吾妻鏡入門第四巻

元暦二年(1185)五月小「八月十四日文治元年と爲す」

元暦二年(1185)五月小一日癸未。故伊与守義仲朝臣妹公〔字菊〕。自京都參上。是武衛令招引給之故也。御臺所殊愍給。先日所々押領由事。奸曲之族假名立面之條。全不知子細之旨陳謝云々。 豫州爲朝敵雖預討罸。無指雜怠之女性。盍憐之乎云々。仍所賜美濃國遠山庄内一村也。」又武衛被遣御書於左兵衛佐局。是 崇徳院法花堂領新加事也。去年以備前國福岡庄。被寄進之處。窂籠之間。取替之被進妹尾尼畢。爲供佛施僧之媒。可被奉訪御菩提之趣被載之。件禪尼者武衛親類也。當初爲彼 院御寵也云々。」今日。建礼門院令落餝御云々。

読下し                     こいよのかみよしなかあそん  いもうとぎみ〔あざな まりこ 〕きょうと よ  さんじょう
元暦二年(1185)五月小一日癸未。故伊与守義仲朝臣が 妹公 〔字は菊@京都自り參上す。

これ  ぶえいしょういんせし たま のゆえなり  みだいどころこと  あわれ たま
是、武衛招引令め給ふ之故也。御臺所殊に愍み給ふA

せんじつ しょしょ  おうりょう  よし  こと  かんきょくのぞくな  かり  つら  たて のじょう   まった  しさい  しらずのむね  ちんしゃ    うんぬん
先日、所々を押領の由の事、奸曲之族名を假て面を立る之條
B、全く子細を不知之旨、陳謝すCと云々。

よしゅう  ちょうてき な    とうばつ  あずか  いへど   させ  ぞうたい な  のじょうせい なん  これ  あわ    や   うんぬん
豫州D朝敵と爲して討罸に預ると雖も、指る雜怠無き之女性、盍ぞ之を憐れん乎と云々。

よつ  みののくに とおやまのしょう ない  いっそん  たま  ところなり
仍て美濃國 遠山庄E内に一村Fを賜はる所也。」

参考@義仲妹公〔字は菊〕は、系図に菊子とあり、「真理子」とふってあるので「鞠子」のことで(鞠の正字は革+菊)革を略している。
参考A愍み給ふは、可愛がる。
参考B面を立る之條は、三月三日条にあり。
参考C陳謝すは、弁解する。
参考D
豫州は、伊与守義仲。
参考E美濃國遠山庄は、岐阜県瑞浪市。
参考F
遠山庄内に一村は、総地頭は加藤次景廉で、彼女は一村の小地頭であろう。総地頭と小地頭共に頼朝と直縁となるので上下関係は無く、対等であろう。なお、彼女は加藤次景廉の息子と結婚し娘が出来、加藤は遠山と名乗り、子孫に遠山左衛門尉景元が出る。

また  ぶえいおんしょを さひょうえのすけのつぼね つか され    これ  すとくいん ほけどうりょう  あらた くはへ ことなり
又、武衛御書於 左兵衛佐局Gに遣は被る。是、崇徳院法花堂領を新に加る事也。

きょねん びぜんのくに ふくおかのしょう  もつ    きしん され  のところ ろうろう  のかん これ  とりか   せのお  あま すす られをはんぬ
去年、備前國 福岡庄Hを 以て、寄進被る之處、窂籠I之間、之を取替へ妹尾を尼に進め被畢。

くぶつ せそうの なかだち な     ごぼだい  とぶら たてまつらる べ のおもむき これ  の   らる
供佛 施僧之媒と爲し、御菩提を訪ひ奉被る可し之 趣、之を載せ被る。

くだん ぜんには   ぶえい しんるいなり  とうしょ か  いん  ごちょう  な   なり   うんぬん
件の禪尼者、武衛親類也。當初彼の院の御寵を爲す也と云々。」

きょう   けんれいもんいん かざり おとせし たま  うんぬん
今日、建礼門院、餝を落令めJ御うと云々。

参考G左兵衛佐局は、崇徳上皇の墓守の尼。
参考H
備前國福岡庄は、岡山県瀬戸内市長船町福岡で、後に黒田官兵衛が住み、九州へ福岡の名称を持っていく。
参考I牢篭は、年貢を滞納して収入にならない。滞納者を牢人とも云う。
参考J餝を落令めは、髪を落とす、出家する。

現代語元暦二年(1185)五月小一日癸未。故伊予守木曽義仲様の妹さん〔呼び名は鞠子〕が京都から鎌倉へやってまいりました。それは、頼朝様が招かれたからです。御台所(政子様)が特にお気の毒に思われているからです。先日、あっちこっちの領地を横取りしたのは、悪い連中が家来のふりをして名を語った事で、全然感知をしていないことだったと弁解をなされましたとさ。伊予守義仲は、朝廷から敵扱いされて滅ぼされてはしまったけれど、係わりを持たず悪いことをしたわけでもない女性を、なんで放って置くことが出来ましょうか。それなので美濃国遠山庄(岐阜県瑞浪市)に小地頭として一村を与えられたところです。

又、頼朝様は、お手紙を崇徳上皇の墓守の左兵衛局に出されました。これは崇徳院の墓の法華堂を維持するための領地を新しく足してあげるためです。去年、備前国福岡庄(岡山県瀬戸内市長船町福岡)を寄付したけれでも、荒廃して年貢が当てにならないので、これを取り替えて妹尾を尼(佐兵衛局)に進呈しました。成仏できるように仏様との仲を取り持ってあげられるように、良くお守りして菩提を弔ってあげてくださいと、手紙に書き載せられました。その尼は、頼朝様の遠い親戚であります。昔は崇徳院に可愛がられたものです。

ところで、今日、建礼門院が髪をお落としになられたんだとさ。

元暦二年(1185)五月小二日甲申。土左上人琳猷歸國。令止住關東可掌一寺別當職之由。頻雖抑留給。於土左冠者墳墓可凝佛事之旨申請之間。有御餞別會。又上人住所介良庄恒光名津崎在家。被停止万雜事畢。加之。此上人依訪故希義主夢後。爲酬其志。可賞翫之趣。被仰土左國住人等云々。

読下し                     とさ   しょうにんりんゆう  きこく
元暦二年(1185)五月小二日甲申。土左の上人琳猷、歸國す@

かんとう  しじゅくせし  いちじ  べっとうしき  つかさど べ  のよし  しきり おさ  とど  たま    いへど
關東に止住令め一寺の別當職を掌る可し之由、頻に抑へ留め給ふと雖も、

とさのかじゃ ふんぼ    をい  ぶつじ   こら  べ   のむね  もう  う      のかん  ごせんべち  え あ
土左冠者墳墓Aに於て佛事を凝す可し之旨、申し請くる之間、御餞別の會有り。

また しょうにんすま ところ けらのしょう あつみつみょう つざき ざいけ  まんぞうじ  ちょうじされをはんぬ
又、上人住う所の介良庄 恒光名 津崎の在家、万雜事Bを停止被畢。

これ  くは    こ  しょうにん こまれよしぬし ぼうご   とぶら   よつ    そ こころざし むく   ため  しょうがんすべ  のおもむき
之に加へ、此の上人故希義主が夢後を訪うに依て、其の志に酬いん爲、賞翫可しC之趣、

とさのくに じうにんら  おお  らる    うんぬん
土左國住人等に仰せ被ると云々。

参考@琳猷歸國すは、三月二十七に来ている。
参考A土左冠者墳墓は、同母弟の希義で壽永元年(1182)九月小廿五日に平家家人蓮池權守家綱に殺され、高知市介良源希義神社西養廃寺跡がある
参考B万雜事は、万雑公事で念年貢以外の雑税だが、この負担のほうがきつい。
参考C賞翫可しは、重んじる、尊敬する、大切に扱う。

現代語元暦二年(1185)五月小二日甲申。土佐から来ている琳猷上人が国へ帰ると云ってます。頼朝様は関東に住めば寺を一つ長官として任せるから、居たらどうかと盛んに止めたけれども、土佐冠者希義の墓守をして、後生を弔いたいと願い出たので、送別会の法事をしました。又、上人の住んでいる介良庄(高知市介良)恒光名津崎の農作民の在家には、労働租税の万雑公事を免除されました。そればかりか、この上人が故希義様の魂が成仏できるように祈ってくれるので、その恩に答えるために、大切にして邪魔する事のないように、土佐国の豪族達に命令を出しましたとさ。

元暦二年(1185)五月小三日乙酉。木曾妹公事。所被加御扶持也。可奉憐之趣。被仰付于小諸太郎光兼以下信濃國御家人等云々。是信州者。如木曾分國兮。住人皆蒙彼恩顧之故也云々。

読下し                     きそ  いもうとぎみ こと   おんふち  くは  らる  ところなり
元暦二年(1185)五月小三日乙酉。木曾が妹公の事、御扶持を加へ被る所也。

あはれ たてまつ べ のおもむき こもろのたろうみつかね  いげ  しなののくに ごけにんら に おお  つ   らる    うんぬん
憐み 奉る
@可し之趣、小諸太郎光兼A以下の信濃國御家人等于仰せ付け被ると云々。

これ  しんしゅうは  きそ   ぶんんこく ごと して  じゅうにんみな か   おんこ  こうむ のゆえなり  うんぬん
是、信州者、木曾の分國の如く兮。住人皆、彼の恩顧を蒙る之故也と云々。

参考@憐み奉るは、大切にする、尊重する。
参考A
小諸太郎光兼は、長野県小諸市。

現代語元暦二年(1185)五月小三日乙酉。木曽義仲の妹の事ですが、領地を与えたところです。尊重し大切にするように、小諸太郎光兼を始めとする信濃国の御家人に命じられましたとさ。これは、信州は木曽冠者義仲が治めていたのと同様なので、豪族達は皆その恩を受けているのだからなんだとさ。

元暦二年(1185)五月小四日丙戌。梶原平三景時使者還于鎭西云々。仍被付御書。被勘發廷尉訖。於今者不可從彼下知。但平氏生虜等已入洛云々。是當時重事也。罪名治定之程。景時已下御家人等皆一心而可令守護。各任意不可令歸參之由云々。

読下し                     かじわらのへいざかげとき ししゃ ちんぜいに かえ    うんぬん
元暦二年(1185)五月小四日丙戌。梶原平三景時が 使者、鎭西于還ると云々。

