吾妻鏡入門第六巻

文治二年(1186)三月小

文治二年(1186)三月小一日己夘。諸國被補惣追捕使并地頭内七ケ國分。北條殿被拝領畢。而深存公平。去比上表地頭職。其上重被付書状於師中納言。黄門又付定長朝臣被奏聞之。
 院進御物之脚力可罷下候之由所申候也。以去廿八日。三ケ度御返事。纔一通進覽之由。賜御教書候畢。而件脚力不能賜御返事罷下候。所恐申也者。抑一日參拝之時。七ケ國地頭職之條。雖令言上候。未承分明之仰。罷出候畢。仍於時政給七ケ國地頭職者。各爲令遂勸農候。可令辞止之由所令存候也。於惣追捕使者。彼凶黨出來候之程。且爲承成敗。可令守補之由所令存知也。凡國々百姓等兵粮米使等。寄事於左右。押領所々公物之由。訴訟不絶候也。且糺明如此等之次第。若兵粮米有過分者。即糺返件過分。又百姓等令未濟者。計糺田數。早可令究濟之由。尤可蒙御下知候。兼又没官之所々。蒙 院宣并二位家仰候之間。可令見知之由。同所令存也。以此由可令言上給候。時政誠惶誠恐謹言。
     三月一日                           平時政〔申文〕
  進上  大夫属殿
今日。豫州妾靜依召自京都參着于鎌倉。北條殿所被送進也。母礒禪師伴之。則爲主計允〔行政〕沙汰。點安逹新三郎宅招入之云々。

読下し             しょこく そうついぶし  なら    ぢとう    ぶさる     うち しちかこくぶん  ほうじょうどのはいりょうせら をはんぬ
文治二年(1186)三月小一日己夘。諸國惣追捕使@并びに地頭を補被るの内七ケ國分Aを、北條殿拝領被れ畢。

しか    ふか  くひょう  ぞん    さぬ ころ ぢとうしき   じょうひょう   そ   うえかさ    しょじょうを  そちのちゅうなごん ふせらる
而るに深く公平を存じ、去る比地頭職を上表Bす。其の上重ねて書状於、師中納言Cに付被る。

こうもん また  さだながあそん  ふ  これ  そうもんさる
黄門D又、定長朝臣に付し之を奏聞被る。

参考@諸國惣追補使は、頼朝が与えられた守護任命権。
参考A七ケ國分は、北條時政に与えられた。以前に宗盛に畿内(山城、摂津、和泉、河内、大和)五カ国と丹波、近江が与えられ、四国(讃岐、伊予、阿波、土佐)は行家に、九州(筑前、筑後、肥前、肥後、豊前、豊後、日向、大隈、薩摩)は義経に与えられ、頼朝には東海道、東山道なので、北陸(越前、若狭、加賀、能登、越中、越後、佐渡)かもしれない。
参考B
上表は、辞職。ここで時政が辞退していなかったら、義経の二の舞になったかもしれない。
参考C師中納言は、吉田經房。
参考D
黄門は、中納言の唐名。

  いんしんぎょぶつのかくりき まか  くだ  べ  そうろうのよし  もう そうろうところなり
 院進御物之脚力、罷り下す可く候之由、申し候所也。

  さんぬ にじうはちにち もつ   さんかど   ごへん こと   わずか いっつうしんらんのよし みょぎょうしょ たまは そうら をはんぬ
 去る廿八日を以て、三ケ度の御返の事、纔に一通進覽之由、御教書を賜り候ひ畢。

  しか    くだん かくりき ごへん こと  たま      あたはず   まか くだ そうろう  おそ もう  ところなりてへ
 而るに件の脚力御返の事を賜はるに不能に、罷り下し候。恐れ申す所也者り。

  ようや いちにちさんぱいのとき しちかこく ぢとうしきの じょう  ごんじょうせし そうら  いへど  いま  ぶんめいのおお  うけたま       まか  い そうら をはんぬ
 抑く一日參拝之時、七ケ國地頭職之條、言上令め候うと雖も、未だ分明之仰せを承らわず、罷り出で候ひ畢。

  よって ときまさ  たま    しちかこく ぢとうしき   をい  は おのおの かんのう  と  せし そうら  ため   じし せし  べ   のよし  ぞんじせし そうろうところなり
 仍て時政に給はる七ケ國地頭職に於て者、各、勸農を遂げ令め候はん爲、辞止令む可し之由、存令め候所也。

  そうついぶし   をい  は   か   きょうとう い  きた そうろうのほど  かつう せいばい うけたま   ため   しゅほ せし  べ  のよし ぞんちせし ところなり
 惣追捕使に於て者、彼の凶黨出で來り候之程は、且は成敗を承らはん爲、守補令む可し之由存知令む所也。

  およ くにぐに  ひゃくせうら  ひょろうまい  し など   ことを とこう   よ      しょしょ   くもつ  おうりょう    のよし  そしょう   た   ずそうろうなり
 凡そ國々の百姓等、兵粮米の使E等、事於左右に寄せF、所々の公物を押領する之由、訴訟に絶へ不候也。

  かつう かく  ごと  ら の しだい きゅうめい    も  ひょうりょうまい かぶん あ  ば  すなは くだん  かぶん ただしかへ  またひゃくせいら みさいせし ば
 且は此の如き等之次第を糺明し、若し兵粮米過分に有ら者、即ち件の過分を糺返し、又百姓等未濟令ま者、

   たかず はか  ただ   はやばや きゅうさいせし べ   のよし  もつと  おんげち  こうむ べ そうろう
 田數を計り糺し、早々と究濟令む可し之由、尤も御下知を蒙る可く候。

  かね  また  もっかんのしょしょ  いんぜんなら   にいけ    おお   こうむ そうろうのかん  げんち せし  べ   のよし  おな   ぞん せし ところなり
 兼て又、没官之所々、院宣并びに二位家の仰せを蒙り候之間、見知G令む可き之由、同じく存じ令む所也。

  かく  よし  もつ  ごんじょうせし たま  べ そうろう  ときまさ せいこうせいきょうきんげん
 此の由を以て言上令め給ふ可く候。時政H誠惶誠恐謹言。

           さんがつついたち                                                      たいらのときまさ 〔もうしぶみ〕
     三月一日                           平時政〔申文〕

     しんじょう   たいふさかんどの
  進上  大夫属殿

参考E兵粮米の使は、兵糧米取立人。
参考F事於左右に寄せは、この機会にどうのこうのと理屈をつけて。
参考G見知は、現地調査の意味と検地の意味とがある。
参考H時政は、兵糧米を徴収する地頭職と軍事警察権の追捕使とを使い分けている。

 きょう  よしゅう めかけしずか  めし よつ きょうと よ   かまくらにさんちゃく   ほうじょうどのおく しん  らる ところなり  はは いそのぜんじ これ ともな
今日、豫州が妾靜I、召に依て京都自り鎌倉于參着す。北條殿送り進ぜ被る所也。母の礒禪師J之を伴う。

すなは かぞえのじょう  さた   な    あだちのしんざぶろう  たく  てん  これ  まね  い      うんぬん
則ち主計允Kの沙汰と爲し、安逹新三郎Lが宅を點じM之を招き入れると云々。

参考Iは、静御前。
参考J礒禪師は、男舞(白拍子)の創始者。
参考K主計允は、藤原行政で、後に永福寺のそばなので二階堂となる。
参考L安達新三郎は、清経で雜色の頭領。
参考M點じは、指定して。

現代語文治二年(1186)三月小一日己夘。全国の国や荘園に軍司警察権である追補使と反別五升の兵糧米を取れる地頭職を頼朝様が任命されましたが、その内の七カ国の国地頭追補使を北條時政殿が朝廷から与えられました。しかしながら、御家人達との比較を考えて、地頭職をお断りしました。それだけでなく、なおその旨を手紙に書いて師中納言吉田経房様に頼みました。経房さんは、それを定長さんに頼んで後白河法皇に報告をしてもらいました。

 後白河院へ進呈する品物を届ける役の者が、下がってきて伝えるには、「先月の二十八日に、三度も地頭返上を申し上げたのに、たった一通のみを見てくれたとお手紙を貰いました。」と云う事でした。それなのに、その届け役の者が返上の話を受け取らずに帰ってきてしまったので、大変恐縮しております。ようやく、ある日参拝出来た時に申し上げましたが、未だにはっきりとしたご返事を戴いておりません。仕方が無いので、時政が任命された七カ国の地頭職は、農民の農業を進めるために兵糧米を取る地頭の職は、辞退した方が良いと考えているところであります。総追補使の役は、行家や義経等の反乱者が現れたときの事を考えて、退治しなくちゃならないので、役職についていようと考えました。思うにあちこちの百姓は、兵糧米取立人が、この機会にどうのこうのと理屈をつけて、所々の年貢等を横取りするとの訴えが絶えないことでしょう。もし、そのような時はいきさつをきちんと取り調べて、兵糧米を余分に取っていたら、直ぐに返すようにさせます。逆に百姓が未納していれば、田んぼの数を数えなおして、さっさと納品するように命じてください。ついでに平家から取上げた没官領のあちこちについては、院の命令書と二位家頼朝様の言いつけをいただき、現地調査をするべきだと考えております。以上の事を申し上げていただきますように。時政誠意を込めて恐れ申し上げます。
   三月一日                               平時政〔申し上げたいこと〕

   進上 大夫属殿

今日、源九郎義經の妾の静御前が、京都から鎌倉へ到着しました。北條時政殿が送らしたものです。お母さんの磯の禅師も一緒でした。直ぐに主計允藤原行政が担当して、安達新三郎(雑色の長)の家を宿舎と指定し、彼女等を入らせましたとさ。

文治二年(1186)三月小二日庚辰。今南。石負庄兵粮米可停止之由。昨日師中納言以使者。被傳 院宣於北條殿之間。今日所被成進下文也。亦北條殿言上事 奏聞之由。左少弁所被示送于師中納言之状。黄門遣北條殿云々。
 時政申状 奏聞候畢。七ケ國地頭辞退事。尤穩便聞食。惣追捕使事。何樣可候哉。爲遂勸農。停止地頭職。無人愁者旁神妙。定爲其儀歟。兵粮米未濟事又以同前。迎春譴責。窮民若爲歎歟。其條又定相計旨候歟。没官所々檢知事。自二位卿許。上へは申旨も不候。次第何樣候哉。委趣尋聞子細。且可令計申給之由。内々御氣色候也。恐惶謹言。
        三月二日                           左少弁
      師中納言殿
今日。故前宰相光能卿後室比丘尼阿光去月進使者於關東。相傳家領丹波國栗村庄爲武士被成妨由訴申之。仍早可停止濫吹之趣被仰云々。
 下 丹波國栗山庄
  可令停止武士狼藉如元爲崇徳院御領備進年貢随領家進止事
 右件庄。可爲 崇徳院御領之由。所被下 院宣也。而在京武士寄事於兵粮催。暗以押領。於今者。早如元爲彼御領。随領家進止。可令備進年貢所當之状如件。以下
     文治二年三月二日
又南都大佛師成朝。爲奉造立勝長壽院御佛。被召下之處。傍輩佛師以此下向之隙。競望當職之由。歎申之間。取彼状令擧申給。其状云。
 佛師成朝申南都大佛師事。令申之旨。若道理候者。可令申沙汰給候歟。恐々謹言。
     三月二日                   頼朝〔在御判〕
   進上 師中納言殿
 南京大佛師成朝言上
   興福寺御佛等早被停止他佛師任相傳理一向成朝可奉造營事
 件大佛師職者成朝先師相承連綿無絶。所謂定朝。覺助。頼助。康助。康朝等也。先祖五代之間。覺助頼助等之時。御寺雖有炎上事。乍置大佛師。他人全無令勤仕御佛等。况彼覺助頼助凡僧之間。奉御佛造營事。御供養之時昇綱位畢。今成朝任相傳例。可奉造營之處。他佛師等各々致濫望。面々令奉仕。愁歎之至無物取喩。是則故平家時就其所縁申請之故也。但其中雖有号定朝弟子之輩。更不可比肩於茲成朝。云重代。云器量。採用之處。誰謂非據。無其骨者不可訴申。當時御佛奉仕之輩。被尋勝劣。無其隱歟。早任先師相傳理。如申請。被停止他佛師等。成朝一向可奉造營御佛之由。欲被仰下。就中東金堂御佛等。成朝守 宣下勤仕之處。依奉造營鎌倉殿御堂御佛。成朝白地下向關東之間。院性致所望令勤仕云々。事若實者。其恐不少。任道理被裁許者。弥知正理不朽矣。仍大概勒在状。言上如件。

読下し             いまなみ  いそうのしょう  ひょうろうまい ちょうじ すべ  のよし  さくじつそちのちうなごんししゃ もつ
文治二年(1186)三月小二日庚辰。今南@、石負庄Aの兵粮米を停止B可し之由、昨日師中納言使者を以て、

いんぜんをほうじょうどの つた らる  のかん   きょうくだしぶみ な  すすめらる ところなり
院宣於北條殿へ傳へ被る之間、今日下文を成し進被る所也。

また ほうじょうどの ごんじょう  こと  そうもん    のよし さしょうべん  そちにちうなごんに しめ  おくらる ところのじょう  こうもん  ほうじょうどの つか    うんぬん
亦、北條殿の言上の事、奏聞する之由、左少弁、師中納言于示し送被る所之状、黄門、北條殿へ遣はすと云々。

参考@今南は、不明。丹波国で今がつくのは、兵庫県篠山市今田町(ササヤマシ)。もうひとつの石負の南三里半。今南は摂津とも言われる。
参考A石負庄は、旧丹波国氷上郡石生村。現兵庫県丹波市氷上町石生(イソウ)。福知山線石生駅東、水分れ。(標高100mを切る日本最低所で谷中の中央分水界)ヤフーの地図の真ん中くらいの縮尺(市)に「石負」の文字も現れる。拡大すると消える。
参考B兵粮米を停止は、地頭撤退。

  ときまさ もうしじょう そうもん そうらひをはんぬ しちかこくぢとう じたい こと もつと おんびん きこしめ   そうついぶし   こと  なによう  そうらうべき や
 時政が申状、奏聞し候畢。七ケ國地頭辞退の事、尤も穩便に聞食す。惣追捕使の事、何樣に候可き哉C

  かんのう  と    ため   ぢとうしき   ちょうじ    ひと   うれ  な   ば かたがたしんみょう  さだ   そ   ぎたるか
 勸農を遂げん爲、地頭職を停止し、人の愁ひ無くん者、旁神妙D。定めて其の儀爲歟。

  ひょうろうまい みさい こと  またもつ さき  おな    はる  むか     けんせき  きゅうみんも なげ  な     か   そ  じょうまた  さだ    あいはから むねそうろうか
 兵粮米未濟の事、又以て前に同じ。春を迎へての譴責、窮民若し歎き爲さん歟。其の條又、定めて相計う旨候歟。

  もっかん しょしょ けんち  こと   にいきょう  もと よ     うえ   もう   むね そうらはず  しだいなによう そうろうや  くは  おもむきしさい  たず き
 没官の所々檢知の事、二位卿の許自り、上へは申す旨も候不。次第何樣に候哉。委しき趣子細を尋ね聞き、

  かつう はか    もう  せし  たま  べ   のよし ないないみけしきそうろう なり  きょうこうきんげん
 且は計らい申さ令め給ふ可き之由、内々御氣色候E也。恐惶謹言。

                 さんがつみっか                                        さしょうべん
        三月二日                      左少弁

             そちのちうなごんどの
      師中納言殿

参考C惣追補使の事、何樣に候可き哉は、総追補使はなんで止めないのか。
参考D人の愁ひ無くん者旁神妙は、庶民の嘆きをなくせば、それは神妙な行為だ。
参考E内々御氣色候は、後白河法皇は、兵糧米を徴収する地頭職と軍司警察権の追捕使との違いを理解していない。同じ年貢の横取りだと思っている。

現代語文治二年(1186)三月小二日庚辰。今南と石負庄の兵糧米を止めて地頭を撤退させるように、昨日師中納言吉田経房が使いをよこして、院宣(院からの命令書)を北条時政殿へ伝えてきましたが、今日正式な命令書を作成してよこしました。又、北条時政殿が申し上げた事を後白河法皇に伝えたと左少弁官の定長が吉田経房へよこした手紙を、経房は北条時政殿によこしましたとさ。

 時政が申してきたことは、後白河法皇に伝え終えました。七カ国の地頭職を辞退することは、とても大人しくして良い事である。それなのに総追補使はなんで止めないのか。農業を進めるために地頭職を止めて、庶民の嘆きを無くせば、それは神妙な行為だ。さぞかしそうするんだと思ったけど違うのか。兵糧米の未納分のことも、その話と同じで、春になって種蒔きの時分に攻め取っては、貧乏人達がさぞかし嘆くことになるんじゃないの。その事も又、よくよく考えなくちゃいけないんじゃないの。平家から取上げた没官領の検地の事は、二位卿頼朝からお上へ云って来ないのは、どうするつもりなのか。詳しく詳細を聞いて、どうするのか良く考えてくれと云うのが、非公式な院のお考えです。では、宜しく。
      三月二日                     左少弁
    師中納言殿

きょう  こさきのさいしょうみつよしきょう  こうしつ びくに あこう   さぬ つき ししゃを かんとう  すす   そうでん けりょうたんばのくにくりむらのしょう
今日、故前宰相光能卿Fの後室比丘尼阿光、去る月使者於關東へ進め、相傳の家領丹波國栗村庄G

 ぶし  ため  さまた なされ    よしこれ  うった もう    よつ  はや らんすい ちょうじすべ のおもむき おお  らる    うんぬん
武士の爲に妨げH成被るの由之を訴へ申す。仍て早く濫吹を停止可し之趣、仰せ被ると云々。

参考F故前宰相光能卿は、大井御門藤原光能。神護寺の三像、頼朝、重盛と共に描かれた人とされる。又、大江広元、中原親能の父とされる。
参考G栗村庄は、和名抄に何鹿郡(いかるがぐん)栗村郷と出ている。現京都府綾部市栗町。

