吾妻鏡入門第六巻

文治二年(1186)五月小

文治二年(1186)五月小一日戊寅。自去比黄蝶飛行。殊遍滿鶴岳宮。是恠異也。仍今日以奉御供之次。爲邦通奉行。有臨時神樂。此間。大菩薩詑巫女給曰。有反逆者。自西廻南。自南又歸西。自西猶至南。自南又欲到東。日々夜々奉窺二品之運。能崇神与君。申行善政者。兩三年中。彼輩如水沫可消滅云々。依之。被奉進神馬。重有解謝云々。

読下し             さんぬ ころよ   きちょう ひこう   こと つるがおあかぐう あまね み    これかいい なり
文治二年(1186)五月小一日戊寅。去る比自り黄蝶@飛行す。殊に鶴岳宮に遍く滿つ。是恠異也。

よつ  きょう  ごく たてまつ のついで もつ    くにみちぶぎょう  な    りんじ   かぐらあ     こ   かん だいぼさつ みこ   つ   たま    い
仍て今日御供を奉る之次を以て、邦通奉行と爲し、臨時の神樂有り。此の間、大菩薩巫女に詑き給ひて曰はく。

はんぎゃくしゃあ   にしよ  みなみ めぐ   みなみよ  またにし  かえ   にしよ  なおみなみ いた  みなみよ  またひがし いた     ほつ
反逆者有り。西自り南に廻り、南自り又西へ歸る。西自り猶南へ至り、南自り又東へ到らんと欲す。

ひび  よよ にほんの うん  うかが たてまつ
日々夜々二品之運を窺い奉る。

よ   かみと きみ  あが   ぜんせい もう  おこな ば  りょうさんねんちゅう  か  やからすいまつ ごと  き  ほろ  べ    うんぬん
能く神与君を崇め、善政を申し行は者、兩三年中に、彼の輩水沫の如く消え滅ぶ可しと云々。

これ  よつ    しんめ  すす たてまつらる  かさ    げしゃ あ    うんぬん
之に依て、神馬を進め奉被る。重ねて解謝有りと云々。

参考@黄蝶は、吾妻鏡では「合戦の前兆」として扱っている。和田合戦(建暦三年(1213)五月二日)直後(A建暦三年(1213)八月廿二日)や三浦合戦(寳治元年(1247)六月五日)の前(B寳治元年(1247)三月大十七日)や翌年(C寳治二年(1248)九月小七日、D寳治二年(1248)九月小十九日)にも全部で五回黄蝶が飛んでいる。

現代語文治二年(1186)五月小一日戊寅。先日から黄色い蝶が飛び回っています。特に鶴岡八幡宮に群れ飛んでいます。これは不吉な前兆です。そこで、今日神様にご飯をお供えする時に、大和判官代邦道が担当をして、予定外のお神楽を奉納しました。そしたら、その結果八幡大菩薩が巫女に乗り移って話しました。反逆者がいる。西から南に行き、南から又西へ戻る。西から又も南へ行って、南から東へ到着するであろう。昼と云い、夜といい、頼朝様の運を見つめています。だから神様と天皇家を敬って、正しい政治を行えば、二三年内にその連中も水泡のように消え滅んでしまうでしょうだとさ。そのお告げを聞いて、神様に馬を奉納して、もう一度お参りをしなおしました。

参考これは、意として源九郎義經が京都から熊野水軍と打ち合わせに行き、後白河法皇の元へ挨拶に再び京都へ舞い戻り、もう一度熊野水軍を使って奥州へ行くつもりであろうとの予言。結果、文治五年に源九郎義經も奥州藤原氏も滅んだ。一見、予言どおりのようだが、書かれたのは百年後である。

文治二年(1186)五月小二日己夘。前對馬守親光可被還任之由。重所被申京都也。此親光在任之間。平氏下向鎭西。可參向屋嶋之由雖相觸。不從。仍以少貳種直郎從等欲追討之間。遁渡高麗國訖。彼氏族滅亡後。依二品仰。無爲上洛。其翔已大功也。加之任中之間。或爲御祈祷。或令修造八幡宮以下鎭守諸大明神六十餘社之御寳殿。或奉餝同宮放生會御輿裝束并錦御帳及神殿御戸帳舞裝束等。其准穎爲三萬餘疋云々。載目六。先日持參關東。凡任國之時。修造此等神殿之者。募其賞。被仰重任遷任之例也。可蒙賞之旨言上。其上依賀茂齋院成功。賜重遷任 宣旨。以此次可拝任尋常國之趣。内々望二品御擧達。而無闕國。如元可拝任彼嶋之由。被 奏聞之。以除目之次可被任之旨 勅答畢。而去春除目之時。他人拝任云々。是依廷尉公朝訴被閣之。公朝就鎌倉内儀。支申之趣發言。然而不帶證文。親光捧嚴密御消息者也。爭有御改變乎。除目後朝。周章所失度也。早重可有御内擧之由。頻令愁申之間。及此沙汰云々。

読下し             さきのつしまのかみちかみつ げんいんさる べ のよし かさ   きょうと  もうさる  ところなり
文治二年(1186)五月小二日己夘。前對馬守親光@ 還任被る可し之由、重ねて京都へ申被る所也。

こ   ちかみつざいにんのかん へいしちんぜい  げこう    やしま  さんこうすべ  のよしあいふれ   いへど   したがはず
此の親光在任之間、平氏鎭西へ下向し、屋嶋へ參向可し之由相觸ると雖も、從不。

よつ  しょうにたねなお  ろうじゅうら  もつ  ついとう      ほつ    のかん  のが   こうらいこく  わた をはんぬ
仍て少貳種直A、郎從等を以て追討せんと欲する之間、遁れて高麗國へ渡り訖。

か   うじぞくめつぼう  のち  にほん  おお   よつ    ぶい   じょうらく    そ  ふるま すで  たいこうなり
彼の氏族滅亡の後、二品の仰せに依て、無爲に上洛す。其の翔い已に大功也。

これ  くは  にんちゅうのかん ある    ごきとう   な     ある    はちまんぐう いか  ちんじゅしょだいみょうじんろくじうよしゃの ごほうでん  しゅうぞうせし
之に加へ任中之間、或ひは御祈祷を爲し、或ひは八幡宮以下の鎭守諸大明神六十餘社之御寳殿を修造令む。

ある    どうぐうほうじょうえ   みこし  しょうぞくなら   にしきのごちょうおよ  しんでん おんとばり まいしょうぞくら  かざ たてまつ
或ひは同宮放生會Bの御輿の裝束并びに錦御帳及び神殿の御戸帳、舞裝束等を餝り奉る。

そ  じゅんえい さんまんよひきたり  うんぬん  くろく  の     せんじつぁんとう   じさん
其の准穎Cは三萬餘疋爲Dと云々。目六に載せ、先日關東へ持參す。

