吾妻鏡入門第四巻

元暦二年(1185)四月小「八月十四日文治元年と爲す」

元暦二年(1185)四月小四日丁巳。平家悉以討滅之由。去夜源廷尉〔義經〕使馳申京都。今日又以源兵衛尉弘綱。註傷死生虜之交名。奉 仙洞云々。

読下し                     へいけことごと  もつ とうめつのよし   さぬ  よげんていい  〔よしつね〕   つか  きょうと  は   もう
元暦二年(1185)四月小四日丁巳。平家悉く以て討滅之由、去る夜源廷尉〔義經〕が使ひ京都へ馳せ申す。

きょう  また   げんひょうえのじょうひろつな  もつ   しょうしいけどりのきょうみょう  ちう    せんとう  たてまつ   うんぬん
今日又、 源兵衛尉弘綱を 以て、傷死生虜之交名
@を註し、仙洞へ奉ると云々。

参考@交名は、名前が交わるので、名簿。

現代語元暦二年(1185)四月小四日丁巳。平家は、全て打ち滅ぼし事を、夕べ源廷尉〔義経〕の伝令が京都へ走って行って申し上げました。今日もまた、源兵衛尉広綱を使いにして、死傷者や生け捕りになった人の名簿を書き出して、後白河法皇の仙洞へ提出されたんだとさ。

元暦二年(1185)四月小五日戊午。大夫尉信盛爲 勅使赴長門國。征伐已顯武威。大功之至殊所感思食也。又寳物等無爲可奉入之由。依被仰義經朝臣也。

読下し                     たいふのじょうのぶもり ちょくし  な  ながとのくに  おもむ  せいばつすで ぶい  あらは
元暦二年(1185)四月小五日戊午。大夫尉信盛、勅使と爲し長門國へ赴く。征伐已に武威を顯す。

だいこう の いた  こと  かん    おぼ   め  ところなり  また  ほうもつ ら  むい   い たてまつ べ    のよし  よしつねあそん  おお  られ    よつ  なり
大功之至り殊に感じ思し食す所也。又、寳物@等無爲に入れ奉る可しA之由、義經朝臣に仰せ被るに依て也。

参考@寳物等は、三種の神器。
参考A
無爲に入れ奉る可しは、三種の神器を無事に取り返して朝廷へ提出するように。と云っている。何故なら京都では後鳥羽天皇が即位したが、三種の神器を安徳天皇から渡され譲位されなくてはいけない。

現代語元暦二年(1185)四月小五日戊午。大夫尉信盛は、朝廷からの使者として長門国へ出発しました。平家討伐に武士の勢いを表したので、大きな手柄を立てたことに、後白河法皇は特にお喜びになったからです。又、三種の神器を無事に届けるように、義経に命じられるからです。

元暦二年(1185)四月小十一日甲子。未尅。南御堂柱立也。武衛監臨給。此間西海飛脚參。申平氏討滅之由。廷尉進一巻記。〔中原信泰書之云々〕是去月廿四日於長門國赤間關海上。浮八百四十余艘兵船。平氏又艚向五百餘艘合戰。午尅逆黨敗北。

読下し                     ひつじのこく みなみみどう りっちゅうなり ぶえいかんりん たま
元暦二年(1185)四月小十一日甲子。未剋、南御堂@柱立也。武衛監臨し給ふ。

こ   かん さいかい  ひきゃくさん      へいしとうめつのよし  もう
此の間、西海の飛脚参じて、平氏討滅之由を申す。

ていい  いっかん き 〔なかはらののぶやす これ か  うんぬん〕   しん
廷尉一巻の記〔中原信泰
A之を書くと云々〕を進ず。

これ さんぬ つきにじうよっか  ながとのくにあかまぜき かいじょう をい   はっぴゃくしじうよそう  へいせん  う
是、去る月廿四日、長門國赤間關の海上に於て、八百四十餘艘の兵舩を浮かべる。

へいし また  ごひゃくよそう  こ   むか  かっせん   うまのこく  ぎゃくとうはいぼく
平氏又、五百餘艘で艚ぎ向ひ合戰す。午尅、逆黨敗北す。

参考@南御堂は、後の勝長寿院。
参考A中原信泰は、源九郎義經のスポークスマンで色々と書き残したので、九条兼実の日記「玉葉」や藤原忠親の日記「山槐記」等に彼の名が出てくる。

現代語元暦二年(1185)四月小十一日甲子。未の刻(午後二時頃)に南御堂(勝長寿院)の立柱式(建前)です。頼朝様も立ち会われました。そこへ九州からの伝令が到着して、平家を滅亡させた事を申し上げました。廷尉義経は一巻の巻物の記録〔中原信泰が書きましたとさ〕をよこしました。これは、先月二十四日に長門国(山口県)赤間関の海上に、八百四十以上の船を用意しました。平家もまた、五百艘以上で船を漕ぎ向かって戦いました。昼頃に、反逆者の平家は負けました。

 一先帝没海底御。
 一入海人々
  二位尼上
  門脇中納言〔教盛〕      新中納言〔知盛〕      平宰相〔經盛先出家歟〕
  新三位中將〔資盛〕      小松少將有盛       左馬頭行盛
 一若宮并建礼門院無爲奉取之
 一生虜人々
  前内大臣          平大納言〔時忠〕      右衛門督〔C宗〕
  前内藏頭信基〔被疵〕     左中將〔時實同上〕     兵部少輔尹明
  内府子息六歳童形〔字副將丸〕
   此外
  美濃前司則C        民部大夫成良       源大夫判官季貞
  攝津判官盛澄        飛騨左衛門尉經景     後藤内左衛門尉信康
  右馬允家村
   女房
  師典侍〔先帝御乳母〕     大納言典侍(ないしのすけ)〔重衡卿妻〕   師局〔二品妹〕
  按察局〔奉抱先帝雖入水存命〕
   僧
  僧都公眞          律師忠快         法眼能圓
  法眼行明〔熊野別當〕
   爲宗分交名且如此。々外男女生取事追可注申。又内侍所神璽雖御坐。寳劔紛失。愚慮之所覃奉搜求之。
藤判官代跪御前。讀申此記。因幡守。并俊兼。筑前三郎等候其砌。武衛則取之。自令巻持之給。向鶴岳方令坐給。不能被發御詞。柱立上棟等事終。匠等賜祿。漸令還營中給之後。召使者。合戰間事。具被尋下之云々。

読下し

  ひとつ さき みかどかいてい ぼつ たま
 一 先の帝海底に没し御う。

  ひとつ うみ  い     ひとびと
 一 海に入るの人々

     にいのあまうえ
  二位尼上

     かどわきのちうなごんのりもり         しんちうなごん とももり          へいのさいしょうつねもり さき  しゅっけか
  門脇中納言〔教盛〕    新中納言〔知盛〕    平宰相〔經盛、先に出家歟〕

     しんざんみちうじょうすけもり         こまつのしょうしょうありもり           さまのかみゆきもり
  新三位中將〔資盛〕    小松少將有盛      左馬頭行盛

  ひとつ わかみや なら  けんれいもにん ぶい  これ  と  たてまつ
 一 若宮@并びに建礼門院無爲に之を取り奉る

参考@若宮は、守貞親王で、承久の乱後に鎌倉幕府のおかげで子供が後嵯峨天皇になり、天皇無経験で後高倉院になり院政を行う。

  ひとつ いけど    ひとびと
 一 生虜るの人々

    さきのないだいじん               へいだいなごん ときただ        うえもんのかみきよむね
  前内大臣        平大納言〔時忠A    右衛門督〔C宗〕

    さきのくらのかみんおぶもときずされ     さちうじょう ときざねどうじょう       ひょうぶしょうゆうこれあき
  前内藏頭信基〔疵被る〕  左中將〔時實同上B   兵部少輔尹明

    ないふ しそく ろくさい  どうぎょう あざ ふくしょうまる
  内府が子息六歳の童形〔字を副将丸〕

参考A平大納言〔時忠〕は、彼だけが平家都落ちの際に官職を剥奪されず、朝廷とのパイプ役で残った。
参考B左中將時實は、時忠の長男。

      こ   ほか
   此の外

    みののぜんじのりきよ               みんぶのだいぶしげよし           げんだいぶほうがんすえさだ
  美濃前司則C       民部大夫成良C      源大夫判官季貞

    せっつのほうがんもりずみ             ひだのさえもんのじょうつねかげ       ごとうのないさえもんのじょうのぶやす
  攝津判官盛澄       飛騨左衛門尉經景    後藤内左衛門尉信康

    うまのじょういえむら
  右馬允家村

      にょぼう
   女房

    そちのてんじさき みかど  めのと     だいなごんないしのすけしげひらきょう つま  そちのつぼねにほん いもうと 
  師典侍〔先の帝の御乳母〕 大納言典侍〔重衡卿が妻D 師局〔二品の妹E

    あぜのつぼねさき みかど いだ たてまつ じゅすい いへど ぞんめい 
  按察局〔先の帝を抱き奉り入水すと雖も存命す〕

      そう
   僧

    そうづきんしん                    りっしちうかい                   ほうげんのうえん
  僧都公眞         律師忠快F        法眼能圓

    ほうげんぎょうみょう くまのべっとう
  法眼行明〔熊野別當〕

      むねとたる ぶん きょうみょう かつう かく  ごと    こ  ほか  だんじょいけど  ことおつ  ちう  もう  べ
   宗爲の分の交名、且は此の如し。々の外、男女生取る事追て注し申す可し。

       また ないしどころ  しんじ  おは    いへど    ほうけん ふんしつ     ぐりょの  およ  ところ  これ  さが  もと たてまつ
   又、内侍所、神璽は御坐すと雖も、寳劔は紛失すG。愚慮之覃ぶ所、之を搜し求め奉る。

参考C民部大夫成良は、田口重能。平家物語では彼が平家を裏切ったことになっているが、ここで生け捕られているので裏切っては居ない。
参考D重衡卿が妻は、輔子。
参考E師局〔二品の妹〕は、領子。
参考F律師忠快は、小河律師忠快、、台密小川流の祖。平教盛の子、丹波小河庄(現、京都府亀岡市千代川町小川)。後に鎌倉へ連れてこられて八幡宮寺の供僧となる。
参考G寳劔は紛失すを、愚管抄では武家政権の時代になったので、天皇家では剣がいらなくなったので、無くなったと書いている。

現代語

一、先の天皇は海へ沈んでしまいました。
一、海に沈んでしまった人は
  
二位尼上、門脇中納言〔教盛〕、新中納言〔知盛〕平宰相〔經盛、先に出家か〕
  新三位中将〔資盛〕、小松少将有盛、左馬頭行盛
一 若宮(守貞親王)と建礼門院は無事に捕まえさせてもらいました
一 生け捕った人々は、
  
前内大臣(宗盛)、平大納言〔時忠〕、右衛門督〔C宗〕(宗盛子)
  
前内蔵頭信基〔疵を受ける〕、左中将〔時実同上〕、兵部少輔尹明
  内府が子で六歳の童〔字を副將丸〕
此の外
 美濃前司則清、民部大夫成良、源大夫判官季貞
 摂津判官盛澄、飛騨左衛門尉経景、後藤内左衛門尉信康
 右馬允家村
女房
 師典侍〔先の帝の御乳母〕、大納言典侍〔重衡卿が妻
輔子〕、師局〔二品(平時子)の妹〕
 按察局〔先の安徳天皇を抱いて入水したけれど生き残った〕

 僧都公眞、律師忠快、法眼能円
 法眼行明〔熊野別当(長官)〕

主たる人達の名簿は、このとおりです。この外に、男女を生取った事は、追て記入し提出します。又、内侍所(の鏡)と神璽(判子)は有りますけれど、宝剣はなくしました。愚かな私の配慮を以てこれを探しております。

読下し

とうのほうがんだいごぜん ひざまづ こ   き   よ   もう      いなばのかみなら   としかね  ちくぜんのさぶろうら そ みぎり そうら
藤判官代御前に跪き、此の記を讀み申す@。因播守并びに俊兼、筑前三郎等其の砌に候う。