  くだ   たんばのくにくりやまのしょう
 下す 丹波國栗山庄

     ぶし   ろうぜき  ちょうじ せし  もと  ごと  すとくいんごりょう   な   ねんぐ   びしん     りょうけ   しんじ  したが べ   こと
  武士の狼藉を停止H令め元の如く崇徳院御領と爲し年貢を備進し、領家Iの進止に随う可き事

  みぎくだん しょう   すとくいんごりょうたるべ   のよし  いんぜん  くださる  ところなり
 右件の庄は、崇徳院御領爲可き之由、院宣を下被る所也。

  しか   ざいきょう   ぶし    ことをひょうろう  もよお   よ     あん  もつ  おうりょう
 而るに在京の武士、事於兵粮の催しに寄せ、暗に以て押領す。

  いま  をい  は   はやばや もと  ごと  か   ごりょう  な     りょうけ  しんじ   したが   ねんぐ しょとう  びしんせし  べ   のじょうくだん  ごと
 今に於て者、早々と元の如く彼の御領と爲し、領家の進止に随い、年貢所當を備進令む可き之状件の如し。

  もつ  くだ
 以て下す。

           ぶんじにねんさんがつふつか
     文治二年三月二日

参考H武士の爲に妨げも、武士の狼藉を停止も、地頭撤退。地頭とは、領家にとっては年貢から兵糧米を横取りする濫吹、狼藉に過ぎないと理解している。
参考
I領家は、開発領主から寄進をうけた上級荘園領主。主に中央の有力貴族や有力寺社で、その権威が他からの侵害を防いでくれる。本所>領家>預所=下司VS地頭>名主>作人>小作人>在家と続き、実際の耕作は在家がする。

現代語今日、故前宰相大井御門光能の後家さんで出家している比丘尼阿光が、先月使いを鎌倉へよこして、代々相続してきたこの家の領地の丹波国栗村庄(京都府綾部市栗町)で地頭の武士が年貢を横取りすると訴えてきました。仕方が無いので横取りを止めるように、頼朝様はおっしゃられましたとさ。

 命令する 丹波国栗村庄のこと
 武士の地頭による年貢の横取りを止めて、元の通りに崇徳院供養のための領地として年貢をきちんと支払い、上級荘園領主である領家の指示に従うこと。
 右のその庄は、崇徳院供養のための領地だと後白河法皇からの命令が出ている所なのです。それなのに京都に駐屯している武士が、兵糧米を集めるどさくさにまぎれて、それとなく横取りをした。今に至っては、さっさと元の通りに領家のものとして、領家の指示に従い、年貢を例年通りに納付するように命令するのはこの通りである。
    文治二年三月二日

また  なんとだいぶっしせいちょう  しょうちょうじゅいん  みほとけ ぞうりゅうたてまつ  ため  めしくださる のところ  ぼうはい  ぶっし こ   げこう のすきま  もつ
又、南都大佛師成朝J、勝長壽院の 御佛を造立奉らん爲、 召下被る之處。傍輩の佛師此の下向之隙を以て、

とうしき  きょうぼう    のよし  なげ  もう   のかん  か  じょう  と   おこ  もう  せし  たま    そ   じょう い
當職を競望する之由、歎き申す之間、彼の状を取り擧し申さ令め給ふ。其の状に云はく。

参考J成朝の読みは「じょうちょう」かも知れないが、鎌倉検定に合わせ「せいちょう」とします。
参考 仏師系図 康尚─定朝┬覚助┬頼助─康助─康朝┬成朝
             │  │  奈良仏師  └康慶┬運慶┬湛慶(慶派)
             │  │           ├快慶   (慶派)
             │  └院助─院覚┬院朝┬院尚┬院賢┬院恵(院派)
             └長勢┬兼慶
                └円勢┬長円┬長俊─勝円(円派)

  ぶっしじょうちょう もう  なんと だいぶっし  こと   もう  せし   のむね  も   どうりそうらはば   さた もう  せし  たま  べ  そうろうか  きょうきょうきんげん
 佛師成朝 申す南都大佛師の事。申さ令む之旨、若し道理候者、沙汰申さ令め給ふ可く候歟。恐々謹言。

           さんがつふつか                                      よりとも 〔 ごはんあ 〕
     三月二日                   頼朝〔御判在り〕

       しんじょう そちのちうなごんどの
   進上 師中納言殿

  みなみのきょう だいぶっしせいちょう  ごんじょう
 南京の  大佛師成朝 言上す

       こうふくじ  みほとけら はや た   ぶっし  ちょうじされ  そうでん ことわり まか   いっこう  せいちょうぞうえいたてまつ べ   こと
   興福寺の御佛等早く他の佛師を停止被、相傳の理に任せ、一向に成朝造營 奉る可きの事

  くだん だいぶっししきは  せいちょう  せんしそうしょうれんめん た      な    いはゆる じょうちょう  かくじょ  らいじょ  こうじょ  こうちょうらなり
 件の大佛師職者、成朝が先師相承連綿と絶えるは無し。所謂、定朝、覺助、頼助、康助、康朝等也。

  せんぞ ごだい のかん かくじょ らいじょら のとき  おんてらえんじょう ことあ    いへど   だいぶっし おきなが  たにん  まった みほとけら  きんじ せし       な
 先祖五代之間、覺助頼助等之時、御寺炎上の事有ると雖も、大佛師を置乍ら他人は全く御佛等を勤仕令むるは無し。

  いはんや か かくじょ  らいじょ  ぼんそうのかん  みほとけぞうえい こと たてまつ  ごくようのとき   こうい  のぼ をはんぬ
 况、彼の覺助、頼助は凡僧之間、御佛造營の事を奉り、御供養之時綱位Kに昇り畢。

  いま  せいちょうそうでん れい まか   ぞうえいたてまつ べ のところ  た  ぶっしらおのおのらんぼう  いた    めんめん  ほうし せし
 今、成朝相傳の例に任せ、造營奉る可き之處、他の佛師等各々濫望を致し、面々に奉仕令む。

  しゅうたんのいた   たとえ と     ものな     これ  すなは  こへいけ  とき  そ  しょえん  つ  もう  う      のゆえなり
 愁歎之至り、喩を取るに物無し。是、則ち故平家の時、其の所縁に就き申し請くる之故也。

  ただ  そ  なか じょうちょう  でし   ごう    のやから あ    いへど   さら  ここ  せいちょうを ひかく  べからず
 但し其の中に定朝が弟子と号する之輩有りと雖も、更に茲の成朝於比肩す不可。

  じゅうだい い   きりょう   い     と   もち    のところ  だれ  ひきょ  い       そ   こつな     ば  うった もう  べからず
 重代と云ひ器量と云ひ、採り用いる之處、誰か非據と謂はん。其の骨無くん者、訴へ申す不可。

  とうじ みほとけほうしのやから しょうれつ たず  られ    そ   かく  な       か
 當時御佛奉仕之輩、勝劣を尋ね被ば、其の隱れ無からん歟。

  はや  せんしそうでん ことわり まか    もう  う      ごと    た  ぶっしら   ちょうじされ
 早く先師相傳の理に任せ、申し請くる如く、他の佛師等を停止被、

  せいちょういっこう みほとけ ぞうえい たてまつ べ  のよし  おお  くだされ    ほつ
 成朝一向に御佛を造營し奉る可し之由、仰せ下被んと欲す。

  なかんづく とうこんどうみほとけら  せいちょうせんげ まも  きんじ     のところ  かまくらどの  みどう  みほとけ ぞうえいたてまつ  よつ
 就中に東金堂御佛等、成朝宣下を守り勤仕する之處、鎌倉殿が御堂の御佛を造營奉るに依て、

  じょうちょう あからさま  かんとう  げこうのかん  いんしょう しょもう いた    きんじせし    うんぬん  こと も  じつ    ば   そ   おそ すくなからず
 成朝、白地Lに關東へ下向之間、院性M所望を致し、勤仕令むと云々。事若し實たら者、其の恐れ不少。

  どうり   まか  さいきょされ  ば  いよいよ せいり  ふきゅう  し     と   よつ  たいがいざいじょう ろく     ごんじょうくだん ごと
 道理に任せ裁許被れ者、弥、正理の不朽を知らん矣。仍て大概在状を勒して、言上件の如し。

参考K綱位は、僧綱位 法印、法眼、法橋  864年僧に与えられた位階で(1)法印大和尚位(ほういんだいかしようい)。(2)法眼和上位(ほうげんかしようい)。(3)法橋上人位(ほつきようしようにんい)の3階を設けた。俗官の位階と同様に成功(じようごう)による叙位や死後の贈位があり、また仏師、絵師、医師、儒者などにも僧位を与えることがあったが1873年に廃止された。
参考L白地には、突然に。
参考M
院性は、その音から院派の院尚だと思われる。

現代語そのほかに、奈良の大仏師の成朝が、勝長寿院の仏像を彫る為に鎌倉へ呼び寄せていたので、奈良の同輩の仏師が、彼の留守の隙を狙って大仏師の職をねだっていると嘆いてきたので、その訴えの手紙を取上げて、京都朝廷へ申し入れられました。その手紙に書いてあることは、

 仏師成朝が訴えている奈良の大仏師職について、云っていることがあっているのなら、言い分どおりに処理をするように願いたい。恐れながらも宜しく。
    三月二日               〔頼朝様の花押があります〕
   差し出します  師中納言殿
 奈良の大仏師の成朝が申し上げます。
 興福寺の仏像の政策を、早く他の仏師を辞めさせ、代々続いている慣習の通りに、一本に絞り成朝が作り奉仕するべきように
 その大仏師の職は、成朝が先祖伝来連綿と絶えることはありません。それは、定朝。覚助、頼助、康助、康朝なのです。先祖五代の間に、覚助や頼助の時に興福寺が炎上したことはあるけれども、大仏師の職を置いてて、他の仏師にやらせるようなことは全くありませんでした。もっとも覚助や頼助は位の無い坊主でしたが、仏像を作成した手柄により、開眼供養に坊主の位をもらいました。今、成朝が代々の例のとおり、造営すべき時ですが、他の仏師がそれぞれに職を濫りに望んで、それぞれ仏像造営をしています。嘆かわしいことこの上なく例えようもありません。これは、平家が南都焼き滅ぼしたので、それを復興するのを請け負ったからです。中には定朝の本流の弟子だと云う者もいるでしょうが、所詮この成朝と比較できるものではありません。代々引き継いできた格式といい、腕の良さといい、使ってみて誰がだめだと批難出来ましょうか。その家柄が無ければ文句をつけられません。今、仏像造営作業に従事している連中が、どちらが優れているかを調べてくれれば、はっきりとするでしょう。早く昔からの子弟伝来の慣習にあわせて、私が申し上げているように、他の仏師を止めさせて、成朝一人に仏像作成を命じると云って下さい。特に東金堂の仏像は、成朝が朝廷からの命を守って作仏中だったのですが、鎌倉殿から勝長寿院の仏像を作成するように命じられたので、突然に関東へ下ったので、院性が希望して勤めていると聞こえてきています。その事がもし本当なら、大仏師の称号を欲しがっている恐れがあります。従来の慣習にあわせて判断されなければ、それこそ正しい道筋が保たれることが分からなくなってしまいます。それなのでおおざっばではありますが申し上げることは以上の通りです。

文治二年(1186)三月小四日壬子。主水司供御料丹波國神吉。依補地頭職。有事煩之由。依訴申之。可被免除之旨。被遣御消息於北條殿。因幡前司〔廣元〕沙汰之。

読下し             もんどつかさ  くごりょう たんばのくにかみよし   ぢとうしき  ぶ     よつ    こと  わずら あ   のよし
文治二年(1186)三月小四日壬子。主水司@の供御料A丹波國神吉B、地頭職を補すに依て、事の煩い有る之由、

これ  うった  もう    よつ    めんじょさる  べ    のむね  ごしょうそこ をほうじょうどの つか さる   いなざのぜんじ 〔ひろもと〕 これ   さた
之を訴へ申すに依て、免除被る可し之旨、御消息C於北條殿に遣は被る。因幡前司〔廣元〕之を沙汰す。

参考@主水司は、律令制で、宮内省に属した官司。水、粥(かゆ)、氷室のことをつかさどった。もんどのつかさ。もいとりのつかさ。
参考A供御料は、主として天皇、皇后、皇族などの飲食物をいう語。のちには将軍の飲食物についてもいう。くぎょ。に当てる年貢を取る領地。
参考B神吉は、京都府南丹市八木町神吉(ナンタンシヤギチョウカミヨシ)。
参考C御消息は、お手紙。

現代語文治二年(1186)三月小四日壬子。宮内省の水や氷室を扱う主水司へ皇族の食物となる年貢の領地である丹波国の神吉に地頭を置かれ、年貢を横取りされたと訴えてきたので、地頭を廃止するように、手紙を北条時政殿へ出させました。大江広元が処理させました。

文治二年(1186)三月小六日甲申。召靜女。以俊兼盛時等。被尋問豫州事。先日逗留吉野山之由申之。太以不被信用者。靜申云。非山中。當山僧坊也。而依聞大衆蜂起事。自其所以山臥之姿。稱可入大峯之由入山。件坊主僧送之。我又慕而至一鳥居邊之處。女人不入峯之由。彼僧相叱之間。赴京方之時。在共雜色等取財寳。逐電之後。迷行于藏王堂云々。重被尋坊主僧名。申忘却之由。凡於京都申旨。与今口状頗依違。任法可召問之旨。被仰出云々。又或入大峯云々。或來多武峯後。逐電之由風聞。彼是間定有虚事歟云々。

読下し             しずかめ  め    としかね  もりときら   もつ    よしゅう  こと  じんもんさる
文治二年(1186)三月小六日甲申。靜女を召し、俊兼、盛時等を以て、豫州の事を尋問被る。

ぜんじつ よしのやま  とうりゅうのよし   これ  もう   はなは もつ  しんようされずてへ     しずかもう   い      さんちゅう あらず  とうさん そうぼうなり
先日、吉野山@に逗留之由、之を申す。太だ以て信用被不者れば、靜申して云はく。山中に非、當山の僧坊也。

しか    だいしゅほうき  こと  き     よつ    そ  ところよ やまぶしのすがた もつ    おおみね  い  べ   のよし  しょう  にゅうざん
而るに大衆蜂起の事を聞くに依て、其の所自り山臥之姿を以て、大峯Aに入る可き之由を稱し入山す。

くだん ぼうず  そうこれ おく    われまたした  て いちのとりいへん いた のところ にょにんにゅうぶせずのよし  か そうあいしか  のかん
件の坊主の僧之を送る。我又慕ひ而一鳥居邊に至る之處、女人入峯不之由、彼の僧相叱る之間、

きょう ほう  おもむ のとき   とも  あ   ぞうしきら ざいほう  と    ちくてんののち  ざおうどう に まよ  ゆ    うんぬん
京の方へ赴く之時、共に在る雜色等財寳を取り、逐電之後、藏王堂于迷い行くと云々。

かさ    ぼうずそう  な   たず らる     ぼうきゃくのよし もう
重ねて坊主僧の名を尋ね被る。忘却之由を申す。

およ  きょうと  をい  もう  むねと   いま こうじょうすこぶ たが  よつ    ほう  まか  めしと   べ   のむね  おお い   さる   うんぬん
凡そ京都に於て申す旨与、今の口状頗る違うに依て、法に任せ召問う可き之旨。仰せ出だ被ると云々。

また  ある    おおみね い   うんぬん   ある   たふのみね   きた    のち  ちくてんのよしふうぶん   かれこれ かん  さだ    きょじ あ  か  うんぬん
又、或ひは大峯に入ると云々。或ひは多武峯Bに來るの後、逐電之由風聞す。彼是の間、定めて虚事有る歟と云々。

参考@吉野山は、奈良県吉野町にある山地。吉野川の左岸から大峰山脈北端に向けて高まる約8キロメートルに及ぶ尾根続きの山稜の総称。桜と南朝の史跡で知られる。
参考A大峯は、大峯山寺は奈良県吉野郡天川村にある修験道の寺院である。大峯山の中心である山上ケ岳の山頂に建つ。女人禁制で毎年5月2日に戸開式、9月22日に戸閉式が行われる。世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の一部として登録されている。
参考B多武峰は、奈良県桜井市南部にある地区名。多武峰街道は談山神社から等弥神社を経て山の辺の道に接続する。元は談山神社の奥の院である談山妙楽寺の境内であったが、廃仏稀釈以降現在は談山神社となっている。西暦800年代、巻向山手地方にあった神武天皇の御霊を、同寺に移したとされる。1596年(慶長元年)、同寺は郡山に遷され、曹洞宗久松寺として現存する。ウィキペディアから

現代語文治二年(1186)三月小六日甲申。静御前を呼び出して、筑後権守俊兼、平民部烝盛時を使って、源九郎義経の事を質問しました。先日、吉野山に泊まっていたといいました。「山の中だなんてとても信じられない。」と言うと、静御前が言うのには「山の中とは云ってません。山の坊さんの居所です。しかし、僧兵達が源九郎義経を狙って攻撃してきそうなので、そこから山伏の格好に化けて、大峯へ入るといって山の中へ入っていきました。そこの坊主の僧兵が送っていきました。私も同様に付いて行こうとしたのに、女人禁制だから女は入るなとその坊主にしかられました。仕方ないので京都へ向かいかけたら、お供の雑用供が裏切って金品を盗って逃げ隠れてしまったので、迷いながら蔵王堂に着きました。」だとさ。続いて坊主の名前を尋ねたら「忘れてしまった。」と云いました。「どうも、京都で言ったと聞くことと、今の話が大分違うようなので、良く調べて聞き出すように。」と、仰せになられましたとさ。その他に大峯へ入ったとか、多武峰についた後で逃げ隠れたとか噂があるので、どれもこれもどうも嘘かもしれないなあーだとさ。