よつ  おんしょ  つ  らる  ていい   かんぽつ されをはんぬ いま  をい  は か  げち   したが べからず

仍て御書を付け被、廷尉を勘發@被訖。今に於て者彼の下知に從う不可A

ただ  へいし  せいりょらすで  じゅらく   うんぬん  これ  とうじ  ちょうじなり
但し平氏の生虜等已に入洛すと云々。是、當時の重事也。

ざいめい ちじょうのほど    かげとき いか   ごけにんら みないっしん   て しゅごせし   べ   おのおの い  まか   きさんせし  べからずのよし  うんぬん
罪名を治定之程B、景時已下の御家人等皆一心にし而守護令むC可し。各、意に任せD歸參令む不可之由と云々。

参考@勘發は、叱り付ける。
参考A
彼の下知に從う不可は、既に平家合戦を終えたので指揮権は無いので指揮に従う必要はない。
参考B治定之程は、決定するまで。
参考C
守護令むは、この場合は護衛をする。
参考D意に任せは、身勝手に。

現代語元暦二年(1185)五月小四日丙戌。梶原平三景時の伝令が九州へ戻るんだそうだ。そこで頼朝様はお手紙を持たせて、廷尉義経を勘当したので、もう既に彼の命令に従ってはいけない。但し、平氏の生け捕り達はもう京都へ入っているんだそうなので、今一番の大事な仕事である。刑が決まり次第、景時を始めとした御家人は皆一緒に警護をするように。自分勝手に気ままに鎌倉へ帰って来たりしない様になんだとさ。

元暦二年(1185)五月小五日丁亥。可奉尋寳釼之由。以雜色爲飛脚。下知參州給。凡至于冬比住九州。諸事可被沙汰鎭者。且以其次。澁谷庄司重國。今度豊後國合戰。討加摩兵衛尉。神妙之由。被感仰遣。又所被付置于參州之御家人等事。縱乖所存之者雖相交。私不可加勘發。可訴申關東之由云々。去年之比。爲追討使。二人舎弟〔範頼義經〕蒙 院宣訖。爰參州入九國之間。可管領九州之事。廷尉入四國之間。又可支配其國々事之旨。兼日被定處。今度廷尉遂壇浦合戰之後。九國事悉以奪沙汰之。所相從之東士事。雖爲小過。不及免之。又不申子細於武衛。只任雅意。多加私勘發之由有其聞。縡已爲諸人愁。科又難被宥。仍廷尉蒙御氣色先畢云々。」今日。小山七郎朝光自西海歸參。

読下し                     ほうけん   たず たてまつ べ   のよし  ぞうしき  もつ   ひきゃく  な     さんしゅう  げち  たま
元暦二年(1185)五月小五日丁亥。寳釼@を尋ね奉る可し之由、雜色を以て飛脚と爲し、參州に下知し給ふ。

およ  ふゆ  ころに いた     きゅうしゅう  す    しょじ  さた   しず  らる  べ   てへ
凡そ冬の比于至るまで九州に住み、諸事沙汰し鎭め被る可し者り。

かつう そ  ついで  もつ    しぶやのしょうじしげくに  このたび ぶんごのくにかっせん   がまのひょうえのじょう  う       しんみょうのよし  かん  おお  つか  さ
且は其の次を以て、澁谷庄司重國、今度の豊後國合戰Aに、加摩兵衛尉Bを討つは、神妙之由、感じ仰せ遣は被る。

また  さんしゅうに つ お   れるところの ごけにんら    こと  たと  しょぞん  そむ  のものあいまじは   いへど   し   かんぽつ  くは   べからず
又、參州于付け置か被所之御家人等Cの事、縱い所存を乖く之者相交ると雖も、私の勘發Dを加へる不可。

かんとう うった  もう  べ    のよし  うんぬん
關東へ訴へ申す可しE之由と云々。

きょねんのころ  ついとうし   な     ふたり  しゃてい 〔 のりより よしつね〕 いんぜん こうむ をはんぬ
去年之比、追討使と爲し、二人の舎弟〔範頼、義經〕院宣を蒙り訖。

ここ  さんしゅうきゅうごく はい のかん  きゅうしゅう かんりょうすべ のこと  ていい  しこく はい  のかん  またそ  くにぐに  しはいすべ  ことのむね
爰に參州九國へ入る之間、九州を管領可し之事。廷尉四國へ入る之間、又其の國々を支配可き事之旨、

けんじつさだ  らる  ところ  このたび ていい  だんのうらかっせん と  ののち  きゅうこく ことことごと もつ うば    これ   さた
兼日定め被る處、今度、廷尉壇浦合戰を遂げる之後、九國の事悉く以て奪ひて之を沙汰すF

あいしたが ところのとうし  こと  しょうかたり いへど   これ  ゆる   およばず
相從う所之東士の事、小過爲と雖も、之を免すに不及。

また  しさいを  ぶえい  もうさず  ただ がい   まか    おお  し   かんぽつ  くは    のよし そ  きこ  あ
又、子細於G武衛に不申、只雅意に任せ、多く私の勘發を加へる之由其の聞へ有り。

ことすで  しょにん  うれい な     とがまたなだ  られがた    よつ  ていい   みけしき  こうむ    さき をはんぬ うんぬん
縡已に諸人の愁を爲す。科又宥め被難し。仍て廷尉が御氣色の蒙り、先に畢と云々。」

きょう  おやまのしちろうともみつ さいかいよ  きさん
今日、小山七郎朝光西海自り歸參す。

参考@寳釼は、草薙の剣。
参考A豊後國合戰は、二月一日の葦屋浦合戦で筑前。現在の福岡県遠賀郡芦屋町。
参考B加摩兵衛尉は、種益で現福岡県嘉麻市。
参考C
付け置か被所之御家人等は、頼朝が義經に貸していた御家人だ。
参考D私の勘發は、個人的に気に入らない事。
参考E
關東へ訴へ申す可しは、鎌倉へ云ってくるように。
参考F奪ひて之を沙汰すは、勝手に越権行為をしている。
参考G
子細於は、その行為の内容を。

現代語元暦二年(1185)五月小五日丁亥。草薙の剣を探し出すように、雑用に伝令として、三州源範頼に命じさせました。概ね冬までは、九州に住み留まり、色々な戦後処理占領行政をして世の中を落ち着かせなさい。その連絡のついでに、渋谷庄司重国の豊後国合戦(実は筑前の芦屋浦合戦)で、加摩兵衛尉種益を討ち取ったのは、大手柄だと感心していると伝えさせました。また、源参河守範頼には、従わせている御家人達の事については、たとえ思うように云うことを聞かない連中がいても、勝手に自分の判断で刑に処分をしてはいけない。私が判断をするので関東の私に言いつけてきなさいとの事だとさ。昨年、今日と朝廷から正式に平家討伐司令官として、二人の弟〔範頼、義経〕に後白河法皇の任命が出ました。そして、参河守範頼は九州を管理すること、廷尉義経は四国へ攻め入ること、そしてそれぞれの国々を管理するように、かねて決めてありました。しかし、今回廷尉義経が壇ノ浦合戦を勝利に導いたので、九州の事まですっかり権限を通り越して勝手に越権行為をしています。しかも、従軍している関東の武士が、少しでも云うことを聞かないとこれを許すことをしないで、又内容を頼朝様に伝えもせずに、ただ自分の意思を持って、勝手に怒って処分をしていると聞こえて来ています。それはもう、諸人を脅かすこととなっている。その罪は許しがたいので、廷尉義経の事は、頼朝様のお怒りに達しているなんだとさ。

今日、小山七郎結城朝光が関西から帰ってきました。

元暦二年(1185)五月小六日戊子。公家爲追討報賽。被發遣廿二社奉幣使。上卿右大將。〔良經〕奉行弁兼忠朝臣云々。

読下し                     こうけ  ついとうほうさい   ため  にじうにしゃほうへいし  はっけんされ
元暦二年(1185)五月小六日戊子。公家@追討報賽Aの爲、廿二社奉幣使を發遣被る。

しょうけい うだいしょう 〔よしつね 〕 ぶぎょう べんのかねただあそん うんぬん
上卿は右大將〔良經B奉行は弁兼忠朝臣と云々。

参考@公家は、天皇家を指している。
参考A報賽は、お礼参りのため。
参考B
右大將〔良經〕は、九条兼実の息子。

現代語元暦二年(1185)五月小六日戊子。京都朝廷では、平家追討のお礼参りのため、二十二の社寺へお参りをする者を派遣しました。命じるのは右大将良経様で、直接の指揮するのは弁官の兼忠様だそうです。

元暦二年(1185)五月小七日己丑。源廷尉使者〔号龜井六郎〕自京都參着。不存異心之由。所被獻起請文也。因幡前司廣元爲申次。而三州者。自西海連々進飛脚申子細。於事無自由之張行之間。武衛又被通懇志。廷尉者。動有自專計。今傳聞御氣色不快之由。始及此儀之間。非御許容之限。還爲御忿怒之基云々。

読下し                     げんのていい   ししゃ 〔かめいのろくろう ごう 〕 きょうと よ  さんちゃく
元暦二年(1185)五月小七日己丑。源廷尉が使者〔龜井六郎と号す〕京都自り參着す。

いしん    ぞんぜざるのよし きしょうもん けん  らる ところなり  いなばのぜんじひろもと もうしつぎ な
異心@を不存之由、起請文を獻ぜ被る所也。因幡前司廣元、申次を爲す。

しか    さんしゅうは  さいかいよ  れんれん  ひきゃく  すす  しさい  もう    こと  をい  じゆうのちょうぎょう  な  のかん  ぶえいまた  こんし  かよ  さる
而るに三州者、西海自り連々の飛脚を進め子細を申す。事に於て自由之張行A無き之間、武衛又、懇志を通は被るB

ていい  は  やや じせん はか   あ     いま  つた  き   みけしき ふかいのよし  はじ    かく  ぎ   およ   のかん
廷尉者、動自專の計りC有り。今に傳へ聞く御氣色不快之由、始めて此の儀に及ぶD之間、

ごきょようの かぎり あらず かえっ ごふんぬの  もとい な    うんぬん
御許容之限に非。還て御忿怒之基を爲す
Eと云々。

参考@異心は、謀反の心。
参考A自由之張行は、我侭勝手な行動。
参考B
懇志を通は被るは、意思の疎通を図った。
参考C自專の計りは、自分で勝手に決めた。
参考D始めて此の儀に及ぶは、今頃になってやっと。
参考E還て御忿怒之基を爲すは、頼朝の政治的作戦や意味を理解していないので返って怒らせてしまった。