もおよ  にんこくの とき  これら   しんでん しゅうぞうのもの  そ しょう つの    ちょうにん せんにん  おお らる  のれいなり
凡そ任國之時、此等の神殿を修造之者、其の賞に募り、重任E遷任Fを仰せ被る之例也。

しょう こうむ べ    のむねごんじょう  そ   うえ かもいつきいん じょうごう  よつ   かさ    せんにん  せんじ たま
賞を蒙る可き之旨言上す。其の上賀茂齋院の成功に依て、重ねて遷任の宣旨を賜はる。

こ  ついで  もつ じんじょう くに  はいにんすべ のおもむき ないないにほん ごきょたつ  のぞ
此の次を以て尋常の國に拝任可き之趣、内々二品の御擧達を望む。

しか    けつこくな     もと  ごと  か   しま  はいにんすべ  のよし これ そうもんさる    じもくのついで  もつ  にんぜら  べ  のむねちょくとう をはんぬ
而るに闕國無く、元の如く彼の嶋を拝任可し之由、之を奏聞被る。除目之次を以て任被る可き之旨勅答し畢。

しか    さんぬ はる  じもくのとき   たにん はいにん  うんぬん  これていじょうきんとも うった  よつ  これ  さしおかれる
而るに去る春の除目之時、他人拝任すと云々。是廷尉公朝の訴へに依て之を閣被。

きんともかまくら  ないぎ   つ    ささ  もう  のおもむきはつげん しかれどもしょうもん おびず  ちかみつげんみつ ごしょうそこ ささ  ものなり
公朝鎌倉の内儀に就き、支へ申す之趣發言す。然而證文を帶不。親光嚴密の御消息を捧げる者也。

いかで ごかいへんあ  や   じもく  ごちょう   しゅうしょうど うしな ところなり
爭か御改變有り乎。除目の後朝G、周章度を失う所也。

はや  かさ   ごないきょ あ   べ   のよし  しきり うれ  もうさせし  のかん  かく   さた   およ   うんぬん
早く重ねて御内擧有る可し之由、頻に愁い申令む之間、此の沙汰に及ぶと云々。

参考@前對馬守親光は、宗親光。宗一族は親光の三代前から明治維新まで対馬(下国)の国司をした。
参考A少貳種直は、原田大夫種直で原田庄
、現福岡県前原市(マエバルシ)。大宰府副長官(太宰少貮)
参考B放生會は、供養のため、捕らえられた生き物を放してやる儀式。Goo電子辞書から。本来は、陰暦八月一五日だが、現在では鎌倉八幡宮で神幸祭の名で九月一五日に神事に行われる。
参考C准穎は、籾米に例えると。
参考D三萬餘疋は、一疋が一貫文で籾米一石なので三万石余。
参考E重任は、任期四年でもう一度同じ官職に就任すること。めったにできない。
参考F
遷任は、より上国へ転任すること。
参考G後朝は、本来「きぬぎぬ」と読み、男女が互いに衣を重ねて共寝した翌朝、別れるときに身につける、それぞれの衣服。(古今和歌集)とか、相会った男女が一夜をともにした翌朝。また、その朝の別れ。を指すが、知っている言葉を意味を間違えて使っている。

現代語文治二年(1186)五月小二日己夘。前対馬守親光が、前の職に返り咲くように、頼朝様は再度京都へ申し込まれたのです。
この親光は、対馬に在任中に、平家が九州へ落ち延びてきて、平家頭領の宗盛がいる屋島へ挨拶に来るように伝えましたが、云うことを聞きませんでした。それなので大宰府の次官の太宰少弐原田種直が、家来達をやっつけによこしたので、逃げて朝鮮へ渡海しました。その平家が滅亡してから、頼朝様が武士達に命令したので、無事に京都へ帰れました。その行動がすでに朝敵に従わなかったので、大手柄なわけです。その上そればかりか、任務中に朝廷の無事と平家討伐を神に祈ったり、八幡宮を始めとする鎮守様や大明神六十余もの神社の神殿を修理しました。又、八幡宮の生き物を放して食を懺悔する放生会のお神輿を担ぐ神官達の制服や、色とりどりにグラデーションしたお神輿の周りに飾る垂れ幕や、神殿の壁掛けとお神楽の着物等を神様に飾って見せました。その費用は籾米で三万余石でしたとさ。これを目録にして先日関東の頼朝様のもとへ持ってきました。普通国司に就任している時に、こういった神社などを修繕したものには、その恩賞として、再任用されるか上国へ栄転するのが一般例です。恩賞を戴ける様に上申しました。その上、上賀茂神社での伊勢神宮へ行かれる皇女のお手伝いをした奉仕によって、二重の栄転の朝廷の命を受けました。実は、この機会に対馬のような貧乏国でなく、普通の国へ栄転するように、内々に頼朝様のご推挙を望みました。しかし、国司空席の国が無いので、前の通りに対馬守を戴くように後白河法皇に取次いでもらいました。人事異動の発表の時に一緒に任命しましょうと朝廷から返事が来ました。ところが、先だっての春の人事異動で、他の人が任命されてしまいました。それは、検非違使大江公朝がいちゃもんをつけたので、止めてしまいました。公朝は鎌倉からの意見を聞いたから指示しているんだと主張をしました。しかし、文書を持っていません。親光は、確かな鎌倉の手紙を差し出した者なのに、なんで変えてしまうのか。人事異動発表後の翌朝、がっかりとして気もそぞろになってしまいました。
早く追ってご推薦をしてくださいと、一心に嘆いて云って来ているので、この行為となりましたとさ。

文治二年(1186)五月小三日庚辰。出雲國杵築大社總檢校職事。停止出雲則房。以同資忠令計補給云々。

読下し             いずものくに つづきたいしゃ  そうけんぎょうしき  こと  いずものりふさ  ちょうじ
文治二年(1186)五月小三日庚辰。出雲國杵築大社@の總檢校職Aの事、出雲則房Bを停止し、

おな   すけただ   もつ  はか  ぶせし  たま   うんぬん
同じき資忠Cを以て計り補令め給ふと云々。

参考@杵築大社は、明治時代に出雲大社と呼び名を変えた。
参考A
総検校職は、神主の束ね役。別当。
参考B則房は、千家だが、平家の味方をしたので、これから以後この家系は役に就けない。
参考C資忠は、北島家でこの後明治維新まで別当を務める。

現代語文治二年(1186)五月小三日庚辰。出雲国の杵築大社(出雲大社)の筆頭長官の役について、出雲千家則房を止めさせて、同じ一族の北島資忠にしようと検討して任命しましたとさ。

