吾妻鏡入門

文治元年(1185)十二月大

文治元年(1185)十二月大一日庚戌。平氏一族相漏誅戮配流二罪之輩多以在京都。又前中將時實。去夏雖含配流 宣下不向配所。今度同意義經赴西海之由風聞。仍是彼早尋取之。可召預在京御家人之由。今日被仰遣北條殿〔去月廿五日入洛云々〕

読下し                        へいし  いちぞくちうりく   はいる  にざい   あいもる のやから  おお  もつ  きょうと  あ
文治元年(1185)十二月大一日庚戌。平氏の一族誅戮、配流の二罪に相漏る之輩、多く以て京都に在り。

また  さきのちゅうじょうときざね さぬ  なつ はいるせんげ ふく    いへど はいしょ  むかはず  このたびよしつね  どうい  さいかい  おもむ のよしふうぶん
又、 前中將時實@、去る夏配流宣下を含むと雖も配所に向不。今度義經に同意し西海へ赴く之由風聞す。

よつ  ここかしこ はや これ  たず  と     ざいきょう  ごけにん  め   あず  べ   のよし
仍て是彼に早く之を尋ね取り、在京の御家人に召し預く可し之由、

きょう    ほうじょうどの 〔さぬ つきにじうごにちじゅらく   うんぬん〕   おお  つか  さる
今日、北條殿〔去る月廿五日入洛すと云々〕に仰せ遣は被る。

参考@前中將時實は、平時忠の子。姉が源九郎義経の妾。

現代語文治元年(1185)十二月大一日庚戌。平氏の一族のうち、死刑や流罪にされていない連中が、沢山京都におります。又、前中将時実はこの夏に朝廷から流罪の宣下をされたけど、流罪先へ行かず、今度の源九郎義経と一緒に九州へ行くと噂があります。それなので、あちこち探して早く捕まえて、京都駐留の関東の御家人に渡すように、今日北条殿〔先月二十五日に京都へ来ていました〕に命じられました。

文治元年(1185)十二月大四日癸丑。生倫神主申云。捧去月御願書。令參篭于安房國東條御厨庤。抽懇祈之處。今月二日有靈夢之告云々。二品則被奉御厩御馬〔号飛龍〕於件庤云々。

読下し                        なりともかんぬし  もう    い
文治元年(1185)十二月大四日癸丑。生倫神主、申して云はく。

さぬ つき ごがんしょ  ささ    あわのくにとうじょうのみくりやかんだちにさんろうせし  こんき  ぬき      のところ  こんげつふつか れいむのつげあ    うんぬん
去る月御願書を捧げ、安房國東條御厨 庤于參篭令め、懇祈を抽んずる之處、今月二日靈夢之告有りと云々。

にほんすなは みんまや おんうま 〔ひりゅう  ごう 〕 を くだん かんだち たてまつらる うんぬん
二品則ち御厩の御馬〔飛龍と号す〕於件の庤@に奉被ると云々。

参考@は、カンダチと読み神館を意味する。又(まうけ)とも読み、儲の義で社の田地を言う。千葉県鴨川市西町(旧東条)庤(まうけ)神社。現在ではもうけじんじゃとも呼ぶ。

現代語文治元年(1185)十二月大四日癸丑。生倫神主が言うのには、先月、祈願の手紙を伊勢神宮領の安房国東条御厨の神館に、閉じこもってお祈りをしたところ、今月の二日に夢のお告げが有ったんだってさ。二品頼朝様は、すぐに御所の厩の馬〔飛龍と云う〕をその神館に奉納されましたとさ。

文治元年(1185)十二月大六日乙卯。今度同意行家義經之侍臣并北面輩事。具達關東。仍可被申行罪科之由。注交名於折紙。被遣師中納言。其上。殊結搆衆六人可申請之旨。被觸仰北條殿。謂六人者。侍從良成。少内記信康〔伊与守右筆〕右馬權頭業忠。兵庫頭章綱。大夫判官知康。信盛。左衛門尉信實。時成等也。又右府有引級關東之聞。依令露中丹。被献一通書云々。廣元。善心。俊兼。邦通等沙汰此間事云々。 院奏折紙状云。

読下し                        このたび  ゆきいえ よしつね  どうい    の じしんなら    ほくめん  やから こと
文治元年(1185)十二月大六日乙卯。今度、行家、義經に同意する之侍臣并びに北面@の輩の事、

つぶさ かんとう  たっ    よっ  ざいか  もう  おこな られ  べ   のよし きょうみょうをおりがみ  ちゅう   そちのちゅうなごん つか され
具に關東に達す。仍て罪科に申し行は被る可し之由、交名於折紙Aに注し、帥中納言に遣は被る。

そ   うえ  こと  けっこう  しゅうろくにん もう  こ   べ   のむね  ほうじょうどの ふ   おお  られ
其の上、殊に結搆Bの衆六人、申し請う可し之旨、北條殿に觸れ仰せ被る。

じじゅうよしなり  しょうないきのぶやす  〔いよのかみ ゆうひつ〕  うまごんのかみなりただ ひょうごのかみあきつな たいふほうがんともやす のぶもり
侍從良成C、少内記信康D伊豫守の右筆、右馬權頭業忠、 兵庫頭章綱、大夫判官知康、信盛、

うえもんのじょうのぶざね ときなりら なり  また   うふ   かんとう  いんきゅうのきこ  あ
右衛門尉信實、時成等也。又、右府は關東を引級之聞へ有り。

ちゅうたん あら  せし    よっ     いっつう  しょ  けん  られ   うんぬん  ひろもと  よしのぶ  としかね  くにみちら こ  かん  こと   さた
中丹を露は令むに依て、一通の書を獻ぜ被ると云々。廣元、善信、俊兼、邦通等此の間の事を沙汰す。 

いんそう  おりがみ  じょう い
院奏の折紙の状に云はく、

参考@北面は、白河法皇が院直属の軍隊として護衛用の武士を雇ったのが始まりで、御所の北側に置いたところから北面の武士と呼ばれる。又、鑓水の取水口があったので滝口ともいわれる。北面には、五位以上の上北面と六位以下の下北面とがあり、兵衛尉クラスは下北面の武者。
参考A
折紙は、正方形の紙の下半分を裏側へ折り曲げて横長にしたもので、正式の文書や辞令は折紙を使う。広げると上半分にしか書かれていない。必ず声を上げて読む。
参考
B結搆は、結び構えるで悪巧み。
参考C侍從良成は、常盤御前の再婚相手。
参考D少内記信康は、源九郎義經の祐筆で、この人が色々と義經の手柄を書き残したので、義經伝説が出来たと思われる。木曾冠者義仲には、大夫坊覚明が付いていて書き残した。

現代語文治元年(1185)十二月大六日乙卯。今度のことで、行家や義経に味方をした朝廷の人達と北面の武士達の事が事細かに関東に知らされました。そこで、頼朝様は罰を与える為に名前を正式の文書に書いて師中納言吉田経房へ出させました。その上で、特に源九郎義経と悪巧みを構えた人六人を弾劾するように申し入れるよう、北条四郎時政殿に伝えられました。その六人は侍従良成、少内記信康伊予守義経の書記官、右馬権頭平業忠、兵庫頭藤原章綱、大夫鼓判官平知康、信盛、右衛門尉信実、時成達です。又、右大臣兼実は、関東を贔屓していると聞いたので、仲良くするために一通の手紙を差し上げました。大江広元、三善善信、筑後権守俊兼、大和判官代邦道などがこれらの手紙を考えて用意しました。院へ奏上する手紙に書いてあることは。

  可有御沙汰事
 一議奏公卿
   右大臣(兼實)〔可被下内覽宣旨〕    内大臣(實定)
   權大納言實房卿           宗家卿        忠親卿
   權中納言實家卿           通親卿        經房卿
   參議雅長卿             兼光卿
   已上卿相。朝務之間。先始自神祗。次至于仏道。依彼議奏可被計行也。
 一攝録事
   可被下内覽 宣旨於右大臣也。但於氏長者者。本人不可有相違也。
 一職事々
   光長朝臣          兼忠朝臣
   二人相並可被補歟。光雅朝臣被下追討 宣旨畢。天下草創之時不吉之職事也。早可被停廢也。
 一院御厩別當
   朝方卿本奉行之職也。可被還補歟。
 一大藏卿
   宗頼朝臣可被任之。
 一弁官事
   親經可被採用歟。
 一右馬頭
   侍從公佐可被任之。
 一左大史
   日向守廣房在任國。可被任之。隆職成追討 宣旨。天下草創之時禁忌可候也。仍可被停廢。
 一國々事
   伊豫           右大臣御沙汰〔月輪殿〕
   越前           内大臣御沙汰
   石見           宗家卿可給也
   越中           光隆卿〔同〕
   美作           實家卿〔同〕
   因幡           通親卿〔同〕
   近江           雅長卿〔同〕
   和泉           光長朝臣〔同〕
   陸奥           兼忠朝臣〔同〕
   豊後
   頼朝欲申給。其故者。云國司。云國人。同意行家義經謀叛。仍爲令尋沙汰其黨類。欲令知行國務也。
 一闕官事
   撰定器量。可被採用也。
      十二月六日                         頼朝〔在ー〕
   解官事
   參議親宗          大藏卿泰經        右大臣光雅
   刑部卿頼經         右馬頭經仲        右馬權頭業忠
   左大史隆職
   左衛門少尉知康  信盛  信實  時成
   兵庫頭章綱
   同意行家義經等欲乱天下之凶臣也。早解官見任。可被追却也。兼又。此外行家義經家人。追從勸誘之客。相尋淺深於官位之輩。一々可被解官停廢也。僧陰陽師之類相交之由有其聞。同可有追却也。
      十二月六日                         頼朝〔在ー〕

