吾妻鏡入門第六巻

文治二年(1186)四月大

文治二年(1186)四月大一日戊申。北條四郎主出京之後。今日着尾張國萱津宿。而關東御使來會于此所。帶去月十六日御書。仍相副状。被送進師中納言殿許云々。
 畏申上候。今月一日。萱津宿到着之處。二位殿御文一封候。仍進覽如件。
 抑大藏卿殿。刑部卿殿。并北面人々事者。可處霜刑之族不思知者也。後毒之眷也。然者就顯就冥。深依恐 叡慮。令申其旨許也。此條ハ自君之御心不發候事にて候ヘハ。於今者只可爲 君御意之由。所被仰下候也者。且以此由可令申上給候。時政誠恐謹言。
    四月一日                         平〔判〕
 進上  大夫屬殿

読下し             ほうじょうのしろうぬし しゅっきょうののち きょうおはりのくにかやつのしゅく  つ   しか    かんとう  おんし こ ところにきた  あ
文治二年(1186)四月大一日戊申。北條四郎主、出京之後、今日尾張國萱津宿@に着く。而して關東の御使此の所于來り會うA

こげつじうろくにち  おんしょ  おび   よつ  じょう  あいそ    そちのちうなごん    もと  おく  しん  らる    うんぬん
去月十六日の御書を帶る。仍て状を相副へ、師中納言殿の許へ送り進じ被ると云々。

  おそ  もう  あ そうろう こんげつついたち かやつのしゅく とうちゃくのところ にいどの おんふみ いっぷうそうろう よつ しんらんくだん ごと
 畏れ申し上げ候。今月一日、萱津宿に 到着之處、 二位殿の御文一封候。仍て進覽件の如し。

  そもそも おおくらきょうどの ぎょうぶきょうどのなら ほくめん  ひとびと  ことは  そうけい   しょ  べ  のやからおも  しらざるものなり  ごどくのけんなり
 抑、大藏卿殿・刑部卿殿并びに北面Bの人々の事者、霜刑Cに處す可き之族思ひ知不者也。後毒之眷也。

  しかずんば けん つ  みょう つ    ふか  えいりょ  おそ      よつ    そ   むね もう  せし ばかりなり
 然者、顯に就き冥に就き、深く叡慮を恐るるに依て、其の旨を申さ令む許也。

  かく  じょうは きみのみこころよ はっせずそうろうこと そうらへば  いま  をい  は  ただきみ  ぎょい たるべ   のよし  おお  くだされそうろうところなりてへれ
 此の條ハ君之御心自り發不候事にて候ヘハ、今に於て者、只君の御意爲可き之由、仰せ下被 候 所也 者ば、

  かつう かく  よし  もつ  もう  あ   せし  たま  べ そうろう  ときまさせいきょうきんげん
 且は此の由を以て申し上げ令め給ふ可く候。時政誠恐謹言。

         しがつついたち                                                  たいら〔はん〕
    四月一日                         平〔判〕

  しんじょう   たいふさかんどの
 進上  大夫屬殿

参考@萱津宿は、愛知県海部郡甚目寺町下萱津。
参考A此の所于來り會うは、使者が鎌倉を出てから十五日も経っているので、待ち合わせていたのかも知れない。
参考B北面は、白河法皇が院直属の軍隊として護衛用の武士を雇ったのが始まりで、御所の北側に置いたところから北面の武士と呼ばれる。又、鑓水の取水口があったので滝口ともいわれる。北面には、五位以上の上北面と六位以下の下北面とがあり、兵衛尉クラスは下北面の武者。
参考C霜刑は、死刑。

現代語文治二年(1186)四月大一日戊申。北条四郎時政殿は、京都を出て、今日尾張国萱津宿に着きました。そしたら関東からの使いがこの場所へ来て会いました。先月の十六日の頼朝様のお手紙を持っております。そこで、一筆書き添えて、師中納言吉田經房へ一緒に送ってやりました。

 恐れながら申し上げます。今月一日に萱津宿に着いた所へ、頼朝様の手紙一通に出会いましたので、このとおりご覧にお進めします。だいたい大藏卿高階泰經さんも刑部卿難波頼經さんも、それに北面の武士達の事ですが、死刑になってもおかしくない人たちだと自覚が無いのですよ。後々に祟りの元ですよ。しかし、表も裏も後白河法皇のご威光を恐れ多く思っておりますので、ご意見に従うばかりです。この事件は、法皇様から言い出した事ではないと云っていたけれど、今となっては、ひとえに法皇様のご意思だったと頼朝様はおっしゃっておられるので、その旨を申していただくようにお願いします。時政誠に恐れながら謹んで申し上げます。
       四月一日      平〔花押〕
  お出しします  大夫属殿

文治二年(1186)四月大二日己酉。前刑部卿頼經。前大藏卿泰經等被下流刑官苻間事。不誤之由。兩人頻陳謝。泰經朝臣事。可被免歸京之旨。可被申京都之由云々。又北面之輩誇 朝恩有驕逸之思。殊加御誡。可召仕之由云々。

読下し             さきのぎょうぶきょうよりつね さきのおおくらきょうやすつねら  るけい  かんぷ  くださる  かん  こと
文治二年(1186)四月大二日己酉。 前刑部卿頼經 、 前大藏卿泰經等 流刑の官苻を下被る間の事、

あやま なし のよし りょうにんしきり ちんしゃ
誤り不@之由、兩人頻に陳謝す。

やすつねあそん  こと  ききょう  めん  らる  べ  のむね  きょうと   もうさる  べ   のよし  うんぬん
泰經朝臣の事、歸京を免ぜ被る可し之旨、京都へ申被る可し之由と云々。

また  ほくめん のやから ちょうおん ほこ きょういつのおも  あ    こと  おいさめ くは    めしつか  べ    のよし  うんぬん
又、北面A之輩、朝恩に誇り驕逸之思ひ有り。殊に御誡を加へ、召仕う可し之由と云々。

参考@誤り不は、今後は間違ったことはしません。
参考A北面は、白河法皇が院直属の軍隊として護衛用の武士を雇ったのが始まりで、御所の北側に置いたところから北面の武士と呼ばれる。又、鑓水の取水口があったので滝口ともいわれる。北面には、五位以上の上北面と六位以下の下北面とがあり、兵衛尉クラスは下北面の武者。

現代語文治二年(1186)四月大二日己酉。前刑部卿頼經と前大藏卿泰經等に流罪にするとの太政官の命令書が出されたので、今後は間違ったことはしませんと、二人とも弁解をしております。大藏卿高階泰經は京都へ戻ることを許可すると、京都へ伝えるようにとの事です。又、北面の武士達は、朝廷の役職を自慢にして、思い上がっているので、特にきちんと諌めて仕えさせるようにとの事だとさ。

文治二年(1186)四月大三日庚戌。安樂寺別當安能僧都致平家祈祷畢由事。於今依有其聞。可被糺明之旨。可被申京都云々。被相副宇佐大郡司公通書状等云々。

読下し             あんらくじ べっとう あのうそうづ  へいけ   きとう   いた をはんぬよし こと  いま をい  そ   きこ  ある  よつ
文治二年(1186)四月大三日庚戌。安樂寺@別當安能僧都平家の祈祷を致し畢由の事、今に於て其の聞へ有に依て、

