ戻ってしまったのでは、何の自慢になるって云うんだい。食料は送るので、我慢をしてその到着を待ちなさい。平家も故郷を出て、放浪の旅の途中だと云うのに、まだまだ戦おうとしてるじゃないか。それに比べ朝廷からの追討使に任命されているのに、なんで勇敢に戦おうという意思を貫かないんだ。」と、手紙を源参河守範頼と御家人達へ出されましたとさ。

元暦二年(1185)二月小十六日庚午。關東軍兵爲追討平氏赴讃岐國。廷尉義經爲先陣。今日酉尅解纜。大藏卿泰經朝臣稱可見彼行粧。自昨日到廷尉旅館。而卿諌云。泰經雖不知兵法。推量之所覃。爲大將軍者。未必競一陣歟。先可被遣次將哉者。廷尉云。殊有存念。於一陣欲弃命云々。則以進發。尤可謂精兵歟。平家者結陣於兩所。前内府以讃岐國屋嶋爲城郭。新中納言〔知盛〕相具九國官兵。固門司關。以彦嶋定營。相待追討使云々。」今日。武衛歴覽山澤之間。於藍澤原。付參州廻李。重被遣御書。又被下御書於北條小四郎殿。齋院次官。比企藤内。同藤四郎等。是征平家之間各可同心之由也。

読下し                        かんとう ぐんぴょうへいし ついとう    ため  さぬきのくに  おもむ
元暦二年(1185)二月小十六日庚午。關東の軍兵平氏を追討せん爲、讃岐國へ赴く。

ていい よしつねせんじん な    きょうとりのこくともづな と   おおくらきょうやすつねあそん か  よそおい み  べ      しょう    きのう よ   ていい   りょかん  いた
廷尉義經先陣と爲し、今日酉尅纜を解く。大藏卿泰經朝臣彼の行粧を見る可しと稱し、昨日自り廷尉の旅館に到る。

しか   きょういさ    い      やすつねひょうほう しらず  いへど   すいりょうのおよ ところ  だいしょうぐんたるは  いま かなら     いちじん きそ      か
而して卿諌めて云はく。泰經兵法を知不と雖も、推量之覃ぶ所は、大將軍爲者、未だ必ずしも一陣を競はざる歟。

ま   じしょう  つか  さる  べ   やてへ    ていい   い     こと  ぞんねんあ      いちじん をい いのち すて   ほつ   うんぬん
先ず次將を遣は被る可き哉者り。廷尉云はく。殊に存念有りて、一陣に於て命を弃んと欲すと云々。

すなは もつ しんぱつ   もつと せいへい いひ べ   か
則ち以て進發す。尤も精兵と謂つ可き歟。

へいけは じんを りょうしょ むす    さきのないふ  さぬきのくにやしま  もつ  じょうかく な     しんちうなごん 〔とももり〕   きゅうこく  かんぺい あいぐ
平家者陣於兩所に結び、前内府@は讃岐國屋嶋を以て城郭と爲し、新中納言〔知盛〕は九國の官兵を相具し、

もじぜき    かた    ひこしま  もつ  えい  さだ    ついとうし  あいま     うんぬん
門司關を固め、彦嶋を以て營と定め、追討使を相待つと云々。」

きょう   ぶえい さんたく  れきらんのかん  あいざわはら  をい    さんしゅう かいり   ふ      かさ    おんしょ  つか  さる
今日、武衛山澤を歴覽之間、藍澤原
Aに於て、參州の廻李に付して、重ねて御書を遣は被る。

また おんしょ を ほうじょうのこしろうどの さいいんじかん  ひきのとうない  おな    とうしろう ら   くださる
又、御書於北條小四郎殿・齋院次官・比企藤内・同じき藤四郎等に下被る。

これ  へいけ  せい    のかん おのおのどうしんすべ のよしなり
是、平家を征する之間、各 同心可し之由也。

参考@前内府は、平宗盛。
参考A
藍澤原は、神奈川県横浜市瀬谷区相沢。山内庄内相模國鎌倉郡瀬谷村字相澤。又は静岡県御殿場市新橋鮎沢。18日の記事から後者だと思う。