  おん さた  あ   べ   こと
 御沙汰有る可き事

ひとつ  ぎそう   くぎょう
一 議奏Eの公卿

  うだいじん  〔ないらん  せんじ   くだされ  べ  〕     ないだいじん
 右大臣〔内覧Fの宣旨を下被る可し〕  内大臣

  ごんのだいなごんさねふさのきょう  むねいえのきょう   ただちかのきょう
 權大納言實房卿   宗家卿   忠親卿

  ごんのちうごんさねいえのきょう    みちちかのきょう   つねふさのきょう
 權中納言實家卿   通親卿   經房卿

   さんぎまさながのきょう        かねみつのきょう
 參議雅長卿     兼光卿

  いじょう けいしょう   ちょうむの かん  ま   じんぎ よ   はじ      つぎ  ぶつどうに いた        か   ぎそう  よっ  はから おこな  られ  べ  なり
 已上の卿相、朝務之間、先づ神祇自り始めて、次に佛道于至るまで、彼の議奏に依て計ひ行は被る可き也G

参考E議奏は、集って会議をする。政治の善悪を会議で決めて天皇(ここでは後白河法皇)に奏聞する事。後白河の独裁を止めさせる為に、頼朝の建議によってこの職を設ける。しかし、後白河法皇は形だけで云うことを聞かなかった。
参考F内覧は、議奏で決めた事を天皇に見せる前に目を通す人、当然握りつぶしも書き直しの命令もできる。
参考G本来の役目を務めず、武家を使った権力争いを画策するな!の意思が入っている

現代語 決めてもらいたい事
一つ 政治を論議して天皇へ伺いをたてる人たちは次の者達にしてください。
  右大臣九条兼実〔天皇へ出す文書を予め眼を通し取捨選択をする役の内覽にすると宣旨を出してください〕  内大臣徳大寺実定
  権大納言三条実房卿   中御門宗家卿    堀川中山忠親卿(山槐記を書いた人)
  権中納言藤原実家卿   土御門通親卿    吉田経房卿
  参議藤原雅長卿     日野兼光卿
以上の公卿達は、きちんと順序どおり神様への伺いから始めて、次に仏教の事を論じるなど、規則どおりにこの人たちによって行ってください。

ひとつ せつろく  こと
一 攝録の事

  ないらん   せんじ を うだいじん  くだされ  べ   なり   ただ    うじのちょうじゃ  をい    もと  ひと そうい あ   べからざるなり
 内覧Hの宣旨於右大臣に下被る可き也。但し、氏長者Iに於ては本の人J相違有る不可也。

参考H内覧は、天皇に見せる前に目を通す人、当然握りつぶしも書き直しの命令もできる。
参考I氏長者は、藤原鎌足以来の大豪族となった藤原一族の総本家嫡家を表す。天皇家と同じように三種の神器的な物もある。
参考J
本の人は、近衛基道。殿下渡領を渡さずに済んだので、経済的実力が残ったので、兼実は経済基盤が弱くて後に失脚していく。

現代語
一つ 摂政のことは、
  内覧の天皇の命令書を右大臣に発出することです。しかし、藤原氏の総領家の役は本来の人を変えることの無いように。

ひとつ しきじ    こと       みつながのあそん      かねただのあそん
一 職事Kの事   光長朝臣    兼忠朝臣

  ふたり  あいなら    ぶ され  べ  か
 二人相並びて補被る可き歟。

  みつまさのあそん ついとう  せんじ  くだされをはんぬ てんかそうそうの とき  ふきつの しきじ なり  はや  ていはいされ  べ  なり
 光雅朝臣は追討の宣旨を下被畢。 天下草創之時、不吉之職事也。早く停廢被る可き也。

参考K職事は、蔵人の頭で実行時の実質的命令者である。

現代語
一つ 職事のことは、九条光長朝臣と壬生兼忠朝臣
 二人一緒に任命しますように  光雅朝臣は、私の追討の宣旨を書いた人なので、私の天下草創の時に不吉な人だから、早く止めさせるべきである。

ひとつ いんのみんまや べっとう    ともかたのきょう ぶぎょうのしきなり  かんぽされ  べ  か
一 院 御厩の 別當L  朝方卿 奉行之職也。還補被る可き歟。

参考L院御厩の別當は、後白河法王への取次ぎをするので、影の実力者となる。

現代語
一つ 院の御厩の長官は、葉室朝方卿がやっていた職なので返り咲きさせるように。

ひとつ  おおくらのきょう         むねよりあそんこれ  にん  られ  べ
一 大藏卿M     宗頼朝臣之に任ぜ被る可し。

参考M大蔵卿は、公領の管理者(大蔵大臣)律令制の大蔵省長官。

現代語
一つ 大蔵卿は、葉室宗頼をこの職に就ける事

ひとつ べんかん   こと         ちかつね と もち  らる  べ  か
一 辨官Nの事     親經採り用い被る可き歟。

参考N弁官は、律令制において、太政官を構成する機構の一。太政官とその管轄下の諸官司、諸国とを結んでその行政指揮運営の実際をつかさどった。左弁官、右弁官に分かれ、それぞれ大中少の弁(おおともい)があった。おおともいのつかさ。

現代語
一つ 弁官のことは、    藤原親経を採用するように

ひとつ  うまのかみ            じじゅう きんすけこれ にん  られ  べ
一 右馬頭O     侍從P公佐之を任ぜ被る可し。

参考O右馬頭は、右馬寮(うまりよう)の長官。従五位上相当。
参考P侍従は、律令制で、中務(なかつかさ)省に属した官人。天皇に近侍し、補佐した。

現代語
一つ 右馬頭は、侍従の公佐を任命すること

ひとつ さだいのさかん         ひゅうがのかみひろふさにんこく  あ これ  にん  られ  べ
一 左大史Q     日向守廣房任國に在り。之を任ぜ被る可し。

  たかもと  ついとう  せんじ   な    てんかそうそうの とき   きんきそうろうべ  なり  よっ  ていはいさる  べ
 隆職は追討の宣旨を成す。天下草創之時、禁忌候可き也。仍て停廢被る可し。

参考Q(さかん)は、律令制で神祇官、太政官の主典(さかん)。大史と少史とがあり、記録をつかさどった。

現代語
一つ 左大史(太政官の記録係) 日向守広房が任務の日向の国におりますので、この人を任命すること。
 小槻隆職は、私を追討する宣旨を書いたので、私の天下草創の時に忌み嫌うべき縁起の悪い人だから、止めさせるように。

ひとつ くにぐに  こと
一 國々の事

   いよ            うだいじん  おんさた  〔つきのわどの〕
 伊豫     右大臣の御沙汰〔月輪殿〕

  えちぜん          ないだいじん おんさた
 越前     内大臣の御沙汰

  いわみ          むねいえきょうたま   べ   なり
 石見     宗家卿給はる可き也

  えっちゅう        みつたかきょう おな
 越中     光隆卿 同じ

  みまさか         さねいえきょう お
 美作     實家卿 同じ

  いなば          みちちかきょう おな
 因播     通親卿 同じ

  おうみ           まさながきょう  おな
 近江     雅長卿 同じ

  いずみ          みつながあそん  おな
 和泉     光長朝臣 同じ

   むつ           かねただあそん  おな
 陸奥     兼忠朝臣 同じ

   ぶんご
 豊後

  よりとも もう  たま        ほっ    そ   ゆえは  こくし   い     こくじん  い     ゆきいえ よしつね  むほん   どうい
 頼朝申し給はらんと欲す。其の故者、國司と云ひ、國人と云ひ、行家、義經の謀叛に同意す。

  よっ  そ   とうるい  たず  さた せし    ため  こくむ   ちぎょうせし     ほっ  なり
 仍て其の黨類を尋ね沙汰令めん爲、國務を知行令めんと欲す也。

現代語
一つ 国の支配について 伊予国は右大臣九条兼実に国司任命権を与えてください
 石見国は、中御門宗家卿に与えること
 越中国は、壬生光隆に同様に。
 美作国は、河原実家卿に同様に。
 因幡国は、土御門通親卿に同様に。
 近江国は、藤原雅長卿に。
 和泉国は、光長朝臣に同じ。
 陸奥国は、兼忠朝臣に同様に。
 豊後国は、
 頼朝が貰い受けたいと思います。なぜならば、国司も、国衙の役人も、行家、義経の謀反に味方していたので、その一味を探して捕まえた上で、国の政務を行いたいと考えているからです。 

ひとつ けっかん  こと      きりょう  えら  さだ    と   もち  らる  べ   なり
一 闕官の事   器量を撰び定めて採り用い被る可き也。

    じうにがつむいか       よりとも 〔ざいはん〕
  十二月六日   頼朝〔在判〕

現代語
一つ 空席について 才能実力のある人を選んで任命すること。
   12月6日  頼朝〔花押〕

ひとつ げかん  こと
一 解官の事

  さんぎちかむね    おおくらのきょうやすつね  うだいべんみつまさ    ぎょうぶのきょうよりつね   うまのかみつねなか     うまごんのかみなりただ
 參議親宗  大藏卿泰經   右大辨光雅  刑部卿頼經   右馬頭經仲   右馬權頭業忠

  さのだいさかんたかもと さえもんのしょうじょうのぶもり   のぶざね     ときしげ      ひょうごのかみあきつな
 左大史隆職  左衛門少尉信盛  信實   時成   兵庫頭章綱

  ゆきいえ  よしつねら   どうい       てんか  みだ     ほっ    のきょうしんなり  はや  げんにん げかん    ついきゃくされ べ  なり
 行家、義經等に同意して、天下を亂さんと欲する之凶臣也。早く見任を解官し、追却被る可き也。

  かね  また  かく  ほかゆきいえ  よしつね  けにん  ぎゃくとかんゆうのきゃく せんしん あいたず   かんいのやから をい   いちいちげかんていはいされ  べ  なり
 兼て又、此の外行家、義經の家人、逆徒勸誘之客は淺深を相尋ね、官位之輩に於ては一々解官停廢被る可き也。

  そうおんみょうじのたぐ  あいまじ    よし  そ   きこ   あ     おな    ついきゃくあ べ  なり
 僧陰陽師之類ひ相交るの由、其の聞へ有り。同じく追却有る可き也。