きゅうめいさる べ  のむね  きょうと  もうさる  べ     うんぬん   うさだいぐんじきんみち   しょじょうら   あいそ   らる   うんぬん
糺明被る可し之旨、京都へ申被る可しと云々。宇佐大郡司公通が書状等を相副へ被ると云々。

参考@安樂寺は、筑前大宰府安楽寺天満宮。

現代語文治二年(1186)四月大三日庚戌。安楽寺(大宰府天満宮)長官の安能僧都は平家の勝利のために加持祈祷をしていたんだと、今になって噂が聞こえてきたので、捕まえて追求するように京都へ申し送るようになんだとさ。宇佐郡統治長官(大領)の公通が訴えてきた文書を一緒に添えて送られたんだとさ。

文治二年(1186)四月大四日辛亥。右兵衛尉長谷部信連者。三條宮〔以仁王〕侍也。宮依平家讒。蒙配流官苻御之時。廷尉等乱入御所中之處。此信連有防戰大功之間。宮令遁三井寺御訖。而今爲抽奉公參向。仍感先日武功。態爲御家人召仕之由。被仰遣土肥二郎實平〔于時在西海〕之許云々。信連自國司給安藝國檢非違所并庄公畢。不可見放之由云々。

読下し             うひょうえのじょうはせべのぶつらは  さんじょうのみや  さむらいなり
文治二年(1186)四月大四日辛亥。右兵衛尉長谷部信連者、三條宮@の侍也。

みや  へいけ  ざん  よつ   はいる かんぷ  こうむ たま  のとき  ていい ら ごしょちゅう らんにゅうのところ こ  のぶつらぼうせん たいこう あ  のあいだ
宮が平家の讒に依て、配流官苻を蒙り御う之時、廷尉A等御所中に乱入之處、此の信連防戰の大功B有る之間、

みや  みいでら   のが  せし  たま をはんぬ しか   いま  ほうこう  ぬき       ため  さんこう
宮は三井寺へ遁れ令め御い訖。而るに今、奉公を抽んでんが爲に參向すC

よつ  せんじつ  ぶこう かん    わざわざ ごけにん  な  めしつかうのよし   といのじろうさねひら〔ときに さいかい  あ〕    のもと  おお  つか  さる    うんぬん
仍て先日の武功を感じ、態々D御家人と爲し召仕之由、土肥二郎實平〔時于西海に在り〕之許へ仰せ遣は被ると云々。

のぶつら  こくし よ   あきのくに  けびいし なら  しょうこう  たま   をはんぬ みはな  べからずのよし  うんぬん
信連、國司自り安藝國檢非違所并びに庄公を給はり畢。見放す不可之由と云々。

参考@三條宮は、以仁王。
参考A
廷尉は、検非違使。
参考B防戰の大功は、一巻治承四年(1185)五月十五日条。但し、右大臣中山忠親の日記山槐記では信連の弓による2、3名の負傷のことしか書いていないが、宮を逃がすため時間稼ぎをしたようだ。
参考C參向すとあるが、文書の状況から実際に鎌倉へは来なくて、しかも自から名乗り出たのではなく、土肥實平が安芸国で見つけて言ってきたようだ。
参考D態々は、特別に。

現代語文治二年(1186)四月大四日辛亥。右兵衛尉長谷部信連は、以仁王の侍でした。宮が平家に対し謀反の蜂起をした時に、流罪の太政官布告を出されて、検非違使達が宮を捕えようと、宮の御所に乱入したとき、この信連が防戦したので、宮は三井寺へ逃げることが出来ました。そこで今、頼朝様に奉公するために連絡してきました。それなので、その時の腕っ節のよかった手柄に感激して、特別に御家人として取り立てて使うからと、土肥次郎實平〔現在は中国地方にいます〕へ命令を伝えさせましたとさ。しかし、信連は安芸の国の長官から安芸の国の治安維持のための地方検非違使所と荘園や公領の地頭を与えられているので、放り出すわけにも行かないと断ってきたんだとさ。

文治二年(1186)四月大五日壬子。師中納言去月十七日私書状到來鎌倉。盛時披露之。其詞云。
 兼能事。返々不便候。別奇恠思食事不候。傍輩沙汰之間。被仰出事許にて候歟。被召仕可宜候歟。如當時者。不善不見候。世事可務。粗知子細之間。院中如召次訴訟なとにても。随分抽忠。爲人不悪事等候。又漸見馴て候に。聖人若荒武者なりと。用使者ニも無由候歟。大事御使をはせて候なん。及廢置返々不便候。奉爲 君又無其詮事候歟。爲彼終身之歎候歟云々。

読下し             そちのちうなごん さんぬ つきじうしちにち わたし しょうじょうかまくら とうらい   もりとき これ ひろう     そ  ことば  い
文治二年(1186)四月大五日壬子。師中納言の去る月十七日の私の書状鎌倉に到來す。盛時之を披露す。其の詞に云はく。

  かねよし   こと  かえ  がえ   ふびん そうろう  べつ   きかい  おぼ  め   ことそうら ず   ぼうはい さた     のかん  おお  いださる  ことばかり   そうろうか
 兼能@の事、返す々すも不便に候。別して奇恠に思し食す事候は不。傍輩沙汰する之間、仰せ出被る事許にて候歟。

  みしつか  らる べ   よろ   そうろうか  とうじ   ごと  は   ふぜん み ずそうろう  せじ つと  べ
 召仕は被る可く宜しく候歟。當時の如き者、不善見え不候。世事務む可し。

  あらあら しさい し   のかん  いんちゅうめしつぎそしょうごと  など        ずいぶんちゅう  ぬ   ひと  な   あくせずことらそうろう
 粗、子細を知る之間、院中召次訴訟如きなとにても、随分忠を抽き、人と爲し悪不事等候。

  また  しばら みなじみ そうろう  せいじん  わかあらむしゃ       ししゃにもち       よしな  そうろうか  だいじ  おんし         そうろう
 又、漸く見馴て候に、聖人の若荒武者なりと、使者ニ用いるも由無く候歟。大事の御使をはせて候なん。

  はいち   およ    かえ  がえ  ふびん そうろう  きみのおんためまた そ  せんな   こと そうろうか  か  ため  しゅうしんのなげ  そうろうか  うんぬん
 廢置に及ぶは返す々すも不便に候。君の奉爲又、其の詮無き事に候歟。彼の爲に終身之歎きに候歟と云々。

参考@兼能は、筑後介兼能で、村上源氏。従五位下の右兵衛佐。頼朝は文治元年(1185)十月大廿七日に使者として上洛させたが後白河に嫌われ役に立たないので、文治二年(1186)二月廿八日条で使わないと申し出ている。

現代語文治二年(1186)四月大五日壬子。師中納言吉田經房の先月十七日の手紙が鎌倉へ着きました。平民部烝盛時が御所の座で読み上げました。その内容は、

 筑後介兼能の事は、どう考えても面倒な事だと思います。特に主人に反するような奇怪の罪だと思うことはありません。同僚の連中から色々と聞いて、後白河法皇が云っているだけなのですよ。御家人としては使ってみていいんじゃないでしょうか。今では、悪い様子も見えませんで、世間の仕事をこなしています。ざっと事情を知ってみると、院の庁の取次ぎや訴訟などの仕事をやらせてみても、随分と真面目にしており、悪い人ではありませんよ。又、暫く様子を見てきたら、聖人や若い荒武者のように、急ぐような使者にはお使いにならず、時間のかかる大事な用事の使者にお使いになられると良いでしょう。首にしたことは、返す返すも残念なことであります。後白河法皇のためには、もったいない話しだし、彼のためには生涯の苦痛となるでしょう。