文治二年(1186)三月小七日乙酉。北條殿被申七ケ國地頭上表事。兵粮米事。没官所々事。已經奏聞畢之由。左少弁遣奉書於師中納言。彼卿又送其状於北條殿云々。
   時政申状 奏聞畢。
 一 地頭辞退事。爲人愁。停止之條尤爲穩便歟。
 一 惣追捕使事。雖替其名。只同前歟。但義經行家不出來以前。二位卿不申行之外。一向可被止之由。難被計仰。世間不落居之間。毎國置惣追補使。若又廣博庄園許計補者可宜歟。最狹少所々皆悉被補者。喧嘩不絶。訴訟不盡歟。且令散万人之愁。可爲尋出兩人之術歟。
 一 兵粮米未濟事。任道理尤可有沙汰歟。
 一 没官所々事。二位卿無申旨。仍不能被仰左右。
  以前條々。以此趣可被計仰歟。如此事不知子細事也。殊可令斟酌給。今春不勸農者。諸事有若亡歟。能々優如致沙汰者。定叶天意歟之由。内々御氣色候也。仍言上如件。
        三月七日                           左少弁定長
   進上  師中納言殿

読下し             ほうじょうどの もうさる   しちかこく   ぢとう  じょうひょう  こと   ひょうろうまい  こと   もっかん しょしょ  こと
文治二年(1186)三月小七日乙酉。北條殿が申被る七ケ國の地頭を上表の事、兵粮米の事、没官の所々の事。

すで  そうもん  へ  おをはんぬのよし さしょうべんほうしょを そちのちうなごん つか    かのきょうまた そ  じょうをほうじょうどの  おく  うんぬん
已に奏聞を經られ畢之由、左少弁奉書於師中納言に遣はす。彼卿又、其の状於北條殿に送ると云々。

  ときまさ もうしじょう  そうもん をはんぬ
 時政が申状、奏聞し畢。

  ひとつ  ぢとうじたい  こと  ひと  うれい ため  ちょうじのじょうもっと おんびん  な  か
 一 地頭辞退の事。人の愁の爲、停止之條尤も穩便と爲す歟。

  ひとつ  そうついぶし  こと  そ  な  かえ  いへど   ただまえ  おな  か
 一 惣追捕使の事。其の名を替る雖も、只前に同じ歟@

       ただ  よしつね  ゆきいえ い きたらずいぜん   にいきょう もう おこなはずのほか  いっこう  と  らる べ   のよし  はか おお られがた
   但し義經、行家出で來不以前は、二位卿申し行不之外、一向に止め被る可き之由、計り仰せ被難し。

       せけん らっきょせずのかん  くにごと  そうついぶし  お    も  またこうはく  しょうえんばか  はから ぶ   ば よろ    べ   か
   世間落居不之間、國毎に惣追補使を置き、若し又廣博Aの庄園許り計ひ補され者宜しかる可き歟。

       もっと きょうしょう しょしょみなことご ぶさる  ば  けんか  たえず  そしょう  つきずか
   最も狹少の所々皆悉く補被れ者、喧嘩は絶不、訴訟は盡不歟。

       かつう ばんにんのうれい ちら せし  りょうにん  たず  いだ  のすべたら  べ  か
   且は万人之愁を散さ令め、兩人を尋ね出す之術爲ん可き歟。

  ひとつ  ひょうろうまいみさい こと  どうり  まか  もつと  さた あ  べ  か
 一 兵粮米未濟の事。道理に任せ尤も沙汰有る可き歟。

  ひとつ  もっかん しょしょ  こと  にいきょうもう  むねな     よつ  とこう  おお  らる   あたはず
 一 没官の所々の事。二位卿申す旨無し。仍て左右を仰せ被るに不能。

   いぜん じょうじょう かく おもむき もつ はか  おお  らる  べ  か  かく  ごと  こと しさい しらざることなり   こと  しんしゃくせし たま  べ
 以前の條々。此の趣を以て計り仰せ被る可き歟。此の如き事子細を不知事也。殊に斟酌令め給ふ可し。

  こんしゅんかんのう せず ば しょじゆうじゃくぼう か   よくよくゆうじょ  さた   いた  ば    さだ    てんい  かな  かのよし   ないない みけしきそうろうなり
 今春勸農B不ん者、諸事有若亡C歟。能々優如の沙汰を致さ者、定めて天意に叶う歟之由、内々に御氣色候也。

  よつ ごんじょうくだん ごと
 仍て言上件の如し。

                  さんがつなぬか                                                                             さしょうべんさだなが
        三月七日                           左少弁定長

       しんじょう  そちのちゅうなごんどの
   進上  師中納言殿

参考@其の名を替る雖も、只前に同じ歟は、名前を変えても同じじゃないの。徴税者の地頭と保安の追補使との区別がついていない。
参考A廣博は、知識などが多方面にわたっている様。広い荘園を指している。
参考B勸農は、農業を勧める。
参考C
有若亡は、いうじゃくぼう:生きていてもほとんど死人に同じ。

現代語文治二年(1186)三月小七日乙酉。北条時政殿が申し出た、七カ国の地頭を辞退すること、兵糧米のこと、平家没官領のあちこちの事は、もう後白河法皇に伝えられましたと、左少弁定長が承って書いた文書を師中納言経房に渡しました。経房さんは同様に、その文書を北条時政殿に送られましたとさ。

 北条時政が申し出た事を後白河法皇に伝え終えました。
 一つ 地頭の辞退について。年貢を取られる人たちのために、止めることはとても穏便な態度である。
 一つ 総追補使について。それは名前を変えたって、地頭と同じじゃないのか。だって、源九郎義経や行家が出てこなければ、頼朝さんも何も やることは無いので、止めたほうがいいんじゃないかと考えられないのか。世間が落ち着かないのなら、国ごとに総追補使を置いたり、広い荘園だけに決めて任命するのが良いのではないか。狭いところに皆任命して置いたら、縄張り争いで喧嘩が絶えないので、揉め事が尽きないんではないか。そうすれば、庶民達の嘆きも少なく出来るし、義経や行家を見つけ出す方法にもなるんじゃないのか。
 一つ 兵糧米の未納について。人の道のことわりに従って、処理をしてほしい。
 一つ 没官領について。二位卿頼朝が特に意見が無いのなら、どうこう云うつもりは無い。
 以上のこと、この内容で検討をして欲しい。このような細かいことはいちいち取り立てて述べるつもりはないので、良く心情を汲み取ってください。今年の春に兵糧米を取り立てて種籾が足りなくなれば、農業を進める事が出来なくなるので、一事が万事有名無実となってしまうから、労わりの心をもって処理をすれば、さぞかし天やお上の意思に叶うことになる。それが本当の院のお心であることは、このとおりです。
                      三月七日                                     左少弁定長
     差し上げます 師中納言殿

文治二年(1186)三月小八日丙戌。源藏人大夫頼兼愁申丹波國五箇庄事。二品可令執申京都給之由。及御沙汰。是入道源三位卿〔頼政〕家領也。治承四年有事之後。屋嶋前内府〔宗盛〕知行之。今度没官領内被付頼兼。而可爲 仙洞御領之由有仰歟。

読下し             みなもとのくらんどたいふよりかね たんばのくにごかのしょう こと うれ もう
文治二年(1186)三月小八日丙戌。源藏人大夫頼兼、丹波國五箇庄@の事を愁い申す。

にほん  きょうと  と  もう  せし たま べ   のよし  おんさた  およ    これ にゅうどうげんざんみのきょう 〔 よりまさ 〕    かりょうなり
二品、京都へ執り申さ令め給ふ可し之由、御沙汰に及ぶ。是、入道源三位卿〔頼政〕が家領也。

じしょうよねん ことあ   ののち  やしまのさきのさいふ 〔むねもり〕  これ  ちぎょう  このたび  もっかんりょう うち よりかね ふさる
治承四年事有る之後、屋嶋前内府〔宗盛〕之を知行す。今度、没官領の内頼兼に付被る。

しか    せんとうごりょうたるべ  のよし おお  あ  か
而るに仙洞御領爲可し之由仰せ有る歟。

参考@五箇庄は、旧京都府船井郡日吉町(古五ケ荘村)で、現在の京都府南丹市日吉。平家落人伝説がある。

現代語文治二年(1186)三月小八日丙戌。源蔵人大夫頼兼が、所領の丹波国五箇庄の事で嘆いてきました。頼朝様は、京都へ申し入れる事に、決められました。ここは、入道源三位頼政の家に伝わる領地です。治承四年に反乱を起こして平家に滅ぼされた後は、屋島に居た内大臣平宗盛の領地なっていました。今回平家から取上げた「平家没官領」の内から源蔵人大夫頼兼に与えられました。それなのに、後白河法皇が自分の領地だと言い出したからなんです。

文治二年(1186)三月小九日丁亥。武田太郎信義卒去〔年五十九〕元暦元年。依子息忠頼反逆。蒙御氣色。未散其事之處。如此云々。

読下し             たけだのたろうのぶよし そっきょ 〔 としごじうく 〕 
文治二年(1186)三月小九日丁亥。武田太郎信義卒去〔年五十九〕

げんりゃくがんねん しそく ただより  はんぎゃく よつ   みけしき  こうむ   いま  そ  こと  さん    のところ  かく ごと   うんぬん
元暦元年、子息忠頼の反逆に依て、御氣色を蒙り、未だ其の事を散ぜず之處、此の如しと云々。

参考子息忠頼の反逆は、武田太郎信義は頼朝追討の院宣を内緒で与えられ握りつぶそうとしたが、一條次郎忠頼が積極的だった事が頼朝にばれて、忠頼は元暦1年(1184)6月16日御所の頼朝の前で暗殺された。

現代語文治二年(1186)三月小九日丁亥。武田太郎信義が亡くなりました〔年は数えの五十九です〕。元暦元年(1184)六月十六日に武田党期待の星、倅の一条次郎忠頼の謀反で、頼朝様のお怒りに触れたまま、未だにその許しを受ける事が出来ずにいましたが、結局そのまま亡くなりました。

文治二年(1186)三月小十日戊子。伊勢太神宮領地頭等之中。乃貢已下事。可致精勤之由。日來有其沙汰。今日被施行之。御信仰異他故也。
 下 伊勢國神宮御領御園御厨地頭等
  可早任先例辨備御上分神役并給主祢宜得分物事
 右當國神領神民之中。令停止狼藉。有限御上分雜事。并給主祢宜神主得分物。不致對捍。任先例可令弁備也。若依處之異損。泥本法之弁者。雖地頭得分。慥可令立用正物。於神役者。敢不可闕乏之故也者。御園御厨住人。宜承知不可緩怠之状如件。
    文治二年三月十日

読下し             いせのだいじんぐうりょう  ぢとうら の なか  のうぐ  いか   こと  せいきんいた  べ   のよし  ひごろ そ   さた あ
文治二年(1186)三月小十日戊子。伊勢太神宮領の地頭等之中、乃貢已下の事、精勤致す可し之由、日來其の沙汰有り。

きょう これ  せぎょうさる   ごしんこう ことなる ほか ゆえなり
今日之を施行被る。御信仰異の他の故也。

   くだ    いせのくにじんぐうごりょう みその みくりや  ぢとうら
 下す 伊勢國神宮御領御園@御厨Aの地頭等

     はやばや せんれい まか  ごじょうぶん しんえきなら  きゅうしゅ  ねぎ  とくぶん  もの  べんび すべ   こと
  早々と先例に任せ御上分の神役并びに給主、祢宜の得分の物を辨備可きの事

  みぎ   とうごくしんりょうしんみんのなか   ろうぜき  ちょうじせし   かぎ  あ  ごじょうぶん  ぞうじ   なら   きゅうしゅ   ねぎ  かんぬし  とくぶん  もの
 右は、當國神領神民之中、狼藉を停止令め、限り有る御上分の雜事、并びに給主、祢宜、神主の得分の物、

  たいかんいたさず せんれい まか  べんびせし べ  なり
 對捍致不、先例に任せ弁備令む可く也。

  も  ところのいそん  よつ   ほんぽうのわきまえ なずむ ば  ぢとうとくぶん  いへど   たしか しょうもつ りつようせし べ
 若し處之異損Bに依て、本法之弁を泥C者、地頭得分Dと雖も、慥に正物を立用令む可し。

  しんやく  をい  は  あえ  けつぼう  べからずのゆえなりてへ     みその  みくりや  じゅうにん よろ    しょうち     けたい  べからずのじょう くだん ごと
 神役に於て者、敢て闕乏す不可之故也者れば、御園、御厨の住人、宜しく承知し、緩怠す不可之状、件の如し。

         ぶんじにねんさんんがつとおか
    文治二年三月十日

参考@御園は、畑の荘園。
参考A
御厨は、伊勢神宮を領家とした稲の荘園。
参考B異損は、不作。
参考C
泥(なずむ)は、進まない
参考D
地頭得分は、反別五升。

現代語文治二年(1186)三月小十日戊子。伊勢神宮を領家とする領地の地頭達へ、年貢などの納付をきちんとするように、普段から検討していましたが、今日これを交付しました。それは、伊勢神宮へのご信仰は他の神社とは違い、一段と熱心だからです。

 命令する 伊勢国の伊勢神宮の領地である御園(畑)御厨(田)を管理している地頭達へ
 さっさと先例どおりに納付分の神様への勤労奉仕、斉宮、禰宜の取り分に属している物を運び納付すること
 右の内容は、伊勢国の神様への年貢の領地や神様への年貢を納める農民に対して、横取りや強制労働を止め、神様の物であると決められている雑事、それと斎宮、禰宜、神主の取り分を怠らずに、今までの例の通りに用意をして納めること。もし、そこの田畑が不作のために、本来納める分が滞れば、地頭得分の反別五升からであろうとも、本来の納付分に立て替えなさい。神様に奉仕することは、絶対に怠ってはいけないとおっしゃられておりますので、御園や御厨を管理している武士達は、これを承知して、怠ることの無いように命令するのはこの通りである。
    文治二年三月十日

文治二年(1186)三月小十二日庚寅。小中太光家爲使節上洛。是左典厩賢息〔二品御外姪〕依可令加首服給。被獻御馬三疋。長持〔被納砂金絹等〕二棹之故也。」又關東御知行國々内乃貢未濟庄々注文被下之。今日到來。召下家司等可加催促給之由云々。
  注進 三箇國庄々事〔下総 信濃 越後等國々注文〕
   合
 下総國
 〔殿下御領〕                    〔同〕
  三崎庄                       大戸神崎
                           〔三井寺領〕
  千田庄                       玉造庄
 〔熊野領〕                     〔成就寺領〕
  匝嵯南庄                      印東庄
 〔延暦寺〕                     〔八條院御領〕
  白井庄                       千葉庄
 〔院御領〕                     〔同前〕
  船橋御厨                      相馬御厨
 〔八條院御領〕                   〔按察使家領〕
  下河邊庄                      豊田庄〔号松岡庄〕
 〔二位大納言〕
  橘并木内庄                     八幡
 信濃國
 〔尊勝寺領〕                    〔上西門院御領〕
  伊賀良庄                      伴野庄
 〔殿下〕
  郡戸庄                       江儀遠山庄
                           〔八條院御領〕
  大河原鹿塩                     諏方南宮上下社
  同上下社領〔白川郷〕                小俣郷 熊井郷
 〔殿下〕                      〔宗像少輔領〕
  落原庄                       大吉祖庄
 〔無庄号字之由今度尋搜之處新爲諏方上下社領〕    〔八條院御領〕
  黒河内藤澤 〔仍不随國衙進止〕           捧中村庄
                           〔蓮華王院御領〕
  捧北條庄                      洗馬庄
                           〔太神宮御領〕
  相原庄                       麻續御厨
 〔院御領〕                     〔同前〕
  住吉庄                       野原庄
 〔元大弁師能領 近年忠C法師領〕          〔雅樂頭濟盆領〕
  大穴庄                       前見庄
 〔太神宮御領〕                   〔八幡宮御領〕
  仁科御厨                      小谷庄
 〔御室御領〕                    〔同前〕
  石河庄                       四宮庄南北
  布施本庄                      布施御厨
                           〔三井寺領〕
  富都御厨                      善光寺
 〔天台山末寺〕                   〔證菩提院領〕
  顯光寺                       若月庄
 〔殿下御領〕                    〔上西門院御領〕
  太田庄                       小河庄
 〔御室御領〕                     〔院御領〕
  丸栗庄                       弘瀬庄
 〔八條院御領〕                    〔院御領〕
  小曾祢庄                      市村庄
 〔殿下御領〕
  芋河庄                       瀧寺
                           〔天台末寺〕
  安永勅旨                      月林寺
 〔松尾社領〕
  今溝庄                       善光寺領 〔阿居 馬嶋 村山 吉野〕
                           〔八條院御領〕
  天台山領小市                    東條庄
                           〔九條城興寺領〕
  保科御厨                      橡原御庄
                           〔日吉社領〕
  同加納屋代四ケ村                  浦野庄
 〔殿下御領〕                    〔九條城興寺領〕
  英多庄                       倉科庄
 〔最勝光院領〕                   〔一條大納言家領〕
  塩田庄                       小泉庄
 〔八條院御領〕                    〔殿下御領〕
  常田庄                       海野庄
 〔前齋院御領〕
  依田庄                       穀倉院領
 〔院御領〕                      〔六條院〕
  佐久伴野庄                     千國庄
 〔前堀河源大納言家領〕                〔八條院御領〕
  桑原餘田                      大井庄
 〔今八幡宮領〕
  平野社領〔浅間社 岡田郷〕
  左馬寮領
   笠原御牧     宮所       平井弖     岡屋
   平野       小野牧      大塩牧     塩原
   南内       北内       大野牧     大室牧
   常盤牧      萩金井      高井野牧    吉田牧
   笠原牧〔南條〕  同北條      望月牧     新張牧
   塩河牧      菱野       長倉      塩野
   桂井       緒鹿牧      多々利牧    金倉井
 越後國
 〔院御領〕                      〔上西門院御領〕
  大槻庄                        福雄庄
 〔高松院御領〕                    〔鳥羽十一面堂領〕
  海庄                        大面庄
 〔新尺迦堂領 預所中御門大納言〕           〔東大寺〕
  小泉庄                        豊田庄
 〔六條院領 一條院女房右衛門佐局沙汰〕         〔殿下御領〕
  佐橋庄                        白河庄
 〔殿下御領〕                     〔穀倉院領〕
  奥山庄                        比角庄
 〔前齋院御領 預所前治部卿〕             〔殿下御領〕
  宇河庄                        大嶋庄
 〔八條院御領〕                    〔高松院御領〕
  白鳥庄                        吉河庄
 〔金剛院領 黒河大納言家沙汰〕            〔賀茂社領〕
  加地庄                        石河庄
 〔院御領 預所備中前司信忠〕             〔鳥羽十一面堂領 預所大宮大納言入道家〕
  於田庄                        佐味庄
 〔六條院領 預所隱岐判官代惟繁〕
  菅名庄                        波多岐庄
 〔殿下御領 預所播磨局〕               〔二位大納言家領〕
  紙屋庄                        弥彦庄
 〔二位大納言家領〕                  〔前齋院御領〕
  志度野岐庄                      大神庄
 〔上西門院御領 預所木工頭〕
  中宮
 右注進如件
   文治二年二月 日

