吾妻鏡入門第四巻

元暦二年(1185)六月大「八月十四日文治元年と爲す」

元暦二年(1185)六月大二日癸丑。去月廿日被下配流官符。上卿源中納言〔通親〕參陣。頭弁光雅朝臣仰之云々。其交名目録。今日到着鎌倉。
 流人
 前大納言時忠〔能登〕          前内藏頭信基〔備後〕
 前左中將時實〔周防〕          前兵部權少輔尹明〔出雲〕
 法印大僧都良弘〔阿波〕         權少僧都全眞〔安藝〕
 權律師忠快〔伊豆〕           法眼能圓〔備中〕
 法眼行明〔常陸〕

読下し                     さぬ つきはつか はいるかんぷ   くださる   しょうけい げんのちうなごん〔みちちか 〕さんじん
元暦二年(1185)六月大二日癸丑。去る月廿日配流官符@を下被る。上卿A源中納言〔通親B參陣す。

とうのべんみつまさあそん これ おお  うんぬん  そ  きょうみょうもくろく  きょう かまくら  とうちゃく
頭弁光雅朝臣、之を仰すと云々。其の交名目録、今日鎌倉へ到着す。

  るにん
 流人

  さきのだいなごんときただ  のと                    さきのくらのかみのぶもと びんご
 前大納言時忠C〔能登〕         前内藏頭信基〔備後〕

  さきのさちうじょうときざねすおう                     さきのひょうぶごんのしょうゆうこれあきいづも
 前左中將時實〔周防〕         前兵部權少輔尹明〔出雲〕

  ほういんだいそうづりょうこう あは                    ごんのしょうそうづぜんしんあき
 法印大僧都良弘〔阿波〕        權少僧都全眞〔安藝〕

  ごんのりっしちうかい  いず                        ほうげんのうえんびっちゅう
 權律師忠快D〔伊豆〕          法眼能圓〔備中〕

  ほうげんぎょうめいひたち
 法眼行明〔常陸〕

参考@官符は、太政官布告。上から下への通知は「符」、同格には「牒」、下から上へは「解(ゲ)」。
参考A上卿(しょうけい)は、朝廷で、太政官の行う諸公事を指揮する公卿。会議での最上席者。
参考B
通親は、土御門通親。後に頼朝の娘の入内を餌に頼朝に近づき、九条兼実を追い落とし、実権を握るが、反幕派の黒幕。
参考C前大納言時忠〔能登〕は、C盛の妻時子の兄で、「平家にあらずんば」の人。この子孫が能登の時国家である。
参考D權律師忠快は、は、小河律師忠快、平教盛の子、丹波小河庄(現亀岡市小川)。後鎌倉へ来て密教を修する。

現代語元暦二年(1185)六月大二日癸丑。先月二十日、流罪の太政官布告が出されました。会議指導者の源中納言通親が会議を進め、頭弁葉室光雅が進言したんだとさ。その記録名簿が今日鎌倉へ着きました。
 流罪になる人
  
前大納言時忠は、 能登の国(能登半島)  前内蔵頭信基は、  備後の国(広島県東部)
  前左中将時実は、 周防の国(山口県東部) 前兵部権少輔尹明は、出雲の国(島根県)
  法印大僧都良弘は、阿波の国(徳島県)   権少僧都全真は、  安芸の国(広島県)
  権律師忠快は、  伊豆の国(伊豆半島)  法眼能円は、    備中(岡山県)
  法眼行明は、   常陸(茨城県)

元暦二年(1185)六月大五日丙辰。囚人前廷尉季貞子息有源太宗季者。〔後日爲逸見冠者光長猶子。改宗長〕爲見季貞存亡。密々下向。是弓馬傳藝。剩作矢逹者也。受矢野橘内所口傳云々。上総國飯富庄者。爲外戚傳領之間。有其便。當國住人中禪寺奥次郎弘長爲知音也。宗季作矢之由。弘長申之。二品被仰可覽其堪否之由。仍今日宗季作獻野箭一腰。相叶御意之間。可列御家人之由。被仰出云々。」又被加石C水神領云々。
 奉寄 八幡宮御領壹處
  在阿波國三野田保者
 右件保者。所奉寄當宮神領也。早爲少別當任賢沙汰。知行保務。爲祈祷。以所當物。可令宛神事用途之状。奉寄如件。
    元暦二年六月五日                前右兵衛佐源朝臣頼朝

読下し                     めしうど さきのていいすえさだ しそく げんたむねすえ     ものあ
元暦二年(1185)六月大五日丙辰。囚人、前廷尉季貞が子息源太宗季という者有り。

 〔ごじつ へみのかじゃみつなが   ゆうし    な     むねなが あらた〕
〔後日逸見冠者光長@の猶子Aと爲し、宗長と改む〕

すえさだ  そんぼう み   ため   みつみつ げこう    これ  きゅうばのげい つた  あまつさ や   は     たっしゃなり
季貞が存亡を見ん爲B、密々に下向す。是、弓馬藝を傳う。剩へ矢を作ぐの逹者也。

やののきつない   くでん    ところ  う     うんぬん
矢野橘内Cが口傳する所を受くと云々。

かずさのくに いいとみのしょう は がいせきでんりょう  な のかん  そ   びんあ     とうごくじゅういん ちうぜんじおくじろうひろなが   ちいんたるなり
上総國 飯富庄
D者、外戚傳領Eと爲す之間、其の便有りF。當國住人 中禪寺奥次郎弘長G、知音爲也H

むねすえ や は   のよし  ひろながこれ もう    にほん そ  かんぷ  み   べ    のよし  おお  らる
宗季矢を作ぐ之由、弘長之を申す。二品其の堪否を覽る可し之由を仰せ被る。

よつ  きょう むねすえ のや ひとこし   は たてまつ   ぎょい  あいかな  のかん  ごけにん   れつ  べ   のよし   おお い    らる    うんぬん
仍て今日宗季野箭一腰Iを作ぎ獻る。御意に相叶う之間、御家人に列す可し之由、仰せ出で被ると云々。」

参考@逸見冠者光長は、河内源氏の一族。祖新羅三郎義光ー義清ー清光ー光長。兄弟に加賀美遠光、武田信義、安田義定、浅利義成がいる。
参考A猶子は、猶 子の如しで相続権の無い養子。ここから親の分、子の分が発生し、義理が生じる。
参考B
季貞が存亡を見ん爲は、季貞が捕虜になっているので、どうなったか様子を知りたい。
参考C矢野橘内は、本当は矢作りの名人なので「矢の橘内(内の舎人経験者の橘氏)」だったはずが、子孫が「の」を漢字の「野」にしてしまった。
参考D上総國飯富庄は、千葉県袖ヶ浦市飯富。
参考E
外戚傳領は、女房の実家。
参考F
其の便有りは、調度良い機会に恵まれて。
参考G中禪寺奥次郎弘長は、千葉県茂原市中善寺。
参考H
知音たるなりは、知り合いなので。
参考I
野箭一腰は、狩猟用の矢を二十四本。野矢は、征矢より鏃が短い。

