吾妻鏡入門

文治元年(1185)十一月大

文治元年(1185)十一月大一日庚辰。二品着御駿河國黄瀬河驛。被觸仰御家人等云。爲聞定京都事。暫可逗留于此所。其程各可用意乘馬并旅粮已下事云々。

読下し                        にほん するがのくにきせがわのうまや  つ  たま      ごけにんら   ふ   おお  られ  い
文治元年(1185)十一月大一日庚辰。二品、駿河國黄瀬河驛@に着き御ひ、御家人等に觸れ仰せ被て云はく。

きょうと   こと   き   さだ    ため  しばら こ   ところにとうりゅうすべ    そ   ほど おのおの じょうばなら   りょりょう いか    こと  ようい すべ    うんぬん
京都の事を聞き定めん爲、暫く此の所于逗留可しA。其の程に 各 乘馬并びに旅粮已下の事を用意B可しと云々。

参考@黄瀬河驛は、沼津市大岡字木瀬川。大岡の牧の内なので、北條時政の後妻牧の方の実家に泊まったのか。
参考A逗留可しは、義經との出会いを避けて落ち延びるのを待っているのだろうか?
参考B乘馬并びに旅粮の用意は、武士の食料よりも戦闘用の馬の事を先に書いているのが、弓馬の達者な関東武士らしくて良い。

現代語文治元年(1185)十一月大一日庚辰。二品頼朝様は静岡県沼津市大岡字木瀬川の宿へ到着して、御家人達に知らせおっしゃるのには、京都の情勢を仕入れるため、暫くここに逗留する。その間に馬の手入れや自分の兵糧などを用意しておくようにとだとさ。

文治元年(1185)十一月大二日辛巳。豫州已欲赴西國。仍爲令儲乘船。先遣大夫判官友實之處。有庄四郎者〔元与州家人。當時不相從〕今日於途中相逢友實問云。今出行何事哉。友實任實答事由。庄僞示合如元可属与州之趣。友實又稱可傳逹其旨於豫州。相具進行。爰庄忽誅戮廷尉訖。件友實者越前國齋藤一族也。垂髪而候仁和寺宮。首服時属平家。其後向背相從木曾。々々被追討之比。爲豫州家人。遂以如此云々。

読下し                        よしゅうすで  さいごく  おもむ      ほつ
文治元年(1185)十一月大二日辛巳。豫州已に西國へ赴かん@と欲す。

よつ  じょぷせん もう  せし    ため  ま   たいふほうがんともざね   つか    のところ  しょうのしろう     もの あ     〔もとよしゅう  けにん  とうじ あいしたがわず〕
仍て乘船を儲け令めん爲、先ず大夫判官友實を遣はす之處、庄四郎という者有り〔元与州が家人。當時相從不〕

きょう  とちゅう  をい  ともざね  あいあ   と     い       いま  い   ゆ     なにごとや  ともざね  じつ  まか    こと  よし  こた
今日途中に於て友實に相逢い問いて云はく。今の出で行きは何事哉。友實、實に任せてA事の由を答う。

しょう いつは  もと  ごと  よしゅう  ぞく  べ  のおもむき しめ  あ       ともざねまた  そ  むねを よしゅう  つた  たつ  べ    しょう   あいぐ  すす  ゆ
庄僞りて元の如く与州に属す可し之趣を示し合はす。友實又、其の旨於豫州に傳へ逹す可しと稱し、相具し進み行く。

ここ  しょうたちま  ていい  ちゅうりく をはんぬ
爰に庄忽ち廷尉に誅戮され訖。

くだん ともざねは  えちぜんのくに さいとういちぞく なり すいはつ   て にんなじのみや そうら

件の友實者、越前國 齋藤一族B也。 垂髪Dにし而仁和寺宮に候う。

しゅふく  ときへいけ  ぞく     そ  ご きょうはい  きそ   あいしたが
首服の時平家に属し、其の後向背し木曾に相從う。

  きそ   ついとうされ  のころ  よしゅう けにん な      つい  もつ  かく  ごと    うんぬん
々々が追討被る之比、豫州家人と爲し、遂に以て此の如しDと云々。

参考@西國は、西海道で九州へ。
参考A實に任せては、本当の事を。
参考B齋藤一族は、秀郷流藤原氏。
参考C垂髪は、童頭でおかっぱの事。又は、後ろに束ねて垂らす、仁和寺の稚児だった。
参考D遂に以ってかくの如しとは、いったい何がなんだか分からない。

現代語文治元年(1185)十一月大二日辛巳。予洲源九郎義経は、仕方が無いので九州へ行こうとしました。そこで、舟を用意するため先に、検非違使友実を遣わしました処、庄四郎と言う人がいます〔元は予洲義経の家来ですが、今は従っていません。
今日、途中で友実に出会ったので、質問をしました。「何処へ何をしに行くのか?」友実は本当の事情を答えて言いました。これを聞いた庄は、嘘を言って前の通りに
予洲義経の家来になるのでと、話をあわせました。友実はその事を予洲義経に伝えましょうと云いながら、一緒に連れて来ました。
ところが、庄は直ぐに
予洲義経に首を刎ねられてしまいました。この友実は、越前国(福井県)斉藤の一族です。子供の頃は仁和寺宮に仕えていました。元服するときに平家に仕えて、平家都落ちの後は、木曽義仲に従って、木曽義仲が追討されると、予洲義経の家来になっていましたが、とうとうこの始末でした。

文治元年(1185)十一月大三日壬午。前備前守行家〔櫻威甲〕伊豫守義經〔赤地錦直垂。萌黄威甲〕等赴西海。先進使者於 仙洞。申云。爲遁鎌倉譴責。零落鎭西。最後雖可參拝。行粧異躰之間。已以首途云々。前中將時實。侍從良成〔義經同母弟。一條大藏卿長成男〕伊豆右衛門尉有綱。堀弥太郎景光。佐藤四郎兵衛尉忠信。伊勢三郎能盛。片岡八郎弘經。弁慶法師已下相從。彼此之勢二百騎歟云々。

読下し                        さきのびぜんのかみゆきいえ〔さくらをどし よろい〕
文治元年(1185)十一月大三日壬午。前備前守行家 〔櫻威@の甲〕

いよのかみよしつね 〔あかぢにし ひたたれ もえぎをどし  よろい〕 ら さいかい  おもむ
伊豫守義經〔赤地錦の直垂に萌黄威Aの甲〕等西海へ赴く。

ま    ししゃ を せんとう   すす    もう    い       かまくら  けんせき  のが   ため  ちんぜい  れいらく
先ず使者於仙洞へ進め、申して云はく。鎌倉の譴責を遁れん爲、鎭西に零落す。

さいご   さんぱいすべ  いへど  ぎょうしょういたいのかん  すで  もつ   かどで    うんぬん
最後に參拝可しと雖も、行粧異躰之間、已に以て首途すと云々。

さきのちうじょうときざね じじゅうよしなり 〔よしつね  どうぼてい  いちじょうおおくらのきょうながなり だん〕  いずうえもんのじょうありつな  ほりのいやたろうかげみつ
前中將時實C、侍從良成D〔義經が同母弟。 一條大藏卿長成が 男〕、伊豆右衛門尉有綱E、堀弥太郎景光、

さとうのしろうひょうえのじょうただのぶ   いせのさぶろうよしもり  かたおかのはちろうひろつね べんけいほっし  いげ あいしたが  かれこれのせい にひゃくきか   うんぬん
 佐藤四郎兵衛尉忠信、  伊勢三郎能盛、 片岡八郎弘經、 弁慶法師F已下相從う。彼此之勢二百騎歟と云々。

参考@櫻威しは、鎧の腹に張ってある弦走り皮に甲州印伝のように煙で蒸した桜の模様がある。
参考A萌黄威しは、鎧の小札をつなぐ組み紐が萌黄色(やや黄色みを帯びた緑色)。
参考B赤地錦は、赤糸を貴重として金襴で模様を織り込んだ生地。平家物語の巻7実盛最後に、討死覚悟と赤地錦の直垂を宗盛に許可を得ているので、大将クラスしか着られ無いようだ。
参考C前中將時實は、大納言平時忠の子。
参考D
侍從良成は、一条長成と常盤御前の子。
参考E伊豆右衛門尉有綱は、源三位入道頼政の孫(仲綱の子)。
参考F弁慶法師は、吾妻鏡が書かれた時期には、既に義経記が出来た後なので、引用されている可能性もあるので、吾妻鏡に記述されているからといって史実としての証拠にはならない。

現代語文治元年(1185)十一月大三日壬午。前備前守行家〔桜威しの鎧〕と源九郎義経〔赤地錦に直垂に萌黄威しの鎧〕等は、九州へ行きます。ともかく使いを後白河法皇の所へ行かせ、申し上げました。「鎌倉からの厳しい責めを逃れるために、九州へ都落ちします。最後にお会いして挨拶をしたかったのですが、戦仕度の武装姿なので遠慮して出発しました。」だとさ。前中将時実、侍従良成〔義経が同母弟で、一条大蔵卿長成の息子〕、伊豆右衛門尉有綱、堀弥太郎景光、佐藤四郎兵衛尉忠信、伊勢三郎能盛、片岡八郎弘経、弁慶法師等が従っています。かれこれ、その軍勢は二百騎位かなだとさ。