現代語元暦二年(1185)二月小十六日庚午。関東の軍隊は、平家追討のため、讃岐国(香川県)へ向かいます。
源九郎義経様は、先陣として今日船出しました。
大蔵卿藤原泰経様は、源九郎義経様の晴れ晴れしい出陣の様子を見たいと云って、前の日から源九郎義経様の旅の宿に来ていました。そして、泰経卿は注意しようとして言うのには、「泰経は武士ではないので兵法は知らないけれども、おおよそ推測してみると、大将軍は昔から一戦の先陣を争ったりしないで、先に副将を行かせるんじゃないの。」
源九郎義経様は言いました。「私のは思うところがあって、戦毎に死ぬ気でやっているんです。」だとさ。と言い切って直ぐに出発をしました。さすがに鍛えられた強い軍人だと云えるんじゃない。
一方平家は、陣営を二箇所に分けて構え、前内大臣の平宗盛は讃岐国(香川県)の屋島に陣営を築いて、新中納言平知盛は九州の兵隊を集めて門司関(下関)を見張って、彦島を本陣と決めて、源氏軍を待ち構えているのだとさ。

今日、頼朝様は、相州鎌倉郡の山野を駆け巡っていたので、藍沢原(横浜市瀬谷区相沢)で、源三河守範頼様の幕府経由で廻り届いた手紙に添えて、追加のお手紙をお渡しになりました。又、別な手紙を北条小四郎義時殿、齋院次官中原親能、比企藤内朝宗、比企四郎能員達にも出されました。それは、平家を滅ぼすまでは、皆で心を一つにして戦うようにでした。

元暦二年(1185)二月小十八日壬申。廷尉昨日自渡部欲渡海之處。暴風俄起。舟船多破損。士卒船等一艘而不解纜。爰廷尉云。朝敵追討使暫時逗留。可有其恐。不可顧風波之難云々。仍丑尅。先出舟五艘。卯尅着阿波國椿浦。〔常行程三ケ日也〕則率百五十余騎上陸。召當國住人近藤七親家爲仕承。發向屋嶋。於路次桂浦。攻櫻庭介良遠〔散位成良弟〕之處。良遠辞城逐電云々。」入夜。武衛自豆州還着鎌倉給云々。 

読下し                       ていいさくじつ  わたなべ よ  とかい   ほつ   のところ  ぼうふにはか お     しゅうせんおお はそん
元暦二年(1185)二月小十八日壬申。廷尉昨日、渡部@自り渡海を欲する之處、暴風俄に起き、舟船多く破損す。

しそつ  ふねらいっそう  してともづな とかず  ここ ていい い
士卒が船等一艘と而纜を不解。爰に廷尉云はく。

ちょうてきついとうし ざんじ  とうりゅう   そ   おそ あるべし ふうはのなん かえりみ べからず うんぬん
朝敵追討使が暫時の逗留、其の恐れ可有。風波之難を顧る不可と云々。

よつ うしのこく  ま   ふねごそう  だ     うのこく  あわのくにつばきうら  つ      〔つね  こうてい みっかびなり 〕
仍て丑尅、先ず舟五艘を出す。卯尅に阿波國椿浦
Aへ着く。〔常の行程は三ケ日也〕

すなは ひゃくごじうよき   ひき  じょうりく   とうごくじうにんこんどうしちちかいえ  め  ししょう   な    やしま  はっこう
則ち百五十余騎を率い上陸す。當國住人近藤七親家
Bを召し仕承と爲し、屋嶋へ發向す。

ろじ    かつらうら をい   さくらばのすけよしとお 〔さんにしげよし おとうと〕  せ    のところ  よしとおしろ  じ  ちくてん   うんぬん
路次の桂浦
Cに於て、櫻庭介良遠D〔散位成良Eが弟〕を攻める之處。良遠城を辞し逐電すと云々。」

