吾妻鏡入門

文治元年(1185)十月大

文治元年(1185)十月大三日壬子。南御堂供養間導師請僧等布施諸方進物。且覽之。其間事令談合左馬頭給。又爲御分并布施取等。裝束廿餘具自京都被召下。義勝房相具之去夜參着。仍今日被支配所役人々云々。因幡前司。筑後權守等奉行之。

読下し                 みなみみどう くよう  かん   どうし しょうそう ら   ふせ   しょほう  しんもつ かつう これ  み
文治元年(1185)十月大三日壬子。南御堂@供養の間A、導師B請僧C等が布施、諸方の進物、且は之を覽る。

 そ  かん  こと  さまのかみ だんごう せし  たま    また  ごぶんなら     ふせとり ら    ため  しょうぞくにじうよぐ きょうとよ   まね  くださる
其の間の事、左馬頭Dに談合E令め給ふ。又、御分F并びに布施取G等の爲の裝束廿餘具を京都自り召き下被る。

ぎしょうぼう これ  あいぐ  さんぬ よさんちゃく   よつ  きょう しょやく  ひとびと  しはい さる   うんぬん  いなばのぜんじ ちくごごんのかみらこれ  ぶぎょう
義勝房H之を相具し去る夜參着す。仍て今日所役の人々に支配I被ると云々。因幡前司、筑後權守等之を奉行す。

参考@南御堂は、勝長寿院。
参考A
供養の間は、完成祝賀会の。
参考B
導師は、式典でお経を読む指揮者の坊さん。
参考C
請僧は、供の坊主。
参考D左馬頭は、一条能保。頼朝の義理の兄。
参考E談合は、相談をする。
参考F御分は、頼朝自身の分。
参考G布施取は、布施を渡す役だが、この布施を渡すまでが儀式のうち。
参考H
義勝房は、義勝房成尋で九月二日に買い揃える為に京都へ行っている。
参考I支配は、配る。元々は配るの意味が税金の納付分を配り通知するから、現在の支配をするに変わった。

現代語文治元年(1185)十月大三日壬子。南御堂勝長寿院の完成祝賀会の式典指導僧やお供の坊さん達へのお布施や、あちこちへの引き出物を見たり、式典の礼儀などを左典厩一条能保様に相談なさいました。また、式典用の自分の分と布施を差し出す役の人の衣装など二十数点を京都から取り寄せてくれました。義勝房成尋がこれ等を携えて昨夜到着しました。そこで今日、それぞれの役の人に配られましたとさ。前因幡守大江広元と筑後権守俊兼がこれらの担当をしました。

文治元年(1185)十月大六日乙夘。梶原源太左衛門尉景季自京都歸參。於御前申云。參向伊豫守亭。申御使由之處。稱違例無對面。仍此密事以使不能傳。歸旅宿〔六條油小路〕。相隔一兩日。又令參之時。乍懸脇足被相逢。其躰誠以憔悴。灸有數ケ所。而試逹行家追討事之處。被報云。所勞更不僞。義經之所思者。縱雖爲如強竊之犯人。直欲糺行之。况於行家事哉。彼非他家。同爲六孫王之餘苗掌弓馬。難准直也人。遣家人等之許。輙難降伏之。然者早加療治。平愈之後可廻計之趣。可披露之由云々者。二品仰曰。同意行家之間。搆虚病之條已以露顯云々。景時承之。申云。初日參之時不遂面拝。隔一兩日之後有見參。以之案事情。一日不食。一夜不眠者。其身必悴。灸者又雖何ケ所。一瞬之程可加之。况於歴日數乎。然者一兩日中被相搆如然之事歟。有同心用意分不可及御疑貽云々。

読下し                 かじわらのげんたさえもんのじょうかげすえきょうとよ きさん    ごぜん  をい  もう     い
文治元年(1185)十月大六日乙夘。梶原源太左衛門尉景季京都自り歸參す。御前に於て申して云はく。

いよのかみてい  さんこう    おんし  よし  もう  のところ  いれい  しょう  たいめんな   よつ  かく  みつじ  つかい もつ つたう  あたはず
伊豫守亭へ參向し、御使の由を申す之處、違例@と稱し對面無し。仍て此の密事、使を以て傳に不能。

りょしゅく 〔ろくじょうあぶらこうじ 〕 かえ   いちりょうじつ あいへだ  また まい せし    のとき  きょうそく  かけなが  あいあ  らる
旅宿〔六條油小路Aへ歸り、一兩日を相隔て、又參ら令める之時、脇足に懸乍らB相逢は被る。

 そ  てい まこと  もつ しょうすい   すうかしょ  きゅう あ    しか    こころ   ゆきいえついとう  こと  たつ   のところ  ほう  られ  い
其の躰、誠に以て憔悴し、數ケ所に灸有り。而るに試みCに行家追討の事を逹する之處。報じ被て云はく。

しょろう さら いつわらず  よしつねのおも ところは たと  ごうせつのごと  はんにんたり いへど  じき  これ  ただ  おこな     ほつ
所勞更に僞不D。義經之思う所者、縱い強竊之如き犯人爲と雖も、直に之を糺し行はんと欲すE

 いはん ゆきいえ こと をいてをや  か  たけ  あらず   おな ろくそんおうの  よびょう  な  きゅうば たなごころ  じきなるひと なぞら がた
况や行家の事に於哉。彼は他家に非F。同じ六孫王G之餘苗と爲し弓馬を掌す。直也人に准い難し。

けにんら こればか   つか     あなが    これ  ごうぶく   がた
家人等之許りを遣はし、輙ちに之を降伏Hし難し。

しからばはや りょうち  くは    へいゆののち  はか    めぐ    べ  のおもむき ひろうすべ  のよしうんぬんてへれば にほんおお   い
然者早く療治を加へ、平愈之後に計りを廻らす可し之趣、披露可し之由云々者、 二品仰せて曰はく。

ゆきいえ どうい の かん  きょびょう  かま    のじょう  すで  もつ  ろけん     うんぬん  かげときこれ うけたま       もう    い
行家に同意之間、虚病を搆へる之條、已に以て露顯すIと云々。景時之を承はりて、申して云はく。

しょにち  まい  のときめんぱい  とげず  いちりょうじつ へだ   ののちげんざんあ    これ  もつ  こと  こころ あん
初日に參る之時面拝を遂不。一兩日を隔てる之後見參有り。之を以て事の情を案ずるにJ

いちにちたべず ひとやめむらずんば そ  み かなら つか     きゅうはまた  なんかしょ  いへど   いっしゅんのほど これ  くは    べ
一日不食に一夜不眠者、其の身必ず悴れん。灸者又、何ケ所と雖も、一瞬之程に之を加へる可し。

いはん ひかず  へ   をいてをや  しからば  いちりょうじつちゅう しか ごと   のこと  あいかま   らる   か
况や日數を歴るに於乎。然者、 一兩日中に 然る如き之事を相搆Kへ被る歟。

どうしん  ようい あ   ぶん   ごぎたい   およ  べからず   うんぬん
同心の用意有る分、御疑貽に及ぶ不可Lと云々。

参考@違例は、普段の例と違うことから、病気。
参考A六條油小路は、左京区六条と油小路のぶつかるあたり。その他不明。
参考B脇足に懸乍らは、時代劇の殿様が肘をかけている台だが、頼朝の代官に会うのに、そんな態度でよいのか。
参考C試みには、念のために。
参考D
所勞更に僞不は、病気は嘘じゃないよ。
参考E直に之を糺し行はんと欲すは、直接取り調べたいので。
参考F他家に非は、同じ源氏の一族ではないか。
参考G六孫王は、經基王。六男で天皇の孫。天皇家で生活を面倒見切れないので、性を与えて(賜性)天皇家から追い出す。臣籍降下。
参考H降伏は、攻撃をして降ろし伏せさせる。
参考I露顯すは、ばれてしまう。
参考J
事の情を案ずるには、その事を良く考えてみると。
参考K相搆へは、悪巧みをしている。
参考L
御疑貽に及ぶ不可は、疑う余地が無い。

現代語文治元年(1185)十月大六日乙夘。梶原源太左衛門尉景季が、京都から帰ってきました。頼朝様の御前に参り申し上げました。「伊予守義経の屋敷へ行き、頼朝様の使いできた旨を伝えましたが、病気だといって会ってはくれませんでした。それなので、秘密の命令を伝えられませんでした。仕方なく宿〔六条油小路〕へ戻り、二日開けてからもう一度行きましたら、会ってくれました。その様子は、本当にくたびれ果てていて、何箇所かにお灸の跡がありました。それでも念のために、行家を滅ぼすようにご命令が出ていると伝えますと、答えられるには、病気は嘘ではないでしょう。源九郎義経が思うには、例え強盗のような犯人であろうとも、直接取り調べたい思っている。ましてや行家なら尚更だ。彼は全くの他人ではない。同じ源氏の経基王の子孫として弓馬の道の武士であり、普通の人と同様には扱えない。部下達だけで行かせても、簡単に降伏させることは出来にくい。それなので、早く病気を治して、元気になったら計略を考えましょう。と云いました。」と報告をしました。それを聞いて、二品頼朝様がおっしゃるには、「行家に同意しているので、仮病を使っているのが分かってしまったな。」とだとさ。これを聞いた梶原平三景時が云うには、「初日に行った時に会わないで、二日たった後で会っている。この様子を良く考えてみると、一日食事を絶って、一晩眠らなければ、その体は必ず疲れ切ってしまうだろう。お灸なんてのは、なんぼでも一瞬で据える事が出来る。ましてや日数があれば尚更だ。だとすれば二日の間に巧妙な仕掛けをしたのだろう。行家と共犯していることは疑いない。」だとさ。

文治元年(1185)十月大九日戊午。可誅伊豫守義經之事。日來被凝群議。而今被遣土佐房昌俊。此追討事。人々多以有辞退氣之處。昌俊進而申領状之間。殊蒙御感仰。已及進發之期。參御前。老母并嬰兒等在下野國。可令加憐愍御之由申之。二品殊被諾仰。仍賜下野國中泉庄云々。昌俊相具八十三騎軍勢。三上弥六家季〔昌俊弟〕。錦織三郎。門眞太郎。藍澤二郎以下云々。行程可爲九ケ日之由被定云々。

読下し                 いよのかみよしつね  ちう  べ   のこと   ひごろ ぐんぎ  こらさる
文治元年(1185)十月大九日戊午。伊豫守義經を誅す可き之事、日來群議を凝被る。

しか    いま  とさのぼうしょうしゅん  つか  さる
而して今、土佐房昌俊@を遣は被る。

かく   ついとう  こと  ひとびとおお もつ  じたい  け あ  のところ  しょうしゅんすす て  りょうじょう もう  のかん  こと   ぎょかん  おお   こうむ
此の追討の事、人々多く以て辞退の氣有る之處、昌俊進み而、領状を申す之間、殊に御感の仰せを蒙る。

すで  しんぱつのご  およ    ごぜん  まい      ろうぼ なら    えいじら しもつけのくに  あ     れんみん  くは  せし  たま  べ    のよしこれ  もう
已に進發之期に及び、御前に參りA、老母并びに嬰兒等下野國に在り。憐愍を加へ令め御う可しB之由之を申す。

にほん こと  だく   おお  らる    よつ  しもつけのくになかいずのしょう たま  うんぬん しょうしゅんはちじうさんき  ぐんぜい あいぐ
二品殊に諾し仰せ被る。仍て 下野國中泉庄Cを 賜はる云々。昌俊八十三騎Dの軍勢を相具す。

みあげのいやろくいえすえ 〔しょうしゅん おとうと〕 にしごおりさぶろう かどまのたろう  あいさわのじろう  いげ うんぬん
 三上弥六家季E〔昌俊が弟〕 錦織三郎、 門眞太郎F、藍澤二郎G以下と云々。

こうていここのかにちたるべ  のよしさだ  らる    うんぬん
行程九ケ日爲可しH之由定め被ると云々。

参考@土佐房昌俊は、渋谷金王丸。
参考A御前に參りは、出発の挨拶に来た。
参考B
憐愍を加へ令め御う可しは、死んだ後は面倒を見てください。
参考C中泉庄は、栃木県下都賀郡壬生町中泉。
参考D
八十三騎は、「一騎三従」と云う言葉があるが、それにしてもそれほどの軍勢を持っていたのか疑問。
参考E三上弥六家季は、栃木県芳賀郡市貝町見上。参考錦織三郎は、不明。
参考F
門眞太郎は、不明。だが、栃木県佐野市馬門町ではないか。
参考G
藍澤二郎は、栃木県佐野市会沢町(旧安蘇郡葛生町会沢)。
参考H行程九ケ日爲可しは、九日で京都へ到着し、攻めるようにとの意と思われる。(数えで九日目の十七日には攻めている。)