ぶえい  すなは これ  と     みづか これ  ま   も   せし  たま    つるがおか ほう むか   すわ  せし  たま
武衛、則ち之を取り、自ら之を巻き持た令め給ひ、鶴岡の方に向ひ
A座ら令め給ふ。

おんことば はつ られ   あたはず はしらだて じょうとうら ことおわ    たくみらろく  たま
御詞を發せ被るに不能。柱立、上棟等の事終り、匠等禄を賜はる。

ようやく えいちう かえ  せし  たま  ののち  ししゃ    め     かっせん かん  こと  つぶ   これ  たず  くださる    うんぬん
漸く營中へ還り令め給ふ之後、使者を召し、合戰の間の事を具さに之を尋ね下被ると云々。

参考@此の記を讀み申すは、朗読をしているので折り紙と推測できる。
参考A鶴岡の方に向ひは、遥拝している。

現代語

藤大和判官代邦道が前に跪き、この文書を読み上げました。因幡守大江広元と筑後權守俊兼、筑前三郎惟宗孝尚達がそばにおりました。頼朝様は、直ぐにその文書を取上げ、自分で巻いて持たれまして、鶴岡八幡宮の方に向かってお座りになられました。お言葉を発することもありませんでした。立柱、上棟式を終えて、工匠達に褒美を与えました。やっと幕府へ帰られた後、伝令をお呼びになり、合戦の次第を詳しくお尋ねになられましたとさ。

元暦二年(1185)四月小十二日乙丑。平氏滅亡之後。於西海可有沙汰条々。今日被經群議云々。參州暫住九州。没官領以下事。可令尋沙汰之。廷尉相具生虜等。可上洛之由。被定云々。則雜色時澤里長等爲飛脚赴鎭西云々。

読下し                      へいしめつぼうののち  さいかい  をい   さた  あ   べ  じょうじょう  きょう ぐんぎ  へられ    うんぬん
元暦二年(1185)四月小十二日乙丑。平氏滅亡之後、西海に於て沙汰有る可しの条々、今日群議を經被る@と云々。

さんしゅう しばら きゅうしゅう じう    もっかんりょう  いげ  こと  これ たず  さた  せし  べ
參州、暫く九州に住しA、没官領B以下の事、之を尋ね沙汰令む可し。

ていい   せいりょら   あいぐ    じょうらくすべ  のよし  さだ  らる    うんぬん
廷尉は生虜等を相具し、上洛可し之由、定め被ると云々。

すなは ぞうしきときさわ さとながら ひきゃく な     ちんぜい おもむ  うんぬん
則ち雜色時澤、里長等飛脚と爲し、鎭西へ赴くと云々。

参考@群議を經被るは、会議をして答えを出している。
参考A暫く九州に住しは、占領軍司令官として終戦処理をする。
参考B没官領は、平家没官領と云って平家が所有していた領家職や地頭職を取上げ、一旦朝廷所領とした。しかし殆どは頼朝に与えられる。

現代語元暦二年(1185)四月小十二日乙丑。平家が滅亡した後は、中国、四国、九州地方においてする占領行政方法を会議で決められたんだとさ。源参河守範頼様は、暫く九州に駐留し、平家から取上げた領地を始めとする領主達の行方を詳しく聞きだして行政をするように。廷尉義経は、捕虜を連れて、京都へ上がるようにと、お決めになられましたとさ。直ぐに雑用の時沢と里長を伝令として、九州へ行かせましたとさ。

元暦二年(1185)四月小十三日丙寅。武藏國威光寺院主長榮。懇祈日夜不怠。然平家滅亡畢。有御感沙汰之處。爲小山太郎有高。被押領寺領之由。捧去年九月所給御下文所訴申也。仍今日被經沙汰。帶御下文之上者。失其功成濫妨。非能治之計。如元可返付之由。因幡守廣元依加下知。主計允行政。右馬允遠元。甲斐小四郎秋家。判官代邦通。筑前三郎孝尚等連署云々。

読下し                      むさしのくに いこうじ  いんじゅちょうえい こんきにちやおこたらず
元暦二年(1185)四月小十三日丙寅。武藏國威光寺@の院主長榮、懇祈日夜不怠。

しか    へいけいめつぼう をはんぬ ぎょかん さた  あ  のところ  おやまのたろうありたか  ため    じりょう  おうりょうされ  のよし
然るに平家滅亡し畢。 御感の沙汰有る之處、小山太郎有高
Aの爲に、寺領を押領被る之由、

きょねんくがつ たまは ところ おんくだしぶみ  ささ うった もう ところなり
去年九月、給る所の御下文
Bを 捧げ訴へ申す所也。

よつ  きょう  さた   へられ  おんくだしぶみ おび のうえは  そ   こう  うしな  らんぼう  な      よきおさ  のはかり  あらず
仍て今日沙汰を經被、御下文を帶る之上者、其の功を失ひ濫妨を成すは、能治め之計に非。

もと  ごと  かえしつけ べしのよし いなばのかみひろもと  げち くは      よつ
元の如く返付る可之由、因幡守廣元
C下知を加へるに依て、

かぞえのじょうゆきまさ    うまのじょうとおもと  かいのこしろうあきいえ   ほうがんだいくにみち ちくぜんさぶろうたかなおら れんしょ   うんぬん
主計允藤原行政、右馬允遠元、甲斐小四郎秋家、判官代邦通、筑前三郎孝尚等 連署すと云々。

参考@威光寺は、川崎市多摩区長尾三丁目の妙楽寺がかつての源氏祈願寺の長尾山威光寺跡と云われる。長尾寺の名も同一。妙楽寺そばに礎石が残る。
参考A
小山太郎有高は、横山氏の四代目孝兼の長男時重は粟飯原を性とし町田市相原に、四男小山経時の子の有高は町田市小山にいたといわれる。「伝承によるとこの地に小山太郎の城址があり、いまの矢懸は矢の稽古をしたところで、宮上部落の南端まちば(的場)はその的を置いたところだと伝えている。」昭和51年発行「相模原の史跡」一相原地区(5)小山の史跡から2016.06.21訂正
参考B給る所の御下文は、宛がい状。
参考C因幡守廣元は、大江広元で公文所別当。後の五人は公文所所司。

現代語元暦二年(1185)四月小十三日丙寅。武蔵国の威光寺の責任者長栄は、平家討伐の祈りを日夜怠けずに行いました。それで平家が滅亡しました。お褒めの決定がありましたけど、小山太郎有高のために、寺の領地を横領されてると、去年の九月に戴いた頼朝様の命令書を捧げて訴えてきました。そこで、今日会議を通して、命令書を持っている以上は、その効力を失い、横暴されるのは良い政治とは云えない。元の通り返して預けるようにと、因幡守(大江広元)が命じたので、主計允藤原行政、足立右馬允遠元、甲斐大中臣小四郎秋家、大和判官代邦道、筑前三郎惟宗孝尚たちが政所下文に署名をしましたとさ。

元暦二年(1185)四月小十四日丁卯。大藏卿泰經朝臣使者參着關東。追討無爲。偏依兵法之巧也。 叡感少彙之由。可申之趣。所被 院宣也者。武衛殊謹悦給云々。」今日。波多野四郎經家〔号大友〕。自鎭西歸參。是齋院次官親能之舅也。則召御前。令問西海合戰間之事給云々。

読下し                     おおくらきょうやすつねあそん ししゃ かんとう さんちゃく   ついとう   むい  ひとへ ひょうほうのたくみ よつ なり
元暦二年(1185)四月小十四日丁卯。大藏卿泰經朝臣が使者關東へ參着す。追討の無爲、偏に兵法之巧に依て也。

えいかんたぐいすくな のよし もう べしのおもむき いんぜんされ ところなりてへ  ぶえい こと  きえつ   たま   うんぬん
叡感 彙少き之由、申す可之趣、 院宣被る所也者り。武衛殊に謹悦し給ふと云々。」

きょう    はたののしろうつねいえ  おおとも  ごう      ちんぜいよ  きさん    これ  さいいんじかんちかよしのしうとなり
今日、波多野四郎經家〔大友と号す@鎭西自り歸參す。是、齋院次官親能之舅也。

すなは ごぜん  め     さいかいがっせん かんのこと  と  せし  たま    うんぬん
則ち御前に召し、西海合戰の間之事を問は令め給ふと云々。

参考@波多野四郎経家〔大友と号す〕は、神奈川県秦野市出身で、小田原市東大友、西大友。

現代語元暦二年(1185)四月小十四日丁卯。大蔵卿高階泰経さんの伝令が関東へ着きました。平家追討が無事に終えたのは、鎌倉軍の作戦の旨さによってだと、後白河院の喜びは例えようもないとおっしゃられているとの内容を院から文書が出たのだと伝えました。頼朝様は特にお喜びになられたのだとさ。今日、波多野四郎経家大友があざなです〕九州から帰ってきました。この人は、斎院次官中原親能の舅(嫁の父)です。直ぐに頼朝様は御前に呼びつけて、九州の合戦の内容をお問い合わせになられたんだとさ。

元暦二年(1185)四月小十五日戊辰。關東御家人。不蒙内擧。無巧兮多以拝任衛府所司等官。各殊奇怪之由。被遣御下文於彼輩之中。件名字載一紙。面々被注加其不可云々。
 下 東國侍内任官輩中
  可令停止下向本國各在京勤仕陣直公役事
   副下 公名注文一通
 右任官之習。或以上日之勞賜御給。或以私物償朝家之御大事。各浴 朝恩事也。而東國輩。徒抑留庄薗年貢。掠取國衙進官物。不募成功。自由拝任。官途之陵遲已在斯。偏令停止任官者。無成功之便者歟。不云先官當職。於任官輩者。永停城外之思。在京可令勤仕陣役。已厠朝烈。何令篭居哉。若違令下向墨俣以東者。且各改召本領。且又可令申行斬罪之状如件。
   元暦二年四月十五日
 東國住人任官輩事

読下し                       かんとうごけにん   ないきょ  こうむらず こうな   て おお もつ   えふ しょし ら   かん  はいにん
元暦二年(1185)四月小十五日戊辰。關東御家人、内擧@を不蒙。巧無く兮多く以て衛府所司等の官を拝任すA

おのおの こと きかいのよし  おんくだしぶみを か やからのうち  つか  さる
各、殊に奇怪之由、御下文於、彼の輩之中へ遣は被る。

くだん  みょうじ  いっし   の     めんめん そ  ふか   ちう  くは  られ    うんぬん
件の名字を一紙に載せ、面々其の不可を注し加へ被ると云々。

参考@内擧は、頼朝の推薦。
参考A衛府所司等の官を拝任すは、頼朝または鎌倉幕府の推薦無しに官職を得ることを自由任官と云って鎌倉御家人三禁止事項のひとつ。他は番役や戦場から抜ける敵前逃亡の自由退出と勝手に出家する自由出家。

  くだ     とうごく さむらい うち  にんかん やから うち
 下す 東國の侍の内、任官の輩の中へ

    ほんごく    げこう   ちょうじせし  べ  おのおの ざいきょう じんちょくくえき ごんじ  こと
  本國への下向を停止令む可し、各、在京し陣直公役を勤仕の事B

       そ  くだ    きょうみょう ちうもんいっつう
   副へ下す 公名の注文一通

  みぎ  にんかんのならい ある    じょうじつのいたは もつ  ごきう   たま      ある    しぶつ  もつ  ちょうけのおんだいじ  つぐな おのおのちょうおん よく ことなり
 右の任官之習、或ひは上日之勞りを以て御給を賜はり、或ひは私物を以て朝家之御大事を償ひ、各朝恩に浴す事也。

  しか    とうごく やから いたずら しょうえん ねんぐ  よくりゅう   こくが  しんかんもつ  りゃくしゅ   じょうごう  つのらず  じゆう  はいにん
 而るに東國の輩、徒に庄薗の年貢を抑留し、國衙の進官物を掠取し、成功Cを不募、自由に拝任す。

  かんと の りょうち すで  そこ  あ    ひとへ にんかん ちょうじせし ば   じょごうのびん な  ものか
 官途之陵遲D已に斯に在り。偏に任官を停止令め者、成功之便無き者歟。

  せんかん とうしき  いはず   にんかん やから をいては なが じょうがいのおも    とど    ざいきょう じんえき ごんじせし   べ
 先官、當職と不云、任官の輩に於者、永く城外之思いを停め、在京し陣役を勤仕令む可し。

  すで  ちょうれつ まじ       なん  ろうきょせし   や
 已に朝烈に厠はるE。何ぞ篭居令めん哉。

  も   たが  すみまた いとう  げこうせし  ば  かつう おのおのほんりょう あらた め    かつう またざんざい もう  おこな  せし  のじょう  くだん  ごと
 若し違へ墨俣F以東へ下向令め者、且は 各 本領を改め召し、且は又斬罪を申し行は令む之状、件の如し。

       げんりゃくにねんしがつじうごにち
   元暦二年四月十五日

  とうごくじうにんにんかん やから こと
 東國住人任官の輩の事

参考B陣直公役を勤仕の事は、もらった官職の任務に勤める。
参考C成功(じょうごう)は、本来天皇家の代わりに工事等をして報酬として官職を貰うものだったが、院政時代に領地が無いので、官職を売るようになった。
参考D
陵遲は、盛んであった物事がしだいに衰えてゆくこと。
参考E朝烈に厠はるは、朝廷の家来として列に連なる。だが、わざと変な漢字を使っているのか?
参考F墨俣は、墨俣川で現在の長良川。当時の東西の境であった。但し、国史大系本には「スノ」とカナがふられているので、当時はそう読んだのかも?

