吾妻鏡入門第四巻

元暦二年(1185)七月小「八月十四日文治元年と爲す」

元暦二年(1185)七月小二日癸未。橘右馬允。淺羽庄司等自京都歸參。去月廿一日前内府父子梟首事。同廿三日被遣彼首於獄門被渡重衡於南都事等。具申之云々。 

読下し                     たちばなうまのじょう あさばのしょうじ らきょうと よ   きさん
元暦二年(1185)七月小二日癸未。橘右馬允@、 淺羽庄司A等京都自り歸參す。

さぬ つき  にじういちにちないふおやこ きょうしゅ こと  おな   にじうさんにち か   くびを ごくもん  つかわされ
去る月、廿一日前内府父子梟首の事、同じく廿三日、彼の首於獄門に遣被れ、

しげひらを なんと  わたさる  ことなど  つぶさ これ  もう    うんぬん
重衡於南都に渡被る事等、具に之を申すと云々。

参考@橘右馬允は、橘右馬允公長で前の橘次公長。後に秋田県の小鹿島を貰い、小鹿島と名乗る。
参考A
淺羽庄司は、宗信。六月九日に頼朝がこの二人と宇佐美平次等を宗盛護送の義經の目付として付いて行った。

現代語元暦二年(1185)七月小二日癸未。橘右馬允公長と浅羽庄司宗信が京都から戻りました。先月の二十一日に前内府平宗盛親子が打ち首になったこと、二十三日にはその首を獄門に掛けたこと、本三位中将「重衡」は奈良の武者僧に引き渡された事等を細かく頼朝様に報告をしましたとさ。

元暦二年(1185)七月小七日戊子。前筑後守貞能者。平家一族。故入道大相國專一腹心者也。而西海合戰不敗以前逐電。不知行方之處。去比忽然而來于宇都宮左衛門尉朝綱之許。平氏運命縮之刻。知少其時。遂出家遁彼与同之難訖。於今者隱居山林。可果往生素懷也。但雖山林。不蒙關東免許者難求之。早可申預此身之由懇望云々。朝綱則啓事之由之處。平氏近親家人也。爲降人之條。還非無其疑之由。有御氣色。随而無許否之仰。而朝綱強申 云。属平家在京之時。聞擧義兵給事。欲參向之刻。前内府不免之。爰貞能申宥朝綱并重能有重等之間。各全身參御方。攻怨敵畢。是啻匪思私芳志。於上又有功者哉。後日若彼入道有企反逆事者。永可令断朝綱子孫給云々。仍今日有宥御沙汰。所被召預朝綱也。

読下し                    さきのちくごのかみさだよしは へいけいちぞく  こにゅうどうだいしょうこく せんいつ  ふくしん  ものなり
元暦二年(1185)七月小七日戊子。前筑後守貞能@者、平家一族、 故入道大相國 專一の腹心の者也。

しか    さいかい  かっせんまけざるいぜん ちくてん   ゆくえしらずの ところ   さぬ  ころ  こつぜん  して  うつのみやさえもんのじょうともつなのもとに きた
而るに西海の合戰敗不以前に逐電し、行方知不之處、去る比、忽然と而、宇都宮左衛門尉朝綱之許于來る。

へいし  うんめいちぢ    のとき   そ   ときすくな    し   しゅっけ   と      か    よどう の なん  のが  をはんぬ
平氏の運命縮まる之刻、其の時少きを知り出家を遂げ、彼の与同之難を遁れ訖。

いま  をい  は さんりん  いんきょ    おうじょう そかい   はた  べ  なり   ただ  さんりん  いへど   かんとう  めんきょ  こうむらずんば これ  もと  がた
今に於て者山林に隱居し、往生の素懷を果す可き也。但し山林と雖も、關東の免許を蒙不者、之を求め難し。