現代語元暦二年(1185)五月小七日己丑。源廷尉義経の伝令〔亀井六郎重清です〕が京都から到着しました。頼朝様に対し謀反の心など持っていないことを誓約書にして提出をしてきたのです。前因幡守大江広元が取次ぎをしました。しかし、参河守範頼は、九州からどんどん続けて伝令をよこし、細かいことも報告をしていますし、些細なことも勝手に判断するようなことはなく、頼朝様も快く思っておりました。廷尉義経は、殆ど自分で判断して行動しているので、今頃になって頼朝様が不機嫌なのを聞き知って、初めてこのような行動に出ましたので、許されるばかりか、かえってお怒りの種を作ってしまいましたとさ。

元暦二年(1185)五月小八日庚寅。因幡前司。大夫属入道。筑後權守。主計允。筑前三郎等參會。鎭西事等被經其沙汰。早可令施行之由。俊兼奉之。其條々。
 一宇佐大宮司公房日來雖致平家祈禱。依御敬神如元可管領宮務事。
 一同宮祠官等可浴御恩事。
 一去年依合戰事當宮神殿破損 殊加造替。可奉解謝由。可啓白事。
 一平家没官領外。貞能并盛國法師等得領家免。有知行所之由風聞。可注申其在所事。
 一可召上美氣大藏大夫〔過言參州者者〕於關東事。
 一所被遣鎭西之御家人等塩谷五郎以下多以歸參訖。遣御使被止向後參上可沙汰鎭西海事。
 一西國御家人交名。仰義盛可令注進事。

読下し                     いなばのぜんじ たいふさかんにゅうどう ちくごごんのかみ かぞえのじょう ちくぜんのさぶろうらさんかい
元暦二年(1185)五月小八日庚寅。因幡前司、大夫属入道、 筑後權守、主計允、筑前三郎等參會す。

ちんぜい ことなど そ  さた    へらる     はや  しぎょう せし べ   のよし  としかねこれ うけたまは そ じょうじょう
鎭西の事等其の沙汰を經被る@早く施行A令む可し之由、俊兼之を奉る。其の條々。

参考@沙汰を經被るは、会議を行った。
参考A施行は、実行。鎌倉時代は裁決で勝っても御家人が自力で施行し占領したが、室町時代になると守護が施行をした。

  ひとつ  うさだいぐうじ  きんふさ ひごろ へいけ   きとう  いた   いへど    ごけいしん  よつ  もと  ごと  ぐうむ  かんりょうすべ こと
 一、宇佐大宮司B公房日來平家の祈祷を致すと雖も、御敬神に依て元の如く宮務を管領可き事。

参考B宇佐大宮司は、宇佐八幡宮の宮司の筆頭。宇佐八幡は、大分県宇佐市南宇佐2859の宇佐神宮

  ひとつ どうぐう しかんら ごおん  よく   べ   こと
 一、同宮祠官等御恩に浴す可き事。

  ひとつ きょねんかっせん こと  よつ  とうぐうしんでんはそん    うんぬん  こと  ぞうたい  くは    げしゃ  たてまつ べ   よし  けいびゃく すべ こと
 一、去年合戰の事に依て當宮神殿破損すと云々。殊に造替を加へ、解謝Cし奉る可し由、啓白D可き事。

参考C解謝は、謝ること。
参考D
啓白は、神様に伝えること。

  ひとつ へいけもんかんりょう  ほか さだよし なら   もりくにほっしら りょうけ   ゆる     え     ちぎょう   ところあ    のよしふうぶん
 一、平家没官領Eの外、貞能并びに盛國法師等領家Fの免しGを得て、知行する所有る之由風聞す。

       そ   ざいしょ  ちう  もう   べ   こと
   其の在所を注し申す可き事。

参考E平家没官領は、元平家一族が領有していた所領を取上げた分。
参考
F領家は、開発領主から寄進をうけた上級荘園領主。主に中央の有力貴族や有力寺社で、その権威が他からの侵害を防いでくれる。本所>領家>預所=下司VS地頭>名主>作人>小作人>在家と続き、実際の耕作は在家がする。
参考G
免しは、許可。

  ひとつ みけのおおくらのたいふ 〔さんしゅう かごん   ものてへ 〕 を かんとう  め   あげ  べ   こと
 一、美氣大藏大夫H〔參州に過言Iの者者り〕於關東へ召し上る可き事。

参考H美氣大藏大夫は、三池で福岡県大牟田市大字三池。
参考I參州に過言は、頼朝の代官に文句を言った。

  ひとつ ちんぜい つか  さる ところの ごけにんら えんやのごろう いげ おお  もつ  きさん をはんぬ
 一、鎭西へ遣は被る所之御家人等塩谷五郎以下多く以て歸參し訖。

       おんし   つか    きょうご  さんじょう  と   ちんぜいかい  さた され   こと
   御使を遣はし向後の參上を止め鎭西海を沙汰被るK事。

参考K鎭西海を沙汰被るは、占領行政をやらせるため。

  ひとつ さいごくごけにん   きょうみょう  よしもり   おお    ちうしん せし  べ   こと
 一、西國御家人Lの交名、義盛Mに仰せて注進N令む可き事。

参考L西國御家人は、関西以西の新規参入の御家人。
参考M
義盛は、和田左衛門尉義盛で侍所別当だから。
参考N
注進は、書いて提出する。

現代語元暦二年(1185)五月小八日庚寅。因幡前司大江広元、大夫属入道三善康信、筑後権守俊兼、主計允藤原二階堂行政、筑前三郎惟宗孝尚等が集まりました。九州の事等の処置の会議を行ないました。早く、実施するように決めて、筑後権守俊兼がこれを頼朝様へ報告をしました。箇条書きにすると

一、宇佐八幡宮の坊さん達は、今まで平家のために祈ってきたけれども、頼朝様の敬まっている八幡宮の元々の神社なので元の通りに神様に仕える仕事に勤めること
一、同じ宇佐八幡の領地を今までどおり許可してあげること
一、去年の源平合戦で、宇佐神宮の神殿が補損したそうなので、特に造り替えて、神様に壊したことを謝って、直したことを伝えること
一、元平家一族が領有していた所領を取上げた分の他に、平家の侍大将前筑後守貞能や盛国法師が最上級荘園領主である領家の許可を受けて、管理徴税している所があると云う噂がるので、その所在を書き出すこと。
、美気大蔵大夫三郎敦種〔頼朝様の代官の参河守範頼様に文句を言った〕は、関東まで連行すること。
、九州へ行かせた御家人達の塩谷五郎をはじめ、多くのものが勝手に帰ってきているので、使者を派遣して、今後の帰還を止めて、関西、九州の占領行政をきちんとする事。
、関西以西の新規御家人の名簿を和田左衛門尉義盛に命令して書き出させること。

元暦二年(1185)五月小九日辛卯。澁谷五郎重助不預關東御擧令任官事。可被申止召名之旨。重有沙汰。是父重國石橋合戰之時雖奉射武衛。依寛宥之儀被召仕之處。重助者猶令属平家。背度々召畢。而平家赴城外之日留京都。從義仲朝臣。滅亡之後爲廷尉專一之者。條々科被優精兵一事之處。結句令任官訖。旁不可然之由有其沙汰。今度。重國又渡豊後國之時者。雖有先登之功。先立于參州上洛之條。同以不快。則被仰遣此條々云々。」又原田所知者。可被分宛于勳功輩之由。被仰遣參州云々。

読下し                     しぶやのごろうしげすけ かんとう  ごきょ   あず    ず   にんかんせし こと
元暦二年(1185)五月小九日辛卯。澁谷五郎重助、關東の御擧に預から不に任官令む事@

めしな   もう   と   らる  べ    のむね  かさ     さた  あ
召名Aを申し止め被る可し之旨、重ねて沙汰有り。

これ  ちちしげくに  いしばしかっせん のとき  ぶえい いたてまつ   いへど   かんゆうの ぎ   よつ  め つかはされ のところ しげすけは なおへいけ  ぞくせし
是、父重國は石橋合戰B之時、武衛を射奉るCと雖も、寛宥之儀に依て召し仕被る之處、重助者猶平家に属令め、

たびたび めし  そむ をはんぬ しか   へいけじょうがい  おもむ   のひ きょうと  とど      よしなかあそん  したが   めつぼうののち ていい  せんいちのもの な
度々の召Dに背き畢。而るに平家城外へ赴くE之日京都に留まり、義仲朝臣に從ひ、滅亡之後、廷尉專一之者と爲す。

じょうじょう とが せいへい いちじ   まされ   のところ   けっくにんかんせし をはんぬ  かたがた しか べからずのよし そ   さた あ
條々の科、精兵の一事に優被る之處F、結句任官令め訖G。 旁、 然る不可之由其の沙汰有り。

このたび しげくに また ぶんごのくに わた   のとき は  せんとの こう あ    いへど   さんしゅうにさきだ  じょうらくのじょう  おな    もつ  ふかい
今度、重國又、豊後國へ渡る之時H者、先登之功有ると雖も、參州于先立ち上洛之條I、同じく以て不快。

すなは かく じょうじょう おお  つか  され   うんぬん
則ち此の條々を仰せ遣は被ると云々。」

参考@澁谷五郎重助關東の御擧に不預任官令む事は、元暦二年(1185)四月小十五日に頼朝に自由任官を怒られた一人。
参考A召名は、京都朝廷の任官候補者名簿からも。
参考B
石橋合戰は、現在は石橋山合戦と言ってるが、当時は山をつけていない。
参考C武衛を射奉るは、佐々木五郎義Cを引き連れて大庭三郎景親軍に参加している。
参考D度々の召には、何度も勧誘しているのに。
参考E平家城外へ赴くは、平家の都落ち。
参考F精兵の一事に優被る之處は、優れた勇者の言葉に救われたのに。
参考G結句任官令め訖は、結局自由任官してしまいやがった。
参考H
豊後國へ渡る之時は、二月一日の葦屋浦合戦。
参考I參州于先立ち上洛之條は、勝手に自由行動をしてさっさと京都へ上ってしまった。