文治元年(1185)十一月大五日甲申。關東發遣御家人等入洛。二品忿怒之趣。先申左府〔經忠〕云々。」今日。豫州至河尻之處。攝津國源氏多田藏人大夫行綱。豊嶋冠者等遮前途。聊發矢石。豫州懸敗之間。不能挑戰。然而与州勢多以零落。所殘不幾云々。

読下し                        かんとうはっけん  ごけにんら  じゅらく   にほん  ふんぬのおもむき  ま   さふ   もう    うんぬん
文治元年(1185)十一月大五日甲申。關東發遣の御家人等入洛す。二品が忿怒之趣、先ず左府@に申すと云々。」

きょう    よしゅう かわじり  いた  のところ  せっつのくにげんじ ただのくらんどたいふゆきつな てしまのかじゃら ぜんと   さへぎ   いささ やせき  はな
今日、豫州河尻Aに至る之處。攝津國源氏 多田藏人大夫行綱B、豊嶋冠者等前途を遮り、聊か矢石を發つ。

よしゅう か  やぶ  のかん  いど  たたか  あたはず  しかれども よしゅう ぜい おお もつ れいらく    のこ ところいくならず うんぬん
豫州懸け敗る之間、挑み戰うに不能。然而与州の勢多く以て零落し、殘る所不幾と云々。

参考@左府は、左大臣の唐名で藤原経宗。
参考A河尻は、多分淀川の川尻であろう?
参考B多田藏人大夫行綱は、摂津多田源氏で満仲より数えて八代目嫡流。摂津国川辺郡多田(兵庫県川西市多田)で鹿ケ谷事件で裏切って平C盛に告げた人。

現代語文治元年(1185)十一月大五日甲申。関東から使わされた御家人が京都へ入りました。二品頼朝様がとても怒っていらっしゃることを、何はともかく、左大臣藤原経宗に申し入れましたとさ。一方、源九郎義経は今日、淀川の河口に着いた時に、摂津国の源氏の多田蔵人大夫行綱と豊島冠者が行き先に陣を構えて、多少矢や石を投げかけてきました。源九郎義経が、攻め込むと歯向かってこれる程では有りませんでした。しかし、このドサクサに源九郎義経の軍隊は散り散りに逃げ去って、残った兵は幾らもおりませんでしたとさ。

文治元年(1185)十一月大六日乙酉。行家。義經於大物濱乘船之刻。疾風俄起而逆浪覆船之間。慮外止渡海之儀。伴類分散。相從豫州之輩纔四人。所謂伊豆右衛門尉。堀弥太郎。武藏房弁慶并妾女〔字靜〕一人也。今夜一宿于天王寺邊。自此所逐電云々。今日。可尋進件兩人之旨。被下 院宣於諸國云々。

読下し                         ゆきいえ よしつね だいもつはま  をい  じょうせんのとき しっぷうにはか お  て ぎゃくろうふね くつがえ のかん
文治元年(1185)十一月大六日乙酉。行家、義經大物濱@に於て乘船之刻、疾風俄に起き而逆浪船を覆す之間、

 りょがい  とかいのぎ    や    ばんるいぶんさん
慮外に渡海之儀を止め、伴類分散す。

よしゅう   あいしたが のやから わずか よにん  いはゆるいずうえもんのじょう  ほりのいやたろう むさしぼうべんけいなら    しょうじょ 〔あざ しずか〕 ひとりなり
豫州に相從う之輩、纔に四人、所謂伊豆右衛門尉、堀弥太郎、武藏房弁慶并びに妾女〔字を靜〕一人也。

こんや てんのうじへん に いっしゅく   こ  ところよ  ちくてん    うんぬん
今夜天王寺邊A于一宿し、此の所自り逐電すと云々。

きょう    くだん りょうにん  たず  しん  べ    のむね  いんぜんを しょこく  くださる   うんぬん
今日、件の兩人を尋ね進ず可し之旨、院宣於諸國へ下被ると云々。

参考@大物濱は、大阪市西淀川区大和田。尼崎市では、兵庫県尼崎市大物町2丁目12大物神社、大物橋碑。こちらだと言ってる。
参考A天王寺邊は、大阪市天王寺区四天王寺1丁目11番18号四天王寺

現代語文治元年(1185)十一月大六日乙酉。行家と義経が、大物浜で船に乗ろうとしていた時に、急に突風が吹いて、大波が船をひっくり返してしまいましたので、思いもよらず九州への航海をあきらめたので、仲間達はばらばらに逃げ散ってしまいました。義経と一緒についてきたのは、たったの四人でした。それは、伊豆右衛門尉有綱、堀弥太郎景光、武蔵坊弁慶と妾の靜御前でした。その夜は、天王寺のあたりに一泊して、そこから何処かへ逃げ去りましたとさ。今日、その行家と義経の二人を見つけて差し出すように、後白河法皇から院の命令を諸国へお出しになられたそうなんだってさ。

文治元年(1185)十一月大七日丙戌。二品召聚軍士。爲聞食定京都事。逗留黄瀬河宿給之處。去三日行家。義經出中國落西海之由。有其告。但件兩人賜院廳御下文。四國九國住人宜從兩人下知之旨被載之。行家補四國地頭。義經補九州地頭之故也云々。今度事。云 宣旨。云院廳御下文。被任逆徒申請畢。依何被弃捐乎度々勳功哉之由。二品頻欝陶給。而可被下彼 宣旨否及御沙汰之時。右府〔兼實〕頗被扶持關東之旨。風聞之間。二品欣悦給云々。今日義經被解却見任〔伊与守檢非違使云々〕

読下し                         にほん ぐんし   め    あつ    きょうと  こと  き     め  さだ    ため
文治元年(1185)十一月大七日丙戌。二品軍士を召し聚め、京都の事を聞こし食し定めん爲、

きせがわしゅく  とうりゅう  たま  のところ  さぬ みっか  ゆきいえ よしつね ちうごく い   さいかい おち   のよし  そ   つげあ
黄瀬河宿@に逗留し給ふ之處、去る三日A行家、義經中國を出で西海へ落る之由、其の告有り。

ただ  くだん りょうにん いんのちょう おんくだしぶみ たま     しこく    きゅうこく じゅうにん よろ   りょうにん   げち  したが のむねこれ  の   らる
但し件の兩人、 院廳の 御下文を賜はり、四國、九國の住人宜しく兩人の下知に從う之旨之を載せ被る。

ゆきいえ  しこく   ぢとう   ぶ     よしつね  きゅうしゅう  ぢとう  ぶ   のゆえなり  うんぬん
行家を四國の地頭に補し、義經を九州の地頭に補すB之故也と云々。

このたび  こと  せんじ   い   いんのちょう おんくだしぶみ い   ぎゃくと  もう  う    まか られをはんぬ
今度の事、宣旨と云ひ、院廳の御下文と云ひ、逆徒の申し請けに任せ被畢。

なに  よつ  たびたび  くんこう  きえん せらるるや のよし  にほん しき    うっとう   たま
何に依て度々の勳功を弃捐被乎哉之由、二品頻りに欝陶し給ふ。

しか     か   せんじ   くださるべき いな  おんさた   およ  のとき   うふ  すこぶ かんとう   ふち さる  のむね  ふうぶんのかん  にほん きんえつ たま    うんぬん
而るに彼の宣旨を下被可や否や御沙汰に及ぶ之時、右府C頗る關東を扶持被る之旨、風聞之間、二品欣悦し給ふと云々。

きょう   よしつね げんにん  〔いよのかみ   けびいし   うんぬん〕   げきゃく さる
今日、義經見任D〔伊与守、檢非違使と云々〕を解却Eる。

参考@黄瀬川宿は、沼津市大岡字木瀬川。
参考A
去る三日は、兼実の玉葉には五日条に「九郎等室に於いて乗船しをはんぬと。」とある。
参考B行家を四國の地頭に補し、義經を九州の地頭に補すは、総地頭を指していると思われるが、実はこの時代には総地頭と云う単語はないはず。吾妻鏡が書かれたのはこれより約百年後であり、頼朝が任命されたのは「総追捕使」である。六巻文治二年三月一日を参照。
参考C右府は、右大臣の唐名で九条兼実。
参考D見任は、現任で現在までの官職。
参考E
解却は、解任。

現代語文治元年(1185)十一月大七日丙戌。頼朝様は、軍隊を集められて京都へ攻め上る途中で、京都の情勢を把握するために、木瀬川宿に泊まっておられましたが、先日の三日に行家と義経の両人が都を出て九州へ落ち延びていったと、連絡が入りました。但し、その二人は後白河院の庁の命令書を戴き、四国や九州に侍は二人の命令に従うように書かれており、行家は四国の総地頭に、義経は九州の総地頭に任命されたからなんだとさ。今度の事は、後白河法皇が出した頼朝追討の宣旨も、行家、義経を総地頭に任命した院の庁の命令書も、行家、義経の要求のままに出してしまいました。何だって私の何度も立てた手柄を考えずに捨てて、追討の宣旨を出したんだと、頼朝様は大変ご立腹なされました。それでも、その頼朝追討の宣旨を出すかどうか会議で検討している時に、右大臣兼実は関東の味方をしたと噂で聞いているので、頼朝様はそこは喜んでおられましたとさ。一方京都朝廷では、源九郎義経の官職〔伊予守と検非違使の職〕を剥奪しました。