    じうにがつむいか       よりとも 〔ざいはん〕
  十二月六日   頼朝〔在判〕

現代語
一つ 解任する人について
 参議(天皇の相談相手)親宗 大蔵大臣泰経(判官贔屓) 右大弁光雅(頼朝追討の院宣を提案した人) 刑部卿頼経 右馬権頭業忠 左大史(太政官の記録係)小槻隆職 左衛門少尉信盛 信実 時成 兵庫頭章綱 この人達は、行家、義経の味方をして、天下に騒乱を招く悪い役人達です。早く解任して、朝廷から追い出すように。それ以外にも行家、義経の家来や味方をした人々の、その親しさの度合いを調べて、官職を持っている役人は解任するように。坊さんや陰陽寮の占い師達も入っているとの、噂もあるので、同様に追い出してください。
  十二月六日 頼朝(花押有)

被献右府御書曰。
 言上
  事由
 右。言上日來之次第候者。定子細事長候歟。但平家奉背 君。旁奉結遺恨。偏企濫吹候。世以無隱候。今始不能言上候。而頼朝爲伊豆國流人。雖不蒙指御定。忽廻籌策可追討御敵之由。令結搆候之間。御運令然之上。勳功不空。始終令討平。伏敵於誅。奉世於 君。日來之本意相叶。公私依悦思給候。先不待平家追討之左右。爲停近國十一ケ國武士之狼藉。差上二人使〔久經。國平〕猶私下知依有恐。一々賜 院宣可成敗之由。仰含候畢。仍彼國狼藉。大畧令沙汰鎭候之後。依別仰。重又件使者男被下遣鎭西四國候。已賜 院宣令進發候畢。如此之間。種直。隆直。種遠。秀遠之所領者。依爲没官之所。任先例。可置沙汰人職之由雖令存候。且先乍申之由。尚輙于今不成敗候。何况自余之所不及成敗候。如近國沙汰。任 院宣可鎭旁狼藉之由。兼令存知候之處。不審次第出來候。以義經補九國地頭。以行家被補四國地頭候之條。前後之間。事与意相違。彼輩各相憑其柄。巧非分之謀。令下向候之刻。雖無指寄攻之敵。天譴難遁。乘船解纜之時。入海浮浪。郎從眷屬即令滅亡之條。誠非人力之所及。已是神明御計也。而彼兩人。其身未出來。暗跡逐電。旁分手令尋求候之間。國々庄々。門々戸々。山々寺々。定狼藉事等候歟。召取候之後。何不相鎭候哉。但於今者。諸國庄園。平均可尋沙汰地頭職候也。其故者。是全非思身之利潤候。土民或含梟惡之意。値遇謀叛之輩候。或就脇々之武士。寄事於左右。動現奇怪候。不致其用意候者。向後無四度計候歟。然者。雖伊与國候。不論庄公。可成敗地頭之輩候也。但其後。先例有限正税已下國役。本家雜事。若致對捍。若致懈怠候者。殊加誡。無其妨任法可致沙汰候也。兼可令御心得此旨給候。兼又當時可被仰下候事。愚意之所及。乍恐注折紙。謹以進上之。一通 院奏料令付師中納言卿候。今度天下草創也。尤被究行淵源候。殊可令申沙汰給也。天之所令奉与也。全不可及御案候。以此旨可令洩申右大臣殿給之状。謹言上如件。
     十二月六日                      頼朝〔在ー〕
    謹上  右中弁殿

 うふ   けん  らる  おんしょ  いは
右府に獻ぜ被る御書に曰く

  ごんじょう
 言上す

   こと  よし
 事の由

  みぎ  ひごろ の しだい   ごんじょう そうら ば   さだ    しさい   こと  なが  そうら   か
 右。日來之次第を言上し候は者、定めて子細の事、長く候はん歟。

  ただ    へいけ きみ  そむ たてま  かたわらいこん むす たてまつ  ひと    らんすい  くはだ そうろう  よ もっ  かく   な  そうろう
 但し、平家君に背き奉り、旁遺恨を結び奉り、偏へに濫吹を企て候は、世以て隱れ無く候。

  いま  はじ   ごんじょう   あたはずそうろう しか    よりとも いずのくに  るにん   な   さし     ごじょう  こうむ ず  いへど
 今、始めて言上する不能候。 而るに頼朝伊豆國の流人と爲し指たる御定を蒙ら不と雖も、

  たちま ちうさく  めぐ      おんてき  ついとう  べ   のよし  けっこうせし そうら  のかん  ごうん   しか  せし  のうえ  くんこうむなしからず
 忽ち籌策を廻らし、御敵を追討す可し之由、結搆令め候う之間、御運、然ら令む之上、勲功不空。

  しじゅうすで  う   たいら   てきを ちう  ふく    よ を きみ たてまつ   ひごろの  ほい あいかな    こうし よっ  えつ  おも  たま  そうら
 始終已に討ち平げ、敵於誅に伏し、世於君に奉り、日來之本意相叶ひ、公私依て悦に思ひ給ひ候う。

   ま   へいけ ついとうの  そう   またず  きんごくじゅういっかこく  ぶし の ろうぜき  と       ため  ふたり  つか  〔ひさつね  くにひら〕   さ   のぼら
 先づ平家追討之左右を待不、近國十一箇國の武士之狼藉を停めんが爲、二人の使い〔久經。國平〕を差し上す。

  なお  し    げち おそ  あ     よっ    いちいち いんぜん たまは  せいばい べ    のよし  おお  ふく  そうら をはんぬ
 猶、私の下知恐れ有るに依て、一々に院宣を賜り、成敗す可き之由、仰せ含め候ひ畢。

  よっ  か   くに  ろうぜき  たいりゃくさた  しず  せし そうろうののち べっ    おお    よっ    かさ    また
 仍て彼の國の狼藉、大略沙汰し鎮め令め候之後、別して仰せに依て、重ねて又、

  くだん ししゃ  おとこ  ちんぜい  しこく  くだ  つか  されそうろ   すで  いんぜん  たま      しんぱつせし そうら をはんぬ
 件の使者の男を鎮西、四國に下し遣は被候う。已に院宣を賜はり、進發令め候ひ畢。

  かく  ごと  の かん  たねなお たかなお たねとお ひでとおのしょりょうは  もっかんのところたる  よっ    せんれい  まか      さたにんしき  お   べ   のよし
 此の如き之間、種直、隆直、種遠、秀遠之所領者、没官之所爲に依て、先例に任せて、沙汰人職を置く可し之由、

  ぞんぜし  そうろ   いへど  かつう さき   ことの よし  もう  なが   なおすなは いまに せいばい ず そうろう  なん いはん じよの ところ  せいばい およばず そうろ
 存令め候うと雖も、且は先に事之由を申し乍ら、尚輙ち今于成敗せ不に候。何ぞ况や自余之所は成敗に不及に候う。

  きんごく    さた   ごと  いんぜん まか かたがたろうぜき しず  べ   のよし   かね  ぞんちせし そうろうのところ ふしん  しだい い   き     そうろう
 近國の沙汰の如く院宣に任せ旁狼藉を鎮める可し之由、兼て存知令め候之處、不審の次第出で來たり候。

  よしつね  もっ  きゅうこく  ぢとう    ぶ     ゆきいえ  もっ  しこく    ぢとう   ぶされ そうろうのじょう ぜんごの かん  ことと い   そうい
 義經を以て九國の地頭に補し、行家を以て四國の地頭に補被候之條、前後之間、事與意と相違す。

   か  やから おのおの そ  がら  あいたの   ひぶん の はかり  たく      げこう せし そうろうのとき  さ     よ   せ     のてき な   いへど
 彼の輩、各、其の柄を相憑み、非分R之謀を巧みて、下向令め候之刻、指せる寄せ攻むる之敵無しと雖も、

  てんけんのが  がた  じょうせんかいらんのとき うみ  い   なみ う       ろうじゅうけんぞく すなは めつぼうせし のじょう  まこと じんりきのおよ  ところ  あらず
 天譴遁れ難く、乗舩解纜之時、海に入り浪に浮かび、郎從春屬 即ち滅亡令む之条、誠に人力之及ぶ所に非。

  すで これ みょうじん おんはかりなり しか    か  りょうにん  そ   み いま   いできた     あと  くら    ちくてん
 已に是、神明の御計也。而るに彼の兩人、其の身未だ出來らず。跡を暗まし逐電す。

 かたがた て   わ     たず  もと  せし そうろうのかん くにぐに しょうしょう かどかど   ここ    やまやま  てらてら  さだ    ろうぜき  ことらそうら    か
 旁、手を分けて尋ね求め令め候之間、國々、庄々、門々、戸々、山々、寺々、定めて狼藉の事等候はん歟。

  め   と  そうろうののち  なん  あいしず   ずそうろうや  ただ   いま  をい  は  しょこくしょうえん へいきん  じとうしき   たず   さた すべ そうろうなり
 召し取り候之後、何ぞ相鎮まら不候哉。但し、今に於て者、諸國庄園、平均に地頭職を尋ね沙汰可く候也。

  そ   ゆえは  これまった み の りじゅん  おも  あらずそうろう どみんある    きょうあくの い  ふく    むほんのやから  ちぐうそうろう
 其の故者、是全く身之利潤を思うに非候。土民或ひは梟惡之意を含み、謀叛之輩に値遇候。

  ある    わきわきの ぶし   つ     ことを  そう   よ     ややも     きっかい  あらは そうろう
 或ひは脇々之武士に就き、事於左右に寄せ、動すれば奇怪を現し候。

  そ   ようい   いたさずそうら ば   こうご  しどけ  な   そうら    か
 其の用意を不致候は者、向後四度計無くS候はん歟。

  しか  ば   いよのくに  そうら   いへど  しょうこう  ろん  ず   せいばいすべ  じとうのやからそうろうなり
 然ら者、伊豫國に候うと雖も、庄公を論ぜ不、成敗可き地頭之輩候也。