また  いわしみず   しんりょう くは   らる    うんぬん
又、石C水
Jに神領を加へ被ると云々。

   よ  たてまつ  はちまんぐうおんりょういっしょ
 寄せ奉る 八幡宮御領壹處

    あはのくに みのだのほう    あ  てへ
  阿波國三野田保
Kに在り者り

   みぎ くだん ほうは   とうぐうしんりょう  よ  たてまつ  ところなり
 右、件の保者、當宮神領に寄せ奉る
L所也。

   はやばや しょうべっとうにんけん  さた   な     ほうむ   ちぎょう    きとう   ため  しょとうぶつ  もつ    しんじ  ようとう  あ   せし  べ   のじょう
 早々と少別當任賢の沙汰と爲し、保務を知行し、祈祷の爲、所當物を以て、神事の用途に宛て令む可し之状、

   よ  たてまつ  くだん  ごと
 寄せ奉るは件の如し。

         げんりゃくにねんろくがついつか                            さきのひょうえのすけ みなもとのあそんよりとも
    元暦二年六月五日              前右兵衛佐  源朝臣頼朝
M

参考J石C水は、京都府八幡市八幡高坊の岩清水八幡宮。
参考K阿波國三野田保は、徳島県三好郡東みよし町足代字美濃田
参考L
寄せ奉るは、寄付をする。参考保務は、保と云う町の単位の勤め。保奉行人か?
参考M神様へ出す書簡なので、遠慮をして日付の下へ名前を書いている。日下署判。

現代語元暦二年(1185)六月大五日丙辰。預かり囚人(めしうど)になっている平家方の検非違使だった源季貞の子供の源太宗季(後日逸見冠者光長の子分となり宗長と名前を変える)がおりました。彼は捕虜となっているので、どうなったか知りたくて、内緒で関東へ下りました。この人は先祖代々弓馬の名人です。おまけに矢を作るのが上手なのです。それは矢野橘内の技術を継いでいるとの事です。上総国飯富庄(千葉県袖ヶ浦市飯富)は、親戚が代々管理している領地なので、その伝手があって、上総の国の豪族中禅寺奥次郎弘長(千葉県茂原市中善寺)と知り合いなのです。宗季は矢を作る名人なのですよと弘長が言うので、頼朝様はその実否を見たいものだとおっしゃられました。そこで、今日宗季は矢一腰二十四本をこさえて献上しました。頼朝様はお気に入りになられて、御家人として仕えるようにおっしゃられたんだとさ。又、このほかに岩清水八幡宮への領地を追加されましたとさ。

寄付します。八幡宮の領地として一箇所
阿波国三野田保に用意します。
右のその保は、この神社に寄付する所です。
そこの少別当(長官代理)の任賢が管理をして、保の仕事としてお祈りをするために、そこから上がる年貢を神様用に使うこと。寄付する証拠はこの手紙の通りです。
   元暦二年六月五日           前右兵衛佐源朝臣頼朝

元暦二年(1185)六月大七日戊午。前内府近日可歸洛。可面謁歟之由。被仰合因幡前司。是本三位中將下向之時對面給之故也。而廣元申云。今度儀不可似以前之例。君者鎭海内濫刑。其品已敍二品給。彼者過爲朝敵。無位囚人也。御對面之條。還可招輕骨之謗云々。仍被止其儀。於簾中覽其躰。諸人群參。頃之。前内府〔着淨衣。立烏帽子〕出于西侍障子之上。武藏守。北條殿。駿河守。足利冠者。因幡前司。筑後權守。足立馬允等候其砌。二品以比企四郎能員。被仰云。於御一族。雖不存指宿意。依奉 勅定。發追討使之處。輙奉招引邊土。且雖恐思給。尤欲備弓馬眉目者。能員蹲居内府之前。述子細之處。内府動座。頻有諂諛之氣。被報申之處又不分明。只令救露命給者。遂出家求佛道之由云々。是爲將軍四代之孫。武勇禀家。爲相國第二之息。官祿任意。然者不可憚武威。不可恐官位。何對能員可有礼節哉。死罪更非可被優于礼歟。觀者彈指云々。

読下し                     さきのないふ  きんじつ きらく すべ   めんえつすべ  かのよし  いなばのぜんじ  おお  あわさる
元暦二年(1185)六月大七日戊午。前内府@、近日に歸洛可し。面謁可き歟之由、因幡前司に仰せ合被る。 

これ  ほんざんみちうじょう げこうのときたいめん  たま のゆえなり  しか    ひろもともう    い        このたび ぎ いぜんのれい  に   べからず
是、本三位中將A下向之時對面し給ふ之故也。而るに廣元申して云はく、今度の儀似前之例に以る不可。

きみは かいだい らんけい しず    そのほんすで にほん  じょ  たま    かは あやま  ちょうてき な    むい  めしうどなり
君者海内の濫刑を鎭め、其品已に二品に敍し給ふ。彼者過りて朝敵と爲す無位の囚人也。

ごたいめんのじょう  かへっ けいこくのそしり まね  べ    うんぬん   よつ  そ   ぎ   や   られ  れんちう  をい  そ   てい  み
御對面之條、還て輕骨之謗を招く可しと云々。仍て其の儀を止め被、簾中に於て其の躰を覽る
B

しょにんぐんさん  しばらくあって  さきのないふ〔じょうえ  き       たてえぼし〕 にし さむらい しょうじのうえに いで
諸人群參す。之の頃、前内府〔淨衣を着て、立烏帽子〕西の侍の障子之上于出る。

むさしのかみ ほうじょうどの するがのかみ あしかがのかじゃ いなばのぜんじ ちくごごんのかみ あだちのうまのじょうら そ みぎり そうら
武藏守、北條殿、 駿河守、足利冠者、因幡前司、筑後權守、足立馬允等 其の砌に候う。

参考@前内府は、前内大臣で平宗盛。
参考A
本三位中將は、本三位中將重衡で、壽永三年(1184)三月一の谷合戦で捕らえられ来て狩野介宗茂が預かっている
参考B簾中に於て其の躰を覽るは、御簾越しに様子を見るのは穢れが移らない。公卿が扇子の骨の隙間から覗くのも同じく穢れが移らない。

にほん ひきのしろうよしかず  もつ    おお  られ  い
二品比企四郎能員を以て、仰せ被て云はく
C

ごいちぞく   をい      さ       すくい  ぞんぜず いへど  ちょくじょう たてまつ よつ     ついとうし  はつ    のところ すなわ へんど  しょういん たてまつ
御一族に於ては、指したる宿意を存不と雖も
D、勅定を奉るに依てE、追討使を發する之處、輙ち邊土に招引しF奉る。

かつう   おそ  おも  たま    いへど   もつと きゅうば  びもく   そな     ほつ てへれば
且は、恐れ思い給ふ
Gと雖も、尤も弓馬の眉目に備へんと欲す者、

よしかず  ないふの まえ  そんきょ     しさい   のべ  のところ  ないふ どうざ      しきり てんゆ の け あ     ほう  もうさる  のところ また ぶんめいならず
能員、内府之前に蹲居し、子細を述る之處、内府動座し
H、頻に諂諛I之氣有り。報じ申被る之處又分明不J

ただ  ろめい   すく  せし  たまはば  しゅっけ  と   ぶつどう  もと     のよし  うんぬん
只、露命を救は令め給者、出家を遂げ佛道を求める之由と云々。

これ  しょうぐんよんだい のまご な     ぶゆう いえ  う      しょうこくだいにの そく   な     かんろく い  まか
是、將軍四代K之孫と爲し、武勇家に禀け、相國第二之息Lと爲し、官祿意に任すM

しからば  ぶい  はばか べからず  かんい  おそ  べからず  なん  よしかず  たい  れいせつあるべけんや
然者、武威を憚る不可。官位を恐る不可。何ぞ能員に對し礼節有可哉。