文治二年(1186)四月大七日甲寅。 法皇御潅頂用途等事。爲京進被出解文。爲俊兼善信等奉行。差進御使雜色。於駿河上総兩國御米者。先日既出國之由所言上也。此外絹布等。自陸路可相具云々。

読下し             ほうおうごかんちょう  ようとうら   こと  きょう  すす    ため  げぶみ  いださる
文治二年(1186)四月大七日甲寅。法皇御潅頂の用途等の事、京へ進める爲に解文を出被る。

としかね  ぜんしんら ぶぎょう  な    おんし  ぞうしき  さししん    するが  かずさ  りょうこく  おんこめ  をい は  せんじつすで  しゅっこくのよし ごんじょう  ところなり
俊兼・善信等奉行と爲し、御使の雜色を差進ず。駿河・上総の兩國の御米に於て者、先日既に出國之由言上する所也。

こ   ほか  けんぷ ら  りくと よ    あいぐ   べ    うんぬん
此の外の絹布等、陸路自り@相具す可しと云々。

参考@絹布等、陸路自りと云ってるので、米は海路を用いたようだ。

現代語文治二年(1186)四月大七日甲寅。後白河法皇が坊さんに頭から聖水をかけて貰う仏教儀式費用のことは、京都へ送るために手紙を朝廷へ出されました。筑後權守俊兼と大夫属入道善信が担当をして、鎌倉からの使いの雑用を指図して行かせました。駿河と上総の二国のお米は、先日既に国を出発したと報告をしました。これ以外の絹などは、陸路を使って運ぶそうです。

文治二年(1186)四月大八日乙夘。二品并御臺所御參鶴岳宮。以次被召出靜女於廻廊。是依可令施舞曲也。此事去比被仰之處。申病痾之由不參。於身不屑者者。雖不能左右。爲豫州妾。忽出揚焉砌之條。頗耻辱之由。日來内々雖澁申之。彼既天下名仁也。適參向。歸洛在近。不見其藝者無念由。御臺所頻以令勸申給之間被召之。偏可備 大菩薩冥感之旨。被仰云々。近日只有別緒之愁。更無舞曲之業由。臨座猶固辞。然而貴命及再三之間。憖廻白雪之袖。發黄竹之歌。左衛門尉祐經鼓。是生數代勇士之家。雖繼楯戟之塵。歴一臈上日之職。自携歌吹曲之故也。從此役歟。畠山二郎重忠爲銅拍子。靜先吟出歌云。よし野山みねのしら雪ふみ分ていりにし人のあとそこひしき。次歌別物曲之後。又吟和歌云。しつやしつ〜〜のをたまきくり返し昔を今になすよしもかな。誠是社壇之壯觀。梁塵殆可動。上下皆催興感。二品仰云。於八幡宮寳前。施藝之時。尤可祝關東万歳之處。不憚所聞食。募反逆義經。歌別曲歌。奇恠云々。御臺所被報申云。君爲流人坐豆州給之比。於吾雖有芳契。北條殿怖時宜。潜被引篭之。而猶和順君。迷暗夜。凌深雨。到君之所。亦出石橋戰塲給之時。獨殘留伊豆山。不知君存亡。日夜消魂。論其愁者。如今靜之心。忘豫州多年之好。不戀慕者。非貞女之姿。寄形外之風情。謝動中之露膽。尤可謂幽玄。抂可賞翫給云々。于時休御憤云々。小時押出〔卯花重〕於簾外。被纏頭之云々。

読下し             にほん なら   みだいどころ つるがおかぐう ぎょさん
文治二年(1186)四月大八日乙卯。二品并びに御臺所、鶴岡宮に御參す。

ついで もっ   しずかめを かいろう  め  いだされ   これ  ぶきょく ほどこ せし  べ    よっ   なり
次を以て、靜女於廻廊に召し出被る。是、舞曲を施さ令む可しに依て也。

こ   こと  さぬ  ころおお  られ ところ びょうあ  よし  もう  まいらず  み  おい いさぎよし せざ は  とこう   あたはず いへど
此の事、去る比仰せ被る處、病痾の由を申し參不。身に於て屑と不る者、左右に不能と雖も、

よしゅう  めかけ な    たちま けちえん みぎり いづ のじょう すこぶ  ちじょくのよし  ひごろ ないない これ しぶ  もう   いへど
豫州の妾と爲し、忽ち掲焉の砌に出る之条、頗る耻辱之由、日來内々に之を澁り申すと雖も、

か   すで てんか  めいじんなり たまたま さんこう   きらく  ちか   あ    そ   げい  みずんば   むねん よし
彼は既に天下の名仁也。適、參向して歸洛近きに在りて其の藝を不見者、無念の由、

みだいどころ しき  もっ  つと  もう  せし  たま  のかん  これ  めされ   ひとへ    だいぼさつ みょうかん そな  べ  のむね  おお られ   うんぬん
御臺所頻りに以て勸め申さ令め給ふ之間。之を召被る。偏へに大菩薩の冥感に備う可し之旨、仰せ被ると云々。

きんじつ ただべっしょのうれい あ   さら  ぶきょうのなりわいな  よし   ざ   のぞ    なお こじ   しかれども きめい さいさん  およ のかん
近日、只別緒之愁有り。更に舞曲之業無きの由、座に臨みて猶固辭す。然而、貴命再三に及ぶ之間、

なまじい しらゆきのそで めぐ     こうちく の うた   はっ   さえもんのじょうすけつね つづみう これ すうだい ゆうしのいえ  うま
憖に白雪之袖を廻らし、黄竹之歌@を發す。左衛門尉祐經、鼓つ。是、數代勇士之家に生れ、

ゅんげきのちり  つ   いへど  いちろう じょうじつ のしき   へ    みづか かすいのきょく かか   のゆえ   かく  やく  そうら  か
楯戟之塵を継ぐと雖も、一臈A上日B之職を歴て、自ら歌吹曲に携はる之故に、此の役に候う歟。

はたけやまのじろうしげただ どひょうし  な  しずかま うた  ぎん  いだ    い
畠山二郎重忠銅拍子を爲す。靜先ず歌を吟じ出して云はく

   よしのやま みねのしらゆき ふみわけて  いりにし  ひとの  あとぞ こいしき
 吉野山峯ノ白雪フミ分テ、入ニシ人ノ跡ゾコヒシキ

つぎ わかれもの きょく うた  ののち また わか   ぎん    い
次に別物の曲を歌う之後、又和歌を吟じて云はく、

     しずやしず     しずのおだまき     くりかえし    むかしをいまに  なすよしもがな
 シヅヤシヅ〜〜ノヲダマキクリカヘシ昔ヲ今ニナスヨシモガナ

まこと これ しゃだんのそうかん はり ちり ほと   うご  べ     じょうげみなきょうかん もよお   にほん おお   い
誠に是社壇之壯觀、梁の塵殆んど動く可しE。上下皆興感を催す。二品仰せて云はく。