よ   い     ぶえい ずしゅうよ  かまくら  かえ  つ   たま   うんぬん
夜に入り、武衛豆州自り鎌倉へ還り着き給ふと云々。

参考@渡部は、渡辺の津で嵯峨源氏の渡辺綱で有名。現在の大阪府大阪市北区中之島3丁目の渡辺橋両岸付近。
参考A阿波國椿浦は、徳島県阿南市椿町カ?
参考B近藤七親家は、堀田璋左右先生は板西郡に住せりとあるので、徳島県板野郡板野町。
参考C桂浦は、堀田璋左右先生は勝浦郡小松島と書かれているので、徳島県小松島市小松島。
参考D櫻庭介良遠は、堀田璋左右先生はに桜間と書く(平家物語も同じ)ので、阿波国名西郡桜間だと書いておられるので、現名西郡石井町高川原桜間。
参考E散位成良は、桜間城主田口成良。養和元年(1181)九月大廿七日に平家の先鋒として伊予へ攻め込み、河野四郎通信と戦い勝利している。

現代語元暦二年(1185)二月小十八日壬申。源九郎義経様は、昨日渡部の津から船で海を渡ろうとしたところ、急に暴風が起きて、船が沢山壊れてしまいました。それで兵達は、船を一艘たりとも出そうとはしませんでした。
そしたら、源九郎義経様は言いました。「京都朝廷の敵を追討する役目が多少でも留まり待つことは、朝廷に恐れ多いことである。風や波による損害を考えるべきではない。」だとさ。そう云うので、午前二時頃にまず五艘の船を出航させました。午前六時頃に阿波国(徳島県阿南市)椿港に着きました。〔普通なら三日はかかる行程です〕直ぐに百五十騎の武士を連れて上陸しました。
阿波国の豪族の近藤七親家を呼びつけて、案内人として屋島へ向けて出発しました。途中の桂浦で、桜庭介良遠〔散位成良の弟〕を攻めたところ、良遠は城を捨てて逃げてしまいましたとさ。

一方関東では、夜になって頼朝様は伊豆から鎌倉へ帰りついたんだとさ。

元暦二年(1185)二月小十九日癸酉。南御堂事始也。武衛〔香御水干。駕鴾毛御馬〕渡御其所。御堂地南山麓搆假屋。御臺所同入御。爲覽今日儀也。申尅。番匠等賜祿。被引御馬云々。其後熊野山領參河國竹谷。蒲形兩庄事。有其沙汰。當庄根本者。開發領主散位俊成奉寄彼山之間。別當湛快令領掌之。讓附女子。件女子始爲行快僧都之妻。後嫁前薩摩守平忠度朝臣。忠度於一谷被誅戮之後。爲没官領武衛令拝領給之地也。而領主女子令懇望于本夫行快云。早愁申子細於關東。可令安堵件兩庄。若然者。可讓未來於行快子息。〔女子腹云々〕就此契約。行快僧都自熊野差進使者。〔僧榮増〕所言上也。謂行快者。行範一男。爲六條廷尉禪門〔爲義〕外孫。於源家其好已異他。仍本自被重之處。此愁訴出來之間。無左右加下知給。且又御敬神之故也云々。」又廷尉〔義經〕昨日終夜。越阿波國与讃岐之境中山。今日辰尅。到于屋嶋内裏之向浦。燒拂牟礼。高松民屋。依之。先帝令出内裏御。前内府又相率一族等浮海上。廷尉〔著赤地錦直垂。紅下濃鎧。駕黒馬〕相具田代冠者信綱。金子十郎家忠。同余一近則。伊勢三郎能盛等。馳向汀。平家又棹船。互發矢石。此間。佐藤三郎兵衛尉繼信。同四郎兵衛尉忠信。後藤兵衛尉實基。同養子後藤新兵衛尉基 等。燒失内裏并内府休幕以下舎屋。黒煙聳天。白日蔽光。于時越中二郎兵衛尉盛継。上総五郎兵衛尉忠光〔平氏家人〕等。下自船而陣宮門前。合戰之間。廷尉家人継信被射取畢。廷尉太悲歎。屈一口衲衣葬千株松本。以秘藏名馬。〔号大夫黒。元院御厩御馬也。行幸供奉時。自仙洞給之。毎向戰場駕之〕賜件僧。是撫戰士之計也。莫不美談云々。」同日。住吉神主津守長盛參洛。經 奏聞稱。去十六日。當社行恒例御神樂之間。及子尅。鳴鏑出自第三神殿。指西方行云々。此間奉仕追討御祈。靈驗掲焉者歟。