しざい さら  れいに ゆうぜら べき  あらざるか みるものだんし   うんぬん
死罪更に礼于優被る可に非歟。觀者彈指す
Nと云々。

参考C能員を以て、仰せ被て云はくは、直談を避け、二位と無位との身分さを表す。
参考D指したる宿意を存不と雖もは、、特に恨みはないけれど。
参考E
勅定を奉るに依ては、後白河法皇の命令があったので。
参考F邊土に招引しは、都からわざわざ片田舎の鎌倉へ呼び寄せて。
参考G恐れ思い給ふは、恐れ多いことだと思う。
参考H動座は、上位の人に敬意を表して、座を離れて礼容を整えること。
参考I諂諛は、こびへつらうこと。阿諛(あゆ)
参考J報じ申被る之處又分明不は、云っていることがはっきりとしない。
参考K將軍四代は、正度、正衡、正盛、忠盛。
参考L
相國第二之息は、平相國禪門C盛の二男として。
参考M官祿意に任すは、官位も領地も欲しい儘にした。
参考N彈指は、非難、排斥すること。つまはじき。指弾。

現代語元暦二年(1185)六月大七日戊午。前内府(前内大臣平宗盛)は、近日中に京都へ帰ることになるが、顔を合わせてもいいかなと大江広元に相談されました。それは、本三位中将重衡の時には対面なされたからです。でも、大江広元が云うには、今度の場合は前と同じと思ってはなりません。今や貴方様は、日本国の反乱をお治めになって、位も従二位に上がっております。彼はからくも京都朝廷の敵側になって、官位を剥奪された無位無官の捕虜です。わざわざ対面されることは身分をわきまえない軽率な行為だと批判を受けることになりましょうだとさ。
それでそれは止めて、御簾越しに見ました。武士達が物見高さに集っています。暫くして、宗盛〔白の清浄をあらわす着物を着て、立烏帽子です〕が西の侍所の縁側から障子のある部屋の中へ上がって来ました。大内武蔵守義信、北条四郎時政殿、駿河守源伏見広綱、足利冠者義兼、因幡前司大江広元、筑後権守俊兼、足立右馬允遠元達がその脇に居並んでいます。二品頼朝様は、比企四郎能員を通じておっしゃられるには、平家の一族に対しては、特別な恨みは無いけれども、後白河法皇からの命令を受けて、平家追討の使いを出発させたら、あっという間に都からわざわざ辺鄙な鎌倉へ呼び寄せる事になってしまった。前の内大臣をお呼び立てするなんて恐れ多いことではあるけれども、武士としての面目が立ちましたよと。比企四郎能員が宗盛の前にうずくまり、細かく話して聞かせた所、宗盛は座を離れて礼儀を正し、やたらとこびへつらいながら、何か云ってるがはっきりとはしませんでした。ただひたすらに命を救ってくれたなら、出家をして仏の道にまい進しますと云うのだとさ。この人は、平氏四代忠盛の孫にあたり、武勇の家に生まれて、しかも平相国禅門C盛の二男として、官位も領地もほしいままに支配したじゃないか。だから今更、強い侍に遠慮すべきでなく、官位に頭を下げるべきではないのに、なんで比企四郎能員に礼儀を尽くす必要があるんだ。ましてや死罪に決まったのを幾ら礼儀を尽くしても仕方ないじゃないかと、皆は指を鳴らして批難
(ブーイング)をしました。

元暦二年(1185)六月大九日庚申。廷尉此間逗留酒匂邊。今日相具前内府歸洛。二品差橘馬允。淺羽庄司。宇佐美平次已下壯士等。被相副囚人矣。廷尉日來所存者。令參向關東者。征平氏間事。具預芳問。又被賞大功。可達本望歟之由。思儲之處。忽以相違。剩不遂拝謁而空歸洛。其恨已深於古恨云々。又重衡卿。自去年在狩野介宗茂之許。今被渡藏人大夫頼兼。同以進發。任衆徒申 。可被遣南都云々。

読下し                     ていい かく  かんさかわへん  とうりゅう    きょう  さきのないふ あいぐ   きらく
元暦二年(1185)六月大九日庚申。廷尉、此の間酒匂邊に逗留す@。今日前内府を相具し歸洛す。

にほん たちばなうまのじょう あさばのしょう   うさみのへいじ  いか   そうしら    さ     めしうど  あいそへらる
二品、 橘馬允、 淺羽庄司、宇佐美平次已下の壯士等を差し、囚人に相副被る矣。

ていい ひごろ しょぞんは  かんとう  さんこうせし  ば   へいし  せい   かん  こと  つぶさ  ほうもん あずか
廷尉日來の所存者、關東へ參向令め者、平氏を征する間の事、具に芳問に預らん。

また  たいこう しょうされ  ほんもう  たつ べ   か のよし  おも  もうく のところ  たちま もつ  そうい
又、大功を賞被、本望に達す可き歟之由、思い儲る之處、忽ち以て相違す。

あまつさ はいえつ と   ず  て むな    きらく     そ   うら  すで   いにしへをうら      ふか    うんぬん
剩へ 拝謁を遂げ不し而空しく歸洛す。其の恨み已に 古於 恨むより深しと云々。

また しげひらきょう  きょねんよ   かのうのすけむねしげのもと あ     いまくろうどだいぶよりかね わたされ おな    もつ  しんぱつ
又、重衡卿、去年自り狩野介宗茂之許に在り。今藏人大夫頼兼に渡被、同じく以て進發す。

しゅうと   もうしうけ まか    なんと   つか  さる  べ     うんぬん
衆徒
Aが申請に任せ、南都へ遣は被る可しと云々。

参考@酒匂邊に逗留すは、鎌倉へ入れず、宗盛を連れて腰越から出発している。
参考A衆徒は、興福寺の武者僧(僧兵)達。重衡は治承四年「庚子」(1180)十二月廿八日に南都を攻めて、大松明(民家に火をつける)を焚いたところ、おりからの風で東大寺、興福寺が焼けた。その恨みで武者僧(僧兵)達は本三位中將重衡の身柄を要求した。

現代語元暦二年(1185)六月大九日庚申。源廷尉義経は、酒匂の宿に滞在しています。今日、前内府平宗盛を連行して京都へ向かいました。二品頼朝様は、橘右馬允公長、浅羽庄司宗信、宇佐美平次実政などの勇敢な武士達に、囚人の護衛を追加しました。廷尉義経が思っていることは、関東へ戻れば、平氏討伐の内容を詳細に説明することが出来るだろうから、きっと大きな手柄を褒められて、思っていた通りになっただろうと、思っていたのに、全く違っていた。そればかりか、お会いすることさえも出来ずに虚しく京都へ戻るなんて、その恨みは若いときの境遇を恨むよりも深くなってしまいましたとさ。又、本三位中将重衡は、去年から狩野介宗茂の屋敷におりましたが、今は源蔵人大夫頼兼に預けられ、同様に出発をしました。興福寺の武者僧達の身柄要求に対応して、南都奈良へ送られましたとさ。

元暦二年(1185)六月大十三日甲子。所被分宛于廷尉之平家没官領二十四ケ所。悉以被改之。因幡前司廣元。筑後權守俊兼等奉行之。凡謂廷尉勳功者。莫非二品御代官。不被差副御家人等者。以何神變。獨可退凶徒哉。而偏爲一身大功之由。廷尉自稱。剩今度及歸洛之期。於關東成怨之輩者可属義經之旨吐詞。縱雖令違背予。爭不憚後聞乎。所存之企太奇怪之由忿怒給。仍如此云々。