また  はらだ   しょち は   くんこう  やからにわか  あた  らる  べ  のよし  さんしゅう おお  つか  さる    うんぬん
又、原田が所知J者、勳功の輩于分ち宛へ被る可し之由、參州に仰せ遣は被ると云々。

現代語元暦二年(1185)五月小九日辛卯。渋谷五郎重助は、頼朝様の推挙を受けずに、京都朝廷から官職を貰ったことはけしからんので、今度の任官候補名簿からもはずしてしまうように、改めて命令が出ました。この人の父の渋谷庄司重国は、石橋山合戦のときは敵対したけれども、寛容に許可をして御家人として仕えさせているが、渋谷五郎重助はなおも平家に仕えて、何度もの勧誘に従わなかった。それなのに平家が都落ちをした時は、京都に残って木曽義仲軍に従って、義仲が滅亡したら、廷尉義経軍の忠実な部下となった。それらの沢山の罪も、強い武士だと云う名誉の方が勝っていると許したのに、挙句の果てに勝手に官職を拝領してしまった。とんでもないことなので、任官なんかさせるべきではないとお決めになりました。今回、父の渋谷庄司重国は豊後国へ行ったときに、先陣を切ったと云う手柄はあるけれども、源参河守範頼よりも先に勝手に京都へ帰ってきてしまったのは、やはり不愉快であるので、やはりだめだと、直ぐにこの一つ一つを伝えさせました。

又、原田大宰少貳種直の領地は、手柄を立てたものに分配するように、参河守範頼様へ命令を伝えさせましたとさ。

参考J所知は、所領。

元暦二年(1185)五月小十日壬辰。於志摩國麻生浦。加藤太光員郎從等搦取平氏家人上総介忠C法師。傳京師云々。

読下し                     しまのくに あそうのうら  をい
元暦二年(1185)五月小十日壬辰。志摩國麻生浦@に於て、

かとうたみつかず  ろうじゅうら   へいしけにんかずさのすけただきよほっし  から  と     けいし  つた    うんぬん
加藤太光員が郎從等、平氏家人上総介忠C法師Aを搦め取り、京師Bに傳うと云々。

参考@志摩國麻生浦は、三重県度会郡伊勢町阿曽浦、旧度会郡南島町阿曽浦。
参考A上総介忠C法師は、伊藤上總介忠Cで富士川の合戰の侍大将。息子に謡曲景Cの悪七兵衛景C、永福寺造営中に頼朝暗殺がばれて処刑された上総五郎忠光あり。
参考B京師は、都、京都。

現代語元暦二年(1185)五月小十日壬辰。志摩国麻生浦(三重県度会郡伊勢町阿曽浦)で、加藤太光員の家来達が平家の富士川の合戰の侍大将上総介忠清法師を捕まえたと、京都へ報告しましたとさ。

元暦二年(1185)五月小十一日癸巳。依被召進前内府之賞。武衛去月廿七日敍從二位給。除書今日到着。左典厩〔能保〕所被執進也。近日可參向之由被申送云々。

読下し                      さきのないふ めししん  らる  のしょう  よつ    ぶえいさぬ つきにじうしちにちじゅにい じょ  たま
元暦二年(1185)五月小十一日癸巳。前内府を召進ぜ被る之賞に依て、武衛去る月廿七日從二位に敍し給ふ。

じしょ   きょうとうちゃく    さてんきゅう 〔よしやす 〕 と   すす  らる ところなり きんじつさんこうすべ  のよし   もう  おくらる    うんぬん
除書@今日到着す。左典厩〔能保A執り進め被る所也。近日參向可し之由、申し送被ると云々。

参考@除書は、辞令。但し、聞き書きと云って、朝議で決まったことを右筆役の人が書き出したもの。
参考A
左典厩〔能保〕は、頼朝の姉婿。

現代語元暦二年(1185)五月小十一日癸巳。前内府(平宗盛)を捕らえて朝廷へ差し出した勲功により、前右兵衛佐頼朝様は先月27日に従二位を与えられました。今日その辞令が(鎌倉へ)到着しました。左馬頭の一条能保様が朝廷へ推薦されたからです。(頼朝様は一条能保様へ)近いうちに鎌倉へ遊びにおいでよと伝言されましたとさ。

元暦二年(1185)五月小十二日甲午。雜色常通爲使節赴鎭西。所被遣御書於參州也。西國事。方々御下文等。被付此鳥云々。

読下し                     ぞうしきつねみち しせつ な   ちんぜい おもむ   おんしょをさんしゅう つか  さる ところなり
元暦二年(1185)五月小十二日甲午。雜色常通使節と爲し鎭西に赴く。御書於參州に遣は被る所也。

さいごく  こと  かたがた おんくだしぶみ ら かく  せいちょう  つ   らる    うんぬん
西國の事、方々の御下文@等、此の鳥Aに付け被ると云々。

参考@御下文は、九州の平家没官領の宛行状(あてがいじょう)、源參河守範頼を通しているので九州武士の本領安堵が多かったと思われる。
参考Aは、飛脚の事。

現代語元暦二年(1185)五月小十二日甲午。雑用の常通は派遣員として九州へ出発です。お手紙を参河守範頼様へお出しになされるところです。関西方面の御家人達への安堵状もこの伝令に持たせたとの事だとさ。

元暦二年(1185)五月小十五日丁酉。廷尉使者〔景光〕參着。相具前内府父子令參向。去七日出京。今夜欲着酒匂驛。明日可入鎌倉之由申之。北條殿爲御使。令向酒匂宿給。是爲迎取前内府也。被相具武者所宗親。工藤小次郎行光等云々。於廷尉者。無左右不可參鎌倉。暫逗留其邊。可随召之由。被仰遣云々。小山七郎朝光爲使節云々。

読下し                      ていい   ししゃ 〔かげみつ〕  さんちゃく   さきのないふおやこ あいぐ  さんこうせし    さぬ  なぬかしゅっきょう
元暦二年(1185)五月小十五日丁酉。廷尉が使者〔景光〕參着す。前内府父子を相具し參向令む。去る七日出京す。

こんや さかはのしゅく  つ      ほつ    あす  かまくら  い   べ   のよし  これ もう    ほうじょうどのおんつかい な  さかはのしゅく むか  せし  たま
今夜酒匂驛@へ着かんと欲す。明日鎌倉へ入る可し之由、之を申す。北條殿御使と爲し、酒匂宿へ向は令め給ふ。

これ  さきのないふ むか  と     ためなり  むしゃどころむねちか くどうのこじろうゆきみつら   あいぐさる    うんぬん
是、前内府を迎へ取らん爲也。武者所宗親、工藤小次郎行光等を相具被るAと云々。

ていい   をい  は    そう な   かまくら  さん  べからず しばら そ   へん  とうりゅう    めし  したが べ    のよし  おお  つか  さる    うんぬん
廷尉に於て者、左右無く鎌倉へ參ず不可。暫く其の邊に逗留し、召に随う可しB之由、仰せ遣は被ると云々。

こやまのしちろうともみつ しせつ な    うんぬん
小山七郎朝光使節を爲すと云々。

参考@酒匂驛は、神奈川県小田原市酒匂。
参考A相具被るは、北條四郎時政には家人がいないので、伊豆の侍達が一緒に行く。
参考B
召に随う可しは、呼び出しがあったら従いなさい。

現代語元暦二年(1185)五月小十五日丁酉。廷尉義経の伝令〔工藤庄司景光〕が到着しました。前内府親子(宗盛、C宗)を連行して鎌倉へ向かって七日に京都を出ました。今夜、酒匂宿(小田原市酒匂)へ到着するところですので、明日には鎌倉へ入る予定ですと申し上げました。逆に北条四郎時政殿は、使者として酒匂宿へ向かわれました。その理由は、前内府(宗盛)を受け取る為です。武者所牧三郎宗親と工藤小次郎行光等を連れて行きましたとさ。廷尉義経様には、そのまま鎌倉へ入らず、しばらくそのあたりで待機していて、呼び出しがあるまで待つように、命令を伝えさせましたとさ。小山七郎朝光が派遣員をしましたとさ。

元暦二年(1185)五月小十六日戊戌。忠C法師於六條河原梟首云々。」今日。前内府入鎌倉。觀者如堵墻。内府用輿。金吾乘馬。家人則C。盛國入道。季貞。〔以上前廷尉〕盛澄。經景。信康。家村等。同騎馬相從之。經若宮大路。至横大路。暫扣輿。宗親先參入申事由。則被仰可招入營中之旨。仍以西對爲彼父子之居所。入夜。因州奉仰雖羞膳。内府敢不用之。只溺愁涙之外無他云々。此下向事。并同父子及殘黨罪條等事。二品属經房卿。被奏聞之處。有其沙汰。可招下。又可被行死罪之旨。 勅許既畢。但於時忠卿事者。可被寛死罪一等之由云々。是内侍所無爲御歸坐者。依彼卿功之故也云々。

読下し                       ただきよほっし   ろくじょうがはら をい  きょうしゅ   うんぬん
元暦二年(1185)五月小十六日戊戌。忠C法師@を六條河原に於て梟首すと云々。」

参考@忠C法師は、伊藤上總介忠Cで富士川の合戰の侍大将。息子に謡曲景Cの悪七兵衛景C、永福寺造営中に頼朝暗殺がばれて処刑された上総五郎忠光あり。

きょう    さきのないふかまくら い     み   もの としゅう  ごと     ないふ こし  もち    きんご うま  の
今日、前内府鎌倉へ入る。觀る者堵墻の如しA。内府輿を用い、金吾B馬に乘る。

けにん のりきよ  もりくににゅうどう すえさだ〔いじょう さきのていい  〕 もりずみ つねふさ のぶやす いえむらら  おな    きば     これ  あいしたが
家人則C、盛國入道、季貞〔以上、前廷尉〕盛澄、經景、信康、家村等、同じく騎馬にて之に相從う。

わかみやおおじ  へ     よこおおじ  いた    しばら こし  ひか    むねちか ま  さんにゅう こと  よし  もう
若宮大路を經て、横大路に至る。暫く輿を扣へ、宗親先ず參入し事の由を申す。

すなは えいちう  まね  い   べ   のむね  おお  らる    よつ  もつ にしのたい か    ふし の きょしょ  な
則ち營中へ招き入る可し之旨、仰せ被る。仍て以て西對を彼の父子之居所と爲す。