現代語文治元年(1185)十月大九日戊午。伊予守義経を滅ぼしてしまう事を、何度か会議で工夫を重ねてきました。そして今、土佐房昌俊を刺客に行かせます。この追討の事は、御家人達は殆ど多くの人が辞退の気配を見せていましたが、土佐房昌俊は自分からその役を買って出ましたので、頼朝様から特に喜びの声を掛けられました。出発の準備が出来たところで、頼朝様の御前へ出立の挨拶に来たところで、「年老いた母と幼い子供が下野におります。是非、後の面倒を見てあげてください。」と申し上げました。頼朝様は特別に承諾をした旨をおっしゃいましたので、下野国中泉荘(栃木県下都賀郡壬生町中泉)を戴きましたとさ。土佐房昌俊は八十三騎の軍隊を率いています。三上弥六家季〔昌俊の弟〕錦織三郎、門真太郎、藍沢二郎以下だとさ。実行は九日目に決められましたとさ。

文治元年(1185)十月大十一日庚申。御堂佛後壁畫圖終彩色之功。所奉圖淨土瑞相并二十五菩薩像也。二品監臨給之處。圖淨土之所有三日月。而此月者以己影隱己影云々。今畫樣頗不叶本説之由被仰之間。畫工不能改之。則削云々。」今日。佐々木三郎成綱〔号本佐々木〕本知行田地如元可領掌之旨。被書下之。但可從佐々木太郎左衛門尉定綱所堪云々。是雖非一族。佐々木庄總管領者定綱也。成綱分在其内之故歟。

読下し                   みどう   ほとけ うしろかべ しょが  さいしょくのこう  おえ
文治元年(1185)十月大十一日庚申。御堂@の佛の後壁の畫圖、彩色之功を終る。

じょうど  ずいそうなら    にじうごぼさつぞう  えが たてまつ ところなり  にほんかんりん  たま  のところ  じょうど  が     のところ  みっかづき あ
淨土の瑞相并びに二十五菩薩像を圖き奉る所也。二品監臨し給ふ之處、淨土を圖する之所に三日月有り。

しか    かく  つきは  おのれ かげ もつ  おのれ かげ  かく     うんぬん
而るに此の月者、己の影を以て己の影を隱すAと云々。

いま  かきざま  すこぶ ほんせつ かなはざるのよし おお  らる  のかん  がこう これ  あらた     あたはず  すなは けず   うんぬん
今の畫樣、頗る本説に叶不之由、仰せ被る之間、畫工之を改めるに不能。則ち削ると云々。」

きょう    ささきのさぶろうなりつな 〔 ほんささき      ごう 〕  もと  ちぎょう  でんち  もと  ごと りょうしょうすべ  のむね  これ  かきくださる
今日、佐々木三郎成綱〔本佐々木Bと号す〕本の知行の田地を元の如く領掌可し之旨、之を書下被る。

ただ  ささきのたろうさえもんのじょうさだつな  しょかん  したが べ    うんぬん
但し佐々木太郎左衛門尉定綱が所堪に從う可しと云々。

これ  いちぞく あらず いへど  ささきのしょう  そうかんりょう は さだつななり  なりつなぶん  そ  うち  あ    のゆえか
是、一族に非と雖も、佐々木庄の總管領C者定綱也。成綱分Dは其の内に在る之故歟。

参考@御堂は、南御堂とも大御堂とも呼ばれた勝長寿院。
参考A己の影を以て己の影を隱すは、浄土の月は丸く描き、影の部分を暗くして明るいところを三日月の形で描くのに、単なる三日月を書いているのがおかしいと云ってる。月は欠けて小さくなるのではなく、影により欠けて見える事を理解しているのかも知れない。但し、塾長の推論です。
参考B本佐々木は、安土町佐々木。元々は阿部系の本佐々木に対し、保元の乱の直前に源義朝が宇多源氏の末裔を派遣し、同じく佐々木と名乗る。
参考C總管領は、総地頭の始まり。
参考D成綱分は、小地頭になる。

現代語文治元年(1185)十月大十一日庚申。南御堂勝長寿院の仏様を飾る須弥壇の後ろの壁画の書画彩色の工作を終えました。西方浄土の楽園と二十五菩薩とを描いたものです。二品頼朝様が検分をしたところ、浄土世界に描いてある場所に三日月があります。頼朝様は「浄土の月は丸く描いて影の部分を暗くして描くのに、自分の影で自分を隠して単なる三日月をかいているじゃないか。」だとさ。「この書き方は仏説にあっていないよ。」とおっしゃられたので、絵描きの宅間爲久は頭にきて、書き直さないで削り取ってしまいましたとさ。

今日、佐々木三郎成綱〔本佐々木と言われる〕の元々知行していた田んぼを、前の通りに領地に戻すように、安堵状を下されました。但し、佐々木太郎左衛門尉定綱の命令は聞くようにすることなんだとさ。この人は、佐々木定綱の一族ではないけれども、佐々木庄の全体の総管理者は定綱である。成綱は、その内の一部になるからでしょうかね。

文治元年(1185)十月大十三日壬戌。去十一日并今日。伊豫大夫判官義經潜參 仙洞。 奏聞云。前備前守行家向背關東企謀反。其故者。可誅其身之趣。鎌倉二位卿所命。達行家後聞之間。以何過怠可誅無罪叔父哉之由。依含欝陶也。義經頻雖加制止。敢不拘。而義經亦退平氏凶悪。令屬世於靜謐。是盍大功乎。然而二品曾不存其酬。適所計宛之所領等悉以改變。剩可誅滅之由有結搆之聞。爲遁其難已同意行家。此上者可賜頼朝追討官苻。無 勅許者兩人共欲自殺云々。能可宥行家欝憤之旨有 勅答云々。

読下し                   さんぬ じういちにちなら   きょう   いよのたいふほうがんよしつね ひそか せんとう  まい   そうもん    い
文治元年(1185)十月大十三日壬戌。去る十一日并びに今日、伊豫大夫判官義經、潜に仙洞へ參り、奏聞して云はく。

さきのびぜんのかみゆきいえ かんとう きょうはい  むほん くはだ   そ   ゆえは   そ   み  ちう  べ  のおもむき  かまくらにいのきょうめい   ところ
前備前守行家@、 關東Aに向背Bし謀反を企つ。其の故者、其の身を誅す可し之趣、鎌倉二位卿命ずる所、

ゆきいえ  こうぶん  たつ    のかん  なに  けたい  もつ  つみな   おじ   ちう  べ     や のよし   うっとう   ふく    よつ  なり
行家の後聞に達する之間、何の過怠を以て罪無き叔父を誅す可けん哉之由、欝陶を含むに依て也。

よしつねしきり せいし  くは      いへど   あえ  かかわらず しか   よしつねまた  へいし  きょうあく  の     よを せいひつ  ぞく  せし
義經頻に制止を加へると雖も、敢て不拘。而るに義經亦、平氏の凶悪を退け、世於靜謐に屬さ令む。

これ  たいこう いはんや  しかして  にほんあえ  そ   むくい ぞんぜず たまたま はから あてら ところのしょりょうら ことごと もつ かいへん
是、大功と盍乎。然而、二品曾て其の酬を不存。 適、 計い宛る所之所領等C悉く以て改變す。

あまつさ  ちうめつすべ  のよし  けっこうのきこ  あ     そ  なん  のが    ため  すで  ゆきいえ  どうい
剩へ、誅滅可き之由、結搆之聞へ有り。其の難を遁れん爲、已に行家に同意す。

このうえは   よりともついとう   かんぷ  たま    べ     ちょっきょな   ば りょうにんとも  じさつ      ほつ    うんぬん
此上者、頼朝追討の官苻を賜はる可し。勅許無くん者兩人共に自殺せんと欲すと云々。

よくよく ゆきいえ うっぷん  なだ    べ   のむね  ちょくとうあ    うんぬん
能、行家が欝憤を宥める可し之旨、勅答有りと云々。

参考@前備前守行家は、源為義の末子で頼朝等の叔父に当たる。
参考A關東は、頼朝を指す。
参考B
向背は、背く。
参考C
計い宛る所之所領等は、24箇所も。

現代語文治元年(1185)十月大十三日壬戌。一昨日の十一日と今日と、源九郎義経は内緒で後白河法皇のもとへ行き、申し上げて云うには、「前備前守源行家は、関東勢力に対して背を向け謀反を考えています。それはどうしてかと云うと、行家を殺すように鎌倉の二位卿頼朝様が命令を出しているからです。それが行家の耳に入り、何の過ちを咎めて罪もない叔父を殺そうとするんだと怒り心頭してのことです。源九郎義経は、頼朝様を盛んに止めようとしていますが、少しも聞いてはくれません。しかも、義経は平家を滅ぼし、世の中を静かに落ち着かせました。これを大きな手柄だと思いませんか。それなのに頼朝様はその報酬をくれないばかりか、宛がわれていた二十四箇所の領地も全て取上げてしまいました。その上、私を殺すように用意していると耳に入りました。降りかかる火の粉を払うためにと、既に行家と同意しています。こうなったら、頼朝追討の太政官布告を出して下さい。京都朝廷のお許しがなければ、二人そろって宮中で自殺しますよ。」と云ったんだとさ。「それじゃ、行家にはそう頭へ来なさんな。」と、後白河法皇は直接回答なされましたとさ。

文治元年(1185)十月大十四日癸亥。 院宣到來于鎌倉。可被遣義定朝臣也。彼朝臣背 綸命。二品殊可令加諷詞之趣。及御沙汰云々。
 當國小杉御厨。於神宮御領。已被下 宣旨畢。而自國司有妨之由。所訴申也。尤不便。早如元可被奉免者。依
 院宣。執逹如件。
     九月廿四日                              右馬頭
〔奉判〕
   遠江守殿

読下し                   いんぜん  かまくらに とうらい   よしさだあそん  つか  さる  べ   なり  か   あそん   りんめい  そむ
文治元年(1185)十月大十四日癸亥。院宣、鎌倉于到來す。義定朝臣を遣は被る可き也。彼の朝臣は綸命に背く。

にほん こと  ふうし   くは  せし  べ  のおもむき  おんさた   およ   うんぬん
二品殊に諷詞@を加へ令む可し之趣、御沙汰に及ぶと云々。

   とうごく こすぎのみくりや   じんぐうごりょう  をい      すで  せんじ くだされをはんぬ  しか   こくしよ   さまた あ    のよし  うった  もう  ところなり
 當國小杉御厨Aは、神宮御領に於ては、已に宣旨を下被畢。而るに國司自り妨げ有る之由、訴へ申す所也。

  もつと ふびん  はやばや もと  ごと  ほうめん さる  べ てへれば いんぜん  よつ    しったつくだん ごと
 尤も不便。早々と元の如く奉免B被る可し者、院宣に依て。執逹件の如し。

          くがつにじうよっか                                       うまのかみ 〔 はん ほう 〕
     九月廿四日                  右馬頭〔判を奉ず〕

      とおとうみのかみどの
   遠江守殿

参考@諷詞は、お叱り。
参考A小杉御厨は、静岡県志太郡大井川町上小杉、下小杉。
参考B奉免は、免除だが、国司へ納める分の年貢を免除する。この場合は、国衙収奪権を放棄する。

現代語文治元年(1185)十月大十四日癸亥。後白河法皇の院の庁から手紙が来ました。遠江守安田義定をよこして下さい。彼は、朝廷の命令を聞かないからだとの事でした。頼朝様は、特に注意を喚起すべきだと、判断をなされましたとさ。

 遠江国の小杉御厨(静岡県志太郡大井川町上小杉、下小杉)は、伊勢神宮の領地であることは、とっくに朝廷からの命令が出されておりました。それなのに国司が横取りをしていると、訴えがありました。これは困ったことなので、早く元の通りに国衙収奪を放棄して、邪魔をしないように、後白河法皇の命令は、ここに書かれたとおりです。
      九月二十四日                 右馬頭〔花押がある〕
   遠江守安田義定殿

文治元年(1185)十月大十五日甲子。齋宮用途可被進納之由事。并太神宮御領伊雜神戸。鈴母御厨。沼田御牧。員部神戸。田公御厨等所々散在武士無其故押領事。可被尋成敗由事。 院宣到來。兩條所被載別帋也。

読下し                    さいぐう   ようとう しんのうさる  べ   のよし  ことなら    だいじんぐごりょう  いさわのかんべ 
文治元年(1185)十月大十五日甲子。齋宮@の用途A進納被る可し之由の事并びに太神宮御領、伊雜神戸B