文治元年(1185)十一月大八日丁亥。大和守重弘。一品房昌寛等爲使節自黄瀬河上洛。行家義經等事所被欝申也。又彼等已落都之間。止御上洛之儀。今日令歸鎌倉給云々。

読下し                         やまとのかみしげひろ いっぽんぼうしょうかんら しせつ  な   きせがわ よ   じょうらく
文治元年(1185)十一月大八日丁亥。大和守重弘、 一品房昌寛等 使節と爲し黄瀬河自り上洛す。

ゆきいえ  よしつねら  こと  うつ  もうさる  ところなり
行家、義經等の事を欝し申被る所也。

また  かれらすで  みやこ おち  のかん   ごじょうらくのぎ   や     きょう かまくら  かえ  せし  たま  うんぬん
又、彼等已に都を落る之間、御上洛之儀を止め@、今日鎌倉へ歸ら令め給ふと云々。

参考@御上洛之儀を止めは、義経、行家への威嚇は終わったので、後ろの奥州の方が気になる処である。

現代語文治元年(1185)十一月大八日丁亥。大和守山田重弘と一品坊昌寛は、派遣員として木瀬川から京都へ出発しました。頼朝様は行家と義経の件をとても怒っていると伝えるためです。又、行家達が既に都落ちしていなくなったので、頼朝様は京都へ上るのは止めにして、今日鎌倉へ向けて帰られましたとさ。

文治元年(1185)十一月大十日己丑。還御鎌倉之處。左典厩被申云。只今都人傳言云。義經反逆間可被下追討 宣旨否事。被仰合左右内府并師納言〔經房〕等之處。右府意見首尾殊被盡理。皆是豈關東引級之詞也。内府是非不被申分明之儀。左府早可被 宣下之由被申切。師納言再三傾申之云々。又刑部卿頼經。右馬權頭業忠等者。其志偏有豫州腹心。廷尉知康同前之由云々。

読下し                         かまくら   かんごのところ  さてんきゅう もうされ  い       ただいま みやこびと でんごん  い
文治元年(1185)十一月大十日己丑。鎌倉へ還御之處、左典厩@申被て云はく、只今、都人の傳言に云はく。

よしつねほんぎゃく かん ついとう せんじ  くださる  べき  いなや こと   さゆうないふ なら    そちのなごん 〔つねふさ〕 ら  おお  あわさる  のところ
義經反逆の間、追討の宣旨を下被る可や否の事、左右内府并びに師納言〔經房〕等に仰せ合被る之處、

 うふ     いけん  しゅび こと ことわり つくさる    これみな あにかんとういんきゅう のことばなり  ないふ   ぜひ ぶんめいの ぎ  もうされず
右府Aの意見、首尾殊に理を盡被る。皆是、豈關東引級B之詞也。 内府Cは是非分明之儀を申被不。

 さふ    はや  せんげさる  べ    のよし もう   きらる     そちのなごん  これ  さいさんかたぶ もう    うんぬん
左府Dは早く宣下被る可し之由申し切被る。師納言は之を再三傾け申すEと云々。

また  ぎょうぶのきょう よりつね うまごんのかみなりただらは   そ こころざしひと  よしゅう  ふくしん  あ     ていいともやす まえ  おな  のよし   うんぬん
又、 刑部卿F頼經G、右馬權頭業忠等者、其の志偏へに豫州の腹心に有り。廷尉知康Hは前に同じ之由と云々。

参考@左典厩は、左馬頭の唐名で一条能保。
参考A
右府は、右大臣で九条兼実。
参考B
關東引級は、関東を贔屓している。
参考C内府は、内大臣で徳大寺実貞。
参考D
左府は、左大臣で経宗。
参考E師納言之を再三傾け申すは、吉田経房で彼の日記「吉記」には、あっちに追討の宣旨を出したばかりで、こっちにも追討の宣旨と出すなど、ちょこちょこと変える事は良くないことだと書いている。
参考F刑部卿は、刑部省(司法全般を管轄し重大事件の裁判監獄の管理、刑罰を執行する)の長官。
参考G頼經は、藤原氏難波頼経。頼経の父難波頼輔は本朝における蹴鞠一道の長とも称された蹴鞠の名手であったが、孫の飛鳥井雅経も蹴鞠に秀で、飛鳥井流の祖となった。ウィキペディアから
参考H廷尉知康は、鼓判官とあざなされる。

現代語文治元年(1185)十一月大十日己丑。鎌倉へ帰り着かれたところ、左典厩一条能保様が申されるには、「只今、都の人からの伝言だと、源義経が反逆して頼朝様追討の宣旨を出すかどうかについて、左大臣経宗と右大臣兼実、内大臣実貞それと師納言経房とが協議をしている時に、右大臣兼実の意見は、一貫して事の理論を展開されました。その内容は全て関東を贔屓している言葉でした。内大臣は、どっちにしよう等と明らかなことは言いませんでした。左大臣経宗は早く宣旨を出してしまうように言い切っていました。師納言経房は、あっちに追討の宣旨を出したり、こっちにも追討の宣旨を出したりと朝廷の意見をちょこちょこと簡単に変えることは良いことではないと、反対をしていましたとさ。又、刑部卿頼経、右馬権頭業忠等は、完全に与州義経の味方をしています。廷尉鼓判官知康も同じです。」だとさ。

文治元年(1185)十一月大十一日庚寅。義經等反逆事。任申請被 宣下畢。但追可被誘關東之由。在 叡慮之處。二品之欝憤興盛之間。日來沙汰之趣。已相違畢。爰義經行家巧反逆。赴西海之間。於大物濱漂没之由雖有風聞。亡命之條非無所疑。早仰有勢之輩。尋搜山林可召進其身之由。被下 院宣於畿内近國々司等云々。其状云。
 被 院宣稱。源義經。同行家巧反逆。赴西海之間。去六日於大物濱。忽逢逆風云々。漂没之由雖有風聞。亡命之條非無狐疑。早仰有武勇之輩。尋搜山林河澤之間。不日可令召進其身。當國之中。至于國領者任状令遵行。於庄薗者移本所致沙汰。事是嚴密也。曾勿懈緩者。
院宣如此。悉之。謹状。
      十一月十一日                   太宰權師
    其國守殿

読下し                            よしつねら  ほんぎゃく こと  もう  う     まか  せんげ せら  をはんぬ
文治元年(1185)十一月大十一日庚寅。義經等が反逆の事、申し請けに任せ宣下被れ畢。

ただ  おつ  かんとう  いざな らる  べ   のよし  えいりょ あ  のところ  にほんの うっぷんこうじょうのかん  ひごろ さた のおもむき   すで  そうい  をはんぬ
但し追て關東を誘は被る可き之由、叡慮在る之處、二品之欝憤興盛之間、日來沙汰之趣と、已に相違し畢。

ここ  よしつね  ゆきいえほんぎゃく たく  さいかい  おもむ  のかん  だいもつはま  をい  ひょうぼつのよしふうぶん あ     いへど    ぼうめいのじょううたが ところ な     あらず
爰に義經、行家反逆を巧み、西海へ赴く之間、大物濱に於て漂没之由風聞有ると雖も、亡命之條疑う所無きに非。

はや  うぜいのやから  おお      さんりん  たず  さが  そ   み   め   しん  べ   のよし  いんぜんを きないきんごく  こくし ら   くださる    うんぬん
早く有勢之輩に仰せて、山林を尋ね搜し其の身を召し進ず可し之由、院宣於畿内近國の々司等に下被ると云々。

 そ  じょう い
其の状に云はく。

  いんぜんされ い    みなもとのよしつねおな  ゆきいえほんぎゃく たく   さいかい  おもむ のかん  さぬ  むいかだいもつはま  をい   たちま ぎゃくふう あ    うんぬん
 院宣被れ稱はく。源義經同じく行家反逆を巧み、西海へ赴く之間、去る六日大物濱に於て、忽ち逆風に逢うと云々。

ひょうぼつのよし ふうぶんあ    いへど  ぼうめいのじょう うたが ところな    あらず
漂没之由、風聞有ると雖も、亡命之條 疑う所無きに非

はや  うぜいのやから おお      さんりん かたく  たず  さが   のかん  ふじつ  そ   み   め   しん  べ
早く有勢之輩に仰せて、山林河澤を尋ね搜す之間、不日に其の身を召し進ず可し

 とうごくのうち  こくりょうに いた    は   じょう まか じゅんぎょうせし   しょうえん をい  は   ほんじょ  うつ   さた いた  こと  これげんみつなり
當國之中、國領于至りて者、状に任せ遵行令め、庄薗に於て者、本所に移し@A沙汰致す事、是嚴密也。

かつ  けかん  なか  てへ      いんぜんかく ごと    これ  つく   つつし   じょう
曾て懈緩B勿れ者れば。院宣此の如し。之を悉せ。謹んで状す。

             じういちがつじういちにち                                      だざいごんのそち
      十一月十一日                   太宰權師C

         そのこくしゅどの
    其國守殿

参考@庄薗に於て者、本所に移しとは、荘園は「不輸租」と云い、國衙などの役人に租税を納める必要がない。又、同時にその意味で役人が入ることが出来ない。そこで、犯人を見つけたら本所を通して云って来いの意味で、本所の許可を得てから追捕するので捕まえられない。
参考A本所は、最上級荘園領主の事で、順に、本所>領家>預所>公文=庄司=下司→地頭>名主>作人>下作人>在家と続き、実際の耕作は在家がやり、後は全員が中間搾取者。場合によってはそれぞれに代官がついたりする。
参考B懈緩は、怠ける。
参考C太宰權師は、吉田経房。