  ただ  そ   のち  せんれい うげん  しょうぜい いか  こくえき  ほんけ  ぞうじ   も  たいかんいた    も    けたい いた そうらはば
 但し其の後、先例有限の正税已下の國役、本家の雜事、若し對捍致し、若し懈怠致し候者、

  こと いましめ くは    そ   さまた な     ほう  まか  さた いた  べ  そうろうなり
 殊に誡を加へ、其の妨げ無く、法に任せ沙汰致す可く候也。

  かね  このむね  おんこころえせし たま  べ そうろう  かね  また  とうじ おお  くだされそうろ べ  こと
 兼て此旨を御心得令め給ふ可く候。兼て又、當時仰せ下被候う可き事、

   ぐい の およ  ところ おそ  なが  おりがみ  ちゅう  つつし もっ  これ  しんじょう
 愚意之及ぶ所は恐れ乍ら折紙に注し、謹み以て之を進上す。

参考R非分は、分にあらず。だが、紀元千年頃に「分」の意識が成立し、人は分に限りがあり、分を際めた行動をし、分に応え、過ぎた分を望まずなどの思想が定着してきた。そこで家にも分があり、家の業、家の職、家の格が決まってくる。例えば天皇には天皇家から。摂政関白は摂関家から、大臣家は大臣どまり等と家の出世まで限定された。菅原は儒家、中原、清原は局務家、和気、丹波は医家で典薬寮の長官(典薬頭)五位止まり。等々。
参考S四度計無くは、きちんとしていないの意味で源氏物語、枕草子、うつぼ物語、大鏡、平治物語、漢文の平家物語にも使われている。

現代語右大臣に献上する文書に書いてあるのは、

事の次第を申し上げます

普段から考えていることを述べますが、細かな事を言うと長々となってしまうのでしょう。でも、平家が法王に逆らって、深く恨みをもって、(鳥羽殿に閉じ込めたり)乱暴をしたのは、世間に隠しようのない事実です。今更いうまでもありません。そして頼朝は伊豆に流罪となっていながら、特別な命令を戴いた訳でもないけれど、ちゃんと策略を練って、朝廷の敵をやっつけるように、きちんと準備をしていたら、法王も運が良かったので、私の忠義も無駄にならず、始めから終りまできちんと打ち滅ぼし、敵に罰を与えて、法王に政務を返しましたので、願っていた事のとおりになって、法王も、私もこれで嬉しく思いますね。(C盛に鳥羽殿へ幽閉された後白河法皇を助けて、政治を取り戻してあげたと称して、関東の独立を図ってしまった)

そして、平家を追討するしないに係わらず、天皇等のおられる関西での武士達の乱暴をさせないために私の名代を二人(典膳大夫久経と近藤七国平)を京都へ差し向けました。それでも、頼朝の個人的な命令になってはいけないので、一つ一つ院宣を戴いて判断をするように良く言い聞かせて有ります。だから、その国の乱暴は殆ど命令して治めたうえで、後白河法皇の特別な命令を受けて、なお又その使者の男(典膳大夫久経と近藤七国平)を九州や四国へ下向させるように、既に院宣を戴いて出発させました。

そういう訳で、原田大夫種直、菊地九郎隆直、板井種遠、山鹿秀遠の領地は、平家没官領として没収される所なので、先例どおりに、現地管理者としての私の家来を置こうと思ったのだけれども、先にそうしようと云っておきながら、未だ実施していないのです。そう云う訳でここも言うに及ばずです。近畿地方の始末と同様に、院宣のとおりに乱暴を治めるように、前もって思ってきていましたが、なんか怪しい訳の分からない事が起こりました。それは、義經を九州の総地頭に任命し、行家を四国の総地頭に任命したことなんですよ。本来は私が没収すべきじゃないのですか。平家没官領地は全て頼朝に与えると云いながら、行家や義經に与えるなんて、云ってることとやっている事と違っているじゃないですか。

あの連中は、総地頭に任命されたのを頼みにして、分不相応な陰謀をたくらんで、九州へ落ち延びようとしたときに、相手になるような大きな敵は居なかったけれど、天罰を逃れる事が出来ずに、船に乗り出航しようと海上に出たとたんに、難破して海に落ち水に入ることになった。家来も親しい間柄の人もあっという間に滅び去ってしまったのは、人間の力ではどうなる物ではない。これはもう神様の思し召しに決まっている。それでも、彼等の身柄は発見できず、行方を隠して何処かへ逃げてしまった。

朝廷が、手配りをして彼等を探している間にも、国領においても、荘園でも、豪族でも、民の家でも、山門内でも、寺でも、どこででも騒動を起こすだろうけど、これを捕まえてしまえば、国中が静かにならない事はないだろう。但し、現在これを捕らえるためには、全国の国衙領も荘園も区別無く全部に地頭職を任命して警戒に当たらせる必要がある。なぜならば、これは関東の利益を考えて言っているのではない。一般庶民も欲得の心を持っているので、謀反人を指揮官にして立ち上がるだろう。又、その辺の在地武士と一緒になって、この機会を利用して、ひょっと思いついて悪いことをやりだしかねないものだ。それらに対して用意をしておかなくては、きちんとできないだろう。

それなので、義経が守の伊予国でさえも、荘園、公領であろうとも区別無く捜査できる地頭を置く必要があるのだ。但し、地頭を置いた後でも、先例や朝廷への本税や国衙の労働要求や、荘園領主の苦役をもしも反抗して、滞納した場合は、特に罰を加えて、年貢を納めるよう、法律どおりに処分しましょう。どうか、この内容を良く理解して戴きたい。又今回言い出したことで、私の思うことは恐縮ながら正式の文書にして、謹んでお届けします。

  いっつう  いんそう  かて  そちのちゅうなごんのきょう つ せし  そうろう
 一通 院奏の料、帥中納言卿に 付け令め候。

  このたび  てんかそうそうなり  もっと  えんげん きは  おこな れそうろう こと  もう   さた せし  たま  べ   なり
 今度、天下草創也。尤も淵源を究め行は被候。殊に申し沙汰令め給ふ可き也。

  てんの あた たてまつ せし ところなり  まった ごあん   およ  べからずそうろう
 天之與へ奉ら令む所也。全く御案に及ぶ不可候。

  かく  むね  もっ  うだいじんどの  もら  もう  せし   たま  べ   のじょう  つつし  ごんじょうくだん ごと
 此の旨を以て右大臣殿に洩し申さ令め給ふ可し之状、謹んで言上件の如し

  じゅうにがつむいか          よりとも 〔ざいはん〕
 十二月六日     頼朝〔在判〕

  きんじょう   うちゅうべんどの
 謹上  右中辨殿

現代語一通は、後白河法皇にお取次ぎいただきたい内容を師中納言吉田経房様宛に出しました。今回は天下を改めるときですので、とても深く考え申し上げています。これは天が与えてくれた機会ですので、余分なことはお悩みなられませぬように願います。この内容で右大臣殿に伝えてくれるようにお願いしているのはこの手紙の通り、謹んで申し上げます。十二月六日頼朝〔花押〕    謹んで上げます  右中弁殿

是に対する九条兼実の返事(三浦三崎ひとめぐりさんの読み下し吾妻鏡から拝借)

[玉葉]

   れいしじょう  いは
  礼紙状に云く、

     お    ごんじょう
   逐って言上す、

    むほんにん ゆきいえ よしつね どうい      やから ま  げかん ついきゃく
   謀叛人行家、義経に同意するの輩、先ず解官追却せらるべし。

    きょうみょう おりがみ ちゅう  つつ     もっ        しんらん   いっつういんそうりょう そちのちゅうなごんのきょう ふ そうろう
   交名は折紙に注し、謹んで以てこれを進覧す。一通院奏料は、師中納言卿に付けしめ候なり。

    みんぶのきょうなりのりのきょう か やから  どうい     そうろう よし うけたまは およ そうろう いへど ごえんびと  よっ
   民部卿成範卿は、彼の輩に同意せしめ候の由、承り及び候と雖も、御縁人たるに依って、

     たやす とこう もう         そうろう  さだ  おんはからいそうろう きょうこうきんげん
   輙く左右を申すべからず候。定めて御計候か。恐惶謹言。

文治元年(1185)十二月大七日丙辰。雜色濱四郎爲御使。帶 院奏折紙状并被献右府御書等上洛。左典厩下部黒法師丸爲京都案内者被相副之。有義經同心聞之侍臣事。被申子細之中。民部卿成範卿者。爲右府御縁者之間。被除折紙云々。此間事等。京都巨細者。大畧以被示合左典厩并侍從公佐等治定云々。彼公佐朝臣者。二品御外舅北條殿外孫〔法橋全成息女子也〕也。旁以有其好之上。心操太隱便。不背御意之故。今度則令擧申右馬權頭給云々。

読下し                        ぞうしきはましろう おんし   な     いんそう  おりがみじょうなら    うふ   けん  らる  おんしょら  たい  じょうらく
文治元年(1185)十二月大七日丙辰。雜色濱四郎御使と爲し、院奏の折紙状并びに右府に献ぜ被る御書等を帶し上洛す。

さてんきゅう  しもべ  くろほっしまる   きょうと  あないじゃ   な   これ  あいそえらる   よしつね  どうしん  きこ   あ    のじしん  こと
左典厩が下部の黒法師丸、京都の案内者と爲し之に相副被る。義經に同心の聞へ有る之侍臣の事、

しさい   もうさる   のうち みんぶのきょうなりのりきょうは  うふ   ごえんじゃ  な   のかん  おりがみ  のぞかる   うんぬん
子細を申被る之中、民部卿成範卿者、右府が御縁者と爲す之間、折紙に除被ると云々。

こ   かん  ことら   きょうと  こさいは  たいりゃくもつ  さてんきゅうなら    じじゅうきんすけ ら  しめ  あは  られちじょう    うんぬん
此の間の事等、京都の巨細者、大畧以て左典厩并びに侍從公佐@等に示し合せ被治定すと云々。