すずものみくりや   ぬまたのみまき   いなべのかんべ   たこうのみくりや ら  しょしょ  さんざい   ぶし そ   ゆえ な   おうりょう   こと
鈴母御厨C、沼田御牧D員部神戸E、田公御厨F等の所々、散在の武士其の故無く押領Gする事、

たず  せいばいさるべ    よし  こと  いんぜんとうらい    りょうじょうべっし  のせらる ところなり
尋ね成敗被可きの由の事、院宣到來す。兩條別帋に載被る所也。

参考@齋宮は、天皇の名代として伊勢神宮に遣わされた皇女。また、その居所。天皇が即位すると未婚の内親王または女王から選ばれ、原則として譲位まで仕えた。一四世紀の後醍醐天皇の代まで続いた。斎王。いつきのみや。いみみや。Goo電子辞書から
参考A齋宮の用途は、天皇家の娘が伊勢神宮の神官になるためにお篭りをするのだが、このお供に官女が百数十人ついて行く。この費用のことである。
参考B伊雜神戸は、三重県志摩市磯部町的矢らしい。堀田璋左右先生は、志摩国答志郡伊雑郷と書かれている。答志郡にはかつて鳥羽町、坂手村、神島村、答志村、加茂村、鏡浦村、長岡村 (鳥羽市) 磯部村、的矢村 (磯部町 → 志摩市) 安乗村、国府が存在したので的矢で良い様である。
参考C鈴母御厨は、不明。
参考D沼田御牧は、後に沼田御厨で畠山次郎重忠の横領で大騒ぎ。亀山市関町古厩(旧鈴鹿郡関町古厩)らしい。
参考同年6月29日条で、沼田御厨の地頭畠山重忠の目代別当真正が員弁家綱の所従の家財を没収、頼朝、伊勢国員部郡大領家綱「姓闕く」の訴に依り、使を遣して、沼田御厨地頭畠山重忠眼代真正の濫行を糾さしむ、大日本史料 4編 1冊 986頁吾妻鏡
参考E員部神戸は、三重県いなべ市御薗(旧員弁郡員弁町)。参考神戸は荘園(土地単位)とは成り立ちが違い、律令制の封戸(ふこ、作農単位で税を取る。)を納税の内、神社への返納分を直接神社へ納税させる。参考なお、神戸の地名で残っているのは、津市神戸、鈴鹿市神戸、鈴鹿市神戸本多町、伊賀市上神戸、下神戸(旧上野市)。
参考F田公御厨は、不明。
参考G故無く押領は、元平家分を取上げたが、そうでない所まで徴収権がないのに横取りした。

現代語文治元年(1185)十月大十五日甲子。齋宮の費用を調達してくれるように、それと、伊勢神宮領地の伊雑神戸、鈴母御厨、沼田御牧、員部神戸、田公御厨等に武士達が入ってきて、権利も無いのに我が物顔に占領して年貢を横取りしているので、調べてきちんと止めるよう指示をするようにしてくれと、後白河法皇から手紙が来ました。

文治元年(1185)十月大十六日乙丑。豊後國住人臼杵二郎維隆。緒方三郎維榮等。去年合戰之間。破却宇佐宮宝殿。押取神宝。依之雖被下配流官苻。去四日逢非常赦云々。

読下し                   ぶんごのくにじゅうにん うすきのじろうこれたか おがたのさぶろうこれよしら  きょねん  かっせんのかん
文治元年(1185)十月大十六日乙丑。豊後國 住人@臼杵二郎維隆A、緒方三郎維榮B等、去年の合戰之間、

 うさぐう   ほうでん  はきゃく    しんぽう  お   と     これ  よつ  はいる  かんぷ  くださる   いへど    さぬ よっかつねならぬ しゃ  あ     うんぬん
宇佐宮C宝殿を破却し、神宝を押し取る。之に依って配流に官符を下被ると雖も、去る四日非常の赦Dに逢うと云々。

参考@住人とは、支配する領地を持っている武士または豪族。御家人以外。
参考A臼杵二郎惟隆は、臼杵庄で現大分県臼杵庄臼杵市。緒方三郎維榮の兄。
参考B緒方三郎維榮は、二巻治承五年(1181)二月小廿九日では、緒方三郎惟能で出演。緒方は、豊後国大野郡緒方庄で、現在の大分県豊後大野市緒方町。通称は三郎。諱は惟義とも書かれる。臼杵二郎惟隆の弟。元暦二年(1185)正月大十二日と、この三回で出演終。
参考C宇佐宮は、宇佐八幡宮。大分県宇佐市南宇佐2859の宇佐神宮
参考D非常の赦は、特別な事情があったので許された。宇佐八幡宮は平家軍だったので二人は攻め、その攻撃の一巻として宝物を奪った。

現代語文治元年(1185)十月大十六日乙丑。豊後の国(大分県)の豪族、臼杵二郎惟隆と緒方三郎維栄の兄弟は、去年の平家との合戦の際に、平家方が居た宇佐八幡宮を攻撃して壊し、神宝などを没収した。これを今になって流罪にするとの太政官布告が出されたけれども、先の四日に特別な事情があったのだからしょうがないと、赦免されましたとさ。

文治元年(1185)十月大十七日丙寅。土左房昌俊。先日依含關東嚴命。相具水尾谷十郎已下六十餘騎軍士。襲伊豫大夫判官義經六條室町亭。于時豫州方壯士等逍遥西河邊之間。所殘留之家人雖不幾。相具佐藤四郎兵衛尉忠信等。自開門戸。懸出責戰。行家傳聞此事。自後面來加。相共防戰。仍小時昌俊退散。豫州家人等走散求之。豫州則馳參 仙洞。奏無爲之由云々。

読下し                   とさのぼうしょうしゅん せんじつかんとう げんめい   ふく    よつ
文治元年(1185)十月大十七日丙寅。土左房昌俊、先日關東の嚴命@を含むに依て、

 みおやのじうろう   いげ  ろくじうよき   ぐんし   あいぐ     いよのたいふほうがんよしつね  ろくじょうむろまちてい  おそ
水尾谷十郎A已下六十餘騎の軍士を相具し、伊豫大夫判官義經が六條室町亭Bを襲う。

ときに よしゅうがた そうしら にしかわへん   しょうようのかん  ざんりゅう   ところのけにん いくならず いへど  さとうのしろうひょうえのじょうただのぶ ら あいぐ
時于豫州方の壯士等西河邊Cへ逍遥之間、殘留する所之家人不幾と雖も、佐藤四郎兵衛尉忠信D等を相具し、

みづか もんこ  ひら    か   い  せ  たたか
自ら門戸を開き、懸け出で責め戰う。

ゆきいえ こ   こと  つた  き     こうめんよ   きた  くは      あいとも  ぼうせん
行家E此の事を傳へ聞き、後面自り來り加はり、相共に防戰す。

よつ  しばらく   しょうしゅんたいさん  よしゅう  けにんら  はし  ち   これ  もと    よしゅうすなは せんとう   は   さん     むいのよし   そう    うんぬん
仍て小時して昌俊退散す。豫州が家人等走り散り之を求む。豫州則ち仙洞Fへ馳せ參じ、無爲之由を奏ずGと云々。

参考@先日關東の嚴命は、九日の出発の際に頼朝から行程九日と決められたので、数えの九日目に攻撃している。
参考A水尾谷十郎は、水尾谷十郎廣徳で、埼玉県比企郡川島町76廣徳寺が館跡と云われ、水堀や空堀が現存。
参考B六條室町亭は、京都の六条通北側で室町通のぶつかる左女牛井神社のあたり。
参考C西河邊は、遊郭が有ったらしい。その飾り窓を覗き歩くことから逍遥と云うらしい。
参考D佐藤四郎兵衛尉忠信は、義經が奥州から富士川合戦に駆けつけるときに一緒に来た佐藤継信、忠信兄弟の弟。父は湯の庄司。(飯坂温泉)
参考E行家は、頼朝の父義朝の弟。爲義の末子。十郎蔵人行家。
参考F仙洞は、後白河法皇へ。同じ六条の東へ四十五町の場所。
参考G無爲之由を奏ずは、これも頼朝追討の院宣を催促なのか。

現代語文治元年(1185)十月大十七日丙寅。土佐房昌俊は、先日関東の頼朝様から重大な命令を受けて、水尾谷十郎広徳を始めとする六十数騎の軍隊を率いて、源九郎義経の六条室町の屋敷を襲撃しました。丁度義経の侍達は、西川の遊郭へ遊びに行っていて、残っている部下達は少なかったのですが、佐藤四郎兵衛尉忠信達を率いて自分の方から門を開いて攻撃をしてきました。行家はこの話を伝令から聞いて、後ろ側から来て戦に加わり、戦いました。暫くすると挟み撃ちにあってしまった土佐房昌俊側は、敗色が濃くなり逃げました。源九郎義経の家来達は、走りながら散会して追いかけました。義経は直ぐに後白河法皇のもとへ走って行き、事の次第と無事であることを告げましたとさ。

文治元年(1185)十月大十八日丁夘。義經言上事。可有 勅許否。昨日於仙洞有議定。而當時義經外無警衛之士。不蒙 勅許者。若及濫行之時。仰何者可被防禦哉。爲遁今之難。先被 宣下。追被仰子細於關東。二品定無其憤歟之由治定。仍被下 宣旨。上卿左大臣〔經宗〕云々。
 文治元年十月十八日         宣旨
 從二位源頼朝卿偏耀武威。已忘 朝憲。宜令前備前守源朝臣行家。左衛門少尉同朝臣義經等。追討彼卿。
                        藏人頭右大弁兼皇后宮亮藤原光雅
〔奉〕

読下し                   よしつね  ごんじょう  こと  ちょっきょあ   べ    いな     さくじつせんとう  をい  ぎじょう あ
文治元年(1185)十月大十八日丁夘。義經が言上の事、勅許有る可きや否や、昨日仙洞に於て議定有り。

しか     とうじ   よしつね  ほか  けいえいのし  な     ちょっきょ こうむ ずんば   も   らんぎょう およ  のとき  なにもの  おお    ぼうぎょさる  べ   や
而るに當時、義經の外に警衛之士@無し。勅許を蒙ら不者、若し濫行に及ぶ之時、何者に仰せて防禦被る可き哉。

いまの なん  のが    ため  ま   せんげせられ  おつ  しさいを かんとう  おお  られ      にほんさだ    そ いきどおりな か の よしちじょう
今之難を遁れん爲、先ず宣下被、追て子細於關東へ仰せ被れば、二品定めし其の憤無き歟之由治定す。

よつ  せんじ  くださる    しょうけい   さだいじん 〔つねむね〕  うんぬん
仍て宣旨を下被る。上卿Aは左大臣〔經宗〕と云々。

   ぶんじがんねんじうがつじうはちにち                せんじ
 文治元年十月十八日         宣旨

   じゅにいみなもとよりともきょうひとへ ぶい  かがやか  すで  ちょうけん わす
 從二位源頼朝卿 偏に武威を耀し、已に朝憲を忘る。

   よろ   さきのびぜんのかみみなもとあそんゆきいえ さえもんのしょうじょうどうあそんよしつねら か  きょう ついとうせし
 宜しく 前備前守源朝臣行家、 左衛門少尉同朝臣義經等、彼の卿を追討令めん。

                                                 くろうどのとう うだいべんけん こうごうぐうのすけ ふじわらみつまさ〔ほうず〕
                        藏人頭右大弁兼 皇后宮亮 藤原光雅〔奉B

参考@警衛之士は、駐屯軍。
参考A上卿は、朝廷で、太政官の行う諸公事を指揮する公卿。太政大臣や内大臣は意見を求められたらアドバイスをするが、直接的な命令は出さない。右大臣は左大臣に問われたときだけ手伝いする。以上から実質宣旨などの内容を決めるのは左大臣らしい。
参考B〔奉〕は、お上の命令を承って私が書きました。の意。

現代語文治元年(1185)十月大十八日丁夘。源九郎義経が、望み申している頼朝追討の宣旨を朝廷から許すかどうか、昨日後白河法皇の院の庁で会議を開きました。しかし、今現在、京都で軍隊を持っているのは源九郎義経以外にありません。許可を出さないで、もし武力に訴えてきたら、誰に命じて朝廷を守ることが出来ましょうか。今この場を取り繕うために、とりあえず宣旨を出して、後で詳しい話を関東の頼朝に伝えれば、二品頼朝もきっと分かってくれて怒らないことでしょうと会議を取りまとめました。そこで、宣旨を出されました。懸案決定者は、左大臣〔経宗〕なんだとさ。