読下し                       みなみみどう ことはじめなり ぶえい 〔こう ごすいかん  つきげ   おんうま  が   〕  そ  ところ  とぎょ
元暦二年(1185)二月小十九日癸酉。南御堂の事始也。武衛〔香の御水干。鴾毛@の御馬に駕す〕其の所へ渡御す。

みどう   ち  みなみやま ふもと かりや  かま   みだいどころおな   にゅうぎょ   きょう   ぎ   み  ためなり
御堂の地の南山の麓に假屋を搆ふ。御臺所同じく入御す。今日の儀を覽ん爲也。

さるのこく ばんしょうらろく たま       おんうま  ひかれ   うんぬん
申尅、番匠等祿を賜はる。御馬を引被ると云々。

そ   ご  くまのさんりょうみかわのくにたけのや  がまがた  りょうしょう こと  そ   さた  あ
其の後、熊野山領參河國竹谷A・蒲形Bの兩庄の事、其の沙汰有り。

とうしょう こんぽんは  かいはつりょうしゅさんにとしなり か やま  よ たてまつ のかん  べっとうたんかい これ りょうしょうせし    じょし  ゆず  ふ
當庄の根本者、開發領主散位俊成彼の山に寄せ奉る之間、別當湛快 之を領掌令め、女子に讓り附す。

くだん じょし はじ ぎょうかいぞうづのつまたり のち さきのさつまのかみたいらのただのりあそん とつ
件の女子始め行快僧都之妻爲。後に前薩摩守平忠度朝臣に嫁ぐ。

ただのりいちのたに をい ちうりくさる ののち   もっかんりょう な   ぶえいはいりょうせし たま  のちなり
忠度一谷に於て誅戮被る之後、没官領と爲し武衛拝領令め給ふ之地也。

しか    りょうしゅ  じょしもと おっとぎょうかいに こんもうせし    い
而るに領主の女子本の夫行快于 懇望令めて云はく。

はやばや しさいを かんとう  うれ  もう    くだん りょうしょう  あんどせし  べ
早〃と子細於關東へ愁ひ申し、件の兩庄を安堵令む可し。

も しからずんば  みらいを ぎょうかい しそく 〔 じょし  はら うんぬん〕    ゆず  べ
若し然者、未來於行快の子息〔女子が腹と云々〕に讓る可し。

かく  けいやく  つ    ぎょうかいそうづくまのよ    ししゃ 〔そうえいぞう〕   さしすす  ごんじょう   ところなり
此の契約に就き、行快僧都熊野自り使者〔僧榮増〕を差進め言上する所也。

ぎょうかい い   は  ぎょうはん いちなん  ろくじょうていいぜんもん〔ためよし〕がいそんたり  げんけ  をい  そ  よしみすで  た   こと
行快と謂う者、行範が一男、六條廷尉禪門〔爲義〕外孫爲。源家に於て其の好已に他に異なる。

よつ  もとよ おもんずるのところ  こ  しゅうそしゅつらい   のかん   そう な    げち   くは  たま   かつう また  ごけいしんのゆえなり  うんぬん
仍て本自り重被之處、此の愁訴出來する之間、左右無く下知を加へ給ふ。且は又、御敬神之故也と云々。」

参考@鴾毛は、葦毛でやや赤みをおびたもの。
参考A竹谷は、愛知県蒲郡市竹谷町に竹谷神社あり。
参考B蒲形は、愛知県蒲郡市御幸町に蒲形公園あり。竹谷蒲形は隣町。

また  ていい 〔よしつね〕 さくじつよもすがら あわのくにとさぬきのさかいなかやま  こ     きょうたつのこく  やしまのだいりのむかいうらにいた
又、廷尉〔義經〕昨日終夜。阿波國与讃岐之境中山Cを越へ、今日辰尅、屋嶋内裏之向浦于到る。

 むれ    たかまつ  みんや  やきはら    これ  よつ    せんていだいり  い   せし  たま    さきのないふまた  いちぞくら  あいひき  かいじょう  うか
牟礼D・高松Eの民屋を燒拂うF。之に依て、先帝内裏を出で令め御う。前内府又、一族等を相率ひ海上に浮ぶ。

ていい 〔あかぢにしきのひたたれ べにした ご  よろい つ     くろうま  が   〕  たしろかじゃのぶつな  かねこのじうろういえただ おな  よいちちかのり
廷尉〔赤地錦直垂、 紅下GHの鎧を著け、黒馬に駕す〕田代冠者信綱、金子十郎家忠、同じき余一近則