文治二年(1186)五月小八日乙酉。於營中。轉讀藥師經百巻。鶴岳供僧等奉仕之云々。

読下し             えいちゅう をい   やくしきょうひゃっかん てんどく    つるがおかぐそうらこれ  ほうし    うんぬん
文治二年(1186)五月小八日乙酉。營中に於て、藥師經百巻を轉讀@す。鶴岳供僧等之を奉仕すと云々。

参考@転読は、略式の飛ばし読みのお経を上げる事で、お経を左右にアコーデオンのように片手から片手へ移しながらお経を唱える。摺り読みとも云う。反対にちゃんと読むのを「真読」と云う。

現代語文治二年(1186)五月小八日乙酉。大倉御所で、薬師経百巻の略式お経転読をあげました。鶴岡のお坊さん達が奉仕しましたとさ。

文治二年(1186)五月小九日丙戌。前大藏卿前刑部卿等罪科事。於今者可被免歸京之由。去三月被 奏聞畢。 叡慮頗快然云々。仍左典厩被執進職事奉書。今日所到來也。
 二位卿書状 奏聞候畢。泰經。頼經等事。可有恩免之由。度々雖令申。彼心中猶難知之處。散御不審候畢。北面輩事。各誡仰可召仕之由。内々御氣色候也。以此趣可仰遣候。恐惶謹言。
     四月廿六日                      左少弁定長

読下し             さきのおおくらきょう  さきのぎょうぶきょう ら ざいか こと  いま  をい  は ききょう  めん  らる  べ   のよし
文治二年(1186)五月小九日丙戌。前大藏卿@、前刑部卿A等の罪科の事、今に於て者歸京を免ぜ被る可し之由、

さぬ さんがつそうせられをはんぬ えいりょすこぶ かいぜん うんぬん よつ さてんきゅうと  すすめらる しきじ   ほうしょ  きょう とうらい   ところなり
去る三月奏聞被畢。叡慮頗る快然と云々。仍て左典厩執り進被る職事の奉書、今日到來する所也。

  にいのきょう  しょじょうそうもん そうら をはんぬ やすつね よりつねら こと おんめんあ  べ   のよし  たびたびもうせし   いへど
 二位卿の書状奏聞し候ひ畢。泰經、頼經等の事、恩免有る可し之由、度々申令むと雖も、

  か   しんちゅうなおし がた  のところ  ごふしん   ち    そうら をはんぬ
 彼の心中猶知り難き之處、御不審を散らし候ひ畢。

  ほくめん やから こと おのおの いさ おお   めしつか  べ   のよし  ないないみけしきそうろうなり かく おもむき もつ おお つか   べ そうろう  きょうこうきんげん
 北面の輩の事、各、誡め仰せて召仕う可し之由、内々御氣色候也。此の趣を以て仰せ遣はす可く候。恐惶謹言。

           しがつにじうろくにち                                      さしょうべんさだなが
       四月廿六日               左少弁定長

参考@前大藏卿は、大蔵卿高階泰経。
参考A前刑部卿は、頼経。

現代語文治二年(1186)五月小九日丙戌。前大蔵大臣高階泰経と前司法長官藤原頼経が頼朝様追討の宣旨を出した罪により、流罪となっているが、もうそろそろ京都へ戻っても良いと許されたことを後白河法皇に報告したら、それはもう大変喜んでおられましたとさ。そして左典厩一条能保が取次いだその返事の奉書が、今日鎌倉へ着いたところです。

 二位の頼朝様からのお手紙を後白河法皇に読み上げました。泰経と頼経たちの事は、許してもらうように何度も鎌倉へ申し入れたが、頼朝様の考えていることが良く分からず心配していましたが、やっとお気持が晴れました。北面の警固の侍達の扱いは、良く言って聞かせて使うように内々に考えているから。と以上の内容をお伝えするようにと命じられました。謹んで宜しくお願いします。
      四月二十六日  左少弁定長

文治二年(1186)五月小十日丁亥。陸奥守秀衡入道有送進貢馬三疋并中持三棹等。其馬一兩日飼勞。則相副件使者。可進上京都之由。被仰右衛門尉朝家云々。

読下し             むつのかみひでひらにゅうどう   くめ  さんびきなら   ながもち みさおら おく すす  あ
文治二年(1186)五月小十日丁亥。陸奥守秀衡入道@、貢馬A三疋并びに中持B三棹等送り進め有り。

そ  うまいちりょうじつ か いたは  すなは くだん ししゃ  あいそ     きょうと  すす  あ   べ   のよし  うえもんのじょうともいえ  おお  らる   うんぬん
其の馬一兩日飼い勞り、則ち件の使者を相副へ、京都へ進み上ぐ可し之由、右衛門尉朝家Cに仰せ被ると云々。

参考@陸奥守秀衡入道は、平泉の藤原秀衡。
参考A
貢馬は、年貢として朝廷へ献上する馬。
参考B中持は、現在の長持。当然税としての貴重品(砂金、鷲の羽根、海豹の皮等)の中身が入っている。
参考C
右衛門尉朝家は、八田右衛門尉知家。

現代語文治二年(1186)五月小十日丁亥。陸奥守藤原秀衡入道から、朝廷への税金としての馬三頭と貴重品入りの長持三棹が送られてきました。馬を一日二日飼って休ませて、直ぐにその使いの者を一緒に、京都朝廷へ進上するように、八田右衛門尉知家に命じられましたとさ。

参考藤原秀衡は、頼朝の京都朝廷との直接連絡を絶とうとの策に、藤原秀衡は徴発に乗らず、話をあわせてきているのが食えない。

文治二年(1186)五月小十三日庚寅。紀伊刑部丞爲頼爲飛脚自京都到着。所持參 院宣也。以夜繼日可進之旨。師中納言〔經房〕被觸仰之由云々。北條殿被歸關東之後。洛中之狼藉不可勝計。去月廿九日夜。上下七ケ所群盜乱入云々。
 世上嗷々事。定以令聞及給歟。閭巷之説雖不可有御信受。如此人口先々不空歟。時政在京。旁依穩便思食。於他武士者。縦雖召下。於彼男者。勤仕洛中守護可宜之由。度々被仰遣之上。直被仰含畢。然而猶以下向之間。如此事等出來歟。義經行家等在洛中之由風聞。事若實者。天譴已至歟。何不被尋出哉。或説。叡山衆徒之中。有同意之輩云々。中々如此披露。若爲實事者。爲朝家神妙事歟。日來雖被仰所々。無聞食出事。於今者。被搜尋有其便歟。但以無證據事搆出者。適所殘之天台佛法魔滅之因録歟。云彼云是。旁歎思食者也。如此事出來ぬれハ。奉爲君無曲事のみ出來ハ。旁驚 思食者也。去月廿日御消息。〔使侍爲頼〕一昨日到來。付其便。雖仰遣此旨。且有懈怠之疑。且爲散不審。重所被仰也者。 院宣如此。仍執啓如件。
         五月六日                      經房
  謹上  源二位殿