 文治元年十月十八日 宣旨
 従二位源頼朝卿は、常に武力を背景に権力を振り回し、朝廷の権威を忘れている。そこで、前備前守源行家、左衛門少尉源義経達は、その頼朝卿を追討しなさい。
         蔵人頭右大弁兼皇后宮亮藤原光雅が、命じられて書きました。

文治元年(1185)十月大十九日戊辰。 法王御護御釼去年紛失。去比江判官公朝求得之令献上之。風聞之間。今日二品以御書被感仰公朝云々。是以左典厩太刀所被奉献也。号吠丸。蒔鳩塢云々。先考御重寳再備朝家御護之条。依爲御眉目。今及此儀云々。

読下し                   ほうおう   おんまも    ぎょけん  きょねんふんしつ
文治元年(1185)十月大十九日戊辰。法王の御護りの御釼、去年紛失す。

さぬ ころ  えのほうがんきんともこれ  もと  え   これ  けんじょうせし   ふうぶん    のかん  きょう にほん おんしょ  もつ  きんとも  かん  おお  らる    うんぬん
去る比、江判官公朝之を求め得、之を献上令むと風聞する之間、今日二品御書を以て公朝を感じ仰せ被ると云々。

これ  さてんきゅう   たち  もつ  けん たてまつらる ところなり ほえまる   ごう  はとを    ま     うんぬん
是、左典厩の太刀を以て献じ奉被る所也。吠丸@と号し鳩塢Aを蒔くと云々。

せんこう  ごちょうほうふたた ちょうけ  おんまも    そな    のじょう  おんびもくたる   よつ    いま こ   ぎ  およ    うんぬん
先考の御重寳再び朝家の御護りに備はる之条、御眉目爲Bに依て、今此の儀に及ぶと云々。

参考@吠丸は、鳴丸とも云われる名剣で、身長ニ尺三寸七分。後に秀吉が手に入れる。
参考A鳩塢は、鞘のしつらえを鳩の模様の蒔絵で飾る。(源氏の白鳩かも)
参考B御眉目爲は、父左典厩義朝が献上した刀を、後白河法皇が守り刀にしている事が、名誉だといっている。

現代語文治元年(1185)十月大十九日戊辰。後白河法皇の守り刀を去年なくしてしまいました。最近になって、検非違使大江公朝がそれを見つけ手に入れて、法王に献上したと話しに聞きましたので、今日、頼朝様は大江公朝に感状を出して感謝しましたとさ。この刀は、左典厩義朝が源氏代々の刀を献上したものです。名を吠丸と云い、しつらえは鳩の模様の蒔絵で飾られているのだとさ。亡き父の宝物が再度朝廷の守り刀になった事は、とても名誉なことなので、わざわざ感状を出すような事をしたんだとさ。

文治元年(1185)十月大廿日己巳。御堂供養導師本覺院僧正坊公顯下着。所相具廿口龍象也。參河守範頼朝臣相伴參着云々。彼朝臣今夜即參二品御所。申日來事。去月廿七日自西海入洛云々。於鎭西尋取仙洞重宝御劔鵜丸。今度進上訖。是平氏黨類壽永二年城外之刻。C經朝臣自法住寺殿取御釼二腰〔吠丸。鵜丸〕。其随一也云々。又唐錦十端。唐綾絹羅等百十端。南廷三十。唐墨十廷。茶垸具二十。唐筵五十枚。米千石。牛十頭等。同進 院之由申之。次別進解文二通。進二品并御臺所御方。唐錦。唐綾。唐絹。南廷〔五十〕甲冑弓。八木。大豆等也。

読下し                 みどう くよう   どうし  ほんかくいんそうじょうぼうこうけんげちゃく   あいぐ   ところ  にじっく  りゅうぞうなり
文治元年(1185)十月大廿日己巳。御堂供養の導師、本覺院僧正坊公顯下着す。相具す所の廿口の龍象也。

みかわのかみのりよしあそん あいともな さんちゃく  うんぬん  か  あそん  こんやすなは にほん  ごしょ  さん     ひごろ  こと  もう
參河守範頼朝臣、相伴ひ參着すと云々。彼の朝臣、今夜即ち二品の御所に參じ、日來の事を申す。

さぬ つきにじうしちにちさいかいよ じゅらく   うんぬん  ちんぜい  をい せんとうちょうほう  ぎょけんうのまる   たず  と     このたびしんじょう  をはんぬ
去る月廿七日西海自り入洛すと云々。鎭西に於て仙洞重宝の御劔鵜丸@を尋ね取り、今度進上し訖。

これ  へいし   とうるい  じゅえいにねんじょうがいのとき  きよつねあそん ほうじゅじでんよ   ぎょけんふたこし 〔ほえまる うのまる 〕   と     そ  ずいいつなり  うんぬん
是、平氏の黨類、壽永二年城外之刻A、C經朝臣B 法住寺殿C自り御釼二腰〔吠丸、鵜丸〕を取る。其の随一也と云々。

また からにしきじったん からあやのかやららひゃくじったん なんてい さんじう からすみ じってい ちゃわんぐ にじう  からむしろ ごじうまい こめせんごく うしじっとうら
又、唐錦十端、 唐綾絹羅等百十端、 南廷D三十、 唐墨E十廷、茶垸具F二十、唐筵G五十枚、米千石、牛十頭等

おな    いん  しん   のよし  これ  もう   つぎ  べつ  げぶみ につう   しん
同じく院へ進ず之由、之を申す。次に別に解文二通を進ず。

にほん なら    みだいどころ おんかた  からにしき からあや からぎぬ  なんてい 〔ごじう〕  かっちゅう ゆみ   やき   だいずら   しん    なり
二品并びに御臺所の御方に、唐錦、唐綾、唐絹、南廷〔五十〕、甲冑、弓、八木、大豆等を進ずる也。

参考@鵜丸は、白河院が手に入れた名剣で、鳥羽院、崇徳院と伝わり、崇徳院から源爲義に下賜されたと保元物語にある。
参考A壽永二年(1183)城外之刻は、平氏の都落ち。
参考BC經朝臣は、平C經。平重盛の三男。笛の名手として名高い。豊前柳浦にて入水自殺した。
参考C法住寺殿は、後白河法皇の御座所。
参考D南廷は、銀塊で、レンガの半分の厚さの板状の物と、巴の形をしたものと二種類ある。
参考E唐墨は、中国製の墨だが、たらこのような形をしている。これに似ているのでぼらの卵の加工品を「からすみ」と云う。
参考F茶垸具二十は、吉川本では「茶碗」とあり、既に一部に薬としてお茶があることに注目したい。但し、お茶の歴史研究家の橋本素子氏によると「茶垸」は、いわゆる茶碗とは限らず、磁器一般を指すらしい。とすると磁器を20個となる。建治2年(1277)7月28日付け東寺宝物注進状に「茶垸大花立」とあるのは磁器の花立(花瓶)を指している。この場合は磁器の椀であろうが茶碗であろうが同じカ?2014.03.25追記
参考G唐筵は、中国製の花茣蓙のようなものと思われる。参考八木は、米。

現代語文治元年(1185)十月大二十日己巳。南御堂勝長寿院の仏式完成祝賀会の指揮僧をする三井寺本覚院僧正が鎌倉へ到着しました。一緒に連れてきたお供の坊さんは、二十人の高僧達です。源参河守範頼が一緒に護衛して参りましたとさ。その範頼は、今夜直ちに頼朝様の御所へ参上して、今までの経過を報告しました。先月の二十七日に九州から京都へ入りましただとさ。九州で院の宝物の剣、鵜丸を探し出し、後白河法皇に献上してきました。それは、平家が寿永二年の都落ちのときに、平清経が法王御座所の法住寺殿から法王の守り刀二振〔吠丸と鵜丸〕を取っていったうちの一振なんだとさ。又、唐の国渡来の錦を十反、唐の綾織の伽羅百十反、銀の延べ棒三十、中国製の墨十廷、茶道具二十、中国製の花茣蓙五十枚、米千石(150t)牛十頭(牛車用)等を同様に後白河院へ献上したと報告しました。次に報告書を二通提出しました。二品頼朝様と御台所政子様に、唐の国渡来の錦、綾織、絹と銀の延べ棒〔五十〕、鎧兜弓矢、米、大豆などを献上しました。

文治元年(1185)十月大廿一日庚午。南御堂奉渡本佛〔丈六。皆金色阿弥陀佛。佛師成朝也〕大夫属入道。大和守。主計允等奉行之云々。」今日。源藏人大夫頼兼自京都參着。去五月。家人久實搦進犯人〔畫御座御劔盜人〕。依件賞。去十一日敍從五位上。久實又賜兵衛尉。而讓息男久長之由申之。」又御堂供養願文到着。草式部大夫光範。C書右少弁定長也。因幡守廣元於御前讀申之云々。

読下し                   みなみみどうほんぶつ 〔じょうろく  かいこんじき あみだぶつ   ぶっしじょうちょうなり 〕    わた  たてまつ
文治元年(1185)十月大廿一日庚午。南御堂 本佛〔丈六@、皆金色の阿弥陀佛、佛師成朝也〕を渡し奉る。

たいふさかんにゅうどう やまとのかみ かぞえのじょうら これ  ぶぎょう    うんぬん
大夫属入道、 大和守B、主計允等 之を奉行すと云々。」

きょう   みなもとくらんどたいふよりかね  きょうと よ  さんちゃく
今日、 源藏人大夫頼兼C、京都自り參着す。

さんぬ ごがつ  けにんひさざね とがにん 〔ひ  おんざ  ぎょけん  ぬすっと〕   から  しん   よるくだん しょう
去る五月、家人久實、犯人〔畫の御座の御劔の盜人〕を搦め進ずに依件の賞。

さんぬ じういちにち じゅごいじょう  じょ    ひさざねまたひょうえのじょう たま    しか    そくなんひさなが ゆず  のよしこれ  もう
去る十一日、從五位上に敍す。久實又兵衛尉を賜はる。而るに息男久長に讓る之由之を申す。」

また  みどう くよう   がんもん とうちゃく  そう  しきぶのたいふみつのり せいしょ  うしょうべんさだながなり いなばのかみひろもとごぜん をい これ  よ   もう      うんぬん
又、御堂供養の願文到着す。草は式部大夫光範、C書は右少弁定長也。因幡守廣元御前に於て之を讀み申すと云々。

参考@丈六は、釈迦の身長が1丈6尺あったとされ、仏像の大きさで立って4.8m、座ると半分なので2.4mに作る。
参考A成朝は、仏師系図 康尚─定朝┬覚助┬頼助─康助─康朝┬成朝
                 │  │  奈良仏師  └康慶┬運慶┬湛慶(慶派)
                 │  │           ├快慶   (慶派)
                 │  └院助─(院派)
                 └長勢┬兼慶
                    └円勢─(円派)

参考A成朝は、頼朝の招きで南都から五月二十一日に鎌倉へ来ている。
参考B大和守は、大和守山田重弘で尾張源氏。浦野重遠の子。
参考C頼兼は、入道源三位頼政の子で大内裏警固役をしたので大内と名乗る。

現代語文治元年(1185)十月大二十一日庚午。南御堂勝長寿院の本尊仏〔丈六(立って4m80cm座って2m40cm)、金色の阿弥陀仏で仏師成朝作成です〕を運び備えました。大夫属入道三善善信、大和守重弘、主計允藤原二階堂行政が担当指揮をしましたとさ。

源蔵人大夫頼兼が京都からやってきました。この五月に家来の久実が犯人〔御所の天皇の昼間おられる座においてある天皇の剣を盗んだ奴〕を捕まえて突き出した手柄で、今月十一日に頼兼は従五位上に昇進しました。又、久実も兵衛尉に任命されました。しかし、久実はその手柄を息子の久長に譲るんだと云ってました。

話は変わりますが、南御堂完成祝賀会の仏様へのお礼とお願いの文章が京都から到着しました。草案は、式部大夫光範。清書は右少弁定長がやりました。因幡守大江広元が頼朝様の前でこれを読み上げましたとさ。

文治元年(1185)十月大廿二日辛未。左馬頭〔能保〕家人等自京都馳參。申云。去十六日。前備前守行家追捕祗候人之家屋。搦取下部等。結句行家移住北小路東洞院御亭云々。又風聞説云。去十七日。土佐房合戰不成其功。行家義經等申下二品追討 宣旨云々。二品曾不令動揺給。御堂供養沙汰之外無他云々。

読下し                   さまのかみ 〔よしやす〕    けにんら きょうとよ   は   さん    もう     い
文治元年(1185)十月大廿二日辛未。左馬頭〔能保〕が家人等京都自り馳せ參じ、申して云はく。