いせのさぶろうよしもりら   あいぐ    みぎわ はせむか   へいしまた  ふね  さお      たがい やせき  はつ
伊勢三郎能盛等を相具し、汀へ馳向う。平家又、船に棹させ、互に矢石を發す。

参考C中山は、徳島県阿波氏市場町山野上中山だとすれば、県道2号線沿いに讃岐津田へ出られる。徳島から桜間を通って丁度良い。
参考D牟礼は、香川県高松市牟礼町牟礼。
参考E
高松は、高松市高松。牟礼・高松共に古高松南駅の近所。
参考
F民屋を燒拂うは、大松明と云う。
参考G紅下は、ヤシ科の常緑高木である檳榔樹(びんろうじゅ)の果実を煮詰めた煎汁で褐色、黒褐色に布を染める檳榔子黒を行う場合、あらかじめ下染として紅色に染めること。紅の下染の略。紅下黒は、深い味わいが出る。藍下もある。(着物用語辞典HPから抜粋)
参考Hは、村濃の事で、全体を均等にぼかすのではなく、同色でところどころに濃い色をおき、その周囲をだんだんと薄くなるようにぼかして染めるぼかし染。(着物用語辞典HPから抜粋)

こ   かん  さとうさぶろうひょうえのじょうつぐうのぶ おな しろうひょうえのじょうただのぶ ごとうひょうえのじょうさねもと おな ようしごとうしんんひょうえのじょうもときよら
此の間、佐藤三郎兵衛尉繼信・同じき四郎兵衛尉忠信、後藤兵衛尉實基、同じき養子後藤新兵衛尉基C等、

だいりなら     ないふ  きゅうばくいげ  しゃおく  しょうしつ   こくえんてん そび    はくじつ  ひかり おお
内裏并びに内府の休幕以下の舎屋を燒失す。黒煙天に聳へ、白日の光を蔽う。

ときにえっちょうじろうひょうえのじょうもりつぐ かずさのごろうひょうえのじゅただみつ〔へいけけにん〕 ら  ふねよ  お   て   みやもん まえ じん
時于越中二郎兵衛尉盛継、 上総五郎兵衛尉忠光〔平氏家人〕等、船自り下り而、宮門の前に陣す。

かっせんのかん ていい   けにんつぐのぶ いとられをはんぬ
合戰之間、廷尉が家人継信、射取被畢。

ていいはなは ひかん   ひとくち  のうえ   くつ    せんじゅまつ もと ほうむ
廷尉太だ悲歎し、一口の衲衣を屈して千株松の本に葬る。

ひぞう   めいば
秘藏の名馬

 〔 たいふぐろ  ごう    もと  いん  みうまや おんうまなり  みゆき  ぐぶ   とき  せんとうよ   これ  たま      せんじょう むか ごと   これ  が    〕
〔大夫黒と号す。元は院の御厩の御馬也。行幸に供奉の時、仙洞自り之を給はる。戰場に向う毎に之に駕す〕

  もつ  くだん そう  たま      これせんし  ぶ    のはかりなり  びだんせず  なし  うんぬん
を以て件の僧に賜はる。是戰士を撫する之計也。美談不は莫と云々。」

どうじつ  すみよしかんぬしつかみながもりさんらく  そうもん  へ   しょう   さんぬ じうろくにち  とうしゃこうれい  おかぐら  おこな のかん  ねのこく  およ
同日、住吉神主津守長盛參洛し、奏聞を經て稱す。去る十六日、當社恒例の御神樂を行う之間、子尅に及び、

なりかぶらだいさん しんでんよ い     さいほう  さ     い    うんぬん  こ   かん  ついとう  おいのり  ほうし    れいけんけちえん  ものか
鳴鏑第三の神殿自り出で、西方を指して行くと云々。此の間、追討の御祈を奉仕す。靈驗掲焉の者歟

現代語元暦二年(1185)二月小十九日癸酉。今日は、南御堂の地鎮祭です。頼朝様〔香を焚き染めた水干を着て、月毛の馬に乗られ〕その場所へ参られました。南御堂建立の谷戸の南の山麓に、仮設小屋を作り、御臺所(政子)も一緒に入りました。今日の儀式を見るためです。午後四時ごろには、建築技術者に褒美を与えました。褒美に馬を引き出しました。