現代語文治元年(1185)十一月大十一日庚寅。源九郎義経が反逆した宣旨は、義経に脅し半分に要求されたから出してしまわれました。しかし、追って頼朝を誘うようにしようと、後白河法皇は考えていましたが、頼朝様のお怒りがますます激しくなるので、予定していた訳には行きませんでした。そこで、源九郎義経と行家は反逆して九州へ行こうとしましたが、大物浜で難破したと噂があるけれども、死んだとは限らないので、早く力のある連中に命令して、山林を探してでも彼等を捕まえ出すように、院宣を関西諸国の国司達に出されましたとさ。そこに書かれているのは、

後白河法皇の命令が出ました。源義経と行家は反逆して九州へ行こうとしましたが、六日に大物浜で逆風に遭ったそうだ。難破したと噂があるけれども、死んだとは限らないので、早く力のある連中に命令して、山林や河や沢を探して、日をおかずに彼等を捕まえ出すように。その国のうちで国領は宣旨状のとおり正しく実行し、荘園では本所を通して手続きをするようにする事、これは大事な事であるでの、手抜きをしないようにと命令が出たので、謹んでこの状を書きました。
       十一月十一日 太宰権師(吉田経房)
   其の国守殿

文治元年(1185)十一月大十二日辛夘。二品被遣御書於駿河國以西御家人。被觸仰稱。九郎已落京畢。仍御上洛事。當時者所令延引也。但各無懈緩之儀致用意。可順重仰也者。」又駿河國岡邊權守泰綱。此間依病惱。御堂供養并御坐黄瀬河之時不參向。近日適平愈。聞可有御上洛事。扶悴衰之身。先參鎌倉。可候御共之由申之。而今無御京上之儀。不可參向。將又肥満泰綱。騎用之馬無之歟。須廻用意可随御旨之由。被報仰云々。」今日。河越重頼所領等被収公。是依爲義經縁者也。其内。伊勢國香取五ケ郷。大井兵三次郎實春賜之。其外所者。重頼老母預之。又下河邊四郎政義同被召放所領等。爲重頼聟之故也。」凡今度次第。爲關東重事之間。沙汰之篇。始終之趣。太思食煩之處。因幡前司廣元申云。世已澆季。梟悪者尤得秋也。天下有反逆輩之條更不可斷絶。而於東海道之内者。依爲御居所雖令靜謐。奸濫定起於他方歟。爲相鎭之。毎度被發遣東士者。人々煩也。國費也。以此次。諸國交御沙汰。毎國衙庄園。被補守護地頭者。強不可有所怖。早可令申請給云々。二品殊甘心。以此儀治定。本末相應。忠言之所令然也。

読下し                          にほん おんしょを するがのくにいせい  ごけにん  つか  さる    ふ   おお  らる    しょう
文治元年(1185)十一月大十二日辛夘。二品御書於駿河國以西の御家人に遣は被れ、觸れ仰せ被ると稱し、

くろう すで  きょう お をはんぬ よつ  ごじょうらく  こと  とうじは えんいんせし ところなり
九郎已に京を落ち畢。仍て御上洛の事、當時者延引令む所也。

ただ おのおの けかんのぎ な   ようい いた     かさ   おお    したが べ  なりてへり
但し 各、懈緩之儀無く用意致し、重ねて仰せに順う可き也者。」

参考@九郎は、源義經の事で、全ての官職がなくなったので、弟として「あざな」で呼んでいる。

現代語文治元年(1185)十一月大十二日辛卯。二品頼朝様は、書付を駿河以西の御家人達に命令だと云って、「九郎義経は、既に京都から都落ちをしていないので、上洛は今延期する。但し、それぞれに、抜かりなく用意をして何時でも出陣の命令に備えて置くべきである。」

また するがのくにおかべごんのかみやすつな こ かんびょうのう  よつ    みどうくよう なら      きせがわ   おはすのとき  さんこうせず
又、駿河國 岡邊權守泰綱A、此の間病惱に依て、御堂供養并びに黄瀬河に御坐之時、參向不。

きんじつたまた へいゆ   ごじょうらく あ   べ     こと  き    しょうすいのみ  たす    ま   かまくら  さん    おんとも  そうら べ   のよし  これ  もう
近日適ま平愈し、御上洛有る可きの事を聞き、悴衰之身を扶け、先ず鎌倉に參じ、御共に候う可き之由、之を申す。

しか    いま ごけいじょうのぎ な    さんこう  べからず  はたまたひまん やすつな きよう の うま これな   か
而るに今御京上之儀無し。參向す不可。將又肥満の泰綱、騎用之馬之無きB歟。

すべから ようい  めぐ    おんむね したが べ   のよし   こた  おお  らる    うんぬん
須く 用意を廻らし御旨に随う可し之由、報へ仰せ被るCと云々。」

参考A岡邊權守泰綱は、駿河国志太郡。静岡県志太郡岡部町岡部。
参考B
騎用之馬之無きは、太りすぎていて乗せられるほどの力持ちの馬がいない。
参考C報へ仰せ被るは、答えて上げた。

また、駿河国の岡辺権守泰綱は、暫くの間病気のため勝長寿院の完成祝賀式も、木瀬川におられるときも駆けつけられませんでした。「最近、やっと病気も治ったので、頼朝様のご上洛を聞いて、病み上りの体を励まして、まず鎌倉へ参上してお供をさせて戴きたい。」と云ってきました。でも、京都へ行くのは止めたので、来る必要はない。貴殿は肥満の泰綱なので、乗れるような馬は無いんじゃないか。そちらのほうを良く準備を考え備えて、次の命令を待っていなさい。」と答えられておりましたとさ。

きょう   かわごえのしげより  しょりょうら  しゅうこう せら   これよしつね えんじゃ たる  よつ  なり
今日、河越重頼D、所領等を収公E被る。是義經が縁者F爲に依て也。

そ   うち  いせのくに かとり ごかごう   おおいのへいざじろうさねはる これ  たま      そ   ほか  ところは  しげより  ろうぼ これ  あず
其の内、伊勢國香取五ケ郷、大井兵三次郎實春G之を賜はる。其の外の所者、重頼が老母之を預かる。

また   しもこうべのしろうまさよし おな   しょりょうら   め   はなたる    しげより  むこたるの ゆえなり
又、下河邊四郎政義同じく所領等を召し放被るH。重頼が聟爲之故也。」

参考D河越重頼は、埼玉県川越市。秩父一族の頭領で武蔵国総検校職を持っている。検校職はこれ以来畠山次郎重忠に与えられたようだ。寛喜三年(1231)四月廿日河越三郎重員が名目上だが返してもらっている。
参考E収公は、公に収めるで、幕府が取上げる。但し、恩として与えた分だけで、本来先祖から伝えられている本領は取上げられないのに対し、私領とも云う。
参考F義經が縁者は、頼朝が河越太郎重頼の娘を義経の嫁にと京都へ行かせた。義経記に最後に一緒に死んだと言う。
参考G大井兵三次郎實春は、武蔵国大井庄で東京都品川区大井。参考にしている、堀田璋左右先生の参考注に「大井は紀氏品川の族にして、武蔵国荏原郡に住す。實春は紀兵三實直の次男とす。」とあります。今まで「秩父光重の子」と書いておりましたが、間違って居ましたので、ここにお詫び訂正いたします。しかし、没収した領地は一族に分け与えられるのが慣習なので、渋谷重国の娘の孫との説も有るので、秩父一族の内と認識され領地を与えられたのかもしれない。
参考H召し放被るは、召し上げての意味。下河邊四郎政義から放つで取上げる。彼は、下河邊庄司行平の弟だが恩賞として常陸の南半分を貰っていた。

今日、河越太郎重頼の領地を取上げました。この人は源九郎義経の舅だからです。その内の伊勢国香取五つの郷は大井兵三次郎実春が与えられました。その他は重頼の老いた母が預かることになりました。又、下河辺四郎政義も同様に所領などを取上げられました。重頼の娘婿だからです。

およ  このたび  しだい  かんとう  ちょうじたる のかん   さた の へん しじゅうのおもむき はなは おぼ め   わずら のところ  いなばのぜんじひろもと もう    い

凡そ今度の次第、關東の重事爲之間、沙汰之篇、始終之趣、太だ思し食し煩う之處、因幡前司廣元 申して云はく。

よ すで  ぎょうき  きょうあくしゃ もっと とき え   なり  てんか  ほんぎゃく やからあ  のじょう さら  だんぜつ べからず

世已に澆季I、梟悪者尤も秋を得る也。天下の反逆の輩有る之條更に斷絶す不可。

しか     とうかいどうのうち  をい  は   おんきょしょ  なす  よつ  せいひつせし   いへど   かんらんさだ    たほう   をい  おき  か

而るに東海道之内に於て者、御居所を爲に依てJ靜謐令むと雖も、奸濫定めて他方に於て起ん歟。

これ  あいしず    ため  まいたび とうし  はっけん  らる  ば   ひとびと わずら なり  くに  ついえなり

之を相鎭めん爲、毎度東士を發遣せ被る者K、人々の煩ひ也。國の費也。

こ   ついで もつ     しょこく   おんさた   まじ    こくがしょうえんごと   しゅごぢとう   ぶさる   ば  あなが おそ   ところ あ   べからず