現代語元暦二年(1185)四月小十五日戊辰。関東の御家人が、頼朝様の推薦を受けずに、手柄も無いのに朝廷の近衛府や所司の官職を貰いました。それぞれ皆特にとんでもない(奇怪の罪)事をやらかしたと、命令書を彼等あてに出しました。その人たちの名前を一枚の紙に書いて、それぞれの悪いところを書き添えられたんだとさ。

 命令する 関東の侍のうち、任官した連中へ
 関東の本の領地の国へ京都から下ってくることを止めるので、それぞれ京都に住んで、貰った官職の任務に勤めること
 同封する名簿の手紙を一通
 右のように任官するような行為は、京都に勤務していて給料を貰ったり、自らの私費で朝廷に代わって事業をして、その見返りに今日と朝廷から官職を貰うことである。それなのに関東の侍供が、わざと荘園の年貢を忘れたふりをして納めなかったり、國衙へ治めるべき物も略奪し、成功
(じょうごう、金品で官職を買う行為)もせずに、勝手に任官を受けている。これでは、官職の意味が衰えてきている事は明白である。この任官を止めなければ、成功の意味もなくなってしまう。先の官位であろうと、今度の職位であろうと、任官を受けた連中は、永遠に地方への哀愁を断ち切り、京都に住んで官職に勤務すればよいのだ。すでに
朝廷の家来として列に連なるのだから、なにも地方へ閉じ篭る必要はないだろう。もし、云うことを聞かずに墨俣川(現在の長良川)から東へ下ろうものならば、一つは本領を取上げて、一つは首切りの刑に命じるからの手紙は、この通りだ。
    元暦二年四月十五日
  東国の豪族で任官した連中の事

 兵衛尉義廉〔鎌倉殿ハ悪主也。木曾ハ吉主也ト申シテ。始父相具親昵等。令參木曾殿メント申テ。鎌倉殿ニ祗候セハ。終ニハ落人ト被處ナムトテ候シハ。何ニ令忘却歟。希有悪兵衛尉哉〕

 ひょえのじょうよしかど 〔かまくらどのはあくしゅなり きそは  きっしゅなりと  もうして   ちち  はじ  しんぢつら  あいぐ     きそどの  さん  せしめんと  もうして
 兵衛尉義廉@〔鎌倉殿ハ悪主也。木曾ハ吉主也ト申シテ。父を始め親昵等を相具し、木曾殿へ參じ令メント申しテ。

               かまくらどのにしこう せば   しまいにはおちうどと しょせら   なむとて  そうろうしは  なににぼうきゃくせし か   けう   あくひょうえのじょうかな〕
       鎌倉殿ニ祗候セハ、終ニハ落人ト處被れナムトテ候シハ、何ニ忘却令む歟。希有の悪兵衛尉哉〕

参考@義廉は、後にも先にもこの一度しか出番が無いので誰だか分からない。

現代語兵衛尉義廉鎌倉殿(頼朝)は主人としては悪いほうだ。木曽冠者義仲は良い主だと言って、父を始め親戚、親しい人達を引き連れて、木曽冠者義仲の軍勢に参加しようと言った。鎌倉殿に仕えたならば、終いには落人となって処罰されるのが落ちだと云って事を忘れたわけではあるまいが、とんでもない悪兵衛尉だぞ。

 兵衛尉忠信〔秀衡之郎等令拝任衛府事。自往昔未有。計涯分。被坐ヨカシ。其氣ニテヤラン。是ハ鼬ニヲツル〕

 ひょうえのじょうただのぶ〔ひでひらのろうとう えふ はいにんせし こと おうじゃくよ   いま  あ       がいぶん  はか   おはすよかし  そ   き  にてやらん     これはいたちにおつる 〕
 兵衛尉忠信@〔秀衡之郎等衛府を拝任令む事。往昔自り未だ有らず。涯分を計りA、坐被ヨカシ。其の氣ニテヤラン。是ハ鼬Bニヲツル〕

現代語佐藤兵衛尉忠信 源氏の家来の藤原秀衡の家来の又物が、なんで官位を拝領できるんだよ!昔っから有りゃしない。陪臣の身分を良く考えて居ろよ。その気になっているんじゃない。最後っ屁の鼬よりも落ちる奴だ〕

参考@忠信は、平泉から義経に付いて来た佐藤忠信。
参考A
涯分を計りは、陪臣のくせに。
参考Bは原文に獣偏に由と作る。
参考Cの道切は、鼬の獣道を横切るとその道は二度と使わないとの伝説から、二度と顔を出すなの意味があるのか?分からない。

 兵衛尉重經〔御勘當ハ粗被免ニキ。然者可令歸付本領之處。今ハ本領ニハ不被付申シ〕

 ひょうえのじょうしげつね 〔ごかんどうはあらあらめんざられにき しからば  ほんりょう かえ つかせし べ  のところ   いまはほんりょうには つけられず もうし    〕
 兵衛尉重經@〔御勘當ハ粗免被ニキ。然者、本領に歸り付令む可し之處。今ハ本領ニハ付被不と申シ〕

参考@重經は、師岳重經で神奈川県横浜市港北区師岡町。彼は頼家の誕生に鳴弦の役を大庭景能と多々良貞義と共に出演。後は文治五年の奥州合戰に出演のみ。

現代語師岡兵衛尉重経〔石橋山合戦での勘当が、やっとこさ許された。それなので、本領を返してあげようと思っていた矢先だ。今となっては本領を返すわけには行かないとおっしゃっておられる〕

 澁谷馬允 〔父在國也。而付平家令經廻之間。木曾以大勢攻入之時付木曾留。又判官殿御入京之時又前參。度々合戰ニ心ハ甲ニテ有ハ。免前々御勘當可被召仕之處。衛府シテ被斬頚ズルハ。イカニ能用意ノ語于加治テ。頚玉ニ厚ク頚ニ可巻金也〕

 しぶやのうまのじょう  〔ちち ざいこくなり しか    へいけ   つ   けいかいせし のかん  きそ おおぜい もつ  せ   い   のとき    きそ   つ   とど
 澁谷馬允@〔父は在國也。而るに平家に付き經廻令む之間、木曾大勢を以て攻め入る之時は、木曾に付き留む。

                また  ほうがんどのごにゅうのとき  またぜんさん   たびたび  かっせんにこころはこうにてあらば   さきぜき  ごかんどう  めん  め  つかはされ べ  のところ
       又、判官殿御入京之時、又前參し、度々の合戰ニ心ハ甲ニテ有ハ、前々の御勘當を免じ召し仕被る可し之處、

                えふ して くび  きられずるは      いかに よ   よういの かじ に かた    て  けいぎょくにあつく くびに かね  ま  べ   なり   〕
       衛府シテ頚を斬被ズルハ、イカニ能く用意ノ加治于語らいテ、頚玉ニ厚ク頚ニ金を巻く可き也〕

参考@澁谷馬允は、澁谷五郎重助。父は澁谷庄司重國。五月九日条で、平家に付いたり木曾義仲に付いたり、源義経について自由任官したことを頼朝がもう一度怒っている。

現代語渋谷馬允重助 〔お父さんの渋谷庄司重国は地元の国にずうっと居た。それなのに平家に付いて一緒にあちこち戦い歩いたが、木曽義仲が大軍で京都へ攻め入った時には、さっさと義仲軍に従って京都に残った。又、源義経が義仲をやっつけて、京都へ入ってきた時はすぐに義経の見方に駆けつけ、その後一緒の度々の合戦に勇気を奮ったので、平家への分と義仲への分の勘当を許して仕えさせてあげたのに、勝手に任官して首を切られることになるので、どんなにか上手に用意をしてくれる鍛冶屋へ言いつけて首っ玉に厚く金具を巻いておくんだな〕

 小河馬允 〔少々御勘當免テ。可有御糸惜之由思食之處。色樣不吉。何料任官ヤラン〕

 おがわのうまのじょう 〔しょうしょうごかんどうめんじて おんいとおし あ   べ   のよし  おぼ め   のところ  しきざまよからず  なん かて  にんかんやらん  〕
 小河馬允@〔少々御勘當免テ。御糸惜く有る可し之由、思し食す之處、色樣不吉。何の料の任官ヤラン〕

参考@小河馬允は、埼玉県比企郡小川町小川。和田合戰で小河馬太郎が出てくるのは、この人の子供だろうか?

現代語小河馬允 〔やっと勘当を許してやり、まあ仕方のない奴だなぁと思い始めたのに、身分にあっていない。何のために任官して役に立つんだ〕

 兵衛尉基C 〔目ハ鼠眼ニテ只可候之處。任官希有也〕

 ひょうえのじょうもときよ 〔めはねずみまなこにて ただそうろうべ のところ にんかんけうなり 〕
 兵衛尉基C@〔目ハ鼠眼ニテ、只候可き之處、任官希有也〕

参考@基Cは、後藤基C。次の出演の五月十七日には新兵衛尉で出演。

現代語後藤新兵衛尉基清 〔目はねずみに似ていて、ただおとなしく仕えていればいいものを。勝手の任官なんてとんでもない事だ〕

 馬允有經 〔少々奴。木曾殿有御勘當之處。少々令免給タラハ。只可候ニ。五位ノ補馬允。未曾有事也〕

 うまのじょうありつね 〔しょうしょう やつ  きそどの ごかんどう あ  のところ  しょうしょうめんぜし たま   たらば   ただそうろうべくに ごいのうまのじょう  ぶ    みぞう    ことなり 〕
 馬允有經@〔少々の奴、木曾殿御勘當有る之處。少々免令め給ひタラハ、只候可ニ、五位ノ馬允に補す。未曾有の事也〕

参考@有經は、波多野有經。次の出演は文治四年(1188)四月三日流鏑馬に故波多野右馬允義經嫡男有經で弓の名人として出てくる。

現代語波多野右馬允有経 〔小者のくせに。木曽義仲を滅ぼしたので、仕方なく許してあげたので、おとなしく従って居ればよいものを、五位の馬允の任命を受けるなんて、在り得ない事だ〕

 刑部丞友景〔音樣シワカレテ。後鬢サマテ刑部カラナシ〕

 ぎょうぶのじょうともかげ 〔おとざま しわがれて   うしろがみ さまで ぎょうぶ  がらなし 〕
 刑部丞友景@〔音樣シワカレテ。後鬢サマテA刑部のカラナシ〕

参考@友景は、梶原朝景で景時の弟。次は、文治二年(1186)十月廿四日甘縄神明の修理に梶原刑部烝朝景と弟の同兵衛尉景定と書いて出てくる。
参考A後鬢サマテは、後ろ髪が禿げていて。