その後、熊野神社領地の三河国竹谷(蒲郡市竹谷町)蒲形(蒲郡市御幸町)の両方の荘園の事を、裁決なされました。これ等の荘園の本来は、開発した領主の散位俊成が熊野神社に寄付したので、熊野別当(長官)の湛快がこれを領有して、娘に譲渡しました。その娘は最初は行快僧都の妻でしたが、その後前薩摩守忠度朝臣と再婚しました。忠度は一ノ谷合戰で討たれてしまい、平家没官領として朝廷が召し上げて、後白河法皇から頼朝様が戴いた土地です。それだもんで、開発領主の俊成の娘は、先の夫の行快に泣きついて云うには、「さっさと事情を関東に泣きついて、その両方の荘園を与えて貰って下さい。もし、そうなれば、先々行快の子供〔彼女が生んだ〕に譲渡するから。」そこで、この話を了解して、行快僧都は熊野から使い〔僧の栄増〕を鎌倉へよこして申し上げて来ていることなのです。行快と云うのは、行範の息子で、頼朝様の祖父の廷尉禪門〔爲義〕の外孫に当たります。源氏の親戚なので、縁は他人とは一緒に出来ないので、元々大事にしようと思っていたので、この窮状訴えがあったので、是非も無く命令を出しました。信仰心も厚いのでなおさらだとさ。

一方、源九郎義經は、昨日の夜遅くに、阿波国と讃岐国の境の中山を越えて、今日の午前八時頃に屋島の平家軍の向かいの浦へ着きました。牟礼や高松の民家を焼き払い、大軍に装ったので、その煙を見て安徳天皇は建物から出られ、宗盛は平家一族を連れて船に乗り海上へ逃げ出しました。

源九郎義經様〔赤地錦の直垂に、紅下濃の鎧を着けて、黒馬に跨っています〕は、田代冠者信綱、金子十郎家忠、息子の余一近則、伊勢三郎能盛を引き連れて、波打ち際へ攻め向かいました。平家は又、船を移動させながら、弓矢を応戦をしました。

一方、佐藤三郎兵衛尉繼信・佐藤四郎兵衛尉忠信・後藤兵衛尉實基・同養子後藤新兵衛尉基C等は、安徳天皇がおられた内裏や宗盛がいた陣営の建物を燃やしました。黒い煙が空へなびき、日の光を遮るほどでした。これを見た平家の家来の越中二郎兵衛尉盛継・上総五郎兵衛尉忠光達は、船を降りて宮門の前に陣営を構えました。合戦が始まると源九郎義經の家来の佐藤忠信が弓矢で討ち取られました。源九郎義經はとても悲しんで、一人のお坊さんにお願いして、千株松の根元に埋葬しました。大事にしている名馬〔大夫黒と呼ばれ、元々は後白河院の厩においていた馬で、法皇のお出ましにお供をするときに、院から戴いたのです。戦場に出るたびにこの馬に乗っていました〕をお布施としてそのお坊さんに与えました。この話は、自分の強い家来を大事に慰めた行いなので、美談だと褒めない人はありませんでしたとさ。

話し変わって、同じ日に住吉神社の神主津守長盛が京都へやってきて、院への取次ぎを通して云うには、先日の十六日に、住吉神社恒例のお神楽を奉納したら、真夜中の零時頃になって、音の出る鏑矢が神殿から飛び出し、西の方を目指して飛んでいきましたとさ。これは、平家追討のお祈りをしていたので、神様の霊験あらたかと云う事でしょうかねぇー。

元暦二年(1185)二月小廿一日乙亥。平家篭于讃岐國志度道塲。廷尉引八十騎兵。追到彼所。平氏家人田内左衛門尉歸伏于廷尉。亦河野四郎通信粧三十艘之兵船參加矣。義經主既渡阿波國。熊野別當湛増爲合力源氏同渡之由。今日風聞洛中云々。

読下し                      へいけ  さぬきのくに しどのどうじょう にこも    ていい はちじっき  へい  ひ    か  ところ  おいいた
元暦二年(1185)二月小廿一日乙亥。平家、讃岐國志度道塲@于篭る。廷尉八十騎の兵を引き、彼の所へ追到る。

