吾妻鏡入門第六巻

文治二年(1186)正月小

文治二年(1186)正月小二日辛巳。及暮雪。二品并御臺所御參甘繩神明宮。以御還向便路。入御藤九郎盛長家云々。

読下し                      ぼせつ   およ    にほんなら   みだいどころ  あまなわしんめいぐう   ぎょさん
文治二年(1186)正月小二日辛巳。暮雪@に及び、二品并びに御臺所、甘繩神明宮Aへ御參す。

ごかんこう   びんろ  もつ    とうくろうもりなが   いえ  にょうぎょ   うんぬん
御還向の便路を以て、藤九郎盛長が家へB入御すと云々。

参考@暮雪は、夕暮れの雪だが、風流の一つとされる。雪は穢れを覆う。闇は穢れを隠す。
参考A
甘繩神明宮は、鎌倉市長谷1丁目1番に鎮座。
参考B藤九郎盛長が家は、甘縄神社南東側一帯と推定される。 長谷1丁目11番あたりの発掘調査で武家屋敷の一部が発見されている。

現代語文治二年(1186)正月小二日辛巳。夕暮れの雪の風流な中を、二品頼朝様と御台所政子様は、甘縄神社へ参拝に行かれました。帰り道のついでに藤九郎盛長の屋敷へ入られましたとさ。

文治二年(1186)正月小三日壬午。去夜雪猶委地。去年敍二品給之後。未及御直衣始沙汰。依豫州事。世上雖未靜謐。且爲令成衆庶安堵之思。今日被刷其儀。則詣鶴岳八幡宮給。左典厩〔能保〕。前少將時家等參會。又武藏守義信。宮内大輔重頼。駿河守廣綱。散位頼兼。因幡守廣元。加賀守俊隆。筑後權守俊兼。安房判官代高重。藤判官代邦通。所雜色基繁。千葉介常胤。足立右馬允遠元。右衛門尉朝家。散位胤頼等供奉。
隨兵十人〔在最末〕
  武田兵衛尉有義 板垣三郎兼信
  工藤庄司景光  岡部權守泰綱
  澁谷庄司重國  江戸太郎
  市河別當行房  小諸太郎光兼
  下河邊庄司行平 小山五郎宗政
御奉幣事終。還御之後有垸飯。抑今日御神拝之間。供奉人等相分于廟庭左右着座。而胤頼相對于父常胤着〔聊寄座下方云々〕人不甘心。是依仰如此云々。常胤雖爲父六位也。胤頼者雖爲子五品也。官位者君之所授也。何不賞哉之由被仰下云々。此胤頼者。平家執天下權之時。雖候京都。更不諛其榮貴。依遠藤左近將監持遠擧。仕上西門院〔統子〕。彼御給敍從五位下。又就持遠好。以神護寺文學上人爲師檀。文學在伊豆國時令同心。有示申于二品之旨。遂擧義兵給之比。勸常胤。最前令參向。兄弟六人之中。殊抽大功者也。

読下し                      さぬ  よ   ゆき  なおち  まか
文治二年(1186)正月小三日壬午。去る夜の雪、猶地に委す。

きょねんにほん  じょ  たま  ののち  いま   ごのうし はじ    さた   およ
去年二品に敍し給ふ之後、未だ御直衣@始めの沙汰に及ばず。

よしゅう  こと  よつ    せじょういま  せいひつ     いへど  かつう しょうしょ あんどのおも    な   せし    ため  きょう そ   ぎ   さつ  らる
豫州の事に依て、世上未だ靜謐せずと雖も、且は衆庶安堵之思いを成さ令めん爲、今日其の儀を刷せ被る。

すなは つるがおかはちまんぐう もう たま    さてんきゅう 〔よしやす〕   さきのしょうしょうときいえら さんかい
則ち鶴岳八幡宮へ詣で給ふ。左典厩〔能保〕、前少將時家等參會す。

また  むさしのかみよしのぶ くないたいふしげより  するがのかみひろつな さんによりかね いなばのかみひろもと かがのかみとしたか ちくごごんのかみとしかね
又、 武藏守義信、 宮内大輔重頼、駿河守廣綱、散位頼兼、因幡守廣元、加賀守俊隆、 筑後權守俊兼、

あわのほうがんだいたかしげ とうのほうがんだいくにみち ところのぞうしきもとしげ ちばのすけつねたね  あだちのうまのじょうとおもと  うえもんのじょうともいえ さんにたねよりら ぐぶ
安房判官代高重、藤判官代邦通、所雜色基繁、千葉介常胤、 足立右馬允遠元、 右衛門尉朝家、 散位胤頼等供奉す。

ずいへいじうにん〔さいまつ  あ〕
隨兵A十人〔最末に在り〕

    たけだのひょうえのじょうありよし いたがきのさぶろうかねのぶ
  武田兵衛尉有義  板垣三郎兼信

    くどうのしょうじかげみつ     おかべのごんのかみやすつな
  工藤庄司景光   岡部權守泰綱

    しぶやのしょうじしげくに     えどのたろう
  澁谷庄司重國   江戸太郎

    いちかわのべっとうゆきふさ   こもろのたろうみつかね
  市河別當行房   小諸太郎光兼

    しもこうべのしょうじゆきひら   おやまのごろうむねまさ
  下河邊庄司行平  小山五郎宗政

ごほうへい  こと お     かんごののち  おうばんあ    ようやく きょう ごしんぱいのかん  ぐぶにん ら びょうてい さゆうに あいわか  ちゃくざ
御奉幣の事終へ、還御之後、垸飯有り。抑、今日御神拝之間。供奉人等廟庭の左右于相分ち着座す。

しか    たねより ちちつねたねにあいたい つ     〔 いささ ざ   かほう  よ    うんぬん〕 ひとかんしんせず  これかく  ごと  おお   よ     うんぬん
而るに胤頼、父常胤于相對し着く〔聊か座の下方に寄ると云々〕人甘心不。是此の如き仰せに依ると云々。

つねたね ちちたり いへど ろくいなり  たねよりは こたり いへど  ごほんなり  かんいは きみのさず ところなり  なん しょうせざるやのよし おお くださる    うんぬん
常胤は父爲と雖も六位也。胤頼者子爲と雖も五品也。官位者君之授く所也。何で賞不哉之由、仰せ下被ると云々。

こ   たねよりは   へいけ てんか  けん  しつ     のとき  きょうと  そうら  いへど    さら  そ   えいき  へつらはず
此の胤頼者、平家天下の權を執する之時、京都に候うと雖も、更に其の榮貴に諛不。

えんどうのさこんしょうげんもちとお あげ よつ   じょうさいもんいん  〔とうし〕   つか    か  ごきゅう じゅごいげ    じょ
遠藤左近將監持遠の擧に依て、上西門院B〔統子〕に仕へ、彼の御給從五位下に敍す。