読下し                      ていい に わ  あてらる ところの へいけもんかんりょう にじうよかしょ ことごと もつ  これ あらた らる
元暦二年(1185)六月大十三日甲子。廷尉于分け宛被る所之平家没官領二十四ケ所、悉く以て之を改め被る@

いなばのぜんじひろもと ちくごごんのかみとしかねら これ ぶぎょう
因幡前司廣元、筑後權守俊兼等 之を奉行す。

およ  ていい   くんこう  い    は   にほん  おんだいかん あらず な     ごけにんら   さしそえられずんば
凡そ廷尉が勳功を謂うA者、二品が御代官に非は莫しB。御家人等を差副被不者C

なに  じんべん   もつ    ひと  きょうと  のくべきや
何に神變Dを以て、獨り凶徒を退可哉E

しか    ひとへ いっしん たいこう  な   のよし  ていいじしょう
而して偏に一身の大功と爲す之由、廷尉自稱す。

あまつさ このたびきらく の ご  およ     かんとうを うら  な  のやからは  よしつね  ぞく  べ   のむね  ことば は
剩へ今度歸洛之期に及び、關東於怨み成す之輩者、義經に属す可し之旨、詞を吐く。

たと  よ   いはいせし    いへど   いかで こうぶん はばから ずや   しょぞんのくはだ はなは きっかいのよし ふんぬ たま    よつ  かく   ごと    うんぬん
縱い予に違背令む
Fと雖も、爭か後聞を憚ら不乎G。所存之企て太だ奇怪之由忿怒し給ふ。仍て此の如しHと云々。

参考@之を改め被るは、没収をした。
参考A
勳功を謂うは、手柄を立てたと云えるのは。
参考B
二品が御代官に非は莫しは、頼朝の代官だからじゃないか。
参考C御家人等を差副被不者は、御家人を貸してあげたからこそ。
参考D神變は、神がどう弁護してくれるのか。
参考E獨り凶徒を退可哉は、一人で敵をやっつけられるだろうか。
参考F
予に違背令むは、私に逆らう。
参考G後聞を憚ら不乎は、兄弟喧嘩を世間の聞こえを考えずに。
参考H
此の如しは、このとおり没収した。

現代語元暦二年(1185)六月大十三日甲子。廷尉義経に分け与えていた平家から取上げた領地二十四箇所を全て没収しました。大江広元と筑後権守俊兼が担当手続きをしました。源廷尉〔義経〕の手柄と云うのは、二品頼朝様の代官に過ぎないのだ。頼朝様が御家人を貸し与えなかったら、神がどう弁護したら、一人で敵をやっつけられるだろうか。それなにの全て自分の手柄だと思い込んで自分で言っている。例え、兄の私に逆らうとしても、兄弟喧嘩を世間の聞こえを考えずに、そういう事をするなんて、何てとんでもない罪作りな奴なんだとお怒りになられて、このとおり没収したんだとさ。

元暦二年(1185)六月大十四日乙丑。參河守範頼并河内五郎義長等受二品命。渡使者於高麗國之間。對馬守親光歸着彼嶋云々。是去々年自當嶋欲上洛之折節。平家零落于鎭西之間。路次依不通不能解纜。猶以在國之處。爲中納言知盛卿并少貳種直等奉行。可令參屋嶋之由及其催。九州二嶋中國等皆雖從于平家之方。親光猶運志於源家之間不行向。仍三ケ度被遣追討使。所謂高二郎大夫經直〔種直家子〕兩度。拒押使宗房〔種益郎等〕一ケ度也。此輩頻下國。或知行國務。或及合戰。難存命之間。凌風波。去三月四日令越渡高麗國之時。相伴姙婦。仍搆假屋於曠野之邊産生。于時猛虎窺來。親光郎從射取之訖。高麗國主感此事。賜三ケ國於親光。已爲彼國臣之處。有此迎歸朝。件國主殊惜其餘波。与重寳等。納三艘貢船副送之云々。

読下し                      みかわのかみのりよりなら  かわちのごろうよしながら  にほん めい  う
元暦二年(1185)六月大十四日乙丑。參河守範頼并びに河内五郎義長@等二品が命を受け、

ししゃを  こうらいこく  わた   のかん  つしまのかみちかみつか  しま   かえ  つ    うんぬん
使者於高麗國へ渡す之間、對馬守親光彼の嶋へ歸り着くと云々。

これ  おととし  とうしまよ   じょうらく      ほつ    のおりふし  へいけちんぜいにれいらくの かん  ろじ ふつう   よつ ともづな と    あたはず
是、去々年當嶋自り上洛せんと欲する之折節、平家鎭西于零落之間、路次不通に依て纜を解くに不能。

なおもつ  ざいこくのところ ちうなごんとももりきょうなら    しょうにたねなおらぶぎょう  な     やしま  さん  せし  べ   のよし そ   もよお   およ
猶以て在國之處、中納言知盛卿并びに少貳種直等奉行と爲し、屋嶋へ參じ令む可し之由其の催し
Aに及ぶ。

きゅうしゅう にとう  ちうごくら みなへいけのかたに したが いへど   ちかみつなおこころざしを げんけ はこ のかん ゆきむかはず
九州、二嶋、中國等皆平家之方于從うと雖も、親光 猶 志於 源家に運ぶ之間行向不。

よつ  さんかど ついとうし   つか  さる     いはゆる こうのじろうだいぶつねなお〔たねなお いえのこ〕 りょうど   こおうし むねふさ 〔たねます ろうとう〕 いちかどなり
仍て三ケ度追討使を遣は被るB。所謂、高二郎大夫經直〔種直が家子〕兩度。拒押使宗房〔種益が郎等〕一ケ度也。

こ  やからしきり げこく     ある    こくむ   ちぎょう    ある    かっせん  およ
此の輩頻に下國し、或ひは國務を知行し、或ひは合戰に及ぶ。

ぞんめい がた  のかん  ふうは   しの    さぬ さんがつよっかこうらいこく  こしわたらせし のとき  にんぷ  あいともな
存命し難し之間、風波を凌ぎ、去る三月四日高麗國へ越渡令む之時、姙婦を相伴う。

よつ  かりや を こうやの へん  かま  さんじょう   ときに もうこ うかが  きた    ちかみつ  ろうじゅうこれ いと  をはんぬ
仍て假屋於曠野之邊に搆へ産生す。時于猛虎窺ひ來る。親光が郎從之を射取め訖。

こうらいこくしゅ こ  こと   かん    さんかこくを ちかみつ たまは   すで  か   こくしん  な   のところ  こ   むか  あ  きちょう
高麗國主此の事を感じ、三ケ國於親光に賜る。已に彼の國臣と爲す之處。此の迎へ有り歸朝す。

くだん こくしゅ  こと  そ   なごり  おし    ちょうほうら  あた    さんそう  けんせん  おさ  そ   これ  おく     うんぬん
件の國主、殊に其の餘波を惜み、重寳等を与へ、三艘の貢船に納め副へ之を送ると云々。