へいしけにん たうちさえもんのじょう  ていい に きふく     また  こうののしろうみちのぶ さんじっそうのへいせん よそお   さんか  と
平氏家人田内左衛門尉、廷尉于歸伏す。亦、河野四郎通信、三十艘之兵船を粧いて參加す矣。

よしつねぬしすで あわのくに  わた   くまののべっとうたんぞう げんじ ごうりき   ため  おな    わた  のよし  きょう らくちう  ふうぶん   うんぬん
義經主既に阿波國へ渡る。熊野別當湛増源氏に合力せん爲、同じく渡る之由、今日洛中に風聞すと云々。

参考@志度道場は、香川県さぬき市志度の志度寺で、志度浦に辿り着いた霊木を尼凡薗子が草庵へ持ち帰り安置し、そののち霊木は本尊(十一面観音)として彫られ、堂宇が建立された。創建は推古天皇33年(626年)とされ、天武天皇10年(681年)には藤原不比等が堂宇を増築し、「志度道場」として名づけた。また、持統天皇76年(693年)には藤原房前が行基とともに堂宇を建立したと伝えている。ウィキペディアより

現代語元暦二年(1185)二月小二十一日乙亥。平家軍の一部が、讃岐国(香川県)志度の志度寺へ立てこもりました。源九郎義経様は、八十騎の軍隊を連れて、そこへ追いつきました。平家の家来の田内左衛門尉は、源九郎義経に降伏服従しました。又、河野水軍の河野四郎通信が三十艘の軍船を整えて参加しました。源九郎義経は阿波国へ船で行きました。それは熊野神社長官の湛増が源氏方へ加勢するために、同様に海を渡ると噂が流れましたとさ。

元暦二年(1185)二月小廿二日丙子。梶原平三景時以下東士。以百四十余艘。着屋嶋礒云々。

読下し                       かじわらのへいざかげときいげ とうし   ひゃくしじうよそう   もつ    やしま   いそ  つ    うんぬん
元暦二年(1185)二月小廿二日丙子。梶原平三景時以下の東士、百四十余艘を以て、屋嶋の礒へ着くと云々。

現代語元暦二年(1185)二月小二十二日丙子。梶原平三景時軍の関東の兵士が、百四十数艘の船で、屋島へ到着したんだとさ。

参考この時に、既に戦の終わった処へ梶原景時軍が来たと言う事で「今頃着いたか、六日の菖蒲(あやめ)、十日の菊」と云って冷やかす。これは五月五日の端午の節句に菖蒲を軒に葺き悪鬼を塞ぐのと九月九日の重陽の節句に菊の香りが邪気を祓う風習から、一日遅れでは役に立たないと馬鹿にしている。

元暦二年(1185)二月小廿七日辛巳。入夜。爲追討御祈。於加茂社。被行御神樂。有宮人曲云々。

読下し                       よ  い      ついとう おいのり  ため   かもしゃ   をい   おかぐら   おこな らる
元暦二年(1185)二月小廿七日辛巳。夜に入り、追討の御祈の爲、加茂社に於て、御神樂を行は被る。

みやびと きょうく あ   うんぬん
宮人の曲@有りと云々。

参考@宮人の曲は、現在でも、十二月十六日に鶴岡八幡宮の本宮御鎮座記念として祭儀の後17:00〜、舞殿で宮人の曲にあわせ「宮人の舞」を舞う。

現代語元暦二年(1185)二月小二十七日辛巳。夜になってから、平家追討を祈るため、加茂神社にお神楽を奉納しました。宮人の曲を奏でましたとさ。

元暦二年(1185)二月小廿九日癸未。加藤五郎入道參營中。被置一封状於御前。不事問落涙數行。小時申云。愚息景廉爲參州御共下向鎭西。而去月自周防國。欲令渡豊後國給之刻。景廉沈重病。然而乘病身於一葉之船。猶爲御共之由申送之。則此状也。凡奉爲君臨戰塲。入万死數。於今者亦被侵病。殆難免死歟。再不合眼者。老耄存命甚無所據云々。武衛乍拭御感涙。覽景廉之状。〔和字〕其趣常可候御座右之旨。兼日雖奉嚴命。臨天下重事之時。猶不可留之由思定之間。憖以赴西海之處。病痾已及危急。縱雖墜命。爲國敵被討之由。可被思食候歟之趣。可披露者。