現代語梶原刑部烝朝景 〔声はガラガラ声で、髪は薄くやっと髷を結ってるのに刑部のガラじゃないよ〕

 同男兵衛尉景貞〔合戰之時心甲ニテ有由聞食。仍可有御糸惜之由思食之處。任官希有也〕

 おな だんひょうえのじょうかげさだ 〔かっせんのときこころこうにて あ  よしきこ  め     よつ  おんいとおし  あ   べ   のよしおぼ  め  のところ  にんかん けうなり 〕
 同じき男兵衛尉景貞@〔合戰之時心甲ニテ有る由聞し食す。仍て御糸惜く有る可し之由思し食す之處。任官希有也〕

参考@景貞は、梶原景定で朝景の子。文治二年(1186)十月廿四日甘縄神明の修理に梶原刑部烝朝景と共に同兵衛尉景定と書いて出てくる。

現代語同じく息子の梶原兵衛尉景貞 〔合戦の時に勇気を奮ったと聞いている。それなのでいいやつだなぁと思っていた所、勝手の任官なんてとんでもない事だ〕

 兵衛尉景高〔悪氣色シテ本自白者ト御覽セシニ。任官誠ニ見苦シ〕

 ひょうえのじょうかげたか 〔あくけしき して  もとよ  しれものと ごらん せしに    にんかんまことにみぐるし 〕
 兵衛尉景高@〔悪氣色シテ本自り白者ト御覽セシニ。任官誠ニ見苦シ〕

参考@景高は、梶原景高で景時次男。文治五年(1189)四月十八日兄の梶原源太左衛門尉景季と同平次兵衛尉景高で出演。正治二年81200)正月小廿日駿河國C見關にて被討。

現代語梶原兵衛尉景高 〔人相が悪くて、元々おかしな奴と見ていたのに、任官など凡そにつかわないので見苦しい〕

 馬允時經 〔大虚言計ヲ能トシテ。エシラヌ官好シテ。揖斐庄云不知アハレ水驛ノ人哉。悪馬細工シテ有カシ〕

 うまのじょう ときつね 〔だいきょげんばかりをよしと して    えしらぬ   かんごのみして いびのしょう い しらず あわれ みずうまやのひとかな あくば さいくして  ありかし 〕
 馬允A時經@〔大虚言計ヲ能トシテ。エシラヌ官好シテ。揖斐庄B云ひ不知アハレ水驛Cノ人哉。悪馬細工シテ有カシ〕

参考@時經は、中村時經で武蔵七党の丹党。建久元年(1190)十一月小九日上京した頼朝の仙洞への参内に調度掛として中村右馬允時經で出演。
参考A
馬允は、京都朝廷の左右馬寮で、御所や諸国の牧場の馬や馬具に関する担当なので、馬にあやかった悪口を言っているようである。
参考B揖斐庄は、美濃国大野郡揖斐庄は、牧場があったのかもしれない。
参考C水駅は、平安時代、正月一五日の歌舞行事である男踏歌(おとことうか)で、踏歌の人々に酒と湯漬などだけの簡素な饗応をした所。転じて、簡素な饗応だけを受ける立ち寄り先。

現代語中村馬允時経 〔おおぼら吹きが大好きで、につかわない官職好みで、揖斐庄の云われも知らないくせに、つくづく立ち寄る程度の仕事しかできない人なので、悪い馬を育てるのがせいぜいじゃないの〕

 兵衛尉季綱〔御勘當スコシ免シテ有ヘキ處。無由任官哉〕

 ひょうえのじょうすえつな 〔ごかんどう  すこし  めんじて あるべきところ  よしな  にんかんかな  〕
 兵衛尉季綱@〔御勘當スコシ免シテ有ヘキ處。由無き任官哉〕

参考@季綱は、貴志先生は海老名氏と記すが、海老名氏の系図には見えない。http://www.j-area2.com/japan/history/kamakura/sagami.html
吾妻では他に建久四年(1193)二月十日条に毛呂太郎季綱が昔頼朝に世話した礼に勸賞〈武藏國泉勝田〉を賜る。後正治元年(1199)十月小廿八日諸二郎季綱が出演し、正治二年(1200)二月大廿六日には泉次郎季綱と出るが、別人らしい。

現代語海老名兵衛尉季綱 〔勘当を多少許して上げたのに、無意味な任官だ〕

 馬允能忠 〔同〕

 うまのじょうよしただ 〔おなじ〕
 馬允能忠@〔同〕

参考@能忠は、本間右馬允義忠。文治五年(1189)七月小十九日条奥州合戰に本間右馬允義忠と出る。この人かその子孫が北条時房の代官になり佐渡へ行き、その子孫が江戸時代に庄内酒田で商人として成功し、「本間様には及びもせぬがせめてなりたや殿様に」の山形県酒田市二番町12−13の豪商本間家である。神奈川県厚木市上依知下依知出身。

現代語本間右馬允能忠 〔同じ〕

 豊田兵衛尉〔色ハ白ラカニシテ。顏ハ不覺氣ナルモノ、只可候ニ。任官希有也。父ハ於下総。度々有召ニ不參シテ。東國平ラレテ後參。不覺歟〕

 とよたのひょうえのじょう  〔いろはしろらかにして     かおはふかくげなるもの      ただそうろうべ  に   にんかんけうなり  ちちはしもふさ  をい    たびたびめしあ に ふさんして
 豊田兵衛尉@〔色ハ白ラカニシテ。顏ハ不覺氣ナルモノ、只候可きニ、任官希有也。父ハ下総に於て、度々召有るニ不參シテ、

               とうごく   たいらげられてのちさん    ふかくか〕
       東國を平ラレテ後參ず。不覺歟〕

参考@豊田は、豊田義幹で常陸、現茨城県常総市豊田(旧結城郡石下町豊田)。文治五年(1189)七月小十九日条奥州合戰に豐田兵衛尉義幹と出る。常陸大掾氏で子孫に芦沢氏。

現代語豊田兵衛尉義幹 〔色は真っ白で、顔はしまりがない奴なので、おとなしく仕えていれば良いものを、勝手の任官なんてとんでもない事だ。お父さんは下総の国で、何度か呼びつけたが、参上せず、関東を平定してから来た。親子そろって不覚物だ〕

 兵衛尉政綱

 ひょうえのじょうまさつな
 兵衛尉政綱@

参考@政綱は、文治五年(1189)二月大廿二日条に出雲目代兵衛尉政綱を源九郎義經と仲良くしたので、現職をはずすよう頼朝が要求しているので、このまま京都に残ったらしい。

現代語兵衛尉政綱

 兵衛尉忠綱〔本領少々可返給之處。任官シテ。今ハ不可相叶。嗚呼人哉〕

 ひょうえのじょうただつな〔ほんりょうしょうしょうかへ  たま  べ  のところ  にんかんして   いまはあいかな べからず   をこ  ひとかな 〕
 兵衛尉忠綱@〔本領 少々 返し給ふ可し之處、任官シテ、今ハ相叶う不可。嗚呼Aの人哉〕

参考@忠綱は、不明。忠綱の名では、この後波多野小次郎忠綱と岡邊小次郎忠綱が出てくるが分からない。
参考A
嗚呼は、ばかなさま・愚かなさま・愚鈍なさま。痴・烏滸・尾籠・愚戯。一説に中国後漢の烏滸の国の人の言葉が分からず、滑稽であったと云う説話から。

現代語兵衛尉忠綱 〔本々の領地を少し返してあげるのに、勝手に任官しやがって、今となっては叶わない事になった。馬鹿な奴だ〕

 馬允有長

 うまのじょうありなが
 馬允有長@

参考@有長は、平子氏で三浦党出自説。十三巻建久四年五月二十八日曾我兄弟のあだ討ちの際に怪我をしている平子右馬允。(しかし野は小野の横山党?。平は平氏三浦党?)武蔵国久良岐郡(現横浜市中区南区磯子区)を領有。

現代語平子馬允有長

 右衛門尉季重〔久日源三郎。顔ハフワヽトシテ。希有之任官哉〕

 うえもんのじょうすえしげ 〔 くじつげんざぶろう かおはふわふわとして       けうのにんかんかな  〕
 右衛門尉季重@〔久日源三郎。顔ハフワヽトシテ、希有之任官哉〕

参考@季重は、平山。東京都八王子市堀の内に平山城址公園あり。日野市平山城址公園駅あり。文治五年(1189)七月小十九日条奥州合戰に平山左衛門尉季重が出てくる。しかもそれまでは、平山武者所季重と出てる。建久三年(1192)八月九日条には平山右衛門尉季重と出てくる。左右の字は略すとほぼ同じなので平山で良いと思う。吾妻ではそれ以外に季重の名はない。ただ久日が分からない。ただ、季重に源三郎の言葉は一切出てこないので、別人のようでもある。久日の地名もなし。久目なら富山県氷見市久目。久米なら埼玉県所沢市久米。もしかしたら「久日源三郎」が何か悪口や囃子言葉なのかも知れない。

現代語平山右衛門尉季重 〔久日源三郎。顔はふわふわとしていて、とんでもない勝手の任官だ〕

 左衛門尉景季

 さえもんのじょうかげすえ
 左衛門尉景季@

参考@景季は、梶原源太景季。これまでは梶原源太景季だったのが、次の文治元年(1185)九月小二日では、梶原源太左衛門尉景季で出演する。さすがの頼朝も宇治川の合戦に愛馬「磨墨(するすみ)」をくれてやるほど、可愛がっている景季なので、悪口を言ってない。但し、父は平三(平家の三男)なのに、何故「源太(源氏の太郎)」なのだろうか?全く分からない?

現代語梶原源太左衛門尉景季

 縫殿助

 ぬいのすけ
 縫殿助@

参考@縫殿助は、重俊で山内首藤瀧口三郎經俊の子。この単語が出て来るのはこれが最初。次は、建久六年(1195)三月十日頼朝奈良大仏殿供養に出発の名簿に出てくる。

現代語縫殿助山内重俊

 宮内丞舒國〔於大井渡。聲樣誠臆病氣ニテ。任官見苦事歟〕

 くないのじょうのぶくに 〔おおいのわたし をい   こえざままこと おくびょうげにて   にんかんみぐる   ことか 〕
 宮内丞舒國@〔大井渡に於て、聲樣誠に臆病氣ニテ、任官見苦しき事歟〕

参考@舒國は、不明。舒の読みは「のぶ」か「ゆき」なので、「のぶ」にした。大井渡しに来たのは、上総権介広常一行二万騎なので、そのうちの人かも?

現代語宮内丞舒國 〔大井の渡しに来た時には、(私頼朝の怒りに)声を出すのも臆病だったくせに、それが任官だなんて似つかわしくないので見苦しいことこの上ない〕

 刑部丞經俊〔官好無其要用事歟。アワレ無益事哉〕

 ぎょうぶのじょうつねとし 〔かんごのみ そ ようよう な  ことか    あわれ  むえき  ことかな  〕
 刑部丞經俊@〔官好、其の要用無き事歟。アワレ無益な事哉〕

参考@經俊は、山内首藤瀧口三郎經俊。正治元年(1199)十月小廿八日条に山内刑部烝經俊と出る。

現代語刑部丞山内首藤瀧口三郎経俊 〔官職好みの奴め、その使い道なんかないだろうに、つくづく無益なことよ〕

 此外輩。其數雖令拝任。文武官之間。何官何職分明不知食及之故。委不被載注文。雖此外。永可令停止城外之思歟矣。

  こ   ほか やから  そ  かずはいにんせし  いへど   ぶんぶかんのかん なん  かん  なん しき  ぶんめい  し    め  およばず のゆえ
 此の外の輩、其の數拝任令むと雖も、文武官之間、何の官、何の職か分明に知ろし食し及不@之故、

  くは    ちうもん  のせられず  こ   ほか いへど  なが じょうがいの おも    ちょうじせし  べ   かな
 委しく注文に載被不。此の外と雖も、永く城外之思ひを停止令む可き歟矣。

参考@何の官、何の職か分明に知ろし食し及不とあるが、この手紙を京都で最初に読むのは、源義経である。暗に一番批判している相手は義経である。

現代語このほかの連中の中にも、何人か任官した奴がいるけど、文官武官の何の官職を受けたか、はっきりと分かる必要もないので、詳しく書き出していないけど、このほかの連中も、永遠に京都より外の本国へ帰りたいなんぞと云う思いを止めるべきであろう。