はやばや こ   み   もう  あず    べ    のよし  こんもう    うんぬん
早々と此の身を申し預かる可し之由、懇望すと云々。

ともつなすなは ことの よし けい  のところ

朝綱則ち事之由を啓す之處、

へいし きんしん  けにんなり  こうじん  な   のじょう  かへっ そ   うたが な    あらずの よし  みけしき あ     したが て きょひの おお  な
平氏近親の家人也。降人と爲す之條、還て其の疑い無きに非之由、御氣色有り。随い而許否之仰せ無し。

しか    ともつな あながち もう う     い       
而るに朝綱、強に申し請けて云はく、

へいけ   ぞく  ざいきょうのとき  ぎへい  あ   たま    こと  き     さんこう       ほつ    のとき  さきのないふこれ ゆるさず
平家に属し在京之時、義兵を擧げ給ふの事を聞き、參向せんと欲する之刻、前内府之を免不。

ここ  さだよし  ともつななら   しげよし  ありしげら   もう  なだ    のかん おのおの み  まっと    みかた   まい    おんてき  せ  をはんぬ
爰に貞能、朝綱并びに重能A、有重B等を申し宥むる之間、各、身を全うし御方に參り、怨敵を攻め畢。

これ  ただ  し   ほうし   おも   あらず  かみ  をい  またこうあ     ものや
是、啻に私の芳志を思うに匪、上に於て又功有らん者哉。

ごじつ   も   か   にゅうどうほんぎゃく くはだ ことあ  ば   なが  ともつな  しぞん  だんぜし  たま  べ     うんぬん
後日、若し彼の入道反逆を企つ事有ら者、永く朝綱が子孫を断令め給ふ可しと云々。

よつ  きょう なだ     おんさた あ    ともつな  めしあず  らる  ところなり
仍て今日宥めの御沙汰有り、朝綱に召預けC被る所也。

参考@前筑後守貞能は、平家侍大将廿数人中のナンバーワン。治承四年十二月二日に本三位中將「重衡」の侍大将肥後守貞能として、関東へ向けて出発したが途中から引き返した。又、養和二年四月十一日には九州で兵糧米を集め、菊地九郎隆直を降伏させている。
参考A重能は、畠山庄司で畠山次郎重忠の父。
参考B
有重は、小山田別当で小山田三郎重成の父。畠山重能の弟。
参考C
召預けは、預かり囚人(めしうど)。

現代語元暦二年(1185)七月小七日戊子。前筑後守貞能は、平家一族でしかも平相国禅門C盛の一番の侍大将です。それなのに、九州の壇ノ浦合戦で平家が敗北する前にすばやく脱出して行方不明になっていましたが、にわかに宇都宮左衛門尉朝綱の処へ来ました。平家の運命が尽きるのも時間の問題だと分かり、出家してその余波を避けました。今となっては山林に隠れ住み、往生するための仏道を尽くすしかありません。但し、山林とは云っても、関東政権の許可を得ないのでは、これも難しい。早く私の身柄を囚人として預かるよう頼朝様に申し出てくれとお願いをしましたとさ。
宇都宮左衛門尉朝綱は直ぐにこの事を頼朝様に願い出た所、「彼は平家の中でも、近親者の家来ではないか。降伏して囚人になってくることは、暗殺を考えていると疑ってもおかしくないではないか。」と、不機嫌な態度をしました。だから是非の返事はしてくれません。
それなので、宇都宮左衛門尉朝綱は強いて望んで云いました。「平家に従って京都に大番役で勤務をしていた時、頼朝様が蜂起したことを聞いて、出向こうとしましたが、前の内大臣宗盛は許してくれません。そんな時、貞能が宇都宮左衛門尉朝綱と畠山重能と小山田有重等を開放するように進言して納得させたので、それぞれ皆、命が助かり頼朝様の味方に参加して、敵方を攻め滅ぼしました。これは、私の恩返しを思っているのではなく、頼朝様にとっても良い手助けになった訳じゃないですか。後日に若し貞能入道が反逆をするようなことがあったら、私の家系を断ち切って戴いても結構です。」と云ったそうです。
それなので、分かっていただけて許可するとの命令が出たので、宇都宮左衛門尉朝綱が囚人として預かることになりました。(これを「預かりめしうど」と云います。)