読下し                       かとうごろうにゅうどう えいちう  さん    いっぷう  じょうをごぜん  おかれ     こと  とはざる  すうぎょう らくるい
元暦二年(1185)二月小廿九日癸未。加藤五郎入道@營中に參じ、一封の状於御前に置被て、事を問不に數行を落涙す。

しばらく     もう    い       ぐそくかげかど さんしゅう おんとも  な   ちんぜい  げこう
小時して申して云はく、愚息景廉、參州の御共と爲し鎭西へ下向す。

しか   さんぬ つき  すおうのくによ   げこう     ぶんごのくに わた  せし      ほつ  たま  のとき  かげかどおも やまい しず
而るに去る月、周防國自り下向し、豊後國へ渡ら令めんと欲し給ふ之刻、景廉重い病に沈む。

しかれども びょうしんをいちようのふね の    なおおんとも  な   のよし  これ  もう  おく   すなは このじょうなり
然而、病身於一葉之船に乘せ、猶御共を爲す之由、之を申し送る。則ち此状也。

およ  きみ おんため   せんじょう のぞ  ばんし  かず  い    いま  をい  はまたやまい おかさる   ほとん し   まぬ    がた  か
凡そ君の奉爲に、戰塲に臨み万死の數に入る。今に於て者亦病に侵被る。殆ど死を免かれ難き歟。

ふたたび め あわさずんば ろうもう ぞんめいはなは よんどころな  うんぬん  ぶえいごかんるい  ぬぐ  なが   かげかどのじょう 〔わじ〕    み
再び眼を不合者、老耄の存命甚だ據所無しと云々。武衛御感涙を拭い乍ら、景廉之状〔和字〕を覽る。

そ  おもむき つね  ござう   そうら  べ   のむね  けんじつげんめい たてまつ いへど   てんか  ちょうじの とき  のぞ
其の趣、常に御座右に候う可し之旨、兼日嚴命を 奉ると雖も、天下の重事之時に臨み、

なおとどま べからずのよしおも さだ    のかん なまじい もつ さいかい おもむ のところ びょうあすで  ききゅう  およ
猶留る不可之由思い定める之間、憖に以て西海に赴く之處、病痾已に危急に及ぶ。

たとい いのち おと  いへど   こくてき  ため  いられ   のよし  おぼ めさるそうろうべきかのおもむき ひろうすべ てへ
縱、命を墜すと雖も、國敵の爲に討被る之由、思し食被 候 可歟之趣、披露可し者り。

参考@加藤五郎入道は、景員で、治承四年「庚子」(1180)八月小廿七日条の石橋合戦の際に進退窮まり出家して走湯權現へ逃げ込んだ。

現代語元暦二年(1185)二月小二十九日癸未。加藤五景員入道が、幕府の頼朝様の前へ上がり、一通の手紙を目の前においたので、「どうしたんだ?」と尋ねると、泣き出しました。少しして言い出すには「愚息の加藤次景廉が源参河守範頼様のお供をして、九州へ下りました。しかし、先月周防国から下って、豊後国へ船で渡ろうとした時に、加藤次景廉は病気になってしまいました。それでも、病の体を船に乗せてまで、猶一層お供をしていると子の手紙で言ってきました。頼朝様のおんために戦場に向かっては何度も死の危険に出会い、今は病気に冒されている。とても死から逃れるのは難しいでしょう。二度と会えないかと思うと、年寄りが生きていてもかいがないというものです。」だとさ。頼朝様もその話を聞いてもらい泣きをしながら、加藤次景廉の手紙〔ひらがな〕を見ました。「何時も側近としてそばにいるように、念を入れて命令に従っていたが、天下の一大事に臨んで、これ以上じっとしていられないと、行かずに良いものをわざわざ行ったものだから、病気になって、しかも重いらしいじゃないか。例え病気で死んだとしても、戦働きで敵に殺された手柄にして犬死にはしないからさ。」と思っているからと、伝えました。

三月へ

吾妻鏡入門第四巻

inserted by FC2 system