此の次を以て、諸國に御沙汰を交へL、國衙庄園毎に守護地頭をM補被れ者、強に怖れる所有る不可。

はや  もう   う   せし   たま  べ     うんぬん  にほん こと かんしん    かく  ぎ  もつ  ちじょう    ほんまつ  そうおう  ちゅうげんのしからせし ところなり

早く申し請け令め給ふ可しと云々。二品殊に甘心し、此の儀を以て治定す。本末の相應、忠言之然令む所也。

参考I澆季は、世も末。
参考J
御居所を爲に依ては、お膝元なので。
参考K毎度東士を發遣せ被る者は、毎回関東から軍隊を送ったのでは。
参考L御沙汰を交へは、権力を及ぼして。

参考M國衙庄園毎に守護地頭をは、国衙に守護を置き、荘園に地頭を置くとこれまでは解釈されてきていたが、最近は、守護と地頭ではなく、国衙や荘園を守護する地頭と解釈が変わってきた。H19.10.10。実はこの時点では、守護の単語はなく、吾妻鏡の書かれた鎌倉末期になってからの言葉である。考えられるのは、頼朝が総追捕使で、国衙に国追捕使、荘園に荘園追捕使が置かれたものと想像される。六巻文治二年三月一日条に総追捕使の単語が出てくる。なお、地頭の単語は元暦2年6月15日附け頼朝の袖判下文に忠久が伊勢国波出御厨の地頭に補任されているので判明している。

今度の事件は、関東にとって由々しき問題なので、どのように始末を付けるべきかあれこれと頼朝様が悩んでおられると、大江広元が云うには、「世も末なので、無法者が蔓延るには良い機会となり、世間では犯罪を犯すものが途絶えることはないでしょう。しかし、東海道においては、頼朝様のお膝元なので静かにおさまるとは思いますが、地方においては必ず反乱が起きるでしょう。これを退治するために毎回、関東から軍隊を派遣していたのでは、兵隊も、雑役に使われる農民もたまらんでしょうし、費用もかかるので疲弊するでしょう。ちょうどこの機会に、諸国に権力を及ぼすように、国衙と荘園それぞれに守護する地頭を置けば、必ずしも恐れずに済むのではないでしょうか。早く京都朝廷に申し入れて承知してもらいましょうよ。」だとさ。頼朝様はとても感心されて、そうしようと決められました。武士の時勢に合った処遇が出来たのは、この忠言があったからこそです。

文治元年(1185)十一月大十五日甲午。大藏卿泰經朝臣使者參着。依怖刑歟。直不參營中。先到左典厩御亭。告被献状於鎌倉殿之由。又一通献典厩。義經等事。全非微臣結搆。只怖武威傳奏許也。及何樣遠聞哉。就世上浮説。無左右不鑽之樣。可被宥申云々。典厩相具使者。達子細給。府卿之状披覽。俊兼讀申之。其趣。行家。義經謀叛事偏爲天魔所爲歟。無 宣下者參宮中可自殺之由。言上之間。爲避當時難。一旦雖似有 勅許。曾非 叡慮之所與云々。是偏傳 天氣歟。二品被投返報云。行家義經謀叛事。爲天魔所爲之由被仰下。甚無謂事候。天魔者爲佛法成妨。於人倫致煩者也。頼朝降伏數多之朝敵。奉任世務於君之忠。何忽變反逆。非指叡慮被下院宣哉。云行家。云義經。召取之間。諸國衰弊。人民滅亡歟。仍日本第一大天狗者。更非他者歟云々。

読下し                          おおくらきょうやすつねあそん ししゃさんちゃく
文治元年(1185)十一月大十五日甲午。大藏卿泰經朝臣@が使者參着す。

けい  おそ      よつ  か   じき  えいちゅう まいらず    ま    さてんきゅう  おんてい  いた    じょうをかまくらどの  けんぜら  のよし   つ
刑を怖れるに依て歟、直に營中へ參不に、先ず左典厩の御亭へ到り、状於鎌倉殿へ献被る之由を告げ、

また  いっつう  てんきゅう  けん
又、一通を典厩に献ず。

よしつねら  こと  まった  びしん  けっこう  あらず  ただ ぶい  おそ  てんそう    ばか  なり
義經等の事、全く微臣の結搆Aに非。只武威を怖れ傳奏する許り也。

なによう   とおぶん  およ   や   せじょう  ふせつ   つ     そう な   きらざるのよう   なだ  もうさる   べ     うんぬん
何樣を遠聞に及ぶB哉。世上の浮説Cに就き、左右無く鑽不之樣、宥め申被る可しと云々。

てんきゅう ししゃ あいぐ     しさい  たつ  たま    ふけいのじょう  ひらん     としかね これ  よ  もう
典厩使者を相具し、子細を達し給ふ。府卿之状を披覽し、俊兼之を讀み申すD

そ おもむき  ゆきいえ よしつね  むほん  こと  ひとへ てんま  しわざたるか
其の趣、行家、義經が謀叛の事、偏に天魔が所爲爲歟。

せんげ な    ば きゅうちゅう まい   じさつすべ  のよし  ごんじょうのかん  とうじ   なん  のが      ため
宣下無くん者宮中に參り自殺可き之由、言上之間、當時の難を避れんが爲、

いったん ちょっきょ あ   に      いへど    かつ えいりょのあづか ところ あらず うんぬん これ  ひとへ てんき  つた    か
一旦は勅許有るに似たりと雖も、曾て叡慮之與る所に非と云々。是、偏に天氣Eを傳える歟。

にほん  へんぽう  な   られ  い       ゆきいえ よしつね むほん  こと   てんま  しわざ たるのよし おお  くださる    はなは いは  な   こと そうろう
二品、返報を投げ被て云はく。行家、義經が謀叛の事、天魔の所爲F爲之由仰せ下被る。甚だ謂れ無き事に候。

てんまは ぶっぽう  ため  さまた   な     じんりん  をい  わずら   いた  ものなり
天魔者佛法の爲に妨げを成し、人倫に於て煩ひを致す者也。

よりとも かずおお のちょうてき  ごうぶく    せむを きみのちゅう  まか たてまつ   なん  たちま   ほんぎゃく へん   さ       えいりょ  あらず   いんぜん  くだされるや
頼朝數多く之朝敵を降伏し、世務於君之忠に任せ奉る。何ぞ忽ちに反逆に變じ、指したる叡慮に非して院宣を下被哉。

ゆきいえ  い    よしつね  い    めしと    のかん  しょこくすいへい   じんみんめつぼう   か
行家と云ひ、義經と云ひ、召取る之間、諸國衰弊し、人民滅亡する歟。

よつ  にっぽんだいいち おおてんぐは  さら  たしゃ  あらざ か  うんぬん
仍て日本第一の大天狗者、更に他者に非る歟Gと云々。

参考@大藏卿泰經朝臣は、高階泰経で一番の判官贔屓。
参考A結搆は、悪巧みを結び構える。
参考B何樣を遠聞に及ぶは、どういう具合に伝わっているのか。
参考C世上の浮説は、世間の噂(判官贔屓と)。
参考D俊兼之を讀み申すは、皆の前で読み上げたので折紙だと思われる。折紙は、紙の中段から下を裏へ折り上げて書くので、結果上半分になる正式な文書であり、会議などで読み上げなくてはならない。これが、室町以後の後に証明書の役目を果たすようになり「折紙付き」となる。
参考E天氣は、本来天皇の気持ち。ここでは後白河法皇の気持ち。
参考F天魔が所爲は、天魔に魅入られた。
参考G
他者に非る歟は、他の者ではないでしょうが。

現代語文治元年(1185)十一月大十五日甲午。大蔵卿(大蔵大臣)高階泰経様の使いが鎌倉へ到着しました。刑罰にあうのを恐れてか、直ぐに幕府へは行かず、左典厩一条能保様の屋敷へ行って、お手紙を鎌倉殿頼朝様に献上するのですと伝え、ほかの一通を一条能保様へ献上しました。義経たちの事は、私の意思でやったのではなく、ただ武力を恐れて云うがままに後白河法皇に取り次いだだけです。どう云う具合にお耳に入っていますか。世間の噂を本気にして、簡単に話を決めてしまわないように、なだめるように云って聞かせてくださいだとさ。

一条能保様はその使いを一緒に連れて行き、詳しい話を頼朝様に申し上げました。高階泰経様の手紙を開き見て、筑後権守俊兼が声を上げて読みました。

その内容は、「行家と義経の謀反の行動を許可したのは、天魔に魅入られた仕業でしょう。もし、(頼朝追討の)宣旨を下さらなければ、宮中に入って自殺すると言ってきたので、(宮中が穢れてしまっては政治が出来ないので)当面の災いを逃れるため、一度は朝廷の許可を出したことになりますけれど、本心は別なので、本当の許可はしていないのと同じなのだそうです。」これで後白河法皇の本心が伝わりましたでしょうか。

二品頼朝様は、返事を書く紙を放り出しておっしゃいました。

「行家と義経の謀反の行動を許可したのは、天魔に魅入られた仕業だとおっしゃられてきた事は、こっぴどく根も葉も無いことじゃないか。天魔とは仏法を守るために悪鬼を防ぎ、道理の分からない奴を抑えるものなんですよ。頼朝は朝廷に敵対した平家を降伏させ、年貢の徴収などの務めを朝廷に忠実に奉仕しているじゃないか。それを何で反逆者扱いをして、よく考えもせずに簡単に院宣をくれてやったんでしょうね。行家も義経も行方を捜して召し取るまでは、あちこちで荒らしまわられ、諸国も生産力も減り荒れ果ててしまい、人民も滅亡してしまうではないか。その原因を作った日本の国を滅ぼす大天狗は、どう考えても他の者ではないでしょうが。」だってさ。