読下し              こちゅうたみついえ しせつ な   じょうらく
文治二年(1186)三月小十二日庚寅。小中太光家使節と爲し上洛す。

これ  さてんきゅう  けんそく 〔にほん おんそとおい〕 しゅふく  くは  せし たま べ    よつ
是、左典厩が賢息〔二品の御外姪〕首服を加へ令め給ふ可しに依て、

おんうまさんびき ながもち 〔 さきん きぬら  おさ らる 〕 ふたさお  けん  らる   のゆえなり
御馬三疋、長持〔砂金絹等を納め被る〕二棹を獻ぜ被る之故也。」

現代語文治二年(1186)三月小十二日庚寅。小中太光家が派遣員として京都へ上りました。それは、左典厩一条能保様の息子さん〔頼朝様の甥〕が元服式をなされるからで、馬を三頭、長持〔砂金や絹を入れてあります〕二棹をお送りになられたからです。

また  かんとうごちぎょうこく こくないのうぐ みさい しょうしょう ちうもん  これ  くだ  らる   きょう とうらい
又、關東御知行國々内乃貢未濟の庄々の注文、之を下さ被る。今日到來す。

 かし ら   め   くだ  さいそく  くは  たま  べ   のよし  うんぬん
家司等に召し下し催促を加へ給ふ可し之由と云々。

現代語一方、京都朝廷から、頼朝様が支配なされている国の年貢が未納の荘園等の書き出した名簿をよこしましたのが、今日到着しました。そこで官吏事務の人たちに通知をして、催促をするようにと命じられましたとさ。

    ちゅうしん   さんかこく しょうしょう  こと 〔 しもふさ  しなの  えちごら  くにぐに  ちゅうもん〕
  注進す 三箇國の庄々の事〔下総、信濃、越後等の國々の注文〕

      あは
   合せて

   しもふさのくに
 下総國

    みさきのしょう 〔でんかごりょう 〕               おおど  こうざき  〔おなじ〕
  三崎庄〔殿下御領@       大戸、神崎〔同〕

参考三崎庄は、海上郡三崎村本郷で千葉県銚子市、旭市。(以下の地名調べには堀田璋左右先生の注釈を基本に調べた。)
参考大戸は、千葉県香取市大戸に大戸神社あり成田線「大戸駅」。
参考
神崎は、千葉県香取郡神崎町。大戸の西隣。成田線「下総神崎駅」。
参考@殿下御領は、藤原家の氏の長者領。近衛基道。殿下渡領を渡さずに済んだので、経済的実力が残ったので、兼実は経済基盤が弱くて後に失脚していく。

     ちだのしょう                          たまつくりのしょう 〔みいでらりょう〕

  千田庄            玉造庄〔三井寺領〕

参考千田庄は、旧香取郡千田村。千葉県香取郡多古町千田。
参考
玉造庄は、旧香取郡南玉造村。千葉県香取郡多古町南玉造。

     そうさみなみのしょう 〔くまのりょう〕             いんとうのしょう 〔じょうじゅじりょう〕

  匝嵯南庄〔熊野領〕      印東庄〔成就寺領〕

参考匝瑳南庄は、旧匝瑳郡小篠村。千葉県匝瑳市。
参考印東庄は、印旛沼の東。千葉県印旛郡酒々井町。

    しらいのしょう 〔えんりゃくじ〕                 ちばのしょう 〔はちじょういんりょう〕
  白井庄〔延暦寺〕        千葉庄〔八條院A御領〕

参考白井庄は、旧香取郡神里村白井。香取市白井。
参考千葉庄は、千葉県千葉市全域。
参考A八条院は、鳥羽天皇の娘で名はワ子内親王(後白河の腹違いの妹)。

    ふなばしのみくりや 〔いんごりょう〕              そうまのみくりや 〔まえにおなじ〕
  船橋御厨〔院御領〕       相馬御厨〔同前〕

参考船橋御厨は、夏見御厨とも云い、千葉県船橋市船橋、船橋市夏見。
参考相馬御厨は、旧相馬郡泉、千賀、布施、藤意、野毛崎、黒崎、横須賀村。現在の茨城県取手市(除く旧藤代町久賀)、守谷市、利根町。常総市南部、龍ヶ崎市南部、つくばみらい市西部と千葉県我孫子市、柏市の一部(旧富勢村、沼南町)

    しもこうべのしょう 〔はちじょういんりょう〕           とよだのしょう 〔まつおかのしょう ごう〕  〔 あぜちけりょう 〕
  下河邊庄〔八條院御領〕     豊田庄〔松岡庄と号す〕〔按察使家領〕

参考下河邊庄は、埼玉県栗橋市、古河市、幸手市、杉戸町、庄和町、春日部市、吉川市、三郷市、石岡市、小美玉市(旧小川町三里町玉里村)、松伏町、旧千代田村(現土浦市内)。
参考豊田庄〔松岡庄と号す〕は、旧豊田郡松岡村。茨城県水海道市豊岡町付近。1896郡設置で豊田郡は結城郡に。1954豊田村は結城郡石下町へ合併。2006石下町は水海道市と供に常総市へ編入。以上から茨城県常総市豊岡町。

    たちばな なら きうちのしょう 〔にいだいなごん〕      はちまん
  橘并びに木内庄〔二位大納言〕  八幡

参考は、東荘とも云われ、千葉県香取郡東庄町。
参考木内庄は、千葉県香取市木内に木内神社あり。旧香取郡小見川町。
参考八幡は、旧葛飾郡八幡、若宮、北方、菅谷、秋山村。千葉県市川市八幡、若宮、北方。松戸市秋山。

  しなののくに
 信濃國

    いがらのしょう  〔そんしょうじ りょう〕              ともののしょう 〔じょうさいもんいん ごりょう〕
  伊賀良庄〔尊勝寺B領〕      伴野庄〔上西門院C御領〕

参考伊賀良庄は、信州伊那郡。長野県飯田市北方3872-1に伊賀良小学校あり。同市上殿岡に伊賀良斎場あり。以上から飯田市の飯田インター周辺。
参考伴野庄は、旧下伊那郡神稲村(くましろむら)の小字。神稲村と河野村が合併して長野県下伊那郡豊丘村神稲伴野原。
参考B尊勝寺は、六勝寺のひとつで、堀河天皇(1079〜1107)の御願寺。康和4(1102)年に落慶供養が行われ、方四町の敷地には様々な堂舎が建てられた。創建後、たびたび災難に遭ったが、そのつど修復された。しかし、南北朝の内乱期に兵火で全焼したと伝えられる。左京区最勝寺町(京都会館前)にその跡を示す石標。参考六勝寺とは,院政期,天皇や中宮の発願で鴨川東岸の白河(現左京区岡崎)の地に建立された6つの寺院。いずれも「勝」の字がつくので六勝寺と総称されました。
 法勝寺(ほっしょうじ)は白河天皇御願。承暦元(1077)年落慶供養。
 尊勝寺(そんしょうじ)は堀河天皇御願。康和4(1102)年落慶供養。
 最勝寺(さいしょうじ)は鳥羽天皇御願。元永元(1118)年落慶供養。
 円勝寺(えんしょうじ)は鳥羽天皇中宮待賢門院藤原璋子御願。大治3(1128)年落慶供養。
 成勝寺(せいしょうじ)は崇徳天皇御願。保延5(1139)年落慶供養。
 延勝寺(えんしょうじ)は近衛天皇御願。久安5(1149)年落慶供養。
参考C上西門院は、後白河法皇の姉。上西門院。

    ごおどのしょう 〔でんか〕                  えぎとおやまのしょう
  郡戸庄〔殿下D         江儀遠山庄

参考郡戸庄は、下伊那郡高森町らしい。
参考
江儀遠山庄は、単に「遠山庄」ともいわれ、南信濃村史『遠山』によれば、遠山の古名「江儀遠山庄」の名の由来となった江儀岳は、池口岳ではないかとのこと。美濃の「遠山」と区別するため、信濃の「遠山」は江儀を冠して「江儀遠山」と呼んだものらしい。長野県飯田市南信濃和田に遠山中学校あり。一方下伊那郡阿南町とも言われる。
参考D
殿下は、藤原氏惣領家で近衛基道。

    おおかわら かしお                      すわなんぐうじょうげしゃ 〔はちじょういんごりょう〕
  大河原鹿塩          諏方南宮上下社〔八條院御領〕

参考大河原鹿塩は、長野県伊那郡大鹿村鹿塩。
参考諏方南宮上下社は、諏訪大社。諏訪湖の南側に上社(かみしゃ)本宮、前宮の2宮、北側に下社(しもしゃ)春宮、秋宮の2宮があり、計4つの宮から成る。社殿の四隅に御柱(おんばしら)と呼ぶ木の柱が立っているほか社殿の配置にも独特の形を備えている。別名を南宮とも言い、諏訪大社、南宮大社敢国神社の3社は何らかの関係がある様で、諏訪大社を本山、南宮大社を中の宮、敢国神社を稚(おさな)き児の宮と呼ぶという。ウィキペディアから。

    どうじょうげしゃりょう 〔しらかわごう 〕              おまたごう   くまいごう
  同上下社領〔白川郷〕      小俣郷 熊井郷

参考白川郷は、松本市寿豊丘白川。
参考小俣郷は、東筑摩郡笹賀村。現長野県松本市笹賀(ささが)に小俣観音堂、小俣研修センターの名あり。その南に上小俣公民館もある。
参考熊井郷は、塩尻市片丘。明治7年(1874)に中挟、南熊井、北熊井、南内田、北内田が合併して片丘村となり、昭和34年に塩尻市となった。

    おちはらのしょう 〔でんか〕                  おきそのしょう 〔むなかたしょうゆうりょう〕
  落原庄〔殿下〕         大吉祖庄〔宗像少輔領〕

参考落原庄は、蕗原庄の間違いらしい。蕗原庄は信濃国伊那郡で旧朝日村川島村伊那富村。現辰野町。
参考大吉祖庄は、旧西筑摩郡木祖村と思われ、その昔美濃国恵那郡檜上郷に属していたらしい。現木曽郡木祖村。

     〔 しょうごうあざな  のよし  このたびたず さが のところあら   すわしゃじょうげしゃりょう  な〕    くろこうち ふじさわ  〔よつ こくが しんじ したがわず〕
  〔庄号字無き之由、今度尋ね搜す之處新たに諏方上下社領と爲す〕黒河内・藤澤〔仍て國衙の進止に不随〕

参考黒河内は、長野県伊那市長谷黒河内。
参考藤澤は、長野県伊那市高遠町藤沢。

    ささげなかむらのしょう 〔はちじょういんごりょう〕
  捧中村庄〔八條院御領〕

参考捧中村庄は、捧庄(ささげのしょう)が平安時代に松本市に置かれた説有り。

    ささげほうじょうのしょう                     せまのしょう 〔れんげおういん ごりょう〕
  捧北條庄            洗馬庄〔蓮華王院E御領〕

参考洗馬庄は、長野県塩尻市宗賀に「洗馬駅(せばえき)」あり。中仙道の31番目の宿場。
参考E蓮華王院は、三十三間堂。よって後白河法皇がピンはねをするので法皇の領地でもある。

    あいはらのしょう                         おみのみくりや 〔だいじんぐうごりょう〕
  相原庄            麻續御厨〔太神宮御領〕

参考相原庄は、信州には相原の地名が見当たらない。吉川本では桐原庄と書かれ、右肩に「相」の文字がついている。そこで、長野県の「桐原」で探すと@長野市桐原。A松本市入山辺東桐原、西桐原。Bに北佐久郡立科町桐原がある。前後からAの松本市内と思われる。
参考麻續御厨は、長野県東筑摩郡麻積村。

    すみよしのしょう〔いんごりょう〕                 やはらのしょう 〔まえにおなじ〕
  住吉庄〔院御領〕        野原庄〔同前〕

参考住吉庄は、安曇郡三郷村、梓川村、豊科町のそれぞれの一部。
参考野原庄は、旧南安曇郡穂高町字矢原で、現安曇野市穂高。

    おおなのしょう〔もとだいべんもろよしりょう きんねんただきよほっしりょう〕 さきみのしょう〔うたのかみさいぼんりょう〕
  大穴庄〔元大弁師能領 近年忠C法師領〕 前見庄〔雅樂頭濟盆領〕

参考大穴庄は、旧東筑摩郡明科町で、現安曇野市明科。
参考前見庄は、花見庄らしい。北安曇郡に花見あり。北安曇郡池田町会染花見。又は大町市平中花見。松本市内田花見。

    にしなのみくりや 〔だいじんぐうごりょう〕          おはつせのしょう 〔はちまんぐうごりょう〕
  仁科御厨〔太神宮御領〕     小谷庄〔八幡宮御領〕

参考仁科御厨は、旧北安曇郡社村。昭和29年に大町市に合併。長野県大町市社に仁科神社あり。
参考小谷庄は、旧更級郡塩崎村。1959篠ノ井市に合併。1966長野市に合併。長野市篠ノ井塩崎。音からだと小長谷部(おはつせべ)の長が抜けたとも考えられるが、場所は特定できない。

    いしかわのしょう 〔おむろごりょう〕              しのみやのしょう なんぼく 〔まえにおなじ〕
  石河庄〔御室御領〕       四宮庄南北〔同前〕

参考石河庄は、旧更級郡川柳村。1950篠ノ井町新設。1959篠ノ井市に。1966長野市に合併。長野市篠ノ井二ツ柳か?
参考四宮庄は、長野市篠ノ井塩崎の中郷神社そばに四野宮公民館がある千曲市大字桑原。

    ふせほんじょう                         ふせのみくりや
  布施本庄           布施御厨

参考布施本庄は、旧更級郡布施五明村と布施高田村が1889合併して布施村に、1914篠ノ井町。篠ノ井市を経て長野市へ。長野市篠ノ井布施
参考布施御厨は、旧更級郡御厨村。1955中津村と合併して川中島町となる。1966長野市へ合併。長野市篠ノ井山布施から布施高田付近に布施御厨があった。

    とべのみくりや                         ぜんこうじ  〔みいでらりょう 〕
  富都御厨           善光寺〔三井寺領〕

参考富都御厨は、長野市川中島町御厨から戸部付近一帯が富部御厨。
参考善光寺は、旧上水内郡芋井村。1954長野市へ合併。現長野市桜に芋井中学あり。普光寺なら長野県上水内郡飯綱町普光寺。

    けんこうじ  〔てんだいさんまつじ〕            わかつきのしょう 〔しょうぼだいいん りょう〕
  顯光寺〔天台山末寺〕      若月庄〔證菩提院F領〕

参考顯光寺は、旧水内郡戸隠山の別当。戸隠山顕光寺は廃寺。光前寺、善光寺、佐久津金寺、更科八幡宮寺(廃寺)と供に天台宗信濃五山だった。戸隠神社
参考若月庄は、信濃水内郡岩槻庄で、長野県長野市上野2丁目に若槻養護学校の名あり。若槻村は1954長野市に編入。
参考F證菩提院は、大日本史の堀川天皇の項に中右記からの記事として「建證菩提院」とあるが不明。

    おおたのしょう 〔でんかごりょう〕               おがわのしょう 〔じょうさいもんいんごりょう〕
  太田庄〔殿下御領〕       小河庄〔上西門院御領〕

参考太田庄は、旧上水内郡鳥居村。1954鳥居村と神郷村が合併して豊野村に、後町に昇格、2005長野市に編入。長野県長野市豊野町豊野らしい。
参考小河庄は、長野県上水内郡小川村。

    まるくりのしょう 〔おむろごりょう〕               ひろせのしょう 〔いんごりょう〕
  丸栗庄〔御室御領〕       弘瀬庄〔院御領〕

参考丸栗庄は、長野県長野市七ニ会(ナニアイ長野市西部)のあたりから、上水内郡中条村住良木上奈良井、下奈良井、峰奈良井あたりまでらしい。
参考弘瀬庄は、上水内郡芋井村広瀬。長野市広瀬に廣瀬神社あり。

    こそねのしょう 〔はちじょういんごりょう〕           いちむらのしょう 〔いんごりょう〕
  小曾祢庄〔八條院御領〕     市村庄〔院御領〕

参考小曾祢庄は、長野県長野市中曽根かもしれない。
参考
市村庄は、長野市市町らしい。

    いもかわのしょう 〔でんかごりょう〕              せいりゅうじ
  芋河庄〔殿下御領〕       瀧寺

参考芋河庄は、長野県上水内郡飯綱町芋川。参考瀧寺は、不明。

    あんえいちょくし                        がちりんじ 〔てんだいまつじ〕
  安永勅旨            月林寺〔天台末寺〕

参考安永勅旨は、安永は佐久郡安原。長野県佐久市安原。
参考月林寺は、比叡山の寺のひとつ。梅若丸伝説の寺。荘園地は不明。

    いまみぞのしょう 〔まつおしゃりょう〕            ぜんこうじりょう  〔 あい   ましま   むらやま  よしの 〕
  今溝庄〔松尾社G領〕       善光寺領〔阿居、馬嶋、村山、吉野〕