か   きんすけあそんは  にほん ごがいしゅうほうじょうどの そとまご 〔ほっきょうぜんじょう そくじょむこ なり 〕 なり

彼の公佐朝臣者、二品が御外舅北條殿が外孫〔法橋全成が息女子A也〕也。

かたがたもつ そ よしみ あ  のうえ  こころばせはなは おんびん  ぎょい  そむ  ざるのゆえ  このたびすなは うまごんのかみ  あ  もう  せし  たま   うんぬん
旁 以て 其の好有る之上、心操 太だ 隱便、御意に背か不之故、今度則ち右馬權頭Bに擧げ申さ令め給ふと云々。

参考@侍從公佐は、三条公佐で、北條時政の娘阿波局と頼朝の弟阿野全成との間にできた娘の婿。
参考A
息女子は、息女婿の間違い。
参考B右馬権頭は、正式な右馬頭に対する臨時のと云う名誉職。

現代語文治元年(1185)十二月大七日丙辰。下っ端の雑用係の浜四郎は頼朝様の飛脚として、後白河法皇へ申し上げる正式文書と右大臣九条兼実に差し上げる手紙を持って京都へ出発しました。左典厩一条能保の下っ端の黒法師丸が、京都の案内として一緒に行かせました。源九郎義経の味方をした公卿について、詳しく書き連ねたうちで、民部卿成範様は、右大臣の縁戚なので、文書から除きましたとさ。こういった京都の詳しいことは、一条能保や侍從藤原公佐などに問い合わせた上で決められましたとさ。その藤原公佐様は、頼朝様の舅の北条時政殿の外孫〔娘の阿波局の亭主阿野全成との間に出来た娘の婿です〕に当たります。そう云う訳で、その縁者であるばかりか、性格がとても穏便で、頼朝様に忠実だから、今回右馬権頭に推薦なされましたとさ。

参考時政阿波局┐
         ├─女┐
  義朝─阿野全成┘  ├阿野実直………………阿野康子┐
        藤原公佐┘         後醍醐天皇┘

文治元年(1185)十二月大八日丁巳。吉野執行送靜於北條殿御亭。就之。爲搜求豫州。可被發遣軍士於吉野山之由云々。

読下し                        よしの  しゅぎょう  しずかをほうじょうどの おんてい  おく
文治元年(1185)十二月大八日丁巳。吉野の執行@、靜於北條殿が御亭へ送る。

これ  つ     よしゅう  さが  もと    ため  ぐんしを  よしのやま   はっけんさる  べ   のよし  うんぬん
之に就き、豫州を搜し求めん爲、軍士於吉野山へ發遣被る可し之由と云々。

参考@執行は、寺院の事務を執り行う上首僧侶。

現代語文治元年(1185)十二月大八日丁巳。吉野山蔵王堂の事務長は、静御前を京都の北条時政の駐屯している屋敷へ送りました。これを聞いて源九郎義経を探し出すために軍隊を吉野山へ出発させようとの事でした。

文治元年(1185)十二月大十一日庚申。二品若君俄以御病惱。諸人群參。營中物忩。若宮別當法眼爲御加持被參候云々。

読下し                          にほん  わかぎみ  にはか もつ  ごびょうのう  しょにんぐんさん  えいちゅぶっそう
文治元年(1185)十二月大十一日庚申。二品の若君、俄に以て御病惱。諸人群參す。營中物忩す。

わかみや  べっとうほうげん  ごかぢ    ためさんこうさる   うんぬん
若宮の別當法眼、御加持の爲參候被ると云々。

現代語文治元年(1185)十二月大十一日庚申。頼朝様の若君(万寿、後の頼家数えの四歳)が急に病気のなったので、御家人達が駆けつけ、御所の中はごったがえしました。八幡宮長官の法眼円暁が、加持祈祷のために参りましたとさ。

文治元年(1185)十二月大十五日甲子。北條殿飛脚自京都參着。被注申洛中子細。謀反人家屋等先點定之。同意悪事之輩。當時露顯分。不逐電之樣廻計畧。此上又申師中納言殿畢。次豫州妾出來。相尋之處。豫州出都赴西海之曉。被相伴至大物濱。而船漂倒之間。不遂渡海。伴類皆分散。其夜者宿天王寺。豫州自此逐電。于時約曰。今一兩日於當所可相待。可遣迎者也。但過約日者速可行避云々。相待之處。送馬之間乘之。雖不知何所。經路次。有三ケ日。到吉野山。逗留彼山五ケ日。遂別離。其後更不知行方。吾凌深山雪。希有而着藏王堂之時。執行所虜置也者。申状如此。何樣可計沙汰乎云々。」若公御平愈云々。

読下し                           ほうじょうどの ひきゃく きょうとよ  さんちゃく   らくちゅう  しさい  ちう  もうさる
文治元年(1185)十二月大十五日甲子。北條殿が飛脚京都自り參着す。洛中の子細を注し申被る。

むほんにん   かおくら ま   これ てんじょう    あくじ  どういのやから  とうじ ろけん  ぶん  ちくてんせざるのさま けいりゃく めぐ
謀反人が家屋等先ず之を點定す。悪事に同意之輩、當時露顯の分、逐電不之樣、計畧を廻らし、

このうえまた  そちのちうなごんどの もう をはんぬ
此上又、師中納言殿へ申し畢。

つぎ  よしゅう しょうしゅつらい  あいたずぬのところ よしゅうみやこ い  さいかい おもむ のあかつき  あいともなはれ だいぶつはま いた
次に豫州が妾出來す。相尋之處、 豫州都を出で西海へ赴く之曉、 相伴被 大物濱へ至る。

しか    ふねひょうとうのかん  とかい  と   ず   ばんるいみなぶんさん  そ  よ は てんのうじ  やど    よしゅうこれよ   ちくてん
而るに船漂倒之間、渡海を遂げ不。伴類皆分散す。其の夜者天王寺へ宿す。豫州此自り逐電す。

ときに やく    い       いまいちりょうじつを とうしょ  あいまつべ    むか    もの  つか    べ  なり   ただ  やくじつ すぎ  ば はや  ゆ   さけ  べ   うんぬん
時于約して曰はく。今一兩日於當所で相待可し。迎いの者を遣はす可き也。但し約日を過れ者速く行き避る可し云々。

あいまつのところ うま  おく  のかん これ  の      どこ   しらず  いへど    ろじ   へ     みっかび あ       よしのやま   いた
相待之處、馬を送る之間之に乘り、何所と不知と雖も、路次を經て、三ケ日有りて、吉野山へ到る。

か   やま  いつかび   とうりゅう    つい  べつり     そ   ご さら  ゆくえ  しらず
彼の山に五ケ日を逗留し、遂に別離す。其の後更に行方を不知。

われ  しんざん  ゆき  しの      けう     て ざおうどう  つ    のとき  しゅぎょうと  お  ところなりてへ
吾、深山の雪を凌ぎ、希有にし而藏王堂へ着く之時、執行虜り置く所也者れば、

もう  じょうかく  ごと     なによう   さた はか  べ   と  うんぬん
申す状此の如し、何樣を沙汰計る可し乎と云々。」

わかぎみ ごへいゆ  うんぬん
若公御平愈と云々。

現代語文治元年(1185)十二月大十五日甲子。北条時政殿の伝令が京都から到着しました。京都内の動向を文書に書いて報告してきました。

謀反人たちの屋敷をまず差し押さえました。それは九郎義経に協力した連中で、現在分かっている者達を逃がさないように策略を考え、そのことも師中納言吉田経房殿へも申し入れました。

次に与州義経の妾が来ました。詳しく訪ねたところ、「与州義経は都を出て九州へ行こうとした朝に、一緒に連れて大物浜へ行きました。しかし、船が難破して海を渡ることは出来なくて、家来達は皆ちりぢりになってしまいました。その夜は天王寺に泊まって、与州義経はそこから行方をくらましました。その時に約束をしたのが、もう二日ほどここで過ごして待っていてくれ、迎えの者をよこすからと云いました。しかしながら、約束の日時が過ぎたら、何処かへ行きなさいとの事でした。待っていましたら、馬が到着したのでそれに乗って、何処を通っているのかも知りませんでしたが、道中三日かかって吉野山に到着しました。その吉野山に五日間逗留した後、分かれました。その後の行方は分かりません。私は深山の雪をかき分け歩き、運良く蔵王堂へたどり着いたら、事務長の方が私を捕えていました。」と云いました。云っていることはこのとおりですが、どのように計らいましょうかだとさ。

一方鎌倉では、若君(万寿、後の頼家数えの四歳)の病気が治りました。

文治元年(1185)十二月大十六日乙丑。去七日所被副上洛御使之黒法師丸自途中馳歸。申云。雜色濱四郎至駿河國岡部宿。俄病惱。心神失度。待平愈之期。雖經兩日。當時起居猶不任其意。况難向遠路云々。依之不廻時剋。被差上雜色鶴次郎。生澤五郎。黒法師丸猶所相副也。又被遣北條殿御返事。靜者可被召下云々。

読下し                          さんぬ なぬか  じょうらく おんし   そ   らる  ところのくろほっしまる とちゅうよ  は  かえ    もう     い
文治元年(1185)十二月大十六日乙丑。去る七日、上洛の御使に副へ被る所之黒法師丸途中自り馳せ歸り、申して云はく。

ぞうしきはましろう するがのくにおかべのしゅく  いた  にはか びょうのう   しんしん ど  うしな
雜色濱四郎 駿河國岡部宿@へ至り、俄に病惱し、心神度を失う。

へいゆの ご   ま     りょうじつ  へ   いへど    とうじ   ききょ   なお そ  い   まかせず いはん えんろ  むか  がた    うんぬん
平愈之期を待ち、兩日を經ると雖も、當時の起居、猶其の意に不任。况や遠路に向ひ難しと云々。

これ  よつ  じこく  めぐらさず ぞうしきつるじろう  いくさわのごろう  さ   のぼ  さる    くろほっしまる  なおあいそへ ところなり
之に依て時剋を不廻。雜色鶴次郎、生澤五郎を差し上ら被る。黒法師丸、猶相副る所也。