はちまんぐうほうぜん おい げい  ほどこ のとき  もっと かんとう ばんざい  いわ べ   のところ  きこ  め  ところ  はばからず
八幡宮寳前に於て藝を施す之時、尤も關東の萬歳Fを祝う可き之處、聞し食す所を不憚、

ほんぎゃく よしつね つの わか   きょく  うた    きっかい  うんぬん
反逆の義經を慕り別れの曲を歌うは奇恠と云々。

みだいどころ ほう もうされ  い      きみ  るにん   な    ずしゅう  ざ   たま   のころ  われ おい   ほうきつ あ   いへど
御臺所報じ申被て云はく、君が流人と爲し、豆州に坐し給ふ之比。吾に於ては芳契有ると雖も、

ほうじょうどの じぎ  おそ   ひそか これ ひきこもされ   しか    なおきみ  わじゅん   あんや   まよ   しんう   しの    きみのところ  いた
北條殿時宜を怖れ、潜に之を引籠被る。而るに猶君に和順し、暗夜に迷い、深雨を凌ぎ、君之所に到る。

また  いしばし せんじょう い   たま  のとき  ひと  いずさん   のこ とど       きみ  そんぼう  しらず  にちやたましい け
亦、石橋の戰場に出で給ふ之時、獨り伊豆山に殘り留まり、君の存亡を不知、日夜魂を消す。

そ   うれい ろん    ば  いま   ごと しずかのこころ よしゅう たねんのよしみ わす  れんぼ せざ は  ていじょのすがた  あら
其の愁を論ずれ者、今の如き靜之心は豫州の多年之好を忘れ戀慕不る者、貞女之姿に非ず。

そと  あらわ のふぜい   よ     なか  うご  の ろたん  しゃ    もっと  ゆうげん いひ  べ    ま    しょうがん  たま   べ   うんぬん
外に形る之風情に寄せ、中に動く之露膽を謝す。尤も幽玄と謂つ可し、抂げて賞翫し給ふ可しと云々。

ときに おいかり やす  うんぬん  しょうとき  おんころも〔うのはながさね〕をれんがい お  いだ    これ  てんとう され   うんぬん
時于御憤休むと云々。小時して御衣〈夘華重〉於簾外に押し出し、之を纒頭G被ると云々。

参考@黄竹の歌は、揺池 李商隠  揺池阿母綺窓開 黄竹歌声動地哀 八駿日行三万里 穆王何事不重来
  揺池
(ヨウチ)の阿母(アボ)綺窓(キソウ)開く 黄竹(コウチク)の歌声地を動かして哀しむ 八駿(ハッシュン)日に行く三万里 穆王(ボクオウ)何事ぞ重ねて来(キタ)らざる
註 西王母(仙女)が美しい窓を開けて 黄竹を吹いて呼んでいる 一日三万里走る馬をもっているのに 穆王は何故再来しないのだろう
参考A一臈は、六位の蔵人。
参考B
上日は、朝廷へ勤務していた。
参考C
「吉野山〜」は、古今和歌集第六冬歌ー三二七「み吉野の山の白雪ふみわけて入りにし人のおとづれもせぬ」から、「シヅヤシヅ〜」は、有原業平の伊勢物語三十二倭文の苧環「いにしへのしづのをだまきくりかえし昔を今になすよしもがな」からアレンジしている。歴史古街道団事務局長指導により訂正。2018.11.18
参考Dシヅノヲダマキは、梶の木の繊維と麻の繊維で、筋や格子模様を織り出す織物を「しづ倭文」と云い、機織りの予め麻糸を玉のようにまかれているのを「しずの苧環(おだまき)」と云った。機を織るとこの苧環から繰り返し糸が出て来るので
「しずの苧環」はくりかえすという動詞を飾る言葉になった。
参考E梁の塵殆んど動く可しは、新古今和歌集の書き出しに優れた歌は天井の塵も動かすとある。
参考F萬歳は、「万才までも長生きするように」から何時までも安泰であるように。
参考G纒頭は、本来は芸能のご祝儀として、物々交換の時代に着ている物を脱いで芸人の肩に掛けてやる。

現代語文治二年(1186)四月大八日乙卯。頼朝様と奥方様は、鶴岡宮にお参りをなされました。その機会を利用して、静御前を回廊にお呼び出しになられました。これは、舞を奉納させるためです。この踊りは、前々から命じておられましたが、病気だと云って云うことを聞きませんでした。捕われ人なので、素直に言うことを聞かない訳にはいかないのだけれども、源九郎義經の妾とあきらかに分かるように皆の前に出るのは、とても恥ずかしい事なので、普段からぐずぐずとごまかしてきたけれども、彼女の舞の名声は、世間に知られた名人なのであります。それが偶然に関東へ来て、近いうちに京都へ帰るというので、その芸を見ないで帰してしまうなんて、なんてもったいないことかと、奥方様が盛んに進めるので、仕方無しに呼び出すことになりました。絶対に八幡大菩薩もお気に入られるであろうとおっしゃられましたとさ。

最近は、とても悲しいことがありましたので、とても踊りなんて上手に踊る気力もありませんと、回廊に座ってからも未だぐずって辞退していました。しかし、何度も命令されたので、嫌々ながらも、白雪のような真っ白な袖をひるがえして、黄竹の歌を歌いました。工藤左衛門尉祐經が鼓を打ちました。彼は、何代か前からの武勇の優れた家に生まれて、戦闘の技を継いでいるだけでなく、六位の蔵人として京都へ勤務した時に自分から歌になじんでいたのでこの役を与えられたのでしょうね。畠山次郎重忠は小型の銅のシンバルを打つ役です。

静御前はまず、歌を歌って述べました。

吉野山峯ノ白雪フミ分テ、入ニシ人ノ跡ゾコヒシキ(落人として逃げたときに吉野山は女人禁制なのでお別れして、深く積もった峰の雪を踏んで山へ分け入って行ったあの人の後姿が忘れられずに、いっそ後を追って行きたかったのに)

次に別な今様などを歌った後で、和歌を吟じました。

 シヅヤシヅ〜〜ノヲダマキクリカヘシ昔ヲ今ニナスヨシモガナ(しずしずと糸巻きが何度も巻き返しているように、私もあなたとの睦みあっていた昔を走馬灯のように思い出しては泣いています)

いやもう、本当に神殿のお供えにぴったりの見ものでした。神殿の梁に積もった塵さえも神様が喜んで震え動いているように思われ、見ている人は上下の別無く感動をしました。

(それなのに一人だけ野暮なお方の)頼朝様が、おっしゃるには、八幡宮の前で、芸能を奉納する時に、関東の安泰を祝うところだろうのに、神も私も聞いていることを知りながら、鎌倉に反逆した源九郎義經を恋しくて別れの時の事を歌うなんてとんでもないやつだだとさ。そしたら奥方様がたしなめられて云いました。

あんたが、犯罪者として島流しにあって、伊豆に蟄居していたときに、私はあんたと出来ちまったけれど、父の北條四郎時政さんが、平家全盛の時に源氏のせがれとの事を平家への聞こえを心配して、私を合わせないように閉じ込めてしまいました。しかし私はそれでもあんたが恋しくて、真っ暗夜の闇の中を、激しい雨に打たれながらも、あんたの所へ逃げていったものさ。それに、石橋山の合戦に出陣している時は、一人で走湯神社に逃げ込んで残り、あんたの生き死にを知ることも出来ず、ただ毎日生きた心地もしなかったものでしたよ。その時の悲しみを思い出せば、今の静御前の心は、源九郎義經が可愛がってくれたことを忘れずに恋しがっているので、他の男には目もくれない貞操堅固な女の姿だと云えるんじゃないのかい。踊った外見の素晴らしさもさることながら、内に秘めた感情にも感謝したいよ。本当に魅惑的に感動させられたのだから、そこらへんは我慢をして、褒めてあげてくださいなだとさ。

それで、頼朝様も(やせ我慢せずに褒めることが出来たので、ほっとして)着ている着物「卯の花重ね」を御簾の外に押し出し、これをご祝儀にしましたとさ。(めでたし、めでたし!)