参考今溝庄は、倭名類聚鈔によると「水内郡」内とあるが不明。長野市中村、高田らしい。
参考阿居は、川合の間違いなら、更級郡眞島村河合で長野市真島町川合。又は、長野市三輪相ノ木かもしれない。
参考馬嶋は、更級郡眞島村眞島で長野市真島町真島。
参考村山は、信濃国村山庄、長野市村山。
参考
吉野は、長野市塩生甲吉野かもしれない。古野の間違いなら長野市三輪に「古野」の古名があるらしい。
参考G
松尾社は、京都府京都市西京区嵐山宮町3の松尾大社。

    てんだいさんりょうこいち                    とうじょうのしょう 〔はちじょういんごりょう〕
  天台山領小市          東條庄〔八條院御領〕

参考天台山領小市は、長野市安茂里小市(あもりこいち)らしい。
参考東條庄は、長野県長野市松代町東条らしい。

    ほしなのみくりや                        とちはらのおんしょう 〔くじょうじょうこうじ りょう〕
  保科御厨            橡原御庄〔九條城興寺H領〕

参考保科御厨は、旧上高井郡保科村で、長野市若穂保科。
参考橡原御庄は、橡の文字は「とちの木」をあらわすので長野市戸隠栃原かもしれない。
参考H九條城興寺は、京都府京都市南区東九条烏丸町7-1。平安時代末期には、以仁王がこの寺の寺領を領していたが、治承3年(1179年)平氏政権によってとりあげられた。このことが以仁王の乱の原因のひとつとされる。平氏滅亡後、城興寺は以仁王の子真性にうけつがれ、16世紀の記録によると寺領は比叡山不動院の管理下にあったことがしられる。ウィキペディアから

    どうかのうやしろよんかそん                  うらののしょう 〔ひえしゃりょう 〕
  同加納屋代四ケ村        浦野庄〔日吉社I領〕

参考同加納屋代四ケ村は、長野県千曲市屋代。
参考浦野庄は、信州小県郡浦里村大字浦野で現長野県上田市大字浦野。
参考I日吉社は、日吉山王神社。現山王総本宮日吉大社。境内は、比叡山系の最高峰、大比叡峰の東方に位置する八王子山(牛尾山)を含む山麓の13万坪ある。

    あがたのしょう 〔でんかごりょう 〕              くらしなのしょう 〔くじょうじょうこうじりょう〕
  英多庄〔殿下御領〕       倉科庄〔九條城興寺領〕

参考英多庄は、植科郡松代町。現長野県長野市松代町東条西条のあたりらしい。
参考
倉科庄は、長野県千曲市倉科。

    しおだのしょう 〔さいしょうこういんりょう〕          こいずみのしょう 〔いちじょうだいなごんけ りょう〕
  塩田庄〔最勝光院領〕      小泉庄〔一條大納言家J領〕

参考塩田庄は、信濃国小県郡塩田庄で、長野県上田市の上田駅から別所温泉までの別所線の沿線一帯。京都の最勝光院(当時は東寺の末寺)という寺の庄園であったが、この土地の重要性に目をつけた頼朝は、自分のもっとも信頼する惟宗忠久(後に島津忠久といい、薩摩藩主島津氏の祖となる)を、塩田庄の地頭に任命してこの地方一帯を支配させたのである。
参考最勝光院は、後白河法皇が造営した御所で三十三間堂そばにあった。
参考小泉庄は、小県郡泉田村大字小泉及び室賀村で、現在の上田市小泉と上室賀、下室賀。
参考J一條大納言家は、藤原良通で兼実の一男。

    ときだのしょう 〔はちじょういんごりょう〕           うんののしょう 〔でんかごりょう〕
  常田庄〔八條院御領〕      海野庄〔殿下御領〕

参考常田庄は、小県郡県村大字常田で現在の上田市常田。
参考海野庄は、小県郡県村大字本海野で、現在の東御市本海野(トウミシモトウウンノ)。海野小太郎幸氏の故郷か?

    よだのしょう 〔さきのさいいん ごりょう〕            こくそういんりょう
  依田庄〔前齋院K御領〕      穀倉院領L

参考依田庄は、小県郡丸子村大字腰越、依田村飯沼。上田市上丸子、中丸子、下丸子。上田市生田に依田保育園と飯沼神社あり。
参考K前齋院は、礼子内親王。
参考L穀倉院は、コクソウイン。場所は二条の南で朱雀の西。民部省附属の令外官の役所。畿内諸国の調銭と諸国の無主位職田、没官田などの産物を納めた倉庫の役所。年中内廷行事の膳仕度などにも従事。但し領地の場所は不明。

    さくとものしょう 〔いんごりょう〕                 ちくにのしょう 〔ろくじょういん〕
  佐久伴野庄〔院御領〕      千國庄〔六條院M

参考佐久伴野庄は、長野県佐久市伴野。
参考千國庄は、長野県北安曇郡小谷村大字千国。
参考M
六條院は、後白河院の法華堂。

    くわばらよだ  〔さきのほりかわげんだいなごんけ りょう〕  おおいのしょう〔はちじょういんごりょう〕
  桑原餘田〔前堀河源大納言家N領〕 大井庄〔八條院御領〕

参考桑原餘田は、長野県千曲市桑原。
参考大井庄は、北佐久郡岩村田町。1954北大井村等が合併して小諸町に、同年南大井村等が合併して小諸市に、現在の小諸市柏木に北大井郵便局あり、同市御影新田に南大井郵便局あり。
参考N前堀河源大納言家は、定房。村上源氏で中納言雅兼の男。二年後没。

    ひらのしゃ りょう 〔せんげんしゃ おかだごう〕      〔いまはちまんぐう りょう〕
  平野社O〔浅間社P岡田郷〕〔今八幡宮Q領〕

参考岡田郷は、旧東筑摩郡岡田村。1954松本市に編入。松本市岡田町に平野神社があるので荘園としての分祀であろう。
参考O平野社は、京都府京都市北区平野宮本町1の平の神社。
参考P
浅間社は、静岡県富士宮市宮町1-1富士山本宮浅間大社で駿河一ノ宮。
参考Q八幡宮は、岩清水。

    さまりょうりょう
  左馬寮領R

参考R左馬寮領は、左馬寮の公領だが、左馬頭の私領化している可能性もある。

    かさはらのみまき       みやどころ          ひらいで           おかのや
  笠原御牧    宮所      平井弖     岡屋

参考笠原御牧は、旧下高井郡笠原村は1889に合併し平岡村に、1954中野市に、現在の中野市笠原に笠原神社あり。小笠原の名字の地。
参考宮所は、上伊那郡伊那富村カ?ならば、長野県上伊那郡辰野町伊那富。
参考平井弖は、長野県上伊那郡辰野町平出かも知れない。
参考岡屋は、岡谷市。

    ひらの             おののまき           おおしおのまき        しおばら
  平野      小野牧     大塩牧     塩原

参考平野は、旧諏訪郡平野村で、1936年市制施行で町を経ずに岡谷市が発足。
参考小野牧は、旧上伊那郡小野村小野で、昭和36年辰野町に合併し、上伊那郡辰野町小野。
参考大塩牧は、旧諏訪郡豊平村南大塩で、豊平村は1955諏訪郡茅野町新設。1958茅野市に市制。茅野市豊平に南大塩交差点名あり。
参考塩原は、旧諏訪郡米沢村字塩沢か?だとすれば現在の茅野市米沢塩沢。但し、下伊那郡大鹿村鹿塩塩原の地名もある。小県郡青木村田沢とも。

    みなみうち           きたのうち           おおののまき        おおむろのまき
  南内      北内      大野牧     大室牧

参考南内は、旧東筑摩郡片丘村か?だとすれば塩尻市片丘に南内田立石の交差点名あり。
参考
北内は、松本市内田。南内田の北側。
参考大野牧は、下伊那郡榊原村。1956川の東岸の平岡村と合併し天龍村。
参考大室牧は、旧埴科郡寺尾村大字大室。寺尾村は1955松代町へ編入、1966長野市へ合併。長野市松代町東寺尾。

    ときわのまき          はぎかない          たかいののまき        よしだのまき
  常盤牧     萩金井     高井野牧    吉田牧

参考常盤牧は、下水内郡常磐村で、現在の飯山市常磐。
参考
萩金井は、諏訪郡下諏訪町萩倉かも?
参考高井野牧は、上高井郡高井村大字牧で、現在の上高井郡高山村牧。
参考
吉田牧は、長野市吉田。

    かさはらのまき〔なんじょう〕   どうほくじょう         もちづきのまき        にいばりのまき
  笠原牧〔南條〕 同北條     望月牧     新張牧

参考笠原牧〔南條〕は、旧下高井郡笠原村は1889に合併し平岡村に、1954中野市に、現在の中野市笠原に笠原神社あり。の南条であろう。
参考同北條は、旧下高井郡笠原村は1889に合併し平岡村に、1954中野市に、現在の中野市笠原に笠原神社あり。の北条であろう。
参考望月牧は、北佐久郡本牧村大字望月で、現在の佐久市望月。
参考新張牧は、小県郡祢津村で、現在の東御市(トウミシ)祢津(ネツ)。

    しおかわのまき         ひしの             ながくら           しおの
  塩河牧     菱野      長倉      塩野

参考塩河牧は、小県郡塩川村なら上田市塩川、東御市塩川。
参考菱野は、北佐久郡大里村大字菱平で、小諸市菱平。
参考長倉は、北佐久郡東長倉村西長倉村で、現在の北佐久郡軽井沢町長倉。
参考塩野は、北佐久郡小沼村大字塩野ならば、現在の北佐久郡御代田町塩野、小諸市塩野。

    かつらい            おかのまき           たたりのまき         かなくらい
  桂井      緒鹿牧     多々利牧    金倉井

参考桂井は、枯井の魯魚(誤り易い文字)ならば、北佐久郡に枯井の地名有り。
参考
緒鹿牧は、猪鹿ならば北佐久郡志賀村かもしれない。
参考多々利牧は、南安曇郡多井かもしれない。
参考金倉井は、下高井郡高井村金井かもしれない。(かもが続きます)

  えちごのくに
 越後國(現在の新潟県)

    おおつきのしょう 〔いんごりょう〕               ふくおのしょう 〔じょうさいもんいんごりょう〕
  大槻庄〔院御領〕        福雄庄〔上西門院御領〕

参考大槻庄は、南蒲原郡三条町、現三条市大字月岡903に式内社槻田神社あり。
参考福雄庄は、西蒲原郡福王、福応、福方。現在の西蒲原郡分水町。

     おおみのしょう 〔たかまついん ごりょう〕          おおものしょう 〔とばじゅういちめんどう りょう〕
  海庄〔高松院S御領〕      大面庄〔鳥羽十一面堂領〕

参考海庄は、加茂市青海町。
参考
大面庄は、三条市新堀、栄荻島など旧栄町。
参考S高松院は、妹子内親王。鳥羽第六皇女、母は美福門院。
参考㉑鳥羽十一面堂は、不明(京都市南区上鳥羽岩ノ本町にある浄禅寺十一面観音カ?)

    こいずみのしょう 〔しんしゃかどうりょう あずかりどころ なかみかどだいなごん 〕             とよたのしょう 〔とうだいじ〕
  小泉庄〔新尺迦堂領 預所は中御門大納言        豊田庄〔東大寺〕

参考小泉庄は、旧岩船郡村上町。現在の村上市、岩船郡神林村、朝日村、山北町。
参考豊田庄は、旧北蒲原郡五十公野村。現在の新発田市五十公野(イジミノ)。
参考㉒
新尺迦堂は、不明。(京都府南丹市美山町鶴ヶ岡に新釈迦堂前の地名有)
参考㉓中御門大納言は、藤原宗家。

    さばしのしょう 〔ろくじょういんりょう  いちじょういんにょぼううえもんのすけのつぼね さた〕      しらかわのしょう 〔でんかごりょう〕
  佐橋庄〔六條院領 一條院女房右衛門佐局が沙汰〕     白河庄〔殿下御領〕

参考佐橋庄は、柏崎市。後に大江広元の四男毛利季光が地頭となり、その子經光がここにいて三浦合戦の難を逃れ、その子孫が足利尊氏から佐橋庄北条、南条および安芸国吉田庄を与えられ、毛利元就の先祖となる。
参考白河庄は、旧北蒲原郡安田村付近遠賀川北岸という。阿賀野市保田安田、水原、京ケ瀬。
参考㉔六條院は、京都府京都市下京区河原町通上枳殻馬場上ル若松町420のあたりにあったらしい。

    おくやまのしょう 〔でんかごりょう〕               ひすみのしょう 〔こくそういん りょう〕
  奥山庄〔殿下御領〕       比角庄〔穀倉院領〕

参考奥山庄は、旧北蒲原郡中条町黒川村紫雲寺町。越後平氏城一族の所轄。現在中条町と黒川村は合併し胎内市となった。紫雲寺町は加治町と共に新発田市に合併した。
参考比角庄は、旧刈羽郡比角村で現在の柏崎市比角。
参考㉕穀倉院は、民部省附属の令外官の役所。畿内諸国の調銭と諸国の無主位職田、没官田などの産物を納めた倉庫の役所。年中内廷行事の膳仕度などにも従事。

    うかわのしょう 〔さきのさいいんごりょう  あずかりどころ さきのじぶのきょう 〕      おおしまのしょう 〔でんかごりょう〕
  宇河庄〔前齋院御領 預所は前治部卿      大嶋庄〔殿下御領〕

参考宇河庄は、鵜川庄。柏崎市女谷に鵜川郵便局あり。
参考
大嶋庄は、長岡市大島町。
参考㉖前治部卿は、藤原光隆。

    しらとりのしょう 〔はちじょういんごりょう〕                            よしかわのしょう 〔たかまついん ごりょう〕
  白鳥庄〔八條院御領〕              吉河庄〔高松院御領〕

参考白鳥庄は、旧三島郡関原村大字白鳥。現在の長岡市白鳥町。
参考吉河庄は、旧三島郡三島町で現長岡市吉崎周辺。
参考㉗高松院は、妹子内親王。鳥羽第六皇女、母は美福門院。

    かぢのしょう 〔こんごういん りょう  くろかわだいなごんけ   さた〕          いしかわのしょう 〔かもしゃ りょう〕
  加地庄〔金剛院領 黒河大納言家の沙汰〕    石河庄〔賀茂社領〕

参考加地庄は、旧北蒲原郡加治川村。紫雲寺町と共に新発田市に合併。現在の新発田市下今泉に「加治駅」あり。佐々木三郎盛綱が地頭。
参考石河庄は、南蒲原郡賀茂町字石河。現在の加茂市石川。
参考㉘金剛院は、金剛勝院。京都粟田口にあった。美福門院藤原得子(なりこ)崩御の地。
参考㉙賀茂社は、京都の賀茂御祖(かもみおや)神社(下鴨(しもがも)神社)。賀茂別雷(かもわけいかずち)神社(上賀茂神社)との併称が賀茂神社。創建は古く、特に平安時代以後、王城鎮護の神社として朝廷の尊崇あつく、嵯峨天皇の代より斎院として未婚の皇女を御杖代(みつえしろ)として奉仕させた。社の例祭(賀茂祭)は、葵祭として三大勅祭の一。山城国一の宮。

    おいだのしょう 〔いんごりょう   あずかりどころ びぜんぜんじのぶただ〕        さみのしょう 〔とばじういちめんどうろうりょう    あずかりどころ おおみやだいなごんにゅうどうけ〕
  於田庄〔院御領 預所は備中前司信忠〕      佐味庄〔鳥羽十一面堂領 預所は大宮大納言入道家

参考於田庄は、上田庄で旧南魚沼郡塩沢町上田で現在の南魚沼市長崎に第一第二上田小学校、交流センター上田の郷あり。
参考佐味庄は、旧中頚城郡柿崎町柿崎、現在の上越市柿崎区。
参考㉚
大宮大納言は、藤原隆季。

    すがなのしょう 〔ろくじょういんりょう あずかりどころ おきのほうがんだいこれしげ〕   はたぎのしょう
  菅名庄〔六條院領 預所は隱岐判官代惟繁〕    波多岐庄

参考菅名庄は、旧五泉、村松。五泉市五泉、村松。菅が付くのは菅出、菅沢。
参考波多岐庄は、中魚沼郡津南町、十日町市(中里村川西町は2005合併)。

    かみやのしょう 〔でんかごりょう  あずかりどころ はりまのつぼね 〕            やひこのしょう 〔にいだいなごんけりょう〕
  紙屋庄〔殿下御領 預所は播磨局        弥彦庄〔二位大納言家領〕

参考紙屋庄は、長岡市西南〜小千谷市北西カ。
参考弥彦庄は、西蒲原郡弥彦村。
参考㉛播磨局は、以仁王の生母(藤原季成女・成子)。

    しどのきのしょう 〔にいだいなごんけりょう〕                          おおかみのしょう 〔さきのさいいんごりょう〕
  志度野岐庄〔二位大納言家領〕          大神庄〔前齋院御領〕

参考志度野岐庄は、長岡市南部(摂田屋)、小千谷市北カ。『日本荘園資料』国立歴史民俗博物館編(吉川弘文館1998に、「志度野岐庄」(古志 長岡市)備考欄に「角川地名=長岡市南部から石坂山を経て小千谷市南荷頃(みなみにごろ)付近までと推定」とある。
参考
大神庄は、糸魚川市大野。