また  もちとお  よしみ つ     じんごじ もんがくしょうにん もつ  しだん  な
又、持遠の好に就き、神護寺文學上人Cを以て師檀と爲す。

もんがく いずのくに  あ     ときどうしんせし    にほんに しめ  もう  のむね あ
文學伊豆國に在るの時同心令め、二品于示し申す之旨有り。

つい  ぎへい  あ   たま  のころ  つねたね すす    さいぜん  さんこうせし   きょうだいろくにんのなか  こと  たいこう  ぬきん   ものなり
遂に義兵を擧げ給ふ之比、常胤に勸め、最前に參向令む。兄弟六人之中で、殊に大功を抽ずる者也。

参考@直衣は、〔直(ただ)の服の意〕天皇以下、三位以上の貴族の平常の服。束帯の袍(ほう)と同じ形であるが、位による色目、文様の制限がない。通常、烏帽子(えぼし)と指貫(さしぬき)の袴(はかま)を用いる。勅許を得た者は直衣姿で参内することができた。雑袍(ざつぽう)
参考直衣始めは、関白、大臣などで直衣装束での参内を許されて、初めて直衣を着用すること。また、その儀式。直衣装束は、公家装束の一。烏帽子(えぼし)、直衣、単(ひとえ)、指貫(さしぬき)、下袴、襪(しとうず)、腰帯、浅沓(あさぐつ)、檜扇(ひおうぎ)からなる。
参考A隨兵は、鎧兜に身を固めた護衛兵または鎧兜に身を固めた儀仗兵。50巻弘長1年(1261)7月大2日条で、落馬した安達長景が鎧兜を着るには難しいとの記事から推測できる。
参考B上西門院は、後白河法皇の姉。上西門院。 
参考C文學上人は、門覚上人で、元北面の武士遠藤盛遠。伊豆へ流罪の際に頼朝に平家討伐の蜂起を促したと伝説される。平家物語と源平盛衰記。

現代語文治二年(1186)正月小三日壬午。夕べの雪が未だ溶け切らず地に残っています。頼朝様は、去年従二位に叙されましたが、その後参内用の直衣を初めて着る儀式をしていません。源九郎義経の反逆により、未だ世間が静かに落ち着いていないけれども、天下は治まったのだと庶民が安心するように、今日その儀式を執り行いました。直ぐに八幡宮へ詣でました。左典厩一条能保様も一緒に参りました。
 
又、大内武蔵守義信、宮内大輔藤原重頼、駿河守太田広綱。散位源頼兼、因幡守大江広元、加賀守源俊隆、筑後権守俊兼、安房判官代高重、藤判官代邦通、所雜色基繁、千葉介常胤、足立右馬允遠元、八田右衛門尉知家。散位東胤頼等がお供をしました。
武装儀仗兵〔その一番後ろに二列につきました〕
 武田兵衛尉有義 板垣三郎兼信
 工藤庄司景光  岡部権守泰綱
 渋谷庄司重国  江戸太郎重長
 市河別当行房  小諸太郎光兼
 下河辺庄司行平 小山五郎宗政
お参りの式が終わって、御所へ帰った後、ご馳走の宴がありました。
今日のお参りの儀式に、拝殿前の庭にお供の侍達が左右に分かれて並び座りました。そこで千葉六郎大夫胤頼は、父の千葉介常胤に相対して座りました〔少し父より下座に寄っていましたとさ〕。見ている人は、ちょっと感心しませんでしたが、これは頼朝様の仰せに寄るからなんだとさ。千葉介常胤は父親だけれでも六位である。胤頼は子ではあるけれでも五位である。官位は天皇が授けるものなので、なんでこれを尊ばない訳にはいかないだろうとおっしゃられましたとさ。この胤頼は、平家全盛時代に京都へ大番役で行っていたけれども、平家の権勢にすがらないで、遠藤左近将監持遠の推薦で、上西門院〔統子〕へ仕えたので、その官職として従五位下を与えられました。又持遠の縁を受けて、神護寺の文覚上人
(元遠藤盛遠)の仏教の生徒になりました。文覚上人が伊豆へ流罪になっている時に意見を一緒にして、頼朝様を説得することがありました。とうとう頼朝様が挙兵したときには、父の千葉介常胤に進めて、いの一番に駆けつけました。兄弟六人のうちで、一番手柄を立てた人なのです。

文治二年(1186)正月小五日甲申。前中將時實朝臣爲流人不赴配所。剩同道豫州之間。已有重疊之過。仍令生虜被召下。在美濃藤次安平西御門家〔矣〕。被問子細之處。無分明陳謝。承伏之故歟。然而於關東。依難被定刑。今日可被返進京都之由。治定云々。」亦師中納言〔經房〕爲御使可有參向之由有其聞。非指子細者。可令留給歟。又去冬註折紙被申條々。所詮可在聖断之旨。所被示遣也。

読下し                   さきのちうじょうときざねあそん るにんたる はいしょ おもむかず あまつさ よしゅう  どうどうのかん  すで  ちょうじょうのとがあ
文治二年(1186)正月小五日甲申。前中將時實朝臣@、流人爲に配所へ赴不。 剩へ豫州に同道之間、已に重疊之過有り。

よつ  いけどらせし  め   くださる    みののとうじやすひら  にしみかど  いえ  あ   と
仍て生虜令め召し下被る。美濃藤次安平が西御門Aの家に在り矣。

しさい   とはる   のところ  ぶんめい ちんしゃな   うけたまは ふ  のゆえか
子細を問被る之處、分明の陳謝無し。 承り伏す之故歟。

しかして  かんとう  をい   けい  さだ  られがた   よつ    きょう きょうと  かえ  すす  らる  べ   のよし  ちじょう    うんぬん
然而、關東に於て、刑を定め被難きに依て、今日京都へ返し進め被る可し之由、治定すと云々。」

また そちのちうなごん〔つねふさ〕 おんし  な   さんこうあ   べ   のよし  そ   きこ  あ     さし    しさい あらず ば   とど  せし  たま  べ  か
亦、師中納言〔經房〕御使と爲し參向有る可し之由、其の聞へ有り。指たる子細非ん者、留ま令め給ふ可き歟。

また  さぬ ふゆ  おりがみ ちう  もうさる   じょうじょう しょせんせいだんあ  べ   のむね  しめ  つか  さる  ところなり
又、去る冬、折紙に註し申被るの條々、所詮聖断在る可し之旨、示し遣は被る所也。