参考:文治地震 (ぶんじじしん)は、 元暦 2年 7月9日 午刻( ユリウス暦 1185年 8月6日 12時( 正午 )ごろ、 先発グレゴリオ暦 1185年8月13日)に 日本で発生した大地震 である。地震は元暦年間に発生したが、この天変地異により、翌月の8月14日に文治に改元 されたことから、一般には、元暦ではなく文治を冠して呼ばれることが多い。この改元について『 百錬抄 』では「十四日甲子、有改元、依地震也、(地震による)」と記述しているが、異説もあり、『 一代要記 』には「八月十四日改元、依兵革也、」とあり兵革によるともされる 。しかし中世の日本においては合戦や政変によるものより、地震や疫病流行など自然現象のもたらす災害による改元の方が多かった 。ウイキペディアより
同様記事が鴨長明の方丈記にも元暦の大地震として記録されている。

元暦二年(1185)七月小十二日癸巳。鎭西事。且止武士自由狼藉。且顛倒之庄薗如舊附國司領家。爲全乃貢。早申下 院宣。行向可遂巡檢之由。被仰久經。國平等云々。亦平家追討之後。任嚴命。廷尉者則歸洛。參州者于今在鎭西。而管國等有狼藉之由。自所々有其訴。早可召上件範頼之旨。雖被仰下之。菊池。原田以下同意平氏之輩掠領事。令彼朝臣尋究之由。二品令覆奏給之間。範頼事。神社佛寺以下領不成妨者。雖不上洛。有何事哉。企上洛可有後悔者。可相計之趣。重被下 院宣之間。平家没官領。種直種遠秀遠等所領。原田板井山鹿以下所處事。被定補地頭之程者。差置沙汰人。心靜可被歸洛之由。今日所被仰遣參州之許也。

読下し                      ちんぜい こと  かつう  ぶし    じゆう  ろうぜき   と
元暦二年(1185)七月小十二日癸巳。鎭西が事、且は武士の自由の狼藉を止め、

かつう てんとう のしょうえん もと ごと   こくし    りょうけ   つ     のうぐ   まつと     ため  はやばや いんぜん  もう  くだ
且は顛倒@之庄薗を舊の如く國司、領家Aに附け、乃貢を全うせん爲、早々と院宣を申し下し、

ゆきむか じゅんけん とげ べ    のよし  ひさつね  くにひら ら  おお  らる    うんぬん
行向い巡檢を遂る可し之由、久經、國平B等に仰せ被ると云々。

また  へいけついとうののち  げんめい  まか   ていじょうはすなは きらく     さんしゅうはいまに ちんぜい  あ
亦、平家追討之後、嚴命に任せ、廷尉者則ち歸洛し、參州者今于鎭西に在り。

しか    かんこくら ろうぜきあ   のよし  しょしょよ   そ   うつた あ     はやばや くだん のりよりめしあぐ  べきのむね
而るに管國等狼藉有る之由、所々自り其の訴へ有り。早々と件の範頼召上る可之旨

これ  おお  くださる    いへど   きくち   はらだ いげ   へいし  どういのやからりゃくりょう こと
之を仰せ下被ると雖も、菊池、原田以下の平氏に同意之輩掠領の事。

か   あそん   せし    たず  きは  のよし  にほんふくそうせし  たま  のかん
彼の朝臣を令めて尋ね究む之由、二品覆奏令め給ふ之間、

のりより  こと     じんじゃぶつじ いげ   りょう さまた  な  ざれば  じょうらくせず いへど  なにごと  あら  や
範頼が事は、神社佛寺以下の領を妨げ成さ不者、上洛不と雖も、何事か有ん哉。

じょうらく くはだ こうかいあ  べ てへれば  あいはか べしのおもむき かさ  いんぜん  くださる  のかん
上洛の企て後悔有る可し者、相計る可之趣、重ねて院宣を下被る之間、