参考@河内五郎義長は、頼光系石川源氏で対馬の守護。
参考A其の催しは、軍勢催促。
参考B
三ケ度追討使を遣は被るは、平家が三度攻めてきた。

現代語元暦二年(1185)六月大十四日乙丑。源参河守範頼と河内五郎義長は、二品頼朝様の命令を受けて、使いを高麗国へ行かせたので、対馬守親光が対馬へ帰り着きましたとさ。この人は、一昨年、対馬から京都へ上がろうとした時に、丁度平家が九州へ落ちて来てしまったので、途中で出会うといけないので、船を出発させることが出来ませんでした。仕方なく対馬に居たら、中納言平知盛と大宰少貳原田種直が担当して、屋島へ来るように軍勢催促をしてきました。九州、壱岐対馬、中国地方の武士達が皆平家の云うことを聞いて、見方に加わりましたが、対馬守親光は源氏の味方なので行きませんでした。そしたら、平家は三度も親光攻撃隊を派遣してきました。それは、高二郎大夫経直<原田大夫種直の家来>が二度。拒押使宗房<賀摩兵衛尉種益の子分>が一回です。この連中がやたらと対馬へ攻めてきて、国衙の年貢を横取りしたり、親光に戦を仕掛けたりしました。対馬にいたんじゃ命が危ないと判断し、波風を突っ切って三月四日に高麗国へ渡った時に、妊婦が一緒でした。仕方ないので、仮の産屋を野原に建てて、出産をしました。出産の血の臭いをかいだせいか、大きな虎が一頭忍び寄って来ました。親光の家来がこれを弓矢で射殺しました。高麗の王様はこの武勇を気に入って、三カ国を親光に与えました。それなので高麗の家臣となって居ましたら、この迎えがあったので日本へ帰ってきました。王様は特に名残を惜しんで、宝物を与え、三艘の船を用意して、送ってくれましたとさ。

参考對馬守宗親光が、高麗へ渡った話は、高麗史には記事がない。
参考この間の、元暦二年六月十五日付け頼朝の袖判下文に忠久が伊勢国波出御厨の地頭に補任されている。「島津家文書」(歴代亀鑑)東大史料編纂所所蔵
原文 下 伊勢国波出御厨
    補任 地頭軄事
       左兵衛尉惟宗忠久
   右件所者故出羽守平信兼党類領也
   而信兼依發謀反令追討御畢乃任先例
   爲令勤仕公役所補地頭軄也早爲彼軄
   可致沙汰之状如件以下
     
元暦二年六月十五日

読下し 下す 伊勢国波出御厨 補任す 地頭職の事 左兵衛尉惟宗忠久 右の件所者、故出羽守平信兼の党類の領也。而るに信兼謀反を發するに依て追討令め畢。乃て先例に任せ公役を勤仕令めん爲、地頭軄に補する所也。早く彼の軄と爲し沙汰致す可し之状、件の如し。以て下す。

元暦二年(1185)六月大十六日丁卯。典膳大夫。近藤七等爲關東御使。帶 院宣。巡檢畿内近國。成敗土民訴訟。然間。當時其誤不聞。二品内々被感仰之處。尾張國有玉井四郎助重云者。本自爲先猛悪。令懷諸人愁之由謳歌。近日殊又有違 勅之科。仍件兩人爲尋沙汰。雖遣召文敢不應。還及謗言。于時久經等言上子細之間。爲俊兼奉行。今日被仰助重云。違背 綸命之上者。不可住日域。依令忽緒關東。不可參鎌倉。早可逐電云々。

読下し                      てんぜんだいぶ こんどうしちら かんとう  おんし   な    いんぜん  たい   きないきんごく   じゅんけん
元暦二年(1185)六月大十六日丁卯。典膳大夫@、近藤七等關東の御使と爲し、院宣を帶し、畿内近國を巡檢し、

どみん   そしょう  せいばい   しかるかん とうじ そ   あやま   きかず
土民の訴訟を成敗す。然間、當時其の誤りを聞不。

にほん ないない かん おお  らる  のところ  おわりのくに  たまいのしろうすけしげ  い   ものあ
二品内々に感じ仰せ被る之處、尾張國に玉井四郎助重Aと云う者有り。

もとよ   もうあく   せん  な     しょにん  うれい いだかせし のよし おうか    きんじつ  こと  またいちょくの とがあ
本自り猛悪を先と爲し、諸人に愁を懷令む之由謳歌す。近日、殊に又違勅之科有り。

よつ くだん りょうにんたずねさた   ため  めしぶみ つか     いへど あへ おうぜず  かえっ ぼうごん およ
仍て件の兩人尋沙汰せん爲、召文を遣はすと雖も敢て應不、還て謗言に及ぶ。

ときに ひさつねら しさい  ごんじょう    のかん  としかねぶぎょう  な     きょうすけしげ  おお  られ  い
時于久經等子細を言上する之間、俊兼奉行と爲し、今日助重に仰せ被て云はく。

りんめい  いはいの うえは   じついき す  べからず  かんとう  こっしょせし    よつ    かまくら  まい  べからず  はやばや ちくてんすべ   うんぬん
綸命を違背之上者、日域に住む不可。關東を忽緒令むに依て、鎌倉へ參る不可。早々と逐電可しと云々。

参考@典膳大夫は、典膳大夫中原久經。元暦二年二月五日に典膳大夫中原久經と近藤七國平は、頼朝の命で使節として京都へきている。
参考A玉井四郎助重は、愛知県一宮市木曽川町玉ノ井。

現代語元暦二年(1185)六月大十六日丁卯。典膳大夫中原久経と近藤七国平は、関東の頼朝様の使いとして、院宣を持って、関西とその周辺を検査して歩き、生産者からの納税に関する訴えを処理しています。今までの間に、苦情を聞きません。頼朝様は内心感心しておりましたが、尾張国に玉井四郎助重と言う者がおります。元々乱暴者なので、周りの者達はその横暴に嘆いていると噂されています。最近になって特に朝廷から出ている命令に従わない罪があります。それなので、例の二人が取り調べるために、呼出状を出しましたが、全く云うことを聞かないばかりか、かえって罵る有様です。そこで典膳大夫中原久経が頼朝様に詳しいことを手紙で申し上げたので、筑後権守俊兼を処理担当として、今日助重に命令を出させました。「朝廷からの命令を聞かない奴は、日本に住むべきではない。関東をないがしろにするなら、鎌倉の御家人とは認めない。さっさと何処かへ行ってしまえ。」なんだとさ。

元暦二年(1185)六月大十八日己巳。池亞相〔頼盛〕使者到着。去月廿九日。於東大寺邊任素懷。遂出家〔法名重蓮〕之由被申之。兼日所被申合二品也云々。

読下し                      いけのあそう 〔よりもり〕     ししゃ とうちゃく
元暦二年(1185)六月大十八日己巳。池亞相@〔頼盛Aが使者到着す。

さぬ つきにじうくにち  とうだいじへん  をい  そかい  まか    しゅっけ 〔ほうみょうちょうれん〕   と   のよしこれ  もうさる
去る月廿九日、東大寺邊に於て素懷に任せ、出家〔法名 重蓮〕を遂ぐ之由之を申被る。

けんじつ にほん  もう   あは  らる ところなり  うんぬん
兼日、二品に申し合せ被る所也と云々。

参考@亞相は、亞は「次の」の意味があり、相は「大臣」の意味で、大臣の次ぎなので大納言のこと。
参考A頼盛は、平C盛の腹違いの弟だが、この母が頼朝を助けた池の禅尼。この関係からC盛死後は一族から疎まれ、平家都落ちにも同行しなかった。
参考A法名重蓮は、東大寺辺で出家したとあるので、導師は重源かも知れない?