参考@前中將時實朝臣は、平時忠の長男。姉か妹が源九郎義經の妾。
参考A
西御門は、大倉御所の西側の門。吾妻では初見。門の前に堀の西御門川が、現在の鎌倉市西御門一丁目内を暗渠で南下し、4番地と5番地の間から国大付属小学校の地下を通り、校門から筋替橋、開花亭の脇を流れ滑川へ注いでいる。なお、暗渠にしてまで学校にしたのは、明治時代に初めて陸軍が洋式演習の用地を広く得るために西御門大路を東へ付け替えてしまった。参考に明治15年の迅速即図を載せるので、現在の地図と比べて欲しい。

現代語文治二年(1186)正月小五日甲申。前中将時実は、流罪に決されたのに、流罪先へ行っておりません。しかも義経と行動を供にしていたので、十分に犯罪者としての罪があります。それなので生け捕りにして、関東へ送られました。今は美濃藤次安平の西御門の家に預けられております。事情を質問されても、きちんとした弁解をしないのは、どうにも仕方が無いと納得して従うつもりなのでしょうかね。しかし、公卿の罪を身分違いの関東の武士が勝手に決めるわけにも行かないので、今日京都へ送り返すようにお決めになられましたとさ。

又、師中納言吉田経房が後白河法皇の使いとして、関東へ来ると耳に入りましたが、特に込入った事が無ければ来るには及びませんよ。後は、去年の冬に正式文書で申し上げた数々の内容を、後白河法皇に決断していただくだけですよと、念を押す知らせを行かせたました。

文治二年(1186)正月小七日丙戌。雨降。北條殿飛脚自京都參着。御使雜色鶴二郎等去冬十二月廿六日入洛。令申給之趣。同廿七日有其沙汰。解官配流等。藏人宮内權少輔親經宣下。別當〔家通〕藤宰相〔雅長〕書除目云々。
  參議源雅賢〔元藏人頭右中將〕   右大弁藤行隆〔元右中弁〕
  左中弁同光長〔元權右中〕     右中弁源兼忠〔元權〕
  權右中弁平基親〔元左少〕     左少弁藤定長〔元右少〕
  右少弁藤親經〔元藏人宮内權少輔〕 左大史小槻廣房〔元算博士日向守年卅八〕
  大藏卿藤宗頼〔前伯耆守〕     右馬頭藤公佐〔元侍從〕
  和泉守藤長房〔光長朝臣給〕    陸奥守藤業宗〔前中納言雅頼卿給元近江〕
  近江守藤雅經〔参議雅長給〕    越中守同家隆〔元侍従前中納言光隆卿給〕
  因幡守源通具〔權中納言通親卿給〕 伊与守源季長〔右大臣給〕
  美作守藤公明〔左衛門督實家卿給〕
  藏人頭藤光長〔從四位上〕
   從四位下源兼忠
 解官
  参議平親宗            左大史小槻隆職
  刑部卿藤頼經           左衛門少尉藤知康〔大夫尉〕
  同信盛〔檢非違使〕        中原信貞
  左馬權頭平業忠          兵庫頭藤範綱
 配流
  前大藏卿高階泰經〔伊豆〕     前刑部卿藤頼綱〔安房〕
 議奏公卿
  右大臣              内大臣
  皇后宮大夫〔實房〕        中御門大納言〔宗家〕
  堀河大納言〔忠親〕        左衛門督〔實家〕
  源中納言〔通親〕         師〔經房〕
  藤宰相〔雅長〕          左大弁〔兼光〕

読下し                    あめふ    ほうじょうどの ひきゃくきょうとよ  さんちゃく
文治二年(1186)正月小七日丙戌。雨降る。北條殿が飛脚京都自り參着す。

おんし   ぞうしきつるじろうら さぬ ふゆじうにがつにじうろくにちじゅらく   もう  せし たま のおもむき おな    にじうしちにちそ  さた あ
御使の雜色鶴二郎等去る冬十二月廿六日入洛し、申さ令め給ふ之趣、同じく廿七日其の沙汰有り。

げくわん  はいるら   くろうど のくないごんのしょうゆう ちかつねせんげ  べっとう 〔いえみち〕 とうのさいしょう 〔まさなが〕 じもく  か    うんぬん
解官や配流等、藏人@宮内權少輔A親經 宣下す。別當〔家通B藤宰相〔雅長C除目を書くと云々。

参考@藏人は、蔵係りの意味があるが、その職務の中に取次役があることから実権を握りやすい。
参考A
少輔は、律令制で、八省の次官。大輔(たいふ)に次ぐ官。省では卿(かみ)輔(すけ)丞(じょう)録(さかん)。
参考B別当家通は、重通男(実は藤原忠基二男)。母源師頼女(実母重通家女房藤原有広女)。1166(永万2)年6月6日任参議。正二位、権中納言。
参考C藤原宰相雅長は、雅教一男。母美作守藤原顕能女。1179(治承3)年1月19日叙従三位。従二位、参議。

    さんぎみなもとまさかた〔もとろうどのとううちうじょう〕         うだいべんとうのゆきたか〔もとうちうべん〕
  參議源雅賢〔元藏人頭右中將〕    右大弁藤行隆〔元右中弁〕

    さちうべんおなじきみつなが〔もとごんのうちう〕           うちうべんみなもとかねただ〔もとごんの〕
  左中弁同光長〔元權右中〕      右中弁源兼忠〔元權〕

    ごんのうちうべんたいらのもとちか〔もとさしょう〕           さしょうべんとうのさだなが〔もとうしょう〕
  權右中弁平基親〔元左少〕      左少弁藤定長〔元右少〕

    うしょうべんとうのちかつね〔もとくろうどのくないごんのしょうゆう〕  さだいのふひとおづきひろふさ 〔もとさんはかせひゅうがのかみとしさんじうはち〕
  右少弁藤親經〔元藏人宮内權少輔〕  左大史小槻廣房〔元算博士日向守年卅八〕

    おおくらきょうとうのむねより〔さきのほうきのかみ〕          うまのかみとうのきんすけ〔もとじじゅう〕
  大藏卿藤宗頼〔前伯耆守〕      右馬頭藤公佐〔元侍從〕

    いずみのかみとうのながふさ〔みつながあそんたまふ〕       むつのかみとうのなりむね〔さきのちうなごんまさよりきょうたまふもとおうみ〕
  和泉守藤長房〔光長朝臣給〕     陸奥守藤業宗〔前中納言雅頼卿給元近江〕

    おうみのかみとうのまさつね〔さんぎまさながたまふ〕        えちゅうのかみおなじきいえたか〔もとじじゅうさきのちうなごんみつたかきょうたまふ〕
  近江守藤雅經〔参議雅長給〕     越中守同家隆〔元侍従前中納言光隆卿給〕