 右衛門尉友家
 兵衛尉朝政
  件兩人下向鎭西之時。於京令拝任事。如駘馬之道草喰。同以不可下向之状如件。

 うえもんのじょうともいえ
 右衛門尉友家@

 ひょうえのじょうともまさ
 兵衛尉朝政A

  くだん りょうにんちんぜい げこうのとき   きょう  をい  はいにんせし こと  だいばのみちくさ  くら    ごと    おな    もつ  げこう  べからずのじょう  くだん ごと
 件の兩人鎭西へ下向之時、京に於て拝任令む事、駘馬之道草を喰うが如し。同じく以て下向す不可之状、件の如し。

参考@友家が、八田四郎知家。次の文治三年(1187)丁未正月大十二日条に八田右衛門尉知家と出る。この文字ではこの一回限り。
参考A朝政は、小山四郎朝政。元暦二年(1185)正月大廿六日に未だ任官前なのに間違って小山兵衛尉朝政と書いてる。その後四郎に戻すが、文治元年(1185)十月大廿四日条に小山兵衛尉朝政と出て後は兵衛尉で出演、建久年間から左衛門尉になる。

現代語八田右衛門尉知家
   小山兵衛尉朝政
 この二人が、九州へ下った際に、京都で官職を任官するなんて事は、どんくさい鈍い馬が道草を食っているのとそっくりだ。前の連中と同様に関東へ帰ってくることを許さないのはこのとおりだ。

元暦二年(1185)四月小廿日癸酉。今日。迎伊豆國三嶋社祭日。武衛爲果御願。被寄附當國糠田郷於彼社。而先之。御奉寄地三ケ所有之。今已爲四ケ所也。相分之。以河原谷。三薗。募六月廿日臨時祭料所。被付神主盛方〔号東大夫〕。以糠田。長崎。爲八月放生會〔二宮八幡宮〕料所。被付神主盛成〔号西大夫〕。是皆北條殿御奉令施行給云々。

読下し                     きょう    いずのくにみしましゃ さいじつ  むか   ぶえいごがん  はた    ため    とうごくぬかだごう を かのしゃ  きふ さる
元暦二年(1185)四月小廿日癸酉。今日、伊豆國三嶋社@祭日を迎へ、武衛御願を果さん爲、當國糠田郷A於彼社に寄附被る。

しか     これ   さき   ごきふ    ち さんかしょこれあ     いますで  よんかしょ  な   なり
而るに之より先、御奉寄の地三ケ所之有り。今已に四ケ所を爲す也。

これ  あいわか      かわらだに   みその   もつ  ろくがつはつか  りんじさい  りょうしょ  つの    かんぬしもりかた 〔ひがしのたいふ  ごう  〕   ふされ
之を相分ちて、河原谷B、三薗Cを以て六月廿日の臨時祭Dの料所に募り、神主盛方〔東大夫Eと号す〕に付被れ、

ぬかだ   ながさき   もつ    はちがつ ほうじょうえ 〔にのみやはちまんぐう〕りょうしょ な     かんぬしもりなり〔にしのたいふ    ごう   〕   ふされ
糠田、長崎Fを以て、八月の放生會G〔二宮八幡宮〕料所と爲し、神主盛成〔西大夫Eと号す〕に付被る。

これみな ほうじょうどの おんうけたまは せぎょう せし たま   うんぬん
是皆、北條殿が御奉り 施行H令め給ふと云々。

参考@三嶋社は、静岡県三島市大宮町2丁目1の三島大社。
参考A糠田郷は、静岡県伊豆の国市原木字糠田らしい。
参考B河原谷は、静岡県三島市川原ケ谷。
参考C
三薗は、静岡県三島市御園。
参考D
臨時祭は、「時に臨んで」で、あらかじめ決まった祭り。
参考E大夫と西大夫は、後に戦国時代に双方で争い、西方が勝って東方は滅んだ。西方は現在でも続いている
参考F長崎は、静岡県伊豆の国市長崎。原木の東北。
参考G放生會は、供養のため、捕らえられた生き物を放してやる儀式。Goo電子辞書から。本来は、陰暦八月一五日だが、現在では鎌倉八幡宮で神幸祭の名で九月一五日に神事に行われる。
参考H施行は、地頭受け所として、書付を貰っても実力で前任者を追い出し、実力で年貢を集める。最近では自力救済と名付けている。これが、室町時代になると守護が施行し、与えてくれるようになる。

現代語元暦二年(1185)四月小二十日癸酉。今日、伊豆国の三島大社のお祭りなので、頼朝様は願い事が叶うように、伊豆国の糠田郷(伊豆の国市原木字糠田)を三島大社に寄付しました。それなので、既に寄付した所が三箇所あったので、合計で四箇所になりました。これを二つに分けて、河原谷(三島市川原ケ谷)三園(三島市御園)を六月二十日の祭主用にするように決めて、神主の盛方〔東の指導員〕に任せ、糠田と長崎(伊豆の国市長崎)の二箇所を八月の放生會〔二宮八幡宮〕用の費用とするよう、神主の盛成〔西の指導員〕に任せました。これ等の事は、北条四郎時政殿が請け負った担当として実施されたのだとさ。

元暦二年(1185)四月小廿一日甲戌。梶原平三景時飛脚自鎭西參着。差進親類。獻上書状。始申合戰次第。終訴廷尉不義事。其詞云。
 西海御合戰間。吉瑞多之。御平安事。兼神明之所示祥也。所以者何。先三月廿日。景時郎從海太成光夢想ニ。淨衣男捧立文テ來。是ハ石C水御使カト覺エ。披見之處。平家ハ未ノ日可死ト載タリ。覺之後。彼男相語ル。仍未日相搆テ可决勝負之由。存思之處。果而如旨。又攻落屋嶋戰塲之時。御方軍兵不幾。而ニ數万勢マホロシニ出現シテ。敵人ニ見云々。次去々年。長門國合戰之時。大龜一出來。始ハ浮海上。後ニハ昇陸。仍海人恠之。參河守殿御前ニ持參。以六人力。猶持煩之程也。于時可放其甲之由。相議之處。先之有夢之告。忽思合トテ。參河守殿加制禁テ。剩付簡テ被放遣畢。然臨平氏最後ニ。件龜再浮出于源氏船前。〔以簡知之〕次白鳩二羽。翻舞于船屋形上。當其時。平氏ノ宗ノ人々入海底。次周防國合戰之時。白旗一流出現于中虚。暫見御方軍士眼前ニ。終ニ收雲膚畢。
又曰。
 判官殿ハ。爲君御代官。副遣御家人等。被遂合戰畢。而頻雖被存一身之功由。偏依多勢之合力歟。謂多勢。毎人不思判官殿。志奉仰君之故。勵同心之勳功畢。仍討滅平家之後。判官殿形勢。殆超過日來之儀。士率之所存。皆如踏薄氷。敢無眞實和順之志。就中。景時爲御所近士。憖伺知嚴命趣之間。毎見彼非據。可違關東御氣色歟之由。諌申之處。諷詞還爲身之讎。動招刑者也。合戰無爲之今。祗候無所據。早蒙御免。欲歸參云々者。
凡和田小太郎義盛与梶原平三景時者。侍別當所司也。仍被發遣舎弟兩將於西海之時。軍士等事爲令奉行。被付義盛於參州。被付景時於廷尉之處。參州者。本自依不乖武衛之仰。大少事示合于常胤。義盛等。廷尉者。挿自專之慮。曾不守御旨。偏任雅意。致自由之張行之間。人々成恨。不限景時云々。

読下し                       かじわらのへいざかげとき ひきゃくちんぜいよ さんちゃく しんるい さ   しん    しょじょう けんじょう
元暦二年(1185)四月小廿一日甲戌。梶原平三@景時が飛脚鎭西自り參着す。親類を差し進じ、書状を獻上す。

はじ  かっせん  しだい   もう    しまい ていい    ふぎ  こと  うった   そ   ことば い
始め合戰の次第を申し、終に廷尉Aが不義の事を訴う。其の詞に云はく、

  さいかいごかっせん  かん  きちずいこれおお  ごへいあん  こと  かね しんめいのさいわい しめ ところなり  ゆえんはなん
 西海御合戰の間、吉瑞之多し。御平安の事。兼て神明之祥を 示す所也。所以者何ぞ。

  ま   さんがつはつか  かげとき  ろうじゅう かいたなりみつ  むそうに  じょうえ おのころたてぶみ ささげてきた
 先ず三月廿日。景時が郎從の海太成光が夢想ニ、淨衣の男立文を捧テ來る。

  これは いわしみず おんつかいかとおぼえ  ひら    み  のところ  へいけはひつじのひ し  べ   と のせたり    さめ  ののち  か  おとこあいかたる
 是ハ石C水の御使カト覺エ、披ひて見る之處、平家ハ未ノ日死す可しト載タリ。覺る之後、彼の男相語ル。

  よつ  ひつじ ひ  あいかまへて しょうぶ けつ   べ  のよし   ぞん おも  のところ  はた て むね  ごと
 仍て未の日に相搆へテ勝負を决す可し之由、存じ思う之處、果し而旨の如し。

  また  やしま   せんじょう せ   おと   のとき  みかた ぐんぴょういくならず  しか に すうまんぜい まぼろしに  しゅげんして    てきびとに み     うんぬん
 又、屋嶋の戰塲を攻め落す之時、御方の軍兵幾不B、而るニ數万勢マホロシニ出現シテC、敵人ニ見ゆ
Dと云々。

  つぎ   おととし   ながとのくにかっせんのとき おおかめいちい きた   はじめはかいじょう う     のちにはりく    のぼ
 次に去々年E、長門國合戰之時。大龜一出で來り、始ハ海上に浮き、後ニハ陸へ昇る。

  よつ  かいじんこれ あや      みかわのかみどの おんまえにじさん    ろくにん  ちから もつ   なお も わずら のほどなり
 仍て海人之を恠しみ、參河守殿の御前ニ持參す。六人の力を以て、猶持ち煩う之程也。

  ときに  そ  こうら はな  べ    のよし   あいぎ    のところ  これ    さき  ゆめのつげあ
 時于其の甲を放つ可きF之由、相議する之處。之より先に夢之告有り。

  たちま おも  あわ  とて   みかわのかみどのきんせい くわえて あまつさ かん  つ  て はな  つか されをはんぬ
 忽ち思い合せトテ、參河守殿制禁を加へテ、剩へ簡を付けテG放ち遣は被畢。

  しか    へいし    さいごにのぞ    くだん かめ 〔かん もつ  これ  し    〕  げんじ  ふね  まえにふたた うか  い
 然り、平氏の最後ニ臨み、件の龜〔簡を以て之を知る〕源氏の船の前于再び浮び出づる。

  つぎ   しろばと にわ  ふなやかた  うえにひるがえ ま   そ   とき  あた    へいしのむねとのひとびと かいてい い
 次に白鳩H二羽、船屋形の上于翻り舞う。其の時に當り、平氏ノ宗ノ人々I海底へ入る。

  つぎ すおうのくにかっせんのとき  しらはた いちりゅうなかぞらにしゅつげん しばら みかた  ぐんし がんぜんにみ    しまいにくも はだへ おさま をはんぬ
 次に周防國合戰之時、白旗J一流中虚于出現し、 暫く御方の軍士眼前ニ見て、終ニ雲の膚に收り畢。

参考@平三は、桓武平氏の三男。平良文の子孫と言う。
参考A廷尉は、検非違使の尉の唐名。ここでは義経。
参考B軍兵幾不は、実はたったの三百騎だった。
参考C數万勢マホロシニ出現シテは、馬の尻尾に木の枝を結びつけ地面を引っ張って土ぼこりを上げたり、民家に火を放って、大勢に見せた。少数なので攻め込んではいずに、平家は多勢と思い込み勝手に逃げた。

参考D
敵人ニ見ゆは、敵の人からそう見えた。
参考E去々年は、長門の戦は無いので、ついこの間の壇ノ浦合戰なので、去る頃を写し間違えたのだろう。
参考F其の甲を放つ可きは、甲羅をはがして殺して食ってしまおうとした。
参考G簡を付けテは、木簡を着けた。
参考H白鳩は、八幡宮のお使いなので、いつしか源氏の白鳩と云う様になった。鎌倉鶴岡八幡宮の「八幡宮」の額の「八」の字は鳩が向かい合ってそっぽを向いている。
参考I宗ノ人々は、主だった人達。
参考J白旗は、源氏の旗が無紋の白旗であるから。