現代語元暦二年(1185)六月大十八日己巳。池大納言平頼盛の使いが到着しました。先月二十九日に、東大寺で希望の通りに、出家<法名は重蓮>を致しましたと伝えました。以前に二品頼朝様に云っておられたとおりですとさ。

元暦二年(1185)六月大廿日辛未。天陰。夜半大地震。一時中動搖及數度。」筑前國香椎社前大宮司公友。忽背領家命致濫行。抑留造替遷宮之儀。加之。其身乍爲前司。押而行社務。早可被行罪科之由。社官等日來訴申關東。仍今日追却其身。可遂行遷宮。若不承引者。遣別御使。任法可致沙汰之旨。令下知給。俊兼奉行之。

読下し                    てんくもり  やはんおおじしん  いっとき  うち  どうようすうど   およ
元暦二年(1185)六月大廿日辛未。天陰。夜半大地震。一時の中に動搖數度に及ぶ。」

ちくぜんのくにかしいしゃ さきのだいぐうじきんとも たちま りょうけ  めい  そむ  らんぎょう いた    ぞうたいせんぐう  のぎ   よくりゅう
筑前國香椎社
@前大宮司公友、 忽ち領家の命に背き濫行を致し、造替遷宮B之儀を抑留す。

これ  くは    そ   み ぜんじ  な   なが    お   て しゃむ   おこな
之に加へ、其の身前司を爲し乍ら
C、押し而社務を行うD

はやばや ざいか  おこな らる  べ   のよし  しゃかんら ひごろ かんとう  うつた もう
早々と罪科に行は被る可し之由、社官等日來關東へ訴へ申す。

よつ  きょう   そ   み   ついきゃく   せんぐう  すいこうすべ    も   しょういんせずんば
仍て今日、其の身を追却
Eし、遷宮を遂行可し。若し承引不者。

べつ  おんし   つか     ほう  まか   さた いた  べ   のむね   げち せし  たま    としかねこれ  ぶぎょう
別に御使を遣はし、法に任せ沙汰致す可し之旨、下知令め給ふ。俊兼之を奉行す。

参考@香椎社は、香椎宮で福岡県東区香椎にあり、仲哀(ちゆうあい)天皇、神功皇后を祀(まつ)る。
参考
A
領家は、開発領主から寄進をうけた上級荘園領主。主に中央の有力貴族や有力寺社で、その権威が他からの侵害を防いでくれる。本所>領家>預所=下司VS地頭>名主>作人>小作人>在家と続き、実際の耕作は在家がする。
参考B造替遷宮は、香椎社も二十年に一度遷宮をする。これは掘立柱なのでその位で倒れる。
参考C前司を爲し乍らは、前任者の身分でありながら。
参考D押し而社務を行うは、無理やり力ずくで徴税役を現役している。
参考E
追却は、追い出す。

現代語元暦二年(1185)六月大二十日辛未。空は曇りです。夜中に地震がありました。一時(二時間)の間に揺れが何度もありました。」
筑前国(福岡県東区香椎)の香椎宮の前の神社代表者の公友が、上級領主の命令を聞かず、納税もせず、二十年毎の立替引越しを止めています。しかも前任者でありながら、無理やり力ずくで徴税役を行っています。早く取り締まってくださいと、他の神主達が鎌倉へ訴えてきています。そこで今日、そいつを追い出して、建て替え引越し(遷宮)を実施するように。若し、云うことを聞かなけりゃ、別な使いを行かせて、規則どおりに腕ずくで処分するからと命令を出させました。筑後権守俊兼が担当しました。

元暦二年(1185)六月大廿一日壬申。卯剋。廷尉着近江國篠原宿。令橘馬允公長誅前内府。次至野路口。以堀弥太郎景光。梟前右金吾〔C宗〕此間。大原本性上人爲父子知識被來臨于其所々。兩客共歸上人教化。忽翻怨念。住欣求浄土之志云々。又重衡卿今日被召入花洛 抑前内府〔宗盛公〕者。其身備公家御外戚。其官昇槐門内相府也。然而朝敵罪名無據于宥歟。粗訪前蹤。 成務天皇御宇三年正月。武内宿祢始任大臣。 天智天皇七年十月十三日。大織冠始任内大臣〔武内与大織冠中間。大臣十六人歟〕給以降。至于此内府。昇件職之臣一百三十三人。〔此内於内大臣者九人歟〕其中非無逢殃之例歟。所謂。 用明天皇二年〔四月九日帝崩御〕七月日。上宮太子〔于時十六歳〕誅大臣守屋。皇極天皇〔舒明天皇皇后〕三年甲辰六月。於大極殿。誅大臣入鹿。〔大臣蝦夷子〕天武天皇元年七月廿三日。太政大臣大友皇子怖叛逆過自殺。同八月廿七日。 帝誅右大臣金連。同年左大臣赤兄配流。 孝謙天皇御宇天平寳字元年丁酉七月十二日。右大臣豊成被遷太宰權師。同八年甲辰九月十九日。誅大師正一位仲麿〔号恵美〕。 桓武天皇御宇延暦元年壬戌六月。左大臣〔魚名〕左遷。 醍醐天皇御宇昌泰四年辛酉正月廿五日。右大臣〔菅原公〕遷太宰權師給。 冷泉天皇御宇安和二年己巳三月廿六日。左大臣〔高明〕配同官。 一條天皇御宇長徳二年丙申四月廿四日。内大臣伊周又左遷師。 高倉院御宇治承三年己亥十一月十七日。太政大臣師長配尾張國等是也。

読下し                      うのこく   ていい おうみのくに しのはらしゅく つ  たちばなうまのじょうきんなが せし さきのないふ ちう
元暦二年(1185)六月大廿一日壬申。卯剋@、廷尉 近江國 篠原宿Aに着き、橘馬允公長を 令め前内府を誅す。

つぎ  のじぐち   いた    ほりのいやたろうかげみつ もつ  さきのうきんご 〔きよむね〕   きゅう
次に野路口Bに至り、堀弥太郎景光を以て、前右金吾〔C宗〕を梟す。

こ   かん  おおはら  ほんじょうしょうにん ふし  ちしき    な   そ  しょしょsに らいりんさる
此の間、大原の
C本性上人、父子の知識Dと爲し其の所々于來臨被る。

りょうきゃくとも しょうにん きょうげ  き    たちま おんねん ひるがえ ごんぐじょうどの こころざし す   うんぬん
兩客共、上人の教化に歸し、忽ち怨念を翻し、欣求浄土之志に 住む
Eと云々。

また  しげひらきょう きょう からく   めしいらる
又、重衡卿、今日花洛に召入被る。

参考@卯剋は、午前六時。暑いので夜歩いていた。
参考A篠原宿は、滋賀県野洲市小篠原。
参考B野路口は、草津市野路町。
参考C
大原のは、法成寺。
参考D知識は、知り合い。
参考E
忽ち怨念を翻し、欣求浄土之志に住むは、鎌倉への怨念を恐れている。

現代語元暦二年(1185)六月大二十一日壬申。朝の六時に源廷尉〔義経〕は、近江国篠原宿に着いて、橘右馬允公長に命じて前内府宗盛を殺しました。それから野路口に来たら、堀太郎景光に、前右金吾清宗を打首獄門にしました。それでもその間に、大原法成寺の本性上人が、親子の知り合いなので、その場所へ来られました。親子は上人の教えに従い、怨念を払って、極楽浄土に行けると安堵していたとさ。又、本三位中將「重衡」は今日、京都へ入りました。