さんぬ じうろくにち さきのびぜんのかみゆきいえ  しこうにんのかおく  ついぶ     しもべら   から  と
去る十六日。前備前守行家、 祗候人之家屋を追捕し、下部等を搦め取る。

あげく ゆきいえ  きたこうじひがしのとういん  おんてい  いじゅう  うんぬん
結句行家、は北小路東洞院の御亭へ移住す云々。

また  ふうぶん せつ  い       さぬ  じうしちにち  とさのぼう  かっせんそ  こう   なさず  ゆきいえ よしつねら にほんついとう  せんじ   もう   くだ    うんぬん
又、風聞の説に云はく。去る十七日。土佐房が合戰其の功を不成。行家、義經等二品追討の宣旨を申し下すと云々。

にほん あえ どうようせし  たま  ず   みどうくよう     さた の ほか た な    うんぬん
二品曾て動揺令め給は不。御堂供養の沙汰之外他無しと云々。

現代語文治元年(1185)十月大二十二日辛未。左馬頭一条能保の家来が京都から走ってきて参上し、申し上げて言うには「この十六日に、前備前守源行家の家来達の家を捜索して、下男どもを捕まえました。その結果、行家は北小路東桐院の屋敷へ引っ越したらしい。別な噂では、十七日に土佐房昌俊は襲撃に失敗したので、行家と義経は頼朝様追討の宣旨を出させたらしい。」との事でした。頼朝様は、特に動揺せず、南御堂の完成式のことしか頭に無いという風でした。

文治元年(1185)十月大廿三日壬申。山内瀧口三郎經俊僕從自伊勢國奔參。申云。伊豫守稱 宣旨。被催近國軍兵。此間。爲誅經俊。去十九日被圍守護所。定不遁歟云々。仰曰。此事非實證歟。經俊無左右非可被度于人之者云々。經俊者所被捕置勢州守護也。」明日御堂供養御出随兵以下供奉人事。今日被C撰之。其中河越小太郎重房者。兼日雖被加件衆。依爲豫州縁者被除之。

読下し                  やまのうちのたきぐちさぶろうつねとし ぼくじゅう いせのくによ  はし  まい    もう    い
文治元年(1185)十月大廿三日壬申。 山内瀧口三郎經俊@が 僕從 伊勢國自り奔り參り、申して云はく。

いよのかみ せんじ  しょう     きんごく  ぐんぴょう もよ  さる     こ   かん  つねとし  ちう      ため  さぬ  じうくにち しゅごしょ    かこ
伊豫守宣旨と稱して、近國の軍兵を催ほ被るA。此の間、經俊を誅さんが爲、去る十九日守護所Bを圍む。

さだ     のが ざらんか  うんぬん  おお    い       こ  こと じっしょう  あらざるか としつね そう な   ひとに はからる べ   のもの  あらず うんぬん
定めて遁れ不歟と云々。仰せて曰はく。此の事實證に非歟。經俊左右無く人于度被る可き之者に非と云々。

としつねは  せいしゅう  しゅご  ぶ   お   らる  ところなり
經俊者、勢州の守護に補し置か被る所也。」

 あす   みどう くよう   ぎょしゅつ ずいへい いげ   ぐぶにん  こと  きょうこれ  せいせんさる
明日の御堂供養の御出の随兵以下の供奉人の事、今日之をC撰被る。

そ  なか   かわごえのこたろうしげふさは  けんじつ くだん しゅう  くは  らる   いへど    よしゅう  えんじゃ たる  よつ  これ  のぞ  らる
其の中、河越小太郎重房C者、兼日、件の衆に加へ被ると雖も、豫州の縁者D爲に依て之を除か被る。

参考@山内瀧口三郎經俊は、元相模国山内庄領主、滝口は京都御所の北側に鑓水の取り口が滝になっていたので、そこへ祗候していた北面の武士を滝口という。
参考A軍兵を催ほ被るは、軍勢催促。
参考B守護所は、国司とは別に守護がいる場所だが、多くは国衙と一緒。
参考C河越小太郎重房は、埼玉県川越市で父の河越太郎重頼は秩父党の党首で武蔵検校職を持っている。
参考D豫州の縁者は、河越太郎重頼の娘を頼朝の命令で京都の源義經に嫁がせたから。

現代語文治元年(1185)十月大二十三日壬申。山内首藤瀧口三郎経俊の下男が伊勢国(三重県)から走ってきて、申し上げて云うには「伊予守源義経は宣旨を受けたといって、京都周辺の軍隊を召集しています。これはきっと、近くの伊勢に居る山内経俊を殺すためで、十九日には守護屋敷を囲まれて逃げられなくなっていることでしょう。」だとさ。これを聞いた頼朝様が仰せられるには、「このことは事実ではないなあ。経俊は一寸やそっとでは、人にやられるような奴じゃないよ。」だとさ。山内経俊は、伊勢の国の守護に任命されているのです。

明日の南御堂完成式典へのお出ましの護衛の兵隊などのお供の人事を、今日選び出されました。その中に河越小太郎重房は、予めこの人数に入れていたけれど、源九郎義経の親戚(義理の兄)なのではずされました。

文治元年(1185)十月大廿四日癸酉。天霽風靜。今日。南御堂〔号勝長壽院〕被遂供養。寅剋。御家人等中差殊健士。警固辻々。宮内大輔重頼奉行會塲以下。堂左右搆假屋。左方二品御座。右方御臺所并左典厩室家等御聽聞所也。以堂前簀子。爲布施取〔廿人〕座。山本又有北條殿室并可然御家人等妻聽聞所。巳剋。二品御出〔御束帶〕。御歩儀。
行列
先随兵十四人
 畠山次郎重忠    千葉太郎胤正    三浦介義澄     佐貫四郎大夫廣綱
 葛西三郎C重    八田太郎朝重    榛谷四郎重朝    加藤次景廉
 藤九郎盛長     大井兵三次郎實春  山名小太郎重國   武田五郎信光
 北條小四郎義時   小山兵衛尉朝政
  小山五郎宗政持御劔
  佐々木四郎左衛門尉高綱着御鎧
  愛甲三郎季隆懸御調度
御後五位六位〔布衣下括〕卅二人
 源藏人大夫頼兼   武藏守義信     參河守範頼     遠江守義定
 駿河守廣綱     伊豆守義範     相摸守惟義     越後守義資
〔御沓〕
 上総介義兼     前對馬守親光    前上野介範信    宮内大輔重頼
 皇后宮亮仲頼    大和守重弘     因幡守廣元     村上右馬助經業
 橘右馬助以廣    關瀬修理亮義盛   平式部大夫繁政  安房判官代高重
 藤判官代邦通    新田藏人義兼   奈胡藏人義行   所雜色基繁
 千葉介常胤     同六郎大夫胤頼  宇津宮左衛門尉朝綱
〔御沓手長〕 八田右衛門尉知家
 梶原刑部丞朝景   牧武者所宗親   後藤兵衛尉基C  足立右馬允遠元
次随兵十六人
 下河邊庄司行平   稻毛三郎重成   小山七郎朝光   三浦十郎義連
 長江太郎義景    天野藤内遠景   澁谷庄司重國   糟谷藤太有季
 佐々木太郎左衛門尉定綱 小栗十郎重成 波多野小次郎忠綱 廣澤三郎實高
 千葉平次常秀    梶原源太左衛門尉景季 村上左衛門尉頼時 加々美二郎長C
次随兵六十人
〔被C撰弓馬逹者。皆供奉最末。御堂上後。各候門外東西〕
  東方
 足利七郎太郎    佐貫六郎     大河戸太郎    皆河四郎
 千葉四郎      三浦平六     和田三郎     同五郎
 長江太郎      多々良四郎    沼田太郎     曾我小太郎
 宇治藏人三郎    江戸七郎     中山五郎     山田太郎
 天野平内      工藤小次郎    新田四郎     佐野又太郎
 宇佐美平三     吉河二郎     岡部小次郎    岡村太郎
 大見平三      臼井六郎     中禪寺平太    常陸平四郎
 所六郎       飯冨源太
  西方
 豊島權守      丸太郎      堀藤太      武藤小次郎
 比企藤次      天羽次郎     都筑平太     熊谷小次郎
 那古谷橘次     多胡宗太     莱七郎      中村右馬允
 金子十郎      春日三郎     小室太郎     河匂七郎
 阿保五郎      四方田三郎    苔田太郎     横山野三
 西太郎       小河小二郎    戸崎右馬允    河原三郎
 仙波二郎      中村五郎     原二郎      猪股平六
 甘糟野次      勅使河原三郎
令入寺門給之間。義盛。景時等候門外左右行事。次御堂上。胤頼參進。取御沓。高綱着御甲間候前庭。觀者難之。以脇立着甲上爲失云々。爰高綱小舎人童聞此事告高綱。々々嗔曰。着主君御鎧之日。若有事之時。先取脇立進之者也。加巨難之者未弁勇士之故實云々。次左馬頭能保。〔直衣。具諸大夫一人衛府一人〕前少將時家。侍從公佐。光盛。前上野介範信。前對馬守親光。宮内大輔重頼等着座堂前。武州已下着其傍。次導師公顯率伴僧廿口參堂。演供養之儀。事終被引布施。比企藤内朝宗。右近將監家景等役送。先之。入布施物等於長櫃。舁立堂砌。俊兼。行政等奉行之。時家。公佐。光盛。頼兼。範信。親光。重頼。仲頼。廣綱。義範。義資。重弘。廣元。經業。以廣。繁政。基繁。義兼。高重。邦通等。數反相替取布施。導師分。
 錦被物五重     綾被物五百重    綾二百端      長絹二百疋
 染絹二百端     藍摺二百端     紺二百端      砂金二百兩
 銀二百兩      法服一具〔幅錦横被〕上重裝束十具
 馬三十疋〔武者所宗親爲北條殿御代官奉行之〕此内十疋置鞍〔御家人等引之〕所殘二十疋者御厩舎人等引立傍。
 一御馬   千葉介常胤        足立右馬允遠元
 二御馬   八田右衛門尉知家     比企藤四郎能員
 三御馬   土肥二郎實平       工藤一臈祐經
 四御馬   岡崎四郎義實       梶原平次景高
 五御馬   淺沼四郎廣綱       足立十郎太郎親成
 六御馬   狩野介宗茂        中條藤次家長
 七御馬   工藤庄司景光       宇佐美三郎祐茂
 八御馬   安西三郎景益       曾我太郎祐信
 九御馬   千葉二郎師常       印東四郎
 十御馬   佐々木三郎盛綱      二宮小太郎(光忠)
次加布施。金作釼一腰。裝束念珠
〔付銀打枝〕。五衣一領〔松重。自簾中被押出云々〕已上左典厩(能保)被取之。此外八木五百石被送遣旅店。次請僧分。口別色々被物三十重。絹五十疋。染絹五十端。白布百端。馬三疋〔一疋置鞍〕也。毎事莫不盡美。思作善大功。已千載一遇也。」還御之後。召義盛。景時。明日可有御上洛。聚軍士等令着到之。其内明曉可進發之者有哉。別可注進其交名之由。被仰含云々。及半更。各申云。群參御家人。常胤已下宗者二千九十六人。其内申則可上洛之由者。朝政朝光已下五十八人云々。

読下し                   そらはれかぜしずか きょう  みなみみどう 〔しょうちょうじゅいん ごう 〕   くよう     と   らる
文治元年(1185)十月大廿四日癸酉。天霽風靜。今日、南御堂〔勝長壽院と号す〕の供養@を遂げ被る。

とらのこく  ごけにんら   うち こと     けんじ   さ     つじつじ  けいご     くないたいふしげより   かいじょう いげ  ぶぎょう
寅剋、御家人等の中殊なる健士を差し、辻々を警固す。宮内大輔重頼A、會塲以下を奉行す。

どう   さゆう   かりや   かま    さほう   にほん   おんざ   うほう   みだいどころ なら    さてんきゅう  しつけら    ごちょうもん ところなり
堂の左右に假屋Bを搆ふ。左方は二品の御座。右方は御臺所并びに左典厩が室家等の御聽聞の所也。

どうまえ  すのこ   もつ     ふせとり 〔にじうにん〕   ざ    な
堂前の簀子Cを以て、布施取〔廿人〕の座と爲す。

やまもと     また  ほうじょうどのしつなら   しか  べ   ごけにんら   つま  ちょうもんじょあ
山本Dには又、北條殿室并びに然る可き御家人等が妻の聽聞所有り。