文治元年(1185)十一月大十七日丙申。豫州篭大和國吉野山之由。風聞之間。執行相催悪僧等。日來雖索山林。無其實之處。今夜亥剋。豫州妾靜自當山藤尾坂降到于藏王堂。其躰尤奇恠。衆徒等見咎之。相具向執行坊。具問子細。靜云。吾是九郎大夫判官〔今伊与守〕妾也。自大物濱豫州來此山。五ケ日逗留之處。衆徒蜂起之由依風聞。伊与守者假山臥之姿逐電訖。于時与數多金銀類於我。付雜色男等欲送京。而彼男共取財寳。弃置于深峯雪中之間。如此迷來云々。

読下し                          よしゅう やまとのくによしのやま  こも   のよし  ふうぶんのかん  しゅぎょう あくそうら  あいもよお
文治元年(1185)十一月大十七日丙申。豫州大和國吉野山に篭る之由、風聞之間、執行@悪僧等を相催し、

ひごろ さんりん  もと    いへど   そ   じつ な のところ  こんやいのこく  よしゅう しょうしずか とうざんふじをさか よ   ざおうどう に お  いた
日來山林を索むと雖も、其の實無き之處、今夜亥剋、豫州が妾靜、當山藤尾坂A自り藏王堂B于降り到る。

そ   てい もつと きっかい  しゅうとら これ   みとが     あいぐ  しゅぎょうぼう  むか    つぶさ しさい  と
其の躰尤も奇恠。衆徒等之を見咎め、相具し執行坊Cへ向い、具に子細を問う。

しずか い     われ  これくろうたいふほうがん 〔いま いよのかみ〕  しょうなり  だいもつはまよ よしゅう こ   やま  きた
靜云はく。吾、是九郎大夫判官〔今伊与守〕が妾也。大物濱自り豫州此の山に來る。

いつかにちとうりゅうのところ  しゅうと ほうき の よし ふうぶん     よつ    いよのかみはやまぶしのすがた か  ちくてん をはんぬ
五ケ日逗留之處、衆徒蜂起之由風聞するに依て、伊与守者山臥之姿を假り逐電し訖。

ときに かずおお   きんぎん たぐいをわれ  あた   ぞうしきおのこら  つ  きょう  おく      ほつ
時于數多くの金銀の類於我に与へ、雜色男等を付け京へ送らんと欲す。

しか    か  おのこどもざいほう と     ふか  みね  ふきなかに す  お   のかん   かく  ごと  まよ  きた    うんぬん
而るに彼の男共財寳を取り、深い峯の雪中于弃て置く之間、此の如く迷い來ると云々。

参考@執行は、寺院で上首として事務を執り行う僧侶。
参考A
藤尾坂は、吉野山下千本の旅館さこやの露天風呂の脇に古いのと新しいのと石碑が二本立っている。
参考B藏王堂は、金峯山寺(きんぷせんじ)蔵王堂(国宝)東大寺の大仏殿に次ぐという巨大木造建築は高さ34メートルの重層入母屋造。
参考C執行坊は、その蔵王堂の下にコンクリート造りである。近くの吉水神社には由来品があると云う。

現代語文治元年(1185)十一月大十七日丙申。伊予守義経は、大和国の吉野山に隠れていると噂が流れたので、蔵王堂の事務長は、豪傑の武者僧に命じて、この数日、吉野山の山林を探させましたが、全然網にかかりませんでした。しかし、今夜午後十時頃に義経の妾の静御前が、藤尾坂から蔵王堂に下ってきました。その様子がおかしいので、武者僧達は怪しいと思い、一緒に連れて事務長の宿舎へ行き、細かく訳を問いただしました。静御前が云うのには、「私は、九郎大夫判官〔現在は伊予守〕の妾です。大物浜から義経様とこの吉野山へ来ました。五日間泊まっていましたが、武者僧が立ち上がり攻めて来ると噂が流れたので、源九郎義経様は山伏の姿に変装して逃げ去ってしまいました。その時に数多くの金銀財宝を私に与えて、雑用のしもべを着けて京都へ送ろうとしてくれました。しかし、そのしもべの男は、財宝を私から奪って、挙句に私を山深い峯の雪の中へ置き去りにしてしまったので、このように迷ってしまったのです。なんだとさ。

文治元年(1185)十一月大十八日丁酉。就靜之説。爲搜求豫州。吉野大衆等又踏山谷。靜者。執行頗令憐愍相勞之後。稱可進鎌倉之由云々。

読下し                          しずかのせつ  つ      よしゅう   さが  もと    ため  よしの  だいしゅらまた  さんこく  ふ
文治元年(1185)十一月大十八日丁酉。靜之説に就きて、豫州を搜し求めん爲、吉野の大衆等又、山谷を踏む@

しずかは しゅぎょうすこぶ れんみんせし あいいたは ののち  かまくら  しん  べ   のよし  しょう   うんぬん
靜者、 執行頗る憐愍令め、相勞る之後、鎌倉へ進ず可し之由を稱すと云々。

参考@山谷を踏むとは、山踏み、谷踏みと云って、落人などの山狩りをすること。

現代語文治元年(1185)十一月大十八日丁酉。静御前の告白に基づき、源九郎義経を探す出すために、吉野山の武者僧達は山狩りをしました。静御前の事は、金峰山寺の事務長はとても気の毒に思って、労って休ませた後で、鎌倉へ護送するように決めましたとさ。

文治元年(1185)十一月大十九日戊戌。土肥次郎實平相具一族等。自關東上洛。今度被支配國々精兵之中尤爲專一云々。

読下し                           といのじろうさねひら    いちぞくら   あいぐ    かんとうよ   じょうらく
文治元年(1185)十一月大十九日戊戌。土肥次郎實平@、一族等を相具し、關東自り上洛す。

このたび しはいさる  くにぐに  せいへいのなか  もつと せんいつたり うんぬん
今度、支配被る國々の精兵之中、尤も專一爲と云々。

参考@土肥次郎實平は、壽永三年(1184)二月大十八日条で、梶原景時と供に、美作、播磨、備前、備中、備後の五カ国の守護になっている。別日の記事で實平が備前、備中、備後の守護らしい事が分かる。

現代語文治元年(1185)十一月大十九日戊戌。土肥次郎実平が、一族郎党を引き連れて関東から京都へ上りました。今度新たに平家を滅ぼして、管理する国々が増えたけれども、その管理する守護の中では最も優れている人だからなんだとさ。

文治元年(1185)十一月大廿日己亥。伊豫守義經。前備前守行家等出京都。去六日於大物濱乘船解纜之時。遭悪風漂没之由。及傳聞之處。八嶋冠者時C同八日歸京畢。兩人未死之旨。言上云々。」次讃岐中將時實朝臣。乍爲流人身潜在洛。而今度相具義經。赴西海。縡不成兮伴黨離散之刻。歸京之間。村上右馬助經業舎弟禪師經伊生虜之云々。兩條達叡聽畢之由。有其聞云々。

読下し                         いよのかみよしつね さきのびぜんのかみゆきいえら きょうと  い
文治元年(1185)十一月大廿日己亥。伊豫守義經、 前備前守行家等@、京都を出で、

さぬ  むいか だいもつはま  をい  じょうせん  ともづな と   のとき
去る六日、大物濱に於て乘船し、纜を解く之時、

あくふう   あ   ひょうぼつ   のよし  つた  き   およ  のところ  やしまのかじゃとききよ  おな   ようか ききょう をはんぬ
悪風に遭い漂没する之由、傳へ聞き及ぶ之處、八嶋冠者時CA同じき八日歸京し畢。

りょうにんいま し     のむね  ごんじょう   うんぬん
兩人未だ死せず之旨、言上すと云々。」

つぎ  さぬきのちゅうじょうときざねあそん るにん  みたりなが  ひそか ざいらく    しか    このたびよしつね あいぐ    さいかい  おもむ
次に 讃岐中將時實朝臣B、流人の身爲乍ら潜に在洛す。而るに今度義經に相具し、西海へ赴く。

こと な  ず   て ばんとうりさん のとき  ききょうのかん  むらかみうまのすけつねなり しゃていぜんじつねただ これ いけど    うんぬん
縡成ら不し兮伴黨離散之刻、歸京之間、村上右馬助經業が舎弟禪師經伊、之を生虜ると云々。

りょうじょう えいちょう たつ をはんぬのよし そ  きこ  あ    うんぬん
兩條 叡聽に達し 畢之由、其の聞へ有りと云々。

参考@伊豫守義經、前備前守行家等は、書き順が逆になってきている。前は長幼の順だったが、今度は犯罪者としての重要性の順になっている。
参考A八嶋冠者時Cは、美濃国八島郷で、大垣市八島町。
参考B
讃岐中將時實は、平時忠の子。

現代語文治元年(1185)十一月大二十日己亥。伊予守義経と前備前守行家は、京都を出立して、先の六日に大物浜で船に乗り込み、出航しようとした時に、逆風に吹き戻されて船は難破してしまいましたと、話が伝わってきたところへ、八島冠者時清がその二日後の八日に京都へ帰ってきて、二人とも死んではいないようだと報告しました。
次の問題は、平時忠の子の讃岐中将平時実は、流罪の判決を受けていながら、未だに京都に住んでいました。それが、今度は源九郎義経と一緒に九州へ行くことにしました。しかし、船の難破で失敗して、源九郎義經についていた侍達がばらばらに逃げ散ってしまったので、京都へ戻る途中で村上右馬助経業の弟の禅師経伊が生け捕りにしましたとさ。
この二つの報告は、後白河法皇のお耳に達したと伝わってきたんだとさ。