読下し              きいのぎょうぶのじょうためより ひきゃく な きょうと よ  とうちゃく    いんぜん じさん    ところなり
文治二年(1186)五月小十三日庚寅。紀伊刑部丞爲頼飛脚と爲し京都自り到着す。院宣を持參する所也。

よ   もつ  ひ   つい  しん  べ  のむね  そちのちうなごん ふ おお らる  のよし  うんぬん
夜を以て日を繼で進ず可し之旨、師中納言@觸れ仰せ被る之由と云々。

ほうじょうどのかんとう かえられ  ののち  らくちゅうのろうぜきあげ かぞ べからず さんぬ つきにじうくにち よ  じょうげななかしょ  ぐんとうらんにゅう   うんぬん
北條殿關東へ歸被る之後、洛中之狼藉勝て計う不可。去る月廿九日の夜、上下七ケ所に群盜乱入すと云々。

  せじょう がうがう  こと  さだ   もつ  き   およ  せし  たま  か
 世上嗷々の事。定めて以て聞き及ば令め給ふ歟。

  りょこうの せつ ごしんじゅあ  べからず いへど  かく  ごと  じんこうさきざきむな     ざるか
 閭巷之説御信受有る不可と雖も、此の如き人口先々空しから不歟。

  ときまさ ざいきょう かたがたおんびん おぼ め    よつ   ほか   ぶし  をい  は   たと  め   くだ   いへど   か   おとこ をい  は
 時政の在京、旁穩便に思し食すに依て、他の武士に於て者、縦ひ召し下すと雖も、彼の男に於て者、

  らくちう  しゅご   きんじ       よろ      べ    のよし たびたびおお つか  さる  のうえ  じき  おお  ふく られをはんぬ
 洛中の守護を勤仕するは宜しかる可き之由、度々仰せ遣は被る之上、直に仰せ含め被畢。

  しかれども なおもつ   げこうのかん  かく  ごと  ことら しゅつらい   か  よしつね  ゆきいえら らくちう  あ  のよしふうぶん
 然而、猶以て下向之間、此の如き事等出來する歟。義經、行家等洛中に在る之由風聞す。

  ことも   じつ    ば   てんけんすで いた  か  なん  たず  いだ ざらんや   あるせつ   えいざんしゅうとのなか どういのやからあ     うんぬん
 事若し實たら者、天譴已に至る歟。何ぞ尋ね出さ被不哉。或説に、叡山衆徒之中に同意之輩有りと云々。

  なかなかかく  ごと   ひろう   も   じつ  ことたらば  ちょうけ ためしんみょう ことか

 中々此の如きの披露、若し實の事爲者、朝家の爲神妙な事歟。

   ひごろしょしょ  おお  らる    いへど   き     め   いだ  ことな
 日來所々に仰せ被ると雖も、聞こし食し出す事無し。

  いま  をい  は   さが  たず  らる   そ   びん あ  か
 今に於て者、搜し尋ね被るに其の便有る歟。

  ただ  しょうこな  こと  もつ  かま  いだ  ば  たまたまのこ ところのてんだいぶっぽうまめつのいんろくか
 但し證據無き事を以て搆へ出さ者、適殘る所之天台佛法魔滅之因録歟。

  か   い   これ  い   かたがたなげ おぼ  め  ものなり
 彼と云ひ是と云ひ、旁歎き思し食す者也。

  かく  ごと  こと いできたりぬれば  きみ おんため まがりな  こと   いできたらば  かたがたおどろ おぼ め  ものなり
 此の如き事出來ぬれハ、君の奉爲、曲無き事のみ出來らハ、旁驚き思し食す者也。

  さんぬ つきはつか みしょうそこ 〔つか  さむらい ためより〕 おととい  とうらい
 去る月廿日の御消息〔使いの侍は爲頼〕一昨日到來す。

  そ   びん  つ    かく  むね  おお  つか    いへど
 其の便に付け、此の旨を仰せ遣はすと雖も、

  かつう けたいのうたが  あ    かつう ふしん  ちら    ため  かさ    おお  らる ところなりてへ
 且は懈怠之疑い有り、且は不審を散さん爲、重ねて仰せ被る所也者れば、

  いんぜんかく  ごと   よつ  しっけい くだん ごと
 院宣此の如し。仍て執啓A件の如し。

                   ごがつむいか                                         つねふさ
         五月六日                   經房

    きんじょう  みなもとのにいどの
  謹上  源二位殿

参考@師中納言は、太宰權師と中納言を兼ねる吉田經房で、京都朝廷の窓口関東申次。
参考A執啓は、身分の下のものから上のものへの表現なので四位程度の吉田経房が、二位の頼朝に遠慮しているのでしょう。なお、上から下への場合は執達。

現代語文治二年(1186)五月小十三日庚寅。紀伊刑部丞為頼が伝令として京都から到着しました。後白河法皇の手紙院宣を持ってきました。夜に日を継いで急いで行く様に、師中納言吉田経房様から云われたそうです。北条時政殿が関東へ帰ってからは、京都の都の中では、乱暴狼藉が数え切れないほども起きております。先月二十九日にも、上京下京あわせて七箇所で強盗事件がありましたとさ。
 世の中が物騒がしいことは、恐らく耳に入っていると思いますが、都の噂が信じられなくても、色々の人が色々な事を云っている事も、まるっきり無駄とも云えません。時政が京都に駐屯しているときは、法皇も安心しておられましたが、他の武士を変わりに派遣してきても、時政が京都の治安維持を勤めるのが良いのだと、何度もお伝えもしたし、本人にも言い含めました。しかしそれでも関東へ下ってしまったので、このような事件が起こるのでしょう。義経と行家が京都市中にいるという噂もありました。もしそれが本当ならば、天罰覿面に捕まるだろうに、何で見つけられないのでしょうね。一説には、比叡山の僧兵達の中に味方している者がいるとも云われている。そんなことが表ざたになり、もし本当の事ならば、朝廷にとってもまずい事になるでしょう。普段からあっちこっちに命じて探させていますが、比叡山は云うことを聞きません。この際だから、実力で力ずくに探し出す方法もあるけれど、証拠も無いのに力ずくで乗り込んでいけば僧兵と衝突し、それでなくても落ちぶれてきている天台宗の仏法を滅ぼしてしまうことになりかねないかもしれません。それもこれも法皇は困った事だと頭を悩ませております。もし、そのような事が起これば、法皇の為に、禍々しいとんでもないことなので、法皇も驚かれることでしょう。先月二十日の手紙〔使いは為頼〕を一昨日受け取りました。そのついでに、このことをお伝えいたしましたが、きちんと伝わらないといけないし、又疑いを晴らすためにも、もう一度お伝えするのだとおっしゃっておられる後白河法皇のお言葉はこのとおりです。それでは、宜しくお伝え申し上げます。
   五月六日  経房
 謹んで差し上げます  源の二位殿