     ちうぐう  〔じょうさいもんいんごりょう  あずかりどころ もくのかみ〕
  中宮〔上西門院御領 預所は木工頭〕

  みぎ  ちうしんくだん ごと
 右、注進件の如し

       ぶんじにねんにがつ  にち
   文治二年二月 日

現代語書き出しました 三カ国の荘園の事〔下総、信濃、越後の国の書き出し〕

 会わせて

下総国(千葉県)
  三崎庄(銚子市、旭市)〔殿下御領(領家が藤原氏摂関家)〕
  大戸(香取市大戸)神崎(香取郡神崎町)〔同じく〕
  千田庄(香取郡多古町千田)               
  玉造庄(香取郡多古町南玉造)〔領家は三井寺〕
  匝瑳南庄(匝瑳市)〔領家は熊野神社〕          
  
印東庄(印旛郡酒々井町)〔領家は成就寺
  白井庄(香取市白井)〔領家は延暦寺〕          
  千葉庄(千葉市)〔領家は八條院
ワ子内親王
  船橋御厨(夏見御厨、船橋市船橋、船橋市夏見)〔領家は後白河院〕
  相馬御厨(茨城県取手市(除く旧藤代町久賀)、守谷市、利根町。常総市南部、龍ヶ崎市南部、つくばみらい市西部と千葉県我孫子市、
   柏市の一部(旧富勢村、沼南町))〔領家は前に同じ〕
  下河邊庄(埼玉県栗橋市、古河市、幸手市、杉戸町、庄和町、春日部市、吉川市、三郷市、石岡市、小美玉市、松伏町、土浦市)
  〔領家は八條院
ワ子内親王
  豊田庄〔松岡庄とも云う〕(茨城県常総市豊岡町)〔領家は按察使家〕
  橘(東荘、千葉県香取郡東庄町)と木内庄(香取市木内)〔領家は二位大納言〕 
  八幡(市川市八幡、若宮、北方、松戸市秋山)

信濃国(長野県)
  伊賀良庄(飯田市北方、上殿岡)〔領家は尊勝寺領〕
  伴野庄(下伊那郡豊丘村神稲伴野原)〔領家は後白河の姉上西門院〕
  郡戸庄(下伊那郡高森町)〔領家は摂関家〕
  江儀遠山庄(下伊那郡阿南町)
  大河原鹿塩(伊那郡大鹿村鹿塩)
  諏方南宮上下社(諏訪大社)〔領家は八條院
ワ子内親王
  同上下社領は、諏訪大社。〔白川郷(松本市寿豊丘白川
)〕
  小俣郷(松本市笹賀)熊井郷(塩尻市片丘)
  落原庄(蕗原庄、伊那郡辰野町)〔領家は摂関家〕
  大吉祖庄(木曽郡木祖村)〔領家は宗像神社〕
   黒河内(伊那市長谷黒河内)藤澤(伊那市高遠町藤沢)〔庄の名称が無いので今回問い合わせたら諏訪神社だと新たに判明した
  
〔その理由で国衙の指示には従う必要が無い〕
  捧中村庄(捧庄(ささげのしょう)松本市)
〔領家は八條院ワ子内親王 
  捧北條庄
  洗馬庄(塩尻市宗賀「洗馬駅」)
〔領家は蓮華王院三十三間堂〕
  
相原庄(松本市入山辺東桐原、西桐原)
  麻續御厨(長野県東筑摩郡麻積村)〔領家は伊勢神宮〕
  住吉庄(安曇郡三郷村、梓川村、豊科町)〔領家は後白河院〕
 
 野原庄(現安曇野市穂高字矢原)〔領家は前に同じ後白河院〕
  大穴庄(安曇野市明科)〔元の領家は大弁源師能だったが、近年は伊藤忠Cの領地〕
  前見庄(北安曇郡池田町会染花見)〔領家は雅楽頭(うたのかみ)済憲〕
  仁科御厨(大町市社仁科神社)〔領家は伊勢神宮〕
  小谷庄(長野市篠ノ井塩崎)〔領家は岩清水八幡宮〕
  石河庄(長野市篠ノ井二ツ柳)〔領家は御室仁和寺〕   
  四宮庄(長野市篠ノ井塩崎、千曲市大字桑原)〔同前〕
  布施本庄
(長野市篠ノ井布施)
  布施御厨(長野市篠ノ井山布施、布施高田)
  富都御厨(長野市川中島町御厨、戸部)         
  善光寺(長野市桜)〔領家は三井寺〕
  顯光寺(旧水内郡戸隠山別当。廃寺)〔延暦寺の末寺〕
  若月庄(長野県長野市上野)〔領家は證菩提院〕
  太田庄(長野市豊野町豊野)〔領家は摂関家〕
  小河庄(上水内郡小川村)〔領家は後白河の姉上西門院〕
  丸栗庄(長野市七ニ会、上水内郡中条村住良木上奈良井、下奈良井、峰奈良井)〔領家は御室仁和寺〕
  弘瀬庄(上水内郡芋井村広瀬)〔領家は後白河院〕
  小曾祢庄(長野市中曽根)〔領家は八條院
ワ子内親王
  市村庄(長野市市町)
〔領家は後白河院〕
  芋河庄(上水内郡飯綱町芋川)〔領家は摂関家〕      
  青滝寺(長野県松代市の清滝観音堂カ?)
  安永勅旨(佐久郡安原。長野県佐久市安原)
  月林寺
(長野県長野市の犀川神社、元慈覚大師円仁創建の正覚院月林寺)〔延暦寺の末寺〕
  今溝庄(長野市中村、高田)〔領家は松尾大社〕
  
善光寺〔阿居(長野市真島町川合)馬嶋(長野市真島町真島)村山(長野市村山)吉野(長野市塩生甲吉野)〕
  天台山領小市(長野市安茂里小市)
  東條庄(
長野市松代町東条)〔領家は八條院ワ子内親王
  保科御厨(長野市若穂保科)
  橡原御庄(長野市戸隠栃原)〔領家は九條城興寺〕
  同加納屋代四ケ村(千曲市屋代)
  浦野庄(上田市大字浦野)〔領家は日吉神社〕
  英多庄(長野県長野市松代町東条西条)〔領家は摂関家〕
  倉科庄(千曲市倉科)〔領家は九條城興寺〕
  塩田庄(長野県上田市、別所線の沿線一帯)〔領家は最勝光院〕
  小泉庄(上田市小泉と上室賀、下室賀)〔領家は一條大納言家藤原良通〕
  常田庄(上田市常田)〔領家は八條院
ワ子内親王
  海野庄(東御市本海野)
〔領家は摂関家〕
  依田庄(上田市上中下丸子。上田市生田)〔領家は前齋院礼子内親王〕
  穀倉院領
  佐久伴野庄(佐久市伴野)〔領家は後白河院〕
  千國庄(北安曇郡小谷村大字千国)〔領家は後白河の法華堂六條院〕
  
桑原餘田(千曲市桑原)〔領家は前堀河源大納言源定房〕
  大井庄(小諸市柏木、御影新田)〔領家は八條院ワ子内親王
  平野神社領地〔浅間大社 岡田郷(松本市岡田町)〔今は八幡宮領〕

  左馬寮領
  笠原御牧(中野市笠原)  宮所(上伊那郡辰野町伊那富)   平井弖(上伊那郡辰野町平出) 
岡屋(岡谷市)
  平野(岡谷市)      小野牧(上伊那郡辰野町小野)   大塩牧(茅野市豊平)     塩原(小県郡青木村田沢)
  南内(塩尻市片丘南内田) 北内(松本市内田)
        大野牧(天龍村)       大室牧(長野市松代町東寺尾)
   常盤牧(飯山市常磐)   萩金井(諏訪郡下諏訪町萩倉)   高井野牧(上高井郡高山村牧) 吉田牧(長野市吉田)
  笠原牧〔南條〕(中野市笠原)同北條(中野市笠原)      望月牧(佐久市望月)     新張牧(東御市祢津)
   塩河牧(上田市塩川、東御市塩川) 菱野(小諸市菱平)    長倉(北佐久郡軽井沢町長倉) 塩野(北佐久郡御代田町塩野、小諸市塩野)
  桂井          緒鹿牧(北佐久郡志賀村猪鹿?)  多々利牧(南安曇郡多井?)  金倉井(下高井郡高井村金井?)

 越後國(新潟県)
  大槻庄(三条市大字月岡)〔領家は後白河院〕
  福雄庄(西蒲原郡分水町)〔領家は後白河の姉上西門院〕
  青海庄(五泉市)〔領家は高松院妹子内親王〕
  大面庄(三条市月岡、同市小滝、見附市)〔領家は鳥羽十一面堂領〕
  小泉庄(村上市、岩船郡神林村、朝日村、山北町)〔領家は新釈迦堂 徴税担当の預所は中御門大納言藤原宗家〕
  豊田庄
(新発田市五十公野(イジミノ))〔領家は東大寺〕
  佐橋庄(柏崎市)〔領家は六条院 一條院女房右衛門佐局が徴税担当〕
  白河庄(阿賀野市保田安田、水原、京ケ瀬)〔領家は摂関家〕
  奥山庄(胎内市)〔領家は摂関家〕
  比角庄(柏崎市比角)〔領家は朝廷の倉庫担当穀倉院〕
  宇河庄(柏崎市女谷に鵜川郵便局)〔領家は前齋院令子内親王。徴税担当の預所は前治部卿藤原光隆〕
  大嶋庄(長岡市大島町)〔領家は摂関家〕
  白鳥庄(長岡市白鳥町)〔領家は八條院
ワ子内親王
  吉河庄(現長岡市吉崎周辺)
〔領家は高松院は、妹子内親王〕
  加地庄(新発田市下今泉「加治駅」)〔領家は金剛院 黒川大納言が徴税担当〕
  石河庄(加茂市石川)〔領家は賀茂神社〕
  於田庄(南魚沼市長崎)〔領家は後白河院 徴税担当の預所は備中前司藤原信忠〕
  佐味庄(上越市柿崎区)〔領家は鳥羽十一面堂 徴税担当の預所は大宮大納言入道藤原隆季〕
  菅名庄(五泉市五泉、村松)〔領家は六条院 徴税担当の預所は隱岐判官代惟繁は、平惟繁〕
  波多岐庄(中魚沼郡津南町、十日町市)
  紙屋庄(長岡市西南〜小千谷市北西)〔領家は摂関家 徴税担当の預所は播磨局〕
  弥彦庄(西蒲原郡弥彦村)〔領家は二位大納言〕
  志度野岐庄(長岡市南部、小千谷市北)〔領家は二位大納言〕
  大神庄(糸魚川市大野)〔領家は前齋院令子内親王〕
  中宮〔領家は後白河の姉上西門院 徴税担当の預所は木工頭〕

  右の通り、書き出したのはこのとおり。   文治二年二月 日

文治二年(1186)三月小十三日辛卯。關東御分國々乃貢。日者依朝敵征伐事頗懈緩。然者被免以前分。自今年可致合期沙汰之由。所被申京都也。
 諸國濟物事。治承四年乱以後。至于文治元年。世間不落居。先朝敵追討沙汰之外。暫不及他事候之間。諸國之土民各結官兵之陣。空忘農業之勤。就中。關東之武士。爲討手敵人。數度合戰。都鄙之往反于今無其隙候。頼朝知行國々。相摸。武藏。伊豆。駿河。上総。下総。信濃。越後。豊後等也。被優免去年以往未濟物。自今年。随國々堪否。可令勵濟之由所沙汰候也。凡不限此九ケ國。諸國一同可然事歟。惣被優免去年以往未濟物。令安堵窮民。自今年有限濟物任先例可令致沙汰之旨。可被下 宣旨候也。仍言上如件。頼朝恐々謹言。
       三月十三日                           頼朝
   進上  師中納言殿

読下し              かんとうごぶんこく くに  のうぐ   ひごろちょうてきせいばつ こと  よつ すこぶ けかん
文治二年(1186)三月小十三日辛卯。關東御分國々の乃貢、日者朝敵征伐の事@に依て頗る懈緩A

しからば   いぜん ぶん  まぬか      ことしよ   ごうき   さた  いた  べ    のよし  きょうと  もうさる  ところなり
然者、以前の分を免被れ、今年自り合期の沙汰を致す可し之由。京都に申被る所也。

  しょこくさいもつ  こと   じしょうよねん  らんいご   ぶんじがんえんに いた  せけんらっきょせず
 諸國濟物の事。治承四年の乱以後、文治元年于至り、世間落居不。

  ま  ちょうてきついとう  さたのほか  しばら  たごと  およばずそうろうのかん しょこくのどみん おのおの かんぺいのじん  むす    むな   のうぎょうのつと    わす
 先ず朝敵追討の沙汰之外、暫く他事に及不候之間、諸國之土民 各、官兵之陣を結びB、空しく農業之勤めを忘る。

  なかんづく  かんとうの  ぶし   うって  あだびと   な    すうど かっせん     とひ の おうはんいまに そ   ひまな  そうろう
 就中に、關東之武士、討手の敵人と爲し、數度合戰す。都鄙之往反今于其の隙無く候。

  よりとも  ちぎょう  くにぐに   さがみ  むさし    いず   するが   かずさ   しもうさ   しなの   えちご   ぶんごら なり
 頼朝が知行の國々、相摸、武藏、伊豆、駿河、上総、下総、信濃、越後、豊後等也。

  きょねん いおう  みさいぶつ  ゆうめんせら   ことし よ     くにぐに  かんぷ   したが   はげ  せし  すむべ  のよし さた  そうろうところなり
 去年以往の未濟物を優免被れ、今年自り、國々の堪否に随い、勵ま令め濟可き之由沙汰し候所也。

  およ  かく  きゅうかこく  かぎらず  しょこくいちどう しか べ  ことか  そう    きょねんいおう   みさいぶつ  ゆうめんせら   きゅうみん  あんどせし
 凡そ此の九ケ國に限不、諸國一同然る可き事歟。惣じて去年以往の未濟物を優免被れ、窮民を安堵令め、

  ことしよ  かぎ  あ  さいもつ  せんれい  まか   さた いた  せし  べ  のむね   せんじ  くださる  べ そうろうなり
 今年自り限り有る濟物は先例に任せ沙汰致さ令む可し之旨、宣旨を下被る可く候也。

  よつ  ごんじょうくだん ごと  よりともきょうこうきんげん
 仍て言上件の如し。頼朝恐々謹言。

                さんがつじうさんにち                                                     よりとも
       三月十三日                           頼朝

       しんじょう   そちのちうなごんどの
   進上  師中納言殿

参考@朝敵征伐の事は、源平合戦。
参考A
懈緩は、年貢納付を怠っていた。
参考B官兵之陣を結びは、平家方についた居た。

現代語文治二年(1186)三月小十三日辛卯。頼朝様が統治している関東御分国の年貢が、源平合戦のため年貢の納付が滞っています。しかし、以前の分は免除してもらい、今年の締め切り分から納めますと京都朝廷へ申し入れられました。

 全国の年貢が、治承四年の蜂起から文治元年まで世間が落ち着きませんでした。何はともかく京都朝廷の敵である平家追討を先んじて他の事まで手が回りませんでした。あちこちの国の農民さえ平家軍に参加して、農業従事を忘れていました。特に関東の武士達は、平家軍と敵対して何度も戦を続けていたので、都と中国九州の田舎とを行ったり来たりして、そんな暇はありませんでした。頼朝が統治している国々の、相模、武蔵、伊豆、駿河、上総、下総、信濃、越後、豊後等は、去年以前の未納分は免除して、今年の分から、国々の器量に従って、きちんと納付するように命令したところです。勿論、この九カ国ばかりではなく、全国皆同じことでしょうから、全体に去年以前の未納分を免除されて、困っている庶民を安心させ、今年の決められている年貢を以前の例に合わせて処理をするように、後白河法皇の命令を出していただけるように、お願いします。というわけで、申し上げることはこのとおりです。頼朝がかしこまってお願いします。
          三月十三日      頼朝
   お出しします 師中納言殿

参考年貢を取り集めていないわけではなく、集めたが京都へ納付していないだけで、源平合戦に使ってしまったので、二重に徴収するわけにも行かず、この申し入れとなる。

文治二年(1186)三月小十四日壬辰。可搜求行家義經事。 宣旨到來關東。其詞云。
 文治二年二月卅日   宣旨
 前備前守源行家前伊豫守源義經等奸心日積謀逆露顯逐於都城不亡命山澤隱居之所粗有其聞宜令仰熊野金峯山及大和河内伊賀伊勢紀伊阿波等國司慥搜求在所搦進其身
                            藏人頭左中弁藤原光長〔奉〕

読下し               ゆきいえ よしつね  さが  もと     べ  こと  せんじ   かんとう  とうらい   そ  ことば  い
文治二年(1186)三月小十四日壬辰。行家、義經を搜し求める可き事の宣旨、關東に到來す。其の詞に云はく。

   ぶんじにねんにがつさんじうにち    せんじ
 文治二年二月卅日   宣旨す

  さきのびぜんのかみみなもとのゆきいえ さきのいよのかみみなもとのよしつね かんしんひ つも    ぼうぎゃくろけん   とじょう  をい いのち ほろぼさず さんたく  お
  前備前守源行家、  前伊豫守源義經等、  奸心日に積り、謀逆露顯し、都城に於て命を亡不、山澤に逐う。

  いんきょのところ あらあら そ  きこ   あ     よろ    おお  せし
 隱居之所、 粗、其の聞へ有り。宜しく仰せ令む。

  くまの   きんぶせんおよ  やまと  かわち   いが   いせ    きい    あわ など  こくし   たしか ざいしょ  さが  もと    そ  み   から  しん
 熊野、金峯山及び大和、河内、伊賀、伊勢、紀伊、阿波等の國司、慥に在所を搜し求め、其の身を搦み進ぜ。

                                                           くろうどのとうさちゅうべんふじわらみつなが 〔ほうず〕
                            藏人頭左中弁藤原光長〔奉〕

現代語文治二年(1186)三月小十四日壬辰。行家と義経を探し見つけるように京都朝廷からの宣旨が、関東へ届きました。その言ってる内容は、

 文治二年二月三十日   命令する
 前備前守源行家、前伊予守源義経達は、悪い心を積み重ねて、謀反が発覚し、京の都で死なずに山中に逃げました。隠れ住んでいる場所の大雑把な噂があるので、見つけるように命令が出ました。場所は、熊野権現か金峰山それと大和、河内、伊賀、伊勢、紀伊、阿波などの国司は、ちゃんと在処を探して、その身柄を拘束するように。
                   蔵人頭左中弁藤原光長が命令に従って書きました。