文治元年(1185)十一月大廿二日辛丑。豫州凌吉野山深雪。潜向多武峰。是爲祈請大織冠御影云々。到着之所者。南院内藤室。其坊主号十字坊之悪僧也。賞翫豫州云々。

読下し                           よしゅうよしのやま   しんせつ  しの   ひそか たふのみね  むか
文治元年(1185)十一月大廿二日辛丑。豫州吉野山の深雪を凌ぎ、潜に多武峰@へ向う。

これ  だいしょくかん みえい  きしょう  ため  うんぬん
是、大織冠Aの御影に祈請の爲と云々。

とうちゃくのところは  なんいん うちふじむろ そ   ぼうず  じうじぼう    ごう     のあくそうなり  よしゅう  しょうがん   うんぬん
到着之所者、南院の内藤室、其の坊主は十字坊と号する之悪僧也。豫州を賞翫すと云々。

参考@多武峰は、奈良県桜井市南部にある地区名。多武峰街道は談山神社から等弥神社を経て山の辺の道に接続する。元は談山神社の奥の院である談山妙楽寺の境内であったが、廃仏稀釈以降現在は談山神社となっている。西暦800年代、巻向山手地方にあった神武天皇の御霊を、同寺に移したとされる。1596年(慶長元年)、同寺は郡山に遷され、曹洞宗久松寺として現存する。ウィキペディアから
参考A大織冠は、藤原鎌足。談山神社は鎌倉時代に成立した寺伝によると、藤原氏の祖である藤原鎌足の死後の天武天皇7年(678年)、長男で僧の定恵が唐からの帰国後に、父の墓を摂津安威の地(参照:阿武山古墳)から大和のこの地に移し、十三重塔を造立したのが発祥である。天武天皇9年(680年)に講堂(現 神廟拝所)が創建され、妙楽寺と称した(後に、談山護国寺妙楽寺と称する)。大宝元年(701年)、妙楽寺の境内に鎌足の神像を安置する神殿が建立された。談山の名の由来は、藤原鎌足と中大兄皇子が、大化元年(645年)5月に大化の改新の談合をこの多武峰にて行い、後に「談い山(かたらいやま)」「談所ヶ森」と呼んだことによるとされる。ウィキペディアから

現代語文治元年(1185)十一月大二十二日辛丑。伊予守義経は、吉野山の深雪を掻き分け、忍んで多武峰の談山神社へ向かいました。それは、祭神の藤原鎌足の像に祈るためだとさ。たどり着いた所は、南院の内藤室で、そこの坊主は、十字坊と名乗る強い武者僧でした。源九郎義経を歓迎しましたとさ。

文治元年(1185)十一月大廿四日癸夘。二品爲國土泰平。被奏御願書於諸社。先太神宮分。被付生倫神主。其外近國一宮云々。於相摸國中者。佛寺十五ケ所。神社十一ケ所。悉以被奉納之云々。

読下し                          にほん こくどたいへい   ため  ごがんしょを しょしゃ  ほう  ら
文治元年(1185)十一月大廿四日癸夘。二品國土泰平@の爲、御願書於諸社に奏じ被る。

ま   だいじんぐう   ぶん  なりともかんぬし   つ  られ  そ   ほかきんごく  いちのみや うんぬん
先ず大神宮Aが分、生倫神主Bに付け被、其の外近國の一宮Cと云々。

さがみのくにじゅう をい は   ぶつじ じうごかしょ   じんじゃ じういっかしょ  ことご もつ  これ  ほうのうさる   うんぬん
相摸國中に於て者、佛寺十五ケ所、神社十一ケ所、悉く以て之を奉納被るDと云々。

参考@國土泰平は、平和祈願。
参考A太神宮は、伊勢神宮。
参考B生倫
神主は、伊勢神宮の神主度会(わたらい)氏で、会賀四郎太夫と号す。兄は相賀二郎光倫。
参考C
近國の一宮とは、通常近国というと畿内近国を指すが、この場合は前後の関係から鎌倉の近国を表している。関八州の一宮は、相模は寒川神社、武蔵は、小野神社、上野は貴前神社、下野は二荒山神社(宇都宮)、常陸は鹿島神宮、下総は香取神宮、上総は玉前神社、安房は洲崎神社。プラス伊豆は三島大社。
参考D悉く以て之を奉納被るは、義経が平家の残党を集めて戦いになるのを心配している。

現代語文治元年(1185)十一月大二十四日癸卯。二品頼朝様は、日本がやっと取り戻した平和が続くように、お祈りの手紙をあちこちの神社へ奉納されました。一番に伊勢神宮の分を生倫神主に預けられ、その他は鎌倉の近国の一宮だとさ。相模の国の中では、お寺を十五箇所、神社を十一箇所の全てに奉納されたんだとさ。

文治元年(1185)十一月大廿五日甲辰。今日。北條殿入洛云々。行家義經叛逆事。二品欝陶之趣。師中納言具以 奏逹。仍今日條々有沙汰。慥可尋索之由被 宣下。其状云。
 文治元年十一月廿五日    宣旨
 前備前守源行家。前伊与守同義經。恣挾野心。遂赴海西訖。而於攝津國。解纜之間。忽逢逆風之難。誠是一天之譴也。漂没之間雖有其説。殞命之實猶非無疑。早仰從二位源朝臣。不日尋搜在所。宜令捉搦其身。
                藏人頭右大弁兼皇后宮亮藤原光雅
〔奉〕

読下し                           きょう    ほうじょうどのじゅらく    うんぬん
文治元年(1185)十一月大廿五日甲辰。今日、北條殿入洛す@と云々。

ゆきいえ  よしつね  ほんぎゃく こと  にほんうっとうのおもむき そちのちうなごん つぶさ もつ  そうたつ
行家、義經が叛逆の事、二品欝陶之趣、師中納言A具に以て奏逹す。

よつ  きょう   じょうじょう  さた あ     たしか たず  もと  べ    のよし  せんげさる    そ   じょう  い
仍て今日、條々の沙汰有り。慥に尋ね索む可き之由、宣下被る。其の状に云はく。

  ぶんじがんねんじういちがつにじうごにち      せんじ
 文治元年十一月廿五日    宣旨

  さきのびぜんのかみゆきいえ さきのいよのかみどうよしつね ほしいまま やしん さしはさ   つい さいかい おもむ をはんぬ
 前備前守源行家、 前伊与守同義經、 恣に野心を挾み、遂に西海へ赴き訖。

  しか    せっつのくに をい   ともづな と   のかん  たちま ぎゃくふうのなん あ    まこと これいってんのせめ なり
 而るに攝津國に於て、纜を解く之間、忽ち逆風之難に逢う。誠に是一天之譴B也。

  ひょうぼつのかんそ  せつあ   いへど   いのち おと  のじつ  なおうたがいな あらず
 漂没之間其の説有りと雖も、命を殞す之實、猶疑無きに非。

  はやばや じゅにいみなもとあそん おお      ふじつ  ざいしょ  たず  さが    よろ    そ   み   とら  から  せし
 早々と從二位源朝臣に仰せて、不日に在所を尋ね搜し、宜しく其の身を捉へ搦め令め。

                                 くろうどのとううだいべんけんこうごうぐうのすけふじわらみつまさ〔ほうず〕
                藏人頭右大弁兼皇后宮亮藤原光雅〔奉C

参考@北條殿入洛すは、この時三千騎の軍勢を率いていった。「この時、時政が京都守護になっている」が定説。上横手雅敬説。
参考A師中納言は、吉田経房。
参考B
一天之譴とは、天罰覿面(てんばつてきめん)。
参考C奉ずで終えているので奉書。この文章は吾妻鏡にしかないので、記述当時、原本か写しが残っていたと思われる。

現代語文治元年(1185)十一月大二十五日甲辰。今日、北条時政殿が京都に入りましたとさ。行家と義経の反逆に宣旨を添えたことを、頼朝様がとても怒っていることを、師中納言吉田経房を通して事細かに、後白河法皇に申し上げました。それなので今日、色々と会議を開かれ、今度は行家、義経を絶対に見つけ出すように、宣下されました。その内容は

 文治元年十一月二十五日   宣旨
 
前備前守行家と前伊予守義経は、好きなように勝手に野心を持って、とうとう九州へ行きました。しかし、摂津国で出航しようとしたら、ばちが当たって逆風によって、押し戻されてしまいました。本当に天罰が当たったのです。難破して漂流してしまったとの噂もあるけれども、死んだという確信はありません。早々に従二位源頼朝様に命じて、日をおかずに見つけ出し、その身柄を捕らえさせなさい。
                     
蔵人頭右大弁兼皇后宮亮藤原光雅が法皇の命で書きました。

文治元年(1185)十一月大廿六日乙巳。大藏卿泰經朝臣篭居。是義經申下追討 宣旨事。依爲彼朝臣傳奏。源二位卿殊欝申之趣。達 叡聞之間。 勅定如此云々。泰經同意行家義經謀叛事。載書状挾竹枝。昨日立師中納言庭。黄門乍驚披見之。付定長朝臣備奏覽云々。