文治二年(1186)五月小十四日辛夘。左衛門尉祐經。梶原三郎景茂。千葉平次常秀。八田太郎朝重。藤判官代邦通等。面々相具下若等。向靜旅宿。玩酒催宴。郢曲盡妙。靜母磯禪師又施藝云々。景茂傾數盃。聊一醉。此間通艶言於靜。々頗落涙云。豫州者鎌倉殿御連枝。吾者彼妾也。爲御家人身。爭存普通男女哉。豫州不窂籠者。對面于和主。猶不可有事也。况於今儀哉云々。」廷尉公朝自京都參着。所帶 院宣等也。以知家宿所爲旅舘云々。

読下し               さえもんのじょうすけつね かじわらのさぶろうかげもち ちばのへいじつねひで はったのたろうともしげ とうのほうがんだいくにみちら
文治二年(1186)五月小十四日辛夘。左衛門尉祐經@、梶原三郎景茂、 千葉平次常秀、八田太郎朝重、藤判官代邦通等、

めんめん  げじゃくら  あいぐ    しずか りょかん  むか  さけ もてあそ えん もよお   えいきょく みょう つく  しずか ははいそのぜんじ またげい ほどこ  うんぬん
面々に下若等を相具し、靜が旅宿Aに向う。酒を玩び宴を催す。郢曲B妙を盡し、靜の母磯禪師C又藝を施すと云々。

かげもちすうはい かたむ  いささ いっすい   こ  かんつやごとをしずか  かよ   しずかしきり らくるい    い
景茂數盃を傾け、聊か一醉す。此の間艶言於靜に通はす。々頗に落涙して云はく。

よしゅうは かまくらどの  ごれんし   われは か めかけなり  ごけにんたるみ   いかで  ふつう  だんじょ  ぞん    や
豫州者鎌倉殿が御連枝。吾者彼の妾也。御家人爲身で、爭か普通の男女と存ずる哉。

よしゅうろうろうせずんば  わぬしにたいめん なおあ べからざることなり  いわん いま ぎ  をい    や   うんぬん
豫州窂籠不者、和主于對面、猶有る不可事也。况や今の儀に於てを哉と云々。」

ていじょうきんとも  きょうとよ  さんちゃく  いんぜんら  おび ところなり  ともいえ しゅくしょ  もつ  たび たち  な     うんぬん
廷尉公朝、京都自り參着す。院宣等を帶る所也。知家の宿所Dを以て旅の舘と爲すと云々。

参考@祐經は、後に曽我兄弟に討たれる工藤左衛門尉祐經。
参考A靜が旅宿は、雜色の長安達新三郎清経の家。
参考B郢曲は、(1)〔中国の春秋時代、楚(そ)の都である郢の人が歌った俗曲の意〕流行歌曲。はやり歌。俗曲。(2)催馬楽(さいばら)、風俗歌(ふぞくうた)、朗詠、今様(いまよう)など、中古、中世の歌謡類の総称。
参考C磯禪師は、男装で男舞を踊る白拍子の創始者。信西がアドバイスしたとも言う。
参考D宿所は、石井進氏の説く御家人の屋敷地三点セット『@は幕府へ出仕する際に正装するための「着替用上屋敷」(鎌倉中心部)。A鎌倉での寝泊りや普段の暮らしの為の「生活用中屋敷」(鎌倉内周辺部)と思われる。Bは鎌倉での生活のための食糧生産の「供給用外屋敷」(鎌倉郊外)。但し名称は塾長命名』のうち@の「着替用上屋敷」と思われる。幕府面前の西から二軒目と推定している。

現代語文治二年(1186)五月小十四日辛夘。工藤左衛門尉祐経と梶原三郎景茂と千葉平次常秀と八田太郎知重と大和判官代藤原邦道が連れ立って、それぞれ酒を片手に静御前の宿舎へ冷やかしに行って、酒を傾け宴会を催しました。流行り歌に酔いしれ、静御前の母の磯禅師も芸を見せてくれましたとさ。梶原景茂は呑みすぎて酔っ払って、静御前に言い寄ってきたので、これに対し静御前は涙ながらに抗議しました。「源九郎義経様は、鎌倉殿頼朝様のご兄弟です。私はその妾です。頼朝様の家来である御家人の身分の者が、まるで普通の男女ように言い寄るなんて私をなんだと思っているのですか。源九郎義経様が反逆者として浪人になったりしていなければ、貴方とこうして酒の席に同席することもありえないし、ましたや私を口説いて言い寄るなんて出来っこないじゃないですか。」だとさ。

検非違使の大江公朝が、京都から到着しました。後白河法皇の手紙の院宣を持ってきたのです。八田右衛門尉知家の生活所を旅館としましたとさ。

文治二年(1186)五月小十五日壬辰。北條殿雜色自京都參着。去六日左典厩室家女子御平産之由。申之云々。典厩被申云。可鎭世上嗷々之由。去七日蒙 院宣云々。

読下し               ほうじょうどの  ぞうしききょうとよ  さんちゃく
文治二年(1186)五月小十五日壬辰。北條殿が雜色京都自り參着す。

さんぬ むいか さてんきゅう  しつけ じょし   ごへいさんのよし  これ  もう    うんぬん
去る六日左典厩が室家@女子を御平産之由、之を申すと云々。

てんきゅう もうされ い      せじょう  がうがう しず   べ   のよし  さんぬ なぬかいんぜん こうむ   うんぬん
典厩申被て云はく。世上の嗷々鎭める可し之由、去る七日院宣を蒙ると云々。

参考@左典厩が室家は、頼朝の姉。妹だとする学者もいる。

現代語文治二年(1186)五月小十五日壬辰。北条時政殿の下っ端の雑用が、京都から到着しました。先日の六日に左典厩一条能保様の奥様が女の子を無事に出産なされたと伝えましたとさ。又、一条能保様の伝言では、世間の物騒がしさを鎮めるように、先日の七日に後白河法皇から京都守護に任命されましただとさ。

文治二年(1186)五月小十七日甲午。大姫君令參篭南御堂給。自今日可爲二七ケ日云々。是常有御邪氣御氣色。爲御對治也。

読下し              おおひめぎみ  みなみみどう さんろうせし たま    きょうよ   ふたなぬかにちたるべ     うんぬん
文治二年(1186)五月小十七日甲午。大姫君@、南御堂Aに參篭令め給ふ。今日自り二七ケ日爲可しと云々。