    いなばのかみみなもとみちとも〔ごんのちうなごんみちちかきょうたまふ〕 いよのかみみなもとすえなが〔うだいじんたまふ〕
  因幡守源通具〔權中納言通親卿給〕   伊与守源季長〔右大臣給〕

    みまさかのかみとうのきんあき〔さえもんのかみさねいえきょうたまふ〕
  美作守藤公明〔左衛門督實家卿給〕

    くろうどのとうとうのみつなが〔じゅしいじょう〕
  藏人頭藤光長〔從四位上〕

      じゅしいげみなもとかねただ
   從四位下源兼忠

  げくわん
 解官

    さんぎたいらのちかむね                         さだいのふひとおづきたかもと
  参議平親宗              左大史小槻隆職

    ぎょうぶきょうとうのよりつね                        さえもんのしょうじょうとうのともやす〔たいふのじょう〕
  刑部卿藤頼經             左衛門少尉藤知康〔大夫尉〕

    おなじきのぶもり〔けびいし〕                       なかはらのぶさだ
  同信盛〔檢非違使〕         中原信貞

    さまごんのかみたいらのなりただ                     ひょうごのかみとうののりつな
  左馬權頭平業忠            兵庫頭藤範綱

  はいる
 配流

    さきのおおくらきょうたかしなやすつね〔いず〕            さきのぎょうきょうとうのよりつな〔あわ〕
  前大藏卿高階泰經〔伊豆〕       前刑部卿藤頼綱〔安房〕

  ぎそうのくぎょう
 議奏公卿

    うだいじん                                  ないだいじん
  右大臣                内大臣

    こうごうぐうたいふ  〔さねふさ〕                    なかみかどだいなごん 〔むねいえ〕
  皇后宮大夫〔實房〕          中御門大納言〔宗家〕

    ほりかわだいなごん 〔ただちか〕                   さえもんのかみ 〔さねいえ〕
  堀河大納言〔忠親〕          左衛門督〔實家〕

    みなもとちうなごん〔みちちか〕                    そち 〔つねふさ〕
  源中納言〔通親〕           師〔經房〕

    とうのさいしょう〔まさなが〕                       さだいべん 〔かねみつ〕
  藤宰相〔雅長〕            左大弁〔兼光〕

現代語文治二年(1186)正月小七日丙戌。雨降りです。北条時政殿の伝令が京都から着きました。鎌倉からの頼朝様の使いの雑用の鶴二郎達を去年の冬十二月二十六日に京都へ入り、朝廷へ申し上げるように言い伝えたさせたことが、同じ月の二十七日に決定されました。朝廷の官職の解任や、流罪などを蔵人宮内少輔親経が宣言を出しました。長官家通と藤原宰相雅長が人事決定書を書かせたのだとさ。

  参議に源雅賢〔元は蔵人頭右中将〕(参議は、国政に参与して、政策などを議すること。人。)
 
 右大弁に藤原行隆〔元は右中弁〕(右中弁の上は左中弁、その上が右大弁なので二階級特進。)
  
左中弁に同じく光長〔元は権右中弁〕   右中弁に源兼忠〔元は権右中弁〕(權は、定員外の、仮のとか臨時ので名誉職)
  権右中弁に平基親〔元は左少弁〕←ーーーー左少弁に藤原定長〔元は右少弁〕←ーーーー右少弁に藤原親経〔元は蔵人宮内権少輔〕
   (この三人は、玉突き人事なのが分かる)
  左大史に小槻広房〔元は算博士、日向守、年卅八〕(隆職が解任された後への任命。廣房は隆職の父の弟つまり隆職の叔父)
  大蔵卿に藤原宗頼〔前伯耆守〕          右馬頭に藤原公佐〔元は侍従〕
  和泉守に藤原長房〔光長朝臣からの譲られ〕    陸奥守に藤原業宗〔前中納言雅頼卿からの譲られた、元は近江守〕
  近江守に藤原雅経〔参議雅長からの譲られ〕    越中守に同族家隆〔元は侍従、前中納言光隆卿からの譲られ〕
  因幡守に源通具〔権中納言通親卿からの譲られ〕  伊与守に源季長〔右大臣からの譲られ〕
  美作守に藤原公明〔左衛門督実家卿からの譲られ〕
  蔵人頭に藤原光長〔從四位上を授与された〕
   従四位下に源兼忠を授与された

 解任されるのは
  参議平親宗            左大史小槻隆職
(史ふひとは、天皇家からの宣旨や指示を書く役なので、隆職は平家全盛時代に将来の出世を見込んで、兼実に書いた公文書の写しを渡すと云う胡麻すりをしていたが、頼朝追討の宣旨を書いたこの一件で出世はふいになってしまった。)
  刑部卿藤原頼経(判官贔屓)     左衛門少尉藤知康〔大夫尉〕
  同信盛〔検非違使〕        中原信貞
  左馬権頭平業忠          兵庫頭藤範綱

 流罪にされるのは
  前大蔵卿高階泰経〔伊豆へ〕     前刑部卿藤頼綱〔安房へ〕

 政治を論議して天皇へ伺いをたてる公卿
  右大臣
(九条兼実)        内大臣(徳大寺実定)
  皇后宮大夫〔三条実房〕      中御門大納言〔中御門宗家〕
  堀河大納言〔
中山忠親〕      左衛門督〔河原実家〕
  源中納言〔土御門通親〕      太宰権師〔吉田経房〕
  藤宰相〔
藤原雅長〕        左大弁〔藤原兼光〕

文治二年(1186)正月小八日丁亥。營中有心經會。若宮別當法眼。并大法師源信。惠眼等參行。施物各被物一重。邦通奉行之。

読下し                   えいちゅう しんぎょうえ あ    わかみや べっとうほうげんなら    だいほっしげんしん  えげんらさんこう
文治二年(1186)正月小八日丁亥。營中に心經會@有り。若宮の別當法眼并びに大法師源信、惠眼等參行す。

せぶつ おのおの かづけもの ひとえ くにみちこれ ぶぎょう
施物は 各、 被物A一重。邦通之を奉行す。

参考@心經會は、般若心経を唱える会。
参考A
被物は、女性が外歩きなどにかむっていた布状のもの。又は、これで衣服を包んだもの。

現代語文治二年(1186)正月小八日丁亥。御所の中で、般若心経を唱える会を催しました。鶴岡八幡宮長官の法眼円暁と大法師源信、恵眼たちも一緒でした。お布施はそれぞれに、被り物一枚。大和判官代邦道が担当をしました。