文治二年(1186)三月小十五日癸巳。伊豫前司義經横行所々。今日。參太神宮。稱爲所願成就。奉金作劔。此太刀。度々合戰之間。所令帶之也云々。

読下し               いよのぜんじよしつね しょしょ おうこう
文治二年(1186)三月小十五日癸巳。伊豫前司義經所々を横行す。

 きょう   だいじんぐう  まい   しょがんじょうじゅ ため  しょ  こがねづくり  つるぎ ほう    かく   たち    たびたび  かっせんのかん  これ  おびせし  ところなり  うんぬん
今日、太神宮に參り、所願成就の爲と稱し、金作の 劔を奉ず。此の太刀は、度々の合戰之間、之を帶令む所也と云々。

現代語文治二年(1186)三月小十五日癸巳。元伊予守の義経が、あっちこっちをうろついている。今日伊勢神宮へ願いが叶うようにと、金細工の刀を奉納しました。この太刀は何度もの戦いに何時もつけていた物なんだとさ。

文治二年(1186)三月小十六日甲午。山城介久兼爲使節上洛。被仰伊勢國神領顛倒奉行等事。又諸國兵粮米催事。漸可被止之由。被仰北條殿。是及狼藉之旨。預所有訴之故也。依之可被 奏逹此趣之旨。被申師中納言許云々。
 諸國并庄園事。爲令制止狼藉候。成遣下文候。所觸廻候也。武士之中抽群不當之輩候者。早可令召下候也。可被處刑輩事欝存候。子細者先度次第令申候畢。其許否者所詮可随御計候。不起自御意。近習者御勘氣可候之由者。不能欝申候。其恐候之故也。但 君者雖爲不知食候事。已稱御定。令下 宣旨候之條。無謂所行候歟。以此旨可令披露給候。恐々謹言。
        三月十六日                        頼朝
  進上  師中納言殿

読下し               やましろのすけひさかね しせつ な  じょうらく    いせのくに  しんりょうてんとうぶぎょうら  おお  らる  こと
文治二年(1186)三月小十六日甲午。 山城介久兼 使節と爲し上洛す。伊勢國の神領顛倒奉行等に仰せ被る事。

また  しょこく  ひょうろうまい もよおしごと しばら  とめらる  べ    のよし  ほうじょうどの おお  らる   これろうぜき  およ  のむね  あずかりどころ うった あ   のゆえなり
又、諸國の兵粮米の 催事、 漸く止被る可し之由、北條殿に仰せ被る。是狼藉に及ぶ之旨、 預所 訴へ有る之故也。

これ  よつ  かく おもむき そうたつせら  べ   のむね  そちのちうなごん  もと  もうさる    うんぬん
之に依て此の趣を 奏逹被る可し之旨、師中納言の許に申被ると云々。

  しょこくなら    しょうえん こと  ろうぜき  せいしせし   そうら   ため   くだしぶみ  な  つか  そうら      ふ  めぐ   そうろうところなり
 諸國并びに庄園@の事、狼藉を制止令めん候はん爲、下文を成し遣はし候ひて、觸れ廻らし候所也。

   ぶしのなか  ぐん  ぬ   ふとうのやから そうら  ば  はや  めしくだせし   べ そうろうなり
 武士之中に群を抽き不當之輩が候は者、早く召下令む可く候也。

  けい  しょせら  べ やから  ことうつ  ぞん そうろう  しさいは せんど しだい もうさせし そうら をはんぬ そ  きょひは しょせんおんはかり したが  べ そうろう
 刑に處被る可き輩の事欝し存じ候。子細者先度次第申令め候ひ畢。 其の許否者所詮御計に随ふ可く候。

  ぎょいよ  おこ  ず    きんじゅうしゃ ごかんきそうろうべ  のよしたれば うつ  もう   あたはずそうろう そ  おそ そうろうのゆえなり
 御意自り起さ不、近習者の御勘氣候可き之由者、欝し申すに能不候。其の恐れ候之故也。

  ただ  きみは しろ  め  ずそうろ  ことたり  いへど   すで  ごじょう  しょう   せんじ  くだ  せし そうろうのじょう  いは  な  しょぎょう  そうろうか
 但し君者知し食さ不候ふ事爲と雖も、已に御定と稱し、宣旨を下さ令め候之條、謂れ無き所行に候歟。

   こ  むね  もつ  ひろうせし  たま  べ そうろう  きょうきょうきんげん
 此の旨を以て披露令め給ふ可く候。恐々謹言。

                さんがつじうろくにち                                          よりとも
        三月十六日                    頼朝

     しんじょう  そちのちうなごんどの
  進上  師中納言殿

参考@諸國并びに庄園は、このばあい國衙と荘園。

現代語文治二年(1186)三月小十六日甲午。 山城介久兼は派遣員として京都へ向かいました。それは伊勢国の伊勢神宮への年貢横領を裁断する事などをめいじられたからです。また、諸国の兵糧米の徴収をしばらく止めるように北條時政殿へ命を伝えました。それは、横取りされたと徴収担当者が朝廷へ訴えてきたからです。頼朝様の命でその内容を後白河法皇に伝えていただくように、師中納言吉田経房に伝言されましたとさ。

 国衙領も荘園も横領を止めさせるように、命令書を作成送付して、伝えまわるようにさせました。武士のうちで特別悪い奴がいれば、早く名前を出してください。 刑を受けるべきの公卿たちの事は、腹立っております。詳しいことは既に伝え終えておりますが、それを許すかどうかはすべて法皇のご命令に従うつもりです。法皇が自らやったのではなく、取り巻き供の意見だと云うのならば、苛立つ必要もありません。それは恐れ多いからです。しかし、後白河法皇が知らないうちに出た事だとおっしゃられても、すでに法皇の命令だと云って、頼朝追討の宣旨を出されたと云う事は、いわれの無い仕業だと云うのでしょうかね。このあたりの内容で後白河法皇にご披露してください。恐れ敬い申しあげます。
      三月十六日                頼朝
   提出します 師中納言殿

文治二年(1186)三月小十八日丙申。有加賀守俊隆者。前駈已下事。當時依其仁不幾。自去年秋之比參候。而豫州反逆之後。爲糺行之。被發遣御家人等之處。於俊隆領一所尾張國中嶋郡。有不慮狼藉等云々。仍就愁申。不可准於在國輩之由有沙汰。可令安堵之旨。嚴密被仰下云々。

読下し               かがのかみとしたか       ものあ
文治二年(1186)三月小十八日丙申。加賀守俊隆@という者有り。

せんぐ  いげ   こと   とうじ そ  じんいくならず よつ   きょねんあきの ころよ   さん そうろう
前駈A已下の事、當時其の仁不幾に依て、去年秋之比自り參じ候。

しか   よしゅうはんぎゃくののち これ  ただ  い    ため   ごけにんら   はつ  つか  さる  のところ
而るに豫州反逆之後、之を糺し行かん爲、御家人等を發し遣は被る之處、

としたか  あずか いっしょおわりのくになかじまぐん   をい   ふりょ  ろうぜきら あ    うんぬん
俊隆が領る一所尾張國中嶋郡Bに於て、不慮の狼藉等有りと云々。

よつ  うれ  もう    つ    ざいこく  やから をなぞら べからずのよし さた あ   あんどせし  べ    のむね  げんみつ  おお  くださる    うんぬん
仍て愁ひ申すに就き、在國の輩C於准う不可之由沙汰有り。安堵令む可く之旨、嚴密に仰せ下被ると云々。

参考@加賀守俊隆は、村上源氏。
参考A前駈は、馬に乗って、行列などを先導すること。また、その人。さきのり。さきがけ。先駆古くは「せんぐ」「ぜんぐ」とも〕Goo電子辞書から七巻文治三年(1187)七月三日
参考B中嶋郡は、愛知県一宮市、尾西市、稲沢市と岐阜県羽島市。
参考C在國の輩は、国御家人。

現代語文治二年(1186)三月小十八日丙申。加賀守源俊隆と言う村上源氏の人がおります。頼朝様の儀式の時、行列の露払いをするそれなりの知識と身分を持っているものが少ないので、去年の秋から鎌倉へ来て勤めております。それなのに、源九郎義経の反逆事件の際に、征伐のために御家人を派遣したところ、俊隆の領地の尾張の国中島郡で、思わぬ横取りがありましたそうな。俊隆が嘆いて訴えたので、御家人となっていない武士と同じに扱って横取りするんじゃないと裁断されて、俊隆が安心するように、地元の御家人へ厳しく命令をおだしになられましたとさ。

文治二年(1186)三月小廿一日己亥。諸國兵粮米催事。於今者可停止之由。被宣下云々。是依爲神社佛寺權門勢家。凡人庶愁歎及所々訴之間。度々被經御沙汰。可令停止之旨。被申京都已畢云々。」又法皇御潅頂用途事。可被沙汰之由。被仰下已訖。仍今日。爲俊兼奉行。所被宛御領也。現米千石〔駿河上総兩國分〕白布千反。國絹百疋〔散在御領分〕

読下し               しょこくひょうろうまい もよおしごと  いま  をい  は ちょうじすべ  のよし  せんげさる   うんぬん
文治二年(1186)三月小廿一日己亥。諸國兵粮米の 催事@、今に於て者停止可し之由、宣下被ると云々。

これ  じんじゃぶつじけんもんせいかたる よつ   およ  じんしょ しゅうたんしょしょ  うった   およ  のかん  たびたび ごさた   へられ  ちょうじせし  べ   のむね
是、神社佛寺權門勢家爲に依て、凡そ人庶の愁歎所々の訴えに及ぶ之間、度々御沙汰を經被、停止令む可し之旨、

きょうと  すで  もうされをはんぬ うんぬん
京都へ已に申被畢と 云々。」

また  ほうおうごかんちょう ようとう   こと   さた さる  べ    のよし  すで  おお くだされをはんぬ よつ  きょう  としかねぶぎょう  な   ごりょう  あてらる  ところなり
又、法皇御潅頂の用途Aの事、沙汰被る可し之由、已に仰せ下被訖。仍て今日、俊兼奉行と爲し、御領に宛被る所也。

げんまいせんごく 〔するがかずさりょうごくぶん〕  しらふせんたん くにぎぬひゃっぴき 〔さんざい ごりょうぶん〕
現米千石B〔駿河上総兩國分〕、白布千反、國絹百疋〔散在の御領分〕

参考@諸國兵粮米の催事は、源平合戦用に徴収していた兵糧米。
参考A御潅頂の用途については、二月廿八日に了解したと京都へ申し送っている。
参考B玄米千石は、一石が十斗=二表半(150kg)なので、二千五百俵(150,000kg=150t)。

現代語文治二年(1186)三月小二十一日己亥。国中の源平合戦用の兵糧米の徴収を、現在既にけりが付いたので止めるように、後白河法皇から命令が出ましたとさ。これは、領家の神社仏閣や摂関家、上級公卿たちが、横取りされてたまらないとの嘆きを訴えてきたので、何度も検討を重ね、止める旨を京都へ通知を出してあるとの事だとさ。

他に、後白河法皇がお寺から聖水を降り掛けて貰い、災いを取り除く儀式の費用については、用務を進めるように命令されております。それで今日筑後権守俊兼が担当して頼朝様の領地に負担を割り当てた処です。玄米千石〔駿河と上総の領地から〕白布千反、国絹百匹〔その他散らばっている領地から〕。

文治二年(1186)三月小廿二日庚子。靜女事。雖被尋問子細。不知豫州在所之由申切畢。當時所懷妊彼子息也。産生之後可被返遣由。有沙汰云々。

読下し               しずかめ   こと   しさい  じんもんせら   いへど   よしゅう   ざいしょ  しらざるのよし  もう  き をはんぬ
文治二年(1186)三月小廿二日庚子。靜女@の事、子細を尋問被ると雖も、豫州Aの在所を知不之由、申し切り畢。

とうじ  か   しそく    かいにん   ところなり  さんじょうののち  かへ つか  さる  べ  よし   さた あ    うんぬん
當時彼の子息Bを懷妊する所也。産生之後、返し遣は被る可し由、沙汰有りと云々。

参考@靜女は、源九郎義經の妾、静御前。
参考A
豫州は、源九郎義經。
参考B
彼の子息は、源九郎義經の子。

現代語文治二年(1186)三月小二十二日庚子。静御前の扱いですが、詳しく質問してみても、源九郎義経の居場所は分からないと言い切ってしまいました。今現在、彼の子供を妊娠しているので、生んでから京都へ返すことにしようと、命じられましたとさ。

文治二年(1186)三月小廿三日辛丑。北條殿可歸關東之由 奏聞訖。在京頻叶叡慮之間。雖令拘留御。含二品御旨已欲歸國。仍洛中事可示付何人哉之由。有 勅問。付師中納言。被 奏御返事云々。
 鎌倉御返事。謹給預候畢。早可令進候也。時政下向事。自鎌倉殿。度々被仰下候之條。廿五日一定之由。所令存候也。云天王寺御幸。云京中之守護。可差留武士等候事。左馬頭殿〔能保〕御在京候。不可有御不審候。且此兩條可令申含給候歟。以此旨可令申上給候。時政恐惶謹言。
      三月廿三日                   平時政〔請文〕

読下し               ほうじょうどの かんとう  かえ  べ   のよし  そうもん をはんぬ
文治二年(1186)三月小廿三日辛丑。北條殿、關東へ歸る可し之由、奏聞し訖。

ざいきょうしきり えいりょ かな   のかん  こうりゅうせし  たま    いへど     にほん おんむね  すで  ふく  きこく     ほつ
在京頻に叡慮に叶う之間、拘留令め御う@と雖も、二品の御旨を已に含み歸國せんと欲す。

参考@拘留令め御うは、北條時政殿を褒めているのは書いた人が子孫だから。又はもし本当に後白河法皇が引きとめたのなら、義經同様に頼朝との確執を引き出そうと策略している。

よつ  らくちゅう ことなにびと  しめ  つ  べ   やのよし   ちょくもんあ   そちのちゅうなごん ふ    ごへんじ   そうさる    うんぬん
仍て洛中の事何人に示し付く可き哉之由、勅問有り。師中納言に付し、御返事を奏被ると云々。

  かまくら    ごへんじ  つつし あずか  たま そうら をはんぬ  はや しん せし  そうら べ   なり
 鎌倉への御返事、謹み預り給ひ候ひ畢。 早く進じ令め候う可き也。

  ときまさ げこう  こと  かまくらどのよ    たびたびおお くだされそうろうのじょう  にじうごにち いちじょうのよし  ぞん  せしそうら ところなり
 時政下向の事、鎌倉殿自り、度々仰せ下被 候之條。 廿五日に一定之由、存じ令め候う所也。

  てんのうじぎょうこう  い     けいちゅうのしゅご  い      ぶし ら   さ   とど  そうら べ   こと  さまのかみどのございきょうそうろ
 天王寺御幸と云ひ、京中之守護と云ひ、武士等を差し留め候う可き事、左馬頭殿御在京候う。

  ごふしん  あ  べからずそうろう  かつう かく りょうじょう もう  ふく  せし  たま  そうら べ   か  かく  むね  もつ  もう  あ   せし  たま  べ そうろう
 御不審有る不可候。 且は此の兩條を申し含め令め給ひ候う可き歟。此の旨を以て申し上げ令め給ふ可く候。

  ときまさきょうこうきんげん
 時政恐惶謹言

              さんがつにじうさんにち                                  たいらのときまさ 〔うけぶみ〕
      三月廿三日                   平時政〔請文〕

現代語文治二年(1186)三月小二十三日辛丑。北条時政殿は、関東へ帰るからと後白河法皇に取次いでもらいました。京都に駐屯している事を、後白河法皇はお気にいられておられましたので、お引止めになられましたが、頼朝様の命令を受けているので、帰らなくてはなりません。そしたら、京都の治安維持を誰に言いつけていくのだと、後白河法皇から質問があり、師中納言吉田経房を通して返事を届けられたんだとさ。

 鎌倉への返書は、謹んでお預かりいたしました。早く届けたいと存じます。時政の鎌倉帰参は、鎌倉殿頼朝様から何度も云われているので、二十五日には絶対に出発しなければと決めました。後白河法皇の天王寺への参拝の警固や、京都の治安維持も、武士達を残して行くし、左馬頭一条能保様が京都におられますので、ご心配には及びません。特に天王寺と治安の二つは、特にお伝えしていますので、この内容をお伝え戴くようにお願いします。時政謹んで申し上げます。
   三月二十三日   平時政〔ご返事〕

文治二年(1186)三月小廿四日壬寅。前攝政殿〔基通〕家領可被付當攝録御方歟之由。二品内々有御存案。前攝政家聞此事。以状被愁 奏。仍今日。師中納言被仰聞其子細於北條殿。早可申達關東之由。被申御返事云々。」又播磨國守護人等事。在廳注文二通。并景時代官注文等。爲同人奉行被下之。可施行之由云々。」北條殿近日依可被歸參關東。公家殊被惜思食之由。師中納言被傳 勅旨。是則亦 公平忘私之故也。且其身雖令下向。差置穩便代官。可令執沙汰地頭等雜事之旨。度々被仰下之處。敢無其仁。重一旦 勅定。差置非器代官等。若有現不當之事者。還可有其恐歟之由。固辞及再三。但洛中警衛事者示付平六時定。内々二品仰也云々。

読下し               さきのせっしょうどの かりょう  とう  せつろく  おんかた ふせら  べ   かのよし   にほん ないない ごんぞんあん あ
文治二年(1186)三月小廿四日壬寅。 前攝政殿が家領@を當の攝録の御方に付被る可き歟之由、二品内々に御存案有り。