よ    い    いんしゅうおお うけたまは ぜん すす     いへど   ないふあえ  これ  もち  ず   ただ  しゅうれい おぼ    のほか た な    うんぬん
夜に入り、因州仰せを奉り膳を羞めると雖も、内府敢て之を用ひ不。只、愁涙に溺れる之外他無しと云々。

こ    げこう   こと  なら    どうふし およ  ざんとう  ざいじょうら  こと  にほん つねふさきょう  ぞく    そうもんされ  のところ   そ   さた  あ
此の下向の事、并びに同父子及び殘黨の罪條等の事、二品經房卿
Cに属し、奏聞被る之處、其の沙汰有り。

まね  くだ  べ     また  しざい  おこなは  べ   のむね  ちょっきょすで をはんぬ
招き下す可し、又、死罪を行被る可し之旨、勅許既に畢。

ただ  ときただきょう こと  をい  は    しざい いっとう  ゆるされ  べ   のよし  うんぬん

但し時忠卿の事に於て者、死罪一等を寛被る可し之由と云々。

これ  ないしどころ むい   ごきざ   は   か  きょう  こう  よつ  のゆえなり  うんぬん
是、内侍所無爲の御歸坐者、彼の卿が功に依て之故也と云々。

参考A堵墻の如しは、垣根のように人が群がっている。
参考B金吾は、左衛門督の唐名で、ここでは宗盛の息子でC宗。
参考C經房卿は、吉田經房で関東申し次、彼の日記が「吉記」である。

現代語元暦二年(1185)五月小十六日戊戌。平家の富士川の合戦の侍大将上総介忠清法師を六条河原で首を刎ねて晒しました。

今日、前内府平宗盛は鎌倉へ入りました。見物の人達が垣根を作るほど集る騒ぎです。宗盛は輿に乗り、せがれの清宗は馬に乗っています。平家の家来の源則清、平盛国入道、源季貞〔以上は元検非違使〕後藤盛澄、経景、信康、家村などが同様に馬に乗ってついていきました。若宮大路を通って、横大路に入り、しばらく立ち止まって、牧三郎宗親が先に御所へ入って、状況を頼朝様に説明しました。直ぐに御所へ呼び入れるように命じられました。そこで西の対屋を宗盛親子の居間としました。夜になって、因幡守大江広元が頼朝様から任されて、晩飯を進めましたが、宗盛は食べようともしないで、ただ泣いてばかりいましたとさ。
今度の鎌倉へ下って来た事も、宗盛親子とその残党達の処罰の事も、頼朝様が吉田経房様を通じて、後白河法皇に願ったところ了解があったのです。だから、呼び付ける事も、死罪にすることも、既に朝廷から命令が出ているのです。但し、平時忠様については、死罪の罪一等を減じるようにとの事でした。それは、三種の神器の内、鏡が無事だったのは、彼の手柄だったからだそうです。

元暦二年(1185)五月小十七日己亥。卯剋。左典厩〔能保。去七日与廷尉同日出京〕到着。直被入營中。昨日極熱之間。聊有霍乱之氣。逗留之由被申之云々。」昨日。左典厩侍後藤新兵衛尉基C僕從。与廷尉侍伊勢三郎能盛下部鬪乱。是能盛沙汰駄餉之間。基C馳過彼旅舘之前。其後所令持旅具之疋夫等進行之處。能盛引馬踏基C所從。仍相互及諍論。此間。基C所從取刀。切件馬鞦手綱奔行。能盛聞此事馳出。以竹根引目。射所殘之疋夫。彼等令叫喚馳騒。基C又聞之廻駕。与能盛欲決雌雄。典厩頻抑留之。被發使者廷尉之許。廷尉又被相鎭之。無爲云々。此事典厩強雖不訴申。自達二品聽。能盛下部等成驕之條奇恠之由。御氣色甚云々。

読下し                       うのこく   さてんきゅう  〔よしやす  さぬ  なぬかていい  と おな  ひ   きょう い  〕  とうちゃく
元暦二年(1185)五月小十七日己亥。卯剋@、左典厩A〔能保。去る七日廷尉与同じ日に京を出ず〕到着す

じき  えいちう  はいらる   さくじつごくねつのかん  いささ かくらん の け あ     とうりゅうのよしこれ  もうされ    うんぬん
直に營中へ入被る。昨日極熱之間、聊か霍乱之氣有り。逗留之由之を申被ると云々。」

参考@卯剋、到着すは、朝の六時に到着なのは、夏の暑いときは昼は歩かず、夜の涼しいときに歩く。
参考A左典厩能保は、頼朝の姉婿だが、平家全盛時代に頼朝の姉を嫁にした。馬の名人で目利きでもある。

さくじつ  さてんきゅう さむらい ごとうのしんひょうえのじょうもときよ ぼくじゅう ていい   さむらい いせのさぶろうよしもり  しもべ と とうらん
昨日、左典厩の侍、 後藤新兵衛尉基Cが 僕從、廷尉の侍、 伊勢三郎能盛が下部与鬪乱す。

これ  よしもりだしゅう   さた      のかん  もときよ か  りょかんのまえ  は   す
是、能盛駄餉を沙汰するB之間、基C彼の旅舘之前を馳せ過ぐ。

そ   ご    りょぐ   も   せし  ところの ひっぷら  しんこう    のところ  よしもり  ひきうま   もときよ  しょじゅう ふ     よつ  そうご  じょうろん およ
其の後、旅具を持た令む所之疋夫
C等進行する之處、能盛が引馬D、基Cが所從を踏む。仍て相互に諍論に及ぶ。

こ   かん  もときよ  しょじゅうかたな と    くだん うま しりがい てづな き   はし  い
此の間、基Cが所從刀を取り、件の馬の鞦、手綱を切り奔り行くE

よしもり こ  こと  き   は   い     たけね   ひきめ    もつ    のこ  ところのひっぷ  い     かれら さけ  わめ  せし  は   さわ
能盛此の事を聞き馳せ出で、竹根の引目Fを以て、殘る所之疋夫を射る。彼等叫び喚か令め馳せ騒ぐ。

もときよまたこれ  き   が   めぐ      よしもり と しゆう   けつ      ほつ    てんきゅうしきり これ  よくりゅう   ししゃ  ていい  のもと  はつ  らる
基C又之を聞き駕を廻らし、能盛与雌雄を決さんと欲す。典厩頻に之を抑留し、使者を廷尉之許へ發せ被る。

ていい  またこれ あいしず られ   むい  うんぬん  こ   こと  てんきゅうあながち うつた もうさず いへど  おのづか にほん きこえ たつ
廷尉又之を相鎭め被、無爲と云々。此の事、典厩 強に 訴へ申不と雖も、自ら二品の聽に達す。

よしもり  しもべら  おごり な   のじょうきっかい のよし みけしき はなは     うんぬん
能盛が下部等驕を成す之條奇恠G之由、御氣色甚だしと云々。

参考B能盛駄餉を沙汰するは、酒匂宿で弁当を用意していた。
参考C
疋夫は、人夫の馬並に差別されている民。
参考D
引馬は、替え馬のこと。
参考E馬の鞦手綱を切り奔り行くは、馬を逃がしてしまった。
参考F
引目は、鏑矢の一種で鏃をはずしてある。前から見ると風笛の穴が蟇蛙の目に似ている。
参考G奇恠は、奇怪の罪と云い、常識に外れたいけないことをする罪。

現代語元暦二年(1185)五月小十七日己亥。卯刻朝六時頃に、左馬頭一条能保様が〔先の七日に源廷尉〔義経〕と同じ日に京都を出発しました〕到着しました。直ぐに御所にお入りなされました。昨日暑すぎて、多少暑気あたりになったようなので、止まって休んでいたので遅れたと申されましたとさ。

実は昨日、左典厩一条能保の侍の後藤新兵衛尉基清の家来が、廷尉義経の侍の伊勢三郎能盛の下っ端と揉め事を起こしました。それは、能盛が弁当を用意するよう指示をしている最中に、基清がその旅館の前を走りすぎました。その後から、旅行道具を担いだ人足供が通りかけたところ、能盛の替え馬が、基清の家来を踏んだので、口論になりました。(基清家来「馬扱いがちゃんとしていないから、馬が蹴飛ばしたじゃないか。」能盛下部「何云ってんだい、馬が勝手にやったことだから馬に文句をいいな。」)そして基清の家来は、頭へ来て刀を抜いて、その馬の「しりがい」手綱を切って走って逃がしてしまいました。これを聞いた能盛は外へ走り出てきて、竹の根で作った鏃の着いてない蟇目矢で、残りの人足達を撃ちましたので、人足達は泣き叫びながら大騒ぎです。後藤新兵衛尉基清も又その話を聞いて馬を回して、伊勢三郎能盛と勝負を決めてやるといきり立ちましたが、左典厩一条能保がこれを宥め止めて、使いを源廷尉〔義経〕の元へ行かせました。廷尉義経も又これを止め静められたので、その後は無事に収まりましたとさ。この話を左典厩能保はわざわざ頼朝様に訴えるようなことはしませんでしたが、自然と頼朝様の耳に入ることとなりました。頼朝様は、源廷尉〔義経〕の陪臣の伊勢三郎能盛の家来の分際で、左馬頭の家来と対等に争うなんか、身分違いもはなはだしいのに、義経の手柄に図に乗ってでかい態度をするなんぞ、とんでもない罪を犯していると、大変ご立腹でありましたとさ。

参考ここで、双方の家来に、後藤基清側は、僕從所從(刀を持っている)疋夫(被差別民の人足)、伊勢三郎能盛側が下部と出てくるが身分制度が分からない。

元暦二年(1185)五月小十九日辛丑。京畿群盜等蜂起。敢難禁之間。可相鎭之子細。今日被經沙汰。先平氏家人等中遁出戰塲之族。令閑散本在所。猶知行田園。剩横行都鄙。爲事盜犯云々。次近日。遠江國居住御家人等。以武威恣令内奏。或申下 院宣。或掠取國司領家等下文。貪地利欠公平云々。次伊豆守仲綱男号伊豆冠者有綱者。爲廷尉聟。多掠領近國庄公云々。此條々事。依有其聞。殊經 奏聞。悉以可令糺断之由被定云々。