へいけもっかんりょう たねなお  たねとお   ひでとお ら  しょりょう  はらだ  いたい   やまが いげ   しょしょ  こと
平家没官領。種直C、種遠D、秀遠E等が所領、原田、板井、山鹿以下の所處の事、

じとう    さだ  ぶさる   のほどは   さたにん   さしお     こころしず    きらく さる  べ    のよし   きょうさんしゅうの もと  おお  つか  さる ところなり
地頭を定め補被る之程者、沙汰人を差置き、心靜かに歸洛被る可し之由、今日參州之許へ仰せ遣は被る所也。

参考@顛倒は、横領された。同意語に没倒(もっとう)。
参考
A
領家は、開発領主から寄進をうけた上級荘園領主。主に中央の有力貴族や有力寺社で、その権威が他からの侵害を防いでくれる。本所>領家>預所=下司VS地頭>名主>作人>小作人>在家と続き、実際の耕作は在家がする。
参考B久經・國平は、元暦二年二月五日に典膳大夫中原久經と近藤七國平は、頼朝の命で使節として京都へきている。
参考C種直は、原田大夫種直で福岡県筑紫野市大字原田。太宰少弐。地名辞典で原田をひくと前原市ともあったので調べなおします。
参考D種遠は、大分県臼杵市野津町大字垣河内板井。
参考E秀遠は、山鹿で熊本県山鹿市山鹿。元暦二年(1185)三月大廿四日に山峨兵藤次秀遠で出ている。

現代語元暦二年(1185)七月小十二日癸巳。九州の行政については、一つは武士の勝手な占領を止めさせ、一つは横領された荘園を元の通りに国衙や最上級荘園領主である領家に任せ、年貢をきちんと納入させるために、院宣を請求し発出してもらい、それを持って行き、検査をして歩くように典膳大夫中原久経と近藤七国平に仰せ付けになられましたとさ。
又、平家を滅ぼした後は、きちんと云うことを聞いて、源廷尉義経は京都へ戻り、三州源参河守範頼は現地に残りました。それでも管理している九州の国では武士の横領が相次いでいると訴えがあるので、早く源参河守範頼が取上げてしまいなさいと、命じられましたが、菊地九郎隆直、原田大夫種直を始めとした平家に味方している連中の横領の事、源参河守範頼に朝廷の命令を出すように、頼朝様は京都朝廷へ改めてお申し出になりました。
源参河守範頼は、神社仏閣の領地を快復させなければ、京都へ戻っても意味がないので、京都へ呼んでもだめだと云ったらば、追加の後白河院の命令書をだしたので、平家から取上げた領地、種直、種遠、遠達の所領である原田、板井、山鹿以下の領地へ、地頭を任命するまでの間は、管理人を置いて、落ち着いて京都へ戻るようにと、今日、頼朝様は源参河守範頼に言いつけられました。

元暦二年(1185)七月小十五日丙申。神護寺文學房。以關東潤色。得 院奏之便。去正月廿五日捧縁起状。申下御手印之後。爲寄附寺領。於近國令煩庄薗之由有其聞。二品殊依驚思食。釋門人爭現邪狂哉。早可停止如然濫吹之由。可令下知給云々。俊兼奉行之云々。

読下し                  じんごじ    もんがくぼう   かんとう  じゅんしょく  もつ    いんぞうのびん  え
元暦二年(1185)七月小十五日丙申。神護寺@の文學房A、關東の潤色Bを以て、院奏C之便を得て、

さぬ しょうがつにじうごにち えんぎじょう   ささ    ごしゅいん  もう  くだ   ののち
去る正月廿五日、縁起状Dを捧げ、御手印Eを申し下す之後、

じりょう   きふ       ため  きんごく  をい  しょうえん  わずら せし  のよし そ きこ  あ
寺領を寄附せんF爲、近國に於て庄薗を煩は令むG之由其の聞へ有り。

にほん こと おどろ おぼ  め     よつ    しゃくもん ひといかで じゃきょう あらは  や
二品殊に驚き思し食すに依て、釋門の人爭か邪狂を現さん哉。

はやばや しか  ごと    らんすい  ちょうじすべ  のよし   げち せし  たま  べ    うんぬん  としかねこれ  ぶぎょう   うんぬん
早々と然る如きの濫吹Hを停止可し之由、下知令め給ふ可しと云々。俊兼之を奉行すと云々。