読下し                          おおくらきょうやすつねあそんろうきょ  これ  よしつね  ついとう  せんじ   もう  くだ  こと
文治元年(1185)十一月大廿六日乙巳。大藏卿泰經朝臣篭居す。是、義經、追討の宣旨を申し下す事、

か   あそん  てんそう たる  よつ  みなもとにいきょうこと うつ  もう のおもむき  えいぶん  たつ    のかん ちょくじょうかく ごと    うんぬん
彼の朝臣の傳奏A爲に依て、源二位卿殊に欝し申す之趣、叡聞に達すBる之間、勅定此の如しと云々。

やすつね   ゆきいえ よしつね  むほん  どうい  こと   しょじょう の   ちくし   はさ     さくじつ  そちのちゅうなごん にわ  た
泰經が、行家、義經の謀叛に同意の事、書状に載せ竹枝に挾みC、昨日、師中納言の庭に立つ。

こうもんおどろ なが これ  ひけん    さだながあそん  つ  そうらん  そな    うんぬん
黄門驚き乍ら之を披見し、定長朝臣に付け奏覽に備うと云々。

参考@篭居は、閉じ篭り謹慎蟄居。
参考A
傳奏は、取り次いだ。
参考B叡聞に達すは、後白河法皇の耳に入った。
参考C竹枝に挾みは、竹の棒の先を少し割り、そこへ挟む事。身分違いの者の穢れが移らないよう遠慮して、建物の上の高貴な人へ地面に控えて差し出すこと。

現代語文治元年(1185)十一月大二十六日乙巳。大蔵卿高階泰経様が、蟄居謹慎しました。それは、義経が望んだ頼朝追討の宣旨を出したのは、泰経様が取り次いだことを、頼朝様がえらく怒っていると、後白河法皇の耳に入ったので、法王が蟄居を命令したからです。実は、泰経が行家や義経の謀反に味方したと書かれた紙を竹の棒にはさんで、昨日師中納言経房の屋敷に届けた者が居て、経房は驚きながらこれを見て、右少弁定長を通して後白河法皇に見せたからなんだとさ。

文治元年(1185)十一月大廿八日丁未。補任諸國平均守護地頭。不論權門勢家庄公。可宛課兵粮米〔段別五升〕之由。今夜。北條殿謁申藤中納言經房卿云々。

読下し                           しょこくへいきん  しゅごじとう   ぶにん    けんもんせいか しょう こう  ろんぜず
文治元年(1185)十一月大廿八日丙午。諸國平均に守護地頭を補任し、權門勢家@ABを不論、

ひょうろうまい 〔たんべつごしょう 〕  あ   か   べ   のよし   こんや  ほうじょうどの とうのつねふさきょうちゅうなごん えっ もう    うんぬん
兵粮米C〔段別五升Dを宛て課すE可し之由。今夜、北條殿、藤經房卿中納言に 謁し申すFと云々。

参考@權門勢家は、位が高く権勢のある家柄。
参考A
は、庄園。
参考B
は、公領。国衙領。
参考C兵粮米は、通常戦争用の軍隊の食料だが、この場合は守護地頭の駐屯軍の食料。
参考D段別五升は、一反につき五升で、頼朝の時代には一反で一石程度の収穫だったが、後に金属農具の発展や牛馬の使用、肥料の仕様などで収穫が増えて、一反で二石から四石取れるようになって物価が上がっても、五升はかわらなかったので、御家人は困窮していく。
参考E宛て課すは、新たに徴収するのではなく、納める年貢米の内から差し引いた。公卿たちの取り分からピンはねした。
参考F謁し申すは、拝謁して申し上げると書かれているが、実は三千の軍隊を背景に半分は脅している。

現代語文治元年(1185)十一月大二十八日丙午。諸国全体に例外無く守護の地頭を任命して、家柄の高い低いも、勢力の大小も、荘園も国衙領もかかわらずに、軍司駐屯食料の兵糧米〔一反毎に五升〕を年貢から差し引いて出すことに義務付けるよう、今夜北条四郎時政殿が吉田経房卿に会見して申し上げたんだとさ。

文治元年(1185)十一月大廿九日戊申。北條殿所被申之諸國守護地頭兵粮米事。早任申請可有御沙汰之由。被仰下之間。師中納言被傳 勅於北條殿云々。」又多武峯十字坊相談豫州云。寺院非廣。住侶又不幾。遁隱始終不可叶。自是欲奉送遠津河邊。彼所者人馬不通之深山也者。豫州諾之。大欣悦之間。差悪僧八人送之。謂悪僧者。道徳。行徳。拾悟。拾禪。樂圓。文妙。文實等也云々。」今日。二品被定驛路之法。依此間重事上洛御使雜色等。伊豆駿河以西。迄于近江國。不論權門庄々。取傳馬。可騎用之。且於到來所可沙汰其粮之由云々。

読下し                          ほうじょうどのもうさる  ところのしょこく   しゅごぢとう   ひょうろうまい こと
文治元年(1185)十一月大廿九日戊申。北條殿申被る所之諸國の守護地頭@、兵粮米の事、

はや  もう  う     まか  おんさた あ  べ    のよし   おお  くださる  のかん  そちのちゅうなごん ちょくをほうじょうどの つた  らる    うんぬん
早く申し請けに任せ御沙汰有る可き之由A、仰せ下被る之間、師中納言、 勅於北條殿に傳へ被ると云々。」

参考@守護地頭と書かれているが、実はこの時点では、未だ守護の言葉はなく、追捕使とあり、頼朝が総追捕使(六巻文治二年三月一日条)に任命され、それを国毎、荘園毎に分けてそれぞれ追捕使を置く。数年後に国毎の追捕使を守護と云い、荘園毎を地頭と称する。守護は全国の三分の一程度で、地頭は全国の荘園の一割程度と推測される。承久の乱の後は全国一律の守護を置くことになる。但し大和国を除き、山城国は京都守護があたり、相模武蔵は幕府が直接なので例外。十二日参考。
参考A早く申請に任せ御沙汰有る可き之由、仰せ下被ると書かれているが、玉葉の28日条に28日の申請があったことが書かれ、兼実はとんでもないと怒っている。又、これについての公卿詮議が近々行われると書かれている。その後四日後に公卿詮議が開かれ、翌月になって許可されたが、その許可の内容は、この時点で謀反人(平家、義經、行家)の跡地のみ地頭を置いても良いとされ、全国一律ではない。

現代語文治元年(1185)十一月大二十九日戊申。北条時政殿が申し入れた内容の、諸国に守護の地頭を置くことと兵糧米の話は、申し入れのとおりに決めるように、後白河法皇が仰せられてくださったので、その事を師中納言が後白河法皇のお言葉を北条四郎時政殿につたえられたんだとさ。」

また  たふのみね  じゅうじぼう  よしゅう  あいだん   い       じいん ひろ  あらず  じゅうりょまたいくならず のが  かく      しじゅうかな  べからず
又、多武峯の十字坊、豫州に相談じて云はく、寺院廣きに非。住侶又不幾。 遁れ隱るるに始終叶う不可。

これよ   とつかわへん  おく たてまつ    ほつ
是自り遠津河邊へ送り奉らんと欲す。

か   ところは  じんば  かよわぬのしんざんなりてへ     よしゅうこれ  だく    だいきんえつのかん  あくそうはちにん  さ   これ  おく
彼の所者、人馬の不通之深山也者れば、豫州之を諾し、大欣悦之間、悪僧八人を差し之を送る。

いはる あくそうは  どうとく  ぎょうとく  しゃご   しゃぜん  がくえん ぶんみょう ぶんじつらなり  うんぬん
謂る悪僧者、道徳、行徳、拾悟、拾禪、樂圓、文妙、文實等也と云々。」

一方、吉野山では多武峰の十字坊が、義経に話して云うには、この寺も余り広くないのに、坊さん達は沢山居るので、何時までも隠れ通すのは無理だと思われる。ここから十津川へ送らさせてもらおうと思いました。そこは、人馬の行き来しない山深い処なのですよ。と云えば、義経はこれを承諾して、喜んだので、強い武者僧を八人護衛につけて送りました。その武者僧八人は、道徳、行徳、拾悟、拾禅、楽円、文妙、文実達なんだとさ。

きょう    にほんえきじ のほう   さだ  られ  こ   かんちょうじ  よつ    じょうらく おんし   ぞうしきら    いず   するがいせい  おうみのくにまで
今日、二品驛路之法Bを定め被、此の間重事に依て、上洛の御使、雜色等、伊豆、駿河以西、近江國于迄、

けんもんしょうしょう ろんぜず てんま  と     これ  きよう すべ    かつ  とうらい  ところ  をい  そ   りょう  さた すべ  のよし  うんぬん
權門庄々を不論、傳馬を取り、之を騎用可し、且は到來の所に於て其の粮を沙汰可き之由と云々。

参考B驛路之法は、東海道のみで一定ごとに早馬や荷駄用馬を飼い置く。鎌倉京都間の連絡は早くて五日。

鎌倉では、頼朝様が、東海道の馬立場の規則をお決めになられ、重大な用事を帯びて、京都への使いや下っ端が、伊豆、駿河から西、近江国までの区間は、位の高い人の領地も荘園もかまわずに、乗り換え馬を取上げて、それを乗馬に使うように、又、到着したところでその馬の餌や世話をするように規則を決めるように命令されましたとさ。

十二月へ

吾妻鏡入門

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