また  ほうじょうどの ごへんじ   つか  さる    しずかはめしくださる  べ    うんぬん
又、北條殿に御返事を遣は被る。靜者召下被る可しと云々。

参考@岡部宿は、静岡県志太郡岡部町岡部。

現代語文治元年(1185)十二月大十六日乙丑。去る七日、京都への使いに付けて行かせた黒法師丸が途中から橋って引き返してきて、云うのには、雑用の浜四郎が駿河国岡部宿で、急に病気になって意識を失いました。治るのを待って、二日経ちましたが、現在は起き上がるのもままになりません。ましてや遠くへ行くなんてとても無理ですとさ。それを聞いて、時を待たずに、雑用の鶴次郎、生沢五郎に命じて京都へ向かわせました。黒法師丸は、なおも一緒に行かせたところです。又、北条時政殿へ返事を出されました。静御前は、鎌倉へよこすようにだとさ。

文治元年(1185)十二月大十七日丙寅。小松内府息丹後侍從忠房。後藤兵衛尉基C預之。亦北條殿任關東仰。屋嶋前内府息童二人。越前三位通盛卿息一人被搜出之。於遍照寺奥。大覺寺北菖蒲澤。虜權亮三位中將惟盛卿嫡男〔字六代〕令乘輿被向野地之處。神護寺文學上人。稱有師弟之昵。申請北條殿云。須啓子細於鎌倉。待其左右之程。可被宥置云々。前土佐守宗實〔小松内府息〕左府(經宗)猶子也。是又被申二品。暫可有免許之由被仰遣。依之。兩人者被閣之。於屋嶋内府息等者梟首云々。

読下し                           こまつないふ   そく たんごのじじゅうただふさ  ごとうひょうえのじょうもときよ  これ  あずか
文治元年(1185)十二月大十七日丙寅。小松内府@が息 丹後侍從忠房、 後藤兵衛尉基C 之を預る。

また  ほうじょうどのかんとう おお   まか    やしまのさきのないふ  そくどうふたり  えちぜんさんみみちもりきょう  そくひとり   これ  さが  いでらる
亦、北條殿關東の仰せに任せ、屋嶋前内府Aが息童二人、 越前三位通盛卿Bが息一人、之を搜し出被る。

へんじょうじ   おく   だいかくじ きた しょうぶさわ  をい   ごんのすけさんみちゅうじょうこれもりきょう ちゃくなん〔あざ ろくだい 〕  とりこ こし  のらせし
遍照寺Cの奥、大覺寺D北菖蒲澤に於て、 權亮三位中將惟盛卿の 嫡男〔字を六代Eを虜し輿に乘令め、

 のぢ    むか  らる  のところ  じんごじ   もんがくしょうにん  していのむつびあ   しょう    ほうじょうどの  もう  う     い
野地Fに向は被る之處、神護寺Gの文學上人H、師弟之昵有りと稱し、北條殿に申し請けて云はく。

すべから しさいをかまくら  もう    そ    そう    ま   のほど  ゆる  おかれ  べ    うんぬん
須く子細於鎌倉へ啓し、其の左右を待つ之程、宥し置被る可しと云々。

さきのとさのかみむねざね〔こまつないふ そく〕   さふ   ゆうし なり  これまた にほん  もうさる    しばら めんきょ あ   べ   のよし  おお  つか  さる
前土佐守宗實〔小松内府が息〕左府が猶子I也。是又二品に申被る。暫く免許有る可し之由、仰せ遣は被る。

これ  よつ    りょうにんは これ  さしおかれ やしまのないふ  そくら   をい  は きょうしゅ    うんぬん
之に依て、兩人者之を閣被る。屋嶋内府が息等に於て者梟首すと云々。

参考@小松内府は、平重盛。
参考A屋嶋前内府は、平宗盛。
参考B
越前三位通盛卿は、C盛の弟教盛の子。
参考C遍照寺は、右京区嵯峨広沢西裏町14番地。通称を広沢不動尊と云う。
参考D大覺寺は、京都府京都市右京区嵯峨大沢町。真言宗大覚寺派本山
参考E惟盛卿の嫡男〔字を六代〕は、政盛─忠盛─C盛─重盛─惟盛─六代御前。平家の嫡流の六代目。
参考F野地は、滋賀県草津市野路町。JR南草津駅周辺。
参考G神護寺は、京都府京都市右京区梅ケ畑高雄町5。
参考H文學上人は、門覚上人。
参考I猶子は、「なお子の如し」で相続権のない養子。これが「親の分、子の分と分限をわきまえる」となり、当時の文書には「親分」「子分」と出てくる。

現代語文治元年(1185)十二月大十七日丙寅。平重盛の息子の丹後侍従忠房は、後藤兵衛尉基清が囚人(めしうど)に預かりました。又、北条四郎時政殿は頼朝様の仰せに従って、平宗盛の児童を二人、平通盛の息子を一人探し出しました。遍照寺の奥で大覚寺の北の菖蒲沢で惟盛の嫡男〔六代御前〕を捕まえて捕虜にし、輿へ乗せて草津の野路宿へ向かったところ、神護寺の門覚上人が仏教上の子弟の縁があるのでと、北条時政殿に申し出て云うには、詳しい手紙を書いて鎌倉殿へ頼むので、その結果が出るまで待ってくれと云うので、それまで許して待ちましょうとの事だとさ。前土佐守平宗実〔重盛の息子〕は左大臣経宗の猶子なので、これもまた頼朝様に申し出ているので、当分許して置くように仰せを伝えさせました。この判断により二人は処分を取りやめました。宗盛の子供達は、打ち首にするようにとの事だとさ。

文治元年(1185)十二月大廿一日庚午。於諸國庄薗下地者。關東一向可令領掌給云々。前々稱地頭者多分平家々人也。是非 朝恩。或平家領内授其号補置之。或國司領家爲私芳志定補于其庄薗。又令違背本主命之時者改替之。而平家零落之刻。依爲彼家人知行之跡。被入没官畢。仍施芳恩本領主空手後悔之處。今度諸國平均之間。還断其思云々。

読下し                           しょこくしょうえん したぢ   をい  は  かんとういっこう  りょうしょうせし たま  べ     うんぬん
文治元年(1185)十二月大廿一日庚午。諸國庄薗の下地@に於て者、關東一向に領掌令め給ふ可しと云々。

さきざき ぢとう  しょう    もの    たぶん  へいけ けにんなり  これちょうおん あらず ある    へいけりょう  うち  そ  ごう  さず  これ  ぶ   お
前々地頭と稱する者は、多分は平家々人也。是朝恩に非。或いは平家領の内、其の号を授け之を補し置く。

ある    こくし   りょうけ    し   ほうし  ため そ  しょうえんに さだ  ぶ     また  ほんじゅ  めい  いはいせし    のときは  これ  あらた かえ
或いは國司、領家A、私の芳志の爲其の庄薗于定め補す。又、本主の命に違背令むる之時者、之を改め替る。

しか    へいけ れいらくのとき  か   けにん  ちぎょうの あとたる  よつ    もっかん  い   られをはんぬ
而るに平家零落之刻、彼の家人の知行之跡爲に依て、没官に入れ被畢。

よつ  ほうおん ほどこ ほんりょうしゅ て  むな    こうかいのところ  このたび  しょこくへいきん    のかん  かえっ そ  おも    た     うんぬん
仍て芳恩を施す本領主、手を空しく後悔之處、今度、諸國平均する之間、還て其の思いを断つと云々。

参考@下地は、年貢の対象となる農地。収穫や納付分を上分と云い、土地そのものを下地と云い、対になっている。
参考
A領家は、開発領主から寄進をうけた上級荘園領主。主に中央の有力貴族や有力寺社で、その権威が他からの侵害を防いでくれる。本所>領家>預所=下司VS地頭>名主>作人>小作人>在家と続き、実際の耕作は在家がする。

現代語文治元年(1185)十二月大二十一日庚午。国衙領も荘園も、その年貢対象農地は、関東が一手に握ることにするんだとさ。今までは地頭と言えば、殆どが平家の家来でした。朝廷から正式に任命されたものではなく、ある者は平家の領地に地頭と名を付けて任務させていました。又は国司や上級荘園領主である領家が私的な年貢徴収者として清盛の家来を任命しておりました。ですからこの任命している人に嫌われれば交代させられていました。しかし、平家が滅んだ今、平家の家来が統治していた所は、没官領として没収されました。それなので、収益者の本々の領主は取上げられてしまい、がっかりしていましたけど、全国一律に地頭を置いたので、よそもそうなら仕方がないとあきらめるでしょうだとさ。

文治元年(1185)十二月大廿三日壬申。師中納言爲御使。可被下向之由。今日風聞關東。已 叡慮治定云々。是行家義經之間事。條々被 奏聞之趣。爲有 勅答歟。二品殊令恐申給。可言上事用使者并書状。被仰下事又披奉書散欝念。如卿相爲御使被凌長途之條。尤可愼之由被申之云々。又前對馬守親光爲公家爲武門抽大功訖。而不意兮被改任國。可還任之由頻愁申之間。二品所被執申之云々。

読下し                          そちのちゅうなごんおんし な     げこう さる  べ    のよし  きょう かんとう  ふうぶん
文治元年(1185)十二月大廿三日壬申。師中納言御使と爲し、下向被る可し之由、今日關東に風聞す。

すで  えいりょちじょう   うんぬん
已に叡慮治定すと云々。

これゆきいえ よしつねのかん  こと  じょうじょう そうもんさる  のおもむき ちょくとう あ    ためか  にほんこと  おそ  もう  せし  たま
是行家、義經之間の事@、條々A奏聞被るB之趣、勅答有らん爲歟。二品殊に恐れ申さ令め給ふ。

ごんじょうすべ こと  ししゃ なら    しょじょう  もち    おお  くださる  こと  またほうしょ   ひら  うつねん  ちら
言上可き事は使者并びに書状を用いて仰せ下被る事、又奉書Cを披き欝念を散す。