参考@神護寺は、京都市右京区高雄にある高野山真言宗別格本山の寺院。
参考A文學房は、門覚で平安時代から鎌倉時代初期にかけての真言宗の僧。弟子には上覚、明恵らがいる。俗名は遠藤盛遠(えんどうもりとお)で、元は摂津国渡辺党の武士であり、鳥羽天皇の皇女統子内親王(上西門院)に仕えていた北面の武士だった。従兄弟で同僚の渡辺渡(わたなべわたる)の妻、袈裟御前に横恋慕し、誤って殺してしまったことから出家したという。荒廃しきっていた神護寺を再興するため後白河天皇に強訴したため、渡辺党の棟梁の摂津源氏の源頼政の知行国であった伊豆国に配流された。そこで同じく配流の身だった源頼朝に平家打倒の挙兵を促す。その後、頼朝や後白河法皇の庇護を受けて各地の寺院を修復したが、頼朝が死去すると後鳥羽上皇に疎まれて佐渡国へ流罪となり客死した。ウィキペディアから。
参考B關東の潤色は、鎌倉幕府の推薦。
参考C
院奏は、後白河法皇へ申す。
参考D縁起状は、寺の成り立ちの伝記。
参考E
御手印は、縁起状に後白河法皇の手形を押してもらった安堵状の一種。
参考F
寺領を寄附せんは、頼朝から貰った領地を神護寺へ寄付をする。
参考G近國に於て庄薗を煩は令むは、神護寺領と境を接している他の荘園との境争いが揉め事の元となっている。参考H釋門は、仏門の意。
参考H濫吹は、門覚の弟子の乱暴狼藉。

現代語元暦二年(1185)七月小十五日丙申。高尾の神護寺の文覚上人は、関東のご威光を後ろ盾に後白河院への上申の機会を得たので、この間の正月二十五日に神護寺の由来書きを提出し、それに後白河院のご手印を押してもらって安堵状にしたいと申し出た後に、その威光を傘に寺の領地に寄付されたと京都の周辺の国々の荘園を横領したと噂が入りました。二品頼朝様はびっくりなさって、なんで仏道の人が領地をなんて、とち狂ったことを云っているのだ。さっさとそのようなでたらめは止めさせるようにと命じられました。筑後権守俊兼がこれを担当したのだとさ。

元暦二年(1185)七月小十九日庚子。地震良久。京都去九日午剋大地震。得長壽院。蓮華王院。最勝光院以下佛閣。或顛倒。或破損。又閑院御殿棟折。釜殿以下屋々少々顛倒。占文之所推。其愼不輕云々。而源廷尉六條室町亭。云門垣。云家屋。無聊頽傾云々。可謂不思議歟。

読下し                        ぢしん ややひさ   きょうと  さぬ ここのかうまのこくだいぢしん
元暦二年(1185)七月小十九日庚子。地震良久し。京都、去る九日午剋大地震。

とくちょうじゅいん  れんげおういん   さいしょうこういん  いげ ぶっかく  あるひ てんとう    あるひ はそん
得長壽院@、蓮華王院A、最勝光院B以下の佛閣、或は顛倒し、或は破損す。

また  かんいん ごてん むね  お     かまどの いげ おくおくしょうしょうてんとう   せんもんの すい  ところ  そ  つつし かろからず うんぬん
又、閑院C御殿は棟が折れ、釜殿以下の屋々少々顛倒Dす。占文之推す所、其の愼み輕不と云々。

しか    げんていじょう ろくじょうむろまちてい   もんがき  い   かおく   い   いささか くづ かたむ     な    うんぬん    ふしぎ   いひ  べ   か
而るに源廷尉が六條室町亭Eは、門垣と云ひ家屋と云ひ、聊も頽れ傾くこと無しと云々。不思議と謂つ可き歟。