文治二年(1186)四月大十三日庚申。北條殿自京都參着。京畿沙汰間事。條々有御問。亦被申子細。就中。注謀反輩知行所々。可檢知其地之由雖言上。不被聽之。次前攝政殿〔基通〕被仰家領等難被付渡當執柄方由事。加潤色詞被計申。次播磨國守護人妨國領由事。在廳注文。景時代官状雖被下之。未申切是非。次今南。石負兩庄并弓削杣兵粮事。度々被下 院宣之間。早可停止之由。捧請文下向畢。凡條々。去月廿四日蒙傳 奏之由。毎事不違二品御命云々。

読下し               ほうじょうどのきょうとよ  さんちゃく   けいき    さた   かん  こと じょうじょうおんといあ   また しさい  もうさる
文治二年(1186)四月大十三日庚申。北條殿京都自り參着す。京畿の沙汰の間の事、條々御問有り。亦子細を申被る。

なかんづく  むほん  やから ちぎょう しょしょ  ちゅう    そ  ち   けんち すべ  のよしごんじょう   いへど   これ きかれざる
就中に、謀反の輩の知行の所々を注し、其の地を檢知@可し之由言上すと雖も、之を聽被不。

つぎ さきのせっしょうどのおお らる かりょうら  とう  しっぺい  かた  つ  わたされがた よし こと  ことば じゅんしょく くは   はか  もうさる
次に前攝政殿仰せ被る家領等、當の執柄の方に付け渡被難き由の事、詞に潤色を加へA計り申被る。

つぎ  はりまのくにしゅごにん こくりょう さまた   よし  こと  ざいちょう ちゅうもん かげとき  だいかん じょう これ  くださる   いへど   いま   ぜひ   もう  き
次に播磨國守護人が國領を妨げるB由の事、在廳の注文、景時の代官の状、之を下被ると雖も、未だ是非を申し切らず。

つぎ  いまなみ いしぶ(いそう)りょうしょうなら ゆげのそま  ひょうろう こと たびたびいんぜん くださる のかん  はや  ちょうじすべ  のよし  うけぶみ  ささ   げこう をはんぬ
次に今南C石負Dの兩庄并びに弓削杣Eの兵粮の事F度々院宣を下被る之間、早く停止可し之由、請文を捧げ下向し畢。

およ じょうじょう さんぬ つきにじうよっかてんそう こうむ のよし  まいじ にほん  おんめい たがはず うんぬん
凡そ條々、去る月廿四日傳奏を蒙る之由、毎事二品の御命に違不と云々。

参考@檢知は、検地ではなく、義經や行家を代官(地頭)にした荘園領主が誰であるかを調べる。
参考A
潤色を加へは、色々と弁解をして。
参考B守護人が國領を妨げるは、国司が遥任で年貢の催促などをきちんとしないので、守護又は守護の代官が国司の権限を奪って年貢を変わりに徴収してしまうい。当然ピンはね分は自分の懐に入れてしまう。
参考C今南は、不明。丹波国で今がつくのは、兵庫県篠山市今田町(ササヤマシ)。もうひとつの石負の南三里半。今南は摂津とも言われる。三月二日に申し入れに時政が回答している。
参考D石負庄は、旧丹波国氷上郡石生村。現兵庫県丹波市氷上町石生(イソウ)。福知山線石生駅東、水分れ。(標高100mを切る日本最低所で谷中の中央分水界)ヤフーの地図の真ん中くらいの縮尺(市)に「石負」の文字も現れる。拡大すると消える。
参考E弓削は、丹波国桑田郡弓削庄で京都市右京区京北上弓削町。京都市指定登録文化財美術工芸に「丹州桑田郡弓削庄一宮八幡宮御宝鰐口也」の銘文入り鰐口がある。京都府北桑田郡弓削村が1955年他と合併し京北町発足。2005年右京区に編入。(後白河の領地)
参考F兵粮の事は、源平合戦に合戦用兵糧米として、後白河法皇から貰った兵糧料所からの兵糧米の徴収を合戦が終わったのに止めていない。

現代語文治二年(1186)四月大十三日庚申。北條時政殿が京都から鎌倉へ到着し、御所へ参りました。頼朝様から京都で施行した事柄を順々に質問され、詳しくお答えになられました。特に謀反人の義經・行家の所領を書き出して、その土地の荘園領主を調べましょうと申し上げましたが、朝廷は許可しませんでした。次に、前摂政近衛基通様の藤原氏の殿下渡領である領地について、現在の摂政九条兼実様に譲れないことを、色々と弁解をしておりました。次に播磨国守護人が国衙領を横取りした話では、国衙の役人の在庁官人の苦情の手紙と、梶原景時の現地担当の代官からの手紙をよこしましたが、未だに結論は出されていません。次に今南・石負の二つの荘園と薪を年貢とする荘園の弓削杣の兵糧米の事を、何度も院宣が出ているので、早く地頭撤退しますと返事を出してから鎌倉へ来ました。などの事柄を二十四日に法皇様に伝えて戴いた事は、どれも頼朝様の思ったとおりでしたとさ。

文治二年(1186)四月大十五日壬戌。小中太光家自京都歸參。左典厩〔能保〕被献御返報云々。去月廿五日。賢息首服。理髪右中將實教朝臣。加冠内苻〔實定〕云々。

読下し               こちゅたみついえ きょうとよ   きさん     さてんきゅう  ごへんぽう  けん  らる    うんぬん
文治二年(1186)四月大十五日壬戌。小中太光家京都自り歸參す。左典厩の御返報を献じ被ると云々。

さんぬ つきにじうごにち けんそくしゅふく   りはつ  うちゅうじょうさねのりあそん  かかん  ないふ  うんぬん
去る月廿五日、賢息首服す。理髪は右中將實教朝臣、加冠は内苻と云々。

現代語文治二年(1186)四月大十五日壬戌。小中太光家(中原)が京都から戻りました。左典厩一条能保様のご返事の手紙を頼朝様に提出しました。先月の二十五日に息子さん(高能)が元服しました。童髪を切る役は右中将山科実教様で、冠をかぶせる烏帽子親は内大臣徳大寺実定様だとさ。