けいしょう  ごと  おんし   な   ちょうと  しのがる  のじょう   もつと つつし べ   のよしこれ  もうさる    うんぬん
卿相Dの如き御使と爲し長途を凌被る之條、尤も愼む可き之由之を申被ると云々。

また さきのつしまのかみちかみつ  こうけ ため  ぶもん  ため たいこう  ぬき  をはんぬ しか こころならず て にんこく  あらた らる
又、前對馬守親光E、公家の爲、武門の爲大功を抽んで訖。而るに意不し兮任國を改め被る。

げんにんすべ のよししきり  うれ  もう  のかん  にほんこれ  と   もうさる  ところ  うんぬん
還任可き之由頻に愁い申す之間、二品之を執り申被る所と云々。

参考@行家、義經之間の事は、頼朝追討の院宣を出したこと。
参考A條々は、箇条書きに書いた。
参考B奏聞被るは、後白河法皇へ申し入れた。いわば因縁をつけた。
参考C奉書は、文書の最後に氏名の後に「奉ず」と入れる、偉い人から命じられて代筆した文書。
参考D卿相は、卿は、三位以上で相が大臣。総じて公卿。
参考E前對馬守親光は、宗親光。宗一族は親光の三代前から明治維新まで対馬(下国)の国司をした。

現代語文治元年(1185)十二月大二十三日壬申。師中納言吉田経房が朝廷の使いとして、下ってくると、今日関東に噂が届きました。すでに後白河法皇も許可をしているらしいんだとさ。それは行家と源九郎義経の事で、色々と箇条書きにして申し出た事への回答をするためだろうか。頼朝様は恐れ入り申し訳ないと思ひ、「申し上げることは使いの者と手紙を使って云っています。法王からは奉書をいただければ私のほうでも分かりますので、そんな偉い公卿程のお方が使いとして長旅をしてくるなんて、絶対遠慮しておきますよ。」だとさ。それと、前對馬守親光は、天皇家のために(沢山の輸入品を送るなど)尽くしております。それなのに意に反して国司の任務先を変えられました。元の立場に返り咲きたいと、盛んにこぼしているので、頼朝様はこの話を申し入れになられましたとさ。

文治元年(1185)十二月大廿四日癸酉。文學上人弟子〔某〕爲上人飛脚參申云。故維盛卿嫡男六代公者。爲門弟之處。已欲被梟罪。彼黨類悉被追討畢。如此少生者。縱雖被赦置有何事哉。就中祖父内府(重盛)於貴邊被盡芳心。且募彼功。且被優文學。可預給歟云々。彼者爲平將軍正統也。雖少年爭無成人之期哉。尤難測其心中。但上人申状又以非可黙止。進退谷之由被仰云々。使者僧懇望及再三之間。暫可奉預上人之旨。被遣御書於北條殿云々。

読下し                           もんがくしょうにん   でし  〔ぼう〕   しょうにん ひきゃく  な   さん  もう     い
文治元年(1185)十二月大廿四日癸酉。文學上人@が弟子〔某〕、上人の飛脚と爲し參じ申して云はく。

ここれもりきょう ちゃくなんろくだいぎみは もんてい  な   のところ  すで  きょうざいされ   ほつ    か  とうるいことごと ついとう  られをはんぬ
故維盛卿が嫡男六代A公者、門弟と爲す之處、已に梟罪被んと欲す。彼の黨類悉く追討せ被畢。

こ   しょうせい   ごと  は   たと  ゆる  お   れる  いへど   なにごと  あ     や  なかんづく    そふ ないふ   きへん  をい  ほうしん  つくさる
此の少生Bの如き者、縱い赦し置か被と雖も、何事か有らん哉。就中に、祖父内府Cは貴邊に於て芳心を盡被るD

かつう か   こう  つの   かつう もんがく  ゆう  られ  あずか たま   べ   か  うんぬん
且は彼の功に募り、且は文學に優ぜ被、預り給はる可き歟と云々。

 かは へいしょうぐん せいとう な   なり  しょうねん いへど いかで せいじんのご な     や    もつと そ   しんちゅう はか  がた
彼者平將軍の正統を爲す也。少年と雖も爭か成人之期無かん哉E。尤も其の心中を測り難しF

ただし しょうにん もうしじょう またもつ もくしすべ  あらず  しんたいきは    のよし  おお  らる    うんぬん
但、上人が申状、又以て黙止可きに非。進退谷まる之由、仰せ被ると云々。

ししゃ   そう  こんもう  さいさん  およ  のかん  しばら しょうにん あず  たてまつ べ  のむね  おんしょを ほうじょうどの  つか  さる    うんぬん
使者の僧が懇望、再三に及ぶ之間、暫く上人に預かり奉る可し之旨、御書於北條殿Gへ遣は被ると云々。

参考@文學上人は、門覚上人で、伊豆へ流罪の際に頼朝に平家討伐の蜂起を促したと伝説される。
参考A惟盛卿の嫡男六代は、政盛─忠盛─C盛─重盛─惟盛─六代御前。平家の嫡流の六代目。
参考B少生は、子供又は子供のような力不足。
参考C祖父内府は、平重盛。
参考D貴邊に於て芳心を盡被るは、池の禅尼が頼朝の命乞いをしたときに、禅尼にC盛との面会を斡旋し、命乞いを手伝った。
参考E成人之期無かん哉は、何時かは大人にならないことはない。大人になる。
参考F其の心中を測り難しは、気持を推測することは出来ない。私のように復讐心に燃えるかもしれない。参考進退谷まるは、行き詰った。
参考G北條殿は、京都に駐屯している北條時政。

現代語文治元年(1185)十二月大二十四日癸酉。門覚上人の弟子〔誰か〕が、使いとして伊豆へ来て云うには、「故惟盛様の跡継ぎの六代御前は、私門覚の弟子にしたのに、京都では斬首にしようと決めている。あの平家の一族は全てが滅ぼされたのだから、こんな少年一人ばかりをたとえ許したとしても、何が出来る訳ではないでしょう。ましてや祖父の重盛様は、貴方頼朝様にとっては命乞いをして頂いたじゃないですか。ひとつはその恩に免じて、もうひとつは私門覚の縁を持って、私に預からしてもらえないでしょうか。」だとさ。しかし彼は平家一族の正統継承者である。今は少年ではあるけれど、成人しないと言うことはないので、そうしたら何を考えるか計り知れないものだ。だからといって門覚上人の申し入れを無視するわけにもいかないので、行き詰ってしまったとおっしゃられましたとさ。使いの坊さんが何度もお願いをしたので、当分の間門覚上人にお預かりしましょうと、手紙を北条時政殿へ送らせましたとさ。

文治元年(1185)十二月大廿六日乙亥。前中將時實朝臣同意豫州。赴西海之間。於路次生虜之。今日武者所宗親相具所參向也。又左府(經宗)御書到來。是故小松内府末子前土佐守宗實者。自幼齡當初爲猶子。而依彼餘族。可有断罪之由風聞。抂欲申請之云々。可存其旨之趣被報申云々。

読下し                          さきのちうじょうときざねあそん  よしゅう  どうい    さいかい  おもむ のかん   ろじ  をい  これ  いけど
文治元年(1185)十二月大廿六日乙亥。前中將時實朝臣@は豫州に同意し、西海へ赴く之間、路次に於て之を生虜る。

きょう   むしゃどころむねちか あいぐ  さんこう   ところなり  また   さふ   おんしょとうらい
今日、 武者所宗親A相具し參向する所也。又、左府が御書到來す。

これ ここまつないふ   まっし  さきのとさのかみむねざねは  ようれい  とうしょよ   ゆうし たり
是故小松内府が末子の前土佐守宗實者、幼齡の當初自り猶子B爲。

しか    か   よぞく   よつ    だんざいあ   べ    のよしふうぶん   まげ   これ  もう  う        ほつ    うんぬん
而るに彼の餘族Cに依て、断罪有る可し之由風聞す。抂てD之を申し請けんと欲すと云々。

そ   むね  ぞん  べ  のおもむき こた  もうさる    うんぬん
其の旨を存ず可き之趣、報へ申被ると云々。

参考@前中將時實は、平時忠の子で姉か妹が源義經の妾になっているので、義兄弟。源廷尉〔義經〕と一緒に豊後へ落ちようとしたが大物浜で難破した。豊後には平家の残党が多くいるので、彼の威光を持って平家残党を招集しようとしたのかもしれない。
参考A武者所宗親は、牧三郎宗親で北條時政の後妻牧の方の父とも兄とも言われている。
参考B猶子は、「なお子の如し」で相続権のない養子。これが親の分、子の分と分限をわきまえるとなり、当時の文書には親分・子分と出てくる。
参考C彼の餘族は、平家一族。
参考D抂ては、強引に。

現代語文治元年(1185)十二月大二十六日乙亥。前中将時実は、与州義経に賛同して、九州へ行こうとしたのを、途中で捕虜にしました。今日、武者所牧三郎宗親が連行してやってまいったところです。同時に左大臣経宗の手紙が一緒に到着しました。その内容は、故平重盛の末っ子の前土佐守宗実は、子供の頃からの猶子なので、平家の一族は斬首にされると噂を聞いたので、なんとかそこをまげてでも、許して戴きたいと云って来ましたとさ。よく内容は分かったので承知したと、返事を出させましたとさ。

文治元年(1185)十二月大廿八日丁丑。甘繩邊土民〔字所司二郎〕去夜於困上乍立頓死。人擧見之。家中之輩語群集者云。及半更。叩戸有喚此男名字之者。此男答。則開戸之刻。再不語而良久。怪之取脂燭見之處。已入死門云々。又去比。若宮別當坊下僧夜行之時。於路次頓滅。少時蘇生。語云。大法師一兩人行會。抱留之由思云々。其僧于今如亡云々。又御臺所御方祗候女房下野局夢。号景政之老翁來申二品云。讃岐院於天下令成祟給。吾雖制止申不叶。可被申若宮別當者。夢覺畢。翌朝申事由。于時雖無被仰之旨。彼是誠可謂天魔之所變。仍專可被致國土無爲御祈之由。被申若宮別當法眼坊。加之以小袖長絹等。給供僧職掌。邦通奉行之。