読下し                       けいき   ぐんとうら ほうき
元暦二年(1185)五月小十九日辛丑。京畿の群盜等蜂起す。

あえ  きん  がた  のかん  あいしず   べ    の しさい  きょう  さた   へらる

敢て禁じ難し之間、相鎭める可し之子細、今日沙汰を經被る。

ま   へいし けにんら    うちせんじょう に   だ   のやから  ほんざいしょ  かんさんせし   なおでんえん  ちぎょう

先ず平氏家人等の中戰塲を遁げ出す之族、本在所に閑散令め、猶田園を知行し、

あまつさ とひ  おうこう     とうぼん こと   な     うんぬん

剩へ都鄙に横行し、盜犯を事と爲すと云々。

つぎ  きんじつ  とおとうみのくに きょじゅう ごけにんら   ぶい   もつ ほしいまま ないそうせし

次に近日、遠江國@居住の御家人等、武威を以て恣に内奏令めA

あるひ いんぜん もう   さ       あるひ こくし   りょうけ ら  くだしぶみ  りゃくしゅ     ちり   むさぼ くひょう  か     うんぬん

或は院宣を申し下げB、或は國司、領家C等の下文Dを掠取しE、地利を貪り公平を欠くと云々。

つぎ  いずのかみなかつな だんいずのかじゃありつな  ごう  は   ていい   むこ   な     おお  きんごく  しょうこう りゃくりょう  うんぬん

次に伊豆守仲綱が男伊豆冠者有綱と号す者、廷尉が聟Fと爲し、多く近國の庄公を掠領すと云々。

かく  じょうじょう こと  そ   きこ   あ     よつ    こと  そうもん  へ    ことごと もつ きゅうだんせし  べ   のよし  さだ  らる   うんぬん

此の條々の事、其の聞へ有るに依て、殊に奏聞を經て、悉く以て糺断令む可し之由、定め被ると云々。

参考@遠江國は、安田三郎義定が守護。
参考A
恣に内奏令めは、京都朝廷へ勝手に申請して。
参考B院宣を申し下げは、院宣を強引に出させ。
参考
C
領家は、開発領主から寄進をうけた上級荘園領主。主に中央の有力貴族や有力寺社で、その権威が他からの侵害を防いでくれる。本所>領家>預所=下司VS地頭>名主>作人>小作人>在家と続き、実際の耕作は在家がする。
参考D下文は、任命書。
参考E掠取しは、掠め取る(かすめとる)。
参考F
廷尉が聟は、義經の婿と云う事だが、義經自身が25歳なのにそんな娘がいるのか。

現代語元暦二年(1185)五月小十九日辛丑。京都やその周辺で、横領者が増えてきていて、制止仕切れないので、鎮圧するべき具体的な指示を、今日頼朝様がお決めになられました。まず、平家の家来で戦場を逃げ出して、元の領地へ隠れてなお、しっかりと領地の年貢を管理し、そればかりかちょいちょい京都の都にも出入りをして盗みを働いていると云う。次ぎは最近遠江国の御家人が、武力で威嚇して、頼朝様に断りなしに勝手に京都朝廷へ申請をして、強引に院宣を出させたり、国司や最上級荘園領主である領家をも脅かして命令書を掠め取って、年貢を横取りして正当性を無視していると聞く。その次は、源伊豆守仲綱の子の伊豆冠者有綱と称しているものが、廷尉義経の婿だと威嚇して、荘園や国衙領を横取りしているらしい。以上のそれぞれの事が耳へ入ってきているので、特別に後白河法皇へ伺いを立て、命令を戴いて、徹底的に調べ問いただして、咎める様にお決めになられましたとさ。

元暦二年(1185)五月小廿一日癸卯。雷雨。即属リ。晩凉甚。二品相伴左典厩。渡御南御堂地。巡見造營之躰。令談合堂舎在所等給云々。」又南都大佛師成朝依御招請參向。是爲造立此御堂佛像也。

読下し                       らいう  すなは はれ ぞく    ばん  はなは すず   にほん さてんきゅう あいともな   みなみみどう  ち   とぎょ
元暦二年(1185)五月小廿一日癸卯。雷雨。即ちリに属す。晩は甚だ凉し。二品左典厩を相伴い、南御堂@の地に渡御す。

ぞうえいのてい  じゅんけん   どうしゃ  ざいしょら   だんごうせし  たま     うんぬん
造營之躰を巡見し、堂舎の在所等を談合令め給ふ
Aと云々。」

参考@南御堂は、勝長寿院。
参考A
談合令め給ふは、説明をした。

また  なんと   だいぶっしせいちょう  ごしょうせい よつ さんこう    これ   こ   みどう  ぶつぞう  ぞうりゅう   ためなり
又、南都の大佛師成朝
B、御招請に依て參向す。是、此の御堂の佛像を造立せん爲也。

参考B大佛師成朝は、奈良炎上後、大仏復興の選定に負けた。

現代語元暦二年(1185)五月小二十一日癸卯。雷雨です。でも直ぐにやんで晴れてきました。おかげで夕方になってとても涼しくなりました。二位の頼朝様は、左馬頭一条能保様をお誘いになり、一緒に南御堂勝長寿院へお渡りになられました。造営の進み具合を監督しながら、堂を何処に建てるか話し合いましたとさ。
又、奈良仏師の指導者成朝が、お呼びを受けて鎌倉へ参りました。それはこの勝長寿院の仏像を彫り上げるためです。

元暦二年(1185)五月小廿三日丁巳。參河守〔範頼〕受二品之命。爲對馬守親光迎。可遣舩於對馬嶋之處。親光爲遁平氏攻。三月四日渡高麗國云々。仍猶可遣高麗之由。下知彼嶋在廳等之間。今日既遣之。當嶋守護人河内五郎義長同送状於親光。是平氏悉滅亡訖。不成不審。早可令歸朝之趣載之云々。

読下し                      みかわのかみ 〔のりより〕 にほんのめい  う     つしまのかみちかみつ  むか   ため
元暦二年(1185)五月小廿三日丁巳。參河守〔範頼〕二品之命を受け、對馬守親光@の迎への爲、

ふねを つしまじま   つか    べ   のところ  ちかみつへいし せ     のが    ため  さんがつよっかこうらいこく  わた   うんぬん
舩於對馬嶋に遣はす可き之處、親光平氏の攻めを遁れん爲、三月四日高麗國へ渡ると云々。

よっ  なお  こうらい  つか    べ   のよし  か   しま  ざいちょうら   げち  のかん  きょう すで  これ  つか
仍て猶、高麗へ遣はす可し之由、彼の嶋の在廳等
Aに下知之間、今日既に之を遣はす。

とうしま しゅごにん かわちのごろうよしなが  おな   じょうをちかみつ  おく    これへいしことごと べつぼう をはんぬ
當嶋守護人河内五郎義長、同じく状於親光に送る。是平氏悉く滅亡し訖。

ふしん   なさず   はや  きちょうせし  べ  のおもむき これ  の      うんぬん
不審を不成、早く歸朝令む可し之趣、之を載せると云々。

参考@對馬守親光は、宗親光。
参考A
在廳等は、在庁官人。国衙の役人。

現代語元暦二年(1185)五月小二十三日丁巳。参河守範頼様は、二品頼朝様の命令を受けて、対馬守宗親光を迎えるために、船を対馬へ行かせようとしたら、親光は平家の攻撃から逃げるために三月四日に高麗国(朝鮮)へ渡ってしまいましたとさ。そこで仕方が無いので、その船を高麗まで行かせるように、対馬の在庁官人達への命令を今日派遣しました。その対馬の守護人の河内五郎源義長も同様に親光宛に手紙を送りました。平氏は全て滅びてしまったので、疑っていないで早く日本へ帰っていらっしゃいとの内容を書いたとのことです。

元暦二年(1185)五月小廿四日戊午。源廷尉〔義經〕如思平 朝敵訖。剩相具前内府參上。其賞兼不疑之處。日來依有不儀之聞。忽蒙御気色。不被入鎌倉中。於腰越驛徒渉日之間。愁欝之餘。付因幡前司廣元。奉一通款状。廣元雖披覧之。敢無分明仰。追可有左右之由云々。彼書云。
 左衛門少尉源義經乍恐申上候。意趣者。被撰御代官其一。爲 勅宣之御使。傾 朝敵。顯累代弓箭之藝。雪會稽耻辱。可被抽賞之處。思外依虎口讒言。被黙止莫大之勳功。義經無犯而蒙咎。有功雖無誤。蒙御勘氣之間。空沈紅涙。倩案事意。良藥苦口。忠言逆耳。先言也。因茲。不被糺讒者實否。不被入鎌倉中之間。不能述素意。徒送數日。當于此時。永不奉拝恩顏。骨肉同胞之儀既似空。宿運之極處歟。將又感先世之業因歟。悲哉。此倏。故亡父尊靈不再誕給者。誰人申披愚意之悲歎。何輩垂哀憐哉。事新申状雖似述懷。義經受身躰髪膚於父母。不經幾時節。故頭殿御他界之間。成無實之子。被抱母之懷中。赴大和國宇多郡龍門牧之以來。一日片時不住安堵之思。雖存無甲斐之命許。京都之經廻難治之間。令流行諸國。隱身於在々所々。爲栖邊土遠國。被服仕土民百姓等。然而幸慶忽純熟而爲平家一族追討令上洛之。手合誅戮木曾義仲之後。爲責傾平氏。或時峨々巖石策駿馬。不顧爲敵亡命。或時漫々大海凌風波之難。不痛沈身於海底。懸骸於鯨鯢之鰓。加之爲甲冑於枕。爲弓箭於業。本意併奉休亡魂憤。欲遂年來宿望之外無他事。剩義經補任五位尉之條。當家之面目。希代之重職。何事加之哉。雖然。今愁深歎切。自非佛神御助之外者。爭達愁訴。因茲。以諸神諸社牛王寳印之裏。全不挿野心之旨。奉 驚日本國中大少神祇冥道。雖書進數通起請文。猶以無御宥免。其我國神國也。神不可禀非礼。所憑非于他。偏仰貴殿廣大之御慈悲。伺便宜令達高聞。被廻秘計。被優無誤之旨。預芳免者。及積善之餘慶於家門。永傳榮花於子孫。仍開年來之愁眉。得一期之安寧。不書盡詞。併令省略候畢。欲被垂賢察。義經恐惶謹言。
    元暦二年五月日                    左衛門少尉源義經
   進上  因幡前司殿

読下し                      げんていい  〔よしつね〕おも    ごと  ちょうてき たいら をはんぬ あまつさ さきのないふ あいぐ さんじょう
元暦二年(1185)五月小廿四日戊午。源廷尉〔義經〕思いの如く朝敵を平げ訖。  剩へ前内府を相具し參上す。