文治二年(1186)四月大廿日丁夘。攝録御家領等事。二品令申京都給。其趣。前攝政殿。稱白河殿領。除氏寺社領等外者。皆御押領云々。尤以不便次第候。攝政家爭無御家領候哉。平家在世之時。号中攝政殿〔基實〕後室白河殿悉所領掌候也。松殿〔基房〕讒氏寺領計知行給。其時事極無道邪政候哉。代々家領。新攝政家可令領掌給候。只知足院殿〔忠實〕御附属高陽院之御庄五十餘所云々。以其。前攝政家可有御領掌候歟。最任道理。可被仰下候歟者。又今日行家義經猶在洛中。叡岳悪僧等同意結搆之由。有其聞之間。殊可被申沙汰歟。不然者。差登勇士於彼山。可搜求件悪僧等之由。被仰遣師中納言〔經房〕許。依之。源刑部丞爲頼〔元者新中納言知盛卿侍。故爲長親者也〕爲使節上洛云々。

読下し             せつろく   ごかりょう ら   こと  にほん きょうと  もうさせし  たま
文治二年(1186)四月大廿日丁夘。攝録の御家領@等の事、二品京都へ申令め給ふ。

そ おもむき  さきのせっしょうどの  しらかわでんりょう  しょう  うじでら  しゃりょうら  のぞ  ほかは  みなごおうりょう  うんぬん  もつと もつ  ふびん   しだい そうろう
其の趣は、前攝政殿A、白河殿領Bと稱し、氏寺、社領等を除く外者、皆御押領すと云々。尤も以て不便の次第に候。

せっしょうけ  いかで  ごかりょうな そうろうや  げいけざいせ のとき  なかのせっしょうどの こうしつ  ごう  しらかわどのことごと りょうしょう  ところ そうろうなり
攝政家Cは爭か御家領無く候哉。平家在世之時、中攝政殿Dの後室と号し白河殿 悉く領掌する所に候也。

まつどの わずか うじでらりょう ばか  ちぎょう  たま   そ   とき  こと  きわ    むどうじゃせい  そうろうや
松殿E讒に氏寺領F計りを知行し給ふ。其の時の事、極めて無道邪政に候哉。

だいだい  かりょう    しんせっしょうけ りょうしょうせし たま  べ  そうろう  ただ  ちそくいんどの  かやのいん   ごふぞくのごしょう  ごじうよしょ   うんぬん
代々の家領は、新攝政家が領掌令め給ふ可きに候。只、知足院殿Gの高陽院Hに御附属之御庄五十餘所と云々。

そ   もつ  さきのせっしょうけおんりょうしょうあ  べ  そうろうか  もつお どうり  まか   おお  くださる  べ  そうろうかてへ
其を以て、前攝政家御領掌有る可く候歟。最も道理に任せ、仰せ下被る可く候歟者り。

またきょう   ゆきいえ  よしつねなおらくちゅう あ   えいがく  あくそうら どうい   けっこう     のよし  そ   きこ  あ   のかん  こと  もう   さた らる  べ   か
又今日、行家・義經猶洛中に在り。叡岳の悪僧等同意し結搆する之由、其の聞へ有る之間、殊に申し沙汰被る可き歟。

しからずんば ゆうしを か   やま  さ   のぼ      くだん あくそうら   さが  もと    べ    のよし そちのちゅうなごん もと おお  つか  さる
不然者、勇士於彼の山に差し登らせ、件の悪僧等を搜し求める可し之由、師中納言の許に仰せ遣は被る。

これ  よつ  みなもとぎょうぶのじょうためより 〔もとはしんちゅうなごんとももりきょう さむらい こためなが  しんじゃなり〕 しせつ  な  じょうらく    うんぬん
之に依て、源刑部丞爲頼〔元者新中納言知盛卿の侍。故爲長Iの親者也〕使節と爲し上洛すと云々。

参考@攝録の御家領は、摂政の領地。殿下渡領。
参考A前攝政殿は、近衛基通(1160-1223)。
参考B白河殿領は、C盛の娘盛子が夫・藤原基実の死後、摂関家領の大部分を相続していて、九条兼実は治承三年の盛子の死に「異姓の身で藤原氏の所領を押領したので春日大明神の神罰が下った」(『玉葉』)と日記に記している。盛子の管理していた摂関家領は基通(基実の子)もしくは、盛子が准母となっていた高倉天皇が相続すると思われていたが、後白河法皇は白河殿倉預(くらあずかり)に近臣・藤原兼盛を任じて、事実上その所領の全てを没収してしまった。それでC盛は怒って鳥羽殿へ幽閉した。
参考C攝政家は、ここでは九条兼実(1149-1207)。
参考D中攝政殿は、藤原基実(1143年-1166)。
参考E
松殿は、基房(1145-1231)。
参考F氏寺領は、奈良興福寺と春日大社の領地。
参考G知足院殿は、忠実(1078-1162)は忠通の父。
参考H高陽院は藤原 泰子(ふじわらの たいし/やすこ、(1095年-1156)は平安末期の后妃、女院。第74代鳥羽天皇の皇后。院号は高陽院(かやのいん)。初名は勲子。名の読みはいずれも「やすこ」。父は知足院関白・藤原忠実、母は右大臣源顕房の女・従一位師子。同母弟に法性寺関白太政大臣忠通、異母弟に宇治左府頼長がいる。
参考I為長は、満快流清和源氏片桐為長。満快は、頼朝の祖満仲の弟。

現代語文治二年(1186)四月大廿日丁夘。摂政九条兼実の領地について、頼朝様は京都の後白河法皇に申し入れました。その内容は、前摂政近衛基通殿は、父基実の妻白河殿盛子の領地だといって、氏寺の興福寺領と春日大社の領地以外を全部独り占めしてしまったそうだが、これはとても都合の悪いことであります。現在政治を司る摂政が領地が無いじゃないですか。平家が盛んな時に、中摂政長男の基実殿の後家だからと白河殿盛子がすっかり手に入れてしまった所なのです。二男の松殿基房はわずかに興福寺領を治めています。その時の分配の判断がとんでもないでたらめな政治じゃありませんか。藤原氏代々の領地は、摂政が預かるべきじゃないのですか。だから摂政を退いた基通殿は、祖父の忠実が娘で鳥羽天皇の皇后だった高陽院(かやいん)に与えた荘園五十余箇所あるんだから、それを基通が知行すればいいんじゃないですか。そう云う一番道理にかなう命令を出されるべきなんじゃないですか。と云っております。又今日、行家と義經が京都の中に居て、比叡山の僧兵達が味方をしてかくまっていると、話が聞こえているはずだから、特に命令を出してくださいよ。そうでなければ、強い武士達を比叡山に登らせて、その僧兵達を探して捕まえるように、朝廷の窓口関東申次ぎの師中納言吉田経房の所へ伝えさせました。この内容を源行部丞為頼〔元は新中納言平知盛の家来で故片桐為長の親類〕が派遣員として京都へ旅立ちましたとさ。

忠実G
 ├──┬──┬
泰子 忠通 頼長
 
H   ├──┬──┬──┬──┬──┬──┬──┬──┐
   基実 基房 兼実 兼房 信円 慈円 聖子 育子 呈子   基通
A基実Dの子。
   
D  E  C

文治二年(1186)四月大廿一日戊辰。遠江守義定朝臣自彼國參上。日來於當國湖岩室已下山寺。雖搜求豫州。不獲之由被申之。則召御前。遠州被備三献。此間頗及御雜談。二品仰云。遠江國有何事哉。義定朝臣申云。勝田三郎成長去六日任玄番助。是一勝事也。次爲見狩獵。向二俣山之處。鹿九頭一列走通義定之弓手。仍義定并義資冠者。淺羽三郎等馳駕。悉以射取之畢。件皮所令持參也者。入興給。五枚献二品。三枚進若公。一枚被志小山七郎朝光。只今候御酌之故也。成長任官事。兼日無言上之旨。任雅意之條尤奇恠。早可被糺行之由被仰。遠州聊赭面無思慮申。於事有後悔之氣歟云々。