みのこく  にほんぎょしゅつ〔おんそくたい〕 おんかち ぎ
巳剋。二品御出 〔御束帶〕御歩の儀。

現代語文治元年(1185)十月大二十四日癸酉。空は雨も上がって晴れました。風も静かにそよ吹いています。今日は、南御堂〔勝長寿院といいます〕の完成式典をやりました。午前四時頃に、御家人の中でも、特別大丈夫な者を選んで、要所要所に配置して警戒網を敷きました。宮内大輔藤原重頼が会場以下を指揮担当して、お堂の左右に仮設小屋を建てました。左の方は、二品頼朝様の座です。右の方は、御台所政子様と左典厩一条能保様の奥様達がお経を聞くための場所です。お堂の前のすのこを布施を差し出す役の人たちの席にしました。山際には、北条時政殿の奥さん(牧の方)それとそれなりに名の通った御家人達の妻のお経を聞く場所があります。
午前十時頃に頼朝様が御所をお出ましになられ〔衣冠束帯〕お歩きになられました。

参考@供養は、寺の儀式だが、この場合は勝長寿院の仏式完成祝賀会。
参考A宮内大輔重頼は、は、藤原(葉室一族)。妻が源三位頼政の娘。
参考B假屋は、仮設建築物。
参考C簀子は、今で言うすのこではなく、濡れ縁のこと。今は部屋に対して直角に短い板を敷くが、縁側のように横向きに隙間を開けて板を敷く。
参考D山本は、山の本で山の下をあらわす。

ぎょうれつ
行列

ま   ずいへいじうよにん
先ず随兵十四人

  はたけやまのじろうしげただ     ちばのたろうたねまさ         みうらのすけよしずみ         さぬきのしろうたいふひろつな
 畠山次郎重忠    千葉太郎胤正    三浦介義澄     佐貫四郎大夫廣綱

  かさいのさぶろうきよしげ       はったのたろうともしげ         はんがやつのしろうしげとも      かとうじかげかど
 葛西三郎C重    八田太郎朝重    榛谷四郎重朝    加藤次景廉

  とうくろうもりなが            おおいのへいざじろうさねはる    やまなのこたろうしげくに       たけだのごろうのぶみつ
 藤九郎盛長     大井兵三次郎實春  山名小太郎重國   武田五郎信光

  ほうじょうのこしろうよしとき       おやまのひょうえのじょうともまさ
 北條小四郎義時   小山兵衛尉朝政

     おやまのごろうむねまさ  ぎょけん  も
  小山五郎宗政、御劔を持つ

     ささきのしろうさえもんのじょうたかつな      おんよろい つ
  佐々木四郎左衛門尉高綱は、御鎧を着く

     あいこうのさぶろうすえたか  ごちょうど   か
  愛甲三郎季隆は、御調度を懸く

現代語行列は、
まず先払いの儀仗兵が十四人四列で、
 畠山次郎重忠  千葉太郎胤正   三浦介義澄   佐貫四郎大夫広綱
 葛西三郎清重  八田太郎朝重   榛谷四郎重朝  加藤次景廉
 藤九郎盛長   大井兵三次郎実春 山名小太郎重国 武田五郎信光
 北条小四郎義時 小山兵衛尉朝政
 小山五郎宗政が頼朝様の太刀を持ち
 佐々木四郎左衛門尉高綱が頼朝様の鎧を着けて
 愛甲三郎季隆が弓矢を掛けています。

おんうしろ ごい ろくい  〔 ほい  げぐくり  〕 さんじうににん
御後は五位六位〔布衣Eで下括F卅二人

   みなもとくらんどたいふよりかね   むさしのかみよしのぶ        みかわのかみのりより         とおとうみのかみよしさだ
 源藏人大夫頼兼   武藏守義信     參河守範頼     遠江守義定

  するがのかみひろつな        いずのかみよしのり          さがみのかみこれよし         えちごのかみよしすけ〔おんくつ〕
 駿河守廣綱     伊豆守義範     相摸守惟義     越後守義資〔御沓〕

  かずさのすけよしかね         さきのつしまのかみちかみつ    さきのこうづけのすけのりのぶ    くないたいふしげより
 上総介義兼     前對馬守親光    前上野介範信G    宮内大輔重頼

  こうごうぐうのすけなかより       やまとのかみしげひろ        いなばのかみひろもと        むらかみうまのすけつねなり
 皇后宮亮仲頼    大和守重弘     因幡守廣元     村上右馬助經業

  たちばなうまのすけもちひろ     せきせしゅりのすけよしもり      たいらのしきぶたいふしげまさ   あわのほうがんだいたかしげ
 橘右馬助以廣    關瀬修理亮義盛   平式部大夫繁政   安房判官代高重

  とうのほうがんだいくにみち      にったのくらんどよしかね      なこのくらんどよしゆき        ところのぞうしきもとしげ
 藤判官代邦通    新田藏人義兼    奈胡藏人義行    所雜色基繁

  ちばのすけつねたね         おなじきろくろうたいふたねより   うつのみやのさえもんのじょうともつな〔おんくつ てなが〕   はったのうえもんのじょうともいえ
 千葉介常胤     同六郎大夫胤頼   宇津宮左衛門尉朝綱〔御沓手長〕  八田右衛門尉知家

  かじわらのぎょうぶのじょうともかげ  まきのむしゃどころむねちか     ごとうのひょうえのじょうもときよ    あだちのうまのじょうとおもと
 梶原刑部丞朝景   牧武者所宗親    後藤兵衛尉基C   足立右馬允遠元

参考E布衣は、布製の狩衣の別称。狩衣は武家社会では、束帯に次ぐ礼装であった。かつて民間で用いられた狩装束が、簡便さと軽快さから公卿に取り入れられ日常着となった。現在は神職の正装である。
参考F下括は、指貫(さしぬき)男性用の袴で裾を紐で指し貫き、すぼめて着用したことからこの名がある。紐をひざの下ですぼめる場合は上括り、かかとの上ですぼめる場合は下括りという。
参考G前上野介範信は、熱田大宮司藤原秀範の子。頼朝の母の兄弟、すなわち叔父に当たる。

現代語頼朝様の後ろには位が五位と六位〔狩衣で袴紐は足首で結んでいます〕が四列で三十二人続きます。
 源蔵人大夫頼兼 武蔵守大内義信 参河守源範頼、   遠江守安田義定
 駿河守太田広綱 伊豆守山名義範 相摸守大内惟義、  越後守石川義資〔履き替えようの沓を持つ〕
 上総介足利義兼、前対馬守宗親光 前上野介藤原範信  宮内大輔重頼
 皇后宮亮源仲頼 大和守山田重弘、因幡守大江広元   村上右馬助経業
 橘右馬助以広  関瀬修理亮義盛 平式部大夫繁政   安房判官代高重
 藤判官代邦通  新田蔵人義兼  奈胡藏人義行    所雑色基繁
 千葉介常胤   同六郎大夫胤頼 宇都宮左衛門尉朝綱〔履き替えようの沓と荷物を持つ〕、八田右衛門尉知家
 梶原刑部丞朝景 牧武者所宗親  後藤兵衛尉基清   足立右馬允遠元

つぎ  ずいへいじうろくにん
次に随兵十六人

   しもこうべのしょうじゆきひら         いなげのさぶろうしげなり            おやまのしちろうともみつ         みうらのじうろうよしつら
 下河邊庄司行平     稻毛三郎重成       小山七郎朝光     三浦十郎義連

   ながえのたろうよしかげ            あまののとうないとおかげ            しぶやのしょうじしげくに          かすやのとうたありすえ
 長江太郎義景      天野藤内遠景       澁谷庄司重國     糟谷藤太有季

   ささきのたろうさえもんのじょうさだつな   おぐりにじゅうろうしげなり            はたののこじろうただつな         ひろさわのさぶろうさねたか
 佐々木太郎左衛門尉定綱 小栗十郎重成       波多野小次郎忠綱   廣澤三郎實高

   ちばのへいじつねひで         かじわらのげんたさえもんのじょうかげすえ     むらかみのさえもんのじょうよりとき     かがみのじろうながきよ
 千葉平次常秀      梶原源太左衛門尉景季   村上左衛門尉頼時   加々美二郎長C

現代語続いて後ろの儀仗兵が四列で十六人、
 下河辺庄司行平     稲毛三郎重成     小山七郎朝光   三浦十郎義連
 長江太郎義景      天野藤内遠景     渋谷庄司重国   糟谷藤太有季
 佐々木太郎左衛門尉定綱 小栗十郎重成     波多野小次郎忠綱 広沢三郎実高
 千葉平次常秀      梶原源太左衛門尉景季 村上左衛門尉頼時 加々美二郎長清

つぎ  ずいへいろくじうにん  〔きゅうば  たっしゃ  せいせんさる   みな さいまつ  ぐぶ      みどう  あが    のち  おのおの もんがい とうざい そうら 〕
次に随兵六十人。〔弓馬の逹者をC撰被る。皆最末に供奉す。御堂へ上るの後は、各 門外の東西に候う〕

     ひがしかた
  東方

   あしかがのしろうたろう        さぬきのろくろう             おおかわどのたろう          みながわのしろう
 足利七郎太郎    佐貫六郎(廣義)   大河戸太郎(廣行)  皆河四郎

   ちばのしろう              みうらのへいろく             わだのさぶろう             おなじきごろう
 千葉四郎(胤信)   三浦平六(義村)   和田三郎(宗實)   同五郎(義長)

   ながえのたろう             たたらのしろう              ぬまたのたろう             そがのこたろう
 長江太郎(義景)   多々良四郎(明宗)  沼田太郎      曾我小太郎(祐綱)

   うじのくらんどさぶろう         えどのしちろう              なかやまのごろう            やまだのたろう
 宇治藏人三郎(義定) 江戸七郎(重宗)   中山五郎(爲重)   山田太郎(重澄)

   あまののへいない           くどうのこじろう              にたんのしろう             さののまたたろう
 天野平内(光家)   工藤小次郎(行光)  新田四郎(忠常)   佐野又太郎

   うさみのへいざ             きっかわのじろう             おかべのこじろう            おかむらのたろう
 宇佐美平三     吉河二郎       岡部小次郎     岡村太郎

   おおみのへいじ            うすいのろくろう              ちうぜんじのへいた          ひたちのへいしろう
 大見平三      臼井六郎(常安)    中禪寺平太     常陸平四郎

   ところのろくろう             いいとみのげんた
 所六郎(朝光)    飯冨源太

     にしかた
  西方

   てしまのごんのかみ          まるのたろう               ほりのとうた              むとうのこじろう
 豊島權守(清元)   丸太郎       堀藤太       武藤小次郎(資頼)

   ひきのとうじ               あまはのじろう              つづきのへいた            くまがいのこじろう
 比企藤次      天羽次郎(直常)   都筑平太      熊谷小次郎(直家)

   なごやのきちじ             たこのそうた               よもぎのしちろう             なかむらのうまのじょう
 那古谷橘次(頼時)  多胡宗太      莱七郎       中村右馬允(時經)

   かねこのじうろう            かすがのさぶろう             こむろのたろう             かわわのしちろう
 金子十郎(家忠)   春日三郎(貞幸)   小室太郎      河匂七郎(政頼)

   あぼのごろう              よもださぶろう               こけたのたろう             よこやまののざ
 阿保五郎      四方田H三郎(弘長)  苔田太郎      横山野三

   にしのたろう              おがわのこじろう            とがさきのうまのじょう          かわはらのさぶろう
 西太郎       小河小二郎(祐義)  戸崎右馬允(國延)  河原三郎

   せんばのじろう             なかむらのごろう            はらのじろう              いのまたのへいろく
 仙波二郎      中村五郎       原二郎       猪股平六(範綱)

   あまかすののじ            てしがわらのさぶろう
 甘糟野次(廣忠)   勅使河原三郎(有直)

 じもん  はい  せし  たま   のかん  よしもり  かげとき ら もんがい  さゆう  そうら ぎょうじ
寺門に入ら令め給ふ之間、義盛、景時I等門外の左右に候ひ行事す。

参考H四方田の読みを当初「しもだ」としておりましたが、「奥州余目記録」の五人一揆結成の条で、「四方田」のよみに「シハウテン」と振り仮名がされている。とのご指摘を戴きましたので、「しほうでん」とします。なお、埼玉県本庄市四方田も「しほうでん」と発音しますが、ウィキペディアには地名を「しほうでん」人名を「よもだ」と称し、「しもだ」とも云うらしいが「重箱読み」だと書かれています。
参考I義盛、景時は、侍所別当と所司。