そ   しょうかね うたがわずのところ ひごろ ふぎの きこ  あ     よつ    たちま みけしき   こうむ   かまくらちう  いれらるず
其の賞兼て不疑之處、日來不儀之聞へ有るに依て、忽ち御気色を蒙り、鎌倉中へ入被不、

こしごえのうまや をい いたづら ひ   わた  のかん  しゅううつのあま   いなばのぜんじひろもと ふ    いっつう  かんじょう  たてまつ
腰越驛
@に於て 徒に日を渉る之間、愁欝之餘り、因幡前司廣元に付し、一通の款状Aを奉る。

ひろもとこれ ひらん     いへど   あえ  ぶんめい  おお  な    おつ  そう  あ   べ     のよし  うんぬん
廣元之を披覧す
Bと雖も、敢て分明の仰せ無く、追て左右有る可しC之由と云々。

参考@腰越驛は、神奈川県鎌倉市腰越三丁目の江ノ電が取っている当たりに宿があったと推定されている。
参考A款状は、官位を望む旨や、訴訟の趣を記した嘆願書。一般に手柄を箇条書きにして褒美を請求する手紙。
参考B廣元之を披覧すは、廣元宛の手紙を頼朝に見せた。
参考C
追て左右有る可しは、後で処置を出そう。

か   しょ   い
彼の書に云はく。

  さえもんのしょうじょう みなもとのよしつね  おそ なが  もう  あ   そうろ  いしゅは  おんだいかん そのいち えらばれ  ちょくせんのおんつかい な
 左衛門少尉源義經
D   恐れ乍ら申し上げ候う意趣者、御代官の其一に撰被、 勅宣之御使と爲し、

  ちょうてき かたぶ  るいだい きゅうせんのげい あらは   かいけい ちじょく すす
 朝敵を傾け、累代の弓箭之藝を顯し、會稽の耻辱を雪ぐ
E

  ちうしょうされ  べ   のところ  おもい ほか  ここう   ざんげん  よつ    ぼうだいのくんこう   もくし され
 抽賞被る可き之處、思の外に虎口の讒言に依て、莫大之勳功を黙止被る。

  よしつねつみな   て とが  こうむ   こう あ    いへど あやま な      ごかんき   こうむ  のかん  むな    こうるい  しず
 義經犯無くし而咎を蒙り、功有ると雖も誤り無くて、御勘氣を蒙る之間、空しく紅涙に沈む。

  つらつら こと い   あん        りょうやく くち  にが    ちうげん  みみ  さかなで    せんげんなり
 倩、事の意を案ずるに。良藥は口に苦く、忠言は耳を逆るの、先言也。

  これ  よつ    ざんしゃ  じっぷ  ただされず  かまくらちう  はいれず のかん  そ   い   のべ   あたはず  いたづら すうじつ おく
 茲に因て、讒者の實否を糺被不、鎌倉中へ入被不之間、素の意を述るに不能、徒に數日を送る。

  こ   ときに あた    なが  おんがん はい たてまつらず こつにくどうほうのぎすで  むな      にた    すくうんの きは    ところか
 此の時于當り、永く恩顏を拝し奉不。 骨肉同胞之儀既に空しきに似り。宿運之極まる處歟。

  はたまた  せんせの ごういん  かん    か   かなし や
 將又、先世之業因を感ずる歟。悲き哉。

  かく  じょう   こぼうふ   そんれいさいたん たまはずば  だれひと  ぐい の ひかん  もうしひら   なにやから あいりん たれ  や
 此の倏、故亡父の尊靈再誕し給不者、誰人が愚意之悲歎を申披き、何輩が哀憐を垂ん哉。

  ことあら    もう   じょうじゅっかい にた   いへど   よしつねしんたいはっぷを ふぼ  う      いくじせつ   へず   ここうのとのごたかいのかん
 事新たに申すの状述懷に似りと雖も、義經身躰髪膚於父母に受け、幾時節を不經、故頭殿御他界之間、

    みなしご    な     ははの ふところ いだかれ  やまとのくにうたぐんりゅうもんのまき おもむ  のいらい  いちにち へんし あんどのおも     すまず
 無實之子と成し、母之懷中に抱被
F、大和國宇多郡龍門牧Gへ赴く之以來、一日片時と安堵之思いに住不。

   かい な   のいのちばか  ぞん   いへど    きょうとの けいかい なんちのかん  しょこく  ながれせし    み を ざいざいしょしょ  かく
 甲斐無き之命許りを存ずと雖も、京都之經廻難治之間、諸國に流行令め、身於在々所々に隱す。

  へんどおんごく すみか  な     どみんひゃくしょうら  ふくじされ
 邊土遠國を栖と爲し、土民百姓等に服仕被る
H

  しかれども こうけいたちま  じゅんじゅく て へいけいちぞくついとう ため  これ  じょうらくせし    てあい   きそよしなか  ちうりくののち

 然而、幸慶忽ちに純熟し而平家一族追討の爲、之を上洛令むの手合に木曾義仲を誅戮之後、

   へいし  せ   かたぶ  ため  あるとき  がが     がんせき  しゅんめ むちう   てき  ほろぼ  ためいのち かえりみず
 平氏を責め傾けん爲、或時は峨々たる巖石を駿馬に策ち、敵を亡さん爲命を不顧。

  あるとき  まんまん    たいかい  ふうはのなん   しの    みを  かいてい しず   しかばねを けいげい のあぎと か      いたまず
 或時は漫々たる大海に風波之難を凌ぎ、身於海底に沈め、骸於 鯨鯢
I之鰓に懸くるを不痛。

  これ  くは  かっちゅうをまくら な    きゅうせんをなりはい な
 之に加へ甲冑於枕と爲し、弓箭於業と爲す。

  ほんい しかしなが  ぼうこん いか    やず  たてまつ  ねんらい  すくぼう  とげ    ほつ    のほか たごとな
 本意は併ら
J亡魂の憤りを休んじ奉り、年來の宿望を遂んと欲する之外他事無し。

  あまつさ よしつねごいのじょう ぶにんのじょう  とうけのめんもく   きだいのじゅうしょく  なにごと  これ  くは     や
 剩へ義經五位尉に補任之條、當家之面目、希代之重職、何事を之に加へん哉。

  しか   いへど    いまうれ  ふか  なげ  せつ      ぶっしん おんたすけ あらざ よ   のほかは  いかで しゅうそ  たつ
 然りと雖も
K、今愁い深き歎き切なし。佛神の御助に非る自り之外者、爭か愁訴を達せん。

  これ  よつ   しょしんしょしゃ ごおうほういんのうら  もつ    まった やしん さしはさまずのむね にほんこくちう  だいしょう  しんぎめいどう  う   おどろ   たてまつ
 茲に因て、諸神諸社牛王寳印之裏を以て、全く野心を挿不之旨、日本國中の大少の神祇冥道を請け驚かし奉る。

  すうつう  きしょうもん   か   すす    いへど    なおもつ  ごゆうめん な
 數通の起請文を書き進めると雖も、猶以て御宥免無し。

  それわがくに しんこくなり  かみ  ひれい   う     べからず  たの ところほかにあらず
 其我國は神國也。神は非礼を禀ける不可。憑む所他于非。

  ひとへ きでん   こうだいの  ごじひ    あお    びんぎ  うかが こうおん  たつ  せし   ひけい めぐらされ あやまりなきのむね ゆう られ
 偏に貴殿の廣大之御慈悲を仰ぎ、便宜を伺い高聞に達さ令め、秘計を廻被、誤無之旨に優ぜ被、

  ほうめん あずか ば   しゃくぜんのよけいを かもん  およ      なが  えいがを しそん  つた
 芳免に預ら者、積善之餘慶於家門に及ばし、永く榮花於子孫に傳へん。

  よつ  ねんらいのしゅうび ひら    いちごの あんねい  え       ことば か  つくさず  しかしなが しょうりゃくせし そうら をはんぬ
 仍て年來之愁眉を開き、一期之安寧を得んと、詞を書き盡不。 併ら  省略 令め候ひ畢。

  けんさつ  たれられ    ほつ   よしつねきゅこうきんげん
 賢察を垂被んと欲す。義經恐惶謹言。

         げんりゃくにねんごがつ にち                                        さえもんのしょうじょうみなもとのよしつね
    元暦二年五月日                    左衛門少尉源義經

      しんじょう   いなばのぜんじどの
   進上  因幡前司殿

参考D左衛門少尉源義經と書いているが、自由任官した官職と同属待遇の「源」の文字を使っていることが、頼朝にとっては不満。
参考E會稽の耻辱を雪ぐは、中国の史記に春秋時代、呉越同舟の越王勾践は呉王夫差に破れ、会稽山に逃げたが、夫差の下僕になるという屈辱的な条件によって和睦し、助命された。後にこの恥を忘れぬために肝を舐めて頑張り、やっつけ返した話から諺になっている。
参考F母之懷中に抱被、大和國宇多郡龍門牧へ赴くは、このシーンを昔の絵本は常盤御前が牛若を懐に抱き今若と乙若の手を引きいて雪道を歩く絵。
参考G大和國宇多郡龍門牧は、旧奈良県吉野郡吉野町龍門だが、現在の吉野町佐々羅に竜門幼稚園と竜門郵便局があるあたりらしい。興福寺領。
参考H土民百姓等に服仕被るは、道中の糧食を得るために身分を隠し、百姓のところで使われたと言ってる。服して仕える。
参考I鯨鯢は、鯨が雄鯨で鯢が雌鯨をさし、あわせて鯨を意味する。大きな口で小さな蝦や魚を飲み込む様から多数の弱者に被害を与える極悪人またはその首謀者をさし、大きな刑罰や罪人を意味する。他に大局将棋の銀兎が成になると鯨鯢になる。
参考J本意は併らは、本当のところは。
参考K
然りと雖もは、そうは云っても。

現代語元暦二年(1185)五月小二十四日戊午。源廷尉義経は、思い通りに平家を討伐し終わりました。そればかりか、平家の総大将の前内大臣宗盛を捕虜にして帰還しました。当然その手柄を表彰されると信じていましたが、九州での日々に命令違反が多かったので、頼朝様のお怒りをかって、鎌倉へは、入ることを許可されず、腰越宿で無意味に日を過ごしておりましたが、切なく悲しく思いましたので、前因幡守広元に託して嘆願書を捧げました。大江広元はこれを頼朝様に見ていただきましたが、特にはっきりとした回答は無く、後日決めるようにするからとの事でした。その手紙に書いてあることは、