文治二年(1186)正月小九日戊子。高野山衆徒。依有訴申旨。北條殿令加下知給上。爲止寺領狼藉。被差遣雜色云々。
 下  紀伊國高野山御庄々
  可早令停止兵粮米并地頭等事
 右件御庄々。彼御山所被仰下也。仍爲令致其制止。雜色守C所下遣也。於自今以後者。可令停止旁狼藉也。且御庄々折紙遣之。敢勿遺失。故下。
    文治二年正月九日                       平〔在判〕

読下し                    こうやさん  しゅうと  うったえもう むねあ    よつ    ほうじょうどの げち くは  せし  たま    うえ
文治二年(1186)正月小九日戊子。高野山の衆徒、訴申す旨有るに依て、北條殿下知を加へ令め給ふの上、

じりょう    ろうぜき   と     ため  ぞうしき  さ   つか  さる    うんぬん
寺領への狼藉を止めん爲、雜色を差し遣は被ると云々。

   くだ       きいのくにこうやさん  おんしょうしょう
 下す  紀伊國高野山の御庄々

     はやばや ひょうろうまいなら   ぢとうら   こと  ちょうじせし  べ
  早々と兵粮米并びに地頭等の事を停止令む可し

  みぎ くだん おんしょうしょう  か  おやま  おお  くださる ところなり  よつ そ   せいし  いた  せし    ため  ぞうしきもりきよ  くだ  つか   ところなり
 右の件の御庄々、彼の御山に仰せ下被る所也。仍て其の制止を致さ令めん爲、雜色守Cを下し遣はす所也。

いまより いご   をい  は かたがた ろうぜき ちょうじせし  べ   なり  かつう おんしょうしょう おりがみこれ  つか    あへ  いしつな      ゆえ  くだ
自今以後に於て者、旁の狼藉を停止令む可き也。且は 御庄々 に折紙之を遣はす。敢へ遺失勿く、故に下す。

        ぶんじにねんしょうがつここのか                                              たいら 〔はん あ 〕
    文治二年正月九日                       平〔判在り〕

現代語文治二年(1186)正月小九日戊子。高野山の僧兵達が、申し入れたいことがあると騒いでいるので、北条時政殿が命令した上で、寺の領地への地頭設置を止める為に、雑用係を派遣しましたとさ。

 命令する 紀伊の国高野山の御荘園などの所領の事
  早く兵糧米の徴収と地頭設置を止めること
 右の命令の荘園領地は、頼朝様が高野山に任せるように仰せられた所です。それなので兵糧米や地頭を中止するよう伝える為、雑用係を派遣したものです。今から以後は、武士達の兵糧米徴収と地頭設置を止めるように。という訳で各荘園に文書を渡しますので、しっかりと守るように、命令をします。
   文治二年正月九日           平〔花押あり〕

文治二年(1186)正月小十日己丑。攝津國貴志輩事。所被加御家人也。但止關東番役等。可勤左馬頭〔能保〕宿直之由。被定云々。

読下し                    せっつのくに きし   やから こと  ごけにん   くは  らる ところなり
文治二年(1186)正月小十日己丑。攝津國貴志@の輩の事、御家人に加へ被る所也。

ただ  かんとうばんやくら  と     さまのかみ 〔よしやす〕   とのい  つと  べ    のよし  さだ  らる    うんぬん
但し關東番役等を止め、左馬頭〔能保〕が宿直を勤む可し之由、定め被ると云々。

参考@貴志は、大阪府富田林市貴志、貴志町、貴志新家町。

現代語文治二年(1186)正月小十日己丑。摂津の国貴志の侍貴志党の連中を御家人に取り立て加えました。但し、鎌倉へ来て一定期間警固に当たる番役はさせないで、京都の左馬頭一条能保様の身辺警固をするように、頼朝様はお決めになられました。

文治二年(1186)正月小十一日庚寅。高瀬庄事。不可交武家沙汰之由。雖被仰下。北條殿注所存於折紙。被付師中納言云々。
 高瀬庄事。雖令究濟兵粮米候。於地頭惣追捕使者被補候畢。但於狼藉者可令停止候也。

読下し                     たかせのしょう  こと   ぶけ    さた   まじ  べからずのよし  おお  くださる    いへど
文治二年(1186)正月小十一日庚寅。高瀬庄@の事、武家の沙汰を交う不可之由、仰せ下被ると雖も、

ほうじょうどのしょぞんを おりがみ ちう    そちのちゅうなごん つけらる   うんぬん
北條殿所存於折紙に注し、師中納言に付被ると云々。

  たかせのしょう こと ひょうろうまい きゅうさいそうろう いへど  ぢとう そうついぶし   をい は ぶされそうら をはんぬ
 高瀬庄の事、兵粮米を究濟候と 雖も、地頭惣追捕使Aに於て者補被候ひ畢。

  ただ  ろうぜき  をい  は ちょうじせし そうろうべ  なり
 但し狼藉に於て者停止令め候可き也。

参考@高瀬庄は、熊本県玉名市高瀬。阿蘇神社領。
参考A地頭惣追捕使も、本所や領家にとっては単なる年貢徴収者が増えた程度にしか理解されていないようである。地頭を置いてはみたものの、自分達の武運長久を祈る神社仏閣からの地頭追い出し要望には、答えざるを得なかった。へたに逆らうと調伏されかねないからである。

現代語文治二年(1186)正月小十一日庚寅。高瀬庄については、武士が関与してはいけないと仰せになられましたが、北条時政殿が思惑を正式の手紙に書いて、師中納言吉田経房に提出し、念を押しました。

 高瀬庄については、兵糧米は免除したけれども、土地の警固管理のため地頭惣追捕使は設置しました。但し、地頭の無法行為(年貢横領)は取り止めさせました。

文治二年(1186)正月小十七日丙申。去冬下向左府御使。今日歸洛。依御報遲々也。然而非無使節之驗云々。是被下官符於豫州等事。依左府計議之由。風聞之旨。頗以不快。而不被宣下者。行家義經於洛中企謀反歟。給官苻赴西海之故。君臣共安全。是何被處不義哉由被申之。二品承披由被諾申云々。

読下し                     さんぬ ふゆ   さふ   おんし げこう     きょう  きらく     ごほう ちち   よつ  なり
文治二年(1186)正月小十七日丙申。去る冬、左府が御使下向し、今日歸洛す。御報遲々に依て也。

しかれども しせつのけん な   あらず  うんぬん  これ  かんぷを よしゅうら   くださる  こと    さふ   けいぎ  よ   のよし  ふうぶんのむね  しきり  ふかい  に
然而、使節之驗無きに非と云々。是、官符於豫州等に下被る事、左府の計議に依る之由、風聞之旨、頗に不快に以る。

しか    せんげせらずんば  ゆきいえ よしつねらくちゅう をい  むほん  くはだ か   かんぷ  たま  さいかい  おもむ のゆえ    くんしんともに あんぜん
而るに宣下被不者、行家、義經洛中に於て謀反を企つ歟。官苻を給ひ西海に赴く之故に、君臣共に安全。