現代語その後に警固兵が六十人。〔弓馬に優れているものが選ばれました。皆最後にお供をして、頼朝様がお堂へ上った後は、それぞれ門の外の東西に控えます〕

  東方が、 
 足利七郎太郎   佐貫六郎広義  大河戸太郎広行 皆河四郎
 千葉四郎胤信   三浦平六義村  和田三郎宗実  同五郎義長
 長江太郎義景   多々良四郎明宗 沼田太郎    曽我小太郎祐綱
 宇治蔵人三郎義定 江戸七郎重宗  中山五郎為重  山田太郎重澄
 天野平内光家   工藤小次郎行光 新田四郎忠常  佐野又太郎
 宇佐美平三    吉河二郎    岡部小次郎   岡村太郎
 大見平三     臼井六郎常安  中禪寺平太   常陸平四郎
 所六郎朝光    飯冨源太宗長

  西方が、
 豊島権守清光  丸太郎     堀藤太     武藤小次郎資頼
 比企藤次    天羽次郎直常  都筑平太経家  熊谷小次郎直家
 那古谷橘次頼時 多胡宗太    莱七郎     中村右馬允時経
 金子十郎家忠  春日三郎貞幸  小室太郎    河匂七郎政頼
 阿保五郎    四方田三郎弘長 苔田太郎    横山野三
 西太郎     小河小二郎祐義 戸崎右馬允国延 河原三郎
 仙波二郎    中村五郎    原二郎     猪股平六範綱
 甘糟野次広忠  勅使河原三郎有直

頼朝様が寺の門に入った後は、和田左衛門尉義盛と梶原平三景時が門の外の左右に控えるように指図をしました。

つぎ  みどう   あが    たねより さんしん   おんくつ  と     たかつなおんよろい き   まえにわ そうら かん  み  もの これ  なん
次に御堂へ上る。胤頼參進し、御沓を取る。高綱御甲を着て前庭に候う間、觀る者之を難ず。

わいだて  もつ  よろい うえ  き     しつ  な     うんぬん  ここ  たかつな こどねりわらわ  こ   こと   き   たかつな  つ
脇立Jを以て甲の上に着るは失と爲すと云々。爰に高綱が小舎人童、此の事を聞き高綱に告げる。

たかつないか   い       しゅくん  おんよろい つ     のひ   も   こと あ   のとき  ま   わいだて と   すす    のものなり
々々嗔りて曰はく。主君の御鎧を着くる之日。若し事有る之時、先ず脇立を取り進める之者也。

こなん   くは    のもの  いま  ゆうし の こじつ  べん      うんぬん
巨難を加ふる之者は未だ勇士之故實を弁ぜずと云々。

つぎ  さまのかみよしやす 〔のうし    しょだいぶ ひとり   えふ  ひとり   ぐ   〕  さきのしょうしょうときいえ じじゅうきんすけ みつもり
次に左馬頭能保〔直衣K。諸大夫L一人、衛府M一人を具す〕、前少將時家、 侍從公佐、光盛B

さきのこうづけのすけのりのぶ さきのつしまのかみちかみつ くないたいふしげよりら  どうまえ  ちゃくざ   ぶしゅう いげ そ  かたわら ちゃく
 前上野介範信、 前對馬守親光、 宮内大輔重頼等堂前に着座す。武州已下其の傍に着す。

参考J脇立は、大鎧は前、左側、後の三方から作られており、右側で結ぶようになっている。しっかりと結ぶ構造上四方を一つには作れない。よって、右側の脇立だけ先に体に付け、その上に三方の大鎧を付けるフリーサイズになっている。高綱はこれを逆に付けたので「逆さだ」と批難されたが、「いざっ」と云う時にはこれを脱いで主人に着せる順にするため反対に付けたと云っている。
参考K直衣は、公家装束の一。烏帽子(えぼし)、直衣、単(ひとえ)、指貫(さしぬき)、下袴、襪(しとうず)、腰帯、浅沓(あさぐつ)、檜扇(ひおうぎ)からなる。
参考L諸大夫と衛府は、京都朝廷から付けられた部下としての役人。
参考M
光盛は、
頼盛の子。

現代語頼朝様がお堂へ上がりました。東六郎大夫胤頼は進み出て、お脱ぎになった沓を持ちました。佐々木四郎高綱は、頼朝様の鎧を着て前庭に控えたところ、見ているものがそれを批難して、「脇立を鎧の外側に着けるのはおかしいんじゃないの。」と云ったんだとさ。これを高綱の小間使いの小僧が聞きつけて、高綱に告げ口をしました。高綱は怒って怒鳴りました。「主君の鎧を着ているときは、もしもの時には先に脇立を着けるように手渡すでしょうが、それを批難するような奴は、本当の戦場での昔からの作法を知らずに言うもんじゃないぞ。」だとさ。

続いて、左馬頭一条能保〔直衣で、付き添いの役人と護衛が一緒〕、前少将時家、侍従公佐、侍従平光盛、前上野介範信、前対馬守宗親光、宮内大輔重頼などが、お堂の前へ座りました。大内武蔵守義信以下がその脇に座りました。

つぎ  どうし こうけん  しょうそうにじっく  ひき  どう  まい    くよう の ぎ  えん    こと をは     ふせ  ひかる
次に導師公顯、伴僧廿口を率い堂へ參り、供養之儀を演ず。事終りて布施を引被る。

ひきのとうないともむね  うこんしょうげんいえかげら えきそう  これ    さき  ふせぶつら を ながびつ  い     どう  みぎり ひ   た
比企藤内朝宗、右近將監家景等役送。之より先。布施物等於長櫃に入れ、堂の砌に舁き立てる。

としかね  ゆきまさら これ  ぶぎょう    ときいえ  きんすけ  みつもり  よりかね  のりのぶ ちかみつ しげより  なかより  ひろつな  よしのり  よしすけ
俊兼、行政等之を奉行す。時家、公佐、光盛、頼兼、範信、親光、重頼、仲頼、廣綱、義範、義資、

しげひろ  ひろもと  つねなり  もちひろ  しげまさ  もとしげ  よしかね  たかしげ  くにみちら  すうたん あいかわ  ふせ   と
重弘、廣元、經業、以廣、繁政、基繁、義兼、高重、邦通等、數反相替り布施を取る。

現代語続いて式典指導僧の公顕は、お供の坊さん達二十人を後へ従わせて、お堂へ来て、開眼供養を演じました。供養が終えてお布施を披露します。比企藤内朝宗、右近将監家景達が運搬係です。その前にお布施の品物を長櫃(幅三尺、長さ一間、高さ三尺くらいの大きな蓋のついた箱)に入れて、お堂の濡れ縁に担いできて置かせました。これを筑後権守俊兼と主計允藤原行政が指導しました。前少将時家、侍従公佐、侍従平光盛、源蔵人大夫頼兼、前上野介範信、前対馬守親光、宮内大輔重頼、皇后宮亮仲頼、駿河守太田広綱、山名伊豆守義範、越後守義資、大和守重弘、兵庫頭広元朝臣、経業、以広、繁政、基繁、足利上総介義兼、渋谷次郎高重、大和判官代邦道などが、何回か入れ替わり立ち代り布施を取り出し差し出しました。参考役送は、運搬係。

どうし   ぶん
導師が分、

  みしきのかずけものいつがさね   あやのかずけもの ごひゃくがさね  あやにひゃくたん           ちょうけん にぴゃっぴき
 錦被物五重     綾被物N五百重    綾二百端      長絹O二百疋

  そめぎぬにひゃくたん        あいずりにひゃくたん         こんにひゃくたん            さきんにひゃくりょう
 染絹二百端     藍摺二百端     紺二百端      砂金二百兩

  ぎんにひゃくりょう           ほうふく いちぐ〔はばにしきよこかずけ〕 うわがさねしょうぞくじうぐ
 銀二百兩      法服一具 〔幅錦横被〕 上重裝束十具

  うまさんじっぴき 〔むしゃどころむねちか ほうじょうどのおだいかん な これ   ぶぎょう 〕 こ   うち じっぴき  くら  お    〔ごけにんら これ  ひ  〕
 馬三十疋〔武者所宗親、北條殿御代官と爲し之を奉行す〕此の内十疋は鞍を置く〔御家人等之を引く〕

参考N被物は、女性が外歩きなどにかむっていた布状のもの。又は、これで衣服を包んだもの。
参考O長絹は、糊で張った仕上げの絹布。絹一疋は、幅二尺二寸(約66cm)、長さ五丈一尺(約18m)の絹の反物(一反は幅が半分)。

のこ  ところ にじっぴきは   みんまやのとねりら かたわら ひ  た
殘る所の二十疋者、御厩舎人等、傍に引き立てる。

  いちのおんうま    ちばのすけつねたね               あだちのうまのじょうとおもと
 一御馬   千葉介常胤        足立右馬允遠元

  にのおんうま      はったのうえもんのじょうともいえ         ひきのとうしろうよしかず
 二御馬   八田右衛門尉知家     比企藤四郎能員

  さんのおんうま     といのじろうさねひら                くどうのいちろうすけつね
 三御馬   土肥二郎實平       工藤一臈祐經

  よんのおんうま     おかざきのしろうよしざね             かじわらのへいじかげたか
 四御馬   岡崎四郎義實       梶原平次景高

  ごのおんうま      あさぬまのしろうひろつな             あだちのじうろうたろうちかなり
 五御馬   淺沼四郎廣綱       足立十郎太郎親成

  ろくのおんうま     かのうのすけむねもち               ちゅうじょうのとうじいえなが
 六御馬   狩野介宗茂        中條藤次家長

  しちのおんうま     くどうのしょうじかげみつ              うさみのさぶろうすけもち
 七御馬   工藤庄司景光       宇佐美三郎祐茂

  はちのおんうま     あんざいのさぶろうかげます           そがのたろうすけのぶ
 八御馬   安西三郎景益       曾我太郎祐信

  くのおんうま       ちばのじろうもろつね               いんとうのしろう
 九御馬   千葉二郎師常       印東四郎

  とおのおんうま     ささきのさぶろうもりつな              にのみやのこじろう
 十御馬   佐々木三郎盛綱      二宮小太郎(光忠)

現代語式典指導僧の分は、錦の被り物(かぶりもの)五枚、綾織りの被る物五百枚、綾の反物二百反、長絹二百疋、染めた絹二百反、藍摺の布二百反、紺の布二百反、砂金二百両、銀二百両、お坊さんの着物一式〔幅広の錦の横被りもの〕、上へ重ねる裝束(袈裟)十式。馬三十頭〔武者所宗親が北条時政殿の代官として、これを采配しました〕そのうち十頭は鞍を付けています。〔御家人が目の前に引いています〕残りは馬小屋で馬の世話する下働きがその脇に引いております。
 一の御馬は、弓手が千葉介常胤、女手が足立右馬允遠元。
 二の御馬は、弓手が八田右衛門尉知家、女手が比企藤四郎能員。
 三の御馬は、弓手が土肥二郎実平、女手が工藤一臈祐経。
 四の御馬は、弓手が岡崎四郎義実、女手が梶原平次景高。
 五の御馬は、弓手が浅沼四郎広綱、足立十郎太郎親成。
 六の御馬は、弓手が狩野介宗茂、女手が中条藤次家長。
 七の御馬は、弓手が工藤庄司景光、女手が宇佐美三郎祐茂。
 八の御馬は、弓手が安西三郎景益、女手が曽我太郎祐信。
 九の御馬は、弓手が千葉二郎師常、女手が印東四郎。
 十の御馬は、弓手が佐々木三郎盛綱、女手が二宮小太郎光忠。

つぎ   かぶせ  こがねづくりつるぎひとこし しょうぞく ねんじゅ〔しろがね うちえだ つ  〕   ごい いちりょう 〔まつがさね れんちゅうよ おしいださる   うんぬん〕
次に加布施P。金作の釼一腰、裝束、念珠〔銀の打枝に付く〕、五衣Q一領〔松重、簾中自り押出被ると云々〕

いじょう さてんきゅう これ  とらる     こ   ほか   やき ごひゃっこく  りょてん  おく  つか  さる
已上、左典厩之を取被る。此の外、八木五百石、旅店Rに送り遣は被る。

つぎ  しょうそう  ぶん  くべつ  いろいろ かずけものみえがさね きぬごじっぴき そめぎぬごじったん はくふひゃくたん うまさんびき 〔いっぴき くら お  〕  なり
次に請僧の分、口別に色々の被物三十重、絹五十疋、染絹五十端、白布百端、馬三疋〔一疋は鞍を置く〕也。

ことごと   び   つく  ざる  な     さぜん   たいこう  おも     すで  せんざいいちぐうなり
事毎に美を盡さ不は莫し。作善の大功を思はば、已に千載一遇也。」