 これ つね  みけしき   おんじゃき あ      おんたいじ   ためなり
是、常に御氣色に御邪氣有りて、御對治の爲也。

参考@大姫君は、頼朝と政子の長女。実名は伝わらず。二人には、大姫、頼家、乙姫、実朝の四人の子がいた。
参考A
南御堂は、勝長寿院。

現代語文治二年(1186)五月小十七日甲午。大姫君(数え年9歳)が南御堂に参篭して今日から二七ケ日(ふたなぬか14日間)のおこもりに入られましたとさ。これは常に悪い邪気が取り付いて具合が悪くなっているので、この邪気を退治するためだそうです。

文治二年(1186)五月小十八日乙未。前攝政御家領事。去月之比。被下委細 勅答。師中納言殿奉書今日所到來鎌倉也。
 去月廿日御消息。今月四日到來。即令 奏聞候畢。攝政家領事。令申給之旨聞食畢。藤氏長者をも追可申定之由。雖令申給。依被彼御辞退。同時被 宣下畢。忽被分取家領之條。爲 前攝政。尤以不便。入道關白之時も。氏長者之外事。不付攝録歟。當時攝政皇嘉門院御領等有知行。不可似入道之時事也。於思食事者。不憚可被仰之由。令言上給先畢。仍如此所被仰遣也者。依 院宣執啓如件。
        五月五日                 經房

読下し                     さきのせっしょうごかりょう  こと  さんぬ つきのころ   いさい ちょくとう  くださる
文治二年(1186)五月小十八日乙未。前攝政御家領の 事、去る月之比、委細の勅答を下被る。

そちのちうなごんどの ほうしょ きょう かまくら  とうらい   ところなり
師中納言殿の奉書、今日鎌倉へ到來する所也。

  さんぬ つきはつか  ごしょうそこ  こんげつよっかとうらい  すなは そうもんせし そうら をはんぬ せっしょうけりょう こと  もうさせし たま  のむねき    め をはんぬ
 去る月廿日の御消息、今月四日到來す。即ち奏聞令め候ひ畢。攝政家領の事、申令め給ふ之旨聞こし食し畢。

  とうし   ちょうじゃ      おい  もう  さだ  べ   のよし  もうさせし たま   いへど    か  ごじたい さる    よつ    どうじ  せんげされをはんぬ
 藤氏の長者をも、追て申し定む可し之由、申令め給ふと雖も、彼は御辞退被るに依て、同時に宣下被畢。

  たちま かりょう  わか  とられ  のじょう  さきのせっしょう ため もつと もつ ふびん  にゅうどうかんぱくのとき   うじのちょうちゃのほか こと せつろく  つ  ざるか
 忽ち家領を分ち取被る之條、前攝政の爲、尤も以て不便。入道關白之時も、氏長者之外の事、攝録に付け不歟。

  とうじ  せっしょう   こうかもんいん   ごりょうら ちぎょうあ    にゅうどうのとき  に  べからざることなり
 當時の攝政は皇嘉門院@の御領等知行有り。入道之時に似る不可事也。

  おぼ  め  こと  をい  は  はばか ざるおお  らる  べ  のよし  ごんじょうせし  たま   さき をはんぬ
 思し食す事に於て者、憚ら不仰せ被る可き之由、言上令め給ふは先に畢。

  よつ  かく  ごと  おお  つか  さる とこrなりてへ    いんぜん よつ  しっけいくだん ごと
 仍て此の如く仰せ遣は被る所也者れば、院宣に依て執啓件の如し。

                ごがついつか                                 つねふさ
        五月五日               經房

参考@皇嘉門院は、崇徳上皇の妻だった兼実の姉の皇嘉門院。

現代語文治二年(1186)五月小十八日乙未。前摂政近衛基通公の摂関家領地の事について、先月、詳しい後白河法皇の方針が出ました。師中納言吉田経房様が法皇から命を受けて書いた文書が、今日鎌倉の頼朝様のもとへ届きました。

 先月、二十日付けの頼朝様の手紙が、今月の四日に届きました。直ぐに後白河法皇に読み上げました。摂関家の領地についての申し入れを、お聞きになられました。藤原氏の総領家である長者の役も一緒に決めてしまおうかと三月十二日に兼実におっしゃられましたが、辞退したので今はそれはやらないと命令をされました。摂政の役を譲ったからといって、直ぐにその領地を分け与えてしまっては、前摂政近衛基通が摂政も降ろされ、領地も奪われといっぺんにでは、いくらなんでも気の毒すぎるじゃないの。入道関白松殿基房の時も、氏の長者の号以外は摂政にあげなかったはずだ。今の摂政九条兼実は崇徳上皇の妻だった兼実の姉の皇嘉門院の領地を貰っているじゃないか。基房の時とは違うでしょ。思っていることは、遠慮なく申し入れたほうが良いと前に言っているので、その通りに云い送ると、おっしゃっておられるのはこの通りなので、後白河法皇の命令によってお伝え申し上げます。
     五月五日      経房

文治二年(1186)五月小廿五日壬寅。能保朝臣。平六{仗時定。及常陸房昌明等飛脚參着。持參前備前守行家之首。先被召件使者於營中。被尋問事次第。各申云。備州日來横行和泉河内邊之由。風聞之間。搜求之處。去十二日。在于和泉國一在廳日向權守C實許之由。得其告行向。圍C實小木郷宅。先之。備州迯到後山。入或民家二階之上。時定襲寄於後。昌明竸進於前。備州所相具之壯士一兩輩雖防戰。昌明搦取之。時定相加。其所梟首畢。又誅備州男大夫尉光家云々。」又左典厩書状到來。前備前守誅戮事。以左少弁定長 奏聞之處。不可被知食。可申攝政之由被仰下。仍申攝政。又不知之由返答之間。送献之云々。此事。御感已絶常篇。恩賞尤得其次者也。
 前備前守從五位下源朝臣行家
  大夫尉爲義十男
  治承四年四月九日補八條院藏人。〔本名義盛。今日改行家〕
  壽永二年八月七日 任備後守。〔勳功賞〕
  同十三日遷任備前守。
 檢非違使從五位下左衛門權少尉同朝臣光家
  前備前守行家一男
  壽永二年十一月九日補藏人。任左衛門權少尉。蒙使 宣旨。〔勳功賞〕元暦二年六月十六日敍留。

読下し                     よしやすあそん  へいろくけんじょうときさだ およ  ひたいぼうしょうめいら  ひきゃくさんちゃく
文治二年(1186)五月小廿五日壬寅。能保朝臣、 平六{仗@時定 及び 常陸房昌明等が飛脚參着す。

さきのびぜんのかみゆきいえ のくび  じさん
 前備前守行家 之首を持參す。

ま くだん  ししゃをえいちゅう   めされ  こと  しだい   たず  とわる   おのおのもう   い
先ず件の使者於營中へ召被、事の次第を尋ね問被る。各申して云はく。