読下し              とおとうみのかみよしさだあそん かのくによ  さんじょう
文治二年(1186)四月大廿一日戊辰。 遠江守義定朝臣@彼國自り參上す。

 ひごろとうごく  うみ  いわむろ いげ  さんじ   をい   よしゅう  さが  もと      いへど   えられずのよしこれ  もうさる
日來當國の湖A、岩室B已下の山寺に於て、豫州を搜し求めると雖も、獲不之由之を申被る。

すなは ごぜん  め     えんしゅう さんこん そな  らる    こ  かん  しきり  ごぞうだん  およ
則ち御前に召し、遠州に三献を備へ被るC。此の間、頗に御雜談に及ぶ。

にほんおお    い     とおとうみのくに なにごと  あ   や
二品仰せて云はく。遠江國に何事か有る哉。

よしさだあそん もう    い       かつたのさぶろうしげなが さんぬ むいかげんばのすけ  にん  これひとつ しょうじなり
義定朝臣申して云はく。 勝田三郎成長D去る六日玄番助Eに任ず。是一の勝事也。

つぎ  しゅりょう み  ため  ふたまたやま  むか のところ  しかきゅうとういちれつ よしさだのゆんで  はし  とお
次に狩獵を見ん爲、二俣山Fへ向う之處、鹿九頭一列に義定之弓手を走り通る。

よつ  よしさだなら   よしすけかじゃ  あさばのさぶろう ら が  は   ことごと もつ  これ  いと をはんぬ
仍て義定并びに義資冠者、淺羽三郎G等駕を馳せ、悉く以て之を射取り畢。

くだん かわ じさんせし  ところなりてへ    きょう  い  たま
件の皮持參令む所也者れば、興に入り給ふ。

ごまい にほん  けん    さんまいわかぎみ すす   いちまいおやまのしちろうともみつ ここらざされ ただいま おしゃく そうら のゆえなり
五枚二品に献じ、三枚若公に進め、一枚 小山七郎朝光に 志被る。只今御酌に候う之故也。

しげなが にんかん こと  けんじつごんじょうのむねな    がい   まか   のじょうもつと  きっかい  はや  ただ  おこなはれ べ  のよし  おお  らる
成長が任官の事、兼日言上之旨無し。雅意に任せる之條尤も奇恠。早く糺し行被る可し之由、仰せ被る。

えんしゅういささ つら あから しりょ な  もう    こと  をい  こうかいの け あ   か   うんぬん
遠州聊か面を赭め思慮無く申し、事に於て後悔之氣有る歟と云々。

参考@遠江守義定朝臣は、安田義定。
参考A當國の湖は、浜中湖。
参考B
岩室は、静岡県磐田市岩室。
参考C三献を備へ被るは、頼朝が安田三郎義定を饗応している大物なので、後に滅ぼされるが、安田元久氏は大豪族抑圧策と云い、奥富敬之氏は御家人平均化政策と呼ぶ。塾長は大豪族解体説と名付けている。
参考D勝田三郎成長は、勝間田長重。遠江一番の豪族で戦国時代に織田信秀について今川義元に滅ぼされるまで続く。
参考E玄番助は、外務省次官にあたるので実のない名誉としての名官である。
参考F
二俣山は、浜松市天竜区役所が二俣町二俣にある。
参考G淺羽三郎は、淺羽庄司宗信の子と思われるので、旧遠江国磐田郡。静岡県袋井市浅羽支所。

現代語文治二年(1186)四月大廿一日戊辰。遠江守安田三郎義定が、遠江の国から鎌倉へやってきて、普段、浜中湖や岩室などの山や寺で、源九郎義經を探させていますが、見つけることが出来ないと報告しました。
直ぐに頼朝様は御前に呼んで、遠江守義定に饗応のお酒を用意しました。その宴の間、色々と雑談に花が咲きました。頼朝様が言われるには「遠江の国で、何か面白い出来事はありましたかね。」遠江守義定は答えて「勝間田三郎成長が玄番助に任じられたことが、一番のめでたい話ですね。次には、狩をしようと二俣山へ向かって行ったら、鹿が九頭も一列に並んで、私の弓手側を走っているんですよ。そこで、遠江守義定と倅の義資、淺羽三郎が馬を走らせ、ぜーーんぶ弓で射て仕留めたんですよ。
今日、その鹿皮を持ってきていますよ。」といったら、頼朝様は大喜びでした。鹿皮五枚を頼朝様に献上し、三枚を若君
(万寿、後の頼家数えの五歳)に進め、一枚を小山七郎朝光の心づけにしました。目の前でお酌をしているからです。
「勝間田成長の任官の話は、前もって何の話も無いじゃないか。自分で勝手に推薦するとは、最も千万の主人をないがしろにする罪に当たるぞ。早く、ちゃんと筋を通すようにやり直しなさい。」とおっしゃられました。
遠江守義定は多少顔を赤らめて、良く考えずにしゃべっちまって、えらい失敗をしたなーと悔やんでおりましたとさ。

文治二年(1186)四月大廿四日辛未。陸奥守秀衡入道請文參着。貢馬貢金等先可沙汰進鎌倉。可令傳進京都由載之云々。是去比被下御書。御舘者奥六郡主。予者東海道惣官也。尤可成魚水思也。但隔行程。無所于欲通信。又如貢馬貢金者。爲國土貢予爭不管領哉。自當年。早予可傳進。且所守勅定之趣也者。上所奥御舘云々。

読下し              むつのかみひでひらにゅうどう  うけぶみさんちゃく  くめ   こうきんら ま  かまくら   さた しん  べ
文治二年(1186)四月大廿四日辛未。陸奥守秀衡入道@が請文參着す。貢馬A・貢金等先ず鎌倉に沙汰進ず可し。

きょうと  つた  しんぜし  べ   よし  これ  の      うんぬん これさんぬ ころおんしょ  くださる
京都へ傳へ進令む可し由、之を載せると云々。是去る比御書を下被る。

みたちは おくろくぐん ぬし  よは とうかいどう  そうかんなり  もつと ぎょすい おも    な   べ   なり
御舘者奥六郡の主、予者東海道の惣官也。尤も魚水の思いを成す可き也。

ただ  こうてい へだ    しん  つう      ほつ    にところな
但し行程を隔て、信を通ぜんと欲する于所無し。

また   くめ   こうきん  ごと  は   こくど  みつぎ な  よ いかで かんりょう ざるや  とうねんよ    はや  よ つた  しん  べ
又、貢馬・貢金の如き者、國土の貢と爲し予爭か管領せ不哉。當年自り、早く予傳へ進ず可し。