そもそも さきのないふ〔むねもりこう〕    そ   み   こうけ   ごがいせき   そな      そ   かんかいもん うちのしょうふ のぼ  なり
抑、前内府〔宗盛公〕に、其の身を公家の御外戚
Fに備はり、其の官槐門G、内相府Hに昇る也。

しかれども ちょうてき ざいめい なだむ によんどころ な か
然而、朝敵の罪名を宥る于據ろ 無き歟。

参考F公家の御外戚は、平C盛が安徳天皇の祖父になった。
参考G槐門は、大臣。
参考H内相府は、内大臣。

現代語だいたい、前内府宗盛公は、天皇家の外戚として、その官職は大臣、内大臣にまで上がりました。それなのに、朝廷の敵となった汚名を拭いたくても、どうにもならない。

あらあら ぜんしょう とぶら    せいむてんのうおんうさんねんしょうがつ たけのうちすくねはじ おおど  にん
粗、 前蹤を訪うに、成務天皇御宇三年正月、武内宿祢始めて大臣に任ず。

てんちてんのうしちねんじうがつじうさんにち たいしょくかんはじ ないだいじん〔たけうちと たいしょくかん ちうかん おおど じうろくにんか 〕    にん  たま  いこう
天智天皇七年十月十三日、大織冠始めて内大臣〔武内与大織冠が中間の大臣十六人歟〕に任じ給ふ以降、

こ   ないふに いた    のぼ くだん しきのおみいっぴゃくさんじうさんにん〔こ うちないだいじん をい  は くにんか〕   そ  うちわざわい あ の れい な  あらずか
此の内府于至り、昇る件の職之臣一百三十三人〔此の内内大臣に於て者九人歟〕其の中殃に逢う之例無きに非歟。

いはゆる ようめいてんのうにねん〔しがつここのかみかどほうぎょ〕しちがつにち じょうぐうたいし 〔ときにじうろくさい〕  おおど もりや  ちう
所謂、用明天皇二年〔四月九日帝崩御〕七月日、上宮太子〔時于十六歳〕大臣守屋を誅す。

こうぎょくてんのう〔じょめいてんのう こうごう〕 さんねんこうしんろくがつ だいごくでん をい    おおどいるか  〔おおど えみし  こ〕    ちう
皇極天皇〔舒明天皇の皇后〕三年甲辰六月、大極殿に於て、大臣入鹿〔大臣蝦夷の子〕を誅す。

てんむてんのうがんねんしちがつにじうさんにち だじょうだいじんおおとものみこ ほんぎゃく とが おそ じさつ
天武天皇 元年七月廿三日、 太政大臣大友皇子、叛逆の過を怖れ自殺す。

どうはちがつにじうしちにち みかど うだいじんかねむらじ ちう   どうねんさだいじんあかえ  はいる
同八月廿七日、 帝、右大臣金連を誅し、同年左大臣赤兄を配流す。

こうけんてんのうおんう てんぴょうほうじがんねんていゆうしちがつじうにちち うだいじんとよなり だざいごんのそち せんせら
孝謙天皇御宇、天平寳字元年丁酉七月十二日、 右大臣豊成太宰權師に遷被る。

どうはちねんこうしんくがつじうくにち   だいししょういちいなかまろ〔えみ   ごう  〕   ちう
同八年甲辰九月十九日、大師正一位仲麿〔恵美と号す〕を誅す。

かんむてんのうおんう えんりゃくがんねんじんじゅつろくがつ さだいじん 〔うおな〕  させん
桓武天皇御宇、延暦元年壬戌六月、 左大臣〔魚名〕左遷。

だいごてんのうおんう しょうたいよねんしにゅうしょうがつにじうごにち うだいじん 〔すがはらこう〕 だいざいごんのそち せん たま
醍醐天皇御宇、昌泰四年辛酉正月廿五日、右大臣〔菅原公〕太宰權師に 遷し給ふ。

れいぜいてんのうおんう あんなにねんきみさんがつにじうろくにち  さだいじん 〔たかあきら〕どうかん はい
冷泉天皇御宇、安和二年己巳三月廿六日、左大臣〔高明〕同官に配す。

いちじょうてんのうおんうちょうとくにねんへいしんしがつにじうよっか ないだいじんこれちか またそち させん
一條天皇御宇、長徳二年丙申四月廿四日、内大臣伊周、又師に左遷す。

だかくらいんおんう じしょうさんねんきいじういちがつじうしちにち  だじょうだいじんもろなが おわりのくに はい  ら  これなり
高倉院御宇、治承三年己亥十一月十七日、太政大臣師長、尾張國へ配す等は是也。

参考I前蹤は、前例。
参考J武内宿祢は、神話時代の始めての大臣。
参考K大織冠は、藤原鎌足。推古天皇22年(614年) - 天智天皇8年10月16日(669年11月14日)
参考L上宮太子は、聖徳太子。敏達天皇3年1月1日(574年2月7日) - 推古天皇30年2月22日(622年4月8日)
参考M大臣守屋は、物部守屋。生年不詳 - 用明天皇2年(587年)7月)
参考N入鹿は、蘇我入鹿で生年不詳 - 皇極天皇4年6月12日(ユリウス暦645年7月10日)いわゆる大化の改新。
参考O蝦夷は、蘇我蝦夷。用明天皇元年(586年)? - 大化元年6月13日(645年7月11日)
参考P大友皇子と金連、赤兄は、壬申の乱。
参考Q
豊成は、藤原氏南家、智麻呂の子。704(大宝4)〜765(天平神護1)
参考R太師は、太政大臣。
参考S恵美は、恵美押勝の乱。藤原仲麻呂。
参考㉑魚名は、藤原魚名。782年6月に氷上川継の乱に連座、左大臣罷免。
参考㉒菅原公は、菅原道真の左遷という名の流罪。
参考㉓高明は、源高明、醍醐天皇の十子で臣籍降下。安和の変で失脚。
参考伊周は、藤原道隆の子。叔父道長と政権争い負けて失脚。
参考㉕師長は、保元の乱の首謀者で流れ矢に当たって死んだ頼長の子。雅楽の名人。近衛基通と対立しC盛に流罪にされた。

現代語昔の前例を紐解いてみれば、十三代成務天皇の三年(四世紀)四月武内宿祢が初めて大臣を任命しました。三十八代天智天皇七年(623)十月十三日、大織冠藤原鎌足が初めて内大臣武内宿祢と藤原鎌足の間に大臣になったのは十六人かも〕に任命された後、この内府宗盛までに、その大臣の職に上った人は百三十三人このうち内大臣になったのは九人か〕その中で運悪く落ちぶれた例も無いわけではありません。

言って見れば、三十一代用明天皇二年(587)〔四月九日天皇崩御七月、聖徳太子〔十六歳が大臣の物部守屋を殺しました。

三十五代皇極天皇〔三十代舒明天皇の皇后三年(644)甲辰六月、大極殿において、大臣の蘇我入鹿〔蘇我蝦夷の子を殺しました。

四十代天武天皇元年(673)七月二十三日、太政大臣の大友皇子が天武天皇側に敗れて、自殺をしました。同じ八月二十七日に大友皇子をそそのかした、右大臣の中臣金連を殺し、左大臣の蘇我赤兄を流罪にしました。