びしゅう ひごろ いずみ かわちへん  おうこうのよし  ふうぶんのかん  さが  もと   のところ
備州日來和泉、河内邊を横行之由、風聞之間、搜し求める之處、

さんぬ じうににち  いずみのくに いちざいちょう ひゅうがごんのかみきよざね もとに あ   のよし  そ つげ  え   ゆ   むか    きよざね  こぎごう  たく  かこ
去る十二日、和泉國 一在廳A 日向權守C實の 許于在る之由、其の告を得て行き向ひ、C實が小木郷Bの宅を圍む。

これ   さき   ぶしゅう うしろ やま  のが  いた   あるみんか   にかい のうえ  はい
之より先に、備州後の山へ迯れ到り、或民家の二階C之上に入る。

ときさだ うしろを おそ  よ    しょうめい まえをきそ  すす
時定は後於襲い寄せ、昌明は前於竸い進む。

びしゅうあいぐ ところのそうし いちりょうやからぼうせん   いへど  しょうめいこれ  から  と   ときさだあいくは    そ  ところ きょうしゅ をはんぬ
備州相具す所之壯士一兩輩防戰すと雖も、昌明之を搦め取る。時定相加はり、其の所に梟首し畢。

また びしゅう だんたいふのじょうみついえ ちう   うんぬん
又、備州の男大夫尉光家を誅すと云々。」

参考@{仗は、兼仗で、朝廷から三位以上に付けられた護衛兵経験者。
参考A在廳は、在庁官人。国衙の役人。
参考B
小木郷は、近木郷で、大阪府貝塚市近木(コギ)。
参考C或民家の二階と、云っているが、この時代二階建ての民家は考えられないので、寺だと思われ、近木堂と呼ばれる寺があったらしい。

また  さてんきゅう しょじょうとうらい   さきのびぜんのかみちうりく  こと
又、左典厩が書状到來す。 前備前守 誅戮の事。

さしょうべんさだなが もつ  そうもんのところ し    めさるべからず  せっしょう  もう  べ  のよしおお  くださる
左少弁定長を以て奏聞之處、知ろし食被不可、攝政に申す可し之由仰せ下被る。

よつ  せっしょう もう   またしらざるのよしへんとうのかん   これ  おく  けん   うんぬん
仍て攝政に申す。又知不之由返答之間、之を送り献ずと云々。

かく  こと  ぎょかんすで じょうへん た   おんしょうもっと そ  ついで  え  ものなり
此の事、御感已に常篇に絶へ、恩賞尤も其の次を得る者也。

  さきのびぜんのかみじゅごいのげみなもとのあそんゆきいえ
 前備前守 從五位下 源朝臣行家

    たいふのじょうためよし じうなん
  大夫尉爲義が十男

    じしょうよねんしがつここのかはちじょういんくろうど  ぶ    〔ほんみょうよしもり  きょうゆきいえ  あらた〕
  治承四年四月九日八條院藏人に補す。〔本名義盛、今日行家に改む〕

    じゅえいにねんはちがつなぬか びんごのかみ にん    〔くんこう しょう〕
  壽永二年八月七日 備後守に任ず。〔勳功の賞〕

    おなじきじうさんにちびぜんのかみ せんにん
  同十三日備前守に遷任す。

   けびいしじゅごいのげさえもんのごんのしょうじょうおなじきあそんみついえ
 檢非違使從五位下左衛門權少尉 同朝臣光家

    さきのびぜんのかみゆきいえ いちなん
  前備前守行家 が一男

    じゅえいにねんじういちがつここのかくろうど ぶ    さえもんのごんのしょうじょう にん    し  せんじ  こうむ  〔くんこうのしょう〕 げんりゃくにねんろくがつじうろくにちじょりゅう
  壽永二年十一月九日藏人に補す。左衛門權少尉に 任ず。使の宣旨を蒙る〔勳功賞〕元暦二年六月十六日敍留Dす。

参考D敍留は、官職はそのままで、位が上がること。

現代語文治二年(1186)五月小二十五日壬寅。一条能保様と北条平六兼仗時定それと常陸坊昌明の伝令が到着しました。前備前守行家の首を持ってきました。まず、その伝令達を御所へ呼び出されて、詳しいいきさつをご質問なされました。それぞれ答えて云いました。行家は最近和泉国や河内国をのし歩いていると噂があったので、探しましたところ、先月の十二日に和泉国のある在庁官人の日向権守清実の所にいると密告を受け、行ってみて清実の近木郷の家を取り囲みました。その前に行家は後ろの山へ逃げて、ある民家の二階に逃げ込んだので、時定は後ろから攻め込み、昌明は前から攻撃しました。行家のお供をしていた強者一人か二人が防ぎ戦いましたが昌明が捕まえ、北条平六時定が加わって、その場で行家の首を討ち取りました。他にも行家の息子の大夫尉光家も首を取りましたとさ。
又、一条能保の手紙も着いていて、行家を殺害したことを左少弁定長を通して後白河法皇に報告したところ、「そんな事は知ったこっちゃないから、お仲間の摂政兼実に報告すれば。」と云われました。そこで、摂政に告げたら、同様に「あずかり知らぬことだ。」と返答してきたので、鎌倉へ送りますなんだとさ。
この事件への感激は、常にない喜び方で、何よりも最高の恩賞を受けた様なものです。
(没年記事 官職歴)
 前備前守從五位下源朝臣行家
 大夫尉為家の十男
 治承四年(1180)四月九日八条院の侍に取り立てられました〔元の名は義盛で、この時に行家と改名しました〕
 寿永二年(1183)八月七日備後守を任官しました〔平家を追い出した手柄です〕
 同十三日備前守に転任しました。
検非違使従五位左衛門権少尉同じ源朝臣光家
 前備前守行家の息子
 寿永二年十一月九日侍に取り立てられ、左衛門権少尉に任官し、検非違使の朝廷の命令を受けました〔これも平家を追い出した手柄です〕。元暦二年(1185)六月十六日官職はそのままで位が上がりました。

文治二年(1186)五月小廿七日甲辰。入夜。靜女依大姫君仰。參南御堂。施藝給祿。是日來有御參篭于當寺。明日滿二七日。依可退出給。及此儀云々。

読下し               よ   い    しずかめおおひめぎみ おお  よつ   みなみみどう  まい   げい  ほどこ ろく  たま
文治二年(1186)五月小廿七日甲辰。夜に入り、靜女大姫君の仰せに依て、南御堂へ參り、藝を施し祿を給はる。

これ   ひごろ とうじに ごさんろう あ       あす   ふたなぬか  み    たいしゅつ たま  べ     よつ   かく  ぎ   およ    うんぬん
是、日來當寺于御參篭有りて、明日で二七日に滿ち、退出し給ふ可きに依て、此の儀に及ぶと云々。