参考@得長壽院は、平家物語「殿上闇討」に、忠盛が鳥羽院の時に得長壽院を造進して三十三間の御堂を建てとある。法住寺殿内。
参考A蓮華王院は、C盛が寄進した三十三間堂と云われる。法住寺殿内。
参考B最勝光院は、承安三年(1137)、建春門院(後白河院女御)御願として建立された。法住寺殿内。
参考C閑院は、後白河法皇の居所。法住寺殿内。
参考D顛倒は、転倒に同じ。どちらもひっくり返る、逆さまになるから顛倒の文字は荘園を横領された場合もそう表現する。
参考E六條室町亭は、左京六条二坊十二町の六条堀川西側。六条左女牛井(さめがい)。

現代語元暦二年(1185)七月小十九日庚子。地震が暫くありませんでしたが、京都では先日の九日の昼頃に大地震がありました。後白河法皇のおられる法住寺内の得長寿院、蓮華王院三十三間堂、最勝光院を始めとする仏閣が倒れたり又は壊れたりしました。又、同じ法住寺内の後白河院の居所は棟梁が折れて、厨房棟などの建築物が多少倒れました。陰陽寮が占ったところ、為政者のきちんとした正しい政治の行いが重要なんだとさ。それなのに、源廷尉〔義経〕の六条室町の屋敷では、門も築地塀も建物も、全然傾くこともなかったんだとさ。世間では源氏はなんとも無いのに、後白河法皇の建物だけが倒れたのは、なんとも不思議な話だなーと何かを感じておりました。

元暦二年(1185)七月小廿二日壬寅。日向國住人富山二郎大夫義良以下鎭西輩之可爲御家人分者。他人不可令煩之旨。今日所被成遣數通御下文也云々。

読下し                        ひゅうがのくにじゅうにん とみやまのじろうだいぶよしなが いげ ちんぜい やから
元暦二年(1185)七月小廿二日壬寅。 日向國住人@ 富山二郎大夫義良A以下の鎭西の輩。

これ ごけにん  な   べ   ぶんは  た  ひとわずあら せし べからずのむね きょう すうつう おんくだしぶみ な   つか  さる  ところなり  うんぬん
之御家人と爲す可き分者、他の人煩は令む不可之旨、今日數通の御下文を成し遣は被る所也と云々。

参考@住人は、領地を持っている豪族で、未だ御家人になっていない武士。
参考A富山二郎大夫義良は、宮崎県日向市富高山口らしい。参考數通御下文は、何人か代表的な人に宛てたのか。

現代語元暦二年(1185)七月小二十二日壬寅。日向の国(宮崎県)の豪族の富山二郎大夫義良を始めとする九州の武士達へ、頼朝様は、鎌倉の御家人となる以上は、他人の領地を横領したりしてもめたりしないように、今日、数通の命令安堵状を作成し送るようになされましたとさ。

元暦二年(1185)七月小廿三日甲辰。山城介久兼依二品之召自京都參着。是陪從也。神宴等役。當時無其人。仍態以令招下給云々。

読下し                        やましろのすけひさかね にほんの めし  よつ  きょうとよ  さんちゃく
元暦二年(1185)七月小廿三日甲辰。 山城介久兼 二品之召に依て京都自り參着す。

これ べいじゅう なり  しんえんら  やく  とうじ そ  ひと な    よつ わざわざ もつ  まね  くだせし  たま    うんぬん
是、陪從@也。神宴等の役、當時其の人無し。仍て態、以て招き下令め給ふと云々。

参考@陪從は、賀茂、石清水、春日の祭りのときなどに、舞人とともに参向し管弦や歌の演奏を行う地下(じげ)の楽人。

現代語元暦二年(1185)七月小二十三日甲辰。山城介久兼が、二品頼朝様に招かれて、京都から鎌倉へ到着しました。この人は、神社の祭りなどで演奏を行う音楽家です。現在鎌倉ではお神楽などの演奏を出来る人がいないので、わざわざ、京都から招いて下向させたんだとさ。