読下し                           あまなわへん どみん  〔あざ  しょしのじろう〕  さぬ  よ   しとみ うえ  をい  た   なが  とんし
文治元年(1185)十二月大廿八日丁丑。甘繩邊の土民〔字は所司二郎〕去る夜、困@の上に於て立ち乍ら頓死Aす。

ひとこぞ    これ  み    かちゅうのやから ぐんしゅう  もの  かた    い       はんそう   およ    と   たた  こ  おとこ みょうじ  よ   のもの あ
人擧りて之を見る。家中之輩、群集の者に語りて云はく。半更Bに及び、戸を叩き此の男の名字を喚ぶ之者有り。

こ  おとここた     すなは と   ひら  のとき  ふたた かたらず て ややひさ    これ  あやし しそく    と     み   のところ  すで  しもん   い     うんぬん
此の男答へて、則ち戸を開く之刻、再び不語し而良久し。之を怪み脂燭Cを取って見る之處、已に死門に入ると云々。

また  さぬ  ころ  わかみやべっとうぼう  げそう  やぎょうのとき   ろじ    をい  とんめつ    しばらく    そせい     かた    い
又、去る比、若宮別當坊の下僧、夜行之時、路次に於て頓滅す。少時して蘇生し、語りて云はく。

だいほっしいちりょうにんゆきあ   いだ  とど    のよし  おも    うんぬん  そ   そういまに ぼう      ごと    うんぬん
大法師一兩人行會い、抱き留むる之由を思うと云々。其の僧今于亡じるの如しと云々。

また  みだいどころ おんかた  しこう  にょぼうしもつけのつぼね ゆめ   かげまさ  ごう     の ろうおう き          にほん  もう     い
又、御臺所の御方に祗候の女房下野局が 夢に、景政と号する之老翁來たりて、二品に申して云はく。

さぬきいん  てんか   をい  たたり なさせし たま    われせいし もう   いへど かなはず わかみやべっとう  もうさる  べ   てへ     ゆめ    さ  をはんぬ
讃岐院D天下に於て祟を成令め給ふ。吾制止申すと雖も不叶。若宮別當に申被る可し者れば、夢から覺め畢。

よくちょうこと よし  もう    ときに おお  らる   のむね な     いへど  かれこれ  まこと てんまのしょへん  いひ  べ
翌朝事の由を申す。時于仰せ被る之旨無しと雖も、彼是、誠に天魔之所變を謂つ可し。

よつ  もっぱ  こくどむい   おいのり  いたさる  べ   のよし  わかみやべっとうほうげんぼう  もうさる
仍て專ら國土無爲の御祈を致被る可し之由、若宮別當法眼坊に申被る。

これ  くは  こそで ちょうけん ら もつ    ぐそう   しきしょう   たま      くにみちこれ  ぶぎょう
之に加へ小袖長絹E等を以て、供僧、職掌Fに給はる。邦通之を奉行す。

参考@は、玄関と外とを区別するための敷居のような物。
参考A頓死は、急にあっけなく死ぬこと。急死。
参考B半更は、真夜中。
参考C脂燭は、小形の照明具の一種。松の木を長さ45センチメートル、太さ9ミリメートルぐらいに丸く削り、先端を焦がして油を塗り、手元を紙屋紙(こうやがみ)で巻いたもの。紙や布を細く巻いてよった上に油を染み込ませたものもある。夜間の儀式や室内照明に用いた。ししょく。
参考D讃岐院は、保元の乱で敗れ讃岐へ流され憤死した崇徳上皇。治承寿永の合戦が長引いたのは、崇徳上皇の祟りだと言われた。承久の乱が起きたのも同じ。その後、崇徳上皇と後鳥羽上皇の祟りが合併して南北朝内乱を起こしたと云われていた。
参考E長絹は、糊で張った仕上げの絹布。絹一疋は、幅二尺二寸(約66cm)、長さ五丈一尺(約18m)の絹の反物(一反は幅が半分)。
参考F
職掌は、1)平安時代中宮職大膳職などの職で雑務に当たった下級の官吏。(2)中世、社寺で神楽を演ずる役を務めた者。

現代語文治元年(1185)十二月大二十八日丁丑。甘縄あたりに住んでいる民衆〔呼び名は所司次郎〕が、夕べ、玄関の敷居の上に立ったまま急死しました。人々は珍しいので残らずこれを見に来ました。家の人が集った人々に云うのには、「真夜中になって戸を叩いて、この男の名を呼ぶものがありました。男は答えて直ぐに戸を開いたが、声がしなくなって一寸経ったので、おかしいなと思いながら、灯りを持って除いてみると既に死んでおりました。」だとさ。
そういえば、先だって八幡宮寺長官法眼尊暁の下働きの坊さんが、夜出て歩いている時に急に死んだけど、少しして生き返り話して云うには、「偉いお坊さんが一人二人出会ったら、抱きかかえられたように感じましたそうな。その坊さんは今では廃人となっているんだとさ。
又、御台所政子様に仕えている女官の下野局の夢の中に、景政と名乗る老人が出てきて、頼朝様に申し上げるには、「崇徳上皇が世間に祟っているので、私は止めようとしたのだけれどもだめでした。だから、八幡宮長官の坊さんに命じて下さい。」と云われたとたんに夢が覚めました。
翌朝、頼朝様にいきさつを話しました。頼朝様は特にどうこう言いませんでしたが、それもこれも天魔の仕業に違いない。それじゃ、国土が平和に治まる為のお祈りをするように、八幡宮長官の法眼円暁に命じられました。それだけでなく、小袖や長絹を祈祷料に坊さん達や雅楽師に与えました。大和判官代邦道がこの役を担当しました。

文治元年(1185)十二月大廿九日戊寅。北條殿御使參着。去十七日。被下解官 宣旨。大外記師尚送之。則奉献其状云云々。
  大藏卿兼備後權守高階朝臣泰經
  右馬頭高階朝臣經仲
  侍從藤原朝臣能成
  越前守高階朝臣高經
  少内記中原信康
 左大臣(經宗)宣。奉勅。件等人宣令解却見任者。
    文治元年十二月十七日                   大外記中原師尚〔奉〕

読下し                           ほうじょうどの おんしさんちゃく   さぬ  じうしちにち  げかん   せんじ  くださる
文治元年(1185)十二月大廿九日戊寅。北條殿の御使參着す。去る十七日、解官の宣旨を下被る。

だいげき もろひさこれ おく    すなは そ  じょう  けん たてまつ  い      うんぬん
大外記師尚之を送る。則ち其の状、献じ奉りて云はくと云々。

    おおくきょうけんびんごのごんのかみたかしなあそんやすつね
  大藏卿兼備後權守高階朝臣泰經

    うまのかみ たかしなあそんつねなか
  右馬頭高階朝臣經仲

    じじゅうふじわらあそんよしなり
  侍從藤原朝臣能成

    えちぜんのかみたかしなあそんたかつね
  越前守高階朝臣高經

    しょうないきなかはらのぶやす
  少内記中原信康

  さだいじんせん   ちょく ほうず      くだんら  ひと  よろ    げんにん  げきゃくせし てへ 
 左大臣宣す。勅を奉るに、件等の人、宣しく現任を解却令む者り。

        ぶんじごねん じうにがつ じうしちにち                                       だいげき なかはらもろひさ 〔ほうず〕
    文治元年十二月十七日                   大外記中原師尚〔奉〕

現代語文治元年(1185)十二月大二十九日戊寅。北条時政殿の使いが到着しました。先だっての十七日に、役職解任の宣旨が出されました。大外記中原師尚が、北條殿へ送ってきたので、直ぐにその手紙を頼朝様へ献上しました。その内容は、

 大蔵卿兼備後権守高階朝臣泰経
 右馬頭高階朝臣経仲
 侍従藤原朝臣能成
 越前守高階朝臣高経
 少内記中原信康
左大臣が命令を出しました。後白河法皇に相談した結果、以上の人達の現在の官職を解任するようにと言われた。
 文治元年十二月十七日               大外記中原師尚が命じられて書きました。

参考高階は、先祖が天武天皇の子で壬申の乱の頃は羽振りが良かった。

文治元年(1185)十二月大卅日己夘。令拝領諸國地頭職給之内。以土佐國吾河郡。令寄附六條若宮給。彼宮者。點故廷尉禪室六條御遺跡被奉勸請石C水。以廣元弟季嚴阿闍梨。所被補別當職也。

読下し                        しょこく   ぢとうしき  はいりょうせし たま  のうち
文治元年(1185)十二月大卅日己夘。諸國の地頭職を拝領令め給ふ之内、

とさのくにあがわぐん  もつ    ろくじょうわかみや   きふ せし  たま
土佐國吾河郡@を以て、六條若宮Aに寄附令め給ふ。

かの  みやは   こていいぜんしつ ろくじょう ごゆいせき  てん  いわしみず  かんじょう たてまつらる
彼の宮者、故廷尉禪室が六條の御遺跡を點じ石C水を勸請し奉被る。

ひろもと おとうと  きげんあじゃり   もつ    べっとうしき  ぶ  さる  ところなり
廣元が弟の季嚴阿闍梨を以て、別當職に補被る所也。

参考@土佐国吾河郡は、高知県吾川郡春野町、いの町、仁淀川町。
参考A六条若宮は、六条通と堀川通りの交差点の東北側に550m四方であった。(六条堀川若宮八幡宮)

現代語文治元年(1185)十二月大三十日己夘。諸国の地頭職任命権を貰った内で、土佐国吾河郡を六条若宮へ寄付なされました。この神社は、廷尉禅門源為義の六条邸の跡を指定して岩清水八幡宮を勧請して祀ってあります。大江広元の弟の季厳阿闍梨を六条若宮長官に任命してあるところです。

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