現代語文治二年(1186)五月小二十七日甲辰。夜になって、静御前が大姫君(数え年9歳)の仰せによって南御堂に来て踊りを踊って見せました。これはちょうど姫がおこもりをしていて、明日で二七日(ふたなぬか)になって明けるので、御所へ帰ることになるので、このようにしましたとさ。

参考十七日に参篭し、二十八日までだと12日しかない。恐らく昼間を一日と数え、前後の宵を数えで足掛け14日と換算していると思われる。

文治二年(1186)五月小廿八日乙巳。院宣一通到來。去十六日状也。行家朝臣被誅事有 叡感之由云々。行家伏誅。梟首已入洛。爲天下尤神妙之旨被載之。左馬頭〔能保〕所被執進也。是始不叶叡慮歟之由。就能保朝臣書状。頗及二品御疑之處。覽此 院宣之後。被解御伊欝云々。

読下し              いんぜんいっつうとうらい   さんぬ じうろくにち じょうなり ゆきいえあそんちうさる  こと  えいかんあ   のよし  うんぬん
文治二年(1186)五月小廿八日乙巳。院宣一通到來す。去る十六日の状也。行家朝臣誅被る事、叡感有る之由と云々。

ゆきいえちう  ふく   きょうしゅすで  じゅらく   てんか  ためもつと しんみょうのむねこれ の  らる   さまのかみ と  すす らる ところなり
行家誅に伏し、梟首已に入洛す。天下の爲尤も神妙之旨之を載せ被る。左馬頭執り進め被る所也。

これ  はじ  えいりょ かなはざるかのよし  よしやすあそん  しょじょう  つ   すこぶ にほんおうたが   およ  のところ
是、始め叡慮に叶不歟之由、能保朝臣の書状に就き、頗る二品御疑いに及ぶ之處、

こ   いんぜん  み  ののち  おんいうつ  とかれ   うんぬん
此の院宣を覽た之後、御伊欝を解被ると云々。

現代語文治二年(1186)五月小二十八日乙巳。後白河法皇からの手紙が届きました。これは、先日の十六日付けの手紙です。行家を葬ったことを喜んでいるって事なんだとさ。行家は殺され、その首は京都の町へ届けられたのは、天下のために良いことをしたと書かれています。左馬頭一条能保が取り扱ったからです。これについて、始めは後白河は不機嫌だったと、一条能保様の手紙に書いてあったので、かなり頼朝様は後白河法皇の本心に頭にきていたのですけど、この手紙を見て、ご体裁を作ってきたなとご理解をなされましたとさ。

文治二年(1186)五月小廿九日丙午。美濃藤次安平濫妨美濃國石田郷之由。領主刑部卿典侍訴左典厩〔能保〕々々又被執申之間。早可停止之趣。今日被遣御書於典厩云々。又筑前介兼能上洛。其身蒙勘發事。於都鄙頻有陳申旨云々。又神社佛寺興行事。二品日來思食立之。且所被申京都也。且於東海道者。仰守護人等。被注其國惣社并國分寺破壞及同靈寺顛倒事等。是重被經 奏聞。随事躰爲被加修造也。爲善信。俊兼。邦通。行政。盛時等奉行。今日面々被下御書云々。

読下し              みののとうじやすひら  みののくにいしだごう  らんぼう    のよし  りょうしゅ ぎょうぶきょうのすけ さてんきゅう〔よしやす〕  うった
文治二年(1186)五月小廿九日丙午。美濃藤次安平美濃國石田郷@を濫妨する之由、領主 刑部卿典侍A左典厩〔能保〕に訴う。

よしやすまた と もうさる   のかん  はや ちょうじすべ のおもむき きょうおんしょをてんきゅう  つか  さる   うんぬん
々々又執り申被る之間、早く停止可し之趣、今日御書於典厩に遣は被ると云々。

また ちくぜんのすけかねよしじょうらく そ  み かんぱつ こうむ こと   とひ  をい  しきり ちん  もう   むね あ   うんぬん
又、筑前介兼能上洛す。其の身勘發を蒙る事、都鄙に於て頻に陳じ申すBの旨有ると云々。

また  じんじゃぶつじこうぎょう こと  にほん ひごろこれ  おぼ  め  た    かつう きょうと もうさる ところなり
又、神社佛寺興行の事、二品日來之を思し食し立ち、且は京都へ申被る所也。

かつう とうかいどう  をい  は   しゅごにんら   おお      そ  くに  そうじゃなら   こくぶんじ   はかいおよ  おな   れいじ  てんとう  ことなど  ちうさる
且は東海道に於て者、守護人等に仰せて、其の國の惣社并びに國分寺の破壞及び同じく靈寺の顛倒Cの事等を注被る。

これ  かさ   そうもん  へられ   こと  てい  したが   しゅうぞう  くは  られ ためなり
是、重ねて奏聞を經被、事の躰に随いてD修造を加へ被ん爲也。

ぜんしん としかね  くにみち ゆきまさ  もりときら ぶぎょう  な     きょう めんめん  おんしょ  くださる   うんぬん
善信、俊兼、邦通、行政、盛時等奉行と爲し、今日面々に御書を下被ると云々。

参考@石田郷は、岐阜県羽島市下中町石田。
参考A刑部卿典侍は、刑部省の女官で藤原宗長の娘。刑部卿は、行部省の長官。正四位下に相当。行部省は律令制による太政官の八省の一。刑罰、裁判をつかさどった役所。うたえのつかさ。うたえただすつかさ。典侍は、てんじ。すけ。ないしのすけ。次官。
参考B陳じ申すは、弁解する。
参考C顛倒は、転倒に同じ。
参考D
事の躰に随いては、例規の通りに国が修理をする。

現代語文治二年(1186)五月小二十九日丙午。美濃藤二安平が美濃国石田郷を横領していると、刑部省の次官(女官)が左典厩一条能保様に訴えてきたので、一条能保が鎌倉へ執り成してきたので、早く止めるように、今日命令書を一条能保へ送りましたとさ。
又、筑前介兼能は京都へ上りました。前に後白河法皇に嫌われたので、京都へ弁解することがあるからだとさ。
又、神社仏閣を再興することを、頼朝様は普段から気にしていたので、京都へ申し入れることにしました。東海道では、それぞれの守護に命じて、その国の総鎮守と国分寺の壊れ具合、同様に由緒のある寺のすさみ状況を文書に書いて提出させました。それを朝廷へ申し入れて、例規の通りに国に修理させるためです。大夫属入道三善善信、筑後権守俊兼、大和判官代邦道、主計允藤原二階堂行政、平民部烝盛時が事務担当主任として、今日それぞれに書類を与えられましたとさ。

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吾妻鏡入門第六巻

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