かつう ちょくじょうのおむき まも ところなりてへ   うはつどころ おく みたち  うんぬん
且は勅定之趣を守る所也者れば、上所Bは奥の御舘と云々。

参考@陸奥守秀衡入道は、奥州藤原氏三代目。
参考A
貢馬は、馬を年貢として朝廷へ献上すること。
参考B上所は、宛名。

現代語文治二年(1186)四月大廿四日辛未。陸奥守奥州藤原秀衡からの返事が届きました。朝廷へ年貢として納める馬と砂金については、まず鎌倉へお送りすることにしますので、京都へ送り届けてくださいと、書かれていましたとさ。
これは、前に頼朝様が手紙を出したからです。御館は奥州六郡の領主である。私頼朝は、東海道の総合長官である。お互いに仲良くしなければならないのだが、距離が離れているので、意思を通じたくても思うようになりません。しかし京都へ献上する馬や砂金は、長官として私が管理すべき土地からの朝廷への献上品なので、なんで私が取り仕切らずにいられましょうか。今年から、まず私に提出をするように。それは、朝廷からの命令書の内容を守るからです。と言い送りました。宛名は奥州の御舘なんだとさ。

文治二年(1186)四月大卅日丁丑。當時京中嗷々。更不相鎭。被献御消息於内府已下議 奏公卿等。是抽兢戰之誠。可令興行善政給由也。其状云。
 天下之政道者。依群卿之議奏。可被澄C之由。殊所令計言上也。具存君臣之議給者。各無私不諛。令廻賢慮給。可令申沙汰給也。頼朝適禀武器之家。雖運軍旅之功。久住遠國。未知公務之子細候。又縦雖知子細。全非其仁候。旁不能申沙汰候也。但爲散人之愁。一旦令執申事者。雖爲頼朝之申状。不可有理不盡之裁許候。諸事可被行正道之由。所相存候也。兼又。縦雖被下 勅宣院宣事候。爲朝爲世可及違乱端之事者。再三可令覆奏給候也。思而不令申給者。定非忠臣之礼候歟。仍爲御用意。乍恐上啓如件。
      四月卅日                           頼朝
  進上 某殿
礼紙状云。
 追啓
 如此之次第。自攝政家令觸申給歟。朝之要樞也。必可竭忠節給候也。

読下し             とうじ けいちゅう がうがう   さら あいしずまらず ごしょうそこをないふ いか  ぎそうくぎょうら  けん  らる
文治二年(1186)四月大卅日丁丑。當時京中の嗷々@、更に相鎭不。御消息於内府已下議奏公卿等に献ぜ被る。

これけいせんのまこと ぬき     ぜんせい こうぎょうせし たま  べ   よしなり   そ   じょう い
是兢戰之誠を抽んで、善政を興行令め給ふ可しの由也。其の状に云はく。

参考@嗷々は、がたがた云う人が大勢いる。

  てんか の せいどうは  ぐんきょうの ぎそう  よつ   ちょうせいさる  べ  のよし こと はから ごんじょうせし  ところなり
 天下之政道者、群卿之議奏に依て、澄C被る可き之由、殊に計ひ言上令む所也。

  つぶさ くんしんのぎ  ぞん  たま  ば  おのおのわたしな へつらはず けんりょ めぐ せし たま     さた もうさせし  たま  べ   なり
 具に君臣之議を存じ給へ者、各、私無く諛不。賢慮を廻ら令め給ひ、沙汰申令め給ふ可き也。

  よりともたまたま   ぶき の いえ  う    ぐんりょの こう  はこ    いへど   ひさ   おんごく  す    いま  こうむ の  しさい  し      そうろう
 頼朝適々、武器之家を禀け、軍旅之功を運ぶと雖も、久しく遠國に住み、未だ公務之子細を知らずに候。

  また  たと  しさい  し     いへど   まった  そ  じん あらずそうろう かたがた もう  さた    あたはずそうろうなり
 又、縦ひ子細を知ると雖も、全く其の仁に非候。旁、申し沙汰するに不能候也。

  ただ  ひとのうれい ち      ため  いったん と もうせし  ことは   よりともの もうしじょうたり いへど   りふじん の さいきょあ  べからずそうろう
 但し人之愁を散らさん爲、一旦執り申令む事者、頼朝之申状爲と雖も、理不盡之裁許有る不可候。

  しょじ せいどう  おこなは  べ  のよし  あいぞん  ところそうろうなり
 諸事正道を行被る可き之由、相存ずる所候也。

  かね  また  たと ちょくせん いんぜん くださる ことそうろう いへど  ちょう ため よ  ためいらん  はし  およ  べ  のことは
 兼て又、縦ひ勅宣・院宣を下被る事候と雖も、朝の爲世の爲違乱の端に及ぶ可き之事者、

  さいさんふくそうせし  たま  べ そうろうなり
 再三覆奏令め給ふ可く候也。

  おもいてもうっせし たま  ずんば  さだ   ちゅうしんのれい あらずそうろうか よつ   ごようい  ため   おそ  なが  じょうけいくだん ごと
 思而申令め給は不者、定めて忠臣之礼に非候歟。 仍て御用意の爲、恐れ乍ら上啓件の如し。

              しがつみそか                                                        よりとも
      四月卅日                           頼朝

     しんじょう  ぼうどの
  進上 某殿

れいし  じょう   い
礼紙Aの状に云はく。

  ついけい
 追啓

  かく の しだい  ごと    せっしょうけよ   ふ  もうさせし  たま  か  ちょうのようすいなり かなら ちゅうせつ かつ たま  べ そうろうなり
 此之次第の如く、攝政家自り觸れ申令め給ふ歟。朝之要樞也。必ず忠節を竭し給ふ可く候也。

参考A礼紙は、書状を出す時、本文を書いた紙に儀礼的に添える白紙。追而書(おつてがき)を記すこともある。点紙。

現代語文治二年(1186)四月大卅日丁丑。現在、京都ではがたがた言う連中が大勢いて、少しも治まりが付きません。そこで申し入れの手紙を内大臣徳大寺実貞以下の、政治を相談して決める公卿の連中に送られました。この内容は、互いに競い合って正しいことを見極め、良い政治を盛んにするようにとの内容です。その手紙に書いてあるのは、

 天下を治める政治の道は、集っている公卿達の相談によって、清く正しくするように、特に考えて申し上げるところです。きちんと君臣の立場をわきまえれば、それぞれ皆、個人の利益を考えないので、胡麻をすること無しに、正しい智恵を使って、後白河法皇に申し上げることでしょう。頼朝は、たまたま武家の家に生まれて、平家討伐の手柄を立てましたけど、京都から遠いところに住んでいるので、未だに政治向きの事は詳しく知りません。又、例え詳しく知っているとしても、そちら方面に向いてはいませんので、皆さんにとやかく言うつもりはありません。但し、人民の悲しみをなくすために、一度取り決めたことは、頼朝が言うことであっても、理不尽な決定をするべきではありません。どんな事も、正しい判断を実施するべきだと、承知しております。そういうわけなので、たとえ天皇命令や上皇・法皇の命令であっても、朝廷のため、世の中のために、乱れの基になりそうな事は、何度でも申し直されるべきであります。思っていながら云わないことは、忠義な部下のすることではありません。ですから心得を持って戴くように、恐縮ですが申し上げることはこのとおりです。
 四月三十日 頼朝

添えてある紙礼紙に書いたこと

 追って述べます
 このような事は、摂政家九条兼実様から命じるべきものです。貴方は朝廷の要なのですから、必ず忠義のために言い出すべきです。

五月へ

吾妻鏡入門第六巻

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