これ  なんぞふぎ  しょせら  や   よし これ  もうさる    にほんうけたまは ひら   よし  だく  もうさる    うんぬん
是、何不義を處被る哉の由之を申被る。二品承り披くの由、諾し申被ると云々。

現代語文治二年(1186)正月小十七日丙申。去年の暮れに、左大臣経宗様の使者が鎌倉へ来ていて、今日京都へ帰ります。頼朝様の返答が遅くなったからです。でも、来た派遣員の効果が無いわけではありませんでしたとさ。これは頼朝様追討の太政官布告を義経たちに発行したのは、左大臣の提案によると噂を聞いていたので、とても怒っておられました。「しかし、宣下がなければ、行家と義経は京都で謀反の戦を始めたに違いない。太政官布告を受け取って九州へ行こうとしたから、天皇も公卿たちも安全だったのです。これがなんで不義だと扱われるのでしょうか.」と云っていました。頼朝様は話を聞いて「仕方が無いと納得したので、承諾した。」とおっしゃられたんだとさ。

文治二年(1186)正月小十九日戊戌。神祗大副大中臣公宣。少副爲定等使者。此間參住。今日歸國。是去年十一月九日。祭主神祗權大副親俊卿於伊勢國薨逝。仍各捧款状。望祭主闕之處。神宮奉行親宗卿。光雅朝臣等沈賄。同月廿五日被補能隆朝臣訖。是所被超越也。件兩奉行者。与同謀反之凶臣也。其奸濫已顯露。神慮不快歟。 聖断依違。盍被諌奏哉。早可令奏聞給由載之。光倫神主執申之。仍被進此状於京都者。但如此事。二品依不知委細。只爲散人欝憤執申許也。於爲非據者。不可有 勅裁。難執申之由被申之。

読下し                      じんぎだいすけ おおなかとみきんのぶ しょうすけためさだら ししゃ  こ   かんさん  すま    きょう きこく
文治二年(1186)正月小十九日戊戌。神祗大副@大中臣公宣、 少副爲定等の使者、此の間參じ住ひ、今日歸國す。

これ  きょねんじういちがつここのか さいしゅ じんぎごんのだいすけちかとしきょう いせのくに  をい  こうきょ
是、去年 十一月九日。 祭主A神祗權大副親俊卿、 伊勢國に於て薨逝す。

よつ おのおの かんじょう  ささ  さいしゅ  けつ のぞ  のところ  じんぐうぶぎょうちかむねきょう みつまさあそんら まいな  しず
仍て各、款状Bを捧げ、祭主の闕を望む之處、 神宮奉行親宗卿、 光雅朝臣等賄いに沈み、

どうげつにじうごにち よしたかあそん ぶせら をはんぬ  これ ちょうえつさる  ところなり  くだん りょうぶぎょうは  むほん  よどうのきょうしんなり
同月廿五日、能隆朝臣を補被れ訖。 是、超越被る所也。 件の兩奉行者、謀反の与同之凶臣也。

そ  かんらんすで  けんろ    しんりょふかいか  せいだんたが   よつ    なん かんそうされんや はや  そうもんせし  たま  べ     よしこれ  のせ
其の奸濫已に顯露す。神慮不快歟。聖断違うに依て、盍ぞ諌奏被哉。早く奏聞令め給ふ可しの由之を載る。

みつともかんぬし これ しっ もう    よつ  こ   じょうをきょうと  すす  らる てへれば ただ  かく  こと  ごと
光倫神主C之を執し申す。仍て此の状於京都へ進め被る者、但し此の事の如し。

にほん いさい  しらず   よつ    ただ  ひと  うっぷん  さん    ためしっ  もう  ばか  なり
二品委細を知不に依て、只、人の欝憤を散ぜん爲執し申す許り也。

ひきょ たる  をい  は   ちょくさいあ べからず  しっ  もう  がた  のよしこれ  もうさる
非據爲に於て者、勅裁有る不可、執し申し難き之由之を申被る。

参考@神祗大副は、京都朝廷の神祇官の官職に、伯(かみ)副(すけ)祐(じょう)史(さかん)とある。副(すけ)に大少がある。律令制度では、朝廷に二官五衛府一台が置かれた。二官は、太政官と神祇官。五衛府は、衛門府、左衛士府、右衛士府、左兵衛府、右兵衛府。811年以降、左・右近衛、左・右衛門、左・右兵衛の六衛府(ろくえふ)となった。台は、弾正台で役人の探索をする。この時代、神祇官は花山源氏がやる。
参考A祭主は、伊勢神宮の神職の長。昔は大中臣氏の世襲。明治以降第二次大戦以前は皇族がそれに任ぜられた。
参考B款状は、自分の手柄を箇条書きにして褒美を催促する上申書。
参考C光倫神主は、伊勢太神宮の權祢(ごんのねぎ)度會(わたらい)光倫「相鹿二郎大夫とも云う」。養和元年(1181)十月廿日に鎌倉へ来て居ついている。

現代語文治二年(1186)正月小十九日戊戌。神祇官の大副役の大中臣公宣と少副の為定達の使いが、先日鎌倉へ来て住み着いていたが、今日国へ帰ります。この事件は、去年の十一月九日に、伊勢神宮の神職の長、権大副大中臣親俊が伊勢の国で亡くなりました。そこで、後継者達はそれぞれに上申書を提出し、空席への任官を望んでいましたが、京都朝廷の神宮の事を采配する奉行の親宗と光雅の公卿達は賄賂を受け取り、同じ十一月の二十五日に大中臣能隆を任命してしまいました。これは、階級を飛び越える特進になります。しかもその二人の奉行は、謀反人の平家に味方した悪い役人です。その悪巧みははっきりと表ざたになっているので、伊勢神宮の神様も嫌がっており、朝廷の裁決が間違っていますので、どうして朝廷へ申し入れてくれないのですか。早く、申し入れていただきたいと書かれていました。伊勢神宮神職の光倫神主が取り次ぎました。そこで、頼朝様はこの書状を京都朝廷へ提出するように指示されました。それは次のような理由からです。頼朝様とすれば、どうでも良いことなのですが、申し出てきた人の気を晴らすために取上げて、京都へ申し上げることにしました。もしも、申し出の内容が間違っていたら、朝廷で命令を出す必要はないので、取上げがたいことだがとおっしゃられました。

文治二年(1186)正月小廿一日庚子。法皇今年六十御寳算也。仍可被行御賀之旨。爲被申行之。上絹三百疋。國絹五百疋。麞牙等。此外斑幔六十帖。所令進上京都也。又去年被言上條々。悉以被施行之上者。流刑等事。早可被行之由被申之。大夫属入道令執沙汰此間事云々。