さきのせっしょうけ こ  こと   き     じょう  もつ  うれ  そうせら    よつ  きょう  そちのちゅうなごん おお られ そ  しさいを ほうじょうどの  き
前攝政家、此の事を聞き、状を以て愁い奏被る。仍て今日、師中納言に仰せ被其の子細於北條殿に聞く。

はや  かんとう  もう  たつ  べ   のよし  ごへんじ もうさる    うんぬん
早く關東に申し達す可き之由、御返事申被ると云々。」

参考@攝政殿が家領は、藤原氏の棟梁が代々引き継いでいる財産の殿下渡領(でんかわたりりょう)。

また  はりまのくにしゅごにんら   こと  ざいちょう  ちうもんにつう なら    かげときだいかん ちうもんら
又、播磨國守護人A等の事、在廳Bの注文二通并びに景時代官の注文等、

どうにん  ぶぎょう  な   これ  くださり  せぎょうすべ  のよし  うんぬん
同人の奉行と爲し之を下被施行可し之由と云々。」

参考A播磨國守護人は、この時点では梶原平三景時。
参考B在廳は、在庁官人と云う国衙の役人。この場合、国衙の役人と景時の代官が年貢徴収役を取り合っている。当然ピンはねがあるから。

ほうじょうどの きんじつかんとう  きさんさる  べ     よつ    こうけ こと  お   おぼ  めさる   のよし  そちのちうなごんちょくし つた  らる
北條殿、近日關東へ歸參被る可きに依て、公家C殊に惜し思し食被る之由、師中納言勅旨を傳へ被る。

これすなは また くひょう  し  わす  のゆえなり
是則ち亦、公平D私を忘る之故也。

かつう そ  み  げこうせし   いへど  おんびん  だいかん  さしお    ぢとうら  ぞうじ   さたしつ  せし  べ   のむね  たびたび おお くださる   のところ
且は其の身下向令むと雖も、穩便の代官を差置き、地頭等の雜事を沙汰執し令め可し之旨、度々仰せ下被る之處、

あへ  そ   じんな     かさ    いったん  ちょくじょう   うつわ あらざ  だいかんら  さしお   も  ふとう  あらわ  のこと あ  ば
敢て其の仁無し。重ねて一旦の勅定に、器に非る代官等を差置き、若し不當を現す之事有ら者、

かえつ そ  おそ  あ   べ   か のよし  こじ さいさん  およ    ただ らくちゅうけいえい ことは へいろくときさだ  しめ  つ
還て其の恐れ有る可き歟之由、固辞再三に及ぶ。但し洛中警衛の事者平六時定Eに示し付く。

ないない にほん  おお  なり  うんぬん
内々の二品の仰せ也と云々。

参考C公家は、天皇家を指す。ここでは後白河法皇。
参考D公平は、公の平和すなわち天皇家の平和。
参考E平六時定は、北條時政の従兄弟で本家とする説と弟で在京してたとする説がある。治承四年八月二十日石橋山合戦以来の出演。

現代語文治二年(1186)三月小二十四日壬寅。前の摂政近衛基通殿が殿下渡領を現在の摂政九条兼実に譲るように、頼朝様は密かに考えていました。近衛基通はこのことを伝え聞いて、嘆願状を後白河法皇に出しました。それなので今日、師中納言吉田經房に命じられて詳しいことを北条時政殿に聞いて来ました。その事を関東の頼朝様へ早く伝えましょうと返事を申されましたとさ。

又、播磨国の守護人の事について、国衙の在庁官人からの訴状が二通、梶原平三景時の現地代官からの訴状も届きましたので、梶原平三景時が担当をして、決めるように申されましたとさ。

北条時政殿は近日中に関東へ帰るので、後白河法皇は特に名残惜しんでいると師中納言吉田経房がその意思を伝えてきました。これは天皇家の無事を、自分を忘れて奉仕したからです。時政の身は鎌倉へ下っても、温厚な代官を任命して、地頭達の動向を制御して欲しいと、何度もおっしゃってきましたが、丁度良い人物がおりません。その上、一時の命令に従って、その器でないものを代官になどして、もしとんでもないことをしでかしたら、かえって危ないと思いますので、何度も辞退してきました。但し、京都市中の治安維持については、平六時定を任命して残るようにしました。これも頼朝様の内々の命令だそうな。

文治二年(1186)三月小廿六日甲辰。以紀伊權守有經爲御使。被宛申丹波國篠村庄於松尾延朗上人。本是三位中將重衡卿所領也。後爲義經之勸賞地也。而豫州奉寄附上人。々々雖固辞。依不等閑。領納之後。爲令富慰民戸。止乃貢。勸百姓。令唱弥陀寳号。随其數反出返抄用所濟云々。豫州逐電以後。可返上由被申之處。本自豫州者傳領之主也。爲本主有寄奉志之由。被仰遣畢云々。此上人者。多田新發滿中八代苗裔對馬太郎義信〔對馬守義親男〕男也。出累葉弓馬之家。入一實圓乘之門。凡顯密兼備。内外相應之硯徳也云々。

読下し               きいごんのかみありつね  もつ  おんし   な    たんばのくにしのむらのしょう を まつおえんろうしょうにん あてもうさる
文治二年(1186)三月小廿六日甲辰。紀伊權守有經@を以て御使と爲し、 丹波國篠村庄A於、松尾延朗上人に宛申被る。

もとこれ  さんみちゅうじょうしげひらきょう しょりょうなり  のち  よしつねのけんじょうち  な   なり  しか    よしゅうしょうにん きふ  たてまつ
本是、三位中將重衡卿の 所領也。後に義經之勸賞地と爲す也。而るに豫州上人に寄附し奉る。

しょうにん こじ    いへど  なおざりせず  よつ    りょうのうののち  みんこ   ふぶ せし    ため  のうぐ   と
々々固辞すと雖も、等閑不に依て、領納之後、民戸を富慰令めん爲、乃貢を止め、

ひゃくせう すす    みだ   ほうごう  とな  せし    そ  すうたん  したが  へんしょう いだ  しょさい  もち    うんぬん
百姓に勸め、弥陀の寳号を唱へ令む。其の數反に随って返抄を出し所濟に用うと云々。

よしゅうちくてん いご    へんじょうすべ よしもうさる  のところ もと よ  よしゅうは でんりょうのぬしなり
豫州逐電以後は、返上可し由申被る之處、本自り豫州者傳領之主也。

ほんじゅ  な   よ たてまつ こころざし あ  のよし  おお  つか  されをはんぬ うんぬん
本主と爲し寄せ奉る 志 有る之由、仰せ遣は被 畢と 云々。

かく  しょうにんは ただしんほつまんちゅう はちだい びょうえい つしまのたろうよしのぶ 〔つしまのかみよしちか だん〕  だんなり
此の上人者、多田新發滿中B八代の苗裔、對馬太郎義信〔對馬守義親の男〕の男也。

るいようきゅうばのいえ    い     いちじつえんじょうのもん  い    およ けんみつ けんび   ないがいそうおう のけんとくなり うんぬん
累葉弓馬之家より出で、一實圓乘之門に入り、凡そ顯密C兼備、内外相應D之硯徳也と云々。

参考@紀伊權守有經は、豊島有経。
参考A篠村庄は、京都府亀岡市篠町篠上中筋45-1に篠宮八幡宮がある。延朗から一条能保の妻(頼朝姉)に与えられ、子の高能に相続する。後に足利尊氏に渡り、尊氏はここで挙兵した。
参考B返抄は、受け取り。受領書。
参考C多田新發滿中は、清和源氏の祖。満仲┴頼信─頼良─義家─義親┬義信(河内源氏)─延朗
参考D顯密は、顕教と密教。
参考
E内外相應は、内典と下典。内典はお経。外典はそれ以外を指す。内法、外法とも言う。ちなみに下法仏は天狗の事。

現代語文治二年(1186)三月小二十六日甲辰。紀伊権守豊島有経を使いとして、丹波国篠村庄を松尾延朗上人に領地として宛がいました。元ここは、三位中将平重衡卿の領地でした。その後、源九郎義経が源平合戦の手柄の恩賞として貰った土地でした。それを源九郎義経は上人に寄付したのでした。上人は遠慮したのですが、放っても置けないので、領収した後で農民を楽させてやるために、年貢を止めて、百姓に阿弥陀如来の名号を唱えて祈る事を進めました。その祈り唱えた数によって受け取りを出して、年貢の免除の量を決めたんだとさ。源九郎義経が犯罪人となって追われ、行方知れずになってからは、お返ししたいと言って来られましたが、元々源九郎義経が受け取った本人なので、領主として仏様に寄付して使って欲しいと心に誓った所なのだから、そのままお使いくださいと、言い伝えさせましたとさ。この上人は、頼朝様たち清和源氏の祖、多田新発満仲から八代目(七代目の間違い)の子孫で、対馬太郎義信〔対馬守義親の息子〕の息子です。弓馬の芸を扱う武士の家から出て、一実円乗の仏門に入り、顕教と密教をも勉強して理解して兼ね備え、内典も下典も詳しく知っている素晴らしく人望の厚いお坊さんなんだとさ。

文治二年(1186)三月小廿七日乙巳。北條殿已欲進發關東。仍爲警衛洛中。撰定勇士被差置之。其交名注載折紙。所付進師中納言也。
 注進 京留人々
  合
 平六謙仗時定                  あつさの新大夫
 の太の平二                   やしはらの十郎
 くはゝらの二郎                 熒せんの江次
 さかを四郎                   同 八郎
 ないとう四郎                  弥源次
 熒たちほう                   へいこ二郎
 ちうはち                    ちうた
 うへはらの九郎                 たしりの太郎
 いはなの太郎                  同 二郎
 同 平三                    やわたの六郎
 のいよの五郎太郎                同 三郎
 同 五郎                    しむらの平三
 とのおかの八郎                 熒ろさハの二郎
 いや四郎                    同 五郎
 同 六郎                    かうない
 大方十郎                    平一の三郎
 いかの平太                   同 四郎
 同五郎
    已上卅五人
     三月廿七日                       平〔判〕

読下し               ほうじょうどのすで かんとう  しんぱつ    ほつ    よつ  らくちう  けいえい ため  ゆうし   せんてい  これ  さ   おからる
文治二年(1186)三月小廿七日乙巳。北條殿已に關東へ進發せんと欲す。仍て洛中を警衛の爲、勇士を撰定し之を差し置被る。

そ きょうみょう  おりがみ  ちう  の     そちのちうなごん  つ  しん  ところなり
其の交名を折紙に注し載せ、師中納言に付け進ず所也。

  ちう  しん    きょう  とど    ひとびと
 注し進ず 京に留むる人々

     あは
  合せて

  へいろくけんじょうときさだ                のしんだゆう
 平六謙仗時定(北条)    あつさの新大夫  参考謙仗は、兼仗で、朝廷から三位以上に付けられた護衛兵経験者。

  野田のへいじ                      やじはらのじうろう
 の太の平二        やしはらの十郎

  桑原のじろう                    ひせん    えじ
 くはゝらの二郎      熒せんの江次

         しろう                  おなじき はちろう
 さかを四郎        同 八郎

   内藤 しろう                    いやげんじ
 ないとう四郎       弥源次

   ひたちぼう                       平子  じろう
 熒たちほう(常陸坊昌明)   へいこ二郎

   忠八              忠太
 ちうはち         ちうた

    上原      くろう                田尻    たろう
 うへはらの九郎      たしりの太郎

    岩名    たろう              おなじき じろう
 いはなの太郎       同 二郎

  おなじき へいざ                     八幡    ろくろう
 同 平三         やわたの六郎

            ごろたろう            おなじき さぶろう
 のいよの五郎太郎     同 三郎

  おなじき ごろう                    志村     へいざ
 同 五郎         しむらの平三

     殿岡    はちろう              廣澤        じろう
 とのおかの八郎      熒ろさハの二郎

     しろう                   おなじき ごろう
 いや四郎         同 五郎

  おなじき ろくろう                    こうない
 同 六郎         かうない

  おおかたのじうろう                 へいいち さぶろう
 大方十郎         平一の三郎

    伊賀    へいた                  おなじき しろう
 いかの平太         同 四郎

  おなじきごろう
 同五郎

        いじょうさんじうごにん
    已上卅五人

          さんがつにじうしちにち      たいら 〔はん〕
     三月廿七日    平〔判〕

現代語文治二年(1186)三月小二十七日乙巳。北条時政殿は、関東へ出発しなければいけません。そこで、京都市中を警固するために、勇敢な兵士を選定して、彼らに命じて駐屯させていきました。その名簿を正式文書の折紙に書き出して、師中納言吉田経房を通じて提出したところです。

 書き出してお届けします  京都へ駐屯させておく人々 合わせて
 平六兼仗時定 梓の新大夫 野太の平二 弥次原の十郎 桑原の二郎 肥前の江次 さかを四郎 同八郎
 内藤四郎 弥源次 常陸坊 平子二郎 忠八 中太 上原の九郎 田尻の太郎 稲葉の太郎 同二郎 同平三 八幡の六郎
 野いよの五郎太郎 同三郎 同五郎 志村の平三 殿岡の八郎 広沢の二郎 弥四郎 同五郎 同六郎 こうない
 大方十郎 平一の三郎 伊賀の平太 同四郎 同五郎
    已上卅五人
      三月二十七日   平〔花押〕

文治二年(1186)三月小廿九日丁未。去年依關東訴被處罪科人々事。可被宥刑之由。京都頻有秘計沙汰。就中。前大藏卿〔泰經〕殊嘆息。以專使内々示送因幡前司廣元許。仍廣元廻芳情。申止遠流畢。且取二品嚴命。投返報云々。
 人々御事。自御所再三被仰下候之間。御欝者候共 叡慮に起候はさらむにとりては。近習之人々をは。爭御勘當候へとは。令申候はむとて。可有御計之由。去比令申御候畢。いかさまにも御遠行之條をは先被止候也。爲悦不少候。御領なんとの事。只今不詳候めりと。申 院候て。御沙汰候はん可宜候歟。子細申合御使候畢。以此旨可令申上給候。恐々謹言。
      三月廿九日                      前因幡守廣元

読下し               きょねん  かんとう  うった  よつ  ざいか  しょせら  ひとびと  こと
文治二年(1186)三月小廿九日丁未。去年、關東の訴へに依て罪科に處被る人々@の事、

けい  ゆるさる  べ   のよし  きょうとしきり   ひけい  さた あ
刑を宥被る可し之由、京都頻に秘計の沙汰有り。

なかんづく さきのおおおくらきょう こと たんそく  せんし  もつ  ないない いなばのぜんじひろもと  もと  しめ  おく
就中に、前大藏卿A殊に嘆息し、專使を以て内々に因幡前司廣元Bの許へ示し送る。

よつ  ひろもとほうじょう  めぐ      おんる  もう  と をはんぬ  かつう にほん  げんめい  と     へんぽう  とう    うんぬん
仍て廣元芳情を廻らし、遠流を申し止め畢。且は二品の嚴命を取り、返報を投ずと云々。

  ひとびと  おんこと  ごしょよ  さいさんおお くだされそうろうのかん  ごうつは そうら ども  えいりょ  おこ  そうら ざ
 人々の御事、御所自り再三仰せ下被候之間、御欝者候へ共C、叡慮に起り候はさらむにとりては、

  きんじゅうのひとびと  ば  いかで ごかんどうそうら       もう  せし  そうら         おんはから あ   べ   のよし   さんぬ ころもう  せし  たま そうら をはんぬ
 近習之人々をは、爭か御勘當候へとは、申さ令め候はむとて、御計ひ有る可しD之由、去る比申さ令め御ひ候ひ畢。

                ごえんこうのじょう  ば  ま  とめられそうらおうなり  よろこび な すくな    ずそうろう
 いかさまにも御遠行之條Eをは、先ず止被候也。 悦を爲す少なから不候。

  ごりょう        こと  ただいまつまびら ならずそうろう   いん  もう そうろう    ごさたそうら       よろ      べ  そうろうか
 御領なんとの事、只今詳か不候めりと、院に申し候て、御沙汰候はんは宜しかる可く候歟。

   しさい  おんし   もう  あわ そうら をはんぬ  かく むね  もつ  もう  あ   せし  たま  べ  そうろう  きょうこうきんげん
 子細は御使に申し合せ候ひ畢。 此の旨を以て申し上げ令め給ふ可く候。恐々謹言。

             さんがつにじうくにち                                                            さきのいなばのかみひろもと
      三月廿九日                      前因幡守廣元

参考@罪科に處被る人々は、義經院宣事件の縁坐関係者。
参考A前大藏卿は、大藏卿高階泰經。
参考B
因幡前司廣元は、大江広元で元京都朝廷の下級公卿。
参考C御欝者候へ共は、嫌だと思うけれども。
参考D
御計ひ有る可しは、考え直すと。
参考E御遠行之條は、遠くへ島流しにすることは。

現代語文治二年(1186)三月小二十九日丁未。去年、関東からの注文で罪を受けるべき人々の事で、刑罰を許してもらうように、京都朝廷で盛んに内緒の計略を重ねました。中でも特に、前大蔵卿高階泰経は困りきって、そのための使いを内緒で前因幡守大江広元へ特別に指定して送りました。それなので、大江広元は親切に心遣って、頼朝様に申して流罪を止めさせました。そして頼朝様の確実なお言葉を戴いた上で、返事の手紙を出しましたとさ。

 罪人とし処分されるべき方々の許可の事は、御所から何度も云ってこられましたので、頼朝様は怒ってはおられますが、後白河法皇が発端なので、取り巻きの連中をいじめたところで仕様が無いので、もう一度考え直すように先日申し上げました。とりあえず遠島の件は、とめることが出来ましたので、お喜びは少なくありませんよ。領地をどうするかは、未だはっきりはしませんけれど、後白河院にお願いして何とかして戴くのがよろしいでしょう。詳しいことは使者に言い聞かせて置きました。以上の内容でお伝え申し上げますよ。恐々謹言
   三月二十九日    前因幡守大江広元

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吾妻鏡入門第六巻

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