現代語元暦二年(1185)四月小二十一日甲戌。梶原平三景時の伝令が九州から到着しました。親類の人を使って、手紙をよこしました。手紙には始めに合戦の経過を述べ、後半は源廷尉義経の不行跡を訴えて来ました。その言葉に従うと

四国中国九州などの関西での戦争のさなかに、良い予兆が沢山ありました。無事に勝利できたのは、普段からの信仰の神様が着いていたからです。その証拠には、まず三月二十日に、梶原平三景時の家来の海太成光が夢の中に、白い清らかな着物を着た男が捧げ文を持って来ました。この人は岩清水八幡宮のお使いだなと感じて、捧げ文を開いて読んでみたら、平家の未の日に死ぬだろうと書かれていました。と目の覚めた後、その家来が話しました。それで、未の日にその事を意識して合戦の勝負を決めてやろうと覚悟をしたならば、本当にそのとおりになりました。

、屋島の合戦で敵を攻め落とした時は、見方の軍隊はたったの三百騎しかありませんでしたが、なんと数万騎の軍勢が出現したように、敵方には見えたんだそうです。

次に先日、長門での合戦のときに、大きな海亀が一匹現れて、始めは海上に浮いて顔を出し、終いに陸へ上って来ました。そこで漁師達は不思議に思って、源參河守範頼様の前へ差し出しました。六人が力を込めて、なおやっとこさの重さでした。兵隊達は、甲羅を剥がして食ってしまおうと相談していましたが、そうだ前に夢のお告げがあったんだと直ぐに思いたって、源參河守範頼様は止められました。その上で甲羅に穴を開け札を着けて、海に放たせました。やはり、平氏の最後の戦いに、その亀(札をつけていたので同一と分かりました)が源氏の船の前に先導をするように再び浮かんできました。

次に八幡宮のお使いの源氏の白鳩二羽が屋形船の屋根に舞い降りて来ました。丁度その時間に平氏の主だった人達が入水しました。

次に周防での合戦の時には、源氏の白旗が空中に現れて、暫く見方の軍勢の前でたなびいていましたが、終いに雲の中へ消えていきました。

  またいは
 又曰く、

  ほうがんどのは  きみ  おんだいかん な     ごけにんら   そ   つか       かっせん  と  られをはんぬ
 判官殿ハ、君の御代官と爲し
@、御家人等を副へ遣はしA、合戰を遂げ被畢。

  しか    しきり  いっしんのこう   よし  ぞん  らる   いへど  ひとへ  たぜいのごうりき  よ   か
 而るに頻に一身之功
Bの由を存ぜ被ると雖も、偏に多勢之合力に依る歟。

  おも    おおぜい   ひとごと  ほうがんどの おもはず こころざし きみ あお たてまつ  のゆえ どうしんのくんこう  はげ をはんぬ
 謂うに多勢は、人毎に判官殿を 不思、志は 君を仰ぎ奉るC之故、同心之勳功に勵み畢。

  よつ  へいけ   とうめつののち  ほうがんどの けいせい ほとん ひごろの ぎ  ちょうか
 仍て平家を討滅之後、判官殿の形勢、殆ど日來之儀を超過す
D

  しそつの しょぞん  みなうすごおり ふむ ごと   あえ  しんじつ わじゅんのこころざし な
 士率之所存、皆薄氷を踏が如し。敢て眞實の和順之 志 無し。

  なかんづく   かげとき ごしょ  きんじ    な   なまじい げんめい おもむき うかが し   のかん  か   ひきょ  み   ごと
 就中に、景時御所の近士
Eと爲し、憖にF嚴命の趣Gを伺い知る之間、彼の非據Hを見る毎に、

  かんとう   みけしき   たが   べ    かのよし   かん  もう のところ  ふうし かえ    みのあだ  な   ややもすれ けい まね ものなり
 關東の御氣色に違へる可き歟之由、諌じ申す
I之處、諷詞還って身之讎と爲し、動ば刑を招く者也。

  かっせん ぶいの いま   しこう        よんどころな    はや  ごめん  こうむ     きさん      ほつ     うんぬんてへ
 合戰無爲之今、祗候するに據所無し
J。早く御免を蒙りK、歸參せんと欲っすと云々者り。

  およ   わだのこたろうよしもり と かじわらのへいざかげときは さむらい べっとう しょし なり
 凡そ和田小太郎義盛与梶原平三景時者、侍の 別當、所司
L也。

  よつ  しゃていりょうしょうをさいかい はっけんされ のとき  ぐんしら    こと  ぶぎょうせし    ため
 仍て舎弟兩將於西海へ發遣被る之時、軍士等が事を奉行令めん爲、

  よしもりを さんしゅう  つ  られ  かげときをていい   つ  られ   のところ  さんしゅうは  もとよ   ぶえいのおお   そむかざる よつ
 義盛於參州に付け被、景時於廷尉に付け被る
M之處、參州者、本自り武衛之仰せを乖不に依て、

  だいしょう  こと  つねたね  よしもりら  しめ  あは    ていい  は じせんのおもんばか さしはさ  あえ  おんむね  まもらず
 大少の事も常胤、義盛等に示し合す。廷尉者、自專之慮り
Nを挿み、曾て御旨を不守。

  ひとへ  がい   まか     じゆうのちょうぎょう  いた  のかん  ひとびとうらみ な       かげとき  かぎらざる うんぬん
 偏に雅意に任せ、自由之張行
Oを致す之間、人々恨を成すは、景時に不限と云々。

参考@君の御代官と爲しは、頼朝に派遣された。
参考A御家人等を副へ遣はしは、御家人を貸してあげている。
参考B一身之功は、自分の手柄にして。
参考C志は君を仰ぎ奉るは、頼朝様へ忠義を尽くすため。
参考D日來之儀を超過すは、態度が大きくなってしまった
参考E
近士は、側近。
参考F憖には、しなくても良いことをわざわざ。この場合は必要以上に知っているので。
参考G
嚴命の趣は、本当の目的。
参考H非據は、間違い。この場合は安徳天皇を失い、三種に神器を取り戻せなかったこと。
参考I諌じ申すは、注意をする。
参考J
據所無しは、意味がない。
参考K御免を蒙りは、許可を貰って。
参考L
侍の別當、所司は、侍所の長官と副長官。
参考M
景時於廷尉に付け被るは、参謀総長として。
参考N自專之慮りは、勝手に自分の考えで。
参考O
自由之張行は、我侭に行動をする。

又、次に書いてあるのは、判官義経殿には、頼朝様の代官として派遣され、頼朝様の御家人を貸し与えたからこそ、合戦に勝利できたのです。処が、策略の旨かった自分ひとりの手柄だと思い込んでいますけど、大勢の武士達の協力があったからこそ、勝てたのではないでしょうか。様子を伺ってみると、武士達は判官殿に従っておらず、心の中では頼朝様を慕っているから、力を合わせて手柄を立てようと頑張ってきたのです。それなのに平家を滅ぼした後の判官義経殿の態度は、今までとはすっかり変身してのさばっています。兵達は心の底では薄い氷の上を歩くほどにビクビクとして、本当に従っている者はありません。特に景時は、頼朝様の側近として、必要以上に本当の目的を知っているので、その間違った結果を考えると、頼朝様のお気持ちに違っているんじゃありませんかと注意を促すと、その言葉がかえって仇となって、へたすると死刑にされそうになります。合戦が無事に終わってしまった今は、そばに居たところで意味がないので、早く許可を戴き関東へ帰りたい等と云っております。ようするに和田小太郎義盛と梶原平三景時は侍所の長官と副長官です。そこで弟君の二人の将軍を関西へ出発させる時に、武士達の目付けをするために、義盛を參河守様に付け、景時を廷尉義経様に付けられましたが、參河守様は、大きなことから小さなことまで何でも、千葉介常胤、和田義盛と相談します。廷尉義経は、勝手に自分の意見を優先して、あえて頼朝様のお考えを守りません。何でも自分の意志に任せて、我侭に行動をしますので、武士達は皆恨みに思っておりますのは、景時ばかりではありませんだとさ。

元暦二年(1185)四月小廿四日丁丑。賢所神璽令着今津邊御。仍頭中將通資朝臣參其所。入夜。藤中納言〔經房〕。宰相中將〔泰通〕。權右中弁兼忠朝臣。左中將公時朝臣。右少將範能朝臣。藏人左衛門權佐親雅等。參向桂河。大秡之後。經朱雀大路并六條。自大宮入御待賢門。渡御官朝所〔經東門〕。此間。大夫判官義經着鎧供奉。候官東門。看督長着布衣。取松明在前云々。」又範頼朝臣〔其身在九州〕辞參河國司。其辞状今日到着于關東。親能執進之。仍可有院奏云々。

読下し                      かしこどころ しんじ  いまづ へん  つかせし たま    よつ  とうのちうじょうみちすけあそん そ ところ まい
元暦二年(1185)四月小廿四日丁丑。賢所@神璽A今津B邊へ着令め御う。仍て頭中將通資朝臣、其の所へ參る。

よ    い     とうのちうなごん〔つねふさ〕   さいしょうちうじょう 〔やすみち〕 ごんのうちうべんかねただあそん  さちうじょうきんときあそん  うしょうしょうのりよしあそんく
夜に入り、藤中納言〔經房〕、宰相中將〔泰通〕、權右中弁兼忠朝臣、 左中將公時朝臣、右少將範能朝臣、

くろうどさえもんのごんのすけちかまさら かつらがわ さんこう  おおはらえののち すざくおおじなら    ろくじょう  へ     おおみやよ  たいけんもん  にょうぎょ
藏人左衛門權佐親雅等、桂河へ參向し、大秡C之後、朱雀大路并びに六條を經て、大宮自り待賢門へ入御し、

かん あいたんどころ〔ひがしもん へ 〕    とぎょ
Dの 朝所 〔東門を經る〕へ渡御す。

こ   かん  たいふほうがんよしつね よろい つ   ぐぶ     かん  ひがしもん そうら  かどのおさ  ほい  き      たいまつ  と   まえ  あ     うんぬん
此の間、大夫判官義經、鎧を着け供奉し、官の東門に候う。看督長E布衣Fを着て、松明を取り前に在りと云々。」

参考@賢所は、三種の神器の一つの神鏡八咫鏡(やたのかがみ)
参考A神璽は、三種の神器の一、八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)
参考B今津は、兵庫県西宮市今津港町。
参考C
大秡は、お清め。
参考D
は、太政官。
参考E看督長は、檢非違使の部下。
参考F布衣は、布製の狩衣の別称。狩衣は武家社会では、束帯に次ぐ礼装であった。かつて民間で用いられた狩装束が、簡便さと軽快さから公卿に取り入れられ日常着となった。現在は神職の正装である。狩衣一般を云う。

また  のりよりあそん  〔そ   み  きゅうしゅう あ  〕  みかわのこくし  じ       そ   じじょう  きょう かんとうに とうちゃく
又、範頼朝臣〔其の身は九州に在り〕參河國司を辞すG。其の辞状、今日關東于到着す。

ちかよしこれ  と   すす      よつ いんそう あ  べ    うんぬん
親能之を執り進める。仍て院奏有る可しと云々。

参考G參河國司を辞すは、自由任官の連中が頼朝から怒られたのを知って、あわてて頼朝から推薦を受けて任官したのに、頼朝が京都の官職を持っているのを嫌っていると思い込んで辞職願いを出した。

現代語元暦二年(1185)四月小二十四日丁丑。三種の神器のうち、賢所神鏡八咫鏡と神璽八尺瓊勾玉が、今津浜へ届きました。そこで頭中将藤原通資がその場所へ取りに参りました。夜になって、藤中納言吉田経房、宰相中将白河泰通、権右中弁壬生兼忠、左中将藤原公時、右少将滋野井範能、藏人左衛門権佐藤原親雅達が、桂川へ行ってお清めをした後で、朱雀大路を上り、六条大路を越えて、大宮大路から待賢門へ入り、太政官の朝所(あいたんどころ)〔東門を通り〕へ着きました。その間、大夫判官義経様は鎧を着けてお供をして、太政官の東門に従いました。検非違使の部下の看督長が布衣(狩衣)を着て、松明を持って前に居たんだとさ。