読下し                      ほうおう ことし ろくじう  ごほうさんなり
文治二年(1186)正月小廿一日庚子。法皇今年六十の御寳算也。

よつ  おんが  おこな らる  べ   のむね  これ  もう  おこな られ  ため  じょうけんさんびゃっぴき くにぎぬごひゃっぴき  しょうがら  こ  ほか はんまくろくじっちょう
仍て御賀を行は被る可し之旨、之を申し行は被ん爲、 上絹@三百疋、 國絹五百疋、 麞牙A等、此の外斑幔B六十帖。

きょうと   しん  あ   せし   ところなり
京都へ進ぜ上げ令めん所也。

また  きょねんじょうじょう ごんじょうされ ことごと もつ  せぎょうさる   のうえは   るけいら   こと  はや  おこな らる べ   のよしこれ  もうさる
又、去年條々を言上被、 悉く以て施行被る之上者、流刑等の事、早く行は被る可し之由之を申被る。

たいふさかんにゅうどう こ かん  こと  しっ   さた せし    うんぬん
大夫属入道、此の間の事を執し沙汰令むと云々。

参考@上絹は、細くて上質な絹らしい。現在でも健康グッズなどでこの言葉を使っており、値段的には五割り増しになっている。対照的な存在として「あしぎぬ(上絹ではなく太絹のこと。)」ともある。絹一疋は、幅二尺二寸(約66cm)、長さ五丈一尺(約18m)の絹の反物。一反は一尺一寸×五丈一尺。
参考A麞牙は、象の牙のように白い米。白米。
参考B
斑幔(はんまん)は、まだらまくとも読み、紅白や黒白や五色等の幔幕。

現代語文治二年(1186)正月小二十一日庚子。後白河法皇は、今年が六十歳の還暦祝いです。そこで、お祝いの儀式に祝いの言葉を送るために、上質の絹を三百疋、普通の絹五百疋、白米等、そのほかにも。まだら模様の幔幕の斑幔六十帖を京都へ献上されます。ついでに、去年箇条書きにして申し出ている事を全て果たしたならば、後は流罪の連中をさっさと配所へ追い出すようにと申し添えました。大夫属入道三善善信がこれ等の事務処理を行わせましたとさ。

文治二年(1186)正月小廿三日壬寅。二品被進神馬於諏方上下宮云々。

読下し                      にほん しんめを すわ   じょうげぐう   しん  らる    うんぬん
文治二年(1186)正月小廿三日壬寅。二品神馬於諏方の上下宮@に進ぜ被ると云々。

参考@諏方の上下宮は、長野県の諏訪神社か、八幡宮境内に勧請してきた分社か分からないが、前者だと使者の名前を書くことが多いので、多分後者だと思う。

現代語文治二年(1186)正月小二十三日壬寅。二位の頼朝様は、神様の乗馬を諏訪神社の上下社に寄進なされましたとさ。

文治二年(1186)正月小廿四日癸夘。日吉塔下彼岸衆訴訟事。有其沙汰。非二品一方御成敗之間。今日所被執申京都也。
 日吉塔下彼岸衆申文一通。謹以進上之候。爲法性寺領。小橋庄被押領三ケ村候云々。而重家。自近衛殿賜小橋庄預所職候畢。仍衆徒可停止重家之結搆之旨。雖觸遣候。云彼云是。共以庄領候。依不能私成敗候。所令執申候也。任道理可被計仰下候歟。頼朝恐々謹言。
       正月廿四日                        頼朝〔裏御判〕
  進上 師中納言殿

読下し                      ひえ  とうのしたひがんしゅう  そしょう  こと  そ    さた  あ
文治二年(1186)正月小廿四日癸夘。日吉@の塔下彼岸衆Aが訴訟の事、其の沙汰有り。

にほん いっぽう  ごせいばい あらざるのかん  きょう きょうと  しっ  もうさる  ところなり
二品一方の御成敗に非之間、今日京都へ執し申被る所也。

   ひえ  とうのしたひがんしゅう もうしぶみいっつう  つつ   もつ  これ  しんじょう そうろう  ほっしょうじ りょうたる  おばせのしょうさんかそん おうりょうされそうらう うんぬん
 日吉の塔下彼岸衆が申文一通、 謹んで以て之を進上し候。 法性寺B領爲、 小橋庄三ケ村を 押領被候と云々。

  しか    しげいえ  このえどのよ  おばせのしょう あずかりどころしき たまは そうらい をはんぬ
 而るに重家C、近衛殿自り小橋庄D 預所職を 賜り 候ひ 畢。

  よつ  しゅうと  しげいえのけっこう  ちょうじすべ  のむね ふ   つか  そうろう いへど   か   い   これ  い    とも  もつ  しょうりょう そうろう
 仍て衆徒、重家之結搆を停止可し之旨、觸れ遣はし候と雖も、彼と云ひ是と云ひ、共に以て庄領に候。

  よつ わたし せいばい あたはずそうろう  しっ  もう  せし ところそうろうなり  どうり  まか  はか  おお  くださるべ そうろうか  よりともきょうこうきんげん
 依て私の成敗に不能候。 執し申さ令む所候也。 道理に任せ計り仰せ下被可く候歟。頼朝恐々謹言。

               しょうがつにじうよっか                                                よりとも  〔うらごはん〕
       正月廿四日                        頼朝〔裏御判〕

    しんじょう そちのちうなごんどの
  進上 師中納言殿

参考@日吉は、日吉山王神社。現山王総本宮日吉大社。境内は、比叡山系の最高峰、大比叡峰の東方に位置する八王子山(牛尾山)を含む山麓の13万坪あります。
参考A
日吉の塔下彼岸衆は、比叡山延暦寺日吉権現のホームページに、根本大塔:創建は天慶5年(942)で、平将門の調伏のため建立された。この根本塔は延慶元年(1308)焼失。元徳元年(1329)塔供養。その後も度々造替され近世まで存続した。山王鳥居のすぐ北側で、今の総社の位置という。そばに塔下惣社と呼ばれる末社が建てられ、塔下彼岸所が付属していた。(別記事)延慶元年(1308)塔下彼岸所から出火し、根本大塔、七重塔、七社社殿、社務所、彼岸所、仏堂、不断経所などを焼失。
参考B法性寺は、京都市東山区本町16丁目にある浄土宗西山禅林寺派の寺。925年藤原忠平の創建。開山は法性房尊意。藤原忠通とその子九条兼実が出家後住す。のち廃絶したが明治時代に尼寺として再興。たぶんここも含んだ東福寺一帯だと思われる。
参考C重家は、高田四郎重家。
参考D小橋庄は、摂津国東成郡小橋荘、大阪市天王寺区小橋町(オバセチョウ)。