四十六代孝謙天皇の時代の天平宝字元年(757)丁酉七月十二日、右大臣の藤原豊成(武智麻呂の子)を太宰權師に左遷しました。同じ八年(764)甲辰九月十九日太政大臣正一位の藤原仲麻呂〔恵美押勝を殺しました。

五十代桓武天皇の時世の延暦元年(782)壬戌六月、左大臣の藤原魚名を左遷しました。

六十代醍醐天皇の時世の昌泰四年(901)辛酉正月二十五日、右大臣〔菅原道真公を太宰權師に左遷しました。

六十三代冷泉天皇の時世の安和二年(969)己巳三月二十六日、左大臣〔源高明を同じ太宰權師に配流しました。

六十六代一条天皇の時世の長徳二年(996)丙申四月二十四日、内大臣の藤原伊周を左遷しました。

八十代高倉上皇の時世の治承三年(1179)己亥十一月十七日、太政大臣藤原師長を尾張国へ流罪にした等がこれです。

元暦二年(1185)六月大廿二日癸酉。重衡卿被遣東大寺。依衆徒申請也。

読下し                      しげひらきょう とうだいじ  つか さる     しゅうと  もう   う     よつ  なり
元暦二年(1185)六月大廿二日癸酉。重衡卿@、東大寺へ遣は被る。衆徒の申し請けに依て也。

参考@重衡卿は、治承四年(1180)十二月二十八日南都を焼いた仇討ちに東大寺、向福寺の僧兵が身柄を要求された。

現代語元暦二年(1185)六月大二十二日癸酉。本三位中将「重衡」は、東大寺へ送られます。向福寺の武者僧の身柄要求によりました。

元暦二年(1185)六月大廿三日甲戌。前内大臣并右衛門督C宗等首。源廷尉家人等持向六條河原。檢非違使大夫尉知康。六位尉章貞。信盛。公朝。志明基。府生經廣。兼康等莅其所請取之。懸獄門前樹矣。此事。頭右大弁光雅朝臣參陣。仰別當〔家通〕別當仰頭弁。々々傳大夫史隆職。々々傳廷尉知康云々。」今日。前三位中將重衡於南都殞頚云々。是爲伽藍火災張本之間。衆徒強申請之云々。

読下し                      さきのないだんじんなら  うえもんのかみきよむねら くび  げんていい けにんら  ろくじょうがわら  も   むか
元暦二年(1185)六月大廿三日甲戌。前内大臣并びに右衛門督C宗等の首、源廷尉が家人等、六條河原へ持ち向う。

 けびいし  たいふのじょうともやす ろくいのじょうあきさだ のぶもり きんとも さかんあきもと ふしょうつねひろ かねやすら
檢非違使大夫尉知康、 六位尉章貞、信盛、公朝、志明基、府生經廣、兼康等

そ  ところ  のぞ  これ  う    と     ごくもん  まえ  き  かけ       こ   こと  とうのうだいべんみつまさあそんさんじん  べっとう 〔いえみち〕  おお
其の所に莅み之を請け取り、獄門の前の樹に懸る矣。此の事、頭右大弁光雅朝臣參陣し、別當〔家通〕に仰す。

べっとうとうべん  おお    とうべんたいふさかんたかもと つた   たかもと ていいともやす つた    うんぬん
別當頭弁に仰す。々々大夫史隆職に傳う。々々、廷尉知康に傳うと云々。」

きよう   さきのさんみちうじょうしげひら なんと をい くび  おと    うんぬん  これ  がらんかさいちょうほん  な   のかん  しゅうとことさら これ  もう  う     うんぬん
今日、前三位中將重衡、南都に於て頚を殞すと云々。是、伽藍火災張本を爲す之間、衆徒強に之を申し請くと云々。

現代語元暦二年(1185)六月大二十三日甲戌。前内大臣宗盛と息子の右衛門督清宗の首を、源廷尉義経の部下達が、六条河原へ持って行きました。検非違使の大夫尉知康、六位尉章貞、信盛、公朝、志明基、府生経広、兼康等が、その場所に行き合わせ、これを受け取って、獄舎の門の前の木に掛けました。この事を頭右大弁光雅朝臣が現場に立ち会ったので、検非違使長官の家通に報告し、長官は弁官の長に報告し、弁官の長は大夫史隆職に伝えました。隆職は、それを検非違使の尉知康に伝えましたとさ。

今日、前三位中将重衡は、南都の奈良で首を刎ねられたそうです。それは、奈良の東大寺、興福寺の伽藍を燃やしてしまった張本人なので、武者僧達が無理やりに身柄を要求して引き取ったとの事です。

元暦二年(1185)六月大廿五日丙子。佐々木三郎成綱者。平家在世之程者。奉背源家。於事現不忠。而彼氏族城外之後奉追從。遂去年一谷合戰。子息俊綱討取越前三位通盛訖。仍雖望其賞。令悪先非給之間。敢無御許容之處。属侍從公佐朝臣。頻依愁申之。募子息之功。於本知行所者。可被沙汰付之由。有御契約云々。

読下し                      ささきのさぶろうなりつな は  へいけ ざいせの ほどは   げんけ  そむ たてまつ  こと  をい  ふちう   あらわ
元暦二年(1185)六月大廿五日丙子。佐々木三郎成綱@者、平家在世之程者、源家に背き奉り、事に於て不忠を現す。

しか    か   うじぞくじょうがいののち ついじゅう たてまつ きょねんいちのたにかっせん と  しそくとしつなえちぜんさんみみちもり   う   と  をはんぬ
而るに彼の氏族城外之後、追從し奉り、去年一谷合戰を遂げ、子息俊綱越前三位通盛Aを討ち取り訖。

よつ  そ   しょう のぞ   いへど   せんぴ  にくせし  たま  のかん  あえ  ごきょうような  のところ  じじゅうきんすけあそん  ぞく
仍て其の賞を望むと雖も、先非を悪令め給ふ之間、敢て御許容無き之處、侍從公佐朝臣
Bに属し、

しきり これ  うれ  もう     よつ    しそくの こう  つの    ほんちぎょうしょ  をい  は    さた   つ   らる  べ   のよし  ごけいやく あ    うんぬん
頻に之を愁い申すに依て、子息之功に募り、本知行所に於て者、沙汰し付け被る可し之由、御契約有りと云々。

参考@佐々木三郎成綱は、阿倍氏の系統で本佐々木と云い安土の佐々貴神社神主。この神主職を平安末期に廷尉爲義の貴下の宇多源氏の佐々木源三秀義に奪はれるが、平家全盛に佐々木源三秀義は解職され、この本佐々木へ戻された。
参考A越前三位通盛は、C盛の弟教盛の子。
参考B
侍從公佐朝臣は、親幕派の持妙院党で頼朝と遠縁に当たる。

現代語元暦二年(1185)六月大二十五日丙子。佐々木三郎野三成綱は、平家全盛の頃に、源氏を見限って敵方に付いたのです。しかし、平家一族が都落ちをした後に源氏へ寝返って、去年一の谷合戦で、倅の俊綱は、越前三位通盛を討ち取ってしまいました。そこで、その恩賞を臨んできましたが、前の平家への味方した事を憎んで、わざと許可をしませんでしたので、侍従公佐を通じて、盛んに嘆いてきたので、息子の手柄に免じて、元からの領地については知行してよいと約束をなされました。

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吾妻鏡入門第四巻

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