一方、源参河守範頼様〔未だ九州に駐屯している〕は、三河守の官職を辞退しました。その辞退の届出の書状が今日関東へ到着しました。中原親能が頼朝様へ見せながら指図を聞いたところ、後白河法皇へ差し出しなさいとの事でした。

元暦二年(1185)四月小廿六日己卯。近年兵革之間。武勇之輩耀私威。於諸庄薗致濫行歟。依之。去年春之比。宜從停止之之由。被下綸旨訖。而關東以實平景時。被差定近國惣追補使之處。於彼兩人者。雖存廉直。所捕置之眼代等。各有猥所行之由。漸懷人之訴。就之早可令停止之旨。所被成御下文也。俊兼奉行之云々。
 下 畿内近國實平押領所々
  可令早任 院宣状停止實平濫妨知行事
 右畿内近國庄公。無指由緒空以押領。各代官輩偏居住郡内。不随于本所下知。忽諸國宣廳催。或掠取年貢。或犯用官物。所行之至尤以不當事也。於今者早随被下 院宣。不論是非。令退出堺内之後。帶理者追可令言上子細之状如件。以下。
     元暦二年四月廿六日
  下 畿内近國景時押領所々
  可令早任 院宣状停止景時濫妨知行事
 右畿内近國庄公。無指由緒空以押領。各代官輩偏居住郡内。不随于本所下知。忽諸國宣廳催。或掠取年貢。或犯用官物。所行之至尤以不當事也。於今者早随被下 院宣。不論是非。令退出堺内之後。帶理者追可令言上子細之状如件。以下。
     元暦二年四月廿六日
今日。前内府已下生虜。依召可入洛之間。 法皇爲御覽其躰。密々被立御車於六條坊城云々。申尅各入洛。前内府。平大納言。〔各駕八葉車。上前後簾。開物見 〕右衛門督。〔乘父車後。各淨衣。立烏帽子〕土肥二郎實平〔黒糸威鎧〕在車前。伊勢三郎能盛〔肩白赤威鎧〕在同後。其外勇士相圍車。又美濃前司以下同相具之。信基時實等者。依被疵用閑路云々。皆悉入廷尉六條室町第云々。」同日則有罪状定。前内府父子并家人等可被處死罪之由。明法博士章貞進勘文云々。

読下し                      きんねんへいかくのかん ぶゆうのやから しい かがやか  しょしょうえん をい  らんぎょう  いた   か
元暦二年(1185)四月小廿六日己卯。近年兵革之間。武勇之輩私威を耀し、諸庄薗に於て濫行@を致す歟。

これ  よつ   きょねんはるのころ  よろ    これ  したが ちょうじのよし  りんじ   くだされをはんぬ
之に依て、去年春之比、宜しく之に從い停止之由、綸旨を下被訖。

しか    かんとう  さねひら  かげとき  もつ    きんごく そうついぶし   さ   さだ  られ  のところ  か   りょうにん  をい  は   れんちょく ぞん  いへど
而るに關東、實平、景時を以て、近國惣追補使Aに差し定め被る之處、彼の兩人に於て者、廉直を存ずと雖も、

 ぶ   お   ところのもくだい ら おのおの みだら しょぎょうあ   のよし  しばら ひとのうったえ いだ
捕し置く所之眼代
B等、各、猥な所行有るC之由、漸く人之訴を懷く。

これ  つ   はやばや ちょうじせし  べ   のむね おんくだしぶみ  なされるところなり としかねこれ ぶぎょう    うんぬん
之に就き早〃と停止令む可し之旨、御下文
Dを成被所也。 俊兼之を奉行すと云々。

参考@濫行は、略奪暴行。
参考A惣追補使は、占領軍司令官。この立場が後に守護となっていくが、この時点での守護は駿河と遠江に安田がいるだけ。
参考B捕し置く所之眼代は、土肥實平・梶原景時が任命して置いた代官。
参考C
猥な所行有るは、名を語って。
参考D御下文は、強い命令書で、下知状と使い分けている。下文は公権力の実行で弁解の余地無し、下知状は同じ命令書でも弁解が出来る。

現代語元暦二年(1185)四月小二十六日己卯。最近、戦乱が続いているから、武士の連中が武力をもって、ドサクサに紛れ荘園で略奪暴行をしているのだ。だもんで、去年の春頃に命令に従って略奪暴行を止めるように天皇から綸旨が出されたのであります。それなので関東では土肥次郎實平と梶原平三景時を関西周辺の占領軍司令官として命じた所である。この二人はきちんとした真面目な人たちだが、彼等が任命して現地管理をさせている代官達が、司令官の名を語って勝手に略奪をしているので、人々からの訴えを造っているのだ。これ等をさっさと止めさせるように、命令書を作成しているところです。筑後権守俊兼が担当官ですとさ。

  くだ     きないきんどく  さねひら  おうりょう しょしょ
 下す 畿内近國の實平が押領の所々
E

  はやばや いんぜん  じょう まか      さねひら  らんぼう  ちぎょう  ちょうじせし  べ   こと
 早〃と院宣の状に任せて、實平が濫妨の知行を停止令む可き事

  みぎ  きないきんごく  しょうこう   させ  ゆいしょな  むなし もつ  おうりょう  おのおの だいかん やからひとえ ぐんない きょじゅう
 右、畿内近國の庄公
F、指る由緒無く空く以て押領す。各、代官の輩偏に郡内に居住し、

  ほんじょ   げちに したがわず こくせん   ちょうさい  こっしょ    あるひ ねんぐ  りゃくしゅ   あるひ かんもつ はんよう
 本所
Gの下知于不随、國宣H、廳催Iを忽諸J、或は年貢を掠取しK、或は官物を犯用すL

  しょぎょうのいた  もつと もつ  ふとう  ことなり  いま  をい  は   はやばや くだされ  いんぜい  したが   ぜひ  ろんぜず
 所行之至り尤も以て不當の事也。今に於て者、早〃と下被る院宣に随い、是非を不論、

  かいだい  たいしゅつせし ののち ことわり たい    もの  おつ  しさい  ごんじょうせし べ  のじょうくだん ごと    もつ  くだ
 堺内を退出令む之後、理を帶する者、追て子細を言上令む可し之状件の如し。以て下す。

         げんりゃくにねんしがつにじうろくにち
    元暦二年四月廿六日

参考E實平が押領の所々は、土肥次郎實平の代官が横領している。
参考F庄公は、荘園も公領も。
参考G本所は、荘園領主の事で、順に、本所>領家>預所>公文=庄司=下司→地頭>名主>作人>下作人>在家と続き、実際の耕作は在家がやり、後は全員が中間搾取者。場合によってはそれぞれに代官がついたりする。
参考H國宣は、国衙の宣旨。
参考I廳催は、院の庁からの通知。
参考J忽諸しは、ごまかして。
参考K
掠取しは、横取りをする。
参考L官物を犯用すは、納税物資を私的に使ってしまう。

命じる 関西周辺の土肥次郎実平の代官が横領している所へ
 さっさと後白河院の命令書の通りに、実平の代官の知行を止めさせる事
 これは、関西とその周辺の荘園や国衙領において、ちゃんとした権利の証しもないのに、ずうずうしくも横取りをしている。それぞれの代官が代理と称して平然と現地に住み込んで、領主の命令を聞かないで、国衙の命令も院の庁の命令も無視して、荘園の年貢を横取りし、国衙へ納めるべき国の物を私に使っている。そのような行動は全く持って不当である。今すぐに現地へ届いている院から命令書に従って、余計な文句議論をせずに、領内から引き上げた後で、正しい理屈証拠があるならば、鎌倉へ詳しく申し出るように命じることは、この手紙の通りである。繰り返し命令する。
     元暦二年四月二十六日

  くだ     きないきんどく  かげとき  おうりょう しょしょ
 下す 畿内近國の景時が押領の所々

  はやばや いんぜん  じょう まか      かげとき  らんぼう  ちぎょう  ちょうじせし  べ   こと
 早〃と院宣の状に任せて、景時が濫妨の知行を停止令む可き事

  みぎ  きないきんごく  しょうこう  させ  ゆいしょな  むなし もつ  おうりょう  おのおの だいかん やからひとえ ぐんない きょじゅう
 右、畿内近國の庄公、指る由緒無く空く以て押領す。各、代官の輩偏に郡内に居住し、

  ほんじょ  げちに したがわず こくせん  ちょうさい こっしょ    あるひ ねんぐ  りゃくしゅ   あるひ かんもつ はんよう
 本所の下知于不随、國宣、廳催を忽諸し、或は年貢を掠取し、或は官物を犯用す。

  しょぎょうのいた  もつと もつ  ふとう  ことなり  いま  をい  は   はやばや くだされ  いんぜい  したが   ぜひ  ろんぜず
 所行之至り尤も以て不當の事也。今に於て者、早〃と下被る院宣に随い、是非を不論、

  かいだい  たいしゅつせし ののち ことわり たい    もの  おつ  しさい  ごんじょうせし べ  のじょうくだん ごと    もつ  くだ
 堺内を退出令む之後、理を帶する者、追て子細を言上令む可し之状件の如し。以て下す。

         げんりゃくにねんしがつにじうろくにち
    元暦二年四月廿六日

 命じる 関西周辺の梶原平三景時の代官が横領している所へ
 さっさと後白河院の命令書の通りに、景時の代官の知行を止めさせる事
 これは、関西とその周辺の荘園や国衙領において、ちゃんとした権利の証しもないのに、ずうずうしくも横取りをしている。それぞれの代官が代理と称して平然と現地に住み込んで、領主の命令を聞かないで、国衙の命令も院の庁の命令も無視して、荘園の年貢を横取りし、国衙へ納めるべき国の物を私に使っている。そのような行動は全く持って不当である。今すぐに現地へ届いている院から命令書に従って、余計な文句議論をせずに、領内から引き上げた後で、正しい理屈証拠があるならば、鎌倉へ詳しく申し出るように命じることは、この手紙の通りである。繰り返し命令する。
      元暦二年四月二十六日

きょう    さきのないふいか せいりょ   めし  よつ  じゅらくすべ  のかん  ほうおう そ  てい  ごらん  ため  みつみつ おんくるまをろくじょうぼうじょう  たてられ   うんぬん
今日。前内府已下の生虜、召に依て入洛可し之間、法皇其の躰を御覽の爲、密々に御車於六條坊城
Mに立被ると云々。

さるのこく おのおの じゅらく   さきのないふ へいだいなごん おのおの はちようのくるま  が  ぜんご  みす  あ     ものみ  ひら    うんぬん
申尅、各、入洛す。前内府、平大納言〔 各、 八葉車Nに駕し前後の簾を上げ、物見を開くOと云々〕

うえもんのかみ ちち  くるま  うしろ  の   おのおのじょうえ たてえぼし   といのじろうさねひら くろいとをどし よろい くるま まえ  あ
右衛門督〔父の車の後に乘る。各淨衣。立烏帽子〕土肥二郎實平〔黒糸威の鎧〕車の前に在り。

いせのさぶろうよしもり かたしろあかをどし よろい おな  うしろ  あ    そ   ほか  ゆうし くるま  あいかこ
伊勢三郎能盛〔肩白赤威の鎧〕同じく後に在りP。其の外の勇士車を相圍む。

また  みののぜんじ  いげ おな    これ  あいぐ    のぶもと  ときざねら は   きずされ    よつ  かんろ  もち       うんぬん
又、美濃前司
Q以下同じく之を相具す。信基、時實等者、疵被るに依て閑路を用うると云々。