左衛門少尉源義経が、恐縮ではありますが申し上げたいことは、頼朝様の代官の一番に選ばれ、天皇家の使いとして、政府にたてつく平家を滅ぼし、先祖代々伝えられる弓矢を扱う武士の家の腕を奮い、父の敵討ちをしました。当然褒められるだろうと確信していましたが、思わぬ伏兵の告げ口によって、莫大なる手柄を無視されました。しかも、義經には何の罪も無いのに罰を受けて、手柄はあっても間違いはしていないのに、お怒りを受けて悲しみの血の涙にふけっております。色々と考えてみると、よく効く薬は口当たりが苦いものだし、正しい忠告は耳を逆なですると昔のことわざにもあります。今ここで、告げ口をした奴の是非を正さないで、私を鎌倉へ入れないのでは、その心を話し様も無く、虚しく日数を費やしております。今に至るまで長い間お会いしていないのでは、兄弟の情は無いのと同じじゃないですか。私の運もここまででしょうか。或いは、よほど前世で悪いことをしたので、その報いを受けているのでしょうか。悲しいことです。このようなことでは、亡き父が生き返りでもしない限り、誰が愚かな私の悲しい境遇を申し開いてくれましょうか。誰が私を哀れんで救ってくれるでしょうか。今始めて話すことは、思い出話の様ではありますが、義經はこの体を父母から授かり、幾らも経たずに父の左典厩義朝様は死んでしまい、孤児となってしまい、母の懐に抱かれて、大和国宇多郡龍門牧へ向かって以来、一日たりとも安心な日々はありませんでした。どうしようもないとは思いながらも、京都では平家の目が光っており、思うように行動も出来ないので、諸国を流浪してあちこちに隠れ住んでいました。また、目だ立たない地方の田舎に隠れ住み、土地の人達や百姓に使われてやっと凌いできました。しかし、待っていたかいがあって、時は熟し平家一族を追討するために京都へ上ったら、丁度出っくわした木曾義仲を攻め滅ぼしました。その後は、平家をやっつけるために、或る時は険しい岩だらけの山へ馬で登り、敵を滅ぼすためには自分の命を顧みませんでした。又或る時は、大きな海原を風波に翻弄され、その体は鯨の餌になってしまうかも知れないと思っても、これを気にかけませんでした。そればかりか、甲冑を枕とし、弓矢を仕事とする立派な武士魂であります。私の本音は、父の敵討ちをして殺された父の恨みを鎮めることです。その望みを遂げたいと思っていた以外には何もありません。しかも義経は、五位の検非違使に任命されたことは、源氏の家の面目を立てたまれに見る出世です。何よりも勝っていることじゃないですか。そうはいっても、今となれば情けの無い悲しいことです。神や仏の助けを借りる以外には、どうしたらこの悲しい訴えを届けることが出来ましょう。そう云う訳で、全ての神様、全ての神社、誓を守らないとばちが当たるといわれる牛王宝印の押してある紙の裏面に、全く野心を持っていない事を、日本国中の大小の神様達に約束を破ったら罰を受けても良いと誓います。何枚か誓の文書の起請文を書いてお出ししているのに、未だに許してはもらえていません。そもそも、わが国は神様の国なので、その神様に誓った起請文が通用しないのなら、他に手立てがありません。ここは貴方の寛大な哀れみの心に訴えて、機会を捉えて、頼朝様のお耳に届くように策略を練って、間違いではなかったと気付かせてもらって、私が許可をされたならば、積み重ねて余りあるほどの気配りを貴方の一族に与え、子々孫々まで大事にさせましょう。そう云う訳で、今までの悲しいことを解決し、この世の安心を与えて欲しいと思いますが、思うように書き切れませんので、簡単な文章になってしまいました。そのあたりを賢い頭で、旨く察して戴きたいとお願いします。義経拱手しながら謹んで申します。

    元暦二年五月 日                    左衛門少尉源義

  進上   因幡前司殿

元暦二年(1185)五月小廿五日丁未。被差遣雜色六人於典膳大夫〔久經〕。近藤七〔國平〕等之許。是畿内雜訴成敗之間。久經三人。國平三人。可召仕之由。所被仰付也。以此次。京畿之間可致沙汰條々。被遣御事書。其間。久經不可沈人之賄。國平不可現僻事之趣。被載加之云々。

読下し                      ぞうしきろくにんを てんぜんだいぶ 〔ひさつね〕  こんどうしち 〔くにひら〕  ら の もと  さ   つか  され
元暦二年(1185)五月小廿五日丁未。雜色六人於典膳大夫@〔久經〕、近藤七〔國平〕等之許へ差し遣は被る。

これ  きない   ざっそ   せいばい のかん ひさつねさんにん くにひらさんにん めしつか  べ   のよし  おお  つ  らる  ところなり
是、畿内の雜訴の成敗A之間、久經三人、國平三人、召仕う可し之由、仰せ付け被る所也。

こ   ついで もつ   けいき のかん  さた  いた  べ     じょうじょう おんことがき  つか  さ
此の次を以て、京畿之間を沙汰致す可きの條々、御事書Bを遣は被る。

そ   かん  ひさつね ひとのまかない しず べからず くにひら  ひがごとのおもむき あらわ べからず   これ  くは  の    らる   うんぬん
其の間、久經は人之賄に沈む不可。國平は僻事之 趣を現す不可C。之を加へ載せ被ると云々。

参考@典膳大夫は、典膳大夫中原久經。元暦二年二月五日典膳大夫中原久經近藤七國平は、占領行政中の略奪等を止めるために頼朝の命で使節として京都へきている兩使後に泰時は、承久の乱後に敵味方調査のため廻国使を派遣している。時頼は廻国使を派遣し地頭横領を調べさせたのが、時頼廻国伝説となる。北条時宗は廻国使が賄賂を取ったと知り、廻国使三十人全員を連帯責任として梟首している。
参考A畿内の雜訴の成敗は、地頭等の年貢不払いの訴えや、公領との境争論等を結審するため。
参考B御事書は、一つ ○○の事。一つ○○をする事。等と箇条書きにした文書。後には法文を指すようになる。
参考C久經は人之賄に沈む不可。國平は僻事之趣を現す不可は、このあたりは頼朝が実に良く御家人を把握している。前にも文治六年正月の大川兼任の乱で、橘次公成が討ち死にして、由利中八惟平が逃げたとの伝令に「反対だろう」と言ったら、後の使者が着いたらそのとおり反対だったと云う例もある。

現代語元暦二年(1185)五月小二十五日丁未。雑用侍六人を典膳大夫中原久経、近藤七国平達へ部下として行かせました。その用件は、関西の領地争い等の裁判の手伝いをさせるために、中原久経三人、近藤国平三人それぞれに部下として使うように命じられたのです。この行かせたついでに関西の処置すべき事柄を箇条書きにして手紙を持たせました。その手紙に、中原久経は袖の下を取ったりしない様に、近藤国平は愚痴やひがみ事を表に表すことの無い様、書き加えられましたとさ。

元暦二年(1185)五月小廿七日己酉。源藏人大夫頼兼申云。去十八日。盜人令推參禁裏。盜取晝御座御釼。藏人并女官等動搖求之。頼兼家人武者所久實追奔于左衛門陣之外生虜之。奉返置御釼於本所。件犯人被搦取之時。欲自戮之間。已半死半生之由。只今有其告云々。如然之勇士殊可被加賞之由。二品被感仰。則取出釼。稱可与彼男。賜頼兼。此人御氣色快然云々。

読下し                      みなもとのくらんどだいぶよりかね  もう     い
元暦二年(1185)五月小廿七日己酉。源藏人大夫頼兼@、 申して云はく。

さぬ じうはちにち  ぬすっと  きんり   すいさん せし    ひ   おんざ  ぎょけん   ぬす  と      くろうどなら    にょかんら どうよう  これ  もと
去る十八日、盜人、禁裏へ推參A令め、晝の御座の御釼Bを盜み取る。藏人并びに女官等動搖し之を求むC

よりかね  けにん むしゃどころひさざね  さえもん  じんの そとに お   はし  これ  いけど     ぎょけんを もとのところ かえ お  たてまつ
頼兼が家人の武者所久實、左衛門の陣之外于追い奔り之を生虜り、御釼於、本所へ返し置き奉る。

くだん とがにん から  とらる    のとき  おのづか ころ    ほつ    のかん  すで  はんしはんしょうのよし  ただいま そ  つげあ    うんぬん
件の犯人は搦め取被る之時、自ら戮さんと欲する之間、已に半死半生之由、只今其の告有りDと云々。

しか  ごと    のゆうし   こと  しょう くは  らる  べ    のよし  にほん かん おお  らる    すなは つるぎ と   だ
然る如き之勇士、殊に賞を加へ被る可し之由、二品感じ仰せ被る、則ち釼を取り出し、

か  おとこ  あた   べ     しょう    よりかね たま     かく  ひと みけしき かいぜん うんぬん
彼の男に与へる可しと稱し、頼兼に賜う。此の人御氣色快然と云々。

参考@源藏人大夫頼兼は、源三位頼政の子で大内裏警固役をしたので大内と名乗る。
参考A推參は、推して参るで強引に参上する。
参考B御座の御釼は、天皇の守り刀。
参考C之を求むは、探した。
参考D只今其の告有りは、鎌倉へ連絡が入った。

現代語元暦二年(1185)五月小二十七日己酉。源蔵人大夫頼兼が云うには、先日の十八日に盗人が内裏へもぐりこみ、天皇の昼間の居間の御座に置いてある御剣を盗み出しました。蔵人所の侍と女官達が慌てふためいて探し回りました。源頼兼の家来で武者所久実が、内裏の左京側の門を守る侍の詰め所の外へ追いかけ走って捕まえまして、御剣を本の所へ返して置きました。この犯人は捕まえられたときに自殺しようとしましたが、既に半分死に掛けていたと、今京都から使いが伝えて来た所なんだとさ。それほどの強い勇士には特に褒美を与えるべきでしょうと、二品頼朝様は感心されて、すぐに剣を持ってこさせ、その男に与えるようにと云いながら、頼兼に与えられました。源頼兼も面目がすっかり上がったとの事だとさ。

六月へ

吾妻鏡入門第四巻

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