参考P加布施は、お布施のおまけ。
参考Q五衣は、元は御衣(おんぞ)と云って偉い人がその場で着ているものを与える。これを音読みで「ごい」と読み、「五衣」と使ってもいる。
参考R旅店は、京都から来た僧侶たちの旅先の宿で、実は泊めている御家人の屋敷。

現代語続いて、追加のお布施です。金の金細工を仕付けた刀を一腰、お坊さんの装束、数珠〔銀でこさえた木の枝に掛ける〕、頼朝様の着ていた着物一枚〔松を重ねた模様。御簾の中から押し出しましたとさ〕以上の品を左典厩一条能保が手に取り与えました。この他に米五百石(1250俵75t)を宿所に送らせました。続いて、お供の坊さん達の分は、一人につき、多色の被り物(かぶりもの)三十枚、絹五十疋、染ねた絹五十反、白布百反、馬三頭〔一頭は鞍を置く〕です。全て綺麗にしていないものは有りません。これだけの仏に手厚く尽くした内容を考えれば、仏の加護に出会う千載一遇の機会を得たようなものです。

かんごののち   よしもり  かげとき  め    みょうにち ごじょうらく あ  べ
還御之後、義盛、景時を召し、明日御上洛有る可し。

 ぐんしら   あつ  これ  ちゃくとうせし    そ   うち みょうぎょうしんぱつすべ のもの あ   や
軍士等を聚め之を着到令めS、其の内に明曉進發可し之者有り哉。

べつ    そ  きょうみょう ちゅうしんすべ のよし  おお  ふく  らる    うんぬん
別して其の交名を注進可し之由、仰せ含め被ると云々。

はんそう  およ  おのおの もう     い       ぐんさん  ごけにん  つねたねいか むねと   もの にせんきゅうじゅうろくにん
半更に及び、各 申して云はく。群參の御家人、常胤已下宗たる者二千九十六人。

そ   うち すなは じょうらくすべ  のよし  もう  もの  ともまさ  ともみつ いげ ごじゅうはちにん  うんぬん
其の内、則ち上洛可し之由を申す者、朝政、朝光已下五十八人と云々。

参考S着到令めは、到着名簿を書かせる。

現代語御所へ帰った後、和田左衛門尉義盛、梶原平三景時を呼んで、明日京都へ攻めあがるから、武士達を集めて名簿を提出させなさい。その内で明日の朝直ぐに出発できるものがどのくらいいるか、別に書き出すように、命じられましたとさ。夜中になって、それぞれ報告したのには、千葉介常胤を始めとする主だった者は二千九十六人です。その中でも、直ぐに京都へ出発できるのは、小山左衛門尉朝政、小山七郎朝光以下五十八人です。なんだとさ。

文治元年(1185)十月大廿五日甲戌。今曉。差領状勇士等。被發遣京都。先至尾張美濃之時。仰兩國住人。可令固足近洲俣已下渡々。次入洛最前可誅行家義經。敢莫斟酌。若又兩人不住洛中者。暫可奉待御上洛者。各揚鞭云々。

読下し                   こんぎょう  りょうじょう ゆうし  さ   きょうと  はっけんせら
文治元年(1185)十月大廿五日甲戌。今曉、領状の勇士を差し京都に発遣被る。

 ま  おわり    みの  いた  のとき   りょうごく じゅうにん  おお    あぢか  すのまた  いげ わたしわたし かた  せし  べ
先ず尾張、美濃に至る之時、兩國の住人に仰せ、足近@、洲俣A已下の渡々を固め令む可し。

つい  じゅらく  さいぜん   ゆきいえ  よしつね  ちう  べ     あえ  く   しんしゃく   なか
次で入洛の最前に、行家、義経を誅す可し。敢て苦を斟酌する莫れ。

も  またりょうにんらくちゅう じゅう ずんば  しばら ごじょうらく  ま たてまつ べ てへれば おのおの むち  あ    うんぬん
若し又兩人洛中に住せ不者、暫く御上洛を待ち奉る可し者、 各 鞭を揚ぐと云々。

参考@足近は、旧美濃國羽島郡足近村で現岐阜県羽島市足近町。
参考A洲俣は、須股とも墨俣とも書き、旧美濃國安八郡墨俣村で現岐阜県大垣市墨俣町墨俣。

現代語文治元年(1185)十月大二十五日甲戌。(頼朝様は)今日の夜明けに、義経討伐の意を受けた勇士達を京都へ向けてを発させました。尾張と美濃に着いたならば、両国の侍たちに言いつけて、「足近、洲俣(長良川)の渡しに陣地を構築して京都から渡って来れないように守らせなさい。そして、京都へ入ったら何よりも先に行家と義経を殺しなさい。今までの付き合いや向うの立場などを考えたり情けを掛けたりする必要はない。もしも又、二人が京都にいなければ、暫く私の上洛を待っていなさい。」と命じたので、皆馬に鞭打って出発しました。

文治元年(1185)十月大廿六日乙亥。土佐房昌俊并伴黨三人。自鞍馬山奥。豫州家人等求獲之。今日於六條河原梟首云々。

読下し                   とさのぼうしょうしゅんなら   ばんとうさんにん くらまやま  おく
文治元年(1185)十月大廿六日乙亥。土佐房昌俊并びに伴黨三人、鞍馬@の奥より、

よしゅう   けにんら これ  もと  え     きょうろくじょうがわら   を     きょうしゅ   うんぬん
豫州の家人等之を求め獲る。今日六條河原に於いて梟首すと云々。

参考@鞍馬山は、寺を松尾山金剛壽命と号す。本尊は毘沙門天。天台宗。義經牛若丸時代ここに居た。そのような由緒のある寺の奥に昌俊が隠れたのは、何か特別の縁故があるのか疑問である。しかも、義經の育ったところではないか。

現代語文治元年(1185)十月大二十六日乙亥。土佐房昌俊とその連れの三人を鞍馬山の奥から義経の家来たちが捕まえて連れてきました。今日六条河原で斬首にしたとの事です。

文治元年(1185)十月大廿七日丙子。二品被立奉幣御使於伊豆筥根等權現。伊豆新田四郎。箱根工藤庄司也。各被奉御馬一疋云々。」又筑前介兼能爲御使上洛云々。

読下し                   にほんほうへい  おんし   いず   はこねら   ごんげん  た  られ
文治元年(1185)十月大廿七日丙子。二品奉幣の御使を伊豆、筥根等の權現に立て被る。

 いず   にたんのしろう  はこね  くどうのしょうじなり  おのおの おんうまいっぴき たてまつられ  うんぬん
伊豆は新田四郎、箱根は工藤庄司也。各、 御馬一疋を奉被ると云々。

また ちくぜんのすけかねよし おんし な    じょうらく   うんぬん
又、筑前介兼能@御使と爲して上洛すと云々。

参考@筑前介兼能は、村上源氏雅兼の孫で通能の子。

現代語文治元年(1185)十月大二十七日丙子。頼朝様は、(義経を退治するための)祈りの代参を熱海の走湯権現と箱根権現に行かせました。熱海は新田四郎忠常を、箱根へは工藤庄司景光です。それぞれ馬を一頭づつ奉納したんだとさ。又、筑前介兼能が使者として京都へ旅発ちましたとさ。

文治元年(1185)十月大廿八日丁丑。片岡八郎常春同心佐竹太郎〔常春舅〕有謀叛企之間。被召放彼領所下総國三崎庄畢。仍今日賜千葉介常胤。依被感勤節等也。

読下し                    かたおかのはちろうつねはる さたけのたろう 〔つねはる しうと〕   どうしん  むほん  くはだ あ  のかん
文治元年(1185)十月大廿八日丁丑。 片岡八郎常春@、佐竹太郎〔常春が舅〕に同心し謀叛の企て有る之間、

か   りょうしょ しもうさのくにみさきのしょう め  はなたれをはんぬ  よっ きょう   ちばのすけつねたね たま     きんせつら  かん  られ    よっ    なり
彼の領所、下総國三崎庄Aを召し放被畢。 仍て今日、千葉介常胤に賜はる。勤節等を感ぜ被るに依って也。

参考@片岡八郎常春は、旧常陸国新治郡八郷町片岡で現石岡市片岡。
参考A下総國三崎庄は、
海上郡三崎村本郷で千葉県銚子市、旭市。

現代語文治元年(1185)十月大二十八日丁丑。片岡八郎常春は、佐竹太郎忠義(常春の舅に当たる)と共謀して謀反を計っているので、彼の所領の領所下総国三崎庄の地頭を取り上げていました。そこで、今日それを千葉介常胤に(頼朝が)与えました。真面目な忠義を感じられたからです。

文治元年(1185)十月大廿九日戊寅。爲征豫州備州等之叛逆。二品今日上洛給。於東國健士者直可被具之。山道北陸之輩者經山道可參會于近江美濃等所々之由。被廻御書。又相摸國住人原宗三郎宗房者勝勇敢者也。而早河合戰時令同意景親。奉射二品之間。恐科逐電。當時在信濃國。早相具之。可馳參洲俣邊之旨。被仰下于彼國御家人等中云々。」巳尅令進發給。土肥二郎實平候先陣。千葉介常胤在後陣。今夜止宿相摸國中村庄云々。當國御家人等悉參集。

読下し                   よしゅうびしゅうらの ほんぎゃく せい  ため  にほん きょう じょうらく  たま
文治元年(1185)十月大廿九日戊寅。豫州備州等之叛逆を征す爲、二品今日上洛し給ふ。

とうごく けんじ   をい  は じき  これ  ぐ さる  べ
東國健士に於て者直に之を具被る@可し。

さんどう ほくろく のやからは  さんどう  へ    おうみ みの  ら   しょしょに さんかいすべ  のよし  おんしょ  めぐ  さる
山道A北陸B之輩者、山道を經てC近江美濃等の所々于參會可し之由、御書を廻ら被る。

また  さがみのくにじゅうにん はらそうざぶろうむねふさ は  すぐ    ゆうかん    ものなり
又、相摸國住人 原宗三郎宗房D者、勝れた勇敢なる者也。

しか   はやかわかっせん  とき  かげちか  どうい せし    にほん  いたてまつ のかん  とが  おそ  ちくてん    とうじしなののくに  あ
而るに早河合戰Eの時、景親に同意令め、二品を射奉る之間、科を恐れ逐電す。當時信濃國に在り。

はや  これ あいぐ     すのまたへん  は   さん  べ   のむね  かのくに  ごけにんら   なかに おお  くださる    うんぬん
早く之を相具し、洲俣邊に馳せ參ず可し之旨、彼國の御家人等の中于仰せ下被ると云々。」

みのこく  しんぱつせし たま    といのじろうさねひら せんじん  そうら   ちばのすけつねたねこうじん  あ    こんやさがみのくになかむらのしょう   ししゅく  うんぬん
巳尅、進發令め給ふ。土肥次郎實平先陣に候ひ、千葉介常胤後陣に在り。今夜相摸國中村庄Fに止宿と云々。

とうごく ごけにんらことごと  さんしゅう
當國御家人等悉く參集す。

参考@直に之を具被るは、頼朝が直接引率して東海道を行く。
参考
A
山道は、東山道で現在の中央本線沿いで、洲俣川で東海道と出会う。
参考B北陸は、北陸道で日本海沿いに敦賀へ出る。
参考C
山道を經ては、北陸道を使用せず空けて置くように配慮しているのは、源廷尉義経と出会わないようにするためか?
参考D宗三郎宗房は、原郷で神奈川県足柄下郡湯河原町吉原字原。
参考E
早河合戰は、初戦の石橋山合戦。
参考F中村庄は、中村庄司宗平の地元で、現在の神奈川県足柄上郡中井町。ちなみに中井町は中村と井口村の一部が合併。

現代語文治元年(1185)十月大二十九日戊寅。州源九郎義経、備州行家の反逆を征伐するために、二品頼朝様は、今日京都へ向けて出発です。関東の御家人は、直接お供をさせていくが、東山道、北陸道の御家人は、東山道を通って、近江や美濃の東海道沿いで待ってて会うようにすることと、命令書を回させました。又、相模の侍の原宗三郎宗房は、優れた勇敢な武士です。しかし、早川合戦(石橋山合戦)の時に、大庭三郎景親軍に参加して、頼朝様に敵対して弓を射たので、その罪を恐れて何処かへ逃げてしまいました。今は信濃国に居るとのことなので、早く彼を連れて、墨俣川あたりに来て会いなさい。と信濃の国の御家人達におっしゃって下さいましたとさ。

午前十時頃に出発なされました。土肥次郎実平が先頭を勤め、千葉介常胤がしんがりにおります。今夜は相模国の中村の庄に宿を取られましたとさ。相模の国の御家人は全員が集りました。

十一月へ

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