現代語文治二年(1186)正月小二十四日癸卯。比叡山延暦寺日吉権現の塔下彼岸衆の訴訟について、その処理を決定しました。頼朝様は、鎌倉で勝手に決定できることではないので、今日京都朝廷へ取次ぐ様におっしゃられました。

 比叡山延暦寺日吉権現の塔下彼岸衆の申し出の手紙、一通をうやうやしくこれを提出いたします。法性寺の領地である小橋庄を横取りされたとの事です。しかし、高田重家は、近衛基通様から小橋庄の現地管理者職の任命を請け負いました。それを武者僧(僧兵)達が重家に年貢を横取りされるので、任命を止めるようにといったのだけれどもとの内容です。それもこれも荘園内部の縄張り争いなのであります。ですから鎌倉の私が裁決することではありませんので、取次いでいるわけです。正しい判断をして、取り計らっていただくように願います。頼朝が恐れ敬って申し上げます。
   正月二十四日 頼朝(へりくだって紙の裏に花押を書きました)
 提出します 師中納言吉田経房殿

文治二年(1186)正月小廿六日乙巳。攝録事。早可被宣下之由。二品令申京都給。當執柄依伊豫守義經謀逆事。有雜説等之故也云々。

読下し                     せつろく  こと  はや  せんげさる  べ   のよし  にほんきょうと  もう  せし  たま
文治二年(1186)正月小廿六日乙巳。攝録の事、早く宣下被る可し之由、二品京都へ申さ令め給ふ。

とうしっぺい    いよのかみよしつね ほんぎゃく こと  よつ   ぞうせつら あ   のゆえなり  うんぬん
當執柄@は、伊豫守義經の謀逆の事に依て、雜説等有る之故也と云々。

参考@執柄は、摂政の事で、ここでは「近衛基通」。

現代語文治二年(1186)正月小二十六日乙巳。摂政の交替人事を早く宣言実行するように、頼朝様は京都へ申し送らせました。今の摂政の近衛基通は、義経の謀反(頼朝追討の院宣交付)に賛成したと云う罪があり、交代させるよう申し入れてあるのに、後白河法皇はそのまま続けさせておくのだと云う様な、変な噂があるからなんですとさ。

文治二年(1186)正月小廿八日丁未。左典厩及室家依可被歸洛。出門于足立馬允遠元家。先之。二品并御臺所渡御於其所。令奉待給。是御餞別儀也。以帖絹白布紺絹布藍摺等候。作垸飯兼被置之。又積色々絹布羽皮等。置侍所。爲扈從輩也。終夜御遊宴云々。又備後信敷庄以下數ケ所地頭職令避与于彼室家給云々。

読下し                     さてんきゅう およ  しつけ  きらく さる  べ     よつ    あだちうまのじょうとおもと いえに かどで
文治二年(1186)正月小廿八日丁未。左典厩@及び室家A歸洛被る可きに依て、足立馬允遠元の家于出門Bす。

これ  さき  にほんなら    みだいどころ そ ところ  をい  とぎょ    ま たてまつ せし たま    これ ごせんべつ ぎ なり
之に先、二品并びに御臺所其の所に於て渡御し、待ち奉ら令め給ふ。是御餞別の儀也。

ちょうけん  はくふ  こんのけんぷ あいずりら  もつ そうろう おうばん な   かね  これ おかる
帖絹C、白布、紺絹布、藍摺等を以て候。垸飯を作し兼て之を置被る。

また  いろいろけんぷ  はね  かわら  つ   さむらいどころ お    こじゅう  やから ためなり よもすがら ごゆうえん  うんぬん
又、色々絹布、羽、皮等を積み、侍所に置く、扈從の輩の爲也。終夜御遊宴と云々。

また  びんご  しのぶのしょう いげ すうかしょ  ぢとうしき   か   しつけ に さ   あた  せし  たま    うんぬん
又、備後の信敷庄D以下數ケ所の地頭職を彼の室家于避け与え令め給ふと云々。

参考@左典厩は、左馬頭の唐名で、ここでは一条能保をさす。
参考A室家は、一条能保の奥さんで頼朝の姉。(妹説もある)
参考B出門は、お日柄にあわせ、一旦出発したことにする儀式。宿泊先の足立遠元の家から御所へ移っているようだ(侍所で宴会とある)。
参考C帖絹は、埼玉県の養蚕の歴史に「室町(南北朝)貞治年間に高麗郡内で帖絹(つむぎ)が広く生産される」とある。これを採用する。
参考D信敷庄は、広島県庄原市。1898年比婆郡設立当時は「しのう村」とあるが、直ぐに庄原町に施行。

現代語文治二年(1186)正月小二十八日丁未。左馬頭一条能保様と奥様が京都へ帰るので、宿泊先の足立右馬允遠元の屋敷から出発式を行いました。これに先立ち、二位卿頼朝様と御台所政子様はあらかじめその場所へ出向いて、待っておられました。これはお別れの餞別を贈る儀式のためです。紬(つむぎ)や白色の絹、紺色の絹、藍で摺り染めた布などにしました。それにご馳走を用意して置いて置きました。その他に多色刷りの絹布や鷲の羽、皮等を侍所に摘んでおいたのは、お供の家来達に与えるためです。一晩中宴会でしたとさ。そればかりか、備後の信敷庄(しのぶのしょう)を始めとする数箇所の地頭職をその奥様に分け与えましたとさ。

文治二年(1186)正月小廿九日戊申。豫州在所于今不聞。而猶有可被推問事。可進靜女之由。被仰北條殿云々。又此事尤可有沙汰由。付經房卿令申給云々。

読下し                     よしゅう   ざいしょいまに きこへず
文治二年(1186)正月小廿九日戊申。豫州が在所今于聞不。

しか    なお  すいもんさる べ  こと あ     しずかめ まいら べ   のよし  ほうじょうどの おお  らる    うんぬん
而るに猶、推問被る可き事有り、靜女を進す可き之由、北條殿に仰せ被ると云々。

また  こ  こともつと  さた あ   べ   よし  つねふさきょう ふ  もう  せし  たま    うんぬん
又、此の事尤も沙汰有る可き由、經房卿に付し申さ令め給ふと云々。

現代語文治二年(1186)正月小二十九日戊申。義経の所在が未だにつかめません。そこで、聞きただしたいことがあるので、静御前を鎌倉へ送るように北条時政殿へ命令を出されましたとさ。それと、この義経探索は一番しなければならないことだと、吉田経房卿を通して伝えるように申されましたとさ。

二月へ

吾妻鏡入門第六巻

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