みなことごと ていい   ろくじょうむろまちだい  はい    うんぬん
皆悉く、廷尉が六條室町第
Rに入ると云々。」

参考M六條坊城は、六条大路と坊城小路の交差点。
参考N八葉車は、一つの円を中心に周囲に八つの円を配した文様のついた牛車で、五位以上が乗れることが出来る。三位以上は後ろのすだれいっぱいの大きい模様なので大八葉と云う。
参考O物見を開くは、外から顔が見えるように開いているのは、囚人なので晒している。
参考P土肥實平車の前に在り伊勢能盛同じく後に在りは、源九郎義經は陪臣の伊勢三郎を御家人の土肥次郎實平と同等に扱おうとしている。こういうことが頼朝に対して臣下の礼を執っていない事になる。
参考Q美濃前司は、源則Cで頼光系。
参考R六條室町第は、六条大路北側で堀川通りと室町大路の間に、爲義の屋敷跡。左女牛神社がある。京都市下京区佐女牛井町の堀川通り向かいに石碑有。

おな  ひ  すなは ざいじょう さだ   あ   さきのないふ ふし なら    けにんら しざい  しょされ  べ   のよし  みょうぼうはくじあきさだ  かんもん  すす    うんぬん
同じ日、則ち罪状の定め有り
S。前内府父子并びに家人等死罪に處被る可し之由、明法博士章貞、勘文を進むと云々。

参考S罪状の定め有りは、罪状が決まると自然とその罪状にあった罰がきまる。

現代語今日、前内大臣宗盛を始めとする平家の捕虜達が、呼ばれて京都へ連れてこられたので、後白河法皇はその京入りの様子を見るために、内緒で牛車を六条小路と坊城小路の交差点に控えさせましたとさ。午後四時頃になって、皆京都の町へ入りました。前内府宗盛、平大納言時忠〔それぞれ八葉車に乗る。前後の御簾を上げて、横の物見を開いて晒し者にされていたんだとさ〕右衛門督清宗〔父宗盛の車の後ろに同乗する。共に白い着物に立烏帽子〕土肥次郎実平〔黒糸威の鎧を着用〕は牛車の前に居る。伊勢三郎能盛〔肩は白糸で他は赤糸威の鎧を着用〕は同様に牛車の後ろに居る。その他の武士達は牛車を囲んでいる。又、美濃前司則清以下の平家侍大将達も同様に連行されています。前内藏頭平信基と左中将平時実は、怪我をしており穢れになるので、裏道をつかっているのだとさ。皆、一人残らず源廷尉〔義経〕の室町の屋敷に入りましたとさ。

その日のうちに、朝廷で罪状を決めました。前内府宗盛親子と平家の侍は死罪にすることと、明法博士(法律家)章貞が提案文を出したそうです。

元暦二年(1185)四月小廿八日辛巳。建礼門院渡御于吉田邊〔律師實憲坊〕。又若宮〔今上兄〕御坐舩津之間。侍從信C令參向奉迎之。奉入七條坊門亭云々。」今日。近江國住人前出羽守重遠參上。是累代御家人也。齡八旬云々。武衛哀其志召前。舎弟十郎并僧蓮仁等加扶持。重遠申云。平治合戰之後。存譜代好之間。終不随平家之威權兮。送廿余年訖。適逢御執權之秋。可開愁眉之處。還爲在京之東士等。稱兵粮。号番役。譴責之條太以難堪。凡非一身之訴。及諸人之愁。平氏之時曾無此儀。世上未收歟云々。申状之趣。尤叶正理之由有御感。仍停止如然濫妨。可令成安堵之思之旨。直有恩裁云々。又國中訴訟事。可有御沙汰之由云々。

読下し                      けんれいもんいん  よしだへん  〔りっし じっけん ぼう〕  に とぎょ
元暦二年(1185)四月小廿八日辛巳。建礼門院@、吉田邊A〔律師實憲の坊〕于渡御す。

また  わかみや きんじょう  あに ふなづ    おは   のかん  じじゅうのぶきよ さんこうせし これ  むか たてまつ  しちじょうぼうもんてい い たてまつ  うんぬん
又、若宮B〔今上Cが兄〕舩津Dに御坐す之間、侍從信CE參向令め之を迎へ奉り、七條坊門亭へ入れ奉ると云々。」

参考@建礼門院は、C盛の娘徳子で入内して安徳天皇の母となる。
参考A
吉田邊は、左京区吉田、京都大学付属病院入口辺り。
参考B若宮は、守貞親王で後の後高倉院で堀川天皇の父。
参考C
今上は、後鳥羽天皇。
参考D舩津は、伏見の鴨川の船着場で現伏見区中島鳥羽離宮町城南宮の池が昔の船着場。
参考E侍從信Cは、坊門信C。後に娘が実朝の嫁になる。

現代語元暦二年(1185)四月小二十八日辛巳。建礼門院は、吉田(現左京区吉田)〔律師実憲の坊〕へお渡りになられました。又若宮守貞親王〔今上後鳥羽天皇の兄〕は伏見鴨川の船着場船津におられるので、侍従の坊門信Cが出かけていってお迎えして、七条坊門の屋敷へお入りになって戴きましたとさ。

きょう   おうみのくにじうにん さきのでわのかみしげとお  さんじょう   これ るいだい  ごけにんなり  よはいはちじゅん  うんぬん
今日、近江國住人 前出羽守重遠
F、 參上す。是、累代の御家人也。齡八旬Gと云々。

ぶえい そ こころざし あわれ  まえ め     しゃていじうろうなら    そうれんにんら ふち   くは     しげとおもう    い
武衛其の志を哀みH前に召す。舎弟十郎并びに僧蓮仁等扶持を加ふI。重遠申して云はく、

へいじがっせんののち  ふだい  よしみ ぞん    のかん  しまい へいけの いけん  したがはずして  にじうよねん おく をはんぬ
平治合戰之後、譜代の好を存ずる之間、終に平家之威權に不随兮、 廿余年を送り訖。

たまたま ごしっけんのとき  あ     しゅうび  ひら   べ   のところ  かへっ ざいきょうのとうしら    ため     ひょうろう しょう   ばんやく  ごう
適、御執權之秋に逢い、愁眉を開く
J可し之處、還て在京之東士等Kの爲に、兵粮と稱し、番役と号し、

けんせき のじょう はなは もつ た   がた    およ  いっしんのうった   あらず   しょにのうれい  およ
譴責
L之條、太だ以て堪へ難し。凡そ一身之訴へに非M。諸人之愁に及ぶ。

へいしのとき あへ  かく   ぎ な    せじょういま  おさま   か  うんぬん  もうすじょうのおもむき もつと せいり  かな  のよし ぎょかん あ
平氏之時曾て此の儀無し。世上未だ收らん歟と云々。申状 之 趣、 尤も正理に叶う之由御感有り。

よつ  しか  ごと    らんぼう  ちょうじ    あんどのおもい なさせし  べ   のむね  じき  おんさい あ    うんぬん
仍て然る如きの濫妨を停止し、安堵之思を成令む可し之旨、直に恩裁有りと云々。

また  くにじう   そしょう  こと   おんさた あ   べ    のよし  うんぬん
又、國中の訴訟の事、御沙汰有る可し之由と云々。

参考F前出羽守重遠は、平重遠。
参考G
齡八旬は、八十歳になる。
参考H
哀みは、慈しむ。
参考I
扶持を加ふは、手助けをする。
参考J愁眉を開く可しは、やっとよくなったと思う。ほっとした。旨くいって面目が立ったときも使う。
参考K在京之東士等は、占領軍として。
参考L
譴責は、責めさいなむとは、横領する。
参考M
一身之訴へに非は、私だけに限らず皆そうだ。

一方鎌倉では、近江国の豪族の前出羽守平重遠が鎌倉へ参上しました。この人は先祖代々の家来です。年は八十歳になるんですと。頼朝様はその心がけを慈しんで、御前にお呼びになりました。弟の十郎と坊さんの蓮仁が手助けをしていました。重遠が言うのには、平治合戦の後、代々の家来である誇りを感じて、その結果平家の権威になびかないで、二十年を送りました。たまたま、主人筋の頼朝様が権威快復の時を向かえ、面目が立ったと大喜びするところですが、反って京都駐屯の関東の武士団の為に、兵糧だといっては、兵役だと言っては、攻め立てるので我慢がなりません。これは私一人の問題ではなく、皆が嘆いております。逆に平氏政権のときはそんなことはありませんでした。未だ世間は戦争気分が収まっては降りませんなんだとさ。云っていることは、とても正しい理屈に在っているので、頼朝様は同情なされました。そこで、そのような乱暴狼藉を止めて、安心して暮らせるようにすることを、直ぐに約束されましたとさ。同時に、国中の同様の訴えがあれば、処理するようにと側近に命じました。

元暦二年(1185)四月小廿九日壬午。雜色吉枝爲御使赴西海。是所被遣御書於田代冠者信綱也。廷尉者。爲關東御使。相副御家人。被差遣西國之處。偏存自專儀云々。侍等成私ニ服仕ノ思之間。面々有恨云々。所詮於向後者。存忠於關東之輩者不可随廷尉之由。内々可相觸云々。」今日。以備中國妹尾郷。被付 崇徳院法華堂。是爲没官領。武衛所令拝領給也。仍爲奉資彼御菩提。被宛衆僧供料云々。

読下し                     ぞうしき よしえだおんつかい な  さいかい おもむ   これ  おんしょをたしろのかじゃのぶつな  つか  さる  ところなり
元暦二年(1185)四月小廿九日壬午。雜色@吉枝御使と爲し西海へ赴く。是、御書於田代冠者信綱Aに遣は被る所也。

ていい  は  かんとう  おんつかい な    ごけにん   あいそ     さいごく  さ   つか  され  のところ  ひとへ じせん  ぎ   ぞん   うんぬん
廷尉者、關東の御使と爲し、御家人を相副へ、西國へ差し遣は被る之處、偏に自專の儀を存ずと云々。

さむらいら わたしにふくじのおもい な   のかん  めんめんうらみ あ   うんぬん
侍等、私ニ服仕ノ思を成すB之間、面々恨有りと云々。

しょせん こうご  をい  は   ちうを かんとう  ぞん    のやからは ていい   したが べからずのよし  ないない あいふれ  べ    うんぬん
所詮向後に於て者、忠於關東に存ずる之輩者廷尉に随ふ不可之由、内々に相觸る可しと云々。」

参考@雜色は、領地のない武士身分よりも低い身分の侍。
参考A
田代冠者信綱は、伊豆出身の御家人。静岡県田方郡函南町田代。
参考B私ニ服仕ノ思を成すは、私的に個人的に使われる。

現代語元暦二年(1185)四月小二十九日壬午。雑用の吉枝が伝令として九州へ出かけました。これは頼朝様のお手紙を田代冠者信綱に出されたからです。廷尉義経は、関東頼朝様の代官として、御家人を付けて、関西へ行かせたのだけれど、まるで自分の手柄のように思っているのだとさ。侍達に個人的な命令をするので、みんな恨みに思っているんだとさ。そこで、今後については、忠義の気持ちを関東の頼朝様に感じている連中は、廷尉義経の命令に従う必要はないと内緒で命令するようになんだとさ。

きょう   びっちゅうのくにせのおごう  もつ   すとくいん     ほけどう    つけられ    これもっかんりょう  な    ぶえいはいりょうせし  たま ところなり
今日、備中國妹尾郷
Cを以て、崇徳院Dの法華堂Eに付被る。是没官領Fと爲し、武衛拝領令めG給ふ所也。

よつ  か    ごぼだい   たす たてまつ  ため  しょうそう  くりょう  あてられ   うんぬん
仍て彼の御菩提を資け奉らん爲、衆僧
Hが供料に宛被ると云々。

参考C妹尾郷は、妹尾太郎兼安で、平家物語や平治物語に出演するが吾妻鏡には出演がない。岡山県岡山市妹尾
参考D崇徳院は、源平合戦が七年にも及んで戦い続けたのは、当時の人は崇徳院の祟りだと信じていた。
参考E法華堂は、二間四方のお堂で墓。
参考F
没官領は、平家没官領で、平家から取上げた領地。
参考G武衛拝領令めは、頼朝の関東御領となった。
参考H衆僧は、墓守をしている坊さん。

今日、備中国妹尾郷(岡山県岡山市妹尾)を崇徳院を祀ってある法華堂の領地に寄付しました。これは、元平家の領地を取上げたのを頼朝様が貰った所です。そこで、崇徳院の菩提を弔うための、坊さん達のお経供養費用に当てられるんだとさ。

五月へ

吾妻鏡入門第四巻

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