元暦二年(1185)七月小廿六日丁未。前律師忠快爲流人。一昨日到着伊豆國小河郷之由。宗茂申之。是平家縁坐也。

読下し                        さきのりっしちうかい るにん な     おととい いずのくに おがわごう  とうちゃくのよし  むねしげこれ  もう
元暦二年(1185)七月小廿六日丁未。前律師忠快@流人Aと爲し、一昨日伊豆國小河郷Bへ到着之由、宗茂之を申す。

これ へいけ  えんざなり
是平家の縁坐也。

参考@前律師忠快は、小河律師忠快、平教盛の子、丹波小河庄(現亀岡市小川)。
参考A
流人とは云っても、公卿の場合は役職を受けるが役はせず、役分の知行を受ける。武士の場合は、配流先の領地の上がりを生活費に受けるので宿舎は別である。頼朝は蛭ケ小島領を生活費の喝命所としての領地で生活場所ではない。
参考B伊豆國小河郷は、三島市和泉町(喝命所)。

現代語元暦二年(1185)七月小二十六日丁未。平教盛の子の前律師忠快は、流人となって一昨日伊豆の国小川郷(三島市和泉町)へ到着しましたと狩野介宗茂が報告しました。この人は平家の共犯者とされました。

元暦二年(1185)七月小廿九日庚戌。泰經朝臣消息到着。今月上旬之比。佛嚴上人夢中。赤衣人多現云。無罪之輩爲平家縁坐。多以蒙配流之罪。故有地震等云々。凡爲滅亡衆消罪。去五月廿七日被始行不断御讀經畢。然者。流罪中僧等事者。可有免許歟之由。有其沙汰。相計可令申宥給之趣也云々。

読下し                        やすつねあそん しょうそことうちゃく  こんげつじょうじゅんのころ ぶつごんしょうにん  ゆめ なか
元暦二年(1185)七月小廿九日庚戌。泰經朝臣が消息到着す。 今月上旬之比、 佛嚴上人@の夢の中に、

しゃくえ  ひとおお あらは   い       つみな   のやからへいけ えんざ   ため  おお  もつ  はいる の つみ  こうむ  いたずら じしんら あ    うんぬん
赤衣Aの人多く現れて云はく、罪無き之輩平家が縁坐の爲、多く以て配流之罪を蒙り、故に地震等有りと云々。

およ  めつぼう しょう つみ   け    ため  さぬ ごがつにじうしちにち ふだん おんどっきょう しぎょうせら  をはんぬ
凡そ滅亡の衆の罪を消さん爲、去る五月廿七日不断の 御讀經Bを始行被れ畢。

しからずんば るざいちう そうら   ことは   めんきょあ  べ    か のよし   そ    さた  あ    あいはか  もう  なだ  せし  たま  べ   のおもむきなり うんぬん
然者、流罪中の僧等が事者、免許有る可き歟之由、其の沙汰有り。相計り申し宥め令め給ふ可し之趣也と云々。

参考@佛嚴上人は、慈円の著書「愚管抄」にも登場するので、比叡山延暦寺の坊さん。
参考A赤衣は、緋(ひ)色の袍(ほう)。五位の官人の朝服。だが比叡山のお使いの赤いちゃんちゃんこを着た猿かもしれない。或いは赤は平家。
参考B不断の御読経は、途中でやめないで読経を続けること。

現代語元暦二年(1185)七月小二十九日庚戌。大蔵卿高階泰経の手紙が到着しました。今月上旬に比叡山の坊さんの仏厳上人の夢の中に赤い衣服を着た人が沢山現れて云いました。罪のない人達が平家の共犯者として、流罪の罪を着せられたので、神が怒って地震を起こしたんだとさ。そこで、死に滅んでいった人達の罪業を消してあげたくて、五月二十七日に休まず続けるお経を始めました。だから、流罪になった坊さん達を許してあげた方がいいんじゃないかと会議で検討しました。よく考えて許してあげようということになったんだとさ。

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吾妻鏡入門第四巻

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