吾妻鏡入門第四巻

元暦二年、文治元年(1185)八月大「八月十四日文治元年と爲す」

元暦二年(1185)八月大四日甲寅。前備前守行家者。二品叔父也。而度々雖被差遣于平家軍陣。終依不顯其功。二品強不令賞翫給。備州又無進參向。當時半面西國。以關東之親昵。於在々所々。譴責人民。加之。挿謀反之志。縡既發覺云々。仍相具近國御家人等。早可追討行家之由。今日被下御書於佐々木太郎定綱云々。

読下し                   さきのびぜんのかみゆきいえ は にほん  おじ なり  しか   たびたびへいけぐんじんに さ  つか  さる    いへど
元暦二年(1185)八月大四日甲寅。 前備前守行家@者、 二品が叔父也。而るに度々平家軍陣于差し遣は被ると雖も、

しまい そ   こう  あらはさず よつ   にほんあながち しょうがんせし たまはず びしゅうまた すす   さんこう な
終に其の功を顯不に依て、二品強に 賞翫 令め給不。備州又、進んで參向無し。

とうじ さいごく  はんめん   かんとうの しんぢつ   もつ    ざいざいしょしょ  をい    じんみん  けんせき
當時西國に半面Aし、關東之親昵Bを以て、在々所々に於て、人民を譴責Cす。

これ  くは   むほんのこころざし さしはさ  ことすで  はっかく   うんぬん
之に加へ、謀反之志を挿みD、縡既に發覺すと云々。

よつ  きんごく    ごけにんら   あいぐ     はやばや ゆきいえ  ついとうすべ  のよし  きょうおんしょを   ささきのたろうさだつな  くださる    うんぬん
仍て近國Eの御家人等を相具し、早々と行家を追討可し之由、今日御書於佐々木太郎定綱に下被ると云々。

参考@行家は、二品(頼朝)の父の兄弟の末っ子なので叔父。
参考A
半面は、吾妻鏡独特の言葉で、半分よそを見ている。そっぽを向いているの意味。
参考B關東之親昵は、頼朝の権威を使って。
参考C
譴責は、いじめる。
参考D謀反之志を挿みは、後白河法皇が徴発している。
参考E近國は、畿内近国の事で、ほぼ現在の近畿地方をさす。

現代語元暦二年(1185)八月大四日甲寅。前備前守行家は、二品頼朝様の叔父です。それなのに何度も平家との戦闘に行かせましたが、何時も最後にはその効力を発揮できずに負けてくるので、頼朝様は心良く思っていませんでした。行家も又、自分の方から積極的に出仕してくることも無く、そっぽをむきながらも、関東のご威光を傘に着てあちらこちらで、人々から年貢を奪ってはいじめております。そればかりか、謀反の心を持っていることがばれてしまいましたとさ。そこで、京都周辺の御家人達を集めて引き連れ、早く行家を攻め滅ぼしてしまうように、今日命令書を佐々木太郎定綱にお出しになったんだとさ。

元暦二年(1185)八月大十三日癸亥。久經國平等使者自京都參着。帶 院廳御下文。已以赴鎭西畢云々。持參彼御下文案。即所被預置俊兼也。其状云。
 院廳下 太宰府并管内諸國在廳官人等
  可早任從二位源卿使中原久經。藤原國平等下知令停止武士妨諸國諸庄委附國司領家事
 右。謀叛之輩追討之後。諸國諸庄任舊國司領家可知行之處。面々武士各々押領不能成敗之由。依有其聞。國司行國務。庄家行庄務。永停新儀。可守先規之由。去六月成廳下文。相副源卿状。差久經。國平所下遣也。早停止旁濫妨。云國衙。云庄薗。如元可令委附國司領家之状。所仰如件。太宰府及管内諸國在廳官人等。宜承知敢勿違失。故下。
   元暦二年七月廿八日         主典代織部正兼皇后宮大属大江朝臣
 別當大納言兼皇后宮大夫藤原朝臣     判官代宮内權少輔藤原朝臣
 民部卿藤原朝臣             勘解由次官兼皇后宮權大進藤原朝臣
 權中納言藤原朝臣            右少弁藤原朝臣
 參議讃岐權守平朝臣           左衛門權佐兼皇后宮大進藤原朝臣
 大藏卿兼備後權守高階朝臣        左少弁平朝臣
 右大弁兼皇后宮亮藤原朝臣
 木工頭藤原朝臣
 右馬頭高階朝臣

読下し                    ひさつね  くにひら ら  ししゃ きょうと よ  さんちゃく   いんのちょう おんくだしぶみ たい
元暦二年(1185)八月大十三日癸亥。久經、國平@等の使者京都自り參着す。院廳の 御下文を帶す。

すで  もつ  ちんぜい  おもむ をはんぬ うんぬん  も   まい   か   おんくだしぶびあん すなは としかね あずか お   らる ところなり  そ  じょう   い
已に以て鎭西へ赴き 畢と 云々。持ち參る彼の御下文案、 即ち 俊兼 預り 置か被る所也。其の状に云はく。

  いんのちょうくだ  だざいふなら   かんないしょこく   ざいちょうかんじんら
 院廳下す 太宰府并びに管内諸國Aの在廳官人等へ

    はやばや じゅにいみなもときょう つかいなかはらひさつね ふじわらくにひらら   げち  まか     ぶし   さまた   ちょうじせし
  早々と從二位 源卿Bが使 中原久經、藤原國平等が下知に任せ、武士の妨げを停止令め、

しょこくしょしょう  こくし りょうけ  まか   つ     べ   こと
諸國諸庄を國司領家Cに委しD附ける可き事

  みぎ   むほんのやからついとうののち しょこくしょしょう  むかし まか  こくし   りょうけちぎょうすべ のところ
 右は、謀叛之輩追討之後、諸國諸庄、舊に任せ國司、領家知行可き之處、

めんめん ぶし おのおのおうりょう せいばい あたはずのよし  そ   きこ  あ     よつ    こくし こくむ   おこな   しょうけしょうむ  おこな
面々に武士各々押領し成敗に不能之由、其の聞へ有るに依て、國司國務を行ひ、庄家庄務を行ひ、

なが  しんぎ   とど    せんき  まも  べ    のよし   さぬ ろくがつちょう くだしぶみ な  みなもときょう じょう あいそ
永く新儀を停め、先規を守る可し之由、去る六月廳の下文を成し、源卿の状を相副へ、

ひさつね くにひらら さ   くだ  つか  ところなり  はやばや かたがた らんぼう ちょうじ    こくが   い     しょうえん い
久經、國平を差し下し遣はす所也。早〃と旁の 濫妨を停止し、國衙と云ひ、庄薗と云ひ、

もと   ごと  こくし   りょうけ  まか  つ   せし べ   のじょう  おお  ところくだん  ごと
元の如く國司、領家に委し附け令む可し之状、仰せる所件の如し。

だざいふ およ  かんないしょこく ざいちょうかんじんら よろ    しょうち  あえ  いしつ なか    ゆえ  くだ
太宰府及び管内諸國の在廳官人等、宜しく承知し敢て違失勿れ。故に下す。

      げんりゃくにねんしちがつにじうはちにち               さかんだいおりべのしょうけんこうぐうぐうだいさかんおおえのあそん
   元暦二年七月廿八日         主典代織部正兼皇后宮大属大江朝臣

  べっとう だいなごん けんこうごうぐうたいふ ふじわらのあそん      ほうがんだいくないごんのしょうゆうふじわらのあそん
 別當大納言兼皇后宮大夫藤原朝臣(實房)  判官代宮内權少輔藤原朝臣(親經)

  みんぶのきょうふじわらのあそん                        かげゆのすけけんこうごうぐうごんのだいしんふじわらのあそん
 民部卿藤原朝臣(成範)          勘解由次官兼皇后宮權大進藤原朝臣(定經)

  ごんのちゅうなごんふじわらのあそん                     うしょうべんふじわらのあそん
 權中納言藤原朝臣             右少弁藤原朝臣(定長)

  さんぎ さぬきのかみたいらのあそん                     さえもんのごんのすけけんこうごうぐうだいしんふじわらのあそん
 參議讃岐權守平朝臣(親宗)         左衛門權佐兼皇后宮大進藤原朝臣(親雅)

  おおくらきょうけんびんごのごんのかみたかしなのあそん          さしょうべんたいらのあそん
 大藏卿兼備後權守高階朝臣(泰經)     左少弁平朝臣(基親)

  うだいべんけんこうごうぐうのすけふじわらのあそん
 右大弁兼皇后宮亮藤原朝臣(光雅)

  もくのかみふじわらのあそん
 木工頭藤原朝臣(範季)

  うまのかみたかしなのあそん
 右馬頭高階朝臣(經仲)

参考@久經・國平は、元暦二年二月五日典膳大夫中原久經近藤七國平は、頼朝の命で使節として京都へきている。
参考A太宰府并びに管内諸國は、九州の。
参考
B從二位源卿は、頼朝。
参考
C領家は、開発領主から寄進をうけた上級荘園領主。主に中央の有力貴族や有力寺社で、その権威が他からの侵害を防いでくれる。本所>領家>預所=下司VS地頭>名主>作人>小作人>在家と続き、実際の耕作は在家がする。
参考D諸國諸庄を國司領家に委しは、国の事は国衙へ、荘園は領家へ元の通りに任せる。

現代語元暦二年(1185)八月大十三日癸亥。典膳大夫中原久経と近藤七国平が京都から到着しました。後白河院の庁からの命令書を持っています。もうすでに九州へは行き終わったんだとさ。持ってきた例の命令書の写しは、直ぐに筑後権守俊兼に預けられました。その文章の内容は、

 院の庁から命令する 大宰府及び九州諸国の在庁官人(国衙の役人)へ
  早々に従二位源頼朝卿の代官の典膳大夫中原久経と近藤七国平の命令に従って、武士達の横領を止めさせ、諸国領と諸荘園をそれぞれ国司、最上級荘園領主である領家に昔の通りに年貢の徴収を任せること
 右の内容は、謀反人の平家を滅ぼした後に、諸国領と諸荘園をそれぞれ昔の通りに国司、最上級荘園領主である領家に年貢の徴収を任せるべき処にもかかわらず、勝手に武士達がそれぞれ横取りして命令を聞かないと、云って来ているので、国司は国衙領の年貢の徴収を行い、荘園領主は荘園の年貢の徴収を行い、勝手な新しい方式を止めて、昔からの規則どおりにするように、六月に院の庁の命令書を作り、それに源頼朝卿の命令書を添えて、典膳大夫中原久経、近藤七国平の両名を現地に生かせました。早々にお前達は横領を止めて、國衙も荘園も元通りに、国司や最上級荘園領主である領家に返すように命じる手紙は、後白河院の申されるとおり書いてある。
 大宰府及び九州諸国の在庁官人は、この内容を良く承知して、くれぐれも間違いの無いようにしなさい。命令する。
   元暦二年七月廿八日         主典代織部正兼皇后宮大属大江朝臣
 別当(長官)大納言兼皇后宮大夫藤原朝臣(實房) 判官代宮内權少輔藤原朝臣(親経)
 民部卿藤原朝臣(成範)          勘解由次官兼皇后宮権大進藤原朝臣(定経)
 権中納言藤原朝臣             右少弁藤原朝臣(定長)
 參議讃岐權守平朝臣(親宗)        左衛門權佐兼皇后宮大進藤原朝臣(親雅)
 大藏卿兼備後権守高階朝臣(泰経)     左少弁平朝臣(基親)
 右大弁兼皇后宮亮藤原朝臣(光雅)
 木工頭藤原朝臣(範季)
 右馬頭高階朝臣(経仲)

参考これだけの氏名を並べていても、書き判は一軒づつ持ちまわるので、恐らく半分くらい集れば身分の低い分は省略するので半分くらいであろう。

文治元年(1185)八月大十四日甲子。改元。改元暦二年爲文治元年。左大弁兼光撰進之。

読下し                    かいげん  げんりゃにねん  あらた ぶんじがんねん な     さだいべんかねみつこれ えら すす
文治元年(1185)八月大十四日甲子。改元@。元暦二年を改め文治元年と爲す。左大弁兼光之を撰び進む。

参考@改元は、地震、災害、兵革による。出典は礼記「湯以寛治民、文王以文治民」(元号事典から)武の時代から文で治めるを意識したものと思われる。

現代語文治元年(1185)八月大十四日甲子。改元しました。元暦二年を文治元年にしました。左大弁藤原兼光が之を撰び進めました。(勧申者)

文治元年(1185)八月大廿日庚午。專光房依召自伊豆國參上。是故左典厩御遺骨自京都可到着之間。可奉安南御堂之間事。爲令致沙汰也。

読下し                   せんこうぼう  め   よつ  いずのくに よ   さんじょう
文治元年(1185)八月大廿日庚午。專光房@召しに依て伊豆國自り參上す。

これ  こさてんきゅう   ごゆいこつ  きょうとよ  とうちゃくすべ  のかん  みなみみどう やすん たてまつ べ  のかん  こと     さた いた  せし ためなり
是、故左典厩の御遺骨が京都自り到着可し之間、南御堂に安じ 奉る可し之間の事を、沙汰致さ令む爲也。

参考@專光房は、專光坊良暹で、伊豆山走湯權現に仕える。旗揚げ時には政子を預かったり、鎌倉へ届けたりした。

現代語文治元年(1185)八月大二十日庚午。專光坊良暹が、頼朝様に呼ばれて、伊豆山権現からやってきました。呼んだのは、左典厩義朝様の遺骨が京都から到着するので、勝長寿院に葬るための法事を実施するためです。

文治元年(1185)八月大廿一日辛未。鹿嶋社神主中臣親廣与下河邊四郎政義。被召御前遂一决。是常陸國橘郷者。被奉寄彼社領訖。而政義以當國南郡惣地頭職。稱在郡内。押領件郷。令譴責神主妻子等。剩可從所勘之由。取祭文之旨。親廣訴申之。政義雌伏頗失陳詞。爲眼代等所爲歟之由稱之。仍停止向後濫妨。任先例可令勤行神事之趣。神主蒙恩裁。退出之後。政義猶候御前之間。仰云。政義向戰塲。殊施武勇。對親廣失度歟。尤咲之云々。政義申云。鹿嶋者守勇士之神也。爭無怖畏之思哉。仍雖有所存。故不能陳謝云々。

読下し                     かしましゃかんぬし なかとみのちかひろ と  しもこうべのしろうまさよし  ごぜん    めされ いっけつ  と
文治元年(1185)八月大廿一日辛未。 鹿嶋社神主、中臣親廣 与 下河邊四郎政義、御前に召被一决を遂ぐ@

これ ひたいのくにたちばなごう は  か  しゃりょう  よ  たてまつられをはんぬ
是、 常陸國橘郷A者、 彼の社領に寄せ奉被訖。

しか    まさよし とうごくみなみぐ  そうじとうしき  もつ    ぐんない  あ     しょう   くだん ごう  おうりゅう    かんぬし さいしら  けんせき せし
而るに政義、當國南郡B惣地頭職を以て、郡内に在りと稱し、件の郷を押領し、神主妻子等を譴責C令む。

あまつさ しょかん したが べ   のよし  まつりぶみ と   のむね  ちかひろこれ うった もう    まさよし しふく   すこぶ ちんし  うしな
剩へ所勘に從ふ可しD之由、祭文を取るE之旨、親廣之を訴へ申す。政義雌伏し頗る陳詞を失ひF

もくだいら   しわざ  たるか のよし  これ  しょう
眼代等の所爲
G爲歟之由、之を稱す。

よつ  こうご   らんぼう  ちょうじ    せんれい まか  しんじ  ごんぎょうせし べ のおもむき  かんぬしおんさい こうむ
仍て向後の濫妨を停止し。先例に任せ神事を勤行令む可し之趣、神主恩裁を蒙る。

たいしゅつののち まさよしなおごぜん そうら のかん
退出之後、政義猶御前に候う之間、

おお    い       まさよしせんじょう むか     こと  ぶゆう   ほどこ   ちかひろ たい  ど   うしな  か  もつと これ  わら   うんぬん
仰せて云はく。政義戰塲へ向ひて、殊に武勇を施す。親廣に對し度を失う歟。尤も之を咲うと云々。

まさよし もう    い
政義申して云はく、

かしましゃは ゆうし  まも  のかみなり  いかで ふい の おもい な       や   よつ  しょぞん あ   いへど   いたずら ちんしゃ あたはず うんぬん
鹿嶋者勇士を守る之神也。爭か怖畏之思を無からん哉。仍て所存有ると雖もH、故にI陳謝に不能と云々。

参考@御前に召被一决を遂ぐは、御前対決だが、通常その前に三問三答をする。
参考A常陸國橘郷は、茨城県小美玉市与沢に橘小学校あり。また、橘小から1km程南の行方市羽生に橘郷造神社あり。弟橘姫伝説有り。
参考B當國南郡は、石岡市・小美玉市・行方市など。
参考C
譴責は、年貢の支払いをとがめ攻めること。
参考D所勘に從ふ可しは、云うことを聞け。つまり、無報酬の労働を要求する。
参考E祭文を取るは、起請文を取る。
参考F陳詞を失ひは、弁解の言葉もなく。
参考G眼代等の所爲は、代官たちの仕業。
参考H所存有ると雖もは、こちらにもこちらの言い分や理由はあるけれども。
参考I故には、わざわざと。

現代語文治元年(1185)八月大二十一日辛未。鹿島神宮の神主の中臣親広と下河辺四郎政義の二人を、頼朝様はお呼び出しになり、御前対決をさせました。「これは、常陸の国橘郷(茨城県小美玉市与沢)は、鹿島神宮の領地に寄付されたところです。ところが、下河辺四郎政義は常陸の国南半分の総地頭職なので、その郡の内にあるとこじつけて、そこへ踏み込んできて、年貢を無理やり取上げました。そればかりか、無報酬の労働を強要して起請文まで取られました」と、親広は訴えてきました。下河辺四郎政義は弁解の言葉もなく、代官たちの仕業かと思うと云いました。それなので、今後は横取りはやめさせるので、今までどおりに神事を尽くすようにとの内容の、恩ある裁決を神主は受けました。神主が退出した後も、下河辺四郎政義は御前に残っていたので、頼朝様が仰せになられたのは「下河辺四郎政義は戦場へ出たならば、人並みはずれた武勇を表すのに、親広に対しては妙に神妙だったじゃないか。」とお笑いになられました。下河辺四郎政義は答えて「鹿島神宮は武勇の勇士を守ってくれる神様なので、武士の私としては見放されることをなんで恐れないことが有りましょうか。こちらにもこちらの言い分は有りますけれど、ここはわざわざ弁解をする場合じゃありませんよ。」だとさ。

文治元年(1185)八月大廿三日癸酉。爲久自京都又參着。爲新造御堂畫圖也。

読下し                    ためひさ    きょうと よ  またさんちゃく   しんぞうみどう  しょが   ためなり
文治元年(1185)八月大廿三日癸酉。爲久@、京都自り又參着す。新造御堂Aの畫圖Bの爲也。

参考@爲久は、京都宅間流絵師の家の次男だが、兄は京都宅間流を継ぎ、弟は鎌倉に残り住み、報国寺の谷に住んだので宅間谷(たくまがやつ)と云う。
参考A新造御堂は、勝長寿院で南御堂、大御堂とも云う。
参考B
畫圖とは、須弥段の仏像の後ろの壁に描く絵。

現代語文治元年(1185)八月大二十三日癸酉。宅間爲久が京都から参上しました。勝長寿院の壁画を描くためです。

文治元年(1185)八月大廿四日甲戌。下河邊庄司行平蒙歸參御免。自鎭西去夜參着。是相副參州。發向西海竭軍忠訖。同時所被遣之御家人等。不堪經廻而多以歸參。行平于今在國。有御感云々。今日參營中。献盃酒。二品出御。武州。北條殿已下群參。行平稱九國第一進弓一張之處。仰曰。無左右難領納之。遣鎭西之東士悉無粮而弃大將軍。多以歸參畢。汝所領与西海已隔數ケ月行程也。全乘馬參上。猶可謂不思議。剩勸盃酒。献土産。於彼國不取人之賄者。爭有如此之貯乎。奇恠也者。行平陳申云。在國之程失兵粮之計。經日數之間。爲扶郎從等。令沽却彼輩之甲冑以下物具訖。而渡豊後國之時者。傍輩皆恃參州御船。行平敢不顧私存忠之故。爲任先登於意。以纔所殘置之自分鎧。相博小舟。雖不着甲冑。棹船最前着岸。入敵先陣。討取美氣三郎。凡毎度竭功之條。大將軍見知分明也。今依召欲參之處。無進物事違所存。此弓於九國名譽之由。兼以風聞。其主不慮之外沽却之。行平喜之。折節着小袖二領。仍一領脱之替之。于時參州祗候人等爲餞別來會。見此事頻感之。可被召尋歟。次獻盃酒事者。留置下総國之郎從矢作二郎。鈴置平五等。用意旅粮。來向于途中。以之令宛經營料。全不貪他物云々。二品具令聞之給。浮感涙喜其志給。仰曰。行平。日本無雙弓取也。見知宜弓之條。不可過汝之眼。然者可爲重寳者。則召廣澤三郎令張之。自引試給。殊相叶御意之由被仰。直賜御盃於行平。仰曰。西國者大底見之歟。依今度勳功。欲宛行一國守護職。何國哉可請者。行平申云。播磨國有須磨(王+取、王+磨)明石等之勝地。有如書寫山之靈塲。尤所望云々。早可有御計之由被諾仰云々。

読下し                    しもこうべのしょうじゆきひら きさん ごめん  こうむ     ちんぜいよ  さぬ  よ さんちゃく
文治元年(1185)八月大廿四日甲戌。下河邊庄司行平歸參の御免を蒙り@、鎭西自り去る夜參着す。

これ  さんしゅう あいそ    さいかい  はっこう  ぐんちう  つく をはんぬ どうじ  つか  さる  ところの  ごけにんら   けいかい  たへず  て おお  もつ  きさん
是、參州に相副へ、西海へ發向し軍忠を竭し訖。同時に遣は被る所之御家人等、經廻に堪不Aし而多く以て歸參すB

ゆきひら いまに ざいこく  ぎょかん あ   うんぬん  きょう えいちう   さん    はいしゅ  けん    にほんしゅつご  ぶしゅう  ほうじょうどの いげ ぐんさん
行平、今于在國C御感有りと云々。今日營中に參じ、盃酒を献ず。二品出御D。武州、北條殿已下群參す。

参考@御免を蒙りは、許可を得て。
参考A
經廻に堪不は、駐屯していることが出来なくて。
参考B
多く以て歸參すは、皆勝手に帰ってきてしまった。
参考C今于在國は、今まで駐屯していたことに。
参考D
二品出御は、頼朝が侍所へ出てきた。

ゆきひら きゅうこくだいいち しょう ゆみひとはり すす のところ  おお   いは     そう な    これ  りょうのう がた
行平、九國第一と稱す弓一張を進む之處。仰せて曰く。左右無くE之を領納し難し。

ちんぜい つか    の とうし ことごと りょうな して  だいしょうぐん す     おお  もつ  きさん  をはんぬ
鎭西に遣はす之東士、悉く粮無く而F大將軍を弃て、多く以て歸參しG畢。

なんじ しょりょう とさいかいすで すうかげつ  こうてい  へだて なり  じょうば まっとう  さんじょう     なほ ふしぎ   いひ  べ
汝の所領H与西海已に數ケ月の行程を隔る也。乘馬を全しI參上すは、猶不思議と謂つ可し。

あまつさ はいしゅ すす   みやげ  けん    か  くに   をい ひとのまかない とらずんば  いかでか かく  ごと  のたくわへ あらん  きっかいなり てへれば
剩へ盃酒を勸め、土産を献ず。彼の國に於て人之賄を取不者、爭か此の如き之貯へ有乎。奇恠也J者。

ゆきひらちん  もう     い       ざいこくのほど   ひょうろうのはかり うしな   ひかず  へ   のかん  ろうじゅうら  たす    ため
行平陳じ申してK云はく。在國之程L、兵粮之計を失ひ、日數を經る之間、郎從等を扶けん爲、

か  やからのかっちゅういげ  もののぐ こきゃくせし をはんぬ しか   ぶんごのくに わた  のときは  ぼうはいみなさんしゅう おふね  たの
彼の輩之甲冑以下の物具を沽却令めM訖。而して豊後國へ渡る之時者、傍輩皆參州の御船を恃む。

ゆきひらあえ わたし かえりみずちう ぞん  のゆえ  せんと を い   まか     ため  わずか のこ  お  ところの じぶん よろい  もつ  こぶね  そうばく
行平敢て私を不顧忠を存ずる之故、先登於意に任せんN爲、纔に殘し置く所之自分の鎧を以て小舟と相博Oし、

かっちゅう きせず  いへど   ふね  さお    さいぜん  きし  つ     てき  せんじん  い       みけのさぶろう   う   と
甲冑を着不と雖も、船に棹さし最前に岸へ着き、敵の先陣に入りて、美氣三郎Pを討ち取る。

およ  まいど こう  かつ    のじょう  だいしょうぐん げんち  ぶんめいなり  いまめし  よつ  さん      ほつ    のところ  しんもつな  ことしょぞん  たが
凡そ毎度功を竭する之條、大將軍の見知Qに分明也。今召に依て參ぜんと欲する之處、進物無き事所存に違う。

こ   ゆみきゅうこく をい  めいよの  よし  かね  もつ  ふうぶん    そ   ぬし ふりょのほか   これ  こきゃく
此の弓九國に於て名譽R之由、兼て以て風聞す。其の主不慮之外Sに之を沽却す

ゆきひらこれ よろこ  おりふしこそでにりょう  き     よつ いちりょうこれ ぬ   これ  かえ
行平之を喜び、折節小袖二領を着る。仍て一領之を脱ぎ之に替る。

ときにさんしゅう  しこうにん ら せんべつ  ためきた  あ      こ   こと  み   しきり これ  かん    めしたずねらる べ  か
時于參州の祗候人等餞別の爲來り會い、此の事を見て頻に之を感ず。召尋被る可き歟

つぎ  はいしゅ  けん    ことは  しもふさのくに とど  お   の ろうじゅうやはぎのじろう  すずおきのへいごら   りょりょう  ようい     とちゅうに きた むか
次に盃酒を獻ずる事者、下総國に留め置く之郎從矢作二郎、鈴置平五等、旅粮を用意し、途中于來り向う。

これ  もつ  けいえい かて  あてせし   まった  た  もの むさぼらず うんぬん
之を以て經營の料に宛令む。全く他の物を貪不と云々。

参考E左右無くは、考え無しに安易に。
参考F粮無く而は、食料がなくなって。
参考G
將軍を弃て、多く以て歸參しは、将軍の範頼の云うことを聞かずに勝手に帰ってきてしまった。
参考H汝の所領は、行平の下河邊庄で荒川の下流域。旧千代田村(現土浦市内)、石岡市、小美玉市(旧小川町三里町玉里村)。
参考I乘馬を全しは、他の連中は馬を食料の為に売ってしまっている。
参考J
奇恠也は、とんでもないことをする。
参考K陳じ申しては、弁解をして言うのには。
参考L
在國之程は、九州に居る間に。
参考M彼の輩之甲冑以下の物具を沽却令めは、部下達の鎧兜を売ってしまった。与えてはいるものの、その物権は主人が持っているようである。
参考N先登於意に任せんは、先陣を切りたいので。
参考O相博は、交換。
参考P美氣三郎は、美氣三郎敦種で福岡県大牟田市大字三池。
参考Q見知は、現知で大将が手柄を見知る事。現知状。軍巧状。
参考R九國に於て名譽は、九州では名高い有名な逸品。
参考S不慮之外には、思いがけなく。
参考㉑
之を沽却すは、売りに出した。
参考㉒
參州の祗候人は、源參河守範頼直轄の個人的家来。
参考㉓餞別の爲來り會いは、別れにはなむけに来て。
参考㉔
召尋被る可き歟は、聞いてみてください。
参考㉕矢作二郎は、千葉県千葉市中央区矢作町か?

にほん  つぶさ これ き   せし  たま    かんるい うか  そ こころざし よろこ たま
二品、具に之を聞か令め給ひ、感涙を浮べ其の志を喜び給ふ。

おお    いは    ゆきひら にほん むそう   ゆみとりなり  よろ    ゆみ   みし   のじょう   なんじのめ  すぐ  べからず
仰せて曰く、行平は日本無雙の弓取也。宜しき弓を見知る之條、汝之眼に過る不可

しからば ちょうほうたるべきてへり すなは ひろさわのさぶろう  め これ はらせし   みづか ひ    ため  たま
然者、重寳爲可者、 則ち廣澤三郎を召し之を張令め、自ら引いて試し給ふ。

こと  ぎょい   あいかな  のよし  おお  られ  じき おんさかづきをゆきひら たま     おお    いは    さいごくは たいていこれ  み   か
殊に御意に相叶う之由、仰せ被、直に御盃於行平に賜はる。仰せて曰く、西國者大底之を見る歟。

こ   たび くんこう   よつ    いっこく  しゅごしき   あておこな    ほつ    いず   くに  や こ   べ   てへ    ゆきひらもう    い
今の度の勳功に依て、一國の守護職を宛行はんと欲す。何れの國を哉請ふ可き者り。行平申して云はく。

はりまのくに  すま     あかし ら の しょうち あ    しょしゃやま の ごと  れいじょう あ   もっと  しょもう   うんぬん
播磨國に須磨、明石等之勝地有り。書寫山之如き靈塲有り。尤も所望すと云々。

はや おんはか  あ   べ   のよし だく  おお  らる    うんぬん
早く御計り有る可し之由諾し仰せ被ると云々。

参考㉖無雙のは、二人と居ない。
参考㉗宜しき弓を見知る之條は、弓の良し悪しを見分ける力。
参考㉘汝之眼に過る不可は、あなた以上の目利きは居ない。
参考㉙廣澤三郎は、廣澤三郎實高で上野国広沢御厨。現群馬県桐生市広沢町。
参考㉚一國の守護職を宛行はんは、播磨守に頼朝が任命したことになるが、この時点では頼朝に守護任命権はないので、後年の書き足しかも知れない。
参考㉛須磨は、兵庫県須磨市須磨浦。
参考㉜明石は、兵庫県明石市大明石町。
参考㉝
書寫山は、兵庫県姫路市書写山2968円教寺

現代語文治元年(1185)八月大二十四日甲戌。下河辺庄司行平が帰郷の許可を得て、九州から夕べ鎌倉へ帰り着きました。この人は、源参河守範頼に付き添って九州へ派遣され、戦においてずいぶんと活躍をしました。同様に派遣された御家人達は、食料に行き詰まり駐屯出来なくなって、多くの者が勝手に帰ってきてしまいました。
しかし、行平は今まで頑張って九州に駐屯していたことは、大したものだと頼朝様は感心しましたとさ。そして、今日御所に参上して、お酒を献上しました。頼朝様は会見場へお出ましになり、武州大内武蔵守義信と北条四郎時政殿以下の御家人が沢山参上しております。
行平は、九州一といわれる弓を一張献上しましたら、頼朝様がおっしゃるには、「考えなく安易にこれは受け取るわけにはいかないな。九州に派遣した関東の武士は、皆兵糧米がなくなって、大将軍の範頼の云うことを聞かずに、殆どが勝手に帰ってきてしまった。お前の所領の下河辺庄と九州とでは、数ヶ月の旅程を必要とする距離が離れたいる。皆兵糧米を得るために軍馬を売り飛ばしていると云うのに、乗馬も売らずにちゃんと乗って帰ってきたのは、尚更不思議だと云わざるを得ない。ましてや、酒をすすめて、土産を献上する。それは、九州で地元民から袖の下を取らなければ、どうしてこれほどの蓄えがあろうか。とんでもないことをしたんだろう。」と云えば、行平が弁解をして言うには、周防に駐屯している時に兵糧米を入手する方法がなくなって、数日経って部下達を養わなくてはならないので、部下達の鎧兜を始めとする武器類を売り飛ばしました。そして豊後(大分県)へ渡る時は、戦友達は皆、源参河守範頼様支配の船への便乗を頼みました。行平はあえて自分の事はさておいて、軍功を考えているので、一番乗りをするために、やっと残しておいた自分の鎧を出して小船と交換して、鎧兜を着ないまま船を出港させて、一番に岸に着いて敵の先陣へ攻め込んで、美気三郎を討ち取りました。何時でも手柄を立てていたことは、将軍源參河守範頼様のご覧になったとおり明かです。今、お呼びを受けて参上しようとしましたが、何にも手土産がないのは無作法なので、この弓は九州においては名高い逸品の弓だと噂を聞いていました。その持ち主が思いがけずに売りに出したので、行平はこれを喜んで、たまたま小袖を二枚着ていたので、一枚を脱いでこれと交換しました。その後、参河守範頼様の部下達が別れの挨拶に来て、このことを見てさかんに感心してくれましたので、お呼びになり確認してください。次に酒を勧めたことは、下総の所領に残していった家来の
矢作二郎、鈴置平五達が食料を用意して来るのに途中で出合ったので、これを宴会の一部に充てる事にしました。決して他から奪うようなことはしておりません。」
頼朝様は、一部始終を聞かれて、嬉し涙を浮かべてそのけなげさを喜ばれ、おっしゃられるのは、「行平は、日本一の弓取りである。弓の良し悪しを見極めるのにお前以上の目利はいやしない。それならば大変な宝物である。」と云いながら、広沢三郎に命じて糸を張らして、自分で引いて試されていました。
特にお気に入られたとおっしゃられ、直接盃を行平にお与えになられおっしゃられるのには、「関西から西の国も手中に収めたので、今回の手柄により、一国の守護職を与えようと思うのだけれど、何処の国を欲しいか。」と云えば、行平は云いました。「播磨国(兵庫県)には須磨や明石などの景勝地があります。又、書写山円教寺のような霊場もありますので、一番欲しいところですね。」だとさ。早めに手立てをしようと承諾の言葉を仰せになられましたとさ。

文治元年(1185)八月大廿七日丁丑。午剋。御靈社鳴動。頗如地震。此事先々爲怪之由。景能驚申之。仍二品參給之處。寳殿左右扉破訖。爲解謝之。被奉納御願書一通之上。巫女等面々有賜物〔各藍摺二段歟〕。被行御神樂之後還御云々。

読下し                     うまのこく ごれいしゃ めいどう    すこぶ ぢしん   ごと
文治元年(1185)八月大廿七日丁丑。午剋。御靈社@鳴動す。頗る地震の如し。

こ   こと  さきざき    けたる   な    のよし  かげよしこれ おどろ もう    よつ  にほんさん  たま  のところ  ほうでん  さゆう  とびら やぶ をはんぬ
此の事、先々から怪みを爲す之由、景能之を驚き申す。仍て二品參じ給ふ之處、寳殿の左右の扉が破れ訖。

これ  げしゃ      ため  ごがんしょいっつう おさ  たてまつらるのうえ   みこら  めんめん おくりもの〔おのおのあいずりにたんか〕
之を解謝Aせん爲、御願書一通を納め奉被る之上、巫女等面々に賜物〔各藍摺二段歟〕有り。

 おかぐら   おこな らる  ののち かんご    うんぬん
御神樂Bを行は被る之後還御すと云々。

参考@御靈社は、鎌倉権五郎景政を祀った神奈川県鎌倉市坂の下4-9御霊神社。なお、同じ祭神で同名の御霊神社が@藤沢市宮前が一番古いと言われ。A藤沢市川名656B鎌倉市梶原1-12-27C栄区長尾台町372D横浜市泉区中田北3-42-1E戸塚区汲沢町1273(五霊神社)等に分祀したようである。
参考A解謝は、謝る。
参考B御神樂は、踊りを踊って神様を喜ばせるもの。

現代語文治元年(1185)八月大二十七日丁丑。昼頃に、御霊神社が揺れました。まるで地震かと思うほどです。この事を以前からおかしいなと思っては居ましたと大庭平太景能が驚きながら云って来ました。そこで二品頼朝様は出かけていって見たところ、本殿の左右の扉が壊れて開いていました。これは神様にお詫びしなくてはいけないので、祈願の封書を一通納めた上で、巫女などの神社関係者に贈り物〔それぞれに藍で染めた反物を二反らしい〕を賜り、お神楽を奉納した後で帰りましたとさ。

文治元年(1185)八月大廿八日戊寅。二品被進御書於京都。是葛上神湯兩庄事。可被下 院廳御下文之由也。勅使河原後三郎爲使節上洛云々。

読下し                    にほん おんしょを きょうと  すす らる
文治元年(1185)八月大廿八日戊寅。二品御書於京都へ進め被る。

これ  かつじょう しんとうりょうしょう こと いんのちょうおんくだしぶみ くださる べ  のよしなり  てしがわらのごさぶろう  しせつ   な   じょうらく    うんぬん
是、葛上@、神湯兩庄の事、 院廳御下文を 下被る可し之由也。勅使河原後三郎A使節と爲し上洛すと云々。

参考@葛上は、奈良県御所市佐田に葛上中学校あり。参考神湯は、不明。
参考A勅使河原後三郎は、勅使河原三郎有直かその子で勅使河原小三郎宣直か。後三郎は十三男で十三郎とか余三郎とも呼ばれるが、この場合は三郎の三郎で小三郎を指すと思われる。勅使河原は武蔵七党の丹党。埼玉県児玉郡上里町勅使河原。

現代語文治元年(1185)八月大二十八日戊寅。二品頼朝様は、お手紙を京都へ送られました。これは、葛上と神湯の二つの荘園の後白河院の庁の命令書を出してもらう為です。勅使河原小三郎宣直が派遣人として京都へ上洛しましたとさ。

文治元年(1185)八月大廿九日己卯。去十六日有小除目。其聞書今日到來。源氏多以承 朝恩。所謂義範〔伊豆守〕惟義〔相摸守〕義兼〔上總介〕遠光〔信濃守〕義資〔越後守〕義經〔伊予守〕等也。義經朝臣官職事。於以前者。二品頻雖被傾申。至今度豫州事者。去四月之比。内々被付泰經朝臣畢。而彼不義等雖令露顯。今更不能被申止之。偏被任 勅定云々。其外五ケ國事者。任人面々直懇望申之間。且募勳功之賞。且爲添二品眉目。殊所及嚴密御沙汰也云々。各可令知行國務之由云々。是當時關東御分國也。

読下し                    さんぬ じうろくにち こじもく   あ     そ  ききがき きょう とうらい    げんじ おお  もつ  ちょうおん うけたまは
文治元年(1185)八月大廿九日己卯。去る十六日小除目@有り。其の聞書A今日到來す。源氏多く以て朝恩を承る。

いはゆる よしのり  〔いずのかみ〕  これよし 〔さがみのかみ〕 よしかね 〔かずさのすけ〕 とおみつ 〔しなののかみ〕  よしつぐ 〔えちごのかみ〕 よしつね 〔いよのかみ〕  ら なり
所謂、義範B〔伊豆守〕惟義〔相摸守〕 義兼〔上總介〕 遠光C〔信濃守〕義資〔越後守〕 義經〔伊予守〕等也。

よしつねあそん  かんしょく こと    いぜん  をい  は   にほんしきり かたぶ もうさる    いへど   このたび よしゅう  こと  いた    は
義經朝臣が官職の事は、以前に於て者、二品頻に傾け申被ると雖も、今度の豫州が事に至りて者、

さんぬ しがつの ころ  ないない やすつねあそん ふせられをはんぬ しか   か    ふぎら  ろけんせし   いへど   いまさらこれ  もう  と   られあたはず
去る四月之比、内々に泰經朝臣に付被畢。 而るに彼の不義等露顯令むと雖も、今更之を申し止め被不能。

ひとへ ちょくじょう まか らる    うんぬん  そ   ほか  ごかこく   ことは  にんにんめんめんじき  こんもう  もう   のかん   かつう くんこうのしょう  つの
偏に勅定に任せ被ると云々。其の外の五ケ國の事者、任人面々直に懇望し申す之間、且は勳功之賞に募り、

かつう にほん  びもく   そえ  ため  こと  げんみつ  おんさた  およ ところなり  うんぬん
且は二品の眉目Dに添ん爲、殊に嚴密の御沙汰に及ぶ所也と云々。

おのおの こくむ ちぎょうせし  べ    のよし  うんぬん  これ  とうじ かんとうごぶんこく なり
各、國務を知行令む可し之由と云々。是、當時關東御分國E也。

参考@小除目は、朝廷の臨時の人事異動任命。
参考A
聞書は、大臣、参議等が決めていく人事を書記係が聞きながら書いた書類。
参考B義範は、山名伊豆守義範。新田義重の私生児で高崎市山名町。
参考C遠光は、加々美信濃守遠光。信濃へ転任し、小笠原と名乗る。
参考D二品の眉目は、推薦されているのは清和源氏で同属待遇を受ける御門葉で「源」と名乗っても良いし、公文所を作っても良い。
参考E關東御分國は、頼朝が国司を推薦できる関東知行国。八カ国。

現代語文治元年(1185)八月大二十九日己卯。先の十六日に京都朝廷で臨時の人事異動があり、その書記係りの書き出しが到着しました。
源氏の一族の多くが任命をされました。それは、山名義範が伊豆守。大内惟義が相模守。足利義兼が上総介。加々美遠光が信濃守。安田義資が越後守。九郎義経が伊予守などです。
義経殿の官職については、前には頼朝様は渋っていましたが、今度の義経の叙任は先だっての四月に、内々で大蔵卿高階泰経殿に話をしておかれました。それなのに今頃になって反逆が露見しましたが、今更中止しろとは云えないので、人事通知書のとおりにしましたとさ。
その他の五カ国の事は、任命された人が希望したことなので、一つは合戦の恩賞として、一つは頼朝様のご威光のために、絶対にそうするように厳しく催促したのだとさ。それぞれ、自分の任命された国をきちんと治めるようにとの事でした。これは、現在の頼朝様が朝廷からその当地を任された関東御分国です。

文治元年(1185)八月大卅日庚辰。二品御素意偏以孝爲本之處。未盡水菽之酬。而平治有事。嚴閤夭亡給之後。以毎日轉讀法花經。被備没後追福。而令極榮貴給之今。被企一伽藍作事。可安先考御廟於其地之由。存念御之間。潜被伺奏此由。 法皇亦叡感勳功之餘。去十二日仰刑官。於東獄門邊被尋出故左典厩首。相副正C〔号鎌田二郎兵衛尉〕首。江判官公朝爲勅使被下之。今日公朝下着。仍二品爲令奉迎之。參向固瀬河邊給。御遺骨者文學上人門弟僧等奉懸頚。二品自奉請取之還向。于時改以前御裝束。〔練色水干〕着素服給云々。又播磨國書冩山事。二品御歸依異于他。性空上人聖跡。不断法花經轉讀之靈塲也。尤如舊可被興行之由。先度粗被仰泰經朝臣之許畢。重可被奏逹之旨。今日内々及御沙汰云々。

読下し                   にほん   ごそい   ひとへ こう   もつ   ほん  な   のところ  いま すいしゅくのむくい  つく
文治元年(1185)八月大卅日庚辰。二品が御素意、偏に孝@を以て本と爲す之處、未だ水菽之酬Aを盡さず。

しか    へいじ   こと あ      げんこう ようぼう  たま   ののち  まいにちてんどく   ほけきょう  もつ    ぼつご  ついぶく  そな  らる
而るに平治に事有りB。嚴閤C夭亡し給ふ之後、毎日轉讀Dの法花經を以て、没後の追福Eに備へ被る。

しか    えいき   きは  せし  たま   のいま  いちがらん   さくじ   くはだ らる  せんこう  ごびょうを そ  ち   やす    べ   のよし
而して榮貴を極め令め給ふ之今、一伽藍Fの作事を企て被、先考の御廟於其の地に安んず可し之由、

ぞんねん たま  のかん  ひそか こ   よし うかが たてまつらる
存念し御ふ之間、潜に此の由を伺い奏被るG

参考@は、親孝行。
参考A
水菽之酬は、中国で水を呑んで、豆を食べて金を貯め、親の墓を作ったと云う親孝行の逸話。
参考B平治に事有りは、厭な事があったので忌み言葉で「事」の一言で終わらしている。
参考C
嚴閤は、左典厩義朝。
参考D轉讀は、本来お経を飛ばし読みにすることだが、アコーデオンのように片手から片手へお経を飛ばす。反語は真読。
参考E追福は、菩提を弔う。
参考F
一伽藍は、お寺。
参考G
伺い奏被るのは、後白河法皇へ。

ほうおうまたくんこう  えいかんのあま   さんぬ じうににち けいかん  おお     ひがし ごくもんへん をい  こさてんきゅう  くび  たず  い    られ
法皇亦勳功を叡感之餘り、去る十二日刑官に仰せて、東の獄門邊に於て故左典厩Hの首を尋ね出で被、

まさきよ 〔かまたのじろうひょうえのじょう ごう   〕    くび  あいそ    えの ほうがんきんとも ちょくし  な   これ  くださる    きょう きんともげちゃく
正C〔鎌田二郎兵衛尉と号す〕の首を相副へ、江I判官公朝を勅使と爲し之を下被る。今日公朝下着す。

よつ  にほん これ むか たてまつらせし ため  かたせがわ へん さんこう  たま   ごゆいこつは  もんがくしょうにん もんていそうら くび  か  たてまつ
仍て二品之を迎へ奉令めん爲、固瀬河J邊へ參向し給ふ。御遺骨者、文學上人Kが門弟僧等頚に懸け奉る。

にほんみづか これ う    と たてまつ げんこう    ときに いぜん  ごしょうぞく 〔 ねりいろ すいかん〕  あらた  そふく   きたま    うんぬん
二品自ら之を請け取り奉り還向す。時于以前の御裝束〔練色L水干〕を改め素服Mを着給ふと云々。

また  はりまのくにしょしゃやま  こと  にほん   ごきえ  た に ことな   しょうくうしょうにんせいせき  ふだんのほけきょうてんどくの れいじょうなり
又、播磨國書冩山Nの事、二品が御歸依他于異り、 性空上人聖跡、 不断法花經轉讀之靈塲也。

もっと むかし ごと  こうぎょうさる  べ   のよし  せんどあらあら やすつねあそんの もと  おお  られをはんぬ
尤も舊の如く興行被るO可し之由、先度粗、 泰經朝臣之許へ仰せ被畢。

かさ    そうたつさる  べ   のむね  きょう ないない  ごさた    およ    うんぬん
重ねて奏逹被る可し之旨、今日内々に御沙汰に及ぶと云々。

参考H左典厩は、左馬頭の唐名。
参考Iは、大江。
参考J
固瀬河は、片瀬川。
参考K
文學上人は、門覚上人。
参考L練色は、薄い黄色を帯びた白色。淡黄色。
参考M
素服は、白い服。
参考N書寫山は、兵庫県姫路市書写山2968円教寺。康保3年(966)性空上人の開創である。
参考O舊の如く興行被るは、昔のように復興させる。

現代語文治元年(1185)八月大三十日庚辰。二品頼朝様のご心情は、ひたすら親孝行を本心としておりますが、未だ父親の墓を作る孝行をしておりません。しかし、平治の乱で父の左典厩〔義朝〕が死んでしまった後、流人として毎日法華経を飛ばし読みする転読をして、その供養をしておられました。
その後、天下を平定して官職も二位にあがり出世した今、菩提を弔うお寺を建立して、そこに亡き父の立派なお堂を建てて葬ってやりたいと考えて、内々に後白河法皇に相談をされました。後白河法皇も平家討伐の手柄を感じられて、先日の十二日に刑罰の担当官に命じて、東の獄舎(刑務所)の門の辺りで、左典厩義朝様のしゃれこうべを見つけ出して、正清〔鎌田二郎兵衛尉と云う〕のしゃれこうべも一緒に大江判官公朝を天皇家の使者としてこれを持たせました。
今日、その公朝が鎌倉へ到着しました。そこで二品頼朝様はこれを出迎えて受け取るために、片瀬川の辺りまで出かけました。ご遺骨は文覚上人の弟子の坊さんが首に掛けて来ました。頼朝様はこれを受け取って幕府へ帰りました。戻ると今まで着ていた着物〔淡黄色の水干〕から清浄な白い着物に着替えられましたとさ。
また、播磨国書写山は、頼朝様の信仰は特に深く、
性空上人が開創され、法華経の転読を休みなく続けている天下の霊場です。それを昔のように復興させるよう援助をすべきだと、何度か関東お取次ぎの大蔵卿高階泰経に伝えられました。なお、重ねて後白河法皇に申し上げるように、今日内々に連絡